命は、誰のものか?
もちろん、自分の命は自分のもの。ある時ふと気が付くと、自分が存在していた。
自分の意識が存在した。すなわち自分の命が存在した。
親は子が生まれた時から見ているから、その前後から命は発生したと考えるかも知れない。
しかしその子が自分の命を認識するのはもっと後になってからだ。
この様に、誰もが知っていることだが、自分で自分の命を発生させることは出来ない。
ふと気が付くと、自分というものが存在した、となる。
したがって、自分で自分の命をどうこうしようと思えば、
出来ることは「命を存続させる」か「命を終わらせる」かの2つに1つしかない。
「命は自分のものだから自分で終わりを決めてもいいじゃん」
理屈から言えばその通り。自分のものだから、自分で決める。
しかしそう決めて終わらせた時、その命の持ち主でない人間から言いたいことは、
「周りの人達がどう思うか・どう感じるか考えて欲しかった」、ということだ。
命が無くなると、もうその命を持っていた人と何も話が出来なくなる。
何を考えていたのか、何を感じていたのか、何を思っていたのか、
これから何かあった時にどう考えるか、どう感じるか、どう思うか。
命が無くなったことで永久にそれは出来なくなった。
ふつう生き物は、命を存続させるものだ。そうでない生き物が居たとしたら、 その生き物が発生した時点で命を終わらせるため、即滅亡しているだろう。 人間は色んな思考をすることが出来る生き物だ。生き物だから基本的には命を存続させる。 でも不満や不安や苦痛が重なり、命の存続に疑問を投げかける。 そして命は自分のものだから自分でどうしてもいいや、という結論に達する者も出るだろう。
その時、自分の命が無くなったら周りにどういう影響を与えるか考えただろうか?
親や兄弟や友人達がどう思うか?感じるか?
自分に価値が無いと考える人は大勢居るだろう、口に出すことは無くても。
だから、自分が死んでもどうでもいいだろう、と。しかし死ねば親も兄弟も友人も苦しむ。
ふつうの生き物は自ら死なないもの、それを自ら消したというなら、何かしら不幸(原因)があり、
それを親・兄弟・友人が救ってやれなかったということになるのだ。
そして救うチャンスが永遠に無くなった、挽回することは不可能になったのだ。
なら親も兄弟も友人も既に居なかったらいいのか?
それでも他人の死を悲しむ人がいる。近所に住んでいた知らない人も
悲しい気持ちになるだろうし、同じ原因で身近な人を亡くし
繰り返されるのを防ごうとしていた人も苦しむだろう。
また、死に方によっては人に迷惑をかける。
マンションから飛び降りれば住人はいい気持ちになるわけが無いし、
電車に飛び込めば大勢の乗客の人が迷惑に思うばかりか、駅員の人も責任を問われる。
およそ自分に命が発生した以上、老衰以外に許される死に方は無い。
周りに悲しみ・苦しみを与えない終わり方は、それしか無い。
周りが納得のいく終わり方は、それしか無い。
誰か有名な人が新聞で書いていた。人間には「社会的な命」が存在すると。 生物学的な命は当然自分のもの、けれどその命は社会的に、つまり周りの人に つながっていると。それが、こういうことなのだろう。