イノリンの

おーじゃましまーす!

[明石町先生(原田治さん)の巻]

 2002年1月5日。その日は、旧い友人達と我が家で新年会を行っていました。夜も更けて、誰かがビックリハウスアゲインの掲示板を開いたところ、そこになんと明石町先生の書き込みがあったのです。「うそー!」「ほんとー?」これは本物だとわかり、みんなで大騒ぎ。私はもう涙がでましたよ(最近トシのせいか涙腺ゆるい)。皆が帰った深夜に、ひとり正座して先生にメールを送りました。なんと20年ぶりのご挨拶だったのです。

2 翌日すぐに返信があり、またしても感激の涙です。「そんなにあらたまらなくていいから、遊びにおいでよ」と書いてありました。私は、お茶漬けでもどうぞと言われたら、すぐに上がっておかわり要求するタイプですから、即実行に移しましたよ。
 1月16日。この日は東京のパレットクラブスクールにいるからどうぞということで、伺いました。緊張ですよ。20年ぶりなんだもの。ダンディな明石町先生にまた何描かれることか。若さもなくなった今、ほんとにただのおばさん のこの私。ああ、エステしとくんだった!


↑学校内を案内してくださる原田治校長先生

↑昔と全然変わらないアイビー姿の明石町先生

築地に行けば分かるだろうと、たかをくくっていました。東京生まれの東京育ちなんだからって。夜9時過ぎはあのあたり、千と千尋に出てきそうな路地ばかり。30分もぐるぐるまわって、事務所の人が心配して迎えに来てくださった時には涙目でした。
 パレットクラブスクールはほんとに築地の場外市場の一角にあって、治さんの実家だったところだそうです。昆布や海苔の問屋さんの間に立つおしゃれな建物がスクールで、治さんは校長先生です。2階が講義を聴くスペースになっていて、この日はイラストレーターの仲世朝子さんだったという。ワー、美代ちゃん(昔はBHのスタッフでした)、会いたかったなー。

 1階の片隅にBARがありました。「ここでは僕はバーテンダーなんだよ」とおっしゃって、治さんが私のために(!)シェーカーを振ってくださいました。アンティークのグラスに注がれたのは、ストロベリーベース?で小春気分のとても美味しいカクテルでした。
 現在は伊豆大島に白亜の居を構え、月の半分はここ築地で仕事をし、半分は大島で好きな抽象画を描いたり、焼き物をしたり悠々自適にすごされているそうです。うらやましいですぅ。

 

↑娘用に描いていただいた直筆サイン。家宝だね。

↑老けたイノリンを描いてとお願いしたら、
すぐは描けないと、まだ空白のまま。
次回会う時に埋めていただく予定です。

 ビックリハウスアゲインのHPは、スクールに来ている生徒さんから聞いたそうです。初めて見た時はいかがでしたか?の問いには、「嬉しかったよ」とおっしゃってくれました。
  「ビックリはペーターと僕がまだ20代の頃、朔美さんと榎本さんから一緒にやらないかと言われ、デザインとかを任されたんだよ。初めて榎本さんと会った時、あの人、蛇皮のロンドンブーツはいててさビックリしたねー(笑)」「僕もペーターもまだ新人の頃だから、色々やれて楽しかったよ」「あの頃はイラストが全盛だったけど、今の若い人達ってアート志向なんだよね・・」とちょっとさびしそうな治さん。「パレットにも常盤響とか、水丸さんとか、新谷さんや、みうらじゅんや、おすぎも講師で来るから、毎週取材においでよ」えー!毎週ですか?「もっと、積極的にアピールして、ビックリに関係ある著者とか有名人を巻き込んだ方が絶対いいよ」ハー、私ひとりで運営してるんで、なかなか毎週は…。「アッコチャンは?アッコチャンにインタビューさせるのは?」えー!そ、そんな仮にも私の先輩ですよー。頼まれてくれるかなあ?「僕が任命する」ってこんなに調子よかったっけ明石町先生? まー半分冗談っぽく語り合ったんですが、実に楽しいひとときでした。20年前には緊張して原稿を取りに行ったものですが、年月がお互いを身近にしてくれました。というか、私が単に図々しくなっただけでしょう。
 はっと気づくと 12時。私は明石町先生と男同士のような固い握手をかわし、築地駅の最終電車に向かって走りました。家へ帰ったら、手みやげに持参するはずだった“うさぎや”のどら焼きがデンと玄関においてありました。