奧の細道二人旅・船下りと出羽三山

 羽黒山1

六月三日、羽黒山に登る。図司左吉という者を訪ねて、その案内で別当代会覚阿闍利にお目にかかった。阿闍利は私たちを南谷の別院に招いて憐愍の情こまやかにもてなしてくださる。四日、本坊において誹諧興行を行う。
       有難や雪をかほらす南谷
五日、羽黒山権現に詣です。当山を開いた能除大師はいつの時代の人か知らない。延喜式に羽州里山の神社とある。書き写すとき、黒の字を里山としたのだろうか。あるいは羽州黒山を中略して羽黒山というのだろうか。出羽というのも鳥の毛羽を此国の貢ぎ物として中央に送ったからだ風土記に載っているとかいうことだ。月山湯殿を合わせて三山としている。この寺は武蔵江戸の東叡山寛永寺に属して天台宗の悟りに導く教えは月の光のように明らかで、そこに完全円満な仏法が灯火のように加わって、僧坊が棟をならべ、修験者が修行に励んでいて、この霊山霊地の効き目を、人は貴ぶとともに恐れつつしんでいる。この羽黒山の繁栄は永遠のもので、まことにめでたいお山ということができる。

 芭蕉と曽良は、清川から徒歩で狩川、添津、山崎、三ヶ沢、添川、手向と山道を登ったのでしょう。この道が羽黒山参詣の重要な道です。
手向には多くの宿坊があり、ここに宿泊し羽黒山へ向かうのです。
今では舗装されたきれいな一本道になっていますが、途中前山の赤坂付近に昔の道が一部残っています。
手向地区
門前町手向(とうげ)には、江戸時代336坊が軒を連ねたといいます。今でも冠木門を構え、注連を張った宿坊があり、道者の宿泊や山案内をしています。又、軒に太い綱をつるしているのを見かけますが、これは松例祭(冬の峰)に、つつが虫(悪魔)を引張って焼き捨てる神事に使った綱で、綱をかけると悪魔が近寄らないといいます。
典型的な宿望・太田坊 魔除けの引綱
芭蕉はまず手向村に図司呂丸を訪ねています。山伏の摺り衣を染める染屋が本業ですが、俳諧も羽黒俳壇の雄として名を成していました。
図司呂丸邸跡 呂丸邸跡を示す看板
黄金堂
源頼朝が奥州の藤原氏を討つにあたり戦勝祈願のために寄進したといわれています。
境内には黄金埋蔵伝説が残っているとか・・・。
宿坊街 古い風情の残る「自坊小路」
宿坊街にある「大進坊」の門脇に芭蕉翁の「出羽三山句碑」があります。大進坊のHPによると東北で一番大きな芭蕉句碑だとか・・・。
三00年 奥の細道 芭蕉の道 出羽三山句
涼しさやほの三日月の羽黒山
雲の峰いくつ崩れて月の山
かたられぬ湯殿にぬらすたもとかな
大進坊の向かい側東福稲荷にも芭蕉の句碑がありました。

東福稲荷神社・句碑

無玉や
羽黒にかへす
法の月

羽黒山中興の祖「五十世執行別当天宥法印」の不運を惜しみ偲んで詠んだ句。
小さな芭蕉像 出羽三句碑
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