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その日、クライスは夜更けの職人街を歩いていた。夏とはいえ、この時間になるとさすがに通
りは暗い。しかもこの辺りの住人はみな朝が早いため、繁華街と違ってこの区画はすでにひっそ
りとしていた。
……マルローネさんは……、どこに行ってしまったのだろうか?
そう考えながら、クライスは、先ほどイングリドに言われた言葉を思い出していた。
「お願いがあるのよ、クライス」
いつものように、図書館で調べ物に没頭していた彼を見つけ、彼の担任教師は唐突に言った。
「何でしょうか、イングリド先生?」
クライスは椅子から立ち上がると、丁重に言った。
「私に何か、お手伝いできることがありますか、イングリド先生? 先日先生に依頼された調合
技法に関する古代文献の翻訳作業でしたら、各種項目別に注釈を付記して、すでに全文の八割を
作成済み、ですが?」
イングリドは首を横に振った。
「その件だったら、まだ締め切りはずっと先よ、大丈夫。あなたの仕事は、信頼しています。せ
っついたりする必要なないと思っていますよ」
クライスは、軽く眼鏡の位置を直すと、その薄く形の良い唇の端を軽く引き上げた。
「……恐縮です、先生。では、何を……?」
イングリドは、ふぅ、とため息をついた。
「ねぇ、あなた。ここ数日の間に、マルローネの姿を見たかしら?」
クライスは、その名前を聞いて、一瞬とても……心臓が口から飛び出るほどに……驚いたのだ
が、すぐさま冷静さを装うと、イングリドに言った。
「マルローネさん、ですか。……いいえ。私の行動圏内に、あの人はあまりいらっしゃらないよ
うですから」
イングリドは、さらに深いため息をついた。
「そうなのよ……。あの子がいつも図書館にいてくれるようだったら、どんなにか……。まあ、
いいわ。とにかく、火急の用事なのです。あの子に、明日朝一番の授業の前に、私の研究室に来
るよう、あの子の工房に伝えに行ってはくれないかしら、クライス?」
クライスは……、さらに驚いて、今度は口から飛び出した心臓が、机の上でダンスを踊ってい
るかのような状態に陥ったが、すぐに冷静さを装い、イングリドに言った。
「……いいでしょう。先生のご命令とあれば、お断りする訳にもいきません」
イングリドは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。……ごめんなさい。本来だったら、私が行けば良いのでしょうけれど、今大切な
用事があって、手が離せないのよ。できれば、伝えるだけではなくって、明日もあの子を連れて、
朝の授業の前に研究室に連れてきてはくれないかしら? あなたにも関係のある話ですし」
クライスは、ふむ、と言って少々考え込む振りをし、それからもったいぶった調子でゆっくり
と両方の口端を引き上げると、
「他ならぬ先生のお申し出です。おまかせください」
と言って、微笑んだ。
イングリドの伝言を受けて、彼は、先ほどマリーの工房を訪ねたところであった。クライスは、
工房の扉の前に立つと、こつこつと礼儀正しくノックをした。しかし、返事はなかった。
しん、とした気配。
工房の窓はぴったりと閉じられ、灯りも消えていた。クライスは、首を軽くひねると、大きく
ため息をついた。が、やがて首を大きく横に二、三回振ると、気を取り直してローブの裾を翻
し、寮へと戻りかけた。
石畳は月明かりに濡れた様に輝き、ときおり眠たげに、猫の鳴き声が細く長く、通りを舐めて
行った。クライスは、コツコツと響く自分の足音を頭の奥底に刻みつけながら、今度はゆるく長
くため息をついた。
不在、か……。まったく、いつものことながら、あの人は……うわっ!
そんなことを考えながら歩いていたクライスは、ふいに向こうから千鳥足でやって来た酔っ払
いに、肩先をぶつけられた。
「あぶねぇな、兄ちゃん、気ィつけろ! ヒック!」
その冒険者風の身体の大きな中年の男は、たっぷりと黒い髭をたくわえた顎をしゃくり、クラ
イスを焦点の定まらない目で見た。よく見ると、鼻先も頬も赤く、首もぐらぐらと揺れている。
相当酔っているらしい、と瞬時に悟ったクライスは、おとなしく頭を下げた。
「……すいません」
クライスが言うと、男は、ふん、と言って、そのままふらふらと去っていった。
……まったく。酔っ払いというのは、最悪の人種だな……。
そう思って肩をすくめたクライスの目に、突然見慣れた人影が飛び込んできた。その人物は、
クライスの目の前の井戸端に腰掛け、傍らにいた男に、その白い腕を巻きつけるようにして抱き
ついたところだった。あ、とクライスは思った。その瞬間、
「マルローネさん……!」
考えるよりも先に、その人の名前を呼んでいた。呼んでしまってから、クライスは、しまった、
と思った。名前を呼ばれて、マリーは男の肩越しに、自分をひょい、と見た。そしてたちどころ
に口をひん曲げた。
「げ。クライスぅ〜!? あんら、何でここにいるのよ〜?」
クライスは、内心冷や汗をかきながら、慌てて、ふん、と言って、いつものようにあきれたよ
うな顔でマリーを見ると、かけていた眼鏡の位置を直した。
「……イングリド先生からの言づけをいただいて、あなたの工房に出向いたのですが……不在の
ようでしたので。……しかし、まあ、特別試験を目前にして逢い引きとは……さすがはアカデミ
ー史上最低の問題児の方は、素行も問題児でいらっしゃるようですね?」
マリーの傍らにいた男は、慌てた様子で言った。
「あ、ちょ、ちょっと待ってくれ! オレは別にそんな……今、マリーが酔っぱらって井戸に落
ちそうになったから、助けただけだぜ?」
クライスは、男の声の調子が思いの他素直な印象であったことに驚いた。それでも彼は、その
言葉に嘘がないかどうか、男をじろじろと観察した。
一見して、この街でよく見かける、冒険者風の若い男だった。年のころは……、思ったよりも、
ずっと若い感じに見えた。もしかしたら自分と同じくらいの年齢か、あるいはもう少し下かもし
れない。薄暗い通りで、顔の詳細はよく分からなかったが、快活そうな大きな目をぱちくりとさ
せながら、こちらを見ているその表情は素朴で、「井戸に落ちそうになったところを助けた」と
いうのも、あながち嘘ではなさそうだ、とクライスは考えた。
「……冒険者、ですか。なるほど……」
そう言って、思わず安堵の笑みを浮かべたクライスであったが、マリーは彼のそんな顔に気分
を害したらしく、大声で怒鳴った。
「ら〜に〜よ、クライス! あんた、あたしの友達に何か文句でもあるの!?」
クライスは、慌てていつものように慇懃無礼に笑ってみせた。
「いえいえ。いかにも、あなたのような低レベルの方がつるんでいるのに、ふさわしいお友達で
すね?」
マリーは井戸端から、たん、と立ち上がると、つかつかとクライスに歩み寄って来た。
「も〜ぉっ! あったまきたわ! あんた、あたしに嫌味言うだけじゃ足りなくて、あたしの友
達まで馬鹿にする気!?」
そう言って、マリーはクライスに平手打ちをくらわせようとした、瞬間に、クライスはその手
をひょい、とよけ、マリーはつんのめって石畳の上に転倒した。
「い、いった〜い! もう、馬鹿! よけんじゃらいわよ! この嫌味メガネッ!」
クライスは、淡々と言ってのけた。
「……大分、お酔いになっていらっしゃるようですね、マルローネさん……。やれやれ。明朝一
番に、イングリド先生が研究室にあなたをお呼びになっているというのに……来られますか?」
マリーは口をへの字に結んだまま、立ち上がった。
「わ〜かったわよ! 話はそれだけ? じゃ、さようなら、クライス!」
そう言って、マリーはよろよろと歩き出したが、がくん、と膝を落としかけ、今度はクライス
の胸に鼻からぶつかった。クライスはそのマリーの肩をつかむと、大きくため息をついた。
「……帰れますか? 何だったらお送りしますよ? あなたに万が一のことがあったら、私の飛
び級もフイになりますしね……?」
マリーは、クライスの手を振りほどいた。
「か・え・れ・る・わ・よッ! いいから、放っておいて!」
冒険者風の男は、慌てて二人の間に割って入った。
「……クライス、とかいったっけ? ま、今日のところは、マリーはオレが工房まで送って行く
からさ、心配しなくても大丈夫だよ?」
マリーはクライスの顔をにらみつけて、こう言った。
「とにかく! あんたの手なんか借りらくないのぉ〜! いいから帰って、クライス!」
クライスは、大きくため息をつくと、傍らの男の顔を見た。
「……そう、ですか。それでは、マルローネさんを頼みましたよ、えっと……あなたのお名前は?」
男はクライスに言った。
「オレはルーウェン。ま、見ての通り、冒険者だ。マリーには、ちょくちょく雇ってもらってて
ね」
クライスはうなずくと、力なく踵を返して帰って行った。
2
翌日の朝。
クライスは、とても早く目覚めた。朝靄がただようアカデミーの寮内の部屋のベッドで、彼は
軽く伸びをした。
ふいに、フローベル教会の、朝一番の鐘が鳴り響いていった。クライスはため息をついた。
……まだ、明け方、か。
それから彼はもそもそとベッドから抜け出すと、顔を洗い、服を着替え、身支度を整えた。彼
は机の前に座り、時間を潰すために読みかけの本を開いた。読み進めていく内、彼は別の本を参
照する必要にかられ、椅子から立ち上がりかけた。その拍子に、机の上に置いてあったマリーの
玉飾りが、ごろん、と転がり、机から転がり落ちそうになった。
「うわっ!」
そう言って玉飾りをつかまえようとした、瞬間に椅子から転がり落ち、クライスは、玉飾りを両
手で抱えたまま、床に転倒した。
……まったく、馬鹿げている。
彼は、ローブの埃をはらうと玉飾りを机の上に置いた。
……これを、返してしまおうか?
クライスは、ため息をついた。
……こんなものがあるから、毎日あの人のことばかり、考えてしまうんだ……。
*
数時間後。
クライスは、マリーの工房の扉を礼儀正しくノックした。
……返事がない。と、いうことは……まだ、あの人は眠っているのだろうか?
クライスは、小さくため息をつくと、再度、今度は先ほどよりも強く扉をノックした。やはり、
返事はなかった。クライスは、口端を横に引き結んだ。
……それとも、不在、なのか……? そういえば、夕べは大分酔っていたみたいだし……まさ
か、あの若い冒険者の男の家にでも行ってしまったのでは!?
「マルローネさん!」
クライスは、思わず扉を開けた。鍵は掛かってはおらず、扉はあっけなく開いた。
……無用心な……。
クライスは、そう思いながら部屋の中を見回した。
調合用の機材が乱雑に散乱したその部屋は、とても一人暮らしの若い女性のそれとは思えなか
った。クライスは、思わず顔をしかめた。
……ひ、ひどい……。乱雑なのは見慣れていたが、よく見ると、硬度が異なる機材を、隣同士
に密接させて置いてしまっている……。ヒビが入ったり、欠損してしまったら、どうするのだろ
う? ……雑な人だな……。
そう考えながら、クライスは工房の中に入った。隣の寝室に続く扉は開けっ放しであった。ク
ライスは、おそるおそる中をのぞいた。
「マ、マルローネ、さん……?」
寝室の壁際に、木製のベッドがあり、彼の位置からは、布団からはみ出した見事な金色の巻き
毛が見えた。クライスは、ほっと胸をなでおろした。
「起きてください、マルローネさん! お迎えに上がりましたよ? イングリド先生がぜひにと
の仰せでしたので……。マルローネさん?」
ん〜、と言ううなり声がして金色の髪の毛の塊がもぞもぞと動き、ふいに、くるん、とマリー
の顔がこちらを向いた。
しかし、目は閉じられたまま、口元も不愉快そうにへの字に結ばれている。クライスは、少々
たじろぎながらドア口から怒鳴った。
「起きてください、マルローネさん! あなたをお連れするよう、イングリド先生に言付かった
ため、こうしてこの私が、わざわざ足を運んでいるのです。さあ、早く!」
しかし、マリーは不愉快そうに、もぞもぞとベッドの中で動いているだけである。クライスは
ため息をついた。
「マルローネさん! 私だって、好きで来ている訳ではないのです! さっさと起きて、アカデ
ミーに来てください!」
「……あと、五分〜……」
マリーが、目を閉じたままぼそりと言うと、再び、もぞもぞと向こうを向いてしまった。
「ダメです! 今! すぐに! 起きてください!」
クライスが怒鳴ると、マリーは、う〜ん、と言って向こうを向いたまま、布団の中をうごめい
た。上掛けから白い両肩がのぞき、クライスは思わず息を飲んだ。しかし、マリーはそんなクラ
イスの様子はおかまいなしに、眠そうに言うのみであった。
「……起きる、わよぉ〜……。怒鳴んないでぇ、アタマに響く〜……。う〜ん、夕べは飲みすぎ
た、かな〜?」
そう言って、マリーはゆっくりと起き上がりかけた。クライスは、思わず目線をそらし、下を
向いた。
そのとき。
彼は、自分のつま先の前方に落ちている、黒い布地に気がついた。
……何だ、これは……?
彼は、メガネの位置を直すとしげしげとそれを眺め、急にそれの正体に気がつき、瞬時にして
耳まで真っ赤になった。
……こここ、こ、こ、これって、こ、これは……!?
床に落ちていたのは、マリーがいつも身につけている、黒いビスチェだった。クライスは、混
乱しながらベッドの中のマリーを見た。マリーは、白い両腕を伸ばし、豪快に伸びをすると、金
色の巻き毛をかき上げ、もそもそと起き上がろうとしている。上掛けが徐々にずり落ち、白い肩
や背中が彼の位置からも剥きだしになっているのが見えた。クライスは、絹を裂くような悲鳴を
上げた。
「お、お、お、起きないでくださいっ! マルローネさん!」
マリーは、ゆっくりと顔をクライスのほうに向けると、怪訝そうな顔をして、頭をぼりぼり掻
きながら言った。
「……何よ? 起きろっつったり、起きるなっつったり……、あんた、朝っぱらから、あたしに
ケンカ売ってるわけぇ〜?」
クライスは、くるり、とマリーに背を向けると、額の汗をぬぐった。
「と、と、とにかく! 着衣を何とかなさってから来てください! わ、私は、隣の部屋で待っ
ていますので!」
*
三分後。
何とか心臓の動悸が収まってきたクライスの後ろで、声がした。
「お待たせ! 行くわよ!」
「マ、マルローネさん! ……もう、支度は、よろしいのですか?」
クライスがどぎまぎしながら尋ねると、マリーは不愉快そうに、水差しからどぼどぼと盥に水
をあけ、じゃぶじゃぶと顔を洗った。それから顔を上げ、タオルでごしごしと拭いた。
「さ、行きましょう!」
マリーが言うと、クライスは、たじろぎながら尋ねた。
「あ、あの……?」
マリーは、怪訝そうな顔で言った。
「何よ?あたしを呼びに来たんでしょ? だったら、何で、行こうって言ってるのに、そんな顔
してるのよ?」
クライスは、慌てて首を横に振った。
「い、いえ! たいしたことではありません。……行きましょう!」
クライスは、そう言って扉を開けた。マリーは、無言で彼の横をすりぬけ、外に出て行った。
慌てて後を追いながら、クライスは考えた。
……女性というのは、外に出るためには、支度に時間がかかるものではなかったのか? アウ
ラ姉さんは、化粧だ、服だ、と、いつも一時間以上は出かけるのに手間をかけているというのに
……。
横を向くと、マリーは寝起きの機嫌の悪い顔のまま、すたすたと歩き続けている。クライスは
服のポケットに入れたマリーの玉飾りをそっと握り締め、苦笑した。
……いつ、返そう?
ふいに、マリーが言った。
「悪かったわね」
「え? 何が、ですか?」
クライスが、慌てて言うと、マリーは彼の顔を見た。
「来たくもないのに、わざわざ先生の命令で、あたしのことこんな朝っぱらから呼びに来て、面
倒くさかったでしょ?」
クライスは、口元を引き締めた。
「いえ……。仕事、の、ようなものですから」
マリーは、ふん、と言った。
「もう、この手のことがあっても、あたし、今度からちゃんと先生の用事は自分で果たすから。
あんた、頼まれたって、いちいちここに来なくったっていいわよ?」
クライスは、平静を装って微笑んでみせた。
「ええ。私も、それを願っています」
その彼の顔を見て、彼女は露骨に嫌な顔をした。
クライスは、そっと……、ポケットの中で握り締めていたマリーの玉飾りから手を放した。
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