能の里・佐渡
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能舞台と能の伝承

佐渡は、農家の人たちが畑仕事で謡曲を口ずさむほど能の盛んなところです。現在33棟の能舞台があります。(昨年までは34棟でしたが、昨年の夏の大雨で両津・伊豆神社の能舞台がつぶれてしまいました。)佐渡の人口約8万人に対して33棟(かつては200以上と言われている)の能舞台というのですから、おそらく能舞台の分布密度としては日本一高いでしょう。
 これは、能の大成者・世阿弥が佐渡に流されたことと無縁ではないでしょうが、世阿弥が直接島民に能を教えた形跡はありません。佐渡に能楽を定着させたのは、初代佐渡奉行・大久保長安とされています。能楽師でもあった大久保長安は、慶長9年(1604)に二人の能楽師を召し連れて来島しました。(佐渡相川誌)他に囃子方や狂言方までもやって来て、長安の陣屋で能楽を演じました。佐渡に残る最古の演能記録には、寛永12年(1635)に当時の奉行・伊丹播磨守が相川の春日神社祭礼に能を奉納したとあります。この後佐渡では神事能が定着していきました。現存する能舞台のうち個人所有の1棟以外はすべて神社に付属しています。
 慶安年間(1648〜52)には、潟上村(現在の両津市吾潟)の本間家が奉行所より能太夫を仰せつかり、本間家初代秀信が宝生座を開きました。この宝生座が村々に門下生を得て、村々の神社の祭礼に奉納する神事能を請け負い、島内各地に能楽が広まっていきました。本間家は現在18代目で、現当主英孝氏は今も佐渡宝生流の家元であり、吾潟の本間家能舞台では、毎年7月に定例能が催されています。またその他の能舞台でも6月の薪能を中心に年間20数回に及ぶ演能が催されています。
(問い合わせ0259-74-3318 佐渡観光協会)
本間家能舞台
本間家能舞台
世阿弥配流の地・万福寺跡 碑

 佐渡の鷺流狂言

 能と兄弟関係にある狂言は、江戸時代、大蔵・鷺・和泉の3流がありました(現在中央におけるプロとしての狂言は大蔵・和泉の2流)。鷺流宗家は能楽の観世流に属する狂言方として幕府の御用をつとめ隆盛を極めましたが、明治維新以後衰退し明治28年鷺流宗家・19世権之丞の死によって家元は廃絶し、大正末年には中央狂言界から姿を消します。
 佐渡の鷺流狂言は江戸末期に潟上村の葉梨源内によってはじめられ、明治維新後も伝えられました。明治3〜4年頃(1870〜71)には鷺流最後の宗家鷺権之丞も来島し、数年間滞在しました。その後佐渡最後の名人といわれた天田狂楽が昭和19年に(1944)亡くなり、佐渡の鷺流狂言も滅びたとされていました。ところが、昭和54年(1979)頃、これとは別に真野町の鶴間兵蔵という人の弟子たちによって、鷺流狂言が伝承されていることが確認されました。昭和59年(1984)には新潟県の無形文化財に指定され、現在真野町の佐渡鷺流狂言研究会の手によって伝承されています。

参考資料 図説・佐渡島歴史散歩(河出書房新社)  佐渡入門(佐渡広域市町村圏組合/佐渡観光協会