オーディオは難しい その1
何が評価を分かれさせるのか?

  公開:2012年9月18日
更新:2012年
9月25日 *掲載開始、まだ書きかけ

  オーディオは難しい。何が?って価値観も評価も真っ二つになることもしばしば。何でだろう。まず、その事について触れてみた(バッサリと辛口)。


耳(聴覚・感度)が違いすぎる

 若い人と年配者では、聴力が違いすぎる.。どの位違うか、というと、10代の人の聴力と、50台の人の聴力の例を挙げると、

 
グラフの横軸:125、250.....8Kというのは、周波数。
縦軸の数字はdBHL(SPLではなくHL。SPLは、0.002μPaを0dBとした音圧。ヒトは、周波数によって耳の感度が異なるので、各周波数での最小可聴閾値(基準値)を0dBHLとして、そこから何dB大きな音であるか、を表したもの)。
赤丸が右側で、青×(本当は結線は破線表示が正しい)が左側を表す。

 左が、10代で、右が50台の代表的な聴力検査のデータ(例)。若者は、125Hzでは10dBHLで8kHzでは、-10dBHLであるのに対し、50台の人では、125Hzで30dB、8kHz・右では、40dBである。その差は、125Hzで20dB、8000Hzでは、50dBにも及ぶ。高齢者では、さらに難聴が進行するので、その差は、さらに大幅に広がる

 全周波数で-10dBの音を聞き分けられる耳の感度が鋭敏な人がいるが(聴力閾値が-10dB以下、測定不能)、それより数十dB以上鈍感な人には、その世界は決して理解する事はできない(まあ、その逆も)。しかし、数十dB以上鈍感な人が、感度の良い人に平気で意見する、というのがオーディオ(趣味)の世界だ

 ちなみに、他にも内耳の外有毛細胞も年齢と共にぐんぐん劣化していくので、感度のみならず、音の分離も悪くなる(外有毛細胞は、内耳の基底板の動きをアクティヴにコントロールしていて、それは音の増幅のみならず、基底板のチューニング・カーヴにも及ぶ)。また、音の感度が良いのと聞き分ける能力は別で、学習する能力、ブレインがなければ、耳の機能は生かせない。

 また、聴力の閾値(感度)には個人差が相当あって、若者なのに大音量のために老人並みの聴力の人もいるし、年配者なのに、若者を凌駕する聴力の持ち主もいる。
 

耳(聴覚・弁別能)が違いすぎる - 先天的素因 -

 聴き分ける能力は、後天的学習能力が大きく係わるが、先天的に抜群に聴き分けられる人も存在する。湿度の変移でコーン・スピーカーの音が変わり、耳で四季を感じる人もいるし、録音を聴いて、その反射音からマイクアレンジや収録している部屋の大きさ、様子までわかる人もいる。ケーブルやバッテリーで音が変わる、というのは、騒がれる遥か前から、その手の人には普通の事象であった。先天的な感覚を有している人達の世界は、そうでない人達がいくら後天的に学習しても超えられない壁があり、おそらくは何を言っているのか理解も難しいだろう。

 先天的に耳の感度が良く、弁別能が優れた人達ば、これはある種、古代人、といっても良いかもしれない。かつては、どんな小さな音でも聞分ける能力や鋭敏な嗅覚、味覚等が生死に直結したが、現代は、その必要が無い。だから、後ろから車が来ても、だらだらと道路の真ん中を歩く現代の小学生は、正しい進化形の一つかもしれない。
 

耳(聴覚・弁別能)が違いすぎる - 音楽的素因 -

 絶対音感があり、一度聴いただけで複雑なオーケストラのパートをピアノで再現できる、という人もいるが、だからといって、オーディオ的音の判断に卓越しているか、というと、これは別のものだ。しかし、ポリフォニーの連続の音楽をメロディー、モノフォニーでしか聴けない人もいて、こうなると、大いに関係してしまう。

 オーケストラが好きなら、オーボエとコールアングレの音域と音色の違いはわかるだろうが、オーボエ自体の音もわからない人もいる。いくら鋭敏な耳を持っていても、これでは音の判断はできない。

 オーディオの場合、生音に接する機会が多い人と、そうでない人には聴き方に大きな差が出る。生音を基準とするのはクラシック音楽だが、これも、コンサートに疎遠な人の場合には、加工された音で育ってしまった人と同じになってしまう。ロックも70年代前半は、ドラムの録音には生音がしっかり録られているものもあったが、クイーンがドラムの音も加工して、独特の音を創り出すようになってからは、悪い意味で、皆これを取り入れてしまった。なんでもかんでもイコライザーを通して音を加工していて、せっかくの美しい音を変形させてしまう。今のJ-POPの録音などは音のカスの集まりで、あまりに悲惨、結果的に8bitも必要ないような録音になっている。これしか知らない世代は、本当に美しい音というものを知らずに育ってしまっている。音楽的に良いものもあるだけに、今の録音は本当に残念だ。
 

耳(聴覚・弁別能)が違いすぎる - ピッチと回転系弁別能 -

 ハルモニウムという楽器は、インドの古典音楽・声楽の伴奏には欠かせない楽器だが、鍵盤の下にレバーが付いていて自由に鍵盤がスライドでき、その人の声の音域に合わせられる。つまり、演奏する側は、常に相対音感の音楽になる。一方、音楽の調性には意味があって、その調以外では音楽が成り立たないものもある。例えば、ショパンの24のプレリュード。第1番ハ長調ではじまり、第24番ニ短調で全ての調が使われて終わる。第24番はニ短調であり、ハ短調ではない。ピッチが狂うと音楽色合いも音楽それ自体も変わってしまうのだが、ピッチに鈍感な人には、これがわからない。

 また、回転ムラに鈍感な人も少なからずいる。ダイレクト・ドライブが出た黎明期に、SONY TTS-2500というターン・テーブルがあったが、レコード片面で1〜2回、突然の回転ムラが起きた。突然グラッとするので驚きも大きいし、次はいつ起きるのだろう、とびくびくして落ち着いて聴いていられなかったが、全く平気で聴いている人がほとんどだった。何年かして、f の時にレコードの溝と針の摩擦で回転ムラが起きる、と説明していたが、ほとんどはサーボのエラーだった。

 糸ドライヴの重量級ターンテーブルも同様で、これもレコード片面で1〜2回、多いものだとそれ以上ズルリとフラッターが起きるが、流石はオーナー、平気で聴いている。回転系に敏感な人には、危機的に落ち着かないのだが、鈍感な人には無縁な世界だ。自作のターン・テーブルで、ずっとワウが載っていて、恐ろしく気持ちが悪いのだが、これも平気な人もいた。昔、江川三郎が、慣性モーメントが音の良さに繋がる、と唱え、巨大な(ただし直径はほどほど)ターンテーブルを作った人達がいて、嘲笑の対象にもなったが、これは誤りだ。気動を逸した極端な行為こそ、アマチュアの趣味の特権だからだ。人の耳はこういった重さを聴き分けられる反面、回転系に鈍感な人にしか使えない。
 

耳(聴覚・弁別能)が違いすぎる - 位相と方向感覚 -

 片ch.全ての位相が違う場合、一度、その音を知れば、その判断は容易い。昔、音楽好きが集まる部屋を訪れた時、すぐにスピーカーが逆相になっているのに気づき、直して驚かれた事があったが、彼らはオーディオ・マニアでもないし、位相の事を知らなかっただけの事で、特別な事ではない。問題は、マルチ・チャンネルで、各スピーカーの位相が揃わない場合なのだが、これにはスピーカーの位置、各ユニットとの距離等も大きく係わってくるので、後述。

 方向感には、大きな差がある。左右の耳の時間差だけでなく、左右の音質の違い、残響音の違い、反射音の違いの分析になるので、訓練で向上し、また超高域まで聞こえる人と、そうでない人で差が生じる。 方向感は、音像の定位に係わってくる。これが鈍感なオーディオ・マニアの場合、スピーカー・ユニットが離れ、音像が巨大化しても、面音源だ、と勘違いしてしまう。

 昔、年配のオーディオ評論家が、「物を床に落としたが、意外と落ちた場所がわからないものだ。」と書いていたが、これは、よほど反射音が無い場所だったのか、聴力が劣化したためであって、落ちた瞬間耳を澄ませば、ほとんどピン・ポイントでわかるのが普通である。


オーディオは音楽を聴くためのものか?

  一見、変な問いのようだが、オーディオマニアの典型例の一つは、高価なオーディオ装置が並んでいるのに、レコード、CDが少ししかない、というもの。カメラだって、写真を撮る事が趣味なのではなく、カメラというメカニズムそのものが趣味である人がいるように、オーディオも同じだ。音楽を聴くためのものではなく、オーディオ装置から音を出すために、ソースがあるだけの事だ。この手の人達をバカにしてはいけない。社会的にある程度地位もお金もある人達が多く、他の人と競うのが原点なので、音の判断はできなくても、高価な銘柄、機種をオーディオ店の薦められるまま購入するので、内需拡大、そして、メーカーの存続に大きく貢献する。

 元来、男の趣味の道具は、その存在だけで魅了するものであり、だからモノだけで趣味になるのだ。欲を出したらキリが無い、忠告する人がいるが、大きなお世話だ。物欲も趣味の原点であり、欲が無かったら、趣味は成り立たない。ソフトが主体の趣味人とハードが主体の趣味人がいるが、両方がうまくかみ合っている趣味人、というのは以外に少ない。

 そもそも、音楽は特別なオーディオ装置なんか無くても聴けるし、それが普通だ。中学の頃、いつも口径4cm位のラジオでFMを聴いていたが、突然流れてきたネルソン・フレイレのモーツァルトのピアノ・ソナタは真っ直ぐ心に入ってきて、夢のような世界だったし、高校の時に聴いていたナショナル(現パナソニック)のラジオからは、どんなコンサート・ホールより雄大にオーケストラが鳴り響いていた。聴こうとする心があれば、手段は超越するものだ。

 反面、この装置でないと、この音が出ない、というのも事実で、それが音楽を後押しする場合もある。オーディオ装置で音楽をかける場合、選曲と音量でその人のセンスが露呈するが、それがオーディオ装置をより輝かせる場合もあり、また、本当は音は悪くないのに、二度と聴きたくない、と思わせる場合も生じる。


ブランド

  ブランドに弱いのは、ご婦人だけではない。ブランド効果はオヤジにも絶大だ。中身は中国製でも、ヨーロッパのブランドのスピーカー、というだけでありがたく拝聴する舶来主義は、ずっと健在だ。しかし、そのブランドのものなら、まあ大丈夫だろう、というのは普通の感覚だ。

 オーディオの世界を面倒にするのは、ヴィンテージの世界と、ピュア・オーディオの世界が混在する事にある。昔の車はデザインも良く、味わいがあっても、ボディ剛性は話にならない程弱く、スポーツカーだって、ちょっとしたセダンより遥かに遅い。昔の車は別の価値観、土俵にあり、そこで論じるべきなのだが、現代の車と、さも対等でであるがごとく論じると、話が面倒になる。 「今の〜はダメだ。」、と言うのは容易いが、どういう条件でどうなのか、というのを明確にしないと、論点はかみ合わない。

 若い時にあこがれたけれど、買えなかった。今は買えるぞ、と敵討ちのごとく購入する人を責めてはいけない。これは当然の感覚であり、物欲の原点でもあるから。しかし、ブランドのコピーはいただけない。日本のマスコミは、節操の無い中国のコピーをいつも取り上げているが、日本もついこの前までやっていた事だし、今でもやっているメーカーは山ほどある。

 戦後の日本は、それこそ何でもコピーして安くて粗悪、Copy Catなどと呼ばれていた。しかし、 コピーは習作、そここら学び、本家を凌駕するような技術大国になった。先人達の血の滲むような努力、苦労は、想像を絶するに違いない。 しかし、技術力があるのにもかかわらず、コピーをするのは、実にいただけない。自ら顔に泥を塗る行為だ。
 

 

    続く.....!
 

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