販売楽器紹介

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ヴァイオリン

イタリア製 モダン

ミラネーゼ  1800年頃 要修理 ¥未定




ヴァイオリン弓

フランス製 1900年代 要修理 ¥300,000
フランス製 1800年代末 ¥400,000 
シャルル・ブトー 1800年代末 \



ヴィオラ

チェザーレ・コッレオーニ C.Colleoni 1939年 ニース 413mm ¥お問い合せください 

ヴィオラ弓

L.Piernot  1955年頃 ¥お問い合せください 
C.R.Chagas ブラジル ¥80,000

チェロ弓

C.Lozer ブラジル ¥80,000


その他、お探しの楽器があれば、お問い合わせください。


楽器説明


ヴァイオリン Giuseppe Pellacani 1974



表板の下のほうに2ヵ所割れ有り。接着済み。
1946年以降この作者はガルネリモデルを製作し、楽器に『テノーレ・○○』という名前をつけている。
このヴァイオリンの名前は『TENORE AUTUNNO』 (AUTUNNOは秋の意)


ヴァイオリン Otello Bignami 1969

 
状態はたいへん良い。楽器内部にラベルが2枚貼ってあり、1975年に作者本人がバスバーを交換したことが記されている。
作者の姪の夫が所有していたヴァイオリン。


ヴァイオリン   「ザ・レッドヴァイオリン  The red violin」 



1997年、平原勝己作。ストラディヴァリモデル。35.7cm。
ニスに混ぜてある、ロッビア(あかね)からつくった赤い粉の色が強かったため、ニスが赤い。
師アミゲッティに「レッドヴァイオリン」と呼ばれた。
アミゲッティはこの少し前に映画「レッドヴァイオリン」を手伝っており、「レッドヴァイオリン」と口にしたいのである。
ちなみに彼はイタリアとオーストリアでのロケを手伝った。彼の息子も出演している。クレモナでのロケ中、うちの息子は、ベビーシッターに連れられて来ていた映画監督の息子と、うちの前のローマ広場で遊んだ。


ヴァイオリン   ミラネーゼ 1800年




1800年前後のミラノ派のヴァイオリン。作者不明。要修理(2007年頃仕上り予定)。

 第2次世界大戦が終わってしばらくたったある日、レッジョ・エミリア(Reggio Emilia、パルマ近くの農業地帯)の畑で農民が牛にすきを引かせていると、大きな袋が掘り起こされた。農民は袋を家に持ち帰り開けてみると、中からヴァイオリンが出てきた。きっと大戦中に誰かが家財を隠すために地中に埋めたのであろう。掘り出しに来なかったところを見ると、持ち主は死んでしまったのかもしれない。農民はヴァイオリンを家に飾っておくことにした。
 数年後、農民が居酒屋でこのヴァイオリンの話をしていると、ひとりの男が声をかけてきた。男は近所でヴァイオリン作りをしているマリオ・ベドッキ(Mario Bedocchi 1885−1955)だった。ベドッキは農民からヴァイオリンを買い取った。
 楽器内部には「パオロ・アントニオ・テストーレ 1748年」のラベルが貼られていた。このヴァイオリンにはパフリングが入っていなかった(パフリングが入っていないのがテストーレの特徴でもある)のでベドッキが手を加えてパフリングを施し、プロのオーケストラでヴァイオリンを弾いていた彼の息子に与えた。
 息子はこのヴァイオリンをとても気に入り、その時から、精神病院に入院し死亡するまでの30年あまり、愛用した。
 死後、ベドッキの娘(現在80歳くらい)が父と兄の遺した楽器を相続して銀行の貸し金庫に保管していたが、1995年ごろになってこのヴァイオリンを売ってほしいという男が現れた。彼はトリノのオーケストラでコンサートマスターをしている男で、死んだベドッキの息子とは知り合いだったのでこのヴァイオリンの音色を知っていたのだった。彼は700万円以上の金額を提示したが、ベドッキの娘は楽器を鑑定家に見せ、鑑定通りの金額で売ることにした。
 彼らはクレモナのアミゲッティ氏に鑑定を依頼した。結果は、「1800年ごろ、ミラノ派の誰かによって作られた楽器。テストーレではないので700万円の価値はない。修理に約50万円かかる」というものだった。念のためもう一人、カールソン氏にも鑑定させたが、年代を1700年代末と言った以外は同様であった。コンサートマスターは、テストーレ作ではなかったという理由で購入を見合わせた。
 娘は高齢でもあるし、このヴァイオリンを処分することに決めたが、修理が必要な楽器は売れにくいこともあり、5年間売れずにいた。
 この楽器はその5年間ずっとアミゲッティの工房にぶらさがっていて、僕は行くたびに目にしていた。最初は「ただの壊れたヴァイオリン」にしか見えなかったのだが楽器の雰囲気がだんだん気になるようになり、アミゲッティからこの話を聞き出した。そして僕が譲り受け、修理することにしたのである。ヴァイオリンが僕を呼んだのかもしれない。


ヴァイオリン 3/4サイズ 平原勝己作 2000年


ヴァイオリン   Chiaffred Cappa  (キアフレド・カッパ)

胴体は Cappa 1710年頃、頭部渦巻きは Francesco Grancino(フランチェスコ・グランチーノ)1730年頃の作品。
ニスは横板の一部にオリジナルが残っている。


ヴァイオリン   Primo Contavalli 1928年 



 プリモ・コンタバッリ 1899-1989 Imola

 イタリアのたいていの町には「Ragazzi del 99」と名付けられた通りや広場がある。クレモナにも町の北西の方にLargo(広場) Ragazzi del 99がある。訳すと「99年の若者たち」というものだが、「99」とは1899年のことを意味している。コンタバッリの生まれた1899年というのは、イタリアにとって特別の年なのである。
 それは第1次大戦(1914−1918)中のことで、イタリアはオーストリアを相手に戦っていた。終盤の1917年、戦いは最も激しい時期を迎え、イタリアではついに当時18歳だった1899年生まれの若者たちが徴兵されることになった。彼らは戦場に送られたが、すでに物資がたいへんに不足していたためその装備はとても貧弱で、もちろんヘルメットは無し、靴は紙製、場合によっては国から支給されたのは上着だけという状態だった。そして彼らの半数が戦死した。
 プリモ・コンタバッリはその1899年生まれ。生き残った半数である。
 戦争から戻り、プリモは父ルイージ(Luigi Contavalli 1862-1954)が楽器製作者であったため、彼も楽器製作の道に入ることになった。プリモは才能に恵まれていたようで、1920年(21歳時)のローマでの楽器製作コンクールで銀メダルを獲得、翌1921年にはコンクールの審査員をつとめた。
 ちなみに父ルイージはあまり器用ではなかったらしい。現在の楽器価格で比較すると、息子の作品のほうが父の約4倍の値段がついている。
 プリモ・コンタバッリは一生をImola(イモラ)ですごした。イモラは北イタリアの農業地帯(現在では工業地帯でもある)、エミリア・ロマーニャ州ボローニャ県の小さい町で、自動車F1レースのサン・マリノ・グランプリが行われるサーキットがあることで有名である。サン・マリノ共和国はイモラから80qほど東にある小さい独立国なのだが、イタリアのイモラ・サーキットを使ってF1レースを開催している。
 プリモ・コンタバッリが生涯に育てた弟子は非常に多く、一説には100人とも言われる。弟子の中で有名なのはローマのCesare Magrini(現在40歳代くらい)など。
 プリモの娘が、父と祖父に関する本を執筆し、この本は近々出版される。彼女は既にほとんど引退しているが、劇俳優をやっている。
 
 プリモ・コンタバッリは楽器に彼独自の工夫を施しており、これが彼の楽器の大きな特徴ともなっている。それは、ひとつは表板のパフリング、もうひとつは頭部の糸巻きの穴の周囲のパフリングである。
 パフリングというのは普通は表板と裏板の周辺部にある線のことで、楽器の装飾と、楽器のふちを割れ難くする(亀裂が走るのを止める)役目を持っている。
 彼はまず、表板が乾燥によって収縮することで起こる割れを防ぐために、表板上部のネック取り付け部、そして下部のサドル取り付け部をパフリングでとり囲むようにした。この部分が割れてしまっている楽器は非常に多いのである。
 もうひとつのペグ穴の方は1930年頃以降に始めているが、頭部の糸巻き箱の部分がペグの穴があいているという理由で弱く割れやすいので、穴をとり囲むようにパフリングを施した。これは4本のペグ全てについて太い側一箇所ずつ、つまり左右で2箇所ずつに施されている。

 このヴァイオリンは、イモラの、つまり近所に住んでいたヴァイオリニストのサンジョルジ氏がコンタバッリ本人から購入したものであるが、1928年製なので、もともとペグ穴のパフリングは施されていない。しかしサンジョルジ氏は楽器を落とすなどの衝撃を与えてしまったようで、頭部の渦巻きの部分がA線(一番上)のペグ穴のところから割れてしまった。彼は楽器のメンテナンスはいつもコンタバッリのところに持ち込んでいて、コンタバッリはこれを修理するのにただ接着するだけでなく、パフリングを入れることで補強した。
 もしかすると、この楽器こそが後にペグ穴にパフリング補強を入れるようになったきっかけだったという可能性もある。そうでないにしても、コンタバッリ本人が修理したことの確かな証拠である。
 また、この楽器は左右のf字孔に修理の跡があるが、コンタバッリが何らかの考えでf字孔の形を変えたものと思われる。理由、時期とも不明だが、とても興味深いことである。
 この楽器にはコンタバッリ本人が製作したオリーブ(の木)製のあご当てとテールピースが付いている。娘の話によると、彼はオリーブの木が好きだったという。現在ではテールピースなどの付属品は機械加工による既製品を使うのが一般的で、手作りしている楽器製作者はとても少ない。
 1999年にサンジョルジ氏は亡くなったが、このヴァイオリンは持ち主が作者と密接であり続けたために楽器本体以外にもたくさんの情報を遺すことになった。これはたいへんに貴重で幸運なことである。

 もうひとつ、とてもおもしろいことがある。
 ヴァイオリン内部にうまく光が入るようにしてf字孔から中をのぞくと、上の方の横板の裏側に
「Qualunque forma di debolezza e' quella che domina oggi tutto il mondo.」
と書いた紙が貼ってあるのが見える。直訳すると「全ての弱いことが今の世界を支配している」という意味なのだが、言いたいのは、「いいかげんで不正なことばかりが氾濫している今の世の中は間違っているので、イタリアに厳格な政府を。」というようなことであるらしい。
 これはファシストの決まり文句のひとつで、今でも田舎の農家の壁などに書かれたものが残っていたりもするという。楽器内部にこの類の文章を貼り付けるのはそれほど珍しいことではなく、1890年〜1940年頃の北イタリアの楽器にはよく見られるという。ちなみにムッソリーニのファシスト政権が成立したのは1922年である。
 この紙はコンタバッリがファシストだったことを意味しているのか。イタリア人に聞くとそうとは言いきれないらしい。コンタバッリの娘によれば、父プリモは共産主義者だったという。エミリア・ロマーニャという土地も共産党のとても強いところだった。ファシストと共産主義者は対立関係だったのではないのか。(ちなみにムッソリーニもエミリア・ロマーニャの出身らしい。)
 僕の師匠アミゲッティの意見では、「コンタバッリはファシストというわけではない。その時代には北イタリアではみんなこういう雰囲気だった。」
 僕は「イタリアは今も昔と変わっていないんだな」と思った。
 僕の妻は「わざわざこんな紙を貼ったのは、何か特別な事情があったんだ。なぜなら貼ってある場所が、ふつうは絶対に見えない、でも見ようと思えば見える微妙な位置なので、怪しい。」と言っている。

 僕がずいぶん前に見た映画で、ベルトルッチ監督の「1900年」というのがある。(元の題名は「NOVECENTO」で、イタリア語で「900」のことだが、「1900年代」という意味で使われることが多い。)上映時間が5時間以上あってめったに上映されないのであまり有名ではない映画だが、ぜひもう一度見てみたい。内容は1900年のある日に北イタリアで生まれた2人の男(ロバート・デ・ニーロとジェラール・ドパルデュー)の生涯の話である。まさにコンタバッリの生きた土地、時代が描かれている映画である。僕は内容はあまり詳しくは覚えていないのだが、ドナルド・サザーランドが演じたファシストがとても印象的だったことを記憶している。



ヴィオラ  Cesare Colleoni





ヴィオラ   平原勝己作  41cm

2006年完成予定。

ヴァイオリン弓   刻印 "Paul Jombar" (ポール・ジョンバー)

ジョンバーは1892年から1936年までパリで営業していたメーカーだが、弓は作っておらず、外注した。
ジョンバーの外注先の弓メーカーに、サルトリー、フェティック、ビニェロンの3者があるが、この弓はおそらくビニェロン作。



ヴァイオリン弓   Emil Max Penzel (エミール・マックス・ペンツェル) 1910年頃


エミール・マックス・ペンツェル: ドイツ Erlbach 1878.12.21−1933.12.30
この弓は、トリノの楽器製作者、Evasio Emilio Guerra(エバジオ・エミリオ・グエッラ 1875−1956)が所有していた物。


ヴァイオリン弓   Louis Bazin (ルイ・バザン)

近日アップ


ヴァイオリン弓   1900年代前半、フランス製。作者不明。

   


ヴァイオリン弓  Louis Morizot (息子)

    


ヴァイオリン弓  Buthod

   


ヴァイオリン弓  C.N.Bazin

    


ヴァイオリン弓   Voirin


ヴィオラ弓   フランス製



ヴィオラ弓   C.R.Chagas

ブラジルの弓製作者Chagasの作品。フェルナンブーコ材。

チェロ弓   C.Lozer

ブラジルの弓製作者C.Lozerの作品。フェルナンブーコ材。


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