クレモナ育児日記/平原公民館だより
2001-2003 by 平原睦子
トレーニングジム(フィットネスクラブっていうのか?) イタリアvs日本 (2003年7月4日)
日本のトレーニング室に入っていちばんぎょっとしたのは、マシンがみな壁のほうを向いていることだった。
トレッドミル(動く歩道?)も、ステアマスター(階段踏み)も、筋トレ用のマシン類も、どれも壁のほうを向いて、へやの内側におしりを向けている。壁の一点を見つめながら黙々と腹筋する人、張り紙(「私語は慎みましょう」)を眺めながら30分も走り続ける人・・・。
このトレーニング室は、町営の最新式の体育館の1階で、コンクリート打ちっ放しに、配管を見せた天井、南側全面ガラス張り。空調もきいている。高台にあるので、窓からは、広い運動場と、遠く町並みを見下ろす。別棟には温水プールもある。
町営なのだが隣町在住の私も行けるし、使用料は1回200円。更衣室とシャワー室も新しくて気持ちがいい。私の利用する午前中早くにはほとんど人はいなくて、受付で200円払うと、あとはがらんとしたトレーニング室ですべてのマシンを使い放題だ。
クレモナで通ったジム「TODO MODO」は私営で、会費は1ヶ月数千円(イタリアでは贅沢の部類に入る)。古びたビルの3階4階の2フロア−を、内装だけ板張りにしてあった。
四方が窓、マシン類は窓に沿って、へやの内側を向いて、隣同士もけっこう余裕をもって並べてある。中央にガラス板を載せた丸いカウンターがあって、インストラクターがカードに書き込みしたりしゃべったりしている。
マシン類は日本と微妙に違っていた。バイクをこいでいると、数メートルの床を隔てて、大股開き(太ももの筋トレ用マシン)だったりする。目が合うと気まずい。
イタリア男は、もちろんしっかり見ている。気まずいなどという発想はないだろう。体は見せるための物、そのために自分の体も鍛えておく・・・。
私の隣のトレッドミルで汗をかいた女の子が、羽織っていたパーカを脱いだときは、かすかなきぬずれの音を聞きつけるや、すぐ前にいた若いイタリア男がものすごい勢いで振り向いた。私は苦笑してしまったが、女の子は平然としていた。
おしゃべりの国イタリアのことだから、インストラクターと話し込んだり、顔見知りと世間話したり、私語だらけ。「私語は慎みましょう」などと言い出したら気が狂ったかと思われるだろう。「なぜ?」ときかれるかもしれない。トレーニングするのに他人の話し声がじゃまになるわけでもなし、べつに一人で黙ってトレーニングするのはかまわないが、しゃべりたい人はしゃべればいい。そもそも高い金払ってジムに通うのは、トレーニングのためでもあるが、社交の場でもあるのだ(イタリアではすべての場所は社交の場である)・・・。
でも私も帰国して1年4ヶ月が過ぎ、すっかり日本人に戻ったので、トレーニング室内で私語を交わす人(めったにいないが)に対しては、心の中で「私語禁止!」と思ってしまう。
日本ではトレーニング室は社交の場ではない。電車内も社交の場ではない(だから居眠りも平気、化粧を直すのも平気)。会社も社交の場ではない(身内!)。自宅も社交の場ではない(身内!)。
日本には社交の場ってないのかもしれない。見知らぬ人と偶然居合わせてあいさつし合い、少し気取ってあるいは少しきわどい会話を楽しみ、気軽に親しくなりあるいは気軽に別れて行くーみたいな場所は・・・。
会員制スポーツクラブ CANOTTIERI FLORA (2001年7月6日)
夏休みに入って子供たちは、毎日水泳教室に通っている。下の子は30分間のベビースイミング、上の子は50分間の幼児コース。
ベビースイミングは浅い子供用プールで、3、4歳児のみ、先生に引っ張ってもらったり、輪になって顔を水につける練習をしたり、ほとんど遊びだが、幼児コースの方は5歳以上小学生まで、大人用プールで、けっこうハードだ。初心者3人に先生が1人付き、背中を支えて背泳ぎ、バタ足、足からの飛び込み、もぐって目を開ける・・・子供時代かなづちだった私には、上の子が嬉々として水の中で目を開いたりしているのに驚く。
おととし、この水泳教室の貼り紙を見つけたのは、本当にラッキーだった。市営プールの水泳教室は、態度の悪い受付に「5〜6歳以上!」と断られるし、WWFのサマーキャンプも問い合わせたら「来週電話しろ」(これは「おととい来い」と同じ意味だということをわれわれは滞伊何年目で知っただろう)とたらい回し、結局年齢が小さすぎてだめ。サマースクール(夏休み中2週間ぐらい子供を通わせる)はたいてい教会がやってるみたいなので敷居が高い。
7、8月の夏休みを、たとえばお隣の弁護士一家は、1か月間リグーリア州の海沿いの別荘でこんがり焼き、8月にクレモナに戻ってきて、そのあと2週間はアルプスのホテルで山歩きしたりして過ごす。エレベーターホールに一家5人分の登山靴の箱が積んであるので、「明日からトレンティーノに出発かあ」とわかる。
平均的イタリア人といっていいスザンナんちでは、6月に1週間、サラリーマンの夫は抜きで、妻と子供2人、同じく2人の子持ちの友人とリミニのホテル、7月はやはり夫抜きでベルギーの実家に帰り(夫は仕事)、8月は夫も一緒にトスカナのホテル2週間、その後サレルノの夫の実家に2週間滞在。
20代独身(去年まで)のキャリアウーマン、パトリツィアの場合、7月に10日間おじとノルウェー旅行、8月の2週間は両親(はすでに7月から行ってる)とエルバ島の別荘。
別荘も実家もない外国人のわれわれにとって、夏休みをどうするかは大きな問題だった。うちの前の公園は夜じゅう麻薬中毒者がふらついている(夕方になるとボランティアが注射器を配っている)。旅行するにも、7、8月のホテルの値段はシーズンオフの3倍以上にはね上がる。近所のポー川の水は汚ない・・・。
途方にくれてベビーカーを押しながら町をさまよっているとき、本屋のガラス扉に、水泳教室の貼り紙を見つけたのだった。3、4歳児から! 非会員料金も書いてあるから、会員じゃなくても入れる! 興奮して帰ってきて、すぐ電話した。窓口が午前の1時間、午後の1時間しか開いてないとか、医者の健康証明書が必要とか、いろいろあったけれど、無事ベビースイミング3週間の予約を取れたのだった。
(続く)
会員制スポーツクラブ CANOTTIERI FLORA (続き) (7月31日)
初めてフローラに足を踏み入れた朝は、カルチャーショックを受けた。
申込みの建物の一階がジムになっているのは知っていたが、その建物の隣にプールがあって、あとは駐車場・・・ぐらいを予想していた。ところが、ゲスト用の駐車場(20台)の端のゲートをくぐると、木々の植えられた100台以上とめられる会員専用駐車場、その先は起伏のある広大な芝生だった。遊歩道を隔てて、蛇行するポー川と運河の合流点が目の前、遠くに対岸のポプラ林がかすんで見える。
その芝生に三々五々寝椅子を広げて、みな水着姿で寝そべって肌を焼いている。
ジムの建物から、Boccio(球技)場、テニスコートの横を抜け芝生を突っ切ると、一階がシャワールーム、二階がレストランになっている建物が見えてきて、そのこっち側が深い大人用プール、あっち側が子供プールの付属した変形プールだった。オープンカフェ風のテーブル・椅子が並んだ右手をずっと行くと、木陰の多い一角が子供遊び場、その先にバスケットコート、さらにテニスコート4面、そして数メートル低くなってビーチバレーのコートとサッカー場。
クレモナの街中は緑がほとんどないので、サッカー場の緑(芝に雑草も混じっているが)は目に染みつきそうだ。移動スプリンクラーが4台ぐるぐる回って水をまいている。うちの子供たちは水着一丁で、人っ子一人いないサッカー場を端まで駆けて行き、ゴールポストのあたりからどなる(私がどなってみろと言った)けれど、やっと聞こえるぐらいだ。
そういえば水泳教室のパンフに、開始時間30分前から入場でき、終了後は30分以内に出て行かなくてはならないと注意書きがあったのは、こういうことだったのかとやっと理解した。会員の推薦をもらい、何十万も払って、何か月、何年か待って、やっと会員になれるというのに、水泳教室の週2千円を払っただけで、プールやジムや芝生を使い放題されたら、会員が怒るだろう。
子供たちがやや大きくなって、パックツアーで旅行に行けるようになり、フローラは海辺のリゾートホテル(リゾート村、ホテルクラブ)の宿泊施設を除いたものであることがわかった。ミノルカ島でも、サルデーニャ島でもそうだったけど、各種スポーツ施設、レストラン、催し物etc。水着姿で一日中過ごし、日焼けして、食べて、しゃべって、スポーツして、夜になるとドレスに着替え、食べて飲んでダンスして・・・。イタリア人は夏の間じゅうこんなことをしてすごしていたんだなあ。日本では夏の間、何をしてるんだっけ? 海に行くのも日帰りだし・・・。
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イタリア人の疑問その2 (2001年6月24日)
「日本では路上駐車はほとんどできない。東京都区内は全域駐車禁止で、有料駐車場にとめなくてはならない。夜間はメーター式の有料駐車枠は駐車禁止になる」とイタリア人に説明していたら、「じゃあ夕食に友達の家を訪問するときは車をどうするのか」と聞かれ、こういうところだけはイタリアのほうがずいぶん”人権尊重”だよなあと落ち込んでしまったことがある。
「ふつう友達の家に客用の駐車スペースがあることなんて考えられないから(よほど大金持ちでない限り)、近くの有料駐車枠やスーパーの駐車場を捜す。夜にかかる場合は、夜までやってるのを確認して、有料駐車場に停める。
あるいは、電車で行く。
しかし日本では、夕食に友達の家を訪ねるということじたい、ほとんどない。会うときは外のレストラン(駐車場付き)や飲み屋(この場合は電車)・・・」ともごもご言ってるあいだに情けなくなってきた。
イタリアにはひどいところもたくさんあるが、「一家そろって車で友人宅を訪問し、食前酒と、ワイン付きの夕食、食後の語らいを楽しむ」といったごく基本的な人間の権利は十分に尊重されている。家は広く、食物・酒は安い、そして駐車場は・・・。
クレモナの場合、ほとんど自宅前の道路を車庫代わりに使える。市役所に住民登録したら、その書類を持って警察に行けば、住民専用駐車許可証が発行される(3千円ぐらい)。それを車内の外から見える場所に置いておけばよい。一戸建てで自分ちの車庫を持っている人は、車庫出入口部分の道路を駐車禁止に指定できる(申請するらしい)。友人が車で訪ねてきたらそこに車をとめさせればいい。
クレモナ中心部は有料駐車枠が多いが、通りを少し入れば、駐車可能な道路がたくさんあるし、駅前、バスターミナル横、町外れ(といっても中心部まで歩10分)には何百台も入れる無料駐車場がある。夜間と日祭日は有料駐車枠に無料で車をとめておける。
もちろんクレモナは、ミラノ通勤圏ぎりぎり(90km)、人口7万人の田舎町で、町の城壁(跡)外は見渡す限りの畑だ。でもおそらくミラノでも状況はあまり変わらないはずだ。友人宅で夕食(20時〜24時)のあと車に帰って、駐車違反で何万円も取られ、その後酒酔い運転で免停などといったら、イタリアの内閣はすぐつぶれるだろう。
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サルデーニャ島 (2001年6月17日)
「明日からVacanza(ヴァカンツァ)だ」と言うと、イタリア人はたいてい「海か? 山か?」と聞いてくる。親しくない同士ならそこまでだが、少し親しければ「どこの海? アルベルゴ(ホテル)か? 何週間?」まで尋ねる。質問するのも礼儀のような感じだ。われわれが昔、慎みぶかい日本人だったころは、「立ち入った質問をしてはいけないかも」と控え目にしていたのだが、こっちが質問しないと向こうからぺらぺらと「メキシコに2週間行ってくる。今は気温30℃だそうだ」「夫の母親と、私の妹もいっしょに、トスカナの海に行く。ホテルは小さいが、道路を横断せずにビーチに出られる」としゃべり出したりする。
今回「サルデーニャ島」と答えると、イタリア人の反応は少し特別だった気がする。隣の奥さん(リグーリアに別荘を持っている)は、「サルデーニャにはまだ一度も行ってないわ」と遠くを見るような目をしたし、絵画教室レオナルドで毎週毎週シャンデリアのデッサンをしているシルビオは「サルデーニャは4回行って、1回1〜2週間で島の4分の1ずつ回った。スライドもあるから見せてやる」とうちによんでくれ、何冊ものガイドブックと地図とを貸してくれた。独身の美人ドナテッラは、「いっちばん海がきれいなのは・・・それはサルデーニャよ」と声をひそめるように言った。
サルデーニャに行ってみて、イタリア人がこの島に対して抱く特別な気持ちが何なのかわかったように思う。
砂浜をちょっと掘ると、生きた2枚貝、ミミズみたいな虫(ゴカイ?)、岩場にはヤドカリ、タマキビ、透明なえび、かに、小魚。すぐ手の届くところにうにが群生している。
岩山とサボテン、ヌラーギと呼ばれる遺跡を迂回するように走る道路は、上下左右にぐにぐに曲がって、車酔いした子供を吐かすために車を停めると、足元にアリの巣、ハチ、蝶、ばった、カタツムリ・・・。
サルデーニャには数千年の歴史の間にイタリア人がきれいさっぱり捨て去ってきた自然がまだ残っているのだ。
特にクレモナはポー平原の真ん中にあり、どこまでも平らな土地の全部が、畑・果樹園・牧草地になっていて(つまり私有地)、たとえばお弁当を食べる空き地さえもない。うちではお弁当(のり弁)やパニーノ(パンにハムかサラミをはさんだの)を持ってピクニックに出かけることがあるが、街中ではもちろん食べるわけにはいかない。しかし街を出ても、畑ばかりで、森の中の空き地だとか川岸の土手なんかもまったくなく、結局街はずれのひとけがない墓地の駐車場に車を停めてお弁当を食べるはめになる。
サルデーニャに自然が残っているのは、文明化が遅れたせいかもしれないし、耕作に適さない岩山だからかもしれないが、生き物の気配のほとんど感じられない海や耕作地や街並みで生活しているイタリア人にとっては、豊かな自然が郷愁をそそるのだろう。
日本は田舎に行けば自然がまだ残っていてよかった、とつい思ってしまうのだが、これは幻想だったりして? 少なくとも6年以上前、お弁当(コンビニののり弁)持って筑波山や房総半島のほうに出かけたとき、お弁当を食べる場所にはあまり困らなかったような記憶があるのだが・・・。
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イタリア人の疑問その1 (2001年5月31日)
今まで何度か、似たような質問をされたが、十分に納得いくように説明することはできなかった。もっと正しい答え・うまい説明のしかたがあったら教えてほしい。
「日本人の若い子が、モンテ・ナポレオーネ通りで、グッチやプラダのバッグ・靴を山のように買っているのはなぜか。」
ゴールデン・ウィークの頃や7、8月の旅行シーズンにモンテ・ナポレオーネ通りを歩くと、3人に2人は日本人、それもグッチの紙袋3つにプラダの紙袋3つをぶら下げて、ブルガリの前で立ち止まっていたりする。若い男女がほとんどだ。私も昔大手町で会社員をしてたから、日本人のこういう買い物のしかたは理解できる。日本で買えば何万円もするバッグが、ミラノで半額で買えるのなら、2〜3個買おうとも思うし、家族や友人に頼まれたりもするだろう。
でもたとえば、28歳独身、OLのイタリア人女性(こっちでは珍しいキャリアウーマン)が、グッチのバッグを買うなど想像することはできない。もし持っていたとしたら、母親のを借りたに違いない。
彼女の月収は、たぶん十数万円。親元からミラノに通勤しているから、グッチのバッグが買えないわけではない。しかし彼女ならその金を結婚資金に当てようと思うのではないか。結婚しないまでも、ミラノにマンションを買おうと思う可能性がある。クレモナなら80uのマンションが700万円ぐらいで買える。ミラノなら50uが1千万円としても、ローンの返済額は賃貸より安いだろう。
おそらく日本(東京?)では不動産の値段が高すぎるために、本来は「住」にこそ回すべき金を、「衣」「食」に湯水のように使ってしまうのではないか。
もしグッチのバッグをあきらめることで、今の2倍広い部屋に引っ越せるのなら、そこに友人をよんでパーティしたり趣味のグランドピアノを置けるのなら、誰でも喜んでグッチのバッグをあきらめるのではないだろうか。
それで私はイタリア人に対し、「日本では土地が高いために、不動産は買えない。だから若い子は住居はあきらめて狭い賃貸アパートに住み、そのかわり服や持ち物に金をかけるのだ」と答える。
でもこれは一面しか説明していない。たとえばなぜ高校生がプラダのバッグをほしがるのか。ほかの子が持ってるから? マスコミがあおるから?
日本人の「横並び意識」「一億総中流意識」、みんなでけんせいし合って生きる稲作中心農業・・・こんな説明をしても、小学生から高校生までずっと同じinvictaのリュック(2、3千円)をしょっているイタリアでは、「でもなぜ高校生がプラダを?」と聞かれるだけだろう。
こっちで「高校」に通っていた夫によると、「ほかの子と同じ格好をしたがる傾向は、イタリアにももちろんある。しかしそれはジーンズに黒の中綿コート、眉ピアスなどで、けっしてブランド物のバッグではない。こっちでは階級意識が強く、高校生は『高校生』という階級であって、彼らの服装・態度・行くべき食堂、もおのずと決まる。周囲の人の彼らに対する態度もおのずと決まる」
確かに、侯爵家の令嬢アレグラが、17歳になって母親のグッチのバッグを借りたとしても、それを持って高校には行かない。彼女を侯爵家の令嬢として扱う場にしか持っていかないだろう。もしある高校生がグッチのバッグを持ったら、彼女は「高校生」という階級ではなく、たとえばビジネスマン(ヤンエグ)や良家の奥様の階級に移行することになる。高校生の入る食堂には行かないし、もし行ったとしても高校生より高い料金を請求されるだろう。丁重な扱いを受けるが、おうような支払いとチップも期待される。
こう考えると、プラダを買ってもらい、嬉々として学校に持っていく高校生なんてかわいいものかもしれない。彼らは、そのバッグを見せる世界といったら学校しかないのだ。「ブラジル大使を自宅に迎える夜会」(実際にアレグラんちで開かれた。うちはもちろんよばれたわけではなく、翌日新聞で写真を見た)に、オートクチュールのイブニングドレスとブランドのバッグが必要というわけでは全然ないのだ。
日本が、極端な金持ちも極端な貧乏もなく、みなぬくぬくと中流であり、平等であるというのは、イタリアでさんざんいやな思いをした私には、すばらしいことと映る。服装で態度を変える店員たち、知り合いなら銀行だろうがマックだろうが列の割り込みも許される・・・等々、何度心の中で”UNFAIR!”と叫んだことか。でもそれは階級社会で毎時毎分”UNFAIR!”な目に合っている人々(彼らはすでにあきらめきっているが)の言葉であり、行きずりの私が金切り声で叫ぼうと何も起こらない。
油断すると私も、まるでイタリア人みたいにこんなことを考えている。「早く機会をつかんで、この腐りきった国を抜け出し、みっちり働いて金をため、子供たちによい教育を受けさせよう。金はスイスの銀行に預け、年とったら(子供たちは未来のある国に残し)イタリアに戻ってきて、おいしい食べ物と太陽を満喫しよう。この国では金さえあれば不可能も可能になる・・・」
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さくらんぼと腸弱 (2001年5月24日)
平原夫は独身の頃、「一番好きな食べ物は?」と聞かれると「さくらんぼ」と答えていた。私は「チーズ」だったかな。今はそれぞれ「えび」と「あずき」に変わっているが。
5月になるとメルカト(青空市)の八百屋に「半キロ600円」ぐらいの値段でさくらんぼが並ぶ。オレンジやりんごがキロ100円、桃200円と比べると、とびぬけて高い初物値段だ。眺めているとおじさんが寄ってきて、"Rosso
con tanto amore"(愛の赤色)と声を張り上げる。
それを見るとすぐ、ポー公園(大洪水の後片付けがやっと始まった)の先にある農家に出かける。秋は"MELE,PERE"だった手書き看板が"CILIEGE"にかけ替えられている。
「今年初めてのCiliegeだ」
おばさんも自慢そうだ。プラスティックケースに1キロ入って約700円。
これが4日後には600円に下がり、最盛期にはキロ200円以下になる。種類もだんだんいろんなのが出回るようになる。小粒ですっぱくて、料理向きのAmarene、ピンク色の大粒の、ピンク色に濃い赤の縦線が一本入ったの、どす黒いほど赤い大粒の、オレンジがかった黄色のやや小粒の・・・。
夫がさくらんぼをあまり好まなくなったのは、数年前FAXを買ってからだった。結婚式に祝FAXを送らなくてはならなかったのだが、いつもいつも日本人の先輩んちのFAXを借りるわけにもいかない。イタリアでは電気製品は関税のせいで高く、中古品はなかなか売ってない上ばか高い。日本だったら道端に捨ててあっても誰も拾わないような旧式のFAXを、スーパーの個人売買の張り紙を見て、若い男の子から8千円ぐらいで買った。彼がもといた会社で使わなくなったFAXだそうで、電話線の配線が複雑でわからず、「同じFAXを使ってる事務所を知ってるからそこに行って聞こう」と言う彼を車に乗せて出かけた。
ちょうど農家からさくらんぼを買ってきたところだったので彼に「ひとついかが」と言ったら「いや、いらない。それを食べると下痢するから」。イタリアではさくらんぼを食べ過ぎると下痢するというのはよく知られているらしい。
夫は「湘から」(リンク集参照)を愛読する「腸弱(ちょうよわ)」である。そのとき初めて夫は自分の大好物が実は天敵に等しい食物と知ったのだ。たぶん日本では、値段のせいで、食べ過ぎるほど食べられなかったから、それまで気づかずに食べてきてしまったのだろう。
おかげで山のようなさくらんぼを前にしても、チョコとコカコーラ以外ほとんど何も食べない上の子と、腸弱の夫は、別にうれしそうな顔もせず、Mangione(大食い)と幼稚園でも評判の下の子と、生涯に下痢したのはセブ島で腸炎ビブリオになったときぐらいという私の2人だけが、口のまわりを吸血鬼のように赤黒くして、ものも言わずむさぼり食っている。
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Benvenuto Club (2001年5月14日)
風邪を引いて鼻水たらしながら、ベンヴェヌート・クラブの月例お茶会に行ってきた。先月、結膜炎のため直前にキャンセルしたので、今月は休むわけにいかない。
地下鉄を下り、日本人観光客だらけのモンテ・ナポレオーネ通りと逆方向に歩く。ときどき立ち止まりたくなるような骨董屋・画材店がふえてきたなと思ったら、ブレラ美術館、その庭園を見下ろす建物の3階がバーバラの家だった。
ベンヴェヌート・クラブはミラノ在住の英語を話す女性のためのクラブで、英国・アメリカ人が多いが、アジア・中近東その他もたくさんいる。メンバーは数百人。サブグループとして、庭いじり、ブッククラブ、料理、ゴルフ、国際結婚、ブリッジ、美術、子持ち母親、などがあり、そのほかに、各地区ごとに月一回のNeighbourhood
Coffee(ご近所のお茶の会)がメンバーの自宅回り持ちで開かれる。
2年前から会費は払っているのにミラノにもなかなか行けずにいたが、先々月初めて、ご近所のお茶会に出席してみたら、そこがすごい豪邸だった。ミラノ音楽学校の近くで、つたのからまる出窓、二十数人の客が入ってもぱらぱらとしか感じない広い応接室、書斎、子供部屋・・・。アメリカ人夫妻で、いらない雑誌をくれるというので、"ARCHITECTURAL
DIGEST" "Vanity Fair" "RELAIS
& CHATEAUX"をもらって帰って来た。
今日のバーバラもアメリカ人の駐妻(駐在員の妻)らしい。「何しにきた」という目つきの門番に「3階」と言われ、階段を上る。この時点で、前回の家は豪邸でもなんでもないふつうの家だったんだなと気づく。「豪邸」には大理石の階段と、その途中にブロンズ像!!が必要だったようだ。
バーバラが迎えてくれ、すでに来ていた4〜5人のいる部屋まで案内してくれるのだが、そこまでが遠い。玄関の間(浮世絵の複製がかかっている)、廊下、応接室(ふすま2枚分ぐらいの現代画が3枚、あっちとこっちにかかっている)、ブレラ美術館の庭園が借景になっている柱廊風ベランダ(ここにも彫像と巨大植木鉢)、壁面いっぱいに本の並んだ小サロン(インドの細密画がかかっている)、食堂、朝食の間、・・・。
アート好きだけあって、雑誌を入れてあるかごや銀の写真立て、ふちが革張りの鏡など、細かいものまでどこかふつうのと違ってかっこいい。私が「今絵画教室で手足の石膏像を描いているが難しい」と言うと、バーバラは「私は椅子、靴、花から始めた。そっちなら少しやさしい」と教えてくれた。
二十人近くが集まったがその中にイタリア人も混ざっていたので、「イタリア人でもこんなすてきなアパートを見つけるのはなかなかたいへんでしょうね」と言うと、「いや、そんなにたいへんではない。要するにこれよ」と人差し指と親指をこすり合わせるしぐさをする(お金のこと)。どうも下品だ。
別なアメリカ人に「とてもすてきなアパートだ。各部屋のアートもすばらしい」と言うと、「彼女はモダンアートが好きなようだ。私はクラシックのほうが好きだけど、モダンも、まあ、悪くない」とライバル意識むき出しの返事だった。
私は、クレモナなので例外的にミラノ中心部の「ご近所」に編入してもらった、いわばよそ者、それに夫がまだ学生/修行中の身分なので、特に若いわけではないけれど、それでも、孫が何人もいるような他のメンバーたちと競う立場にはない。「すごいですねえ」「きゃーうらやましい」と手ばなしで感心していればすむ。でも、年齢も似たり寄ったりで、主婦という立場も同じ、同じ地域に住んでいるとなったら、アパートのエリアや家具や室内装飾にまでピリピリせざるを得ないのだろう。
この私だって、自分ちに戻ってから、「あー、貧民窟!」とぶつぶつ言いながら、3年に1回ぐらいしかしないカーペットの水ぶきを始めたりしてしまった。「ご近所」のご一行様が「今度クレモナにみんなで出かけて、ストラドの博物館や彼女のご主人の工房を見せていただきましょう」と言っているのだ。
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名前の呪力? (2001年5月10日)
育児日記を書いていて、子供の名前をどうしようかといつも迷っている。子供とはいえ、自分の名前を勝手に文章に書かれたら、いやかもしれない。自分でいやと言えない年齢だからよけい、親のほうで気を使わなくちゃならないのではないか。かといって、いつまでも「上の子」「下の子」じゃ書きづらくてしかたがない。
ところで、こんなふうに名前にこだわるのは、日本人だけかもしれないと気づいたことがある。イタリアでおなかが大きいと、ちょっと親しい人なら「男? 女? 名前は?」と必ず聞く。一人目のとき、イタリアに着いたばかりで、名前はわれわれはすでに決めてはあったものの、「いや、まだ・・・」とごまかしてしまうことが多かった。生まれる前に名前を口にすることに、こんなに抵抗があるとは、とそのとき思った。
「日本では昔から、名前には不思議な力があって、他人に本名を知られると死を招くと考えられている。だからごく小さいうちは、別な名前を付けて呼んで、大きく育ってから初めて本当の名前にした」などとあやふやな知識でイタリア人に説明したりした。
でも、それは「捨丸」とか名づけていた昔々の話で、いくらなんでも江戸時代生まれではない私が、あるいは夫が、なぜ生まれる前の子供の名前を口にしづらいのか、いったいどういうふうにこのタブー感が潜在意識に埋め込まれたのか、興味のあるところだ。
われわれも2人目の妊娠の頃には慣れてきて、21週目で医者に「男」と言われてから生まれるまで、誰かに聞かれると平然として「男、名前は〜」と答えられるようになった。
もちろんイタリア人は、名前を聞かれるとうれしそうに「アレッサンドロ。女だったらアレッサンドラだけど、女でこの名前は好きじゃないから、もし女だとわかったら別な名前を考えなくちゃ」等々答える。名前は多くの場合、父母、祖父母、あるいは親戚の誰かの名前にする。よく飽きずに、マルコだのニコロだの、エレナだのと、つけ続けられるなと思うが、名前は記号の一種ぐらいに思っているのかもしれない。だからたとえばweb上でも、日本人は本名を書くことに抵抗がある(それに、人口も多いから、同名ですでに登録されてたりするのだろう)が、イタリアでは、うちのホームページアドレスのhiraharaviolinをmatteoにかえて入力してみたら、バンドでギターを弾いているというマッテオのHPにヒットした。
そういえばマッテオは男の子の名前では今一番人気だ。女の子ではキアーラchiaraをよく聞く。特にキアーラは、一瞬「ヒラハーラ」に聞こえるので、子供たちがおおぜいいる場所で夫がよく「え?」と振り返ると、金髪の小さな女の子がかたわらをすり抜けていったりする。
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絵画教室レオナルド (2001年4月22日)
去年の秋から、やっと子育てにも余裕ができてきて、毎火曜夜9〜11時の絵画教室に通い始めた。それ以前は、絵なんて描いてるひまがあったら10分でも20分でも眠りたいという状況が4、5年続いていた。
初めてレオナルドに行った日は、子供2人を寝かしつけたあと、私一人で外を歩くなんて、夢のようだと感激したものだ。いつもベビーカーを押して、あるいはまつわりつく子供の手を引きながら、しか歩いたことのないローマ広場(うちの前の公園)を、たった一人で早足で歩く! 子供の声にじゃまされないから、右手芝生奥の噴水の音がやけに大きく聞こえる。向こう側出口にいつも見かけるあやしい人影(たぶんヤク中か薬の売人)が、子連れの昼間は目をそらして離れていくのに、夜に私一人だと、かすかにだがこっちへ距離を縮めてきたことに気づく。
閉店した店の、ライトアップされているウインドーに、ところどころ通行人が立ち止まっている目抜き通りをしばらく行き、一本裏道に入ると、角がレオナルドのある建物だ。これも少し荒れているけれど、一応名のあるpalazzo(宮殿)らしい。黒い木造のがんじょうな巨大ドアは、見上げるほど高く、その一部だけ通用口のように開く。中庭も柱廊も、壊れたのを修理もしていない。レオナルドは1階の3へやを借りていて、最初のへやは事務室、次が教室、奥が石膏像やキャンバスや掃除道具などの物置になっている。天井高は6メートルぐらいあるだろう。
教室といっても、学校というわけではなく、芸術家集団レオナルドが正式名称だ。先生(マエストロ)はまだ若いジャコモ、生徒は10人前後。火曜夜は初心者中心で、デッサン・水彩・油彩・アクリル、なんでも勝手に描いている。ほかの時間帯、ほかのクラス(肖像画、陶器絵付け、風景画、だまし絵など)もある。
日本の絵画教室では絶対にありえないと思うが、2時間の間おしゃべりが絶えることはない。たまに偶然あちこちの話がいっせいに終わって、教室がしんとすると、私など「なんかあったのか」と頭を上げて見回してしまう。もちろんすぐ、ごく自然に、おしゃべりは再開される。日本では照れたくすくす笑いが起こり、英語の言い回しで「頭上を天使が通った」だのと言わずもがなのことをしゃべり出してしまいそうだが、イタリア人はおしゃべりに関して緊張感など無縁なので、おしゃべりが途絶えても、「自分がしゃべるいい機会」と思うだけ。はっとしたりするのは私だけだ。
前回のとき私が隣の席のシルヴィオに、「ホームページ作った。でも日本語なのでイタリアのコンピュータでは読めないだろう」と話したら、「どんな内容なのか」と聞くので、「Natale
con i tuoi とか」と言うと、みんな口々に、「ことわざを教えてやる」「クレモナ方言のことわざを知ってるぞ」。私は足の石膏デッサンをしていたのだが、その紙の裏に書いてもらった。
"Natale al fuoco, Pasqua al gioco."
(クリスマスは火のそばで、復活祭は遊びに行く)
"Rossa di sera bel tempo si spera."
(夕焼けの翌日はいい天気)
"Impara l'arte e mettila da parte."
(技術を学んだら、自分の一部とせよ)
「あまり思い浮かばないが、もしあったら今度教えてやる」とみんな言う。日本では来週か遅くとも再来週だが、イタリアでは、1年後に「ところでいいことわざがあった」と言われるのも十分考えられる。
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補習校入学式 (2001年4月18日)
土曜日の補習校の入学式は、校長挨拶、新入生呼名、総領事挨拶、と純日本的だったが、「集まりが悪いので少し待ちましょう」と15分遅れて始まったのがイタリア的だった。
私は古本市で見つけた雑誌「VERY」とかを見て、「PTA用の紺のスーツ買わなくちゃ」と去年から騒いでいたのに買えず、パンツとジャケットだったが、他の父兄もけっこうカジュアルだったし、子供たちも(女の子はグレーのワンピースとかおめかしだったけど)ふつうのジーンズ・ジャンパー等が多かった。イタリア人の父親に日本人の母親の場合でも、父親はコーデユロイのスーツ、母親は皮ジャンだったりする。
うちの子の幼稚園の送り迎えの親たちはドレッシー過ぎるのではないかとあらためて思う。イタリアには入学式など存在しないから想像するしかないが、学校の集会やフェスタの例からいって、半数以上は上下黒、結婚式みたいな服が1〜2割、キャリアウーマン風が2〜3割、カジュアルは(肩身の狭い思いをして)1割以下だろう。
ミラノは都会だから、アメリカ化が進んでいるのかもしれない。クレモナが保守的なのだろう。
日本人学校にはこの2〜3年、夏の古本市と冬の「北イタリア日本人会フェスタ」に行っているので、うちの子も校庭や体育館でわがもの顔で遊び呆けている。新しい場所を怖がる次男と違い、長男はどこでも後先見ずに飛び込んで行き、おもちゃはいじくり回す、他の子になれなれしく寄っていく、帰ろうと言うといやだと言って泣く。誰に似たのかと夫と罪のなすりつけ合いをする。
初めてここの古本市に行ったとき、小さい子連れの母親が”Non
toccareよ”とか”Vieni qui."とかイタリア語で言っているので、奇異な感じを受けた。ちょっと外国かぶれ?
と思ったりした。当時うちでは上の子がまだ3歳で、ほとんどしゃべれなかったから、こういうことにもうとかった。今では私がこの母親の立場なので、よくわかる。
こっち生まれの子供で、現地幼稚園に通っている子は、幼稚園でしょっちゅう言われるイタリア語の言葉「さわるな」「こっち来なさい」から覚えてしまうのだ。日本語で同じことを言っても反応が鈍い。そして母親は、いつもほかのイタリア人の手前、「ここで注意しなくちゃ」と思うと、「ほら、注意してますよ」とアピールするためにも、イタリア語で言うようになる。
日本人学校内なんだから日本語で言えばいいものを、私も子供に、”pipi(おしっこ)は?”
”No,stai seduto.(だめ、すわってなさい)"と言っている。ふつう日本語で叱るのは家の中だけなので、日本語で言うとしたら、「トイレ行ったのか」「すわってろ」と言ってしまうだろう。私の場合、かえって日本人学校内ではイタリア語で言うほうが無難かもしれない。
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Natale con i tuoi, Pasqua con chi vuoi (2001年4月11日)
明日から学校は1週間のPasqua(パスクァ=復活祭)休暇に入る。長男のロッカーをいっしょに使っているエステルは、1日早く今日から、たぶんフランスに帰ったのだろう。ロッカーはからっぽだった。いつも置きっぱなしになっている食べかけのフォッカッチーノ(フォッカッチャの小さいやつ。学校への通り道のパン屋で1枚300リラ=20円で売っている)もなくなっていた。
次男は結膜炎で昨日今日と幼稚園を休んだので、2日早くPasqua休暇に入ってしまったようなものだ。この2日、兄のいないつかの間の一人っ子状態を満喫している。
"Natale con i tuoi, Pasqua con chi vuoi" というのは、友人のパトリツィアに「ナターレ(クリスマス)休みはどうするのか」と私が聞いたとき、「いつものようにスイスのおばあちゃんちですごす」と、この言葉を教えてくれた。クリスマスは身内ですごし、パスクァは好きな友達とすごしていいという意味らしい。
パスクァの頃は気候もよくなってくるし、海辺に遊びに行くにも、アルプスに最後のスキーに行くにも、いい時期だ。うちもどこかに行きたいと思っていたけれど、今年は上の子の補習校幼稚部(ミラノ日本人学校内)の入学式が土曜日にあるため、遠出はできない。日帰りで出かけられるような子供遊び場・公園等は行き尽くしてしまった。
いつも日曜に出かける、車で10分ほどのPo(ポー)公園は、去年秋のポー川の大洪水(数年おきにある。そのために川沿いを公園やキャンプ場にしてある)以来、すべり台は流されたまま、サッカー場の柵は倒れたまま、高い木の枝にごみが引っかかったまま、放置されている。どうせ冬の間は人も来ないし・・・とクレモナ市も手をつけないのだろう。昔の私なら、「町でほぼ唯一の公園なのに、怠慢だ」と怒ったかもしれないが、イタリアに住んで6年目ともなると、腹も立たない。むしろ、てきぱきと復旧工事なんかされたら、「どうしたんだ? ここにもマフィアの手がのびたのか? それとも有料化への布石?」とこわがって、しばらくは近づかなくなるような気がする。
3歳と5歳の騒ぎ盛りの男の子2人を、学校も遠出もなしで1週間・・・は考えるだけで恐ろしい。どこかスポーツクラブ、子供水泳教室はないのか、と毎年今ごろの季節になると捜し始め、結局、高すぎるとか、保証人が必要とか、6歳から、とかで諦める。
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幼稚園の送り迎えに何を着ていくか (2001年4月9日)
Asilo(アジロ=幼稚園)の送り迎えは気が重い。4ヶ月の身重でイタリアに来て、ほぼ5年間、妊娠中か乳飲み子を抱えていた私には、洋服といったらマタニティか、部屋着みたいのしかない。実をいえば妊娠前だって、チノパンにトレーナーとかだったから、今イタリアで着るものに困るのは当たり前なのだ。
だいたいイタリア人は、着るものに異様に手間と金を使う。この春はあずき色の皮コートがはやってるらしく、1回の送り迎えに5人ぐらいは、この色の皮コートを見かける。去年の流行は藤色の皮コートだった。不思議なことに、今年はまったく1人も、藤色の皮コートを見かけない。みんな去年買ったのをどうしちゃったのか。そんなに毎年買い換えるほど安いものではないし、3〜5歳児の母親たちがふんだんに金を持っているとも思えないのだが。
孫を連れてくるおばあちゃんたちは、ぴしっとアイロンのかかったスカートにブラウス、今の流行ではないにしろ当時は高かったろうと思わせるジャケット、その上に冬なら必ずミンクの毛皮のロングコート。
いつのことだったか、夫が迎えに行ったとき、前を演奏会にでも行くような格好の、それも聞きに行く方じゃなく演奏者だろうと思わせるような派手なドレスの女性が歩いていて、それが同じ幼稚園に入っていく・・・孫を迎えにきたおばあちゃんだったそうだ。
去年まで上の子と同じクラスだったアレグラは(クラスは3〜5歳児が混ざっている)、自宅に遊びに来いとよばれて初めて知ったのだが、侯爵家の令嬢だった。
「この呼び鈴の上にある冠みたいなマーク、何なんだろう。会社かなあ」
うちに帰って辞書を見て、名前の前のM.seが「侯爵」の称号だとわかった。さいわい当時3歳の長男は、侯爵家で粗相もせず、おやつをごちそうになって帰って来た。
このアレグラのお母さん、つまり侯爵夫人が、いつも流行の最先端の格好で子供を迎えに来る(といっても毎日ではない。たいていの日は黒人のメイドが送り迎えだから)。プラダの新作の上下に、雑誌で見たばかりのバッグとか。流行にまるでうとい私でも、ELLEの表紙の服だぐらいはわかる。侯爵家は観光地図にも載っている「宮殿」で、幼稚園からは300メートルほどしか離れていないのだが、侯爵夫人はBMWのオープンを運転し、助手席にはアレグラが立ち上がって、うちの子たちに手を振って通り過ぎる。
こういうのを見てると、私が何を着ても無駄だよなあと思ってしまい、結局メルカト(青空市)で買ったトレーナーになってしまうのが情けない。
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