幼稚園は佐賀市の松陰幼稚園。
小学校は、福岡市立当仁小学校に入学。
ここで、3年生の1学期までを過ごした。

一年生の入学式の時に、同級生に「ふゆの ゆかた」という
面白い名前の子がいると報告したらしい。
(実は 冬野ゆたか君だった)
1−2年生の時は とじ先生(男 どんな字だったかわからない)
3年生の時は坂口千恵子先生だった
 先日当時の恩師であった坂口先生に
お会いする機会があってうれしかった。
それというのも、福岡に行った時に、地元の人に
「昔、遠足に行ったときに、ふざけていて肥溜めに落っこちたことがある」
という話をしたら、「俺の同級生にそんなヤツが居た」という話になって、
図らずも当仁小学校の同級生であったことがわかったからだ。

小学校3年生の夏に父が警察大学校教授として東京に転勤になったので、
東京都新宿区百人町の公務員住宅に引越し、
新宿区立西戸山小学校に転入させてもらった。
当時西戸山小学校は鉄筋コンクリート造の最先端の建物。
新宿区でもモデルスクールと呼ばれていた。
周りは鉄筋コンクリートの都営住宅、公務員住宅ばかりで、
父兄の学歴も当時としては高く、教育環境も良かったのだろう。
当時の仲間はほヾ全員西戸山中学に進学したし、かなり多くが都立戸山高校
に進学し、首都圏に今も住んでいるので、連絡は密で
今も小学校の時の仲間は年に1回くらいだが、集まっている。



ところで、小学校の時の趣味はラジオの組み立て、切手集めだ。

兄が 器用な人で、大工仕事からラジオの組立まで、何でもやったので、
小学校4年生の時に兄に手ほどきをしてもらい、ラジオを組み立てた。
それがきっかけで、小学校時代は真空管式ラジオの組立に打ち込んだ。
毎日のように秋葉原に行ってジャンク部品を飽きずに眺めて暮らしていた。
母親は、アメを買うお金は決してくれなかったが、「ラジオの部品代」といえば、
一応出してくれた。もののわかった人だった。
現在でも部品があれば、配線図無しで送信機でも受信機でも、組み立てられる。
(ただし真空管式に限る)
トランジスタは当時高くて買えなかったのと、真空管式を一応マスターしていたので
「ま、もういいか」と思うところがあったのだろう。
全く挑戦してみようとは思わなかった。





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