おわらは旧富山県婦負(ねい)郡八尾(やつお)(現在は富山市に編入)に伝わる踊り。
「越中おわら節」にあわせて踊る。世界的に有名。

 私と富山八尾
(「ヤオ」ではなく「ヤツオ」と読みます)のかかわりはこれで30年になる。
     
(大阪に八尾市ヤオという町がある。もちろん別の町)
1983年に地域振興整備公団に出向し、分譲課長に任命されて全国の工業団地を販売した。私が販売すべき団地は米沢八幡原、江刺、能登、出雲長浜、諫早、広川など全国に点在していたが、そのうちの一つが富山八尾中核工業団地であった。
 当時の八尾町の町長さんは、杉本さん。八尾町の中心部で洋装店を営んでおられた。
 工業団地の販売は地元との協力が不可欠なのだが、八尾町は町長、助役をはじめすべての関係者が協力的で、助けられた。(他の団地が非協力的であったわけではありません。念のため)
 助役は梶本さん。元教育長で、その後町長になられるのだが、極めて機知に富んだ方で、私も現在まで随分多くの人に出会ってきたと思うが、梶本さん以上の頓知の効いた方には出会った覚えがない。梶本さんの行くところ、常に笑いが巻き起こるというお人柄だった。梶本さんのお人柄で売れたという要素もあったと思う。
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 私の通商産業省の先輩に広野ただしさん(現参議院議員)がおられて、「八尾文化会議」というものを提唱されて、たまたま「関係者」だったものだから、私もその末席に連ならせていただいた。
 メンバーは哲学の今道友信先生、建築の月尾嘉男先生、作家高橋治先生(風の盆恋歌の作者)、等々爽々たるもので、八尾からも八尾紙工芸館の吉田さん、タカノ技研の高野さん、皇漢堂針灸院の酒井博先生など、これまた多彩なメンバーであった。
 その時まで「地方の文化」と口先では言っていたが、よくわかっていなかったというべきだったろう。
 八尾文化会議で八尾という町の文化に密接に関わり合ってその奥深さに感動してしまった。

 八尾文化の代表に「おわら風の盆」があるが、八尾の人達のおわらに対する思いの深さは、想像を超えたものがあった。日本の舞踊の中で、これほどあでやかな踊りはないのではないだろうか。
 胡弓の調べと優雅な踊り。ひたりきっているうちに時間と空間を忘れてしまう。
 毎年9月1,2,3の3日間(曜日に関係なし)町中が踊る。踊る。踊る。踊る。
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 八尾文化の奥深さに感動してしていたところ、ある宴席である方が「空家があるんじゃが、買うてくれんかのう」とおっしゃるので買うことにした。たぶん、言った人も面食らったと思う。場所も値段も全くわからないのに「わかりました。買いましょう」と即答したのだから……。
 実は「おわら」や、八尾和紙や、酒井さんをはじめとする八尾教養人の魅力に惹かれていたために、「八尾に家を買ってもいいかな」と思っていたところだったのだ。
 買った家は桐谷という、八尾の中心街から約10キロ以上離れ、一山超えた村落にある。平家の落人が開発した落人村らしいのだが、一山向こうにあるので、見つかりにくく、富山藩の隠し田になっていたという。昔は100戸以上の家があり、400人近い人が住んでいたらしい。ところが、だんだん若い人は職を求めて出てゆく、都会に住む子供達に引き取られる……で人口がどんどん減ってきた。
 桐谷は雪深いので桐谷に勤務する人が自宅に帰れなくなった時のための臨時宿舎があったが、人口減少でその宿舎が不要になった。 さあ、どうするか?
 解体には100万円近い費用がかかる。そんな費用は出したくない。かといって、放っておいて倒壊したり、火事になってもこまる。そこで、「誰か買ってくれる人はいないか?」ということになったらしい。
 いずれにせよ即断即決。買うことにした。
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 しかし、つらつら考えてみるに、一生のうちで、これほど良い買物は無かったといえるだろう。
 その家を買って以来、毎年夏には大型のライトバンを借りて、我が家の家族4人、私の妹の家族、カミさんの姉の家族など、一族郎党で行くのだが、息子も娘も毎年「夏は当然八尾に行くものだ」と思っている。「今年は僕行かない!」と言い出す日を心配していたのだが、2人が社会人になった今も毎年「家族全員」だ。
 確かに自然が凄い。夜、ちょっと電気をつけっぱなしにしておくと、窓にびっしり1000匹以上の羽蟻が集まっているし、赤とんぼは夕日が隠れるくらい飛ぶし、田圃に足を踏み入れると、何百匹という蛙が一斉に跳び上がるし……。 過疎村だからブヨも人間が珍しいらしく、5分も農道を歩けば、何十と食われるし……。オロというアブを小型にしたような虫がブンブン飛び回って、人間を狙う。これに噛まれると、メチャクチャ腫れるし、痛い。
 そのような自然にも浸れるし、「東京の家には置いておけないが、捨てるには忍びない」という本や家具の格好の置き場になる。
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 買った直後くらいから、近くを流れる久婦須(クブス)川の上流に久婦須ダムの建設が始まり、ある建築会社が「飯場として使わせて欲しい」というので、「ああ、いいですよ」 「家賃は?」 「ほんなものいらねえよ」というわけで、その会社が家賃代わりに色々整備をしてくれた。1年目に畳が新しくなり、2年目に網戸が付け直され、3年目に風呂場が新しくなり、4年目に庭木が植えられ……。(2000年頃にダムが完成してしまった。残念!)
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 2006年は大変だった。冬の豪雪で、瓦がメチャクチャに割れてしまったのだ。
 屋根屋さんに頼んでみたら「年内は注文が一杯で、とても無理ですちゃ」という。それはそうだろう。北陸から東北にかけて、恐らくほとんどの家の屋根がアウトだっただろうから。
 そういうわけで2006年夏は家族全員で屋根修理となった。
 近所の人に聞いたら、瓦屋根の完全葺き替えで1000万円近くかかったらしい。そういえば、どの家の屋根もピカピカ光っている。きっと屋根屋は「全部葺き替え以外はやりません」と言っているのだろう。確かに、「割れている瓦だけ取り替える」というのは面倒だし、割に合わない。「全部葺き替え以外やらない」といわれれば、普通の家庭は、他に方法がないから頼むしかない。屋根屋は断然強気。豪雪様々だろう。
 いずれにせよ長く伸びるハシゴを買い、瓦を買い込み、銅線や、瓦釘を調達して、屋根修理をやった。
 我が家の息子も、娘の亭主も、娘も、カミさんも、皆甲斐甲斐しくよくやってくれた。
 3日間、せっかくの夏休みが屋根修理だけで終わってしまったが、家族皆で、しょうもない冗談を言いあい、笑いころげながら、屋根を完全に修理してしまった。 どうだまいったか!!
 屋根屋に頼めば200万円がとことられただろう。
 結局「屋根修理」しかできなかった夏休みだったが、家族一致協力の最高の夏休みになった。
 ところでこの時わかったのは、瓦は何故かホームセンターには売っていないことだ。カルテルでもあるのか?

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 もっとも、何でも直すのは昔からの習慣で、2000年の夏には、家の壁が危うくなってきたので、壁にペンキを塗ることにした。コンプレッサーを買い、スプレーガンを買い、塗り始めたのだが、これがうまくいかない。能率が上がらないのだ。ペンキ屋さんはスースーと調子よくやっているようにみえるのだが、自分でやってみるとなかなか「難しい」というより、「かったるい」。 結局息子の提案で、刷毛で塗ることにしたら、能率5倍。2人で協力して塗り上げて、おかげでずいぶん見栄えが良くなったし、まあ、「あと10年くらいはもつだろう」というじょうたいになった。あーよかった。
 もっとも、24,000円で買ったコンプレッサーや、6500円のスプレーガンは無用の長物になってしまった。うーむ。授業料は高いわい。


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