譚 綴(たんこう)









      「 時 雨(しぐれ) 」        九谷 六口








   
                
                     二00三年 十一月 十二日 

                  






 面倒な役目だったが、滞りなく進めることができた。数馬の足取りは軽い。一日も早く江戸家老への報告を済ませたい。夕暮れ時だったが、数馬は、街道を避け近道を選んだ。一刻半いっときはんもあれば江戸藩邸に着けるだろう。

 汗ばむ体に初冬の空気が心地良い。既に陽は落ちている。月明かりを頼りに道を急いだが、その月が隠れ、辺りが暗くなってきた。旅行灯たびあんどんは持っていない。気付くと風が強まり、急にぱらぱらと雨。この季節、時雨であろう。何処ぞで雨宿りをすれば通り過ぎてくれるかも知れぬ。だが此処は野原。数馬は足を急いだが、雨に濡れた地面が足元をおぼつかなくさせている。予定よりも早く役目を終らせたのだ、街道を行けば良かったのか。数馬は、悔やんではみたものの如何ともし難かった。このまま歩く以外にない。濡れた地面が足を滑らせる。
 時雨は、止む気配を見せない。勘だけを頼りに歩いているが方角はあっているのだろうか。先ほどより不安が募っていた。数馬は、ただ闇雲に歩くのを止めた。雨は、すでに着物を通し体にまで届いている。旅を急いだ疲れも手伝っているのだろうか、酷く寒い。数馬はガタガタ震えながら、それでも何とか雨を凌げる木立の幹に辿りついた。自藩を調べた内容は書状にまとめ、油紙に包んである。これがせめてもの救いであった。濡れる事はない。しかし、眠い。数馬は、その場にへたり込み、そのまま眠ってしまった。

 話し声が聞こえる。体が熱く頭が痛い。朦朧とした中で数馬は思いだした。いかん。起きあがろうとしたが、体がいうことを利かない。首を動かすと囲炉裏が見える。懐を探ったが手に触るのは己の皮膚だけ。下帯一つで囲炉裏端に寝かされているようだ。書状が気掛かりだ。数馬は辺りを見渡した。どうやら民家であるらしい。耳を澄ませると声は外から聞こえてくる。

(1)





「おとう、あのお侍、二日も眠っている。おとうは、風邪だというけど……」
「風邪だ。雨ん中でグショグショになって眠っていたんだ。普通なら死んでいるところだ」

 二日っ! 数馬は、愕然とした。
「誰ぞか判らぬが、相済まぬ。こちらに来てくれぬかっ」        
「おう、気が付いたようだな」                     
 数馬は、まだ体を動かせないでいる。見ると二人の男が土間に入ってきた。猟師の親子であろうか、獣の革を身に着けている。顔は日に焼け赤銅色に光っている。二人が側に来た。獣の匂いなのか、何やらプーンと臭う。髪は長く、後ろで束ねている。
「どうだ気分は」
「どうやら、おぬしらに助けてもらったらしい。礼を言いたいが体が動かぬ。二日とか申しておったが……拙者、二日もこのままであったのか」
「おうおう、よう眠っていたわ。江戸に帰る途中だろうが急がば回れとも言う。無茶をしたものだ」
「いや面目ない。ところで……」
「大丈夫だ。着物と一緒に置いてある。うわ言で報告、報告と言っていたが、余程、大切な物のようだな」    
「……まさかっ」
「わっはっはー、読んだりはしていない。余計な事に巻き込まれたくないからな。で、どうする。まだ歩けんだろう」
「……」
「おとう、これも何かの縁。おらが手伝っても……」
「馬鹿を言うな。だが、放っておくのも気が引ける」
 

(2)





 数馬は気が急いていた。二日の無駄であれば、まだ間に合うとは思うものの、今日一日で体が回復するかどうか全く自信がない。
「心苦しい限りだが、迷惑ついで。さらに今日一日、世話になりたいが」
「……」
「申し遅れた。拙者、佐々木数馬と申す。このように体をこじらせたのは初めてのこと。誠にもって面目ない」
「気にするな。俺は、功刀くぬぎ。あれは、桔梗ききょう。一眠りした方が良い。寝ている間に喰いもんでも作ってやる」

 数馬は、良い匂いで目を覚ました。味噌の匂いだ。囲炉裏には鍋が掛けてあり、何やらグツグツと煮立っている。既に夜中なのだろう、明るいのは囲炉裏の周りだけである。
「ちょうど出来上がったところだ」
 数馬は、何とか体を起こすことができた。桔梗が、獣の革を縫い合わせた物を肩に掛けてくれた。木の椀には、野菜と獣の肉のようなものがあった。
「腹を壊したんじゃない。遠慮せず、幾らでも喰うんだな。精が付く。喰えば歩けるようになる」
 数馬は獣の肉を食べた事がない。汁を飲んだ。旨い。だが肉の塊には箸がいかない。野菜ばかりを口に入れた。
「皆、肉を食わないが、旨いものだ。喰ってみろ」
 恐る恐る小さな塊を口に入れた。歯ごたえがある。味噌味と共に得もいえぬ味が口の中に広がっていった。数馬は貪るように椀を重ねた。二人は、それを面白そうに見ている。
「功刀殿、何の肉でござるのか」
「兎だ」
 数馬は奇妙な気持ちになった。兎……話には聞いていたが、これほどの味とは。喰い終わると眠気が襲ってきた。

(3)





 翌朝、数馬の体はかなり回復していた。二人を見るとまだ寝ている。体を起こした。まだフラフラする。部屋の隅に綺麗に畳んである着物を着て書状を懐に収めた。

「大丈夫……」
 桔梗が声を掛けた。
「世話になった。功刀殿にも挨拶をしたいが」
 桔梗が功刀を揺すった。
「二人には世話になった。拙者、江戸に向かいたい。この礼は必ずする」
 刀を腰に差し立ち上がったが刀が重い。熱を出し、寝込んだりしたのは初めての事とはいえ、たったの三日である。体は鍛えているはずだが……。数馬は顔をしかめた。桔梗が心配そうな顔で見ている。
「おとう、この人、一人で江戸まで……」
「お侍。俺の足であれば江戸まで一刻半だが、その分では半日は掛かる。いや何とき掛かるかはともかく辿りつけるのか。まだ無理な様子だが」
「今朝は天気も良い。気遣いは無用じゃ」
 数馬は、上がりかまちに座り草鞋を履いた。掛かっても高々半日。すっくと立ち上がったつもりだったがよろけてしまった。功刀が大声で笑い出した。
「佐々木さんとやら、俺ら猟師は絶対に無理はしない。侍商売とは阿漕あこぎなもの。武士は喰わねどとか言うが……。どうしても今日中に着きたいのか」
「今の笑い。侍に対し無礼であろうが。本来であれば捨て置かぬところだが、おぬしらには命を助けられた。お陰で勤めを果たせるとも言える。何としても今日中に着きたい」
「桔梗。この侍、悪い奴ではなさそうだ、先導してやれ」

(4)





 この時、桔梗はニコッと笑った。
「おとう、何処まで先導すれば……」
 桔梗は、言葉を最後まで言わない。癖なのであろう。
「何処までか、いつまでかは、この侍に任せろ。どうやら真面目な男のようだ。悪いようにはせんだろう」
「……」
「佐々木さん、あんたが唸っている間、桔梗が一人で看病した。親が言うのもあてつけがましいが、こいつは心根の優しい子供だ。何かの縁と思ったのだろう。ところで、こいつは江戸を知らん」
 数馬は桔梗を見た。江戸まで先導してもらえれば助かる。それに江戸見物も良いだろう。だが、この身なりでは余りにも目立ちすぎる。着物を揃えなければならないな。ままよ自分の古着で良いか。ふと、頭に浮かんだこんな思いに数馬は苦笑した。この大事に何を些細な事を考えるのか。
「桔梗、何かあったら知らせろ」
 
 江戸への道程みちすがら、二人は殆んど言葉を交さなかった。数馬は桔梗に感謝していた。一人では道に迷っていたかも知れぬ。土地勘がない者にとって近道は危険であった。数馬は、桔梗の後について行ったが、桔梗は実に軽やかに歩く。体の動きも柔らかい。

 江戸に着いたら、その足で藩邸に行くつもりであったが、桔梗を屋敷に連れて行くことにした。屋敷とは言っても使用人は三人。貧乏藩の江戸詰めである。佐々木家は、代々、藩の日記役を継いでいる。自藩での仕事よりも江戸での仕事の方が多い。幕府や他藩を意識したためである。
 数馬の両親は、川遊びの舟が転覆し呆気なく死んだ。家督を継いで四年が経っている。身内はいない。数馬は独り身だ。この屋敷は小さいとはいえ藩が買い与えたもの。扶持は少ない。使用人の爺夫婦と明るいだけが取り得の下女と何とか遣っている。

(5)





「爺、故あって世話になった男だ。名は桔梗。俺は藩邸に行ってくる。俺が戻るまでに風呂に入れ、着替えさせてくれ。俺の古着で構わん」
 怪訝な顔で桔梗を見ている房吉を後に、数馬は藩邸に急いだ。

「ご家老、如何でございましょうか」
「……」
「ご家老っ」
「数馬、良く調べたな。思いのほか事態は進んでいる。良いな、口を閉ざせ。おぬしは、菩提寺に両親を詣でたことになっておる。良いな」
「ははー」

 後は江戸家老の早川に任せれば良い。屋敷へと歩きながら数馬はホッとした心地良さと共に、どっと疲れが出てくるのを感じた。長旅と風邪。ゆっくり休みたい。

「戻った」
「お帰りなさいませー」
 相変わらず度肝を抜くような喜代の大声。数馬は、疲れ切っていた。
「旦那様、お風呂でしょうか、お食事でしょうか」
「どっちもいらん」
 数馬は、ただ眠りたかった。部屋に戻ると房吉が来た。
「旦那様、あの桔梗ですが、言うことを聞きません」
「言うことを聞かん。どう言うことだ」
「へー、風呂にも入らず、着替えもしません」
「……」
「今、納戸にいますが……」
 数馬は納戸に行った。

(6)





「桔梗、入るぞ」
 返事はない。数馬は戸を開けた。そこには突っ伏して眠る桔梗がいた。数馬は、そのまま部屋に戻った。
 翌日、数馬は昼過ぎまで寝ていた。藩邸からの使いはなかった。これで数日間、休む事が出来そうだ。気になるのは桔梗である。房吉を呼んだ。
「旦那様、納戸から出てきませんし食事も取っていません。どういたしましょう」
 数馬は納戸に行った。
「桔梗。居るのか」
「……」
「桔梗、食事も取っていないと言うではないか。皆が心配しているぞ。俺も、旨い兎鍋を喰い元気を取り戻した。桔梗、開けるぞ」
 数馬が戸を開けようとすると、戸が開いた。桔梗が笑っていた。
「これっ、人を戸惑わせておきながら笑うとは……。そのような子供染みたことをするものではない。さっ、飯を喰おう」
 桔梗を伴い部屋に戻ったが桔梗の体が匂う。喜代を呼んだ。
「喜代、飯の前に桔梗を風呂に入れる。済まぬが房吉に風呂を沸かすように言ってくれ。それから房吉が用意した俺の古着を出してくれ」
 桔梗は、風呂と聞くと顔をしかめた。風呂が嫌いなようだ。
「桔梗、功刀殿と二人暮らしなのか。母親はどうしたのだ」
 桔梗は話そうとはしない。顔は垢だらけでテカテカ光っている。無言のまま二人は座っていた。程なくして婆のたまが風呂が沸いたと伝えた。
「桔梗、とにかく体を洗え。すっきりする」
 桔梗は、首を横に振っている。
「桔梗、おまえは江戸に来たのは初めであろう。歩くにしても、その姿では周りが嫌がる。それに垢だらけの顔は見苦しい。おまえには世話になった。強いことは言いたくないが、あまり言うことを聞

(7)





かぬと木刀で叩きのめすぞ」
 木刀と聞いた途端、どうした訳か桔梗はニコッと笑った。奇妙な奴である。珠が桔梗の傍に寄り、肩を叩いた。桔梗は渋々立ち上がり、珠の後に従った。

 数馬は二十三歳になっている。父の元で日記役を始めたのは元服直後であった。父は事務方の仕事を厳しく教えた。また、侍は刀だと厳しい修行を課した。
 役目は藩政について、さらに幕府、他藩に関する諸々の出来事を丁寧に書き記し、家老の了解を得た後、藩史として綴っていくことである。役目柄、各奉行、役付き、さらには庶民らと話すことが多い。自然、藩内の状況を詳しく知ることになる。

 数馬は腹が空いてきたが、桔梗は風呂から戻らない。余程、垢が溜まっていたのだろう。長湯になるのも致し方ないと諦めかけていると、房吉が苦笑いをしながら部屋に入ってきた。
「房吉、桔梗の風呂は長いな」
「へー、婆と喜代がゴシゴシ擦っているようでして……。それにしても長いと思い、まだかと声を掛けたのですが、まだですとの答えだけ。旦那様、凄い垢のようです」
 数馬は、思わず大声で笑ってしまった。そうであろう。あれだけテカテカ光っていたのだ。
 仕方ない。横になり空腹を我慢していた。桔梗が戻ってきたのは半刻ほども経ってからであった。
 戻った桔梗を見て数馬は驚いてしまった。ぼさぼさだった髪は綺麗に束ねられている。陽に焼けた顔は活き々きと輝き、しかも整った顔付きをしている。古着ではあるが着物も良く似合う。何やら照れくさそうな素振りも初々しい。数馬にその趣味はないが、桔梗を美少年だと思った。

(8)





「どうじゃ、さっぱりしたであろうが。さー、飯を喰おう」
 珠と喜代が箱膳を持ってきた。二人は、桔梗と目を合わせたが何やら空々しくしている。二人で喰う間、数馬はチラチラと桔梗を見たが、どう見ても、あの桔梗とは思えない。数馬は落ち着かない気持ちであった。
 飯を喰い終わると桔梗が木刀を持ちたいと言う。数馬も腹ごなしがしたい。二人で、庭に降りた。桔梗は柔らかい身のこなしで木刀を扱う。我流ではない。良い腕前だ。教えたのは父親であろうか。
 数馬は、桔梗をしごきたいと思った。
「桔梗、剣道が好きなようだが、当分の間、この()におらぬか。俺も稽古相手が欲しい」
 桔梗は何も言わず、ニコッと笑った。
「功刀殿に知らせたいが……」
 桔梗が珍しく言葉を発した。
「おとうは、判っています」
……おとうは、判っている? 
 桔梗の言葉を数馬は理解できなかった。何を判っていると言うのだ。

 早川から知らせが入った。藩邸に来い。数馬は覚悟していたとは言え、身の引き絞まる思いがした。

「数馬、おぬしならどうする」
「ご家老、そのように申されましても……」
 二人の間に沈黙が続いた。
「ご家老。何か手立ては」
「……」
「ご家老、このままでは、この藩は……」
「数馬、おぬしには何かと世話になった。だが……」

(9)





「調べたことを有体にお知らせしたつもり。城代の仕儀は度を超えております。為沖公へは……」
「まだじゃ」
「ご家老、それはいけませぬ。急ぎ……」
「数馬。有体に申そう。為沖公には諦めがあるようにも思える。先代に気に入られ奥方と夫婦になられた。だが、所詮、入り婿……」
「ご家老、それとこれとは大きく違うのでは」
 数馬は、忸怩じくじたる思いで藩邸を後にせざるをえなかった。

「珠、桔梗が居ないが」
「はい、何やら散歩がしたいとか申されまして……」
「散歩か」
 数馬は、釈然としない気持ちを木刀で振り払いたかったが、桔梗はいない。部屋で肩肘をつき寝そべっていた。玄関で声がする。桔梗が戻ったらしい。数馬は、ゆっくりと起き上がった。桔梗が顔を出した。
「散歩か。で、どうだった」
「はい、何やら騒々しいばかりで……」
 相変わらず桔梗は途中で言葉を止める。数馬は苛立ちを覚えた。
「騒々しかった……。それだけか」
「は、はい」
「詰まらぬな。他に何も感じなかったのか」
「……」
 木刀を振っている時、桔梗は鋭い切っ先で自己を主張する。数馬も嬉しいと思う。しかし、他の事に関して桔梗は大人しすぎた。

 翌日も早川から知らせが入った。為沖公は参勤交代で江戸詰め。藩邸に来いという。数馬は、身支度を整え藩邸に向かった。

「数馬、今から殿とお会いする。おぬしも同席するように」

(10)





「ご家老、私は、そのような身分では……」
「構わぬ。お会いしたことはあるのか」
「はい、元服の折に、父と共にお会いいたしました」
「そうか。それだけか」
「……ご家老、ご同席いたしましたとして、何を……」
「何もせんで良い」
「何も……」
「……」
「ご家老、では、何故、同席するのでしょうか」
「数馬、つべこべ言わずに同席すれば良いのじゃ」
「ははー」

 早川は、数馬を目通りさせた。為沖は数馬を覚えていた。
「佐々木数馬か。逞しくなったのう。そちの父には何かと世話になった。思わぬ出来事、残念じゃった。何が起きるか判らんのが人の世じゃ」
「ははー」
「まだ娶っていないようじゃが……」
「ははー、面目次第もございませぬ」
「ま、良い。こればかりは縁じゃ」
「殿、数馬を同席いたしましたのは……」
「早川、言わんでも良い。さ、話を聞こう」
 早川は、江戸藩邸、他藩の状況を報告しただけだった。数馬は、何故、自分が此処に居るのか理解に苦しんでいた。

「ご家老、私めの調べた内容については一切……」
「数馬、その事についてはこれ以上申すな。ところで、殿をどう思ったか申してみよ」
「どうと申されましても……。何をどう言えば良いのか」
「調べたのはおぬしではないか。その上で殿をどう思うかと聞いて

(11)





おるのじゃ」
「……」
「構わぬ。有体に申してみよ」
「では。拙者、殿は、ご存知と受け止めました」
「ご存知か……」
「はい。両親の墓参りとの名目で帰藩いたしました。つまり非番の扱い。運良く知り合いにも会わずして役目を終えたつもりでございます。しかし、殿のあの親しげな眼差しは、久し振りにお会いしたためだけとは思えませぬ」
「そうか。役目については内密にしていたつもりじゃったがなー」
「ご家老、出すぎた物言い、お許しいただけますでしょうか」
「構わん、何でも申してみよ」
「拙者、日記役でござる。これは殿もご存知。ご家老は、今日の会見に拙者を同席させました。藩内の下世話な話にも耳を傾けるのが日記役。自負するつもりはありませぬが、役目柄……」
「数馬、要点だけを申せ」
「は、ご家老は日記役を同席させました。これは殿への無言のご報告」
「殿は、ご決断できるであろうか」
「……」

 為沖は、藩民、特に農民に無理を強いなかった。自然が相手である。豊作もあれば凶作もある。四公六民を守った。むしろ豊作の時には民の蓄えを奨励した。総ては凶作時への配慮である。そのためとは言えぬが、藩の財政は他藩に比べ貧乏であった。しかし、為沖は、これで良いと思っていた。過不足ない毎日を約するのが政との信念を持っている。

 数馬は、屋敷に居ても落ち着かない毎日を送っていた。このままで在って欲しい。しかし、所詮、日記役である。何が起こったとし

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ても政に口を挟む事はできない。

 桔梗が来て半月ほどが経っている。桔梗は、日に日に江戸の雰囲気を吸収しているのだろうか、垢抜けた若武者になっていった。数馬は、桔梗が色白であることに気付いていた。風呂にも毎日入るようになっているらしい。あれだけ嫌っていた風呂……数馬は苦笑した。
 食事は、二人で取るが、あまり話すことはない。ただ静かに口を動かす。どうやら桔梗は、爺夫婦や喜代とはかなり親しくなっているようである。食事中に連中が顔を出すと、桔梗の顔も緩み、雰囲気が和らぐようである。だが、数馬は二人でいると何とはなしに落ち着かないものを感じてしまう。桔梗が美少年であるためかも知れぬ。
 数馬は、功刀のことも気になっていた。何日まででも良いと言ったが、構わんのだろうか。それに、おとうは、判っていますとの桔梗の言葉も気になっていた。
 
 思わぬ知らせが藩邸から届いた。為沖が倒れたという。早川が急ぎ藩邸に来いという。

「ご家老」
「数馬、毒じゃ。誰ぞが毒をもった」
「毒っ!」
「腰元が気付くのが早かった。我が藩は毒見など置いておらん。運が良かった」
「では……」
「まず間違えはない」
「……」
「数馬、身内はいなかったな。数馬、殿が話をしたいとの事じゃ」
「殿が……」

(13)





 数馬は、為沖から思いも寄らない命を受けた。
「数馬、遣ってくれぬか」
 数馬は調べた内容を元に、起こり得る幾つかの状況を説明した。話を聞いた為沖は、一つ一つに対し指示をした。数馬は、体の震えを止める事ができなかった。

 表向きには日記役だが、家老早川は何かと数馬に指示をした。ほとんどが探索などであり、言わば忍に近いものであった。しかし、今回は藩主自らが下した命である。夜陰に乗じた仕事になるはずだが、数馬は、そのような経験はない。どうすれば良いのか、数馬は途方にくれる思いであった。
 明朝早くに出立せねばならない。屋敷に戻り、急ぎ旅支度を整えた。夜半、数馬は、腕を組み方策を思い巡らせていた。そこに桔梗が顔を出した。

「桔梗か。しばらく江戸を後にする。お前は家に戻るか」
「数馬様、急ぎの上意とか。爺から聞きました。同道させてください」
「何を言うか。事情も判らんくせに。余計な事に首を挟まんのが、お前の父の考えであろうが」
 奇妙な事に桔梗はクスッと笑った。数馬は気に喰わなかった。この様な時に笑うとは。
「数馬様、父は余計な事には首を挟むものではないと教えました。しかし、自身にとり大切な事には相手が何を言おうが首を挟めとも申しました」
「成る程。良い事を言う父じゃ。だが、今度(こたび)の旅は、お前には何ら関わりのないこと。おぬしは己の事のみを考えた方が良い。さ、支度をさせてくれ」

 桔梗は部屋を出たが、すぐに戻ってきた。その姿を見た数馬は目

(14)





を疑った。例の毛皮を身にまとっている。
「桔梗っ!」
「数馬様、私は一目眺めただけで山野の様子が手に取るように判ります。詳しい事情は判りませんが、お忍びではないかと思います。桔梗は役に立ちます」
 すらすらと言葉が出る。たった半月の滞在が、口を滑らかにしたというのだろうか。二人は、見つめ合った。あの垢だらけだった少年の目とは思えない。強い意思を感じる清らかな目だ。数馬の脳裏に自分を先導してくれた桔梗の姿が蘇った。
「功刀殿に知らせなくてはな」
「父は、判っております」
 何を判っていると言うのだ。数馬は問いただそうとしたが、止めた。どうせ桔梗は、何も言うまい。

 桔梗に藩までの道筋を教えた。桔梗は、そんな藩は聞いた事がないと言う。街道なども聞いた事がないと言う。何とも心許ない返事である。藩までは十日ほどで着く。数馬は、まず街道筋を進んだ。桔梗の足は速い。体を鍛えているつもりだが汗をかいてしまう。後三日ほどで藩の領地に入る。そろそろ街道を離れた方が良い。

 数馬は、桔梗に方角だけを示した。猟師は、地形を見れば道が判るのであろうか、雑木林、山に入ったが、桔梗が先導する道筋は驚くほど歩きやすかった。桔梗は、獣道だと言う。確実に藩に近付いていた。

 島守藩は、三方を山に囲まれている。数馬は、北側の山から領内を見渡した。城はこの山を背にして建っている。家臣達の屋敷は、東、西の山の麓にあり、城下の町は、開けた南へと広がっている。地形、さらに屋敷から路地に至るまで総ては頭の中に入っている。桔梗を呼んだ。

(15)





「桔梗、後は俺一人で遣る。おぬしのお陰で思いのほか、早く着いた。礼を言う。おぬしは、家に帰れ。功刀殿にも礼を伝えてくれ」
 桔梗は数馬の話を聞いていないようだ。しきりに城下を見ている。
「数馬様、活気ある町ですね。お城も活き々きしています。このような所にも隠れた問題があるんですね」
「桔梗、何故そのような事が判るのだ」
 桔梗は、数馬を見てニコッと笑い、私は猟師、気を感じますとつぶやいた。
「これ以上は危険だ。さ、お前は戻ってくれ」
「数馬様、どのお屋敷ですか」
「何を言っている。さ、帰れ」
 桔梗に帰る様子はない。数馬の言葉を全く無視している。城下の様子を頭に叩き込んでいるのであろうか、目を凝らして見渡している。数馬は、諦めざるを得なかった。だが、危険な仕事になるやも知れぬ。
「桔梗、人を斬った事はあるのか」
「ありません」
「斬り合いになるやも知れんぞ」
「大丈夫です。猪は斬ったことがありますから」
 数馬は、苦笑した。
 今夜中に屋敷の様子を調べなければならない。決行するのであれば明日。藩主が江戸詰めの場合、本来であれば城代に非番はない。しかし、堀田は、月に二日の休みを為沖から許されている。酒を呑むのもこの二日だけ。気の緩みがあるはず。
「数馬様、どのお屋敷ですか」
 桔梗が、また同じ事を聞いた。数馬は堀田の屋敷を示した。桔梗は、またニコッと笑った。二人は夜を待つことにした。
 夕暮れ時、桔梗は、せっせと顔に泥をなすり付けている。手馴れた様子だ。数馬にも泥を付けろと言う。

(16)





「桔梗、慣れているな」
「私は猟師。獣を相手にしています。獣は、人間よりも気配を感ずる力は上です」
 数馬は成る程と思った。と言うことは、桔梗の方が俺よりも感覚が鋭いことになる。数馬は桔梗を信じることにした。

 堀田の屋敷は、城の西側に位置している。夜、二人は堀田の屋敷を目指し、一直線に山を下った。身のこなしは、桔梗の方が遥かに優れている。月は出ていないが、星明かりがある。麓に着いた。ここから堀田の屋敷までは二町ほど。二人は、麓に沿って屋敷に近付いた。城代の屋敷、一町四方の広さを持ち、白壁で囲まれている。背後二面は、山。山側の塀には鋭利な刃先をもつ鉄囲いが設えてある。出入り口はない。通りに面しているのは東側と南側の塀だけである。表門は南側にある。
「数馬様、東側、南側から忍び込むのは難しいと思います」
 桔梗の言う通りである。この両面には、常に見張りが置かれている。数馬は、見張りの隙をつき塀を越えるつもりでいた。
「西側の塀にしましょう。私が、中の様子を探ってきます」
「しかし、あの鉄囲い……」
 桔梗は、ニコッと笑った。
「高い塀ですが、数馬様の肩をお借りすれば簡単に忍び込めます」
 間取りなどは伝えてある。家来、家人の人数なども教えた。知りたいのは、屋敷内の動き。藩主殺害が未遂に終った以上、何か動きがあるはずである。果たして桔梗一人で、その様な事を察知できるのだろうか。数馬は、自分に不甲斐なさを感じたが見栄を張っている場合ではない。桔梗に任せることにした。

 数馬は塀に手を着いた。桔梗は、ささっと後ろに行ったかと思うと、勢いを付けて数馬の腰、肩を走り、塀の突端に手を掛け、さっと鉄囲いを飛び越えた。飛び降りた音は聞こえなかった。

(17)





 数馬は、塀の傍に身を隠していた。もし桔梗が見つかりでもしたら……。まだ、子供ではないか。任せて良かったのか。心配の余り胃が痛むのを覚えた。その時、数馬は桔梗の歳を知らないことを思いだした。いや、歳だけではない、桔梗について知らないことが多すぎた。功刀の顔がちらつく。もしもの事があった場合、どのように怒るであろうか。それに功刀は何を判っているというのだ。まさか、この様な仕事を手伝っているとは思ってもいまい。数馬には判らない事だらけであった。
 数馬は、ドキッとした。桔梗は、どのようにして塀を越えるつもりなのか。手頃な台など見つかるはずもない。綱もない。数馬は立ち上がったが為す術もない。しまった。考えが浅かった。
 その時、物音がした。見ると桔梗が音もなく近寄ってきた。

「桔梗、無事だったか。だが、どのようにして塀を……」
 桔梗は、何も言わずに山を指差し、上り始めた。数馬も後を追った。多少開けた場所に来ると桔梗は足を止めた。数馬を見て首を傾げた。
「で」
「数馬様、これと言って動きのようなものはありません」
 桔梗の話はこうだった。まず、屋敷内で幾つか場所を変え様子を探ったという。家来などは取りたてて変わった動きをしていない。人数は、数馬から聞いていた通りのように感じた。床下に入り、堀田の部屋辺りで耳を澄ませた。話し声が聞こえてきた。静かな話し振りであり、言い争う様子もない。微かに聞き取れた話は、まー、気にする事はない。時間はある。明日は、お越しになるとの内容だったと言う。笑い声も聞こえたらしい。
「ところで桔梗、どの様にして表に出たのだ」
「東側の塀を越えました。余り警護は厳しくないようです。明日は東から入れると思います。まず、数馬様が私を踏み台にして塀に登る。私は飛び上がりますので上から手を貸してください」

(18)





 数馬は、堀田の太々(ふてぶて)しさを知った。既に主だった者たちを巻き込んでいるのだろうか。時間はあるとの言葉には余裕すら感じる。

 堀田は、常に為沖の税の取り立て方を批判していた。四公六民を守っている藩などない。それに豊作の時には税を多く取るべきだ。先代は先代。何も、同じように遣ることはない。事ある毎に役付きたちに話していた。
 先代は、領民から慕われていた。子供は娘ばかりで世継ぎが居なかった。自分の血を残すために他藩主の三男、為沖を迎え和代と結婚させた。為沖は、俗に言う入り婿であった。先代が生きている間は、不平を言う者はいなかった。為沖は、先代の施政を引き継いだ。領民からは慕われたが、家臣の中から沸々と不満が湧き上がってきた。
 和代は、先代が亡くなると同時に奢侈しゃしを好む性格を現した。世継ぎは出来ている。何かと倹約を言う為沖に、愛想を尽かし始めていた。そこに付け入ったのが堀田であった。噂では、為沖が江戸詰めの時に、堀田の屋敷で夜を明かしたこともあると言う。
 数馬は、自分が調べた内容を元に堀田罷免を家老の早川に進言した。調べるように指示したのは早川であったが、さすがに堀田罷免を為沖に進言できないでいた。ここで起こったのが今回の為沖暗殺未遂であった。
 数馬は、堀田と和代が為沖を亡き者とし、まだ幼い世継ぎを藩主として立て、藩を自在に操ろうとしたと踏んでいる。多分、為沖と早川も、同じような話をしたはずである。その後、数馬は為沖から命を受けた。

 初冬、昼間であっても山は寒い。数馬と桔梗は落ち葉を集め、その中で横になっていた。桔梗が立ちあがり歩き出したようだ。小用であろう。目を閉じていると、何やらトンビの鳴き声らしきものが聞こえてきた。頭を上げ、見渡すと、五、六間先で桔梗が指笛を吹

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いている。耳を澄ませると同じような鳴き声が遠くからも聞こえてきた。桔梗は、そのまま静かに立っている。四半刻ほども経ったであろうか、遠くに男の姿が見えてきた。二人だ。数馬は刀に手を遣り、伏せていた。男たちも桔梗と同じような格好をしている。桔梗に何かを手渡すと、数馬の方には目もくれずに立ち去っていった。桔梗がニコニコして戻ってきた。手には、竹革の包みがあった。
「さあ、腹ごしらえです」
 見ると握り飯と火で炙ったような肉があった。
「知り合いか」
「いえ。私は猟師ですから」
 桔梗は、それだけ言うと握り飯を喰い始めた。指笛で話をし、顔見知りでなくとも飯をくれる。これが猟師仲間なのであろうか。数馬は、奇妙な感動を覚えていた。

 陽もとっぷりと暮れた。戌の刻も過ぎ、城下には人通りもなくなっているはずである。動き出さなければならない。
 東側の塀に近付いた。見張りの隙をつき、手筈通り桔梗を踏み台に数馬は塀の上に登った。塀の屋根にへばり付き、桔梗に手を伸ばした。桔梗は、腰を落したかと思うと、ひょいっと飛び上がり数馬の手を握った。引き上げるのにさほどの力は要らなかった。
 庭に面した部屋に灯りが燈っている。大広間だ。庭木の陰をつたい近付いてみた。どうやら酒盛りのようである。何人かの笑い声が響く。その中に聞き覚えのある堀田の濁声(だみごえ)もある。甲高い笑い声。数馬の顔は曇った。奥方が来ている。
 二人は、屋敷の中央にある堀田の寝室に向かった。縁の下で戻るのを待つ以外にない。

 既に子の刻に入っているはず。遅い。風は入って来ないが寒い。桔梗も腕を丸め、寒さを凌いでいる。足音と共に堀田の濁声。数馬は、一人であって欲しいと願ったが、甲高い声も一緒であった。他

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の足音や声は聞こえない。二人だけか。と、思ったがスタスタスタと女の足音。腰元であろうか障子を開けている。
「お殿様、奥方様。さー寝衣です。お手伝い……。ほほほー失礼いたしました。余計なお世話。では、お休みなさいませ」
 腰元が出て行くと、後には二人の笑い声。数馬は反吐が出そうになった。早く役目を終らせたい。桔梗に小声で言った。
「良いな、おまえは、濡れ縁の下で見張れ」
 部屋を見ると、障子に微かな灯りが映っている。枕行灯か。数馬は、為沖が下した最悪の判断になるであろうと覚悟した。

 静かに障子を開けた。布団がうごめいている。数馬は布団の端を持った。思いっきり撥ね上げ、二人の前に仁王立ちした。二人は、目を見開いたまま固まっている。事態が飲み込めないでいる。
「堀田大善っ。佐々木数馬、為沖公に代わり成敗する」
「アワッ!」
 と声を上げ堀田は後ずさりした。数馬は、刀を大上段に構え振り下ろした。ビシャッ! 血飛沫の音と同時に、堀田は真二つに割れた。
「ギャーッ!」
 数馬は返す刀で和代を斬ったが、一瞬遅かった。叫び声が上がった。その時、障子が開いた。

「数馬様、急いで!」
 ドタドタドタと足音。
「出会えっ、出会えっ! 曲者じゃー」
 一人が数馬に切り掛かった。数馬は身を落し、その者の胴を払った。グシュッと、くぐもった音。同時にドタッと二つになった体が落ちた。
「桔梗っ、急げ!」
 桔梗は塀に向かって走った。家人が二人、刀を引っさげ数馬に

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迫った。急がなければ。多勢に無勢、勝ち目はない。一人と刀を交えた。もう一人は桔梗を追う。数馬は、さっと屈み、庭先の砂利を掴むと男の目に投げつけた。
「卑怯なっ!」
 男は、目を押さえたままグルグルと回っている。数馬は桔梗に迫る男を追った。一瞬の躊躇いがあったが、後ろから袈裟懸けに斬った。桔梗が塀の下にうずくまった。数馬は背中に足を掛け、ポーンと塀に飛びついた。桔梗に手を遣る。桔梗は、がっしりとその手を掴んだ。その時、ヒューっと音がした。と同時に桔梗が顔をしかめた。数馬の手に重い感触が伝わった。数馬は、両手で桔梗の手を握り、思い切って持ち上げた。勢い余って二人は、塀の外に落ちてしまった。しかし、これが幸いした。塀の外に出てきた者はまだいない。二人は、山に向かって走り出した。桔梗の足が遅い。片足を引きずっているようだ。手裏剣が足に刺さったのであろうか。走りながら声を掛けた。
「大丈夫か」
「どうやら足に……」
「桔梗、そのまま走れ。今は抜かん方が良い。足であれば命にはかかわらぬ」

 山に入った。数馬は、桔梗の手を引いて登った。数馬は気掛かりであった。命には、と言ったものの太股の動脈を切り裂いていれば事だ。運良く追手の声はしない。中腹付近まで来たであろうか、数馬は立ち止まった。

「桔梗、見せてみろ」
 手裏剣は太股に刺さっていた。股の付け根を強く縛り、抜かなければならない。動脈を避けていて欲しいと祈るのみである。桔梗の腰紐は獣の革でできている。都合が良い。数馬は、桔梗の革の服を脱がせ地面に敷き、その上に桔梗を座らせた。数馬も片膝を立て桔

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梗の前に座った。腰紐に手を掛け、さっと解いた。
 焦っていたのだろうか、桔梗の着物まで肌蹴させてしまった。桔梗は、さっと胸を隠したが、数馬は、見た。
 二人の間にしばしの沈黙があった。桔梗は、じーっと数馬の目を見ている。数馬も見つめた。
 急がなくてはならない。数馬は革紐を持ち、股の付け根に手を伸ばした。桔梗は微かに躊躇いを見せたが数馬に従った。数馬が目を遣ると常に桔梗の目がある。桔梗は、先ほどから数馬の目を見つめている。紐で股を思いっきり強く縛った。手裏剣に手を掛けた。数馬は、血が噴き出さないように祈った。手裏剣を一気に抜いた。桔梗が、ウッと呻いた。良かった、血は噴き出さない。数馬の体から、すーっと力が抜けていくようであった。紐を少し緩めてみた。大丈夫だ。傷口からは少しだが血が流れている。これで良い。強く縛ったままでは足に血が回らずに壊疽えそ を起こす。数馬は、自分の腹に巻いている晒しを切り取り傷口に巻いた。始終、桔梗は無言であった。

 さて、江戸に戻らねばならないが、どうしたものか。数馬は思案した。とにかく一刻も早く、この領内から出ることが先決である。桔梗を負ぶうことにした。桔梗に話すと初めて恥ずかしそうに下を向いた。数馬も奇妙な気持ちである。
 桔梗を負ぶい少し進んだが、数馬は落ち着かなかった。体の柔らかさ、特に背中に感じる胸のふくらみに気を取られてしまう。

「数馬様」
 桔梗が口を開いた。耳元に掛かる桔梗の息に数馬は、ゾクッとした。桔梗の声も柔らかく聞こえる。
「数馬様、江戸は遠くございます。私は猟師。猟師仲間に助けを求めたいのですが……」
「拙者が一緒でも構わぬのか」 

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 数馬の口調も何やら変わっている。
「私は、このままが良いのですが、追手も気になります。それにお殿様へのご報告も急がねばならないのでは……」
 桔梗は、また言葉を途中で切るようになっている。
「このままとは、ずーっと拙者の背中にいたいと申すのか」
「はい」
 二人は、初めて心から笑った。

 桔梗は、数馬の背中で指笛を吹いた。驚いたことに、すぐ近くから指笛が聞こえてきた。後で知ったことだが、彼らは近くで事のなり行きを見守っていたと言う。それに桔梗が女である事にも、すぐに気付いたという。気付かなかったのは拙者だけか。美少年と思い込んでいた自分に苦笑した。

 猟師たちの村は、山一つ江戸に近い所にあった。彼らは独自の薬草を持っていた。桔梗は小さな小屋に寝ていたが、数馬は、ひと時も傍を離れず看病した。
 五日ほどが経った。薬が利いたのか若さのためか、回復は目覚しかった。

「桔梗、何故、今まで隠していた」
「え、何をですか……」
「まー良い。ところで爺や婆、それに喜代は知っていたはずだが」
「はい、婆と喜代さんには体を洗っていただきましたから……」
「あの二人も仲間か。上手く口止めしたものだな。どの様に言ったのだ」
「ほほほー、どうしてもお知りになりたいのですか」
 桔梗は、女言葉になっている。
「当たり前じゃ」

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「お二人の前で裸になりましたの。仰天されていました。婆は、しばし腰を抜かしていました」 
「そうであろうな。で、何と言ったのだ」
「男のように育ってきた。でも、数馬様にお会いし、女になりたいと……」
「……」
「手伝ってください。もし、女になれなければ、また、元の桔梗に戻ります。だから、その間は伏せておいてくださいと申しました」
「……」
「お二人は頷いてくださいました。あの時、桔梗は幸せ者だと思いました。そして……生まれて初めて涙がでました」
「……」
「でも、桔梗は、女になれたのか……」
 とその時、猟師の一人が顔を覗かせた。

「良いかな」
「構わん。世話になっている。心から礼を言う」
「おう。仲間から知らせが入った。既に、国許から江戸藩邸に連絡が入ったらしい。城代は失踪、行き方知れず。従って、お家断絶。奥方は、急な病で死去。幕府も了承したそうだ」
「そ、そうか。では、我々には、もう追手は掛からないな」
「当たり前だ。二人のことなど一言もなかったそうだ。何やら佐々木数馬とか申す者、この大事に休みをとり、美しい女と共に旅をしているとのことだとの噂が流れているらしい。おう、いかん、いかん、忘れるところだった。功刀だが、孫の顔が早く見たいと、仲間に五月蝿く言っているそうだ。相変わらず何でも判っているつもりの男だ」
 数馬は、聞きたかった。
「早馬を飛ばせば江戸には、二、三日で着く。今回の件は火急な事柄。藩での処置、幕府の裁量は一両日には付く。だが、おぬしらは

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何故、その様に素早く……」

 猟師はニヤッと笑い、指を口に入れた。そして小屋を出る間際、桔梗の頬をツンと突付いた。桔梗は、真っ赤になって俯いた。


                         (了)














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