私の東京大学時代

小学校がラジオ、中学校がオートバイ、高校がラグビーと定義すると
大学時代は大工の時代だ。

 父も兄も大工仕事をはじめ、何でも器用にこなす人だったため、大工道具が手近にあったので、私も子供の頃から、大工仕事は何でもこなした。

 東大に入って大学紛争がはじまって授業が無い事が多かったので(授業があってもたいして変わらないと思うが……)トヨペット・マスターライン(トヨペットクラウンのライトバン)を買って、大工道具一式を積んで便利大工をして歩いた。(当時は「便利大工」という言葉はなかったが)お客さんの要望に応じて、棚をつったり、雨樋を直したり、塀を補修したりというわけだ。 

 昔から、ラジオをいじったり、オートバイを直したりしていたので、大工仕事はもちろんやるが、ついでに電気製品も、ミシン・自転車のようなものも、機械も、土木工事も私一人でやれるので、発注者は極めて便利。しかも人件費は極めて安く算出されているし、材料は中古品をフルに使うので安くて早いため、大好評で、経営は極めて順調であった。
 副業に熱心すぎたせいかどうか、本郷進学を前にして,大学が「君のように優秀な人には……」とは言わなかったが、教養学部にもう1年留まるよう熱心に要請するので、義理にかられて1年残留することにした。(早い話がドイツ語の単位を落として落第したってことです)


留年した一年は、週に1時間だけ授業を受ければOKなので、本格的な大工さんになってしまった。
小さな工事は無数にやったが、 「家」と呼べるものを5軒建てた。
 

最初のきっかけは、友人のアトリエ建設だった。

ある日本画家の大家(たいかと読む。院展の院友。おおやではない)が自分のアトリエを作りたいということで、手伝える人を探しているという話がきた。全く経験もないくせに「ようがす。やりましょう」と返事をしたから、我ながらすごい。
これは、2階建て建坪30坪の大型建築で、鉄筋コンクリート造の本格的なもの。
ところが素人同士2人が作るから、やり方が良くわからず、補助資材も決定的に不足しているので(当時はホームセンターという便利なモノは無かった)、
コンクリートの壁を打っていたら、堰板をしばっていたバンド線がぶっつり切れてそのまま固まってしまったり、(その部分は壁がぷっくり膨れている) 階段のコンクリートを打ち込んでいたら、支柱が折れて崩壊。仕方ないので、そのまま本来の階段レベルまでコンクリートを積み上げるというようなこともあった。(つまり巨大なコンクリートの塊になっている。)
世田谷区迴沢に今もこの建物はある。(1964年=大学1年の6月ー11月)

その後、当時住んでいた 新座市片山(西武池袋線ひばりが丘下車)の自宅の庭に3畳間と幅広廊下の建て増しをやった。
これは天井の隙間から空が見えたりもして、家人からはぶーぶー言われたが、まあまあの出来だった。(今は取り壊されて、もうない)(1964年=大学1年12月から翌2月ごろ)
3軒目は友人の自宅の庭に6畳間を建て増した。(高田馬場駅近く。今はもうない)これはそれまで経験を積んだ成果が充分反映されて、なかなかの出来だった。何といっても人件費が0円で計算されているので、メチャクチャ安く非常に喜ばれた。(1965年=大学2年の4-6月)
4軒目は鎌倉の陶芸家のアトリエで、これも2階建て 建坪30坪の豪快なものだった。
これは資金が続かず、途中中止になる等の事件が数多くおこったが、最終的には完成し、今も残っている。(1965年=大学2年の7月から翌年3月まで)

5軒目が最も自慢になる建築で、19坪4合5勺の本格的2階建て。
場所は西巣鴨の交差点近く。当時明治通り添いに トンカツ「とん喜」 という店があったが、その裏にあった。わけありで頼まれて、総建築費40万円という値段で請け負った。(1966年6月ー12月)
請負金額が安いから、材料は極力廃材を仕入れた。当時京王線つつじが丘駅近くに「古材屋」があって、取り壊された建築物の廃材を安く売っていた。 
立派な家は取り壊す前に興味のある人が現場に行って「この部分とこの部分」と指定するとその部分だけは丁寧に順序よくはずして、ワンセットで売ってくれた。
 西巣鴨の家には、某建設会社の副社長の自宅の廃材を骨格として使った。 だから、総檜造で、襖も檜造で6尺のたっぱのある立派なものだった。(襖は通常 5尺7寸か、5尺8寸だ)
 当時西巣鴨の現場の近所にある材木屋に細工場があって、大工さん達が集まって臍をほったり、溝を引いたりしていた。 私は素人だったが、そこに行って技術を教えてもらったり(たとえば、廻り階段の作り方とか、屋根の肘木の打ち方とか……)、いらなくなった材料を貰ったりした。
 壁のモルタルから襖張りまで、全部自分一人でやった。最初は友達に手伝いを頼んだりしたが、私は仕事を始めると一区切りつくまでは絶対休まないので、手伝いの人は体力が続かず、スグに来なくなった。
いわゆる「建前」も一人でやった。今考えてみると、地上7メートル程ある2階建ての屋根の棟上げをハシゴだけでやったわけで、自分でもびっくりする。今ではとてもできないだろう。
当時、「落ちて死んでもかまわない」と思えば、高い所もたいして恐くないということを体得した。
 何といっても、地上7メートルに水平に横たわる、たった幅12センチの材木(棟)の上を命綱も何も無しにひょいひょい渡っていたのだから恐ろしい。
12月31日に襖を張り終わって完成した。我ながら非常によくできたと思っている。向こうの人はどう思ったかはよくわからない。
 完成後数ヶ月たってから、「電球が良く切れるのだが、悪い電気を引き込んだのではないか」と言われて、それ以来音信不通になってしまった。
 先日といっても2005年頃だが、近くを通りかかったら、明治通りの拡幅工事の影響で取り壊されてしまっていたようだった。
 あの家族はどこに移り住んだのだろう。 
 快心の作品が無くなって、ちょっと残念な気がする。



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