第3弾

次は管理人が自らカミングアウトいたしました。聞いてくれる?(弱気)

 

イノリンの場合 

 1975年。その出合いは皆さんと同じように衝撃的だった。あの頃はまだ普通 の雑誌、

教科書的な雑誌、セオリー通りの雑誌しか知らなくて、パロディという概念もわかって

なかった。唯一面白がっていたのは美術手帖の赤瀬川原平さんの桜画報の連載だった。

当時武蔵野美術大学の短大生だった私は四年制編入を目論む優等生。卒制の題材に何を

選ぶかで迷っていた。コンセプチュアルアートにも興味があり、ウォーホルとかデュシ

ャンも好きだった。グラフィックデザインを学んでいたのだが、どこかでそのエエカッ

コシイのが性に合わず、もがき悩んでいた20歳の冬、池袋パルコの書店の片隅でビック

リハウスと出合った。バックナンバーフェアをやっていたのだ。

 小さいサイズの雑誌は前から好きで、集めたりもしていたので早速手に取ってみた。

レトロな表紙絵は佐藤憲吉さん(ペーター佐藤)のオモチャに凝ろうの号だった(この

月のBH12月号参照)。「ワーなんかおかしなことやってる!」と、すぐ他のにも手

がいき、一緒にいた連れとも大笑いしながら見た。暮らしの手帖のパロディの“その日

暮らしの手帖”の号は見事ツボにはまり、結局その2冊を購入。早速、近くの茶店に入

って二人して読みふけった。一緒に笑いあっ たのは今の旦那だ。彼も実はこの時からハ

ウサーになっていたのだ。 遠い昔、ベルボトムをひらつかせていた時代だ。

 迷いは吹っ切れて、卒業制作は自分が編集長になって雑誌を作ろうということになった

。それも本音丸出しのもの。アンアンが流行っていたがこっちは「INOINO」で突っぱっ

た。おかげさまで優をもらい、印象を強めることはできたが、逆に編入したくなくなって

いた。つまり、このビックリハウスを作る人に早くなりたい! そのために後二年なんて

待てなかった。とりあえず、その後一年専攻科に入った。それもすべてビックリに入る準

備としてカリキュラムを選び、学んだ。入れるあてなんて無いのにこの暴走。若かった。

そろそろまじに就職活動をという頃、ある関係者からパルコ出版の局長を紹介され、萩原

朔美さん達に面接で会ってもらえることになった。丁度その頃デザイナーの小佐さんが辞

めることになっていて、人を探していたところだったらしい。局長紹介という強い武器を

持った私は、幸運にも入社することができたのだ。一年前から、この雑誌を一緒に作りた

いという願望が見事にかなったのだった。ララララー。この強運、またの名をゴリ押し。

受験の時とかには発揮できないくせに、この時ばかりは持ち合わせていた。  

 私はビックリハウスが大好きだった。そこにふきだまる人たちも大好きだった。ハウサ

ー、著者、印刷のおじさん、出版局の人、業界の人、そしてスタッフ。みんな好きだった。

1982年、断腸の思いで辞めた後も、BHを見守っていた私だけれど、1985年に休刊の報

を聞いた時はやはりショックだった。確かに編集部も段々知らないメンツにはなっていた

し、方向も昔とは随分変わってきてた。また、巷にまねっこ企画が横行していて、ビック

リとしての新鮮さや看板としての威厳も失せてきていた。だけど、、、、存続していて欲

しかった。私が子育て後に返り咲いちゃると思っていたのだから無くなってはいけなかっ

たのだ(笑)。

 今こうして17年ぶりにいろんな世代のハウサーと思い出話を語れ、且つアホなことを一

緒にやれるのが、嬉しいったりゃありゃしないっ!何よりもここではエエカッコシイしな

くてすむ。それに、念願の編集人だ! 資金もスタッフも接待も何も無い編集人(^^;)。

でも、赤の出せる編集人だ。怖いものナシだ。えらいぞ、自分。

 現在のこのサイトの読者様は推定35人くらいだろうが、将来は1万人のハウサーが訪れ

てくれることを望んでいる。また強運はやってくるのだろうか?(´`)ゞ あー無理無理♪

イメージさし絵=イノリン