1
クライスが彼女に初めて会った場所は、アカデミーの廊下だった。彼は、図書室でちょうど探
していた書籍を見つけ出し、寮へ戻る途中だった。
複数の友達に囲まれた彼女は、そのたっぷりとした金色の巻き毛を揺すって、快活におしゃべ
りをしていた。アカデミーの廊下には、夕暮れの黒茶色の光線が射し込んで来ていた。光は女生
徒たちのにぎやかな話し声とともに、白い石造りの廊下を明るく満たしていった。クライスは、
ふとその情景に目を留め、やがて不愉快そうにつぶやいた。
「……騒々しい」
その瞬間、彼女がくるりと向きを変えてこちらを向き、勢いよく彼にぶつかった。彼の手にし
ていた数冊の本がばさばさと音を立てて廊下に散乱し、彼女は目を大きく見開いて彼に謝った。
「ぅわっ! ごめんなさい!」
そう言うと同時に、彼女はかがみ込んで本をかき集めだした。クライスが呆気に取られて見て
いると、彼女は本についた埃をばんばんとはたき、はい! と言って彼に手渡した。そのとき。
「マルローネ! そこにいたのですね、すぐに私の研究室に来るように言ったのに!」
背後から落ち着いた女性の声が響いてきた。マルローネ、と呼ばれた彼女は、顔を引きつらせ
た。
「やばっ! イングリド先生! ……またお説教だわ〜〜〜〜! じゃあね、みんな、そういう
ことだから!」
彼女は、友人の少女たちにそう言ってくるりと方向を変えると、ばたばたとにぎやかな足音を
立てて走り去っていった。それとともに、こん、と廊下の上で何か堅い物が跳ねる音がした。ク
ライスが音の出所に目を向けると、それは綺麗な青い色をした大きな玉飾りだった。クライスは、
何の気なしにそれを拾い上げると、彼の頭の中に、先ほどの風景の残像が沸きあがった。残像は
彼女の後姿だった。長い金色の髪につけていた丸い髪留めが、軽くぶつかりあいながら揺れてい
た。
「ああ、あれか……?」
クライスがつぶやくと、そこにこつこつと靴音を立てて彼の指導教員が現れ、困り顔で言った。
「ああもう、マルローネったら、逃げ足だけは速いんだから……ふぅ、困ったものね……」
クライスは言った。
「イングリド先生。……どうか、なさったのですか?」
イングリドは、クライスの顔を見て苦笑した。
「クライス! ……いえ、何でもありません。ただ……、マルローネがつかまらないものだから
……」
クライスは銀縁のメガネの位置を直すと、反対の手に持っていた玉飾りをそれとなく後ろに隠
した。
「ああ、マルローネさん、ですか。例の、特別試験を課された方ですね……?」
イングリドはため息をついた。
「ええ、そうです。……あの子ったら、自分の置かれた状況をまったく分かっていないのよ。ダ
ラダラ過ごしていたのでは、あっという間に時間が過ぎてしまうというのに……。少しでも高度
な研究に挑戦するように、と釘を刺しておこうと思ったのですけどね……あの子ったら、私の気
配を察知する天才だわ。ちっとも、つかまらなくって……。ああ、そうだわ、クライス!」
イングリドは、急に目を輝かせた。クライスは、その顔に少々気圧されながら言った。
「……な、何でしょうか、イングリド先生?」
イングリドは、両手を胸の前で合わせると、にこにこ笑いながら言った。
「いいことを思いついたわ! あなた、マルローネの特別試験の面倒を見てくれる気はないかし
ら?」
クライスは、少々怪訝な顔をした。
「面倒、といいますと……?」
イングリドは言った。
「ときどき彼女の工房に行って、ちゃんと勉強をしているかどうか、様子を見て、私に報告して
欲しいの。それとなく勉強を見てやってくれたら、なお助かるわ。……本当は私がもっと様子を
見てやれば良いのでしょうけど……あの子、私が近づくとあの通り逃げてしまって、そうちょく
ちょくは見てあげられないのよ」
クライスは、明らかに憮然とした表情をした。
「……イングリド先生のご命令ではありますが……、私もより高度な調合技法を研究するのに手
一杯で、そんな時間は取れそうにありません。他にもっと適任の方がいらっしゃるのでは?」
イングリドは微笑みながら言った。
「あなたが適任だわ、クライス。アカデミー首席のあなただから、こうしてお願いしているんで
す。他人の研究を支援するのも、研究者として、いろいろと勉強になるものよ。それに……この
間のあなたの飛び級の申請だけれども、もしマルローネが無事に卒業できたならば……あなたに
は研究の指導者としても素晴らしい資質がある、ということで、特別に認めてもかまわないわ」
'首席'、'飛び級'、といった言葉を聞いて、クライスの頬が、一瞬、ぴくりと動いた。
「……そうですか。そういう事情ならば、いいでしょう。……お引き受けします、イングリド先
生」
そう言って、クライスは、形の良い細い顎を少しだけ後ろに引くと、両方の口端を引き上げて
薄い笑みを浮かべた。
*
カツンカツン、と規則正しい靴音を立てて去って行くクライスの足音を聞きながら、イングリ
ドはつぶやいた。
「……うまくすれば、一石二鳥ね……」
イングリドは、長い巻き毛をかきあげると、腕組みをした。
「マルローネの試験も心配だけど、クライス、あの子も問題があるものね。……優秀だけど頑な
で、他人を見下す癖があるところをもう少し何とかしてもらわないと……。マルローネみたいな
子と関わったら、少しは人当たりが良くなるかもしれないものね……?」
2
数日後の、晴れた朝だった。
「たしか、この工房だな?」
クライスが彼女の工房の前で、そうつぶやいた。その瞬間、
「きゃあああっ! マリー! 煙、煙が上がってるわ〜!」
鈴を振るような声がして、工房の窓からは、もくもくと嫌な色の煙が沸きあがった。
「だ、大丈夫よ、シア! これぐらい、だ、だいじょっ、うっ、ゲホッ、ゴホッ!」
……爆発事故、か?
クライスは慌てて工房の扉をノックした。
「はあい、どなた!」
声と一緒に、煙にやられて目に涙を浮かべながら、彼女、マリーは工房の扉を開けた。クライ
スはマリーに言った。
「初めまして。あなたがマルローネさんですね? あのアカデミーの問題児の」
マリーは、きょとん、とした顔で彼を見ている。クライスは、言葉を続けた。
「私はクライス・キュールといいます」
マリーは目をぱちぱちと瞬かせ、首をひねった。
「クライスぅ〜? ……はて、どこかで聞いたような名前……」
クライスは、小さくため息をついた。奥のほうを見ると、たいした機材も揃ってはいないし、使
っている素材も、ごくごく基礎的なものだ。クライスは安堵の笑みを浮かべた。
……見たところ、ごく初歩的な調合でこんな爆発を起こしたようですね。特に危険なものを扱
っているようには見えないから、処置を施す必要もないか……。しかしまあ、このレベルの調合
でこんな不始末をしているようでは、先が思いやられるというものだ……。
クライスはそう考えながら、彼女の顔を見た。
「おや、私の名前を知らないとはさすがに過去最低の成績だけはありますね」
マリーは、明らかに怒った顔をしてクライスに言った。
「な……! 何なのよ! あんたは!」
クライスはメガネの位置を直すと、口元に笑みを浮かべた。
「フ……。あなたとは正反対の位置にいる男ですよ。ま、おいおい分かることでしょう。……で
は」
そう言って、クライスは工房を後にした。後に残ったマリーは、こぶしを握り締めたまま、ふ
るふると震えている。シアは、慌てて彼女に言った。
「マ、マリー……顔が真っ赤よ、どうしたの?」
マリーは怒りで声を上ずらせながら言った。
「なんか……無性にムカムカしてきたわ!」
シアは尋ねた。
「今の男の人、誰?」
マリーは、どさっと工房の床に座った。
「クライス・キュール、だって!」
シアは優雅に横髪を撫で付けると、微笑みながらマリーに言った。
「知り合いなの?」
マリーは、失敗した調合品の産業廃棄物を、がしゃがしゃと乱暴に片付けながら言った。
「初対面よ!」
シアは、そのマリーを手伝いながら言った。
「……何の用事で来たの?」
マリーは、吐き捨てるように言った。
「知らない! 人に嫌味を言って回るのが趣味なんじゃない!?」
「マリー……」
シアは、微笑んだ。
「なあに?」
マリーがまだ、憮然とした表情のままシアに聞くと、シアは吹き出した。
「鼻の頭、煤で真っ黒よ、マリー……?」
そう言って、シアはポケットから白いレースのハンカチを取り出すと、そっとマリーの鼻の頭
をぬぐった。
*
研究室では、イングリドがクライスに尋ねていた。
「それで、マルローネの様子はどうだったのかしら、クライス?」
クライスは言った。
「はい。……さして高度な調合でもないのに、失敗して爆発を起こしていました。正直言って、
先が思いやられますね」
その言い方に、イングリドは深いため息をついた。
「ねえ、クライス。あの子は確かに調合は荒っぽいけど、でもね、変に勘だけはいいところがあ
るのですよ。だから、あんまり細かいことは言わずに、研究をそれとなく見守ってくれると、助
かるわ」
クライスは、メガネの位置を直した。
「勘、ですか……」
イングリドは微笑んだ。
「そう。勘所はいいのよ。ただ、性格が大雑把ガサツで堪え性がなくって、個々の正確な手順を
省く癖があるのが問題なのよね……」
クライスはあきれたように言った。
「それは……正直に言って、錬金術の研究をするのに向いているとは思えない特性ですね?」
イングリドは微笑んだ。
「そうとも言えませんよ。だってね、あの子の性格、昔の私によく似ているのですもの」
クライスは、少々驚いた顔をした。
「え! まさか、イングリド先生が……!?」
イングリドは言った。
「今言ったこと、昔ね、私がよく言われていたことなのよ。同僚の女性にね」
クライスは、どう返答をして良いのか分からず、とりあえず、そうですか、と言って少しうつ
むいた。イングリドは諄々と諭すように言った。
「ねえ、クライス。今後ともあの子のことを宜しくお願いしますね? マルローネはアカデミー
の正規の寮生みたいに、調合素材も支給されないから、街の外に採取に行くこともあると思うの
だけど……ときどき、同行してあげてくれると助かるわ」
クライスは、少々口を尖らせた。
「外、ですか……しかし、それは……」
イングリドはクライスの顔を見た。
「もちろん、研究の手が空いているときで構いません。それにね、外に出ると、いろいろと新し
い発見があるものですよ。あなたは、理論的なことならば、もう私があれこれ教えることはない
くらいに優秀だわ。だからこれからは、もっと独創的な研究を進めるためにも、自分で街の外に
出て実際に採取してみたほうがいいと思います。きっと役立つはずだわ。……私もね、昔、私の
先生と一緒に、よく街の外へ採取にでかけて、そのことがいろいろと研究に役立った経験がある
ものですから」
クライスは、目を丸くした。
「先生が、街の外に、ですか?」
イングリドは微笑みながらうなずいた。
*
クライスが去った後、イングリドは濃い目に淹れたロイヤルクラウンティーを飲みながら、壁
に掛けた絵をながめていた。
「……何でクライスに、マルローネの面倒を見させる気になったのか、今分かったわ。うふふ…
…」
そう言って、イングリドはティーカップに口をつけた。
「……本当に、そっくりよね。頭が良くて、読書好きで、研究熱心で、口が達者で、人を見下す
ような態度で嫌味ばかり言って、自分に正直で、お追従が大嫌いで……でも、根は真面目で、面
倒見がよくって……」
イングリドはそう言って、くすっと笑ってティーカップを机の上に置くと、絵の中の紫色の髪
をした少女をしげしげと眺めた。
「あなたも、このお茶が好きだったわね……。ねえ、ヘルミーナ?」
3
数日後、アカデミーの寮内の弟の部屋を訪ねてきたアウラは、彼の机の上に見慣れないものを発
見した。
「クライス〜! ねえ、何、これ?」
ミスティカティーを淹れて運んできたクライスは、慌ててアウラの手からそれを奪い取った。
「な、何でもありません、姉さん! ……その、落し物を拾ったんです! 単なるごく普通のあ
りふれた落し物です……!」
アウラは、弟の様子に少し驚きながら言った。
「クライス……、お茶、こぼれちゃってるわよ?」
クライスは、手にしていたティーカップのお茶が床にこぼれていることに気がついてハッとし
た。
「ああっ! これは、私としたことが……何か拭くものは……?」
かちゃり、と半分以上中身がなくなったティーカップが机の上に置かれるのと同時に、クライ
スは奥の部屋に消えて行った。アウラはため息をつくと、残り少なくなったそのティーカップか
らミスティカティーを飲んだ。
「……相変わらず、クライスの淹れるお茶って、美味しいわね……」
そう言って、アウラはそのゆったりとした長い髪をかきあげた。
「……それにしても変よね……、あんなに慌てるクライスを見るのって、久しぶりだわ。小さい
ときに、お父様の大事に仕舞っていた本を持ち出したのがばれたとき以来かしら……」
アウラは、もう一口お茶をすすった。
「……温度といい、時間といい、申し分ないわよね、このお茶……。ふぅ、何だか、息苦しくな
るくらいに正確に淹れてるもの……。まあ、あの子だから、しょうがないかしら、うふふ……」
アウラは、優雅なしぐさで指を軽く顎の下に当てながら、一人考えた。
あの玉飾り……女の子が身に着けるものよね? ……どこかで見たような気がするんだけど…
…う〜ん、思い出せないわ。……ハッ、まさか、ついにあの子に恋人ができて、プレゼントしよ
うとしてるとか! でも……あの玉飾り、あっちこっちに傷ができていて、新品とは思えなかっ
たわ……。もしかして、恋人からもらったとか? ……身に着けているものをもらえるくらい親
しい女の子がいるなんて、とても思えないわね。あの子の態度、それにこの部屋! 少なくとも
女の子が来たことなんて、一度もなさそう?
そう思いながら、アウラはクライスの部屋を見渡した。
本も機材も、きれいに整頓されてるけど……きれいすぎるのよね。女の子がしょっちゅう来て
いたら、もうちょっと、こう、違う感じになるはずなのよね……。ふぅ、姉として、心配だわ。
勉強熱心なのはいいけれど、もうすぐ十八歳になるというのに、今まで女の子とお付き合いした
ことが一度もないなんて……。ちょっと待って! 恋人もいないのに、女の子の装飾品を大事に
取っておいてあるなんて……、もしかして……好きな女の子の装飾品を盗んだりとか……? そ
んな! いくらなんでも、そんなことをするようなクライスじゃないはずだわ……でも、まさか
……!?
そのとき、クライスが雑巾を持ってやってきた。
「すぐに拭かないと、床に染みができてしまいますからね……」
そう言って、床を掃除しだしたクライスに、アウラは言った。
「ね、ねえ、クライス? あなた……最近、よくこの部屋に来るお友達なんて、いる?」
クライスは姉の顔を見ると、怪訝そうに言った。
「なぜ、そんなことを尋ねるのですか、姉さん? ……ここに来るのは、姉さんくらいしかいま
せんが……?」
アウラは慌てて微笑んだ。
「う、ううん、何でもないわ! ……ただ、ちょっと、聞いてみただけよ! ……特待生の選抜
試験が通ったら、ここを出て、別棟の寮に入らなくちゃなくちゃならないんだし、引越しのご挨
拶も、いろいろあるんじゃないかと思って……」
クライスは、ふっ、と笑った。
「そのことでしたら、十中八九、通りそうですよ、姉さん。それに、……実はここだけの話です
が……、私は飛び級でマイスターランクにも入れそうなんです」
アウラは驚いて言った。
「……え、飛び級!? 嘘、どうして……!」
クライスは、微笑みながら言った。
「いえいえ、本決まりになったら、姉さんには必ずご報告いたしますよ」
*
その日の夜、クライスは机の前に座り、マリーの青い玉飾りを手にして、考え込んでいた。
「……捨ててしまおうか、それとも……本人に返すか?」
クライスは、玉飾りをくるくると回してながめた。
「……別にそう高い品物でもないし、本人も気にしている風もない」
そう言って、彼はため息をついた。
「馬鹿馬鹿しい。……なぜこんなことに、貴重な時間を取られなければならないんだ?」
クライスはそう言って、玉飾りを机の上に置こう、とした瞬間、手元が狂ってそれは床に落ち
かけた。
「あ……!」
慌ててクライスはそれを受け止め、ようとした瞬間、椅子はバランスを崩して勢いよく横に転
がった。
どん、と音がして、クライスは玉飾りを握り締めたまま床に放り出された。
「……くっ、何をやっているんだ僕は……?」
クライスは腹立たしそうに起き上がると、ズレたメガネの位置を直した。それから、やれやれ、
と言いながら椅子を起こし、そして玉飾りを机の上に置いた。
「ふん、本当に……馬鹿馬鹿しい」
そう言って、彼は再び大きくため息をついた。
4
数ヶ月が過ぎた。
クライスがいつものように、アカデミーの図書館に籠もって調べ物をしていると、背後でぎい
っと出入り口の扉が開いた。かと思うと、いきなり、どさっと人が倒れる音がした。
「きゃあっ! 何よここ、暗くって、よく見えないじゃない〜!」
彼には振り向くと、声の主に向かって言った。
「マルローネさんではありませんか? あなたとこんなところで会うとは珍しい。明日は傘を用
意することにしましょう」
クライスは、転んで床に座り込んでいるマリーを見下ろした。マリーは、薄暗い明かりの中で
もそれと分かるほど怒りで耳まで真っ赤になって、だん、と立ち上がった。
「うっるさいわねえ! あたしだってねえ、調べ物の一つや二つ、いろいろとあるのよ!」
クライスは、やれやれ、といった風に眉をひそめた。
「お静かになさってください。ここは図書館ですよ。そんなに大きな声を出されては、他の人に
迷惑です」
「……わかったわよ、静かにするわ、すればいいんでしょ……?」
そう言って、マリーは、ふん、と横を向くと、その辺の本棚の本を片っ端から引っ張り出し始
めた。
「……ほう、あなたはそんなものを調べているのですか、マルローネさん?」
クライスは、マリーの肩越しに彼女が読んでいる本を見た。マリーは、振り返ると、クライス
をにらみつけた。
「そうよ! 文句ある!?」
クライスは、メガネの位置を直すと、薄い笑みを浮かべた。
「いえいえ。どうやら、そちらは私の専門外のようですね。古代の建築物および上下水道の整備
方法や都市設計などは、非常に興味深い分野ではありますが……」
「……あ、ちょっとね、これは、その、ちょっとした間違い!」
マリーは、そう言って、自分の手にした本を、ぱたん、と閉じると無言で元の位置に戻し、別
の本棚の本を引っ張り出した。
「……ほほう、その書架の本をお読みになるとは……なかなか研究熱心でいらっしゃるようです
ね?」
クライスは、そう言って、また何か含んだように笑った。マリーはその顔を見てかちんときた
が、必死でこらえながら言った。
「そ、そう? 別に、これくらい、普通でしょ……って、何よ、この本は〜〜〜〜!」
クライスは言った。
「そちらの書架の本は、すべて古代語、および神聖語で記述されており、いわば錬金術のテクス
トの原典に当たる物です。もちろん、そちらが問題なくお読みになれるのでしたら、いらぬお世
話でしょうが……現代語に翻訳された書籍は、こちらの棚になりますよ、マルローネさん?」
マリーは、まずます口をへの字に曲げた。
「……わ、分かってるわよ! こっちでしょ、こっちね!」
マリーはすごすごと、クライスの指さした方の本棚を漁り、数冊の本を引っ張り出した。
「ほう、その本、ですか……?」
クライスがまたのぞきこんで言うと、マリーは振り返って、きっ、とクライスをにらみつけた。
「今度は、何なのよ!」
クライスは言った。
「そちらの本は……非常に興味深い内容ではありますが、そこに記載されている素材は、少なく
ともこのストウ大陸では入手が不可能なものばかりであり、参考資料として読む分には良いので
すが、いささか時間の無駄、かと……?」
マリーは、ばたん、と本を閉じるとこぶしを握りしめながら言った。
「もう、さっきから何なのよ、あんた! あたしが調べ物をしているのを、横からぐちゃぐちゃ
ぐちゃぐちゃ、ネチネチネチネチ! ……喧嘩売ってるわけ!?」
クライスは、あきれたように首を横に振った。
「やれやれ……。これでも私は、図書館の利用方法を教えるのはアカデミー首席の者の務めと思
い、助言して差し上げていたつもりだったのですが……。ふむ、いいでしょう。ご自分で好きな
ように資料をお探しになってください。私はもう、何も言いませんから。それでは……」
クライスは、そう言ってその場を離れていった。マリーは、手にした本を元の位置に戻すと、
別の本棚を漁り始めた。
……あ〜、もう! そりゃあね、あたしは暗唱カードをようやくもらえたばかりの落ちこぼれ
よ! ……たしかにあいつ、図書館の使い方を良く知ってるかもしれないけど、でも! ものに
は言い方ってもんがあるじゃない!? どうしてああ、いちいちいちいち、嫌味ったらしいのか
しら! ……すぐに出るのも何だか悔しいから、適当な本を見つけたら、とっとと出ていこう!
マリーがそんなことを考えていると、ふいに、またクライスが手に数冊の本を持って現れた。
「……何よ、また、文句でもあるわけ?」
マリーがそう言ってクライスをにらみつけると、クライスは口元に笑みを浮かべた。
「いえいえ。……私がアカデミーに入学した当初、大変参考になった懐かしい本がそこにあった
ものですから、つい。まあ、もっともあなたのような先輩には、必要のないものでしょうけれど
も?」
そう言って、クライスは、とん、と近くの机の上に本を置いた。マリーは、その本とクライス
の顔を交互に見比べながら言った。
「……何の本なのよ、それ?」
クライスは、くすりと笑って、説明した。
「こちらの少し厚めの本が、基礎四大元素の性質の概説書、こっちの青い背表紙の本が、調合機
材の基本的な取り扱い方法、および調合の基礎理論を学ぶ際に重要な点をごくかいつまんで説明
している本です。この茶色い表紙の本は、錬金術の反応系を分かりやすくまとめた本で、こっち
の赤い表紙の本は、調合素材の取り扱いについての解説書になります。……どれも非常に参考に
なりましたが、まあ、今のあなたの研究関心とは、少々異なるようですね?」
「な、何でよ……!」
憮然としながらマリーが言うと、クライスはメガネの位置を直しながら、マリーの手にしてい
た本を見た。
「もちろん、あなたは現在、その鉱山の採掘方法について書かれた本がお読みになりたいのでし
ょうから?」
そう言って、クライスは両方の口端を軽く持ち上げた。
*
その日の夜更け。
誰かがクライスの部屋の扉をノックした。本を読んでいたクライスは、ビクッとして本から顔
を上げた。
「クライス、まだ起きてる?」
扉をかちゃりと開けて、聞きなれた声が彼を呼んだ。
「姉さん、どうしたのですか、こんな遅くに……?」
扉の向こうでクライスの姉、アウラは不快そうにこめかみを押さえた。
「……頭痛がひどくって。ねえ、痛み止めのお薬はないかしら?」
クライスは、まだどくどくいっている心臓の音を姉に悟られないように、ゆるく息を吐き出す
と席を立った。
「ちょっと待ってください。今、……鎮痛剤を煎じますから。さ、そこに座ってください、姉さ
ん」
アウラは、弱弱しく微笑んだ。
「ありがとう。助かるわ」
そう言って彼女は、よろよろとテーブルについた。クライスは、薬品の入った容器を取りに棚
に向かって歩きながらぶつぶつと自問した。
……僕はいったい、何を期待していたんだろう……?
*
クライスの煎じた薬の入ったティーカップに口をつけると、アウラは顔をしかめながら言った。
「……ありがとう。効きそうね、この薬」
クライスは微笑んだ。
「どういたしまして。それにしても、姉さん……、顔色が良くないですよ? ……どこか他にも
具合が悪いのではありませんか?」
アウラはため息をついて、またその苦い鎮痛剤を一口飲んだ。
「原因は分かってるのよ。……眠れないの、ここのところ、ずっと」
クライスは、かたん、と椅子から立ち上がった。
「不眠症、ですか? それでは、安眠香もお持ちになってください」
そう言って、クライスは、安眠香の入った棚から小瓶を取り出すと、姉の前に、とん、と置い
た。アウラは微笑んだ。
「ありがとう、もらっていくわ」
クライスは心配そうに言った。
「それにしても、頭痛が起きるほどの不眠、とは……。何かよほど心配なことでもあるのですか、
姉さん?」
アウラは、また深いため息をつくと、残りの薬を思い切りよく飲み干した。
「そうねえ……」
そう言って、彼女はゆっくりと苦笑すると、弟の顔を見た。
「ねえ、クライス。あなた、好きな女の子なんている?」
クライスは、驚愕の表情を浮かべた。
「な、な、何ですか、いきなり! 姉さんの体調不良の原因と、まったく脈絡のない質問をされ
ても困ります!」
アウラは、くすりと笑った。
「……脈絡、ねえ。……ううん、もしね、好きな子でもいるんだったら、私の不眠の原因も理解
できるんじゃないかと思って、聞いてみただけ」
クライスは、メガネの位置を直すとおずおずと尋ねた。
「じゃあ、姉さんは、誰か好きな人がいて、それで何やら悩んでいる、と……」
アウラは、その長い髪を指先で優雅にかきあげると、微笑んだ。
「まあ、そんなところかしら」
クライスはため息をついた。
「姉さんほどの女性だったら……どんな相手だって、文句は言わないでしょう?」
アウラは吹き出した。
「うふふ……。それがね、いろいろと……大変なのよ」
クライスは、目をぱちくりさせながら聞き返した。
「何が、大変なのですか?」
アウラは、その弟の顔を見て、小さく息をついた。
「まあ、あなたにもそのうち分かるわ。恋人っていうのはね、作るよりも、おつき合いを続けて
行くほうが、ずっと大変なのよ……?」
クライスは、相変わらず、ぽかんとした顔をして、姉を見ている。アウラは、そっと立ち上が
った。
「じゃあ、もう戻るわね。……おやすみなさい、今日はありがとう、クライス。勉強熱心なのは
いいけど……あまり遅くまで本を読んでいて、身体を壊さないようにね?」
そう言って、姉は髪をふわりと部屋の中に泳がせるようにして踵を返すと、クライスを後にし
た。
*
明け方近くに、ベッドに入ったまま、クライスは先ほどの姉の様子を思い返していた。
……姉さんも、何やら大変そうだな……?
クライスは、そう考えながら、寝返りを打った。
……そのうち分かる、と言われても……、今まで好きな人なんてできたためしもないし、できる
とも思えないし。そもそも……高度な研究技法を学ぶ以上に楽しいことなんて、考えられない…
…。そんなことにかまけているのは、時間の無駄というものだ……。
そのとき。
かちゃん、とさきほど姉が薬を飲んでいたティーカップが、音をたてた。クライスは慌てて跳
ね起きた。
……地震か……? ヴィラント山は活動を停止しているはずだが、ストウ大陸のシグザール王
国領内は新期造山帯だから……ないこともないか……?
そう思いながら、クライスは周囲を見渡したが、音を立てたのは、カップではなかった。
……何だ?
動悸を確かめながら、クライスは深呼吸した。冷や汗が背中をつたっていった。ふと窓の外を見
ると、地平線ぎりぎりのところに、奇妙なほど大きな赤い満月が浮かんでいた。荒く息をつきなが
ら煌々と明るい月を見ていると、先ほどと同じ音がした。今度それは、言葉に似ていた。それは周
囲の空気とぶつかりあいながら、かちゃかちゃといった。よく聞くとそれは……ヒサシブリニアエ
テウレシイ、と言っていた。
……どういう意味だ?
クライスが考え込んでいると、心臓がどくどくと音を立てだした。
ああ、久しぶりに会えて嬉しい、か……。
そう思った瞬間、クライスは耳の先まで赤くなった。
……たしかに、嬉しかった。でも、だからって、そんな事態は……あり得ない。あんな、落ちこ
ぼれの問題児に会えて嬉しいなんて、そんな……。
次に彼の脳裏に翻ったのは、昼間に図書館で会ったマリーの姿だった。別れ際、彼が嫌味たっぷ
りに、
「もちろん、あなたは現在、その鉱山の採掘方法について書かれた本がお読みになりたいのでしょ
うから?」
そう言って、ふふん、と笑うと、彼女は憮然として自分が今まで読んでいた本を棚に返し、そし
てクライスが持ってきた本を、荒っぽい手つきでばさばさと開いた。
「……そんなに粗雑な取り扱いをしたのでは、本が傷みますよ?」
クライスがそう言うと、マリーは、きっ、と彼の顔をにらんだ。
「……悪かったわね?」
クライスは涼しげに言った。
「真実ですから」
マリーは、何やら非常に腹が立った様子ではあったが、とりあえず、大きく肩で息をすると言っ
た。
「……借りるわ、これ」
クライスは、メガネの位置を直すと笑顔で言った。
「そうですか。あなたの勉強に役立つと良いですね?」
マリーは、そのクライスの顔を見て、何やら言いたそうな様子ではあったが、必至にこらえて乱
暴な手つきで本をすべて抱えようとした、そのとき。
「きゃっ!」
本がバランスを崩して、ばさばさと落ちそうになって、彼女は慌てた。
「あ!」
クライスは、反射的に本を取り押さえようとした。
しかし間に合わず、どさどさと音がして本が床に落ちていった。彼は自分が取り押さえたものに
気がつくのに、数秒を要した。
「ちょっと! どこ触ってんのよ!」
彼女の声にクライスが驚いて我に返ると、マリーが彼をにらみつけていた。
「え……?」
彼が慌てて見ると、彼の手は……彼女の豊かな胸の間に収まっていた。
「あ、わ、わあああ! すいません、マルローネさん!」
慌ててクライスが手を離すと、マリーは、ふん、と言って彼に背を向けた。
「……ま、一応、本を紹介してくれたお礼は言っとくわね……。ありがと、クライス」
かつん、と音がして、彼女は足を踏み出した。クライスが呆気にとられて見ていると、図書館の
重たい扉が、ぎいっと音をたてて開いた。扉が開くと……さっと外の光が薄暗い図書館に入り込み、
それと同時に彼女のたっぷりとした巻き毛がそれを反射して、きらきらと輝いた。
「マルローネさん……!」
思わず彼が呼び止めると、マリーは振り返った。
「……何よ、まだ何か文句があるわけ?」
クライスは、務めて平静を装いながら言った。
「いえ、その……大切に扱ってください、その本は貴重なものばかりですから」
マリーは口を尖らせた。
「……わざわざ言われなくても、分かってるわよ!」
そう言って、彼女は、ばたん、と乱暴に図書館の扉を閉めた。
後には……静寂と暗闇が、彼とともに残された。
そのときの風景を思い出しながら、クライスは額の汗をぬぐった。
……どうしよう?
クライスがそう思いながら窓の外を見ると……すでに薄赤い色の朝日が昇ってきていた。
〜fin〜
後書き
クライスとマリーの出会い話です。……取りとめもない上に地味なお話ですいません(笑)。今
後のクライスの、マリアト時代〜エリアト時代〜WSC版まで至る不幸(?)はここから始まった、
ということで続きも書きたいんですが、また、それは次の機会ということでご了承下さりませ。尚、
少々迷いましたが、クライスの一人称を他人と話すときには「私」、自問しているときは「僕」で
書いています(攻撃のキメゼリフが、‘僕の力を見せてやる〜!’なものですから…)。違和感の
ある方には、申し訳ありません(汗)。また、個人的には、アウラさんが書けて、ちょっと嬉しか
ったです♪ (2002年12月)
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