1 水温
ずっと、嫌な夢を見ていた。
夢は水の色をしていた。ときどき、夢は空気に溶けて光を反射する。それは目覚めたときにぼ
んやりと一瞬空に浮かび、そして消える。今日浮かんでいたのは……。
忘れた。
いや、忘れようとしている。
寝覚めは、ひどく悪かった。
雨が降っていた。きっと、このせいなのだろう。あの水の色はこの冷たい感触のせいだ。そう、
思うことにした。俺はのろのろとベッドから起きあがり、そして大きく伸びをした。何もかもが、
面倒だった。伸びた瞬間に、窓の外のどんよりと曇った空が頭の中に流れ込んできた。「それ」
は雲の色と一緒に、巧妙に俺の意識に入り込んだ。俺は首を横に大きく振ったが、「それ」は…
…いつまでも、頭の後ろの方に映し出されていた。
俺は、大きくため息をついた。「それ」は忘れられない顔だった。泣き顔……。
この世の中で、見たくないものを三つあげろ、と言われたら、確実に「それ」はそのうちに入
るだろう。
その顔……。
リリーは、泣いていた。
*
「ねえ、ヴェルナー。あたし……、しばらくの間、留守にするわ」
きのうの夕方店にやってきたリリーは、アードラの羽根とランドーの実をいくつか買うと、言
いにくそうにおずおずと口を開いた。
「……留守って……、何だ、また遠くに採取に行くのか?」
リリーは首を横に振った。
「ううん、違うの。それもあるんだけど……、あのね、その……」
嫌な予感がした。ざわざわとした感じ。こいつは……?
「おい……。まさか、例の化け物を倒しに行こうってんじゃ、ねぇだろうな?」
リリーは唇を横に引き結ぶと、うなずいた。それを見た瞬間に……、俺は思わず、拳でカウン
ターを叩いていた。リリーはビクッとして肩をすくめた。
「やめろ! 王室騎士隊が束になってもかなわなかった奴だろ? おまえ……何考えてるん
だ? この間奴に遭って、生きて帰って来られただけでも奇跡だっていうのに……、ふざけたこ
とを言うんじゃねえ!」
リリーは、きっと俺をにらんだ。
「……どうしても……どうしても、行かなくちゃならないのよ。街のためにも、それから……」
リリーは口ごもった。俺はゆっくり問いただした。
「……それから、何だ?」
リリーは、小さくため息をついた。
「……ウルリッヒ様にも、自信を取り戻してもらいたいのよ……」
俺は小さく舌打ちをした。しばらく黙り込んでいた俺の顔をのぞき込むようにして、リリーは
言った。
「いろいろね……、調べたのよ。どうやら、あの黒の乗り手は、魔女メディアに因縁があるらし
いの。だからね、その……、まずはメディアの森に行って、何か倒すための手がかりを探そうと
思って……。いつ、帰れるか……分からないわ」
俺はため息をつくと、椅子から立ち上がってリリーに言った。
「どうしても行くっていうなら……、俺も一緒に連れて行け」
リリーは首を横に振った。
「もう、ウルリッヒ様とシスカさんに護衛を頼んであるわ。明日の朝には発つの……。ごめん
なさい」
俺はリリーをにらんで言った。
「何だよ、俺じゃ……、役不足だっていうのか?」
リリーは首を横に振った。
「違うわ、ヴェルナー!」
俺はリリーのその顔をにらんだ。
「……そういうことじゃねぇか、結局は。まあ……、どうせ俺は騎士の連中みたいに、剣も槍
もつかえねぇしな」
リリーはぎっと、唇を強く噛んだ。俺はその顔を見て、思わず大きくため息をついた。
「違うわ、ヴェルナー!」
俺言い返すと、リリーは目を大きく見開いたまま、涙を流し始めた。
「そんなんじゃないわ。あなたを危ない目に遭わせたくないのよ……。生きて帰れるかどうか、
分からないんだもの。騎士の人たちにならかけられる迷惑だって……、あなたにはかけられない
のよ、私……」
俺は深く考える前に、思わず口が先に動いてしまった。
「はっきり言えよ。俺じゃ……役に立たねぇんだってな」
リリーは涙を流しながら、興奮した口調で言った。
「違うわ、そんなことない! もう! 黙って行くと、あなたが怒ると思ったから、こうやっ
て報告しに来たのに……!」
俺は怒鳴り返した。
「怒るに決まってるだろ! 報告も何も……、勝手に一人で決めやがって!」
リリーは何か言おうとしたようだったが、それは声にならなかった。彼女は再び唇を噛みしめ
ると、俺にくるりと背を向けた。
「おい! 待てよ!」
俺はあわててその背中に向かって叫んだが、制止は効くはずもなく、彼女は階段を駆け下りて
いった。
追いかけて……つかまえたのは、入り口のドアの前だった。
「放してよ!」
俺につかまれた腕をリリーは振りほどかせようとした。その腕をこちらに引き寄せると、彼女
の肩が俺の胸に当たった。
「絶対に……行かせねぇからな……!」
そう言って、その肩をつかむと、彼女はしばらくの間無言でうつむいていた。
雨の音がした。通りの石畳に叩きつける、雨。雨はここ数日間降り続けていた。彼女の肩に置
いていた手を背中に回してそのまま抱きしめると、彼女の心臓の音が、雨音に混じって響いてき
た。心臓は早鐘のように響いていた。それは、冷たい空気をほんの少しだけ暖めた。俺がため息
をつくと、彼女は顔を上げた。
「……大好きよ……?」
音。
彼女の声の響き。
それから……感触。
彼女の唇がそっと俺の唇に触れたことに気がついたその瞬間、入り口のドアが開いた。雨音が、
急に大きな音を立てて店の中に入り込み、同時に素っ頓狂な少女の声も店中に響き渡った。
「え!? わっ! きゃあっ! ご、ごめんなさい!」
驚いて俺が腕の力を緩めると、リリーはそこからするりと抜け出した。
「あ、おい、待てよ!」
俺の声は、……今度は本当に、彼女に追いつかなかった。そこには間抜けな顔をして立ってい
る俺と、それから気まずい顔をして立っているエルザだけが残された。
「ご、ごめんなさい、ヴェルナーさん! 本当に、ごめんなさ〜い!」
エルザは、しどろもどろになりながらそう言って踵を返すと、脱兎のように走り去っていった。
俺は入り口の扉を閉めるとのろのろと階段を上がった。そこには、さっき走るときに蹴り倒した
ままの椅子。それから……。
カウンターの上には、包みが残されていた。さっき彼女が……、リリーが買った商品だった。
俺はそれを手に取ると、壁の向こうから響いてくる雨音に聞き入った。
2 水の記憶
ザールブルグの街中はここ数日間、黒の乗り手の話でもちきりだった。それは、かつてシグザ
ール王国創建期の英雄であったが、自らの力への執着から呪いを身に受け、化け物へと転じた者
らしい。全身黒い甲冑で身を固め、黒い妖馬にまたがったその呪われた騎士に出会った者は、生
きて帰れることすら稀だという。
その怪物に……、黒の乗り手に、リリーは遭ったのだ。
俺がそれを聞いて彼女の工房に駆けつけると、リリーは椅子に座って弟子のヘルミーナに包帯
を換えてもらっているところだった。
ノックの返事が聞こえるのももどかしく、俺が息をはずませながらドアを開けると、彼女は俺
を見て微笑んだ。
「あら、ヴェルナーじゃない! ちょうど良かったわ〜。あなたに依頼されたフォルメル織布、
できてるわよ!」
リリーがそう言うと、ヘルミーナはうなずいて、奥の方にぱたぱたと駆けていった。俺は彼女
の擦り傷だらけの腕をつかんだ。
「……聞いたぞ。怪我は……、これだけか?」
リリーはバツが悪そうな笑顔を浮かべた。
「後、脚も少し擦りむいてるけど……。大丈夫、ほんのかすり傷だもの!」
「かすり傷だ、じゃねぇ!」
俺が思わず腕に力を込めると、彼女は少しだけ顔を歪めた。
「……痛!」
「あ……、悪い……」
俺は慌てて手を放した。彼女は腕を少しさすって言った。
「……ううん。たいしたことないわ。軽い捻挫だもの」
俺は彼女をゆっくりと見下ろすと、彼女に言った。
「おい……、二度と奴が現れそうな場所には、近づくなよ?」
彼女は一瞬、困ったような笑みを浮かべたが、やがて小さくうなずいた。
「分かったわ、ヴェルナー」
あの一瞬の返事までの間を……もう少し、考えるべきだった。あいつの性格を考えれば、それ
は十分予測がつくことだった。しかしそのときの俺は、彼女が無事に帰ってきた安心感で、そう
した細かいことを確認するのを忘れてしまっていた。
しまった、と思ったときには、もう遅かった。
*
翌日も、またその翌日も雨が降っていた。だらだらとした、陰気な雨だった。
嫌な夢を見た。川の夢。幅の広い、どす黒い水が泡立つようにして流れていた。ぼんやりとそ
れを眺めていると、川上から、何かが流れてきた。
……何だ? ……人、か……?
驚いてそれを凝視していると……、今度ははっきりと見えた。仰向けになったまま、急流に押
し流されて来たのは……。
「……親父!?」
自分の声で、目が覚めた。腐った水にずっと浸かっていたような眠りから覚めて、外を見ると
……、相変わらず、土砂降りだった。
たぶん、雨のせいだ。親父が死んだ日も、こんな雨だった。その日……、親父の死に顔を見て
いるうちに、俺はなぜかひどく奇妙な感じに襲われた。しばらく見ていて、それの原因に気がつ
いた。
表情が、ないのだ。顔に、そしてその手に……。
そう。それは、見慣れない「何か」だった。かつて親父だった「何か」だった。見慣れぬ親父
の遺体よりは、親父の残した店の方が、よほど「親父」だった。店の中身は次第に俺の選んだ商
品や、俺の陳列方法に変わって行き……、だんだん「親父」は解けていった。解けて、溶けて…
…やがてすっかり、消え失せた。
店の中身が総入れ替えするまでに、数ヶ月を要した。すべてが入れ替わった頃には……、俺は
すっかり、一人でいることに慣れてしまっていた。誰かにいて欲しいと願うこともなくなってい
た。誰かを失うことが恐いと思うことも。
でも、思い出した。そういう感覚。そういう思い……。
最初は、物好きな客だ、と思った。それだけだった。その日、いつものように店番をしている
と、彼女がいきなり現れた。
覚えている。
あの日は、晴れていたのか、それともこんな雨だったのか……? そんなことは、どうでもい
いか。
「……ん? 見たことない奴だな。何か用か?」
俺がカウンターの呼び鈴の音に顔を上げると、目の前に彼女がいた。好奇心の強い小動物のよ
うに琥珀色の瞳をくるくると動かしながら、雑貨屋の品物を眺めている、見慣れない少女。彼女
は、俺の無愛想な呼びかけにも臆することなく、朗らかに話しかけてきた。
「こんにちは! 変わったお店ね。品物、見せてもらえるかしら?」
俺は、小さく欠伸を噛み殺しながら答えた。
「ウチは毎日置いてあるものはほとんど無くてな。日用雑貨が欲しいなら、一階のヨーゼフの
旦那に頼むんだな」
彼女は、しかし、俺の素っ気ない言葉に対して一向にめげる様子も無く、口元に微笑みさえ浮
かべながら、俺の顔を興味深げに眺めた。
……何だ、こいつ? 一見さんは、大抵、こう言うとおとなしく下の店に行っちまうもんなん
だが……? 物好きなのか、頭が足りねえのか、それとも……、その、両方か?
俺は、彼女のその様子に気圧されて、思わず、少々声の調子を和らげた。
「……その代わりと言っちゃなんだが、掘り出し物はたまにある。まあ適当に見てってくれよ」
彼女、リリーは……、微笑みながら、うなずいた。
いつから、あの足音が階段を昇ってくるのを心待ちにしているようになったのだろうか?
……分からない。彼女と出会う前に、自分がどうやって店番をしていたのかも、よく分からな
くなってしまった。以前にも、あんな風に泣かせてしまったことがあった。この店をやめようと
していたときだった。
悪いがこの店、もうあと数日で閉めさせてもらうぜ。
俺がせいせいした気持ちでリリーにそう言うと、彼女は驚いた顔をした。
「ええっ!? どうしたの、急に!」
なに、またいつもの気まぐれさ。店番やってるのも飽きたしな。これからは何か別のことでも
やろうと思ってな。まだ何やるかは決めてねえけどな。まあ、そんなわけだ。悪く思うな。
俺がそう言うと、彼女の顔色が変わった。
「そんな! だって、ここまで築き上げてきたお店でしょ!? そんな……きまぐれでやめるな
んて…。それに、その別のことがうまくやっていけなかったら大変よ?」
うるさいな……。俺は自分のやりたいことをしているだけだ。今までだってそうだった。これ
からもそうだ。雑貨屋だって、なんだかんだ言って珍しい物に興味があったからやっていた。だ
が最近はその珍しい物にも飽きてきた。だから今度は、全然別のことをしたくなった。それだけ
のことさ。
彼女の語気の荒さに、思わず俺がきつく言い返すと、彼女はふいに、ひどく悲しげな表情にな
った。
「そう……。分かったわ。今までありがと。お世話になったわね」
驚いた。驚いて、俺はたしかこう言った。
おい……どうしたんだ? 急に悲しそうな顔して?
リリーは、目を伏せてこう言った。
「もう……ヴェルナーには何を言ってもダメだって分かったから。ヴェルナーのこと心配して
も無駄だって分かったから」
あのとき、俺は何て言ったんだ?
リリー……な、何も泣くこと……。
そうだ。動転して、そんなマヌケなことを言ったんだ。でも、やぶ蛇だった。リリーは本気で
怒っていた。
「あたしがどんなに心配して言ってるか分かってるの!? 周りの人が…あたしがどれだけ心配
しているか……」
そんなの知るか。俺は自分に素直に生きているだけだ。別に誰にも迷惑かけてねぇぞ。俺が何
か悪いことしてるか…?
違う。
いや、正直な気持ちだった。でも……本当に言いたかったのは、それだけじゃない。
もどかしかった。しかし俺が正しい言葉を見つける前に、リリーは言った。
「もういいよ、分かった。ヴェルナーのことなんて知らない!」
……ああ、そうしてくれ。
自分の言葉が他人の言った言葉のように、どこか遠くから響いてくるのを、俺は聞いていた。
また、雨が強くなってきた。俺はのろのろと起き上がると、寝室の窓を開けた。開けた瞬間、
近くで雷が鳴った。同時に、窓の近くの木に止まっていた大きなカラスが、ガラガラと太い金属
の鎖を引きずるような重たい声で鳴き出した。
「うるせぇ!」
俺が怒鳴ると、カラスは黒い羽根を広げ、雨の中をばさばさと飛び去っていった。俺はため息
をついた。
この世の中で一番見たくないもの、それは……、愛する者の死に顔だろう。
どんなことをしてでも、彼女を引き止めるべきだった。
3 水音
ぴしゃぴしゃと、水の音がしていた。その音に、俺が目を開けると……。
「あ、ヴェルナー! 起こしちゃった?」
そう言って、リリーは振り返った。その格好を見て、俺はぎょっとした。
「……リリー、おまえ、その格好で湖の中に潜って来たのか?」
いつもの服の裾から水を滴らせ、裸足になったリリーは事も無げに言った。
「そうよ! 大丈夫、着替えは持ってきたもの!」
俺は呆れながら言った。
「……そういう問題じゃねぇだろ?」
リリーは口を尖らせた。
「いいじゃない! 素材を採取するためだもの……。ねぇ、ヴェルナー! ちょっと、手を出し
て見てくれる?」
ん? と言って俺が手を出すと……。
「何だ、これは……宝石?」
リリーは笑顔で言った。
「水色真珠よ! このヘーベル湖の湖底に沈んでるの。貴重なアイテムだから、しっかり預かっ
ててね! じゃ、また行ってくるわ」
「あ、お、おい!」
俺は思わず立ち上がったが、引き止める間もなく彼女は口に飴のようなものを含むと、どぼん、
と水音をたてて湖の中に消えていった。呆然としてそれを見ていると、背後で声がした。
「大丈夫だよ、ヴェルナー! リリーなら、水の中でも呼吸できるアイテムってのを使ってるら
しいからさ」
「……簡単そうに言うなよ、カリン?」
俺は真珠をかごにしまうと、笑顔で水面を見ているカリンにそう言った。彼女は……吹き出し
た。
「あんたでも、そんな顔するんだね?」
俺は、無言で草の上に座った。
「……そんな顔って、どんな顔だよ?」
俺がそう言うと、カリンは面白いものでも見るような目で俺を見て、傍らに腰掛けた。
「あははは……、ごめん。でも心配ないって! それに万一上がって来ないようだったら、これ
を口に入れて湖の中に様子を見に来てくれって言われてるしね」
そう言ってカリンは、俺に小粒のドロップを一粒手渡した。
「これは?」
俺が聞くと、カリンは言った。
「エアドロップっていうんだって。これを口に入れると、水の中でも息ができるらしいよ。……
面白いね、錬金術って」
俺は手の平に乗せたその小さなドロップを眺めた。
「……ああ、そうだな」
カリンは大きく伸びをした。
「いい天気! ……ふ〜、せいせいするね。製鉄工房に毎日こもってると、こんないい空気を
吸えることなんて滅多にないから、あたし、最近リリーとこうやって街の外に来るのが楽しみな
んだ。……ねえ、あんたとここに来るのって、久しぶりだね。ほら、親父さんと一緒に、来たこ
とがあったじゃない?」
俺は両手を草の上につくと言った。
「……おまえが勝手について来たんじゃねぇか?」
カリンは少しムッとした顔をした。
「勝手にってのご挨拶だね? 親父さんも、一緒に来ていいって言ってたじゃないか?」
俺は言った。
「城門の外までついて来られたら、そう言わざるを得ないだろ?」
カリンは一瞬眉をしかめたが、やがて口元を緩めた。
「楽しかったね、あんたの親父さんが元気だったころ。あたし、羨ましかったんだよ? 街の外
に連れて行ってもらえるあんたがさ。……うちの親父は、一年中工房にこもりっきりだしね。ま
あもっとも、身体を壊しちまって、工房にすら来られなくなったけどさ、最近は……」
俺は手元の草を千切りながら言った。
「……親父さんの具合は、大丈夫なのか、カリン?」
カリンは、ふっ、と笑った。
「大丈夫も何も……。歳だからね、仕方ないさ。製鉄工房の仕事はきついからね〜。ま、仕事の
ほうは、あたしがうちをザールブルグ一の製鉄工房にしてみせるから、心配ないけどね」
異変に気がついたのは、そのときだった。
「おい、雲行きが……おかしくねぇか?」
カリンもうなずいた。
「急に暗くなってきたね? あ! 雨が降ってきた!」
夏の夕立だった。平静は穏やかなヘーベル湖だが、この時期、いきなり短時間激しい土砂降り
が降ることがある。
「大変だ! 風も強くなってきたし……。リリーは大丈夫かな?」
カリンがそう言い終えたときには、俺はブーツの留め金を外していた。
「……ちょっと様子を見てくる。おまえはここで待っててくれ」
俺がそう言うと、カリンは慌てて言った。
「ちょ、ちょっとヴェルナー!」
靴を脱ぎ捨て、口の中にエアドロップを放り込んで湖の中に飛び込むと、視界はひどく悪かっ
た。
ちくしょう……リリーは?
俺は湖の底のほうまで降りていって、……驚いた。
……光? これは……?
急に辺りが明るくなって、視界が開けてきた。薄い青白い光。
……きれいだ、と思った。そのとき。
……リリー?
長い髪を水に揺らしながら振り返ったのは……彼女だった。ひどく驚いた顔をしていた。俺は、
「とにかく早く上に上がれ」と手で示したが、彼女は俺の腕を引っ張って、何かを指差した。俺
が見ると、そこには……。
これが、水色真珠……?
そこにあったのは、湖底にきらめく美しい水色の粒。リリーは嬉しそうにそれ手の平にすくっ
て、俺に見せた。
……ああ、分かった。
俺は、うなずいた。
土砂降りの湖面に出ると、カリンがタオルを用意して、心配そうに待っていた。紫色にかじか
んだ唇を動かして、リリーは笑顔で礼を言うと、カリンからタオルを受け取った。
その日の夜、夕立が止んだ後のヘーベル湖畔で、火を囲んでいたときのことだった。交代で眠
っているカリンの傍らで、リリーは嬉しそうにさっき採取してきた水色真珠を眺めていた。俺は
言った。
「……あんまり、無茶するんじゃねぇぞ? 水の流れが速くなったら、戻ってこれなくなるかも
しれないんだからな?」
リリーは、少しバツの悪そうな顔をした。
「心配かけてごめんなさい……。でもね、ちょっと嬉しかったわ」
俺は火をかき回しながら聞いた。
「何がだ、リリー?」
リリーは微笑んだ。
「だって、ヴェルナーにも見せられたもの! この真珠ね、湖の中で見るのが、一番きれいなの
よ……」
*
また、水音。
ぴしゃぴしゃと跳ねる、水の音。
目を開けると……俺は店のカウンターの前に座っていた。
何だ、今のは……。
あのときの夢、か……?
俺が大きく伸びをすると、目の前で、店のメイドがバケツに汲んだ水に浸した雑巾を絞ってい
た。ぎゅっと絞られるたびに、水が滴り落ちていく。俺はぼんやりそれを見た。
「ヴェルナーさん、雨が上がりましたよ?」
ふいにそう言って、彼女は俺に微笑みかけた。そうか、と俺が言うと、彼女は嬉しそうに言っ
た。
「せっかくなんで、水垢がこびりつく前に、店の表もお掃除しておきますね。でも、本当に良
かったですね」
俺は帳簿を開いた。
「ああ、良かったな。雨が上がって」
メイドは言った。
「やっぱり、リリーさんたちが黒の乗り手を倒したから、晴れたんでしょうか?」
がたん、と後ろに椅子が倒れる音がした。メイドは驚いて俺を見た。俺は思わず立ち上がって
いた。
「……本当か、それは?」
メイドは少々狼狽しながら言った。
「は、はい、そうです……。井戸端で職人さんたちが噂してましたよ。リリーさんも、ウルリッ
ヒ様も、シスカさんも……みなさん、ご無事だそうです。……もうすぐ、中央広場で、パレード
をやるって聞きましたけど……あ、ヴェルナーさん!」
後を頼む、とメイドに言ったのは、階段のどの辺りだったのか。
気がつくと俺は、通りを走っていた。
*
中央広場は、黒山の人だかりだった。王室の楽隊が賑やかに行進曲を演奏し、道化師や踊り子
たちが陽気に練り歩いていた。俺は人の波を掻き分けるようにして前に進むと……いた。
パレードの中心に、リリーがいた。彼女は副騎士隊長のウルリッヒと一緒に、見事な毛並みの
白い馬に乗っていた。ウルリッヒはリリーをそっと後ろから支えるようにして、馬を操っていた。
その後ろに、赤い甲冑を身に付けたシスカが、やはり見事な栗毛の馬に乗ってにこやかに笑顔を
振りまいていた。
歓声が上がった。それに答えるように、ウルリッヒが片手を上げた。街の娘たちの黄色い声が
とんだ。リリーが何だか恥ずかしそうにウルリッヒの顔を見た。ウルリッヒは彼女に、何か一言、
二言言ったようだった。彼女はますます頬を赤らめて、何か言った。ウルリッヒは……嬉しそう
に微笑んだ。
俺はため息をつくと、その場から逃げるように立ち去った。
*
かたん、と音がした。店の表の扉が開いたが……外も暗闇だった。俺はぼんやりと入り口を見
た。気配は、ぎしぎしと階段を上がってきた。
「……ヴェルナー? いるんでしょう?」
ささやくような、確かめるような、声。
「……ああ」
俺が言うと、声の主は呆れたように言った。
「どうしたの、ランプもつけないで?」
俺は言った。
「うるせぇな。どうせ今日は街中お祭り騒ぎで、買い物に来る客なんていやしねぇからな」
「明かり、つけてくれない、ヴェルナー?」
声の主はそう言った。
「そこにランプがある……。勝手につければいいだろう?」
俺が言うと、彼女は、ふぅ、とため息をついた。
「機嫌悪いのね、ヴェルナー? せっかく帰ってきたのに……。広場にも来てるかと思って、
あたし、ずいぶん探したのよ?」
俺は腕を組んだ。
「悪かったな、行かなくて」
彼女は言った。
「あ、これね! 火、つけるわよ」
暗闇の中、彼女の顔がランプの明かりに照らし出され、浮かび上がった。
「……良かった。早くあなたの顔が見たかったのよ。遅くなってごめんなさい」
そう言って、彼女は……リリーは微笑んだ。俺は立ち上がると、棚の奥から包みを取り出した。
「ちょうど良かった。おい、これ持っていけよ」
リリーはきょとんとした顔をした。
「え? これは……?」
俺は言った。
「忘れ物だ。この前、ここに来たときに買ったくせに、置いて行きやがっただろ? 代金をもら
っておいて、品物を渡し損ねたんじゃ、こっちも気分が悪いからな」
俺がそう言うと、リリーは少し頬を膨らませた。
「もう! せっかく祝賀会も抜けて会いに来たのに、……他に言うことはないの、ヴェルナー?」
俺が彼女の顔を見ると……、その琥珀色の瞳にはランプの火が映し出され、ゆらゆらと揺らめ
いていた。俺はしばらくそれに見入った。
「……よく帰ってきたな、リリー」
ゆっくり呼吸を整えるようにして俺が言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「……ただいま、ヴェルナー」
カウンター越しに抱きしめると、彼女は俺の腕の中で小さな声で言った。
「あなたにこれが言えて良かったわ。ねぇ、ヴェルナー? ……聞いてる?」
ああ、と俺は言った。
聞こえてる。
だから、もう……?
「何、ヴェルナー?」
彼女は俺の顔をのぞき込んだ。俺は微笑むと、彼女の頬に手を当てた。ランプの火の明かりが
……彼女の睫毛の先で震えていた。
二度と俺の声が届かないようなところには、行かないでくれ。
そう言おうと思ったが、なぜかそれは言葉にならず、俺は黙って彼女に口づけた。
「大好きよ、ヴェルナー」
口づけの後、ふいに彼女が言ったが、俺はなぜかひどく悲しかった。
なぜだかは、よく、分からない。
〜fin〜
後書き
この話は、一番最初にLiebring様に投稿した「庭園の王国」と同時並行で書いていたものです。
なぜ長い間お蔵入りになっていたのかと申しますと……暗くて地味で面白くないような気がした
からです(笑)。どうも私は、手癖で書くと、地味な話をこせこせ書いてしまう傾向があり、困
っています。
ちなみに。
「庭園〜」とこの「雨〜」は二つとも、ヴェルナー一人称で書いていますよね。こういう二次創
作は、三人称がほとんどな私ですが、実はオリジナルでは一人称の方が多いですし、(良い悪い
はともかくですが)その方が自分の文体の特徴が良く出ると思っています。
もっとも三人称の方が、俯瞰的な描写がスムーズに出来るので、視覚描写が生命線になってく
るファンタジーには適しているのかもしれませんね。
それはともかく。
ヴェルナーを落として迎えたゼロED後、去っていってしまったリリーに対し、私は「……何で
だよリリー(涙)!」と、なぜか心はヴェルナー視点でした。しばらくヴェルナー一人称で書い
てしまったのも、そのせいです。
少々話はズレますが、……最近ですね、「乙女の心情」を描写するよりも「オヤジの台詞」を
書くほうがノリの良い自分に気がつき……愕然、ですね、はい(笑)。(2002年8月)
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