Y-2 大砲王「クルップ」

製鋼にとりつかれた少壮事業家アルフレート・クルップ

 
父フリードリヒが39才で死亡,アルフレートは14才で父の製鉄事業を継ぐ.
1832年:ライン川を遡りウィースバーデン,ダルムシュタット,カールスルーエを訪れ,自社製の圧延機をはじめ機械の部分品を売り歩く.
1834年:三ヶ月にわたる旅行.馬車に圧延機,その他の機械の見本を詰め込んで南ドイツを始めとし各都市を売り歩く.→事業は次第に大きくなった.
1836年:工場に水車に代わって蒸気機関を置く.
 

「シュロップ男爵」イギリスへ

製鋼法ではイギリスが先んじる.アルフレートはシュロップと名乗り貴族のふりをしてイギリスの工場を見学して歩く.
=良質の鉄鋼を作るには良質の鉄鉱石が必要.
 

大砲王

1848年:母親から「フリードリヒ・クルップ」商会の資産を譲り受け名実ともに当主に.
スプーン圧延機,鉄道資材の大量注文,アメリカから硬貨鋳造用圧延機の発注,鋳鋼製砲身の試作
1851年:ロンドン万国博覧会に鋼鉄製6ポンド野砲を出品,イギリスを押さえて金メダルを獲得
1852年:継ぎ目なしの鉄道用車輪を開発.
1854年ミュンヘン工業博覧会,1855年パリの万国博覧会にも大砲を出品.3000発も発射してもびくともしない.大砲の注文が殺到.
1859年:プロイセン政府から大砲の大量注文
1866年:オーストリアも大砲の大量注文
1866年に始まった普仏戦争では両軍ともクルップ砲を撃ちあった.
その後はイギリスのアームストロング砲と性能を競う.またまたクルップ砲の優秀さをはっきりさせてからは各国から多くの人たちが大砲を買い付けようとエッセンの工場に集まる.
ベッセマー法がイギリスで開発されたときもすぐにその方法を取り入れる.ジーメンスが新方法を発明すると直ちにこの方法を取り入れ,1870年にはジーメンスに頼んでマルタン炉を作りあげる.
1887年アルフレート・クルップ死去
一人息子フリードリヒ・クルップが事業を受け継ぐ.大砲・軍艦等を作りつつ1910年頃には大コンツェルンを形成.第一次大戦では76マイルの遠方からパリを砲撃した長距離砲で世界を驚かし,第二次大戦ではあらゆる大砲を作り,また重戦車,戦艦,航空母艦,潜水艦などを大量に生産.