久しぶりの第4弾

 

ジャパベン厚生大臣だったかわえひふみさんが1月のビックリ祭りの前に送ってくれました。
メルマガに載っけたものだそうです。

 

かわえひふみの場合

 

「ビックリハウス興亡記、80年前後」 

             (詩のメルマガ「さがな。」02/7/20/NO.26より)
          
2002年7月13日の土曜日、私は6月12日に急逝したナンシー関の「スタンプ葬」に行った。

彼女とは面識はなかったけど、コラムは好きだったし、 なにより私と同じ元ビックリハウスの

投稿者・読者(ハウサー)として、けっこう親近感を持っていたのだった。

  「猫のケも刈りたい」関直美(16歳・学生)青森県堤町

1978年11月号の御教訓カレンダーに掲載された彼女の投稿作品である。

『ビックリハウス』は1975年の創刊から1985年にいきなり終刊するまで 読者と遊びながら、

ミュージシャンや評論家、作家、タレント、その他、時の人までをぐっちゃぐちゃに巻き込ん

で走り抜けた、 渋谷発の小さなパロディ・投稿・ミニコミ雑誌だった。

版元はパルコ出版。あのデパートのパルコである。

事実、最初の頃はパルコの一角をパーテーションで囲っただけの、とっても小さな編集部だっ

たのだ。

当時、同じような版型のミニコミ誌といえば、ヒッピーを引きずっていた『宝島』(いまや片

鱗もないけど)や、全共闘の生き残り的な『話の特集』など、私らから見ればオトナくさ〜い

、硬め〜なものが多かった。

そんななか、ぽんと現れたのが、劇団、天井桟敷の元メンバーたちが中心となって作った、月

刊『ビックリハウス』だった。パロディ・コマーシャルと「ビックラゲーション」をはじめと

する様々な投稿欄が新鮮で、「オレ(あたし)はこう見えても、普通のやつらとはちょっとち

がうんだぜ〜」な若いヤツらの心をわしづかみにしたのだ。

ちなみにどんなコーナーがあったか、軽く見てみよう。

●「ビックラゲーション」

最近びっくりしたこと。

画期的だったのは雑誌についているアンケート葉書で、なんと受取人払いだ。しかもアンケー

トの中にビックラの設問が入ってる。つまり、ビックラだけは投稿がタダ! だったのだ。

「ひとつ投稿してみっか」という気にもなるってもんである。これで載ったら、編集部の思う

つぼ、きっとソイツは葉書を買って、他コーナーにも投稿しまくりだすのである。どんなコー

ナーでも、作品が選ばれると、住所、氏名(ペンネーム)、年齢、職業とともに掲載される。

住所は番地までしっかり載せるものだから、熱心なファンが 投稿者の家に押し掛けるというこ

とが起こり、町までしか掲載しなくなった。実際、私のファンだという高校生が修学旅行のつ

いでに、我が家まで郷土土産を持ってきてくれちゃったりした。

●全流振(全国流行語振興会)

流行語を作って、巷で流行らせ、最後には広辞苑に載せちゃおうという目論見だったが、現代

用語の基礎知識止まりだった。しかたないけど。 例としては「えびぞる」がある。

●御教訓カレンダー

いまだに「三日坊主めくりカレンダー」として発売されている。

「実存が本質に先立つ不幸をお許しください」だの「陰毛かいかい、粗にして漏らさず」「母

ひとり小太り」「恩を肌で返す」とかあった。

●ジャパベン(日本勉強協会→後にジャパベン合衆国)

これは駄洒落ですな。 専門熟語講座:棒燃会=キャンプファイアー、怠欺名文=ズル休みの言

い訳。甲子苑=野球のルールブック

●その他

いろいろあった。

・面白コラージュ(写真のコラージュ)、

・筆おろし塾(意外な言葉をお習字する。永遠の名作に「ロミ山田」がある

・モシラ(もしも話)、

・コンポ(テーマポーズを様々なテイストで写真にとる)

・3ワーズコント(3つの言葉を使って小説、他を作る)

・紅白川柳(テーマ言葉を使用し男女別で川柳みたいなものをつくる

要は、既存の言葉や言い回し、広告、はたまた考え方などを

いかにくだらな〜く、あほらし〜く笑い飛ばすかに当時の私たちは血道をあげていたんである。

ビックリハウスの企画はどんどん他の商業雑誌にマネされたが、 気にもせず、いやほんとはちく

しょーとか思っていたらしいけども、 次々と新しい企画を考え出し、それに乗って遊ぶ読者がた

くさんいたのだ。

「メディア・ジャック」というコーナーは、変な看板、貼り紙、妙な通信販売などをハウサーが

写真入りで報告するというものだったが、『宝島』がマネをした。『VOW』だ。

77年から78年(たった3ヶ月だったが)では、千葉テレビで「TVビックリハウス」を編集者自

ら企画・出演して放映したり、79年には「ビックリハウス音頭」というレコードを発売した。

作曲が大瀧詠一、歌詞と歌い手はハウサーだった(もちろん公募)80年には西武劇場(現・パル

コ劇場)でエビゾリングショーを開催。映画の連載を持っていたおすぎと、ピーコの司会で、シ

ロウト、クロウトの関係なくネタを三分間やらせる。つまらなかったら、 審査員(ツービート、

高橋章子、他)から匙が投げられ(しゃれですな) 3本になると強制終了させるというもの。ち

なみに、 一位は竹中直人、二位はとんねるず(まだ名前もなかった)だった。

82年には、ラジオのニッポン放送で「ライブ珍芸・自慢芸」なるシロウト芸を流した。高橋章子

編集長は田中康夫とデュエットし、「音版ビックリハウス」の中に収録。

ハウサーたちも負けていない。あるハウサーが誌上で日時場所を指定し、「レモンスカッシュを

飲みながらディスカッションしませんか」という、今で言うオフ会を募ったのだった。

これは「レモンスカッション=レスカ」という名で定着し、私も参加したことがあるが100人は

平気で集まった。しかし、問題が起こり(ストーカー的なことがあったのだと思う)、 編集部に

中止させられた。常連ハウサーたちもいっそう誌上を賑わしはじめていた。

投稿者から執筆者に成り上がり、「かわえひふみのビジョビジョ相談室」や 「かわえひふみの

JOYジョイ診断室」を連載した私(笑)を皮切りに、ビッグムーン大槻として 14歳の大槻ケンジ

が、「大槻を讃える詩」を投稿させたり、今は少年マガジンの読者コラムを受 け持っている小野

寺紳が、冗談宗教「きょきょきゃっ教」(?)を連載していた。

元 ハウサーという有名人は、けっこういる。

役者の渡辺いっけいは常連投稿者だったし、他にも清水ミチコ、佐野史郎、鮫肌文殊、犬童一心

、常磐響、そしてナンシー関などがいた。

100号記念号を見ると興味深い統計が出ていて、どんなヤツらがビックリハウスの読者だったの

かがわかる。

設問で、「ビックリハウスを読んでいる知人に多いのはどういう人か」

というのがあり、
         一位、知人で読んでいる人はいない。
         二位、根暗な人。  が、全体の半分を占めている。
そして、「ビックリハウスを読み始めて変わったことは」では、
         一位、明るくなった、友人が増えた。
         二位、物事を深く見つめるようになった。
         三位、性格が一変した。  だった。

ちょっと、自己開発セミナーかなんかの参加前・後の感想文みたいだが、ウツウツとしていたヤ

ツらにとって、気持ちよい「ガス抜き」だったのだ。

その頃、世の中はバブル以前、第二次オイルショックが起こり、スリーマイル島原発放射漏れ事

故、家庭内・校内暴力が吹き荒れ、ピンクレディが歌って踊っていた。まだ不況だったんである。

ビックリハウスが徐々に変わってくるのは、景気が上向きだした時。

80年に糸井重里の「ヘンタイよいこ新聞」が始まった頃だと、私は思っている。世間的には、

「これがビックリハウスの大ブレーク、全国区進出!」という認識だったかもしれない。新聞記

事にもなって、ラジオや他媒体にも関わりだし、ミニコミの範疇を大幅に逸脱していった。

私や大槻ケンジ、小野寺紳などハウサーの独立国を呈していたページは最後のハウサー執筆者の

手によって、81年11月号で解散。世代交代のようなものである。

執筆陣はますます豪華になっていき、YMOが連載開始。82年の10月号からは、高橋幸宏と鈴木

慶一が「ビートニクス」なるページを受け持った。

パルコが音楽事業を始め、誌上で「オルガン坂作詞大賞」という募集をした。審査員は糸井重里

、大瀧詠一、鈴木慶一、松本隆、三浦徳子だった。

『パンツをはいた猿』で表舞台に躍り出た栗本慎一郎が、糸井重里と組み「空飛ぶ教室」を立ち

上げたら、ゲルニカの戸川純が「闘病日記」を書き始め、横田順彌が小説、そして村上春樹、川

崎徹らが自伝エッセイを連載しだした。

ビックラゲーションを高橋章子編集長ではなく、ヒップアップやとんねるずが選ぶ。

日比野克彦も85年1月号から連載を開始する。橋本治やみうらじゅんも連載をもつ。中森明夫、

泉麻人、浅田彰も登場。

もちろんハウサーの投稿欄も活発であったし、またビックリハウス版文学賞であるエンピツ賞は

20回を数えた。

メンツも華々しくなっていったが、なにより変わったのは編集者たちが、誌面に出なくなったこ

とか。が、それもしかたのないことであった。

なにしろ、ビックリハウスの小説部門から『小説・怪物』が、グラフィックから『ビックリハウ

ス・スーパー』などが派生し、発行されていたからだ。アクティブな編集者たちはそちらに狩り

出された。そうなるとどうなるか。

依頼原稿で成り立っている、普通の雑誌になるのである。

もともとビックリハウスは、編集のへの字も知らないシロウト軍団が「おもしろいものとは何か

」を求めて始めたミニコミ誌だ。

手の抜きどころを知らぬ、にわか編集者たちのガチンコ・パワーはシロウトであるがゆえに、熱

かった。その熱に全国津々浦々で悶々としている中学生、高校生、大学生たちは感応したのだ。

金はないがセンスのある(つもりの)若い奴らが、寄ってたかって自分たちの「場」を作る。

子どもの頃の秘密基地づくりみたいなものだ。そりゃ燃えるって。

しかし次第に、大学生たちはニューアカに流れ、中・高校生たちはファミコンに飛びついた。

可処分所得の多くなった若者は、頭ではなく金を使い出したんである。

東京ディズニーランドもできていたしね。漫才はMANZAIになって、若者受けするお笑いになっ

ていった。パラノからスキゾへ。オタクたちは自分の趣味のためにひたすら金を使った。

そしてバブルのピークである85年の11月号、『ビックリハウス』は突然、終刊する。

その終刊号で、ナンシー関は6回連載予定だった、

消しゴムはんこの挿絵つき短編小説「通天閣はもう唄わない」を4回目で無理矢理、終了させた

んである。

ナンシー関、初めての小説だった(と思う)。

(さがな。HP=http://www.908.st/mt/sagana/ )