エーッ、落語には、物事にこだわる人物が良く登場いたしますようで……
「変だね、隣の若夫婦、今夜は静かだね。いつものように激しい声を聞かせて欲しいね」 うだつのあがらない一人暮らしのこの男。
隣に越して来たばかりの若夫婦の声を壁に耳をあてて聴くのが唯一の楽しみ。特に夜が来るのを今か今かと待っていると言う、全く情けない男。
今晩は、どうしたのかヒソヒソ話しています。
「どうしたんだ、体の具合が悪いのかい。歯を食いしばってるじゃないか」 「違うわよ。このアパート、隣に聞えちゃうんだって」
「何が?」 「鈍いわね。声よっ! 今までの様には出来ないわっ。恥ずかしいもん」 これを聞いた、隣の男。これじゃー、つまらない。
思わず…… 「奥さん、大丈夫ですよ。聞えませんから」
まー、何と言いますか…… 似たような噺は、いくつもあるようですが……
なかなか優秀な男がおりまして、会社の経営陣も実力を認めています。現在の仕事にも、また、今後の事業計画にも主要な役割を担っています。
将来を約束されていると言っても過言ではありません。しかし、全く問題がなければ、落語には登場いたしません。 たった一つだけ普通の人と、違った
ところがございます。 数年前のことでございます。この男が入社し、2年が過ぎた頃です。この頃から同期の連中とは異なり、素晴らしいアイデアを提案するわ、
実績は残すわ、明るい性格で職場の雰囲気を盛り上げるわで、「この人は、エリート」とのレッテルを貼られておりました。 経営陣も、好ましく思い、
翌年の人事におきまして、異例の抜擢をいたしました。 入社3年目で「課長」を任命したのであります。当然、この会社にとって初めての事でございます。
経営陣は、さぞかし本人も喜ぶ事だろう。益々、張り切って仕事に邁進するだろうと、ニコニコしておりました。 内示が、掲示板に掲載された翌日、この男が
人事部長の部屋に参ります。 「君、会社が決めた事だ。私の一存ではない。まー、君も知っての通り私の発言力は他の人とは違うがね。ウォッホッホー。気持は
判るが、わざわざ礼など言いに来なくて良い」 「部長、違います。辞めさせてもらいます」 「なにっ!辞めるーッ? どう言うことかね」
「私自身の事に関し、私以外の人間が、とやかく考え、勝手に決める事には我慢ができません。何故、私に何の相談もせずに私自身の事について決めるんですか」
「しかし、君ー。人事とは、そう言うものだよ。いちいち本人に相談なぞ、せんよ」 「やはり、そうですか。許せません。辞めます」 「ちょっと待ちたまえ。
では、どうしろと言うんだね」 優秀な人間です。言ってることはメチャクチャですが辞められては困ります。社長からなにを言われるか判りません。下手を
すれば左遷です。 「私は、自分に関する事については、常に第一人者でなければならないんです。これは、私にとって絶対的な意味を持ちます。もし、第三者的な
存在であると感じた場合、私自身の存在の意味がなくなります」 子供じみた我がままと言えなくもありませんが、本人は、大真面目。 兎に角、辞められ
てはたまりません。 「判った。今後から君の事について話し合う時は、必ず君に参加してもらおう。約束する。今回の件は、済まなかった。ま、そう言う事で
了承してくれないか」 部長は、何故謝らなければならないのか、不愉快で仕方がなかったのですが、この場は、丸く収めたい、との思いで一杯。
「部長、約束してくれますね。判りました、課長を遣ってあげましょう」 部長は、苦虫を噛み潰した面持ち。 この男、子供の頃、テレビ・ドラマを
見ていましたが、ナレーターが、 「彼は、この時、3ヵ月後に過酷な人生が待ち受けている事には気が付いていなかった」 と語った時、不思議な気分になった
ことがあります。 「なんで他人が、そんな事を言えるんだ。そんなのおかしい。過酷な人生が待ち受けているのにこの主人公は、全く気が付いていないし、
ヘラヘラしている。こいつは馬鹿だ。自分は、こんな主人公のようにはなりたくない」 子供でしたから真剣に考えたんですね。この思いは、深く心に刻み込まれて
しいました。 そして、年とともにこの思いは強くなります。 少し離れたところで、友人連中が話しています。そんな時、ちょっとでも自分の名前が出ると
もういけません。飛んで行って相手の都合も考えず、自分について何を話したのか聞きただします。本人も気が休まる暇がありません。耳は、ダンボです。どんな些細な
内容も逃しません。周りの人間は、こんなことの繰り返しですので、もうゲンナリ。面倒ですので、彼のことについては、話さなくなります。本来、自分の事が、
話題にものぼらなくなると言うことには寂しさを感ずるものですが、彼に取っては平穏な時間を保証されたようなもの。 何しろ優秀な社員でしたから、
トントン拍子に昇進を繰り返し、社長に。 自分に関する情報網、会社に関する情報網は完璧です。情報網とは言っても、別に他人の情報を集め悪用するなどと
言った事はいたしません。従って、敵はいません。経営は順調。人望も集まります。このままの人生を歩んでいれば問題はありませんでした。
「まてよ、誰かが私の寿命を知ってるかもしれない。人間は必ず死ぬ。これほど確実な事はない。知っている者がいるはずだ。私は、自分の寿命を知ら
なければならない」 ここから彼は変わっていきます。あらゆる文献を読み漁り、坊さん、神父、医者、哲学者を訪ね歩きますが、寿命など判ろうはずがありません。
しかし、その事が頭から離れません。 「誰も、そんな事を知っている者などいないと言う。私には、まだ遣らなければならない事 が山ほどある。寿命が判れば
計画も立てられる。成し遂げずに死ぬ事などできない」 多少、頭のネジが変な方向に向きだしたようです。 「閻魔大王だっ! 彼に聞けば判るはずだ。
何故、もっと早く気が付かなっかたのか」 世の中とは面白いもので、閻魔大王に会いたいとの思いが通じ、閻魔様の小間使いが訪ねて来ます。 「あなたですか、
大王にお会いになりたい方は」 「エッ、会えるんですか? どうすれば良いのですか」 「最近、大王はお忙しい。予約も詰まっています。今、予約しても貴方の
正規な順番は、 5年後になります」 「そんな冷たいことを言わず、何とかしてください。方法はあるんでしょ」 「それほどまでおっしゃるのでしたら、
お教えしましょう。金次第であります」 この男、ふっと、地獄の沙汰も……の言葉を思い出します。
一週間後、小間使いと共に閻魔様に会いに行きます。 「そなたか。しかし、結構、会見料を払ったものだな。熱心でよろしい。して……何が知りたいのだ」
「閻魔大王様、私の寿命を教えていただけませんか。私は自分の事は何でも知っておきたいのです。それに寿命が判れば、計画的に物事を処理できます。遣り残したままでは
、死ねません」 「そうか、調べてみよう。これ、そこにある寿命台帳を取ってくれ」 分厚い台帳が閻魔様の前に置かれます。 「氏名、生年月日、住所、電話番号、e-mail
アドレスを教えてくれ」 何故、電話番号、e-mail
アドレスが必要なのかは判りませんが、素直に伝えます。 「最近は、便利になったものだ。このPCには、台帳の内容が登録されている。e-mailアドレスを入力すれば、
該当者ページが、すぐに出てくる」 あくまでも寿命台帳に記載されている内容が正式なものです。 閻魔様は、毎日分厚い台帳に目を通して寿命期限をチェックします。
期限切れが近い者の名前を寿命期限通知伝票に記入しサインをします。この伝票を秘書官に渡し、正式な手続きがスタートします。 何しろ寿命台帳は、六十五億ページも
ありますので、仕事とは言え、最近は目が遠くなり面倒になっきています。そこで、PCを導入しシステム化した次第です。当然、このPCは誰にも触らせません。総て閻魔様が
操作します。寿命期限が近づいた者を自動検索してくれますので、毎朝、画面を見れば該当者を教えてくれます。便利になったものです。早速、e-mail
アドレスを入力します。 「ヤヤッ、変だぞ。期限の欄が空白になっている。秘書官、12億9734万8056ページを開いてくれ」 閻魔様、入力するのを忘れて
いたようです。 「台帳によりますと10月13日になってます」 「今日は、何日だ」 「はい、18日です」 期限が過ぎています。自動検索しても出て
こないわけです。閻魔様のミスです。 『しまった。最近ボケが出てきたな』 口には出せません。 「秘書官、対処方法が二つあったはずだが」
「はい。一つは、即、地球に戻し事故に合う方法です。もう一つは、寿命超過分をここでの仕事で償う方法であります」 驚いたのは、この男の方でありまして、
『どうなってるんだ。自分達のミスでありながら、ゴメンナサイの一言も無い。事故だとっ。冗談じゃない。それに寿命超過分だと。借金の返済遅れではないんだ』
口には出せません。 「そのほう、どっちが良いかな。多額の会見料金も受け取っていることだし、そのほうの好きにして良いぞ」 この男にとって、一つだけ
許される事は、自分の事に関し自分も参加していると言う事だけであります。 「私といたしましては、事故というのもどうかと思います。超過日数を、ここで働きたいと
思います。ところで、どのくらいの期間なのでしょうか」 「五日間という事は、73倍して、ちょうど一年間である」 「一年ですか。何故、73倍なのでしょうか」
「7も3も素数である。73も素数である。これは素晴らしいことである。従って、地獄では73と言う数字は滅多に使われない数字である。そなたに、この数字を使う事は、
そなたにとっても幸せな事と思わなければならない」 『何が、幸せだ。たった5日間が一年になってしまう。まったく勝手な連中だ。しかし、仕方がないな』
「ところで、一年間、仕事を勤めた後は、どうなるんで……」 「余計な事を心配せんでよい。一年後に、会議を開き処分を決める」
仕事は、釜炊き。大釜に油と血を入れ、グツグツ煮立てます。亡者が、この釜で茹でられます。真面目に仕事に勤しみますが、燃料は薪ですので効率が悪いし調達が
大変です。 元々、優秀な男であります。早速、ガス釜を提案します。特注のガス・バーナーが使われます。四六時中、温度を見張っているのも非効率との事で、
温度自動調整機も導入します。 地獄も、かなり合理化されていきます。 「あの男、なかなか良く働くし近代化の提案も的を射ている。良い男を雇ったものだ」
閻魔様はご機嫌であります。 一年が過ぎようとしています。会議が開かれます。この会議は、極秘会議ですので、閻魔様と幹部だけが参加します。 「どうかね、
あの男。なかなか良く働いているし、いろいろ提案し効果があがっている。特別処置を考えても良いのではないか」 閻魔様、この男にほれ込んでいます。タイミング悪く、
あの男が、会議室の前を通ります。ヒソヒソ話が聞えます。性分は変わりません。耳を壁に押し当てます。 『な、なんだ、俺の事を話し合っている。これは参加しなければ……』
よせば良いのに、会議室に飛び込んでしまいます。 驚いたのは閻魔様と幹部達。前代未聞の事態であります。 「そのほう、規則を破ったな。折角、良い処置をと思っていたのに、
何て馬鹿なことを仕出かしたのだ」 閻魔様も、どうしようもありません。 「秘書官、刑罰を述べてみよ」 「はい。刑法、第五万二十五条、犬罰が該当します」
この犬罰は過酷なものでありまして、犬に生まれ変わる、と言う刑罰であります。 しかも、一度でも吠えると永遠に釜茹でという過酷なものであります。この男、
さんざん釜茹での亡者たちを見ています。なんでも自分の事を知りたがった事を後悔しましたが時既に遅しであります。
「なんだい、また、あの犬が来ているよ」 ここは、この男が社長を遣っていた会社の前であります。 「変な犬だよね。耳がやたら大きく、吠えた事がない。
いつも、クー、ククン、モニョモニョと呟いている。ツブヤキ犬だね」 「そう言えば、前の社長に似ているね」 「言われてみれば、そっくりだ。前世は、あの社長だったん
じゃない」 犬の周りに大勢が集まってきます。 「あの社長は、いろいろと嗅ぎまわっていたし、ひょっとすると前世は犬だったんじゃない」 「前世も、生まれ変わりもないわよ。
そんなのオカルトの世界。まるでナンセンス」 「この犬に聞いてみたら。お前の前世は、前の社長かって。その前は、犬。何遍、犬と人間を繰り返したんだっ?」
「おい、犬! どうなんだい。何遍だっ! おい、犬……」 もう、五月蝿くてイライラしてきます。 「おいっ、犬。おいっ! 何遍、生まれ変わったか、って聞いてるんだぞ!!」
流石に堪忍袋の緒が切れます。 急に、大声で吠えてしまします。 「ウー、…… ワン!」 エーッ、お後がヨロシーようで…………
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