九谷 六口 2001年11月10日
                           


 甲子谷(きねや)辰夫は、今朝もつまらなそうな顔で出勤のため家を出た。
 ――皆、一所懸命仕事してるけど、信じられないな。どうせ、後何十年か経てば死んじゃうのに。後の世に名を残す事なんか出来ないし、残したとしても本人には判らない。所詮、人生なんて空しいもの。でも、だからと言って死にたくはないな。食べなくちゃ駄目だから、ま、仕方ない仕事に行くか。
 いつものように会社に向かう。地下鉄に乗り、本を読むでもなく
眠るでもなく、ただ、ボケーっと座席に座っていと……何となく、
視線を感じ始めた。
 ――誰も見てないようだけど……視線を感じる。
 周りを見たが目が合う人は居ない。
 ――でも、感じるな。
 降りる駅が近づくにつれて乗客が少なくなっていく。自然、車内
を見渡せるようになる。
 ――あの老人だ。こっちを見てる。何故だか嬉しそうに微笑んで
いる。こっちに来るよ。気持ちが悪いな。あっ、そうか、席を替わ
って欲しいんだ。
 甲子谷が見ていると、老人が目の前に立った。
「どうぞ」
 甲子谷は立ち上がり、手を座席に向けた。しかし、老人は座る様
子も見せず甲子谷の前に立っている。知り合いの二人が立ち話をし
ているような雰囲気である。
「甲子谷さんですね。甲子谷辰之進殿ですね」
「甲子谷ですが、辰之進なんて名前ではありませんが」
「いや、失礼しました。でも甲子谷さんですね。やっと。お会いで
きましたね。嬉しいです」
「確かに私は、甲子谷ですが……。失礼ですが、以前お会いしたこ
とがありましたか?」
「甲子谷さん、車内では、何ですから、ホームに降りませんか?」
「申し訳ありませんが、会社に遅れますので……」
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「あー、会社ですか……。会社ね~。私の話を聞いていただければ
会社なんてどうでも良くなると思いますが……」
 甲子谷は、悪い予感がした。
「済みませんが、会社に行きますので……」
 席に座ろうとすると、
「ま、そう言わずに……」
 と老人は甲子谷の手を取ったが、その力に甲子谷は驚いてしまっ
た。その態度には、ウムを言わせないものがあった。

 ホームの真ん中にあるベンチに座り、老人は語り始める。
「お会いしたのは貴方のご先祖です。甲子谷辰之進殿です。辰之進
殿がご先祖であることは、ご存知ですよね?」
「知りません。何年前の話ですか?」            
「かなり前のことです。貴方は、辰之進殿にソックリですよ」 
 この老人はボケが始まっていると甲子谷は思った。
「かなり前ですか、じゃー、私には関係ないことですね。それに、
先程も言いましたが辰之進などという名の先祖がいたかどうかも知
りません。まだ間に合いますので会社に行きます」
「会社に行っても、ただボケーッとデスクの前に座わり、あー、く
だらない。どうせいずれは死んじゃうのに。所詮、人生は空しいも
の、と適当に仕事をするだけでしょ」
 甲子谷は、何故、この老人がそんな事まで知っているのか気味が
悪くなったが、話を聞くくらいなら良いかなと思い始めた。
「判りました。まだ十五分くらいは余裕がありますので、お伺いし
ましょう」
「いや、ありがとう」
 老人は語り始めた。

「甲子谷辰之進殿にお会いしたのは、関が原の戦いの最中でした。
私は、この戦いにも空しさを感じていましたが、義理のためでしょ
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うか、大阪方に参加しました」
「関が原? 義理? 誰に対する義理ですか?」
「そう急かせるものじゃない。太閤殿じゃよ。豊臣秀吉、関白殿に
命を助けられたのじゃ」
「豊臣秀吉? 失礼ですが、貴方はお幾つですか?」
「拙者は、いや、失礼。私は、四百四十五歳になります」
 甲子谷は、人生に一度くらい、このような狂人の話を聞く事があ
っても良いのだろうと思い始めていた。仕事など、どうでもよくな
っていた。

「秀吉殿は、全国を征した後、種々の政策を施し日本を平和な国に
したが、それはそれは素晴らしい天下人でありました。しかし、年
を取ってからがいけなかった。女子に手を出すわ、利休に切腹を命
じるわ、少々頭がおかしくなっていたのかも知れませんな。利休が
死んだ翌年じゃった。大阪城に全大名が呼びつけられたのじゃ。主
だった武将も一緒じゃった。拙者、乙城おつぎ兵衛も大広間に正座しておった。何故、呼びつけられたかは誰も知らんかった。あの光成茶坊主は事情は知っていたようじゃが、太閤殿がどのような決断を下したかは聞かされていなかったようじゃった」
 乙城は、フッと息を吐いた。
「皆、静まり返っておった。太閤殿が高座に座られた。皆、固唾を
飲んでお沙汰を待っていた。緊張しておったよ。わしもあのような
緊張感は生まれて初めてじゃった。その時じゃ、何とした事か、ブ
ーッ! と、大きなオナラをしてしまったのじゃ。屁じゃよ。屁。
普通であったら、ドッと笑い声が起こるのじゃが、さすがにこの時
は違っていた。シーンと静まり返っているだけじゃった。わしは、
青ざめるどころではなかった。静かに立ち上がり頭を下げ退出しよ
うとした。屋敷に帰り切腹を覚悟したよ……」
 まるで昨日の事を思い出したかのように、乙城は、またフーッと
息をついた。
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「その時じゃ、太閤殿が、乙城殿近こう、と手招きをするのじゃ。
太閤殿が家臣に殿をつけて呼ぶ事はない。わしは恐ろしかった。大
勢の前でどのような叱責を受けるのか、生きた心地はしなかった。
皆の一番前に進み出ると太閤殿は、もっと近こう、と言う。高座の
端に座ると、もっと、もっと、と言うのじゃ。覚悟を決めて傍に行
くと扇子をひろげ、耳打ちするのじゃ。そしてこう言った。
『感謝するぞ兵衛。お主の馬鹿でかい屁で決めた。景気の良い屁で
あった』
とな。わしは何が何だか判らず気が狂う思いじゃった。そして、こ
の指輪をくれたのじゃ。太閤殿は大声で、乙城殿、席に戻って頂き
たい、これから重要な沙汰を下す、と言ったのじゃ」
 乙城はジロッと甲子谷の顔を見て言った。
「その時のお沙汰が、朝鮮出兵じゃった。後で茶坊主に聞いたが、
太閤殿は皆の前に座った段階でも、まだ決めかねていたらしいのじ
ゃ。それが、わしの景気の良い屁を聞き決心したというのじゃ。あ
の朝鮮出兵が何とわしの屁で決まったのじゃ。こんなものじゃよ、
世の中などは。空しいものじゃ。いずれにしても、本来であれば切
腹であったものが生き延びた訳じゃ。ひ弱な屁をしていれば、この
ような事にはならなかったのにな。その場で切腹だったかも知れぬ
が、その方が良かった……」
 乙城は何か意味ありげに言葉を切った。

「これが太閤殿に対するわしの義理じゃ。この時以後、わしの渾名
は、武平になってしまったがな。朝鮮では酷かった。人間の醜さ、
残酷さを絵に描いたようなものじゃった。意義を感じないで人を殺
す空しさは、例えようもないものじゃ。わしは殺し合いがいやで山
奥で休もうと思ってな。竹林を分け入っていた時じゃった。おうお
う、甲子谷殿は朝鮮には虎がおったことはご存知か」
「加藤清正が虎退治をしたと話に聞きましたが……」
 乙城は、ウンウンと嬉しそうに頷いてから語り出した。
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「わしも大虎に出会ってしまったのじゃ。すごい虎じゃった。頭か
ら尻尾まで十五尺はあろうかという大虎じゃ。黄金に輝く目をして
いてな。でかい目じゃ。わしを睨みおってな。わしは諦めたよ。刀
を抜いていても意味はない。刀を納め、わしも大虎を睨み返してい
た。どのくらいの時間、そうして睨み合っていたかの……。だが、
大虎は襲って来んのじゃ。黄金に輝き澄み切った目じゃった。その
うちに大虎の話が聞こえてきたのじゃ。不思議な出来事じゃったな
ー。虎の話が判るのじゃよ」
「ちょっと待ってください。虎が人間の言葉を話す訳ないじゃない
ですか」
 乙城は、甲子谷を睨んだ。
「黙って聞きなさい! 内容は、こうじゃった。『この国に対する
仕打ちは許す事はできないが、秀吉は近々死ぬ。この殺傷は、お主
のせいではないことは判っている。しかし、屁が決め手になったこ
とも事実。お主には呪いを掛けることにした』話し終わると大虎は
消えるように去っていったよ。全く音がしなかった」
「大虎は、何だったんでしょうね?」
「判らん。今になっても判らん。神か仏か? 朝鮮半島の守護神だ
ったのか? 判らん」
「呪い、って何だったんですか?」
「その話の前に、朝鮮出兵のその後を話した方が良いだろう。大虎
が言った通り、太閤殿は次の年に死んだ。太閤殿が死に、朝鮮への
出兵は全く意味がなくなった。たった一人の人間の妄想で大勢の人
間が死ぬ。空しいではないか。わしは、益々人生が判らなくなって
いった。日本に帰るには海を渡らねばならない。何隻もの船が用意
された。そして何隻もの船が海に沈んでいった。わしが乗った船も
沈んだが、助かったのはわしだけだった」
 喰い入るように話を聞く甲子谷だったが気に留める乗降客達はい
ない。
「日本は、変わろうとしていた。その動きを左右できるのは、徳川
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殿だけじゃ。この事は誰もが判っていた。しかし、それを許しがた
いと思う連中がいた。豊臣の連中じゃ。茶坊主を筆頭に豊臣の時代
を続けたかったのじゃ。これは致し方ないことじゃ。そして、徳川
殿が仕掛けたのが関が原の戦いじゃ。日本が二つに分かれた。日本
の平和は、一つの勢力の元に成される以外にないようじゃった。徳
川の時代が来る事は判っていた。茶坊主も、そんな事は判っていた
はず。判っていながら遣らざるを得なかったのじゃ。わしは、どち
らでも良かった。豊臣の連中は、武兵はどうするのじゃ、としつこ
く聞いた。わしはあの時以来、武兵の名により有名人じゃったから
のー。馳せ参ずるのであれば大阪方以外になかった。太閤殿に一度
は命を助けられたからのう。参加はしたが徳川方を切るつもりはな
かった。手柄などは、どうでも良かった。戦場から少し離れた山の
中で戦況を眺めていた」
 急に笑顔になった乙城。
「そんな時、甲子谷辰之進殿に出くわしたのじゃ。凛々しい武者姿
であったよ。山の中で対峙し、名乗りをあげて刀を交えた。腕が立
つ武将だった。わしは、甲子谷殿であれば切られても良いと思った
が……。激しい戦いだったよ。腕の立つ者は刀を交えながら相手の
内面を知ろうとする。先の動きを読むためにな。甲子谷殿は気が付
いた。わしに殺意がないことを。甲子谷殿は刀を下げた。わしも刀
を納めたよ。甲子谷殿は近寄って来た。そして、わしに聞いた。何
故、参戦したのかとな。わしは太閤殿のことを話したよ。甲子谷殿
が語りだした。日本を平和にするには徳川殿の力に頼る以外ない。
早くこの戦いを終わらせなくてはならないとな。平和を作りあげる
過程には、いろいろと汚い事もしなければならないが致し方ない。
乙城殿も同じ考えだろうとな。全く同じ考え。敵味方であったが、
打ち解け合う事が出来た。二人は別れたが、別れ際に平和な時代に
再会する事を約した。しかし、甲子谷殿は戦の最中に倒れたと聞い
た。わしは残念じゃったが仕方がない。わしは信じておった。甲子
谷殿の事じゃ、なんらかの形で再会を果たしてくれるだろうとな。
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そして甲子谷さんに会った」
 甲子谷は、辰之進の姿を思い浮かべた。自分とは違い強い志を持
った先祖がいた。長い年月が自分のような空しさしか感じない人間
を作りあげてしまったのだろうと自嘲気味に笑った。
「ところで、呪いについて、まだ、話してくれていませんが……」
「おう、そうじゃった」
 乙城は指輪をいじりはじめた。他の指は枯れ木のようであったが
指輪をはめた左手の薬指だけは、まるで若者の指のようにしっかり
している。指輪は指に食い込み、体の一部のようになっている。そ
の指輪を外し、甲子谷に手渡した。
「どうじゃ、太閤殿の指輪じゃ」
「金ですね。黄金の指輪ですか。きれいですね……」
「ちょっと、はめてみたらどうじゃ」
「そうですね」
 甲子谷は、軽い気持ちで指輪をはめてみた。
「ぴったりですよ。驚いたな……。あれっ! 抜けませんよ」
「抜けなくて良いのじゃ。わしも今日まで抜く事はできなかった。
君にあげるよ」
「でも、こんな高価で由緒あるものを頂くわけにはいきませんよ。
でも、抜けない!」
 乙城はユッタリとベンチにもたれかかり、遠くを眺めるような眼
差しになって語りだした。

「甲子谷さん、わしは、これ以上空しさを感じながら生きていくの
が辛くなった。済まないとは思ったが指輪を渡す事にした。呪いは
な、この指輪にかかっているのじゃよ」
「どう言う事ですか?」

「大虎の話をしたが、先程の話は半分だけじゃった。大虎はな、こ
の指輪をしている以上、空しさの中で生き続ける、との呪いを掛けたのじゃ。死にたくなっても死なんのじゃ。しかし、体はこのよう
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に衰えていく。多分、七十歳を越えた位の体だと思うが……。最近
は、ドッグイヤーとか言って、総てが七倍の速さで進むなどとホザ
いているが、わしはその逆、七倍の遅さじゃ。大虎は、こうも言っ
た。命がけで戦った後、真に打ち解ける事ができた者にこの指輪を
渡す事ができるとな。しかも、お主と同じように人生に空しさを感
じている愚か者であれば、との条件付きじゃった」
 甲子谷は、ただ驚いて乙城の話を聞く以外になかった。
「日清、日露、先の第一次、第二次大戦にも参加したよ。どんな厳
しい局面に遭遇してもわしだけ生き残こった。大虎の呪いは凄いも
のじゃ。命がけで戦い、指輪を渡せる相手を探したが居なかった。
命がけで戦い、打ち解ける事ができたのは甲子谷辰之進殿だけじゃ
った。しかし、甲子谷殿は人生に空しさなどは抱いていなかった。
諦めかけていた時に甲子谷さんに出会った訳じゃ。甲子谷殿の子孫
じゃし空しさを感じている。条件にピッタリじゃ。飛び上がりたい
ほど嬉しかったよ」
「しかし、酷い話じゃないですかっ! 直接関係のない私に、そん
な事をするなんてっ! 私の先祖、辰之進は、こんな事のために再
会を約束したんじゃないでしょう! 辰之進に申し訳が立たないで
しょう! 酷い人だっ!」
「そうじゃよ、その通りじゃ。甲子谷さんの言う通りじゃよ。でも
な、これが人生じゃ。理不尽なものよ。わしの屁もそうじゃ。理由
などない。結局、己の事が一番なんじゃよ。許してくれぬか。と申
しても許せるものではないじゃろうが後戻りは出来ん。これが現実
じゃよ。甲子谷さんが、これからどのような人生を送るか、わしは知らん。わしは、やっと空しさから開放され死ぬ事ができる。幸せ
な気持ちと言うのを生まれて初めて味わったよ」
 乙城は笑みを浮かべながら、枯れ木が折れるように体を倒した。
 甲子谷は途方にくれた。だが、余りの出来事にその場を動く事ができなかった。指輪は、しっかりと薬指に喰い込んでいる。
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 乗客の通報により、公安官と警官が甲子谷を逮捕した。
 ホームレスの金の指輪欲しさに犯した強盗殺人容疑である。死因は窒息死。被害者の体に痕跡はなかったが、高齢であるため口と鼻を塞がれただけで死亡したとの検死結果。
 指輪の指紋は、老人と甲子谷のものだけ。老人の左手薬指には、指輪をはめていた痕跡がくっきり。甲子谷の指輪を外し検証することは、出来なかったが疑う余地はなし。指輪は、この老人のもの。
 裁判で甲子谷は、指輪は老人から貰ったものであり老人の体には
指一本触れていない事を主張する。だが、誰も耳を貸さない。余りの理不尽さに甲子谷は、裁判中にもワメキ散らした。裁判長の心象は、裁判毎に悪くなっていった。
 しかし、さすがに乙城から聞いた話はできない。精神鑑定に持っていかれる事は必至。悶々と裁判を受ける以外になかった。

 判決が下った。反省の色は全くなく、裁判に対し侮辱にも値する
態度。情状酌量の余地もない。依って、終身刑。

 ――終身刑っ! 死ぬまで刑務所? 死ぬまで……?

                          (了)




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