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 工房録 バックナンバー          by 平原勝己


目次
(18) 森林総合研究所
(17) 息子たち
(16) ヴァイオリンの誕生・クレモナ派の系譜
(15) イタリア出国の日のこと
(14) スペイン人の話
(13) イタリアの警察の話 その2 カラビニエリ
(12) イタリアの警察の話 その1 フィナンツァ
(11) イジーノ・ズデルチ
(10)  エラルド・コッキオーニ
(9) サルデーニャの収穫
(8) 木の話 その3 楓(カエデ)
(7) 木の話 その2 モミ
(6) ストラディヴァリについて
(5) 木の話 その1 ピオッポ
(4) 耳をすませば
(3) オルケストラ・アントニオ・ストラディヴァリ
(2) Gで始まる
(1) Tarlo
      


(18)森林総合研究所                       2005年10月21日


 つくば市に森林総合研究所というのがあって、8月に「夏休み昆虫教室」に子供を連れて行ってきた。昆虫教室では標本の作り方などを教えてくれたようだが、僕は「もりの展示ルーム」を見たり、「樹木園」をうろついたりすることにした。 そこでなかなか興味深いものをいくつか見たので報告します。

その1 虎斑

 研究所正面玄関を入ると巨大なスギやヒノキの輪切りなんかが展示されていたが、片隅に水楢(ミズナラ)の材木を展示しているところがあった。
 で、その水楢の説明文に、「……幅の広い放射組織(広放射組織)があるので、柾目面に虎斑(トラフ)模様が現れる。……」と書いてあるのをみつけたのである。

 以前Piazza Laboratori掲示板で「虎斑(とらふ)」という言葉が出てきたことがあった。掲示板では虎斑(とらふ)と虎杢(とらもく)の違いについては話は進まなかったし、ちょっとWeb検索しても簡単には見つけられず、僕の中では気になりつつ、そのままになっていた。

 この説明によれば虎斑=放射組織なので、虎斑と虎杢は全くの別物ということになる。

虎杢(とらもく):繊維が波打っている木を平らに切ったときに見られる虎の縞みたいな模様。
虎斑(とらふ):柾目取り材に見られる放射組織が幅広い時に虎の縞みたいに見える模様。

 放射組織というのは、木の中心から外側に放射状に(年輪と直交して)伸びる線で、ヴァイオリンの駒をみると雨のような線があるが、その線が放射組織で、いわば小さい虎斑ということになる。
 ヴァイオリン類の駒は、楓のなかでも放射組織の幅広いものが使われるのが一般的であり、楓の場合は放射組織の幅は最大でも2mm程度である。
 これが楢や樫だと幅が1cm前後あるので、柾目取りの場合のみ、しま模様として見ることができるのである。

 この研究所の展示では建材(床材?)と思われるタイル状の水楢の板が数十枚貼り付けられていたのだが、虎斑を説明しておきながら、実際に虎斑の見られるものは一枚もなかった。

 当工房には水楢製の家具があり、虎斑がよくわかります。


ミズナラ家具の虎斑               虎斑拡大


駒用カエデ材の放射組織



(17) 息子たち                         2004年3月20日

長男:
 ヴァイオリンを習い始めて一年たち、今月末には初めての発表会に参加することになっている。そのため、最近はほとんど毎日、5分くらいは練習している。
 妻は長男を練習させるのに一緒にヴァイオリンを弾いたりもするのだが、妻が使うのは僕が6年前に作った楽器である。今日はその楽器を長男に持たせてみた。
 小学2年の彼は現在4分の1サイズの量産品を使っていて、大人用の手作りヴァイオリンを持つのは初めてであった。
「これ、お父さんが作ったやつでしょー」と興奮している。そして、発表曲の『君をのせて』(天空の城ラピュタの歌)を弾いた。
 どうせ大きすぎて全然弾けないだろうと僕は思っていたのに、弾きやがった。
 びっくりした。なぜなら自分の作ったヴァイオリンを子供が弾くことになるという、こういう日が来るということを今までに全く、一度も考えたことがなかったからだ。想像したことがなかったんだから、この世の終わりってこんな感じかもしれない。
 そして、弾き終わって彼は言った。
「すごいね、お父さんのヴァイオリン。なんか音が濃いって感じだね。」

 おおお、我が息子よ。



次男:
 もうすぐ卒園の次男だが、幼稚園には毎日ハンカチ・ちり紙を持っていくことになっており、ちり紙はポケットティッシュである。そのティッシュを最近、1日で使い切ってしまう。
 ここは田舎で、道で配ってたりすることは絶対無いので、ポケットティッシュは貴重品なわけで、「そんなに鼻かむの?」と聞いてみた。
「おれ、1日でぜーんぶ使うことにしてんの。」
「なんで? もったいないだろ。」
「だってさー、ティッシュなくなると女たちがさー、『これつかってー』、『わたしのつかってー』って来るんだもん」。

 ああ、我が息子よ・・・。


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(16) ヴァイオリンの誕生・クレモナ派の系譜         2003年5月13日

 ヴァイオリンの原型についてはいろいろな意見があるが、「リラ」と「リベカ」という2つの楽器が合わさって誕生したという説が最も有力である。リラ(lira)はヴァイオリンと似た形の7本弦の伴奏楽器で、バスバーと魂柱をそなえていた。リベカ(ribeca)は琵琶に似た3本弦の独奏楽器である。
 ヴァイオリンは始め「ヴィオレッタ」と呼ばれた。1505年頃にフェラーラ(北イタリア)で描かれた絵画の人物が3本弦のヴィオレッタを持っており、これがヴィオレッタ、またはヴァイオリンを確認できる最古のものであるらしい。
 その1500年代以後、現在まで、ヴァイオリンの製法、構造などはほとんど変わっていないわけである。そのためか、ヴァイオリンという楽器はよく「生まれた時に既に完成されていた」などといわれる。
 ヴァイオリンは肩とあごの間にはさんで保持し、右手で持った弓で弾くという、つまり重さと大きさがかなり制限される楽器だということ。それが変化がなかった、変化のしようがなかった大きな理由であろうと僕は思う。
 製法は変わっていないといっても、地方によって少し違いがある。僕が学んだのはクレモナ式で、厚さ15mmほどの「内型」を元に楽器を作っていく方式である。
 西暦1500年代以降今日まで、クレモナ派の技術を受け継いできた製作者の系図を下に記す(枝分かれは省略する、主幹
?のみ)。
 なお、1800頃から1900年代半ばにかけてはクレモナでのヴァイオリン作りは衰退してしまったが、クレモナ派の技術はミラノなどで生きのび、現在では再び、クレモナが世界のヴァイオリン製作の中心地となっている。

ジョバンニ・レオナルド・ダ・マルティネンゴ 1475?−?
   ↓
アンドレア・アマティ 1505?−1577
   ↓
ジェロラモ・アマティ 1540−1630
   ↓
ニコラ・アマティ 1596−1684
   ↓
アンドレア・グアルネリ 1626−1698
   ↓
ジュゼッペ・グアルネリ 1666−174? (*1)
   ↓
カルロ・ベルゴンズィ 1683−1747
   ↓
ゾジモ・ベルゴンズィ 1724−1775
   ↓
ロレンツォ・ストリオーニ 1744−1816
   ↓
ジョバンニ・バティスタ・チェルーティ 1756−1817
   ↓
ジュゼッペ・チェルーティ 1785−1860(マントバ)
   ↓
ガエタノ・アントニアッツィ 1823−1897(ミラノ)
   ↓
リカルド・アントニアッツィ 1860−1913(ミラノ)
   ↓
レアンドロ・ビジャック 1864−1945(ミラノ)
   ↓
ガエタノ・ズガラボット 1878−1959(パルマ)
   ↓
ピエトロ・ズガラボット 1903−1990(パルマ) 
   ↓
クラウディオ・アミゲッティ 1955−
   ↓
カツミ・ヒラハラ 1964−(ヤサト)

(*1)ジュゼッペ・グアルネリは2人いて、この人物はジュゼッペ・グアルネリ・フィリウス・アンドレア(アンドレアの息子のジュゼッペ・グアルネリ)と呼ばれている。もう一人は彼の息子であり、ジュゼッペ・グアルネリ・デル・ジェズ(イエスのジュゼッペ・グアルネリ)と呼ばれる。
後者のジュゼッペ・グアルネリ・デル・ジェズと、アントニオ・ストラディヴァリの2人の作品が、現在の世界最高の物とされている。
ストラディヴァリは上の系図には入っていないが、ニコラ・アマティの下に位置する。


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(15) イタリア出国の日のこと                   2002年7月19日


 2002年2月28日は、6年6ヶ月にわたったイタリア滞在の最後の日だった。飛行機は夕方6時半発だったので、クレモナを発つのは午後2時。空港まで友人に車で送ってもらうことにしていた。

 最終日にはゆっくりと近所を散歩しながらイタリア生活を振り返ったりしたかったのだが、そんなにうまくはいかない。はたしてこの家の住民は6時間後に出発できるのか、たいへんに疑問であった。やることがたくさん残されており、うちの子供たち2人はじゃまなので、この日も昼食を終えるまで幼稚園に行ってもらうことにした。

 大きい荷物は1週間ほど前に船便で送ったので、やらなくてはならないのは主に手荷物の荷作りと掃除、ごみ出しである。ここ数日は毎日これをやっていたような気もするが、途方にくれてボッとしていた時間も長かったかもしれない。
 家族4人が船便が届くまでの1ヶ月以上生活するための衣服などはけっこうな量で、これを手荷物としてまとめるのはたいへんな作業だった。だけど、どうしても出したり入れたりしちゃうんだよな‥‥。
 妻は掃除なんかをしていたが、やはり長年の汚れを落とすのは簡単ではなかった。

 わけのわからぬ忙しさで午前中は過ぎる。でもさすがイタリアが長い僕らは昼はちゃんと食べたりしてるもんだから、ろくに準備はできていないのに1時になってしまった。子供たちを置いていくわけにもいかない。妻と2人で慌てて自転車をこいで幼稚園に向かった。

 幼稚園に着いてみると、昼食を終えた全園児が大部屋に集められていた。こんなところでみんな何をしてるのか、早く連れて帰らなければ、そこのロッカーの荷物を取りたいのだからどいてくれー、時間がないー、とあせっていたら、園児による合唱が始まった。歌はうちの息子たちの名前や”ジャッポーネ(日本)”という言葉も入ったお別れの歌だった。歌の途中から僕の目になぜか涙が湧いてきてしまった。

 家にいられては仕事を全然やらせてもらえないということもあり、子供たちには2人とも3歳から幼稚園に行ってもらった。2歳違いなのでこの1年間は2人いっしょだった(同じクラスだった)のだが、家にいる時はすぐにけんかを始めるくせに幼稚園では仲が良かったらしい。思えば、こんなにも幼い3歳という年齢で言葉の全くわからない環境に放り込まれて、ずいぶん苦労したであろう息子たち。そして、わけのわからない東洋人にやさしくしてくれて、2人を助けてくれて、最後の日に歌ってくれるみんな。
 妻の方を振り向いて見ると、すでに妻は涙を拭いているところだった。あっ、そうだった、僕が感極まっている場合ではなかった。いっしょに来て僕のためにいらぬ苦労をしてくれたのは妻だ。
 みんな僕のためにいろいろ苦労してくれたんだった。ありがとうよー。

 幼稚園を出ると、町並みは涙で少しゆがんでいた。平日の1時過ぎというこの時間はイタリア人たちは家で食事中なので、町は静かである。遠くから来ていて昼食のための帰宅ができない会社員や高校生たちだけがちんたら歩いている。幼稚園から家までのこのデコボコの石畳の道をガキを載せた自転車をこぐのもこれで最後か。どちらかというと嬉しい。

 家に帰りつくともういよいよ時間はなかった。見送りに来てくれた友人たちに6年分のほこりが積もったダンボール箱を箪笥の上から下ろさせて捨てに行かせたりしつつ(皆さんすみませんでした)、2時半には出発にこぎつけた。(実は片づけきれませんでした。ごみも出しきれませんでした。ごめんなさい。)

 車を出してくれたのは韓国人のW君で、なんと白いベンツである。なんだかリッチな僕らは13の荷物と共にベンツに詰め込まれ、クレモナを発った。他人の運転する車に乗って我が家を出発するのは不思議な気分だった。

 うちの子供たちはまったくこの期に及んで長男は車酔い、次男は大便のために高速道路路肩でベンツをたびたび停めさせたりして時間はかかったけれど(ま、そういう別れの告げ方もよかろう)、W君は「ちょっと急ごう」とか言いつつ本当に200q/hでとばすもんだから、5時半にはマルペンサ空港に到着できた。

 飛行機はほぼ時間通りに離陸した。イタリアを去る。6年半は長かった。いろいろあったんだよ。いつも妻と子供たちが僕を支えてくれた。家族ってこういうことなのかなと思う。飛行機の上昇とともに、僕はまた泣いてしまった。バイバイ・イタリア。「第二部 完」って感じ。


 そして翌3月1日、無事日本に到着し、予約しておいたホテルに入った。イタリア化した僕らは日本のエレベーターのドアが閉まるタイミングの早さについて行けずに何度もはさまれてしまう。そして家族の力を合わせてエレベーターに立ち向かった(具体的には「はやくのれー」「ボタン押してろよー」「パパあぶなーい」と叫び合いつつエレベーターを利用する)のであった。


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(14) スペイン人の話                   2001年11月17日

 EU各国間の青年職人短期交換留学制度がある。例えば今回の話の例ではスペイン人15人がイタリアに来たのだが、旅費はスペイン政府が、滞在費はイタリア政府が出すという仕組みになっている。
 15人は5月半ばにパドヴァ(イタリア北東部の町)に来て、最初の1ヶ月はイタリア語の勉強。そのあと2か月間、各自の希望の、ヴェネツィアのガラス職人やミラノの家具職人やクレモナの楽器職人などの工房に行って修行、というか勉強をする。
 そして15人のうち5人はクレモナに来て、我がマエストロの工房には2人がやってきたのであった。マエストロはめんどうな仕事を僕に押し付ける傾向があり、「ひらはーら、教えることを学ぶのも大切だ」と、僕は彼らの来ている2か月間フルタイムで勤務して指導役をやらされることになってしまった。
 パブロ:まじめっぽい24歳、そして、ミグエル:ヒッピー風27歳。
 2人ともセビリア(スペイン南部)に住んでいて、セビリアにある楽器製作学校(2年間)を卒業してきた。学校では2人ともギターを1台作った。パブロはヴァイオリンを半分まで作った経験がある。
 今回は材料の木はマエストロが提供・出来上がった楽器の所有権はマエストロ・マエストロへの謝礼はなしという取り決めになっていて、2人ともヴァイオリンの製作にとりかかることになった。
 僕がまず驚いたのは、彼らがすでに自転車を持っていたことである。聞けば他の工房に通っている3人も、つまりクレモナに来た全員が1台ずつ持っていた(他の10名の事は不明)。彼らは「パドヴァで道に落ちていた」自転車を拾って電車で持ってきたらしい。
 僕が6年前クレモナに来たとき、やはり自転車が欲しくてさがしたことがあった。当時は日本でそうであったように古い自転車ならほとんどただで手に入るものと思っていたが、クレモナでは違った。結局僕は自転車屋でかなり程度の悪い中古を5000円も出して買ったのだった。とにかく僕はクレモナで完全な形をしている自転車が捨てられているのを見たことはない。パドヴァというのはそんなに裕福な町なのだろうか。
 それと、頭に来たのは彼らが僕のことを「ハーラ」と呼ぶことだ。マエストロが「ヒラハーラ」とハにアクセントをつけて呼ぶのでこうなってしまったのだが、いくら外人だってちょっとなれなれしすぎるのではないか。まあそれはいい。
 はじめの2週間は2人ともまじめに通ってきていた。しかし、だんだんとミグエルは休みがちになっていった。
 最初のころのミグエルの理由は肝臓だった。イタリアに来て1ヶ月以上たって疲れが出てきたのか、以前から悪かった肝臓の調子が良くないのだそうだ。「病院に行け」と言うと、「休んでいれば治る」と言う。午後から来たりしても、右わき腹を押さえて顔をゆがめている。「肝臓ってそこにあるのか?」、「うん、心臓が左で肝臓が右だ」。そんな痛いほどなんだったら死期が近いのではないかと心配になるが、パブロに聞くと、「昨夜は知り合ったメキシコ人の家で飲み会をやって、3人でテキーラとグラッパを空けて、僕は3時で帰ったけどミグエルはまだ飲み続けていた」と教えてくれた。
 その後もミグエルは風邪を引いたり手が痛くなったり家を掃除したり足を石にぶつけたり彼女がスペインから来るから空港まで迎えに行ったり彼女に町を案内したり彼女が帰るから空港まで送っていったりで忙しくて、ヴァイオリン製作どころではなかった。
 スペインでは超まじめ男であるに違いないパブロのほうも、やはり彼女をスペインから呼んでマントヴァに遊びに行ったり飲み会の準備で早く帰ったり、けっこう忙しくてヴァイオリンはあまり進まなかった。
 すっかりミグエルが来なくなったある日、ミグエルから工房にいるパブロに電話がかかってきた。電話が終わってから何の用だったのか聞いてみると、「ミグエルのおじさんは車を運ぶトラックの運転手をしている。明日おじさんがクレモナの近くを通るので、ミグエルは自転車をセビリアまでトラックで運んでもらう。『おまえの自転車もいっしょに運んでやるから持って来い』と言われたけど僕はまだクレモナで使いたいから断った。」
 僕が6年前に5000円で買った自転車は買って間もなく盗まれて、僕は町じゅう捜して歩いたのだが、見つからなかったのは当然だった。
 今使っている自転車は5000円のやつが盗まれた後に運良く見つけた1000円のものだが、その日僕は帰ってから自転車をていねいに地下室にしまった。
 そして僕は自転車の鍵を太いものに変えることにした。2000円ほど払って直径2cmくらいの見るからに頑丈そうなやつを買った。
 しかし僕の悩みは終わらない。その鍵をよく見ると、小さく「MADE IN SPAIN」と書かれていたのだ。これをどう解釈すべきなのか。

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(13) イタリアの警察の話 その2 カラビニエリ        2001年10月5日

 Carabinieri(カラビニエリ)、軍警察。
 どんな小さい町にも駐在所があるのが自慢の警察で、交通違反取り締まりから要人警護、犯罪捜査までいろいろやっているらしい。
 濃紺に赤ラインがイメージカラーで、イベントの時などは派手な羽根飾りのついた帽子をかぶりマントをはおり腰にサーベルで馬に乗っていたりしていてかっこいい。
 僕の師匠アミゲッティは若い頃、徴兵に行ったとき、カラビニエリをやったという。ミラノから1時間くらいの距離のところに勤務していた。夜な夜な仲間たちとミラノの街に繰り出すのに、パトカーで赤灯を回してぶっ飛ばして行っていた。さすがに上司に見つかって怒られた。という話をいつも聞かせてくれる。
 僕が3年ほど前、車で隣町に行った時のことである。駐車して、パーキングチケットを買って車に戻ってきて目にしたのは、フィアット127に乗った85歳くらいのおじいさんが僕の車のドアのところにバンパーの角を当てている場面だった。おじいさんは自分の車がなぜ前に進まないのかわからないようすで、さらにぐいぐいと車を進めようとしている。僕の愛車ランチアのドアは10p×20pぐらいの範囲でへこんでしまった。
 僕はおじいさんに車から降りてもらって「ここに当たった」と説明したのたが、おじいさんはへこんだ場所をさわって「当たってない」と言う。しかも、おじいさんはサイドブレーキを引かないまま降りてきたので車が動き出してしまい、僕が慌てておじいさんの車を押さえたりしている始末である。しらばっくれようとしているのか、本当にぶつかっていたことに気づかなかったのか、どっちだかわからない。オレンジ色の身障者マークを僕に見せて、「ここに駐車してもいいんだ」とアピールしている。確かにそこは駐車枠ではなく、だがら変な角度で僕の車にぶつかったのだが‥‥。
 こんなおじいさんに深入りするのもどうかと思うし、わがランチアは他にもへこみが多数あるので「もういいです」と言いかけたが、近くで目撃していた女の人が「直すのにはけっこうかかるんだから警察を呼んだほうがいい」と言うので、そうすることにした。
 その女の人が近くの商店にたのんで市警察(Polizia Municipale)に電話してもらったのだが、あいにく市警察は留守だった(!?)。それではと、カラビニエリに電話してもらうことになった。カラビニエリは留守ではなかったらしく、間もなくやって来ると言う。
 僕の頭の中にはそれまでに見たことのあった、マント、サーベル、ブーツの背の高いハンサムな警官の姿が想像された。妻も同様だったらしく、「あのかっこいいのが来るのかよ」みたいな話を妻としていた。
 やがてアルファロメオ155が到着した。が、さっそうと降り立ったのは2人の、どう見てもかっこいいとは言いにくい”おやじ”たち。一人の方はウガンダに似ていた。
 がっくり。
 
 彼らはてきぱきと書類に書き込み、僕とおじいさんと目撃者の女性がサインをした。よくみるとその用紙は保険会社の紙で、2枚つづりをぴらっと切り離して、僕とおじいさんに渡された。カラビニエリがコピーを保管するようなこともないらしい。警察官の名前もサインもまったくない。要するにただで代筆してくれたというわけだ。
 後日、保険屋に紙を持って行くと板金屋が紹介され、僕はそこに車を持って行って1日預けて修理できあがりとなった。

 その後フィアット127を見かけるたびに確認してみると、運転者はほぼ100%おじいさんであることがわかった。みんな新車で買った車を何十年も乗り続けているのであろう。けれども、このフィアット127の場合は古い車といっても特に価値があるものでもないし、かっこ良くもないので、決して大切に乗られているわけではない。だから今後僕は127には近寄らないことにした。

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(12) イタリアの警察の話 その1 フィナンツァ        2001年9月20日

 イタリアにはいろんな警察がある。正確に何種類あるのかは知らないが、身近なのは、Guardia di Finanza、Carabinieri、Polizia(Questura)、Polizia Munitipaleの4つと言えるだろう。

 Guardia di Finanza(グアルディア・ディ・フィナンツァ)、財務警察。イタリアではとても重要な、税金取り立てのための警察である。省略して「フィナンツァ」と呼ばれる。
 イタリアで買い物をすると、たとえ屋台でパン1個30円でも必ずレシートを押し付けられる。なぜなら法律で義務付けられているからである。つまり、買い物をした後しばらくの間レシートを持っていなければ罰金を取られる。店が売上をレジの機械に打ち込まなければ税金を簡単にごまかせるという考えからである。
 実際に抜き打ち検査は頻繁に行われているようで、妻は一度、テイクアウトの中華料理屋で料理を待っている間に、取り調べを受けた経験がある。フィナンツァは客に何を買ったか聞いたり、レジの機械を調べたりするらしい。
 そして、もうほとぼりも冷めつつあるのだが、2000年の冬はクレモナのヴァイオリン製作業界はたいへんだったようだ。多くの工房にフィナンツァの手入れが入ったのだ。ついでに税関(輸出入時の税金をごまかしていないか検査)も来たらしい。ある者は難を逃れたし、あるものは罰金を食らったという。とにかくクレモナじゅうの高価な楽器は隠され、インターホンは無視(居留守が通用するのか?)、夜働くとか(警察は夜は来ない?)、電話も盗聴される可能性ありなのでやばい話はしない、というあんばいだった。(それで済むのかよと思うが。)
 なぜそんなに恐れられるのか。聞いた話で、僕は詳しくは知らないのだが、手口はこうだ。
 ある工房にフィナンツァがやってくる。机の引き出しを漁られ、ヴァイオリンのペグが40本発見される。ところがそこの工房主は20本分の書類しか提示できなかった。残りの20本が黒とされる。20本はヴァイオリン5台分。その工房は開業してから20年になる。1年あたり5台、20年で100台分のヴァイオリンの売上を申告しなかった。
 そして罰金は、支払能力の方は全く考慮されない。ある、弦や楽器ケースなどを売る商売をしている会社(社長と従業員5人程度の規模の会社)があって、そこは何か不都合が見つかって、2,000,000,000リラ(一億一千万円)払わされることになったそうである。商品や家を全部売ったところでどう考えてもそんな金ができるわけがなく、さすがに笑っちゃったらしい。結局は裁判所に訴えて減らしてもらったという。
 ヨーロッパの他の国ではこんなことにはならないらしい。たとえばフランスは、1年に2回くらい検査が来るけれど、罰金はそれなりに払える程度しか請求されないそうである。
 イタリアは税金が高く、ヴァイオリン製作者も正式に開業すると税金(や年金)の払いがたいへんなので、もぐりで営業している者も多い。正式に開業した人にしても、脱税していない人は全くいない。客の側だって少しでも安くしてもらえるなら額が少なく書いてある領収書だって大歓迎なわけだ。とにかく100%のイタリア人は脱税しており、日々フィナンツァを、1億円の罰金を恐れつつ暮らしているのである。

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(11) イジーノ・ズデルチ           2001年7月19日

(以前、横浜のT氏より、所有のヴァイオリンの作者「ズデルチ」について質問を受けた際に書いた原稿。)

 Igino Sderci (イジーノ・ズデルチ)について、僕の師匠のClaudio Amighetti(クラウディオ・アミゲッティ Cremonaのマエストロ)に聞いてみたら、「会った時は90歳くらいだった。小柄で、とても欲の無さそうな控えめな態度の人だった」と言っていました。話してくれたことを以下に記します。

 1884年にシエナ近くで生まれ、父が音楽家だった関係で彼も音楽を学び、教会で働いた。彫刻もやっていて、楽器数台を独学で作っていた。
 そのころ(1916−1919)、ミラノのLeandro Bisiach(レアンドロ・ビジャック。ミラノのドゥオモ前で大きな店をやっていた、ヴァイオリン製作の歴史上たいへん重要な人物)一家が第一次大戦でシエナに疎開していて、どうして知り合ったかは不明だが、ズデルチはビジャックに楽器のつくり方を教わった。
 戦後、ビジャックがミラノに帰る際に同行し、1929年までの10年間、ビジャックの工房で働いた。
 1930年、シエナにもどり、自分の工房を開いた。
 ビジャックの4人の息子のうちの一人Carlo(カルロ)は戦後もフィレンツェに残って仕事をしていたが、1930年以降は楽器をズデルチに外注し、自分ではニス塗りだけをやって自分のラベルを貼って売った。ズデルチ作のCarlo Bisiach名の作品だけでも400台くらいあると思われる。
 ズデルチの息子Luciano(ルチアーノ)は楽器製作者になったが、父ほど腕はよくない。
 年老いてからも自分の楽器を作るのを息子に手伝わさせるようなことはしなかったようである。なぜなら1970年頃の作品には年老いたことによるそれなりの変化が見受けられるからである。
 1982年、98歳で死去。
 ズデルチのニスは2種類、黄色っぽいのと茶色っぽいのがあり、どちらもあまり透明でない。
 代表的なズデルチの贋物として、Ignesti(イニェスティ)という人の作った楽器がある。彼はズデルチの弟子で、工房を去るときにラベルを持ち出したらしい(だからラベルは本物)。
 息子ルチアーノは当時(1975年頃、父90歳くらいのとき)60歳くらいで、確か1990年頃に死んだと(師匠アミゲッティは)記憶している。

 ということでした。

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(10) エラルド・コッキオーニ       2001年7月13日

(きりぎりすさん所有のヴァイオリンの作者について)

・・・・・・・・前に掲示板(No.29)に書いた原稿・・・・・・・・
Eraldo Cocchioni エラルド・コッキオーニ。
1915年ごろ、Perugia(ペルージャ。中田のいたところ。フィレンツェから約100km)の生まれらしいです。後にローマに引っ越したようです(中田はコッキオーニのまねをしている!? 実は中田君、Vnおたく!!)。まだ生きてるかどうかはわかりません。
師匠は、彼のローマで作った楽器を修理したことがあると言っていました。
残念ながらにせものが作られるような有名な人ではないので、きりぎりすさんのVnはたぶん本物でしょう。

・・・・・・・・今回新たに得た情報・・・・・・・・
Rene Vannes ・Claude Lebet 著 DICTIONNAIRE UNIVERSEL DES LUTHIERS という本に載っていました。この本は全部で1000ページくらいの「弦楽器屋大辞典」なので、正確でない情報も含まれているようですが、数あるこの手の本の中では一番まじめに作られた、信用度の高い本です。

1915年、ペルージャ生まれ。デザインと家具作りの学校を卒業。
1944年、独学で楽器を作り始めた。
1951年、フィレンツェで展示があった(展示会に出品した?)。
1953年時点で24台のヴァイオリンを作っている。
1957年、ローマに移住。
1985年時点で90台の楽器を作っている。主にヴァイオリンとヴィオラ。

初期の作品には、やわらかいタイプのアルコールニスが使われている。後は、黄金色のオイルニスを使った。


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(9) サルデーニャの収穫        2001年6月24日

 サルデーニャ滞在中のホテルで、我々がよく遊んでいたプールが「Piscina dei ginepri」と名づけられていた。ピシーナ・デイ・ジネプリ、ジネプリのプールという意味である。ジネプリとは、単数形でジネプロ(ginepro)。ジネプロっていえば僕がニスに使っている樹脂のひとつではないか。すると、このプールのまわりにたくさん茂っているのがジネプロの木だというわけだ。よく見ると木の幹のところどころにしずく状に固まった樹脂がくっついている。ひとつぶ手にとってにおいをかぐと、なんとなくかぎ憶えのあるにおいがする。うんうん、これに違いない。よーし、収穫だ、仕事だ。というわけで僕は樹脂を入れるための紙コップを持った3歳の小僧を従え、ホテル敷地内ジネプロ巡りを始めたのであった。
 ジネプロの木はプールのまわりだけでなく、そこらじゅうに生えていた。苗木も植えられていたし、敷地の外の荒地にも生えていた。針葉樹で、直径1.5cmくらいの緑色の実をたくさんつけていて、幹はまっすぐでなくてぐにゃぐにゃしていて、高さは大きい木でもせいぜい5mくらい。樹脂は幹や枝や、枝を切った切り口から出ていて、僕は主に固まっているやつを集めたけれど蜂蜜状のものもあった。
 実際収穫できたのは、帰ってから量ったら25gしかなかった。なぜならひとつぶの重さは0.1〜0.3g程度であり、手はべたべたしてくるし、腕に葉が刺さってちくちく痛いし、疲れてしまったからである。それに、午後早い時間だったので人にはあまり出会わなかったが、茂みの中で何やらあやしい東洋人と思われて通報されたくもない。でも、とても満足できる午後であった。
 それにしても、休暇に行った先でみんなが昼寝している時間に仕事に励んでいる僕は、とても偉い人なのではないだろうか。知らなかったぞ。
 樹脂を集めつつ、ダビデ・ソメンツィ(Davide Somenzi)という製作者(35歳くらいでけっこう有名bravo liutaio)が話してくれたことを思い出した。彼はやはり夏の休暇で行ったトスカーナでジネプロの樹脂をとったという。暑い日にジネプロの木を見ていると、糸を引いて地上に落ちる樹脂が見える。ジネプロの木の下には駐車しないほうがいい。それで、彼は木の下に新聞紙を広げておいて収穫したと(確か)言っていた。
 今は6月であまり暑くなかったが、7月か8月に行けばもっと簡単にたくさんとれたに違いない。でも、トスカーナのジネプロよりサルデーニャのジネプロの方が格が上というものである。どうだ。
 帰ってからクレモナの薬屋(Farmacia Leggeri)で売っているジネプロの値段を調べてみたら、100gで約900円だった。ニスに使う樹脂としては特に高くも安くもない値段である。25gなら200円程度のものだが、僕のジネプロといっしょにされては困る。僕のは「イタリア人もあこがれるサルデーニャの由緒正しいジネプロ」なのだから。
 僕はいずれ、このジネプロを使ってつくった楽器に「Sardegna」と名づけようかと計画している。

 P.S.
 しかしである。師匠にこの話をしたら、「ジネプロの樹脂というのはない。ジネプロとして売られているのはサンドラッカという樹脂に何らかの手を加えたものだ。」と言われてしまったのである。「百科辞典にそう出ていたし、樹脂業者に聞いてもそう言っていた」と言うのだ。
 つまり、@僕がジネプロの木だと思ったのは本当にジネプロの木だったのかどうかわからない(が、地元で一般に「ジネプロ」と呼ばれている)。または、A僕のジネプロは本物のジネプロだが、ジネプロの木からは樹脂は少ししかとれないので一般に商売にならないものであり、サンドラッカが似ているので昔から代用されている。
 僕はAであるような気がするが、まあ、使ってみようと思う。

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(8) 木の話 その3 楓(カエデ)
         2001年5月28日

 裏板や横板、ネックに使われているのは多くの場合、楓である。イタリア語でアーチェロ(acero)と呼ばれる。表板がモミであることは必然とも言えるが、楓はそうでもないようで、数は少ないけれども楓以外の楽器もけっこう見かける。
 楓の木は種類も多いようだが、ストラディヴァリの使った木のように模様の派手なものはユーゴスラビア地方に生えているらしい。僕はそのユーゴスラビアの楓の木を立木の状態で見たことがないので、どんな木なのかは全く知らない。もみじみたいなのか、カナダの国旗みたいか、その中間か、そんなところだと想像している。
 現在一般にヴァイオリン用に売っている楓の木は、売っている人に聞くとみなユーゴスラビア(とかボスニアとか)産だと答えるが、本当かどうかわからない。値段はチェロ用の高いものだと数十万円になるし、業者でなければ丸太で買うようなこともないので、僕には情報がない。木としては異様に高いので流通も不明瞭になったり、あやしい匂いもしてくる気がする。一度、木を買いに行った時に英語を話す男が「いい木があるよ。ここじゃまずいから後であそこの角曲がったところで待ってるから」と話しかけてきたことがある。行ってみるとワンボックス車がいて、楓を5枚くらい見せてくれた。まあまあいい木だったけれど値段も高かったので値切ったが、安くしてくれなかったので買わなかった。切りたての新しい木だった。定期的に行商しているらしく、「また来るから」と言っていた。
 ストラディヴァリは地元クレモナに生えている楓も使ったが、この楓はピオッポと紛らわしい名前だが、オッピオ(oppio)と呼ばれる。たぶんそのへんに生えているのだと思うが、僕はどれがそのオッピオなのか知らない。楓っぽい木はよく見かけるから、あれかもしれない。
 楓の木の特徴的な、虎杢(とらもく イタリア語ではmarezzatura)とか呼ばれるしましま模様は、木の繊維が波打っていることで現れる。波打つのは、木が重いために皺がよるとか、風に吹かれるからとか言う人がいるが、説得力に欠ける。ただ単に楓の木はこう育つということではないのだろうか。一本の木でもしましまがあるところとないところがあるし、しましまの全くないものもある。
 僕は妻に髪を切ってもらっているが、いつも見事な虎刈りになる。イタリア人に「ほら、マレッツァトゥーラ」と言っても冗談は理解されないようだ。師匠にはいつも「おまえの床屋は羊の毛刈り人か」と言われる。
 材料の機械的性質を考えた場合、このしましま模様はマイナスの意味しかない。繊維が波打っていれば薄板にした時に割れやすいということになるからだ。しかし、装飾という意味で言えば、楓ほど美しい木は他にないと僕は思う。僕の言いたいのはしましま模様のことではなくて、色、つや、肌の感じのことだ。かんなをかけた面はきらきらと光り輝いて本当にきれいなのだ。それに、硬い木なのでつるつるになって、とても気持ちいい。たぶんヴァイオリン作りの人はみんな、かんなをかけつつなでまくり、ほおずりしまくっていると思う。その上しましま模様があるのだからもう最高である。ただし、しましま模様があればあるほど材料の性能としてはよくないわけだし、作業もたいへんに難しくなる。世の中うまくいかないものだ。
 だから、ヴァイオリンの裏板に楓が使われているのは、もちろん硬さや重さがちょうどいいということもあるだろうけれど、美しさが一番の理由ではないかと思う。
 材木の乾燥による変形のことでも、しましまのきつい楓は問題が多い。たとえば、切り倒したばかりの楓で厚さ5mmの板を作ったとすると、一週間後にはぐにゃぐにゃでこぼこで洗濯板みたいになってしまうであろう。3年間乾燥させれば楽器に使えるとか言うけれど、それは3年たてば変形が穏やかになるという意味であって、変形は止まるものではない。僕は今、24年ものの木を使っているが、削って材木の形が変われば、当然変形する。(なぜ24年ものが手に入ったかというと、師匠が虫に食われた木を「運がよければ使えるから」と僕にくれて、運良く使えるところがあったからである。)
 ストラディヴァリの楽器の裏板にはしましまのきつい木が使われていることが多いが、彼だって作業がめんどうで、しかも弱い木など使いたくはなかったはずだ。でも彼にとっても美しさはとても魅力的だったし、客も好んだのであろう。しかし彼は、ネック(頭部)にはあまりしましまのない、あるいは全くない木を使っている。ネックの部分は細くて長いので曲がりやすく、もし曲がってしまったら楽器の調整が大きく狂って困ったことになるので、彼はそれを避けたかったのだと思う。現在のストラディヴァリのネックにはしましまが多いので間違えやすいが、あの部分(手で握るところ)は後で交換されたものであって、本来の木は、渦巻きのところを見ればほとんど模様がないことがわかる。(ストラディヴァリの時代の楽器は全て、いわゆるバロックタイプであり、現在の楽器とは指板の角度などが違っていた。1800年以降、古いバロックの楽器は角度を変えるためにネックを取り替える改造が行われた。人間にたとえれば、胴体と頭はそのままで、首だけを新しくしたのである。この時代の楽器職人はこの作業ばかりしていたと言われている。1700年代以前の楽器でオリジナルの首が付いているものは今では貴重なので、そういう楽器があったら絶対に改造してはいけない。) 現在、特に値段の高い楽器の首にはしましまがなくてはいけないというような風潮にあるが、それは間違っている。
 僕も多くの小市民同様しましまが大好きなので、しましまの楽器が作りたい。しかし、良質でかつ、しましまの派手な木は高価だし、先に誰かに買われてしまうのでとても手に入りにくいのである。それより悩みはネックをどうするかで、良くないことはわかっていてもしましまを使うのか、やめるのか、なかなか決断できない。尊敬すべきはうちの師匠で、彼がここ数年に作った楽器のネックには、しましまは全くない。しかし師匠でさえネック交換修理にはしましまを使う。やはり小市民なのか。まあ、しましまネックの楽器は数多く存在しているわけで、それほどの問題ではないとは思うのだが。

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(7) 木の話 その2 モミ 
             2001年5月23日

 ヴァイオリン類の表板はモミの木である。イタリア語ではアベーテ(abete)という。モミ以外の木を使ったヴァイオリンもなくはないが、まともな楽器ならほとんど100%、モミを使っている。ヴァイオリンのほかにギターの表板やピアノの共鳴板、木琴など多くの楽器はモミでできていて、つまり楽器にした時に一番いい音でよく響く木がモミなのであろう。
 モミの木はアルプスあたりの山では最も多く植林されていて(もともとは自生していたと思うが)、クリスマスツリーはこれだし、大部分は建材になる。
 赤モミ(abete rosso)と白モミ(abete bianco)の2種類あるが、どこが赤くてどこが白いのか僕は知らない。赤モミの葉は、断面は丸くて先がとがっているが、白モミの葉は平べったくてとがっていない。木材の質もだいぶ違い、楽器に使われるのは赤の方だけである。
 うちで3年前のクリスマスに本物のモミの木のクリスマスツリーを買って(高さ1.3mで2000円くらい)飾ったのだが、これは赤モミだった。部屋に置いておくとだんだん葉が落ち始め、この落ちた葉がまさに針そのもの、針葉樹とはこのことで、木のまわりが針だらけ、移動するにもぱらぱら落ちて針だらけでたいへんなことになった。次に買うとしたら絶対に白モミにしたい。
 そして赤モミの中でもオス(maschio)とメス(femmina)があり、まつぼっくりが下向きにつくのがオスの木、上向きがメスの木だと(逆であるべきだという意見もあるが)学校で教わった。
 オスの木には、皮をはぐか、切ってみるとわかるのだが、いびつな”オス模様(maschiatura)”ができる。ヴァイオリンの表板を見ると年輪の線がまっすぐでなくて、一部ぐにゃぐにゃしていることがあるが、これがその模様である。ストラディヴァリの楽器にはオス模様があるものが多い。一本の木でも場所によって模様がある場所とない場所があるし、模様がない場合にオスとメスの区別がつくものなのかどうか僕は知らない。
 モミの材木としての特徴は、年輪の線の部分はとても硬く、線と線の間の部分はとてもやわらかくて軽いというところである。つまり2種類の異なる材料を重ね合わせた天然の複合材料になっていて、その結果、「軽くて強い」というたいへん優れた性質を持っている。同じ重さで比較すれば他のたいていの木よりも強いということである。でも、加工はとても難しいし、ヴァイオリンの表板の場合は厚さ2mm以下にすることもあるので、慎重に扱わなければならない。
 山では冬の初めに木が切り出され、製材の前、丸太の段階で質の良い木は選ばれて楽器用にまわさえる。僕が見たのは林道わきに積まれた丸太の断面にrisonanza(共鳴)のRの字がスプレー書きされていた。楽器用の木を買いに行った人はRの丸太の中から気に入ったのを選ぶことになる。しかしここでRになった丸太というのは、曲がっていない、断面が真円に近い、年輪がそろっている、枝が少ないということで選ばれているわけで、よく鳴るという意味では全くない。
 実際、外見から木の質を見極めるのはとても難しい。例えば年輪の間隔が1mmであろうと、5mmであろうと、質には関係ない。熟練した人ならばある程度までは外見でわかると思う。しかし、その木の本当のところは削ってみるまでわからないのではないだろうか。
 日本では、節(枝)のない木材を得るために、木が若いうちにあらかじめ枝を切っておくという作業(枝打ち)が行われるが、こちらではそういうことは普通やらないと営林署の人は言っていた。ストラディヴァリやガルネリの楽器には節があることも多いし、あまり神経質になるべき事ではない。
 モミの木に量的に恵まれていたドイツ地方の楽器には、外見上美しい、木目のそろった、もちろん節などない木が使われていることが多い。これはドイツ製の楽器のひとつの特徴でもある。
 ストラディヴァリやガルネリは北イタリア、ドロミテのフィエンメ谷(Val di Fiemme)のモミの木を使ったとされている。フィエンメ谷といっても広いのだが、ストラディヴァリはパネベッジョ(Paneveggio)、ガルネリはラテマール(Latemar)という地区の木を買った記録がある、と言われているが、この記録を見たことのある人はいないらしい。しかし、木は育った場所の環境で変わってくるわけだから産地の解明はある程度は可能なので、フィエンメ谷周辺の地域の木を使ったことは確かだと言ってもいいであろう。パネベッジョの営林署の人に、フィエンメ谷のあっちとこっちで木に違いはあるのかと聞いたら、「おんなじだべ」と言っていた。ちなみに、パネベッジョとラテマールはフィエンメ谷の中でもけっこう奥地で、ラテマールの方がほんの少し北に位置する。
 イタリアの楽器の音の秘密がフィエンメ谷の木にあるとして、ポイントは気候と地質ではないだろうか。僕の師匠はフィエンメ谷のモミの木をクレモナで植えたが、育たなかったという。ドイツ以北のモミの材質はイタリアのものと比べ、弱いらしい。また、ドロミテはミネラル豊富な岩山である。この話はみんなには内緒にしておいてもらいたい。
 ただし、フィエンメ谷の木を使いさえすれば楽器がよく鳴るなどということはあり得ないので、木の産地にこだわってもあまり意味はない。木の素質はもちろん重要だが、その木の持つ能力を引き出すことが最も大切なところで、それが難しいところだ。楽器製作者の仕事は、木の性質に応じて厚さを決めることである。そのためには、少しずつ手作業で木を削りながら理解していく以外に方法はない。
 ちなみに僕は97年にパネベッジョ、98年にラテマールへ行って丸太を買ってきて、今は寝かせているところだ。


2005年3月追記
NHKアナウンサー小松氏の調べによると、赤モミのオスにあたる木は日本では「トウヒ」である。
松ぼっくりが上向きなのは「松」である。
おそらく、上記モミのオス・メスは同じ木のオス・メスのことではないと思われます。その地方の呼び名ということでしょう。つまりヴァイオリンなどに使われるのは常に赤モミのオス=日本名トウヒ、ということかな。

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(6) ストラディヴァリについて           2001年5月17日

 以下の情報の大部分は師匠マエストロ・アミゲッティが一気にしゃべりまくるのを僕が必死にメモしたもので、日本語の活字になるのはこれが初めての情報もかなり含まれているはずである。イタリアでは口による情報伝達が主流であり、僕の苦労も察してほしい。

 アントニオ・ストラディヴァリ Antonio Stradivari
 1644年 生まれ
 1666年 Francesca Ferraboschiと結婚 子供は6人
 1680年 サン・ドメニコ教会前に家購入
 1698年 妻Francesca死去
 1699年 Antonia Maria Zambelliと結婚 子供は5人
 1737年 93歳で死去

 調べられたのは主に2つの資料である。ひとつは教会の記録で、クレモナの場合は1550年頃から作成され始めた住民票のようなもので、どこに誰が住み、そいつはちゃんとキリスト教徒をやっているかどうかが記された。もうひとつは公証人の記録で、これには家の購入や贈与、借金のことなどが記録されている。他に、楽器内部に貼られたラベルも重要な資料である。
 ストラディヴァリの出生の記録は発見されていない。生年については、教会住民票(?)によれば1648年か49年ということだが、この住民票は毎年書き換えがあり、神父もまじめにやっていられなかったのか記入ミスがとても多く、細かいところはあまり信用できないらしい。一方、ストラディヴァリは晩年、楽器のラベルに製造年と自分の年齢を記しており、それによると1644年生まれになる。また、1666年に結婚しているけれども1648年生まれとすると18歳で、若すぎるということで、1644年説が有力である。
 ラベルにラテン語でAntonius Stradivarius Cremonensis(〜ensisは、〜のという意味)と書いてあるところをみるとクレモナ地方出身であったかもしれない。しかし僕の師匠は「おまえも市役所で登録してクレモナ市の住民なんだったらCremonensisだ」と言っていたので、必ずしも出身地をあらわすというわけではないようだ。
 いつからヴァイオリン作りを始めたのかは不明。彼の作品とされている最初の楽器は1666年作のヴァイオリンで、ラベルに「Nicolo Amatiの弟子」と記されている。
 その1666年に4歳年上のフランチェスカ・フェラボスキ(Francesca Ferraboschi)と結婚している。彼女は再婚で、前夫ジョバンニ・ジャコモ・カプラ(Giovanni Giacomo Capra 父親のアレッサンドロ・カプラはとても有名な建築家で数学者)は、よほど素行不良だったのか、フランチェスカの兄(または弟)に散弾銃で撃ち殺された。結婚時、彼女は妊娠中で、結婚5ヵ月後に長女が生まれている。
 一家は、現在のガリバルディ通り57番地の家(今は食器屋になっている)に住んだ。家主は、アマティの工房の隣で彫刻屋を営むペスカローリ(Pescaloli)氏。
 1680年に、町の中心地でヴァイオリン工房が集まっていたサン・ドメニコ教会前の一画に家を買った。3階建てくらいで工房兼住居である。その一帯は現在は大きい建物になっていて、マクドナルドがある。サン・ドメニコ教会は今はなく、跡地はローマ広場という公園になった。ローマ広場にストラディヴァリの墓があるが、記念碑的なもので本当の墓ではない。我が家はローマ広場に面したビルの7階なので、いつも拝んでいる。いや、時々。
 ストラディヴァリの弟子は、最初の妻との間にできた息子2人、フランチェスコ(Francesco 1671−1743)とオモボノ(Omobono 1679−1742)のみである。晩年のストラディヴァリの作品にはこの2人が手伝った痕跡が見られる。ちなみにオモボノはあまり腕が良くない。
 生涯最後の作品は1737年製のヴァイオリンで、ラベルには93歳と記されている。この年に死んだのだが、楽器を作れるほど健康だったのであろう。このヴァイオリンを見た僕の師匠は「頭部(うずまき)はフランチェスコの作品。胴体の方はふくらみの曲線におかしなところがあるので、老いて腕の衰えたストラディヴァリが仕上げたものであろう。フランチェスコならちゃんと直しただろうから。」と言っていた。
 父の死の5年後、1742年オモボノ死去。翌1743年フランチェスコ死去。彼らに弟子はいなかったので、ストラディヴァリ派の楽器製作の歴史は終わった。後に続くクレモナのヴァイオリン作りはガルネリ系である。
 ストラディヴァリが使っていた道具類や型紙は、末息子パオロ(Paolo)がConte Cozio di Salabue(Conteは伯爵)に売り、Marchese della Valle(Marcheseは侯爵)が相続、1880年頃ミラノで展示があったのをGiuseppe Fioriniが見て買い取り(かなり払ったらしい)、クレモナ市に寄贈、それが現在ストラディヴァリ博物館に展示されている。クレモナ製作学校にもチェロ用の締め付け道具2個がある。
 1998年にロンドンのクリスティーズのオークションで、ストラディヴァリの1727年作のヴァイオリンが、947,500ポンド(この日のレートで211,243,360円)で落札された。これはあらゆる楽器の中で最高額の記録である。実際の販売価格がどのくらいになるのか僕は知らない。今、ヨー・ヨー・マの使っていたチェロ(所有者はダニエレ・バレンボイン)が12億円で売り出されているというが、まだ売れてないらしい。ストラディヴァリのチェロは30台くらいしか現存しないので貴重ではあるのだが、12億は少し高すぎるようだ。
 ストラディヴァリは一生で1000とか2000の楽器を作ったという説があるが、僕はそんなには無理だと思う。彼はけっこうていねいな仕事をしているので、多くても月に1台作って、80年間働いたとしても960台。だが彼はイタリア人なので、年に3ヶ月はバカンスとして720台。まあこの程度ではないかと僕は思う。
 現代まで残っている楽器の数は、ストラディヴァリ研究で有名なシモーネ・フェルナンド・サッコーニ(Simone Fernando Sacconi 1895−1973)は350台のストラディヴァリを修理したということから考えて、500程度ではないだろうか。
 今クレモナに住むアントニア・ストラディヴァリというおばさんはストラディヴァリの直系の子孫で、子供向けの劇の仕事をしている。
 2人目の妻の苗字はZambelliだが、現在のクレモナの女流名人Vanna Zambelliとは無関係らしい。

 ところで、親や兄弟や出生のことがまるでわからないところ。それから、なぜ、殺された前の夫の子供を身ごもっていたような女性と結婚したのか。この2点はちょっと理解に苦しむ。こういうことにうるさいうちの妻の推理は次の通りである。
 ストラディヴァリは自分の出身地を隠していた。名前も偽名である(クレモナに1人しかいないような珍しい苗字だし)。11人も子供をつくって93歳までぴんぴんしていたくらいなのだから、親や兄弟も丈夫な身体の持ち主で、どこかにいた。結局職人として大成功しているのだから、たとえクレモナの近くでなかったとしても郷里の話は出てくるはずである。郷里の話はできなかったのである。なぜなら、言えば差別されたから。それはたぶん南イタリア。15歳くらいの時、おそらくその町にいられなくなった理由があって(といっても作品から想像できるように、彼はとてもまじめな人だったので、よほどのことがあったのだろう)、一人で出てきて、クレモナに流れ着いたのである。それ以降、過去とはいっさい縁を切った。最初の妻は、前夫の父が有名建築士であることを考えると、けっこう良家の娘である。たとえ問題があってもその娘と結婚できればこの町に完全に定住できる。願ってもない結婚話だったのである。
 以上。


追記(2001年10月10日)  1666年の結婚の時の書類に、ストラディヴァリの両親の名前(父親は故人として)が出ている。

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(5) 木の話 その1 ピオッポ            2001年5月13日

 このところ、日陰にいないと暑すぎるくらいの気温になってきた。家の中は外より涼しいので、陽がさすときは雨戸を閉めて、室内の温度をなるべく上げないようにした方がいい。
 外をみると白い物体が空気中を漂っている。これはこの時期の名物でもあるピオッポ(pioppo、ポプラ)の木の綿毛で、多い日は雪が降っているみたいな、町じゅうが綿ぼこリだらけみたいなことになる。クレモナ近辺には植林のピオッポ林がとても多いのでこうなるのだが、特にポー川の近くはすさまじく、本当に雪が積もっているみたいになる。手にとってみると、すごく軽いふわふわの綿毛であることがわかる。歩いていると鼻に入ってきて、うっとうしい。
 ピオッポの材木の質はやわらかくて、一様で削りやすく、強さを求めないならばとても素直でいい木である。年輪の線もほとんど見えなくて色は白っぽい。育つのが早くて手間がかからないので値段が安く、合板や梱包用材、家具、紙の原料など、広く利用されるらしい。
 そしてストラディヴァリはフィレット(filetto、英語でパフリング。ヴァイオリンの表板と裏板のふちに沿って入っている黒・白・黒の線)の白い部分にピオッポを使った。黒いところは洋梨の木を黒く染めたものだという。フィレットの材質が音に影響するとは思えないので、ストラディヴァリは加工のしやすさとか、そのへんに生えていたとかいう理由で選んだのだと思う。ちなみに僕の楽器も同じ材料でつくっている。
 フィレットに使う木は作者によって、楓やブナ、黒檀、いちじくなど様々で、これは楽器を鑑定する時に重要になる。鑑定家でもある僕のマエストロは古い楽器のフィレットをルーペで見て、材料、サイズ、黒いところの染め具合なんかをノートにとっている。
 それから、ストラディヴァリは楽器内部の部品に柳の木を使ったが、柳とピオッポは質がよく似ているので、僕は柳の代わりにピオッポを使うこともある。柳もその辺に生えている手軽な材料である。
 ヴァイオリンの裏板に使われるピオッポもあるが、これは違う種類のピオッポで、とても硬く、珪素(ガラス)が含まれているので刃物の消耗が早くて、困りものだそうだ。僕は使ったことはない。
 ティリオ(tiglio、辞書によるとシナの木)という木があって、これもそこいらに生えていて、材木の質は、見た目はピオッポや柳に似ているのだが、やはり珪素が含まれているらしい。かみそりを研ぐ時などに皮に研ぎ粉をつけたものを使うが、昔はティリオの板をこの用途に使っていたという話を聞いた。今、多くのヴァイオリンづくりの人も刃物研ぎの最後に皮を使うが、ストラディヴァリはティリオを使っていたに違いない。

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(4)  耳をすませば             2001年5月9日

 このホームページは最初、日本のLycosというIBM系のところの無料ホームページスペースでつくった。だからアップロードしてすぐにLycosスーパーサーチというやつで検索することができた。それで、「平原ヴァイオリン工房」と入力すると当然出てくるのだけれど、うちのページより前に表示されるのがある。フルネームで「平原ヴァイオリン工房」と入れてるのにあんまりではないか。で、うちのより前にあるサイトは何かというと、「耳をすませば」だった。
 「耳をすませば」というのはアニメ映画の題名で、いわゆる”宮崎アニメ”のひとつである。中学生の女の子が主人公で、彼女が知り合った同級生の男の子は中学卒業後クレモナにヴァイオリン製作の修行に行くことにしていて・・・・・・、という話だ。映画のスタッフの中に「平原」という人がいたのと、映画製作にかかわった「ヴァイオリン工房」の名前があったことで「平原ヴァイオリン工房」の検索にヒットしたというわけである。それにしてもいくら相手が宮崎だからといって、「平原ヴァイオリン工房」で僕より前にくるのはどうも許せない。
 実はうちにこの「耳をすませば」のビデオがある。日本の友人が送ってくれたものだ。うちでは子供たちに日本語の勉強もかねてよくビデオを見せているので、僕ももう50回くらいは見た。といっても妻と交代で子守りしているので全編通して見たことが一度もなく、まだ見ていないシーンもあったりするかもしれないのだが。
 子供向けの映画ではないのにうちの子供たちはけっこう好きで、長男は主題歌のカントリーロード日本語版をすぐ覚えたし、僕にむかって「もしかしてヴァイオリン作ってるの?」と映画のせりふそのまま言ってくれたりする。(トイストーリー2の影響で次男は自動ドアの前では必ずぴょんぴょんはねる。)
 検索で不当な目にあわされた恨みもかねて、この映画の準主役、天沢聖司君が製作中のヴァイオリンについて一言ある。
 天沢君、ノチェッタ(nocetta)を忘れているぞ。
 ヴァイオリンの裏板は一番上に半径1cmくらいの半円形の突起があり、そこからネックにつながっている。この半円形部分がノチェッタと呼ばれている。表板にはノチェッタがないので、裏板の輪郭をのこぎりで切るときにうっかり切り落としてしまうやつがいる。僕も一人目撃したが、そいつは笑いものになる。
 楽器の構造上、4本の弦によって強烈に引っ張られているネックが共鳴胴から外れないでいられるのはほとんどこのノチェッタのおかげであり、つまりとても重要な部位なのである。だからうっかり切ってしまったときは裏板にノチェッタを継ぎ足す修理をしなくてはならない。この修理は、かなりの力に耐えなければいけないし、目立たないようにやらなければならないのでけっこうたいへんだ。楽器を落としたりしてネックが胴体から外れてしまって、その時ノチェッタもネックにくっついたまま割れて取れてしまうということもよくあるようで、まあポピュラーな修理ではあるのだが。(古い楽器でノチェッタが健在なのは多くない)
 だから天沢君も継ぎ足しをやらなければならなかったのに、どうだ、彼は修理をしないまま裏板と横板と表板を既に組み上げてしまっている。裏板をまた外さないといけないんだぞ、わかってるのか?

 といっても実は僕はこの映画がかなり好きで、なんというか全体に流れる雰囲気みたいのをとても気に入っている。日本の街とか駅とかの風景がよく描かれていて、見るたびに日本が懐かしい。それと、Lycosのホームページは広告が入るのが目障りなのですぐにイタリアのtiscaliに移した。それと、ほかの検索はいくつか登録はしたのだけれどまだひとつも登録済みになっていないのでどうなるのかわからない。

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(3)  オルケストラ・アントニオ・ストラディヴァリ    2001年4月19日(木)

 僕は製作学校に在学中、学校の弦楽オーケストラでヴィオラを弾いていた。バッハやビバルディ、アルビノーニ、コレッリあたりの曲ばかりだった。オケの名前は「オルケストラ・アントニオ・ストラディヴァリ」というたいへん立派なものだが、内容は違った。
 メンバーは、指揮をするヴァイオリン(演奏)の先生が授業中にスカウトした、楽器の経験のある生徒たちで、数人から十数人である。
 集合時間に教室に来ているのは僕だけだった。(2年目からはなぜか僕も遅れるようになった。なぜだ?) だらだらと集まり始めるが、いつも出席する固定メンバー以外は気まぐれなので、どの時点で「集まった」のか判断するのは難しい。
 だいたい位置につき、そろそろ始めるのかと思ってスタンバっていると、指揮者がガムを配り始める。僕は辞退する。
 やっと棒が振り下ろされ練習が始まる。1小節くらい弾いたところで誰かが「楽譜がない」と言い出す。指揮者がコピーをとりに行く。
 晴れて楽譜の手配は終了し演奏が始まって1小節半で今度は「ちょっと待った」の声がかかり、そいつはチューニングを始める。指揮者やほかの誰かが思い思いに「あー」とか「はー」とか、Aの音を歌ってみたりする。「誰か音さ持ってないー?」、「おれ持ってる」と、楽器ケースのところまで取りに行く。「静かにー!」
 2小節目まで進んで、今度は松脂だ。「あたしにも貸して」、「ぼくにも」。
 3小節目、携帯電話が鳴り始める。
 こうして練習は始まるのだが、途中で指揮者が止めても5秒くらい勝手に弾き続け、ついでに得意の旋律まで披露しているのは、ミラノの音大を出た(にしてはやけにへたな)チェリストだったりする。
 曲が進んでいって楽譜をめくる時になると、必ず誰かが楽譜を落とす。製本されているわけがないので楽譜はひらひらと舞い散る。
 もちろんもう少し緊張感のある日はあるし、本番はまじめだ。しかしこのオケが人前で弾けるのは1人か2人メンバーに混ざっている元プロが、いくらなんでもこれじゃいかんと思って一生懸命に弾くからである。元プロたちは事前に指揮者から、よーくお願いされている。ほかにもけっこううまいやつが多いので、元プロがまじめにやればそいつらはついてくるから、なんとかかたちになるのだ。
 本番は、僕の在籍中には一度だけ郊外の村の教会で弾いたことがあったが、あの時だけはまともな演奏会だった。村人たちで満席の小さな教会で、確か30分以上弾いたと思う。教会の雰囲気もよかったし、みな静かに聴いてくれた。
 ほかのケースは、学校が休みに入る前に全校生徒に聴かすとか、近くの高校に行って音楽の授業として聴かすとか、何かの団体の集会で演説の合間に弾かされたりするのが本番だった。この場合、なにしろ聴衆の態度がまるでひどい。僕らの演奏は彼らのおしゃべりのBGMでしかないのだ。指揮者は曲の合間ごとに後ろを向いて客に向かって、「うるさいと演奏者間で音が聞こえなくて合奏に支障があるので静かにしてください」とか繰り返し言っていたが、効果はなかった。楽器の音より大きい声を出さなければおしゃべりは成立しないのだからあたりまえだ。

 こういう生活に慣れてしまったあと日本に帰ってちゃんと暮らしていけるのか、僕はとても不安である。

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(2)  Gで始まる                 2001年4月12日(木)

 妻は怒っている。
 Guarneri(ガルネリ)、Guadagnini(ガダニーニ)はともかくとして、Grancino(グランチーノ)、Gagliano(ガリアーノ)、Goffriller(ゴッフリーレ)、Gragnani(グラニャーニ)、Guerra(グエッラ)、Gadda(ガッダ)、Garimberti(ガリンベルティ)、Guicciardi(グイッチャルディ)、・・・。
 これらはヴァイオリンにちょっと詳しい人ならだいたい知っている有名な製作者の名前である。
 僕が妻に
「今日ミラノでグランチーノとガリアーノとガダニーニも見たんだ」
と話すと、
「え、それってOOさんの持ってたやつ?」
「あれはガリンベルティ」
「じゃあ私のヴァイオリンの先生が持ってたやつは?」
「グイッチャルディ」
「で、この前弾いたすごいいいやつって?」
「それがガリアーノ」
「んで何を見たって? もー、いいかげんにして」
と怒るのである。たしかにみんなGだし、響きも似ている。さらにSでズになる場合のSgarabotto(ズガラボット)、Sgarbi(ズガルビ)、Sderci(ズデルチ)なんかも加わるのだと思う。上に挙げたのはすべて苗字だが、名前の方でもガ行、ザ行がけっこういるからたちが悪い。
 日本の名前にはGやZが少ない(?)から、なじめないのだろうか。僕も、ガエタノ・ガッダなんてのを聞いたときには、かなりショックだったと記憶している。でも、今ではずいぶん慣れてしまったから、もしうちに3人目の男の子が生まれたらガエタノと名づけてしまうかもしれない。日本に帰ったら後悔するのだろうか。
 ところで、ガルネリさんというのは町で表札(インターホンボタンの脇の小さいプレート)をけっこう見かけるから、多い苗字のようである。ストラディヴァリさんは一人だけいて、かのストラディヴァリの子孫だという。おばさんで、その名もアントニアである。(かのストラディヴァリはアントニオ)


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(1)  Tarlo                      2001年4月9日(月)

 今年はやけにタルロが多い。タルロとはtarlo、木食い虫のことだ。幼虫は木の中でトンネルを掘って暮らし、成虫は甲虫で、飛び回る。だから日常生活中に発見できるのは成虫。普通なら5月ごろから出るのに、今年は3月中から暖かい日には出始めていた。
 タルロといってもいろいろいて、たぶんクワガタムシやカミキリムシなんかも含まれると思うが、うちによく出現するのは体調3mmほどのやつである。特に夕方、日の入りの頃発見されることが多い。動きは鈍く、壁や天井をよちよち歩いているか、空中をよたよた飛んでいる。
 このところ、ちょっと暖かい日には10匹以上見つかるのだが、どこから出てくるのかわからない。出てきた木の表面には必ず穴が開くのですぐにわかるはずなのに僕の楽器用の材木にも家具にも窓枠にも穴は見あたらない。すこし気味が悪い。
 幼虫に出会うことはリュータイオ(ヴァイオリン職人)にとって不幸である。
 去年末にできあがったヴァイオリンは実は裏板を3枚(楽器3台分)つかった。1枚目と2枚目で出会ったから。今作っているヴィオラのネックも2つめだ。僕の師匠もすでに、ウン十万円分は食われている。タルロが好むかえでの木はとても高いのだ。
 だから容赦はしないよ。
 壁のときは指で、飛んでるときは蚊をとる要領で、天井のは特製必殺棒でやることにしている。近頃は3歳の次男も見つけしだい指でつぶしてくれるので心強い。

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(0)  2001年4月8日(日)

 クレモナは晴れ。
 ヴィオラのマニコ(ネック)を削っています。



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