譚 綴(たんこう)










      「 寒 椿(かんつばき) 」        九谷 六口








   
                
                     二00三年 十一月 二十四日 

                  






     一

「お奉行、錆は一日や二日で出るものではございません。誰がと申
されましても……」

 島岡藩武具奉行所同心、染谷隼人(そめやはやと)は奉行河原崎兵庫と言い争ってしまった。藩主高虎の槍に錆が出たのだ。奉行は誰が当番であったかと血相を変えて追及した。誰が担当の時に錆が出たかなど判ろうはずがない。武具奉行所では、島岡藩の刀や槍、長柄物、弓矢、鉄砲、そして胴具足、足軽具足、陣幕さらには陣笠に至るまで管理する。
 隼人は、形相を変え、大声で怒鳴る河原崎を見て情けなくなってしまった。
 ―― 既に太平の世の中ではないか。これらの武具を使って戦さなど……。ましてや、藩主が槍を持って戦場に出向くことなどあり得ない。たかが一寸にも満たない薄っすらとした錆ではないか。

「では、隼人、おぬしはこの錆をどのように考えるのか。これで良いと思っているのか」
「これは我々の手抜かりでございます。ご家老の目に止まれば、お咎めは免れないと思っております」
「我々? 馬鹿を言うものではない。我々の中の誰かだ。責任逃れを言っているのではないだろうな」
「滅相もございません。ところでお奉行はどの様にして責を負うべき者を捜すおつもりでしょうか」
「であるからして、このように寄り合っているのであろうが」
「我々は五日置きに任務を交代いたします。錆は五日以内に出て来るものでしょうか。扱いが悪く疵を付けたというのであれば兎も角……」

(1)





「隼人、屁理屈を言うものではない。要は錆が出たと言うことだ」
 結局、河原崎も誰の責であったか判断することは出来なかった。
隼人は寄り合いの後、河原崎の詰所に行った。

「お奉行、研ぎに出せば問題はないと思いますが」
 河原崎は眉間(みけん)に皺を寄せて言った。
「判っておる。だがな、あってはならぬ事。拙者はそれを言いたい
のじゃ」
 槍は密かに研ぎに出された。

 微細な錆…… 隼人は辟易としてしまった。使う当てもないであ
ろう武具を後生大事に管理する。これが自分の勤めであろうか。
 家光の世になり、徳川幕府は安定の時代に入っている。天下は落
ち着き、藩主は自藩を滞りなく治め、参勤を行なえば良い。他藩で
は一揆や乱などが発生し、九州では島原の乱も起きているが、島岡
藩ではそのような事態は一切起きていない。


     二

 隼人の父、佐門は胃の腑が弱く、五十歳になると隠居を決めこみ
隼人に家督を譲った。隼人が二十歳の時である。今は趣味と実益を
兼ね、盆栽や朝顔を作っている。朝顔は同好の者たちと変種の育成
を競うほどの腕前で、初夏になると自慢の鉢を十も二十も朝顔市に
出している。
 妻真琴との間に子供は隼人だけである。夫婦になった頃の真琴は
体が弱かった。佐門は真琴の体を考え、子供は一人と決めていた。
隼人が生まれた時の佐門の喜びようは喩えようもないものだった。
真琴は、これで染谷家は続くと耳にたこが出来るほど聞かされたも

(2)





のだが、今は真琴の方が丈夫である。
 隼人は釈然としないまま、いつもの家路を歩いていた。屋敷まで
一町ほどの所に来た。
 ふと見ると、綺麗な花が目に飛び込んできた。小さな白い花であ
る。花弁の真ん中には、雌しべであろうか黄色い筒のようなものが
ある。毎日通っていながら気付かなかった。隼人は足を止めて見つ
めた。改めて見ると、この屋敷の生垣は綺麗に刈り込まれ、庭には
植木が形よく植えられている。
 隼人は誰もいないだろうと思い、花を見ていた。その時、竹箒を
持った娘が庭に出てきた。娘は隼人に気付き、軽く会釈をした。隼
人は何となく気まずさを感じた。綺麗な娘だ。娘が庭を掃きはじめ
たが、隼人は会釈をしただけで屋敷へと向かった。

「母上、この先の屋敷に綺麗な花が咲いていましたが、ご存知でし
たか」
「まあ、今日に限って、そのような事を」
「先程、気付いたものですから」
「まあ、隼人はいつも同じ道を通っているのに今まで気付かなかっ
たのですか」
「はい」
「まあ、呆れたお方ですこと。隼人の関心はお仕事と剣道だけ。お
勤めに精を出すのは良いことですが、相変わらずの朴念仁」
「母上、お小言はそれまでにして花の名前をお教えいただけません
か」
「まあ、話を逸らそうとして……。あの花は寒椿の一種で、名前は
侘助(わびすけ)ですよ」
「侘助ですか。花の名前としては変な名前ですね」
「侘助とかいうお名前のお茶の先生が好きだったそうですよ。そん
なこんなで、そう呼ばれるようになったと聞いてます」

(3)





「そうですか」
「人様のお庭を覗いてはいけませんが、あちらのお宅では季節ごと
に綺麗な花を見ることができます。母も楽しみにしています。とこ
ろで隼人、少しはご近所を知っておかなくては駄目ですよ」
 真琴は隼人の話を聞くと、まあ、と前置きしてから話しだす。そ
して必ず小言で話を終える。娘のことは訊かなかったが、隼人の頭
に侘助の名前とあの娘の顔が残った。

 隼人は相変わらずの毎日を送っていた。ただ違ったのは、朝夕、
例の屋敷の前を通る時には庭を眺めるようになったことだ。侘助は
綺麗に咲いている。だが娘に出会うことはなかった。
 非番の日になると隼人は必ず道場に通ったが、これは佐門の教え
であった。
 佐門は、隼人に執拗に体を鍛えるように言った。自分の様になっ
て欲しくないからだ。若い頃の佐門は痩せていたが別に病に罹るこ
ともなく丈夫であった。だが、隼人が物心付いた頃から胃の腑が弱
くなり、さらに細い体になっていった。医者にも診てもらった。医
者は命に別状はないが胃の腑が下がっていると言った。痩せている
者に多く見られる病で、気の使い過ぎではないか。このままでは食
べたものの(こな)れが悪く、体重も増えず体力も付かない。とりあえず仕事を休めと言った。どうすれば治るかとの問いに、医者は太れば自然と胃の腑が持ちあがり治ると言った。相矛盾する話。この時、佐門は隼人の成長を待ち、早めに家禄を譲ろうと思った。
 武具奉行所に勤めていた頃の佐門の仕事は大変であった。大阪の
陣で使った武具などが泥が付いたままで放置されていた。
 島岡藩の人口は、七万五千人。その中で武士は、四千五百人である。本来、武士たちは自前で武具を揃えるが、藩としても武具を揃
えなければならなかった。まず島岡家の武具、さらに武士に対する

(4)





補充用の武具である。また、下級武士の中には自前で揃えることが
出来ない者も多くいるし、特に足軽具足などは数も多く、藩が用意
しなければならなかった。膨大な数の武具、陣幕、陣笠などの補修
や手入れ、それらの記録など多忙を極める日々が続いた。これらは
只の武具ではない。藩主島岡家のものである。たとえ使えそうもな
い武具であっても、ご家紋がある以上おろそかにはできなかった。
 休みを取るなど、佐門には考えられないことだった。


     三

 隼人が通う道場は、あの屋敷とは正反対の方角に位置していた。
遠回りになるが足は自然とあの屋敷へと向いていたが、やはり侘助
が静かに咲いているだけであった。
 道場から戻り、部屋に入ると文机の上に花が活けてあった。侘助
である。隼人は大声で母を呼んだ。真琴が笑みを浮かべながらやっ
てきた。
「母上、この侘助、どうされたのですか」
「田宮のお嬢様からいただいたものですよ」
「田宮……」
「まあ、貴方が侘助を見たお宅です」      
「しかし、何故ここに」
「いえね、母も侘助が見たくなってお屋敷に行ったのですが、ちょ
うどお嬢様が庭の手入れをなさっていて、綺麗ですねと申し上げた
ら、一枝どうぞと手折ってくれました」
「母上は、その田宮家の方々とは面識がおありなのですか」
「まあ、貴方は田宮様がお父様と、この()で碁を打っているのをご存じないのですか」
「は、はい」

(5)





「まあ、朴念仁もそこまでいけば大したもの。少しは周りのことに
も気を付けなければ…… 二十三になると言うのに、この先、母は
心配です」
 また小言で終った。隼人は娘の名前を訊きたかったが、真琴はこ
れだけ言うとさっさと部屋を出ていってしまった。何もない殺風景
な男の部屋。そこに活けられた侘助は、隼人の目に輝いて見えた。

 役所に行くと、何やら皆が落ち着かない様子でいた。これから家
老のお達しを聞くという。用人が内容を読み上げたが、隼人は愕然
とした。奉行が解任されたという。理由は、お役目不行き届き。例
の錆が原因であった。
 槍は内密に研ぎに出されたが、どうやら研ぎの者から話が漏れ、
誰かが家老に伝えたようだ。いわゆるご注進である。表沙汰になっ
た以上、家老の堀田も放ってはおけなかったらしい。
 目付が河原崎を吟味した。その時、河原崎は自分の手落ちと頭を
下げたと言う。表沙汰になっていなければ堀田も目を瞑ることがで
きただろうが、瑣末(さまつ)なことに目くじらを立てる輩がいる。
 世の中が落ち着くと余程のことがない限り出世の糸口は見出せな
い。相手の失策を上げ(へつら)う事で、その道をと考える連中である。
 吟味筋の調書を読んだ堀田は、河原崎に会った。
「河原崎、配下の名前を挙げよ。その者はお咎めだけで済む。この
ままでは、おぬしはお役ご免になる」
 堀田は穏便に処理したかったが、河原崎は自分の手落ちとの一点
張りであったらしい。
 隼人は河原崎の気持ちが判るように思った。家名に泥を塗ること
になるが、無役になっても扶持は出る。些細な錆一つに右往左往す
る役目に嫌気を感じたのであろう。

(6)





 隼人の驚きはこれで終った訳ではなかった。
 用人は隼人に、ご家老がお呼びだ、付いて来るようにと言った。
何であろうか。錆に絡んだお叱りであろうか。であれば目付に呼ば
れるはず。隼人に思い付くことはなかった。

 屋敷への帰り道、侘助はいつもと同じように綺麗な花をつけてい
た。隼人は暗い気持ちで屋敷に着いた。母に声を掛け、父の部屋に
行った。話を聞いた二人は、涙を流さんばかりに喜んだ。真琴は、
今晩は赤飯に尾頭付きの鯛にしましょうと飛び出していった。
「隼人、奉行見習いとはいずれ奉行になるということ。染谷家のよ
うな下積みから奉行が出るとは考えもしなかった。異例中の異例、
名誉あることだ。精を込めてお勤めに励め」
 目に涙を溜めて話す佐門だが隼人の憂鬱はこの日から始まった。

 服部に隼人を推挙したのは河原崎であった。
 河原崎も些細な錆と思った。寄り合いでの隼人の発言を羨ましい
と思った。しかし自分は奉行である。役目は役目、捨ておくことは
できなかった。河原崎は、隼人が己の役目に疑問を持ち出している
ことを知っていた。しかし、ただ規則に従い盲目的に仕事をする者
に比べ、むしろ自分の考えをはっきりと述べる若者の方が役目を果
たしてくれるのではと考えた。使いもしない膨大な数の武具……自
分も疑問を持ちながら仕事をした。無駄の積み重ね。だが、河原崎
は、その事を家老に具申出来なかった。

 隼人は、家老の服部から武具奉行見習いとする旨、沙汰された。
何から何まで報告する必要はないが、僅かな錆でも錆は錆。心して
励めと言われた。服部の話はこれだけであった。
 武具奉行の席に着くと、隼人は配下の者たちを集めた。話は簡単
だった。今まで通りの遣り方で仕事を進めて欲しい。

(7)





 奉行見習いになり、一月ほどが経った。
 役人の中には家柄も良く、隼人よりも年嵩のいった者たちが何人
もいた。彼らは、あからさまにではないが、何かと隼人に逆らう態
度を見せた。染谷家の者が奉行になるとは……。隼人に対する役所
内の風当たりは強かった。
 部下の報告を聞くだけの日々が続いたが、隼人には武具奉行所の
総てが見えてきた。驚いたことに、全く使い物にならない武具も帳
簿には載っていた。数合わせであろうか、鋒先だけの槍や鋒先のな
い柄だけの槍、銃身が錆で詰っている鉄砲、さらにはボロボロにな
った具足なども保管されていた。陣幕などは虫食いだらけのものも
ある。一体、どういうことなのであろうか。今まで、これらを後生
大事に管理していたのか。この事は河原崎殿も知っていたはず。余
りにも無駄が多い。これではいけない。
 隼人は悩んだ。この事実を黙認し、今まで通りに仕事を進めれば
何ら問題を起こさずに済む。しかし、改善しようとすれば波風を立
てることになる。役人たちには当たらず触らずの風潮が流れ出して
いる。ほんの少しでも手落ちがあれば、それだけでとやかく言われ
てしまう。ましてや下手に動いたとすれば叱責を受け、お家取り潰
しになるやも知れぬ。果たしてどうしたものか。
 思案に暮れながら屋敷に戻った隼人は、文机の侘助を見てはっと
した。自分は田宮の前を通ったはず。だが庭も侘助も目に入らなか
った。仕事一途な人間とは思っていなかったが、自分は母の言う通
り朴念仁なのだろうか。

 非番の日、隼人は河原崎を訪ねることにした。
 河原崎の顔付きは驚くほど変わっていた。温厚な表情、優しさを
湛えた眼差し。
「隼人、いや、お奉行」
「お、お待ちくだされ。お奉行とは取って付けたような呼び方。そ

(8)





れに見習いです。河原崎様はそのようなお方だったのでしょうか」
「いや済まぬ。何日来るかと心待ちにしておったのだぞ。さぁ、遠
慮なく言いたい事を言え。安心せよ、力にはなるが他言はせぬ」
「そのように急かされましても困ります。ところでお奉行は……」
「これ隼人、拙者は既に奉行ではない。兵庫と呼べ」
「では…… 兵庫殿はご家老に私めを推挙したとか聞きましたが」
「そんな話はどうでも良い。別にあろうが、話したいことが」 
 隼人は武具奉行所の内情や使い物にならない武具の存在を話し、
併せてそれらの破棄、人数の整理など自分の考えを伝えた。
 河原崎は一言も口を挟まずに聞いていた。聞き終わった河原崎が
急に大声で笑い出した。隼人が呆気に取られるほどの大声である。
「兵庫殿、いい加減にお止めくだされ。その笑い、不愉快です」
「そうむくれるな。思った通りじゃ。おぬしを推挙して良かった」
 隼人が話した内容は、河原崎の思いと同じであった。
「おぬしに謝らねばならぬ。済まなかった」
「兵庫殿、何のことだか判りかねますが」
「おぬしの考えには大賛成じゃ。隼人、拙者は誰かが遣らなければ
と思いつつも仕事から逃げた。ご家老は拙者に期待したのかも知れ
ぬが、勇気がなかった」
 ―― 誰もが気付き誰もが手を触れなかった問題……
「では、それを私に遣れと」
「いや、そうは言ってない。ご家老に推挙した折にも、そのような
話は一切していない。自分が逃げた仕事を他人に押し付けるほど拙
者も落ちぶれてはいない」
 隼人は混乱してきた。
「では、私はどうすれば」
「それはおぬしが決めること。だが拙者は何が起ころうが隼人の味
方じゃ」
 河原崎を辞し、隼人は道場に向かった。道すがら、河原崎が言っ

(9)





た味方との言葉を考えた。もし何かを遣るにしても問題を起こしか
ねない内容である。奉行見習い就任を喜こぶ父には相談できない。


     四

 木刀は、気持ちを解してくれる。汗が気持ち良かった。外に出る
と小春日和。隼人は面倒なことを考えるのを止め、そぞろ歩いた。
侘助を見てみよう。
 侘助は今が盛りのようだ。小さな白い花を枝一杯に付けている。
後ろから声を掛けられた。隼人が振り返るとあの娘がいた。冬の柔
らかな陽に照らされ、輝くような顔をしている。隼人は眩しさを感
じた。どうした訳か胸がときめく。娘が声を掛けてきた。
「染谷様でいらっしゃいますね」
「い、如何にも、染谷隼人でござる」
「父が染谷様のお父上にお世話になっております。ご迷惑も顧みず
お邪魔して……」
「い、いや、こちらこそ。父の良きお相手と聞いております。い、
いつぞやは、母が侘助をいただきました。お礼申し上げます」
「隼人様がお好きだと聞きましたので」    
 ―― 母は、そのような事を言ったのか。
「私もこの花が好きです。可愛くて品があります」
「母が私の部屋に挿してくれました」
「そうでしたか。侘助も喜んだと思います。私も……」
 娘は嬉しそうに俯いた。
「もう花は落ちたのでは。もし、宣ければ……」
 娘は、一枝手折って隼人に渡した。
(かたじけな)い」
「本当に、お好きなのですね」

(10)





 隼人は困った。侘助と知ったのは、ついこの前のことである。そ
れに、この様な場合、何を話せば良いのか判らなかった。焦りにも
似た気持ちになったが娘が口を開いてくれた。
「もし、ご迷惑でなければ、今度、父と共にお邪魔しても宜しいで
しょうか」
「も、勿論でござる」
 隼人は、どの様にして屋敷に戻ったか思い出せないでいた。娘の
美しい顔が目に焼き付いていた。侘助は自分で活けた。いかん、ま
た名前を訊かなかった。
 隼人は、この日を境に毎日が楽しくなった。

 ある日、屋敷に戻ると真琴が、つい今しがた田宮父娘が帰ったば
かりだと言った。
「先日、文乃(ふみの)さんに侘助をいただいたそうじゃありませんか。母に内緒にするとは」
 ―― 文乃と言うのか。
「い、いえ別に、内緒にするつもりはありませんでした」 
 真琴は新しい侘助が活けてあるのを知っていた。文乃に貰ったこ
とにも気付いていた。
「まあ。本当でしょうか。田宮様はお父様のお知り合いの方です。
包み隠さずにお話ください。お礼も申し上げられないではありませ
んか。お仕事でも同じです。周りの者への気配りは、大切なことで
す。ましてや今はお奉行の身」
 また小言である。
「判りました。以後気をつけます。母上、私は奉行見習いです。と
ころで、文乃殿は何か申しておいででしたか」
「いえ別に。楽しそうに囲碁を観戦していましたよ」
 これは嘘であった。囲碁を楽しむ二人を部屋に残し、真琴は文乃
と共に自分の部屋で四方山話をした。当然、隼人のことも話題にな

(11)





った。真琴は、文乃が隼人を憎からず思っている事に気が付いた。
 隼人は、文乃の口から一言ぐらい自分の話が出ても良いものをと思った。自分は朴念仁なだけでなく、覚えも薄い男なのであろうか。


     五

 文乃は、田宮の実の子供ではなかった。田宮は親が決めた相手と
一緒になったが、何事に関しても行き違う夫婦。顔を合わせても会
話のない毎日。田宮は、仕事だけに生き甲斐を感じるようになって
いた。三年目である、妻は選りによって博打に熱を上げだした。し
かも賭場で知り合ったやくざな男と逃げた。田宮は、そのことを賭
場の男から聞かされた。男は妻の借金を強要した。田宮の落胆は激
しかった。その後、田宮は周りからの再婚話にも耳を貸そうともし
なくなっていた。
 文乃は兄夫婦の子供であった。文乃が生まれてすぐに、二人は流
行り病に倒れ、文乃一人が残されてしまった。身内は田宮一人だけ
である。文乃を引き取る以外になかった。途方にくれた田宮であっ
たが、運良く、近くの長屋に乳の良く出る女房がいた。この女房に
何がしかの金を渡し乳を分けてもらった。気の良い女房で、文乃を
自分の子供と一緒に育ててくれた。
 田宮は賄頭取(まかないとうどり)をしていたが、五十歳を迎えた時にお役御免を願い出た。隠居を決め込んで既に三年が経っている。周囲は文乃に婿をとり家を継がせた方が良いと助言したが、田宮は家のことなど、どうでも良かった。
 今、文乃は十八歳になっている。本来であれば既に身を固めても良い年頃である。縁談は幾つも舞い込んだ。田宮は総てを文乃に伝えた。

(12)





 文乃は、話を聞くことは聞くが、いえ私はと断った。田宮は文乃の好きにさせた。縁のない愛のない夫婦ほど悲惨なものはない。縁があれば、文乃にも良い婿が見つかるはずだ。

 隼人が役所で仕事をしていると服部が呼んでいるという。隼人は
身を正して服部の部屋に行った。
「どうだ、慣れたか」
「は、何とか」
「そうか。考えてみれば奉行見習いと言うのも可笑しなもの。殿と
話したが、おぬしの奉行が決まった。武具奉行は評議の席には出ら
れんが、何か進言があれば私に言いなさい」
「ははー、染谷隼人、身に余る光栄。恭悦至極にございます。身を
粉にして勤める所存でございます」
「隼人、嬉しいか」
「は、はい」
 服部が大声で笑い出した。
「嘘を付け。顔中に迷惑千万と出ておるぞ」
「そ、そのような。その様なことは決して」
「そうか。隼人、好きなように遣れ」
「はっ。しかし好きなようにと申されましても、今まで通りに仕事
を進めるつもりでおります。何か、ご家老よりご指示がありますれ
ばお受けいたします」
「好きに遣れと申しておるだろう。ところで河原崎と会ったそうだ
な」
 隼人は、驚いた。         
「は、よ、良くご存知で。河原崎様は何か申されていましたでしょ
うか」       
「なにやら、そろそろ妻を娶る歳とか申しておった。おぬし、好き
女子(おなご)でもおるのか」

(13)





 話したのは一度だけであるが、隼人の頭に文乃が浮かんだ。
「ま、まだそのような女子は居りませぬ」 
「そうか。いないのなら良いが…… 河原崎の奴、余計なお節介を
するかも知れんぞ」


     六

 武具奉行所の改革案は、既に出来上がっていた。使用不可な武器
を三種に選別し、奉行所では宝物と常備のみを管理する。払い下げ
の武具は各奉行たちに通達を出し、藩政への貢献者を選出させて藩
にて評価する。その者たちに藩より褒賞品として与える。既に戦い
はない。従って戦功恩賞もなくなっている。島岡家より御紋章付き
の武具を賜る事など起こり得ない時代である。褒賞武具を賜れば、
その家の家宝にも値することであり、これらにより武具数を半分に
減らせるはずである。併せて役人を半分にできる。残りの役人は人
手を要求する奉行所に配属すれば良い。隼人は一挙両得、いやそれ
以上の効果があると思っていた。
 これからは刀ではない、殖産の時代である。藩は農産物の増産、
工芸品などの奨励、他藩との商取引に力を入れ、財政を堅固なもの
にする必要がある。それを推進するのは役人、つまり侍である。侍
と藩民とが共に生活を豊かにする。此度の改革は刀の時代の終わり
を意味する。だが、問題も多い。代々、武具奉行所に所属していた
者たちからの反発である。他の奉行からは余計な事をしたと姑息(こそく)な仕打ちを受けるかも知れぬ。
 隼人は、これらの事を考えると服部に進言できないでいた。塞ぎ
込む日が続いた。
 もう一つ、隼人が気になる事があった。河原崎が余計な事をとの
言葉である。服部は好きな女子が居ないのであればとも言った。

(14)





 隼人が屋敷に戻ると笑い声が聞こえてきた。河原崎だった。隼人
も話の輪に加わった。佐門は、一時期だが河原崎と仕事をしたこと
がある。どうやら昔話に花を咲かせていたらしい。隼人が加わると
話の内容が変わった。親とは孫の顔が見たいもの、それが親孝行と
いうもの。
「隼人殿、先程、お二人にお訊きしたが決まったお相手はまだおら
んとのこと。そろそろ親孝行も考えなければなりませんぞ。どうじ
ゃ、拙者に任せては」
 隼人は答えようがなかった。真琴も困った顔をしているが、佐門
は、にこにこ笑っている。
「兵庫殿、その儀は今しばらく」
「何事にも好機と言うものがありますぞ。それを逃すと二度と訪れ
てはくれない。ま、そこの所を良く考えることですな」
 隼人が呆気に取られている中、河原崎は、さっさと引き上げてし
まった。真琴が隼人の袖を引いた。隼人の部屋に入ると間髪を入れ
ずに言った。
「この朴念仁が。母親とは言え、隼人の気持ちを確かめずしてお断
りすることもできません。母は、どうなっても知りませんよ」
 これだけ言うと真琴は部屋を出て行ってしまった。

 隼人は、役所にいても文乃のことが頭を離れないでいた。このま
まではいかん。とにかく何かをしなければ。隼人は、焦りを感じて
いた。勤めが終えると、足は田宮の屋敷に向いていた。屋敷前で立
ち止まったが、これほど緊張したことはない。これから自分が何を
しようとしているのか良く判っていない。だが、急がねばとの思い
の方が強かった。
「ご免。染谷でござる」
 文乃が玄関口に現れた。
「あら隼人様。驚きましたわ。今日はまた、どのような」 

(15)





 いかん、口実すら考えていなかった。
「近くを通りかかったもので……。ご在宅かと思い声をお掛けした
次第。これといった用がある訳ではござらん。いや、失礼(つかまつ)った」
 自分は何を言っているのであろう。隼人は帰ろうとしたが文乃が
声を掛けた。
「隼人様、お急ぎでないようでしたらお茶でも如何ですか。侘助も
そろそろ終りです」
 隼人は、ぎこちない足取りで庭に回り、濡れ縁に腰を下ろした。
文乃は、少々お待ちくださいと屋敷に上がった。隼人は軽率だと思
った。どのように切り出せば良いのだろう。思案していると、田宮
が顔を出した。染谷殿はお元気か。前回は拙者が勝たせていただい
た。染谷殿は、さぞ悔しがっておいでだろうなどと悦に入り話して
いる。お陰で隼人は相槌だけで済んだ。
 文乃が茶を持ってきた。田宮は、
「さて、拙者はこれで」
 と言いながら部屋に消えた。
「どうぞ。冷めないうちに」
 隼人は、口の渇きを癒すことができた。
「文乃殿、侘助が綺麗に咲いていますな」          
「あと一月ほどだと思います。本当に目を楽しませてくれます」
 二人とも後が続かない。隼人の頭の中は、朴念仁の言葉で埋まっ
ていた。
「隼人様、お奉行になられたとのこと、おめでとうございます。父
も喜んでおります」
「貧乏くじを引かされたとも言えますが」
「あらそうですの。お仕事は大変なのでしょうね」
「今まで通りであれば、それほどでも。しかし、それではいけない
とも……」

(16)





 隼人は口を(つぐ)んだ。今は仕事の話などどうでも良いことである。
 訊かなければならないことがある。急くのは気持ちばかりで口が動かない。
「隼人様、今日は何かお話があったのではございませんか」
 隼人は、思い切って話し出した。
「文乃殿、実は拙者に縁談が。いや、回りくどい言い方は失礼にな
る。拙者、文乃殿のことを……」
「隼人様、お待ちくださいまし」
 文乃が口を挟んだ。
「そのようなお話でしたら文乃の話を先にお聞いただけませんか」
 文乃が隼人の話を止め、自分の生い立ちや心境を話し出した。叔
父とはいえ、父は私を引き取り大事に育ててくれた。私は感謝して
いる。理由は聞いていないが父は再婚をしなかった。周りは私に婿
をとり田宮家を続けるべきだと勧めるらしい。だが、父はその言葉
に耳を貸さず私の自由にさせてくれた。私は、決して男嫌いとかそ
のようなものではないと思っているが、嫁ぐ気になれない。武家で
ある以上、家が大事な世の中であることは判っているが、父は無理
してまで田宮家を続ける気はないと言ってくれた。私も家を継ぐた
めに結婚する気はない。それに家に縛られる人生を送りたくない。
もし、私が嫁に行けば父は一人になってしまう。これからは父に恩
返しをしたい。父と二人で静かに暮らしていきたい。

 話し終わると文乃はニコッと笑った。隼人もつられて笑った。清
々しい気持ちであった。
「文乃殿、お話は承った。いや、良いお話でした。拙者、ますます
文乃殿を好きになりました。もしご迷惑でなければ、またお邪魔し
たいが、宜しいですか」
「は、はい。お越しいただければ嬉しゅうございますが……」
「では、また」

(17)





 来た時とは、まるで別人のような隼人を文乃は呆気にとられて見
送った。文乃は不思議な気持ちになっていた。あっけらかんと自分
を好きだと言った隼人。文乃は、人に好きだと言われたのは初めて
であった。
 隼人は田宮を辞し、その足で河原崎の家に行った。
「兵庫殿、拙者、好きな女子がおります。先日の優柔不断な態度、
失礼仕りました」
「隼人、本当か」
「はい。何年掛かっても構いません。妻にするつもりでおります」
「そうか、縁談は幾つかあるのだが判った」
「実は例の件、ご家老に具申するつもりでおります」
「決めたかっ!」

 服部は、隼人が提出した具申書を黙って読んだ。服部は、夢中に
なると指を舐めながら書状を捲る癖がある。今も指を舐めている。
隼人は気になって仕方がない。いずれ、舐めない方が良いと服部に
余計なお節介を焼くのだろうか。服部は読み終わると、ふーと長い
ため息をつき、隼人を見た。何も言わない。どうなのであろう。意
気込んで進言したつもりであるが余りにも長い沈黙。隼人は自分の
進言が的を射ていなかったのではと不安になっていた。いや、ご家
老は好きにせよと言った。自分は間違っていない。たとえ具申書が
受け入れられなくとも良いではないか、自分は自分なりの進言をし
たのだ。長い沈黙であったが服部が口を開いた。
「隼人、遣るか」
 隼人は、その場に平伏した。

(18)





「ははー。ご家老っ!」
「通常であれば評議に掛け審議しなければならないが、武具に関する進言は、島岡家が所有するもの。殿のご意向を伺えば済む事。褒
賞に関しては問題ないが、役人たちの配転に関しては評議せねばな
らぬ。いくら奉行であるおぬしが役人を減らしたいと言った所で他
の奉行たちがいらんと言えば、これまたおかしな事になる。隼人、この具申はあらゆる所に影響を及ぼすが、おぬしはそれらを考えたのか」
 隼人は懸念する事柄を丁寧に話した。ややもすると身に危険が迫
るかも知れぬが、自分の信念は変えたくないとも言った。
「判った。心して遣らねばならぬな。覚悟は良いな」
「はっ!」
「ところで、河原崎は大人しくしていたか」
 急に話が変わる。隼人は面食らってしまう。
「はー?」
「余計な事をしたのではないか」
 隼人は縁談のことだと気が付いた。
「わ、はっはー」
 隼人は、慌てて口を押さえたが、もう遅い。家老の前で何と言う
ことを。畳に顔を押し付けたままで言った。
「ご無礼をっ! どうか平にお許しを」
「まったく困った奴だ。家老に対し何と言うことだ。大声で笑いお
って。顔を上げろ」
 隼人は、恐る恐る顔を上げた。
「どうなのじゃ」
「ははー、お断りいたしました」
「そうか。と言うことは、おぬしには好きな女子が居るということ
だな。先般は居らんと言っておったが、コロコロ変わる男じゃな」
「ははー、面目次第もございません」

(19)





 服部の行動は早かった。数日後、隼人は服部に呼ばれた。
「殿は宜しいと申された」
 服部と隼人は、詳細を打ち合わせた。
 まず、武具の選別は殿の許しを受けたため問題はない。家老の指
示により武具奉行の裁量で行なう。褒賞制度については払い下げ扱
いの武具数が判明した時点で評議に掛ける。藩主からの賜り品であ
り、即、決議できるはずである。実施要綱については側用人と目付
に任せ、要綱が決まった段階で奉行たちに通達する。
 ここまでの打ち合わせは心地良く進んだが、武具奉行所内の役人
の段階になると隼人の口数が少なくなった。
「隼人、如何した。配転させる役人の数は宝物扱い、常備扱いの武
具の数量に応じて決めれば良いではないか」
 隼人もそのつもりでいた。概算では二名か三名を残し、他を配転
させる予定だった。数字の上では簡単な事である。しかし隼人の頭
の中に部下の顔がちらつき始めていた。
「ご家老、今更お訊きするのも如何かと思いますが、人選はご家老
にお任せしても宜しいでしょうか」
「ば、馬鹿者がっ! 何を申すのだっ。奉行であるおぬしに決まっ
ておるであろうがっ」
 隼人は下を向いたままでいた。
「申したであろうが、覚悟は良いなと」
 二人の間にしばしの沈黙があった。
「隼人、良いか。役人を欲しがる奉行所は多い。だが(つい)えが増える
ため申告できないでいる。この移動では扶持も併せて移される。受
ける奉行所は費えを気にすることはない。引手数多であろう。路頭
に迷う訳ではない」
 服部は、ここで声を落した。
「隼人、徳川様の世は続くだろう。我々は侍だ。幕藩体制とは侍の

(20)





集団じゃ。従って、武でもって国を藩を治めるのが基本じゃ。侍に
とって武具は欠くべからざるもの。だがな、このままでは、いずれ
無駄が積もり積もって財政を圧迫する」
「……」
「既に世の中は変わっている。我々の役割、仕事の内容も変えてい
かねばならない。武具だけの問題ではない。幕府内の役職にもおか
しなことが起こっておるのだ。例えば、留守居年寄衆じゃ。本来は
将軍ご出陣後のお留守居役であり、その際お使いになる弓矢、槍な
どの管理、大奥に関する諸業務が役目。大奥の仕事はともかく、本
来の仕事はなくなっている。年寄衆は五人おいでだが、五千石の旗
本じゃぞ。以前であれば旗本の仕事としては最高のものであったが
今は違う。当藩で言えば城代家老、武具奉行、旗奉行だ。城代は新
たな意味合いのお役目ができた。家光公は藩主の参勤交代制度を実
施されたからのう」
 確かに時代は変わりつつあった。
「おぬしの改革案は、一奉行所の目先の費えを削減するだけのもの
ではないはずだ。この改革を他奉行所へ、藩全体へと広げていかな
くてはならんと考えたのではないのか。大変なことだが、拙者も、
そう在るべきだと思っている。隼人、おぬしは、そこまで考えたの
ではないのか」
「恐れながら」
「考えたのであろうが」
 また強い口調に変わった。
「何を情けない顔をしておる。覚悟はどうなったのじゃ。良いか、
通達は家老服部の名で出す。だが、誰を残し誰を移すかを決めるの
はおぬしだ」
「ははー」
「隼人、忘れてはならんぞ、配下の中にはおぬしを逆恨みをする者
もおろう。武具奉行所に長く勤める者が移されたとしよう。中には

(21)





家の恥、家名に泥を塗られたと思う者もおるはずじゃ」
「ははー」
「ところで隼人、夫婦(めおと)になるのは何日じゃ」
「はー?」
 隼人は、急に話題を変える服部の癖と、指を舐める癖には付いて
いけない。
「何日と申されましても」
「何を申すか、好きな女子が居ると申したではないか」
「まだ、そのような話には」
「何じゃ、まだ約してはおらんのか」
「拙者一人が心に決めただけ。しかし何年掛かっても夫婦になるつ
もりでおります」


     八

 二日後に服部から通達状が届いた。隼人は奉行所内の者に内容を
伝えた。高虎の沙汰であることは誰もが判った。お達しは武具の整
理についてのみであり、配転などの内容はなかった。しかし、これ
も推し量ることはできた。奉行所内には動揺が走ったが隼人は静か
に見ていた。顔を輝かせる者、顔をしかめる者。隼人は複雑な思い
でいた。
 作業は翌日から開始された。根矢(ねや)を除き、武具の数は約二千点。現物と帳簿とを照合し、まず破棄物件の消し込みを行なう。二人が一組になり担当物件を判断していく。判断が付かない場合は、奉行である隼人が判断を下した。手間取るかと思われたが、作業は順調に進み半月ほどで終った。破棄が決まった武具類は城の広場に置かれた。

(22)





 残された武具の数は約一千点。これらを一つひとつ丁寧に吟味し
なければならない。隼人は皆に二日の休みを与えた。隼人自身、役
所に泊まり込みの毎日が続いていた。
 隼人は文乃に会いたかったが屋敷に戻った。部屋に落ち着くと文
机に一輪の侘助があった。誰が挿してくれたのだろう。文乃は、そ
ろそろ花が終る頃と言っていた。部屋で肩肘を付いて横になり、侘
助を見ていた。
 玄関が騒がしい。真琴が来た。
「河原崎様がお出でですよ」
 部屋に通してもらった。
「隼人、近頃、奉行たちが良く来るようになってな」
「は?」
「武具奉行所では何が起こったのだと聞きに来よる。それはそうだ
ろう。何やら普段と異なることを遣っておるのだからな。ご家老は
此度の事を奉行たちに知らせてはいないようだな。連中は気になる
のだよ。拙者が何かを知っていると思っているのであろう。判らん
と答えておるがな。隼人、気を付けた方が良い。何やら余計なこと
を始めたのではないかと苛立つ奉行もいる」
「ご忠告はありがたく承りますが、藩全体のことはご家老の仕事で
ございます。拙者は、武具奉行」
「隼人、そうではあるが、そうもいかんのが人間じゃ。どうじゃ、
配下の者は」
「活き活きと働く者、急に(おもね)りだした者、目を合わさなくなった者など様々でございます」
「そうか」
 河原崎は、落ち着かない様子である。
「兵庫殿、何かご懸念でも」
「人の心とは理屈では推し量れないもの。何も起こらねば良いが」
 河原崎はまた来ると言い残し帰っていった。

(23)





 武具奉行所には、隼人の外に六名の役人が居た。隼人は、この中
から残す者二名、または三名を決めなければならない。
「宜しいでしょうか」
 一番の年配である畑中が顔を出した。畑中は五十一歳で武具奉行
所も長い。
「お奉行、蒸し返すのは如何かと思いましたが気になりまして」
「畑中殿、遠慮なくどうぞ」
「実は、廃棄処分と決まりました武具の中に、由緒あるものがあり
まして…… 拙者の担当ではありませんが如何したものかと」
 畑中は、ある槍について語った。その槍は柄の部分がボロボロで
あった。
「お奉行、あの槍は先々代が関が原でお使いになったものでござい
ます。先々代は闊達なお方であられました。物事に頓着いたしませ
ん。折角、お手柄をお挙げになった槍でありながら、戦さが終りま
すと放ったらかし。捨てられるところでしたが私めが保管いたしま
した。何やら破棄と聞きましたものですので。本来であれば、僭越
なことですが」
 隼人は畑中を見つめた。自分には一つ気付かないことがあった。
由緒。これは安定した世において大切なことである。たった一つの
武器であっても藩の歴史を語ることができる。攻めるのではなく守
る時代。心の結束が藩の行末を決める。隼人は畑中を見た。
「畑中殿、ありがたく思います。恐れ入るが、今、語られたこと、
記していただけませんか。その槍は宝物扱いにいたしましょう」
 畑中は嬉しそうに頷いた。

 さて一千点の武具を吟味しなければならない。隼人は、吟味の基
準が明確でなかったことに気が付いた。用人の所へ行き、二日ほど
自宅での仕事を申し出た。
 自分の考えは浅薄であった。明確な基準を示さずして選別など出

(24)





来る理由がない。隼人は、畑中を自宅に呼んで話しをした。
「畑中殿、有体に申そう。何をもって宝物、常備、払い下げと決め
るか。拙者は、技巧的に優れ、由緒あるものを宝物扱い、確実に今
使える物を常備扱い、体裁はしっかりしているが、やや使用に難点
があるものを払い下げと考えていましたが、その明確な基準がなけ
れば判断が付かない」
 畑中は、始終笑顔で聞いていたが、
「人は心模様で動きます。感ずる心です。これは微妙なものです。
しかし、どのような物であれ、感ずればそれは宝物になりまする。
宝物だとどなたかがお示しになれば良いのです。総てお奉行がお決
めなさって問題はないと思っておりますが」
 畑中は、ではと言い残し部屋を出て行った。隼人は畑中が言った
心模様の言葉が気になっていた。人は、良いと感ずれば良くなる。
だが、悪いと感ずれば悪くなる。選定基準だけではない。此度の計
画に対しても人選に関しても、人の感じ方には差がある。心模様は
千差万別。


     九

 侘助は終りかけていた。椿は花の姿のままで落ちる。幾つかの花
が黒い地面を彩っていた。隼人は、美しい光景だと思った。花弁に
は茶色の筋が入っている。その部分だけを見ると、綺麗とは言えな
い。だが文乃が丹精込めて育てた侘助だと思うと、落ちた花にも愛
おしさを感じた。その花を一つ拾い懐に入れた。

 隼人は、藩内の主だった刀工や武具職人、鉄砲鍛冶を集めること
にした。彼らであれば、武具を一目見ただけで出来の良し悪しが判
るはずだ。一つの判断基準になる。

(25)





「いよいよ吟味を始めます。既にご承知のように、宝物、常備、払
い下げに選別するのが目的です。まず、畑中殿と柴田殿は武具の中
で由緒、または曰くあるものを選んでいただきたい」
 柴田は畑中と同じ年でこの奉行所に長くいる。生真面目な男だ。
「芦沢殿、阿波村殿は刀工と共に刀と槍を、川野殿と鈴木殿は武具
職人、鉄砲鍛冶と共に鎧、兜などの具足、それに弓、鉄砲をお願い
します。職人たちには、技巧や素材の良さなどを基準に、冨に優れ
た物、優れた物、通常の物を選別させてください。一通り選別が終
った段階で各々の保管場所に移します」
 柴田が口を開いた。
「陣幕などは、如何いたすおつもりか」
「幕の吟味に関しては既に私が終えました」
「大した武具でなくとも由緒あるものがござる。まず、畑中殿、柴
田殿の吟味が先になると思うが如何か」
 鈴木が言った。鈴木は、城代家老の三男で十八歳と若い。
「如何にも。お二人が吟味を終るまで、我々は保管部屋を整備いた
します」
「棚が壊れていた場合だが…… お奉行は我らに修繕させるおつも
りか」
 訊いたのは隼人と同年輩の川野であった。川野は、既に家督を継
いでいる。
「川野殿、そのつもりでおります。ただし宝物扱いの武具を納める
部屋は普請奉行が行うべく手筈を整えております」
「では、他の保管場所も普請奉行殿にお願いすべきでは。我らは大
工ではござらん」
「川野殿の言われる通りでござる」
 鈴木が川野に賛同した。
「もっともなお話。だが普請奉行所は、お城と侍長屋の営繕、街道
整備で手一杯でござる。棚や壁の修繕も我ら武具奉行所の勤めと心

(26)





得ております。宜しいかな」
 二人は、明らかに不服そうな顔をした。
 作業が始まったが、畑中は既に選定すべき武具を決めていたよう
である。柴田は畑中に付き従い、該当武具に名札を付けるだけであ
った。畑中は三十点ほどを選び出し、由緒、曰くをまとめだしてい
る。その間、他の者は隼人と共に部屋や棚の修繕をした。だが、川
野と鈴木は、何やかやと理由を付けて手を抜いた仕事をした。


     十

 保管部屋の修繕は完了した。
 刀工や武具職人、鉄砲鍛冶各二名が城に呼ばれた。隼人は、彼ら
に手間賃は払えないが廃棄が決まった武具類を自由に持ち帰って良
い旨伝えた。
「お奉行、お侍にとっては使えねぇ物ばかりだが、あっしらにとっ
ては宝の山。仕事にも精が出るというものでさー。ありがてぇ」
 刀工二人と芦沢、阿波村は槍を調べだしている。芦沢は隼人と同
い年だが跡目を相続している。阿波村は、まだ十六歳だが親が早死
にし、跡目を継いでいる。
 川野と鈴木がいけなかった。二人は職人たちに、拙者らは鎧兜、
鉄砲など使ったことがない。おぬしらで好きに決めて良い、と言い
残し、いずれかに行ってしまった。川野は隼人よりも二歳年上であ
る。
 隼人は畑中らが選んだ三十点に新たに十点程を加えて宝物扱いに
するつもりでいた。いかなる所が優れているかは、刀工らに記述し
て貰えば良い。

 服部から呼び出しが掛かった。部屋に行くと服部が渋い顔をして

(27)





扇子を閉じたり開いたりしていた。
「隼人、参上いたしました」
 服部は隼人に二通の書状を見せた。一通は褒賞制度について、も
う一通は役人の配転についての骨子が書かれていた。これには、役
人三名を扶持と共に配転させる旨記されていた。だが、該当する役
人の名前の部分は空白であった。
 隼人は、何故服部が浮かぬ顔をしているのかが判らなかった。
「隼人、城代が訊いてきおったぞ」
「は、如何なることでございましょうか」
「使えん武具の破棄、廃棄は殿も承諾されたことだが、半数近くを
破棄したと聞いた。役人が余るはず。どうするつもりかとな」
「ご家老は、まだ配転の件は」
「話しておらん。褒賞制度もまだじゃ。存じておるのは殿とおぬし
だけじゃ。この藩において城代は筆頭家老を兼ねる。だが、総ては
拙者に任せると殿より沙汰されておる。それに現時点で城代に知れ
ると何かと横槍が入り、遣り難くなるからのう。他の奉行たちも同
じじゃ。いずれにしても武具の整理が先決。ところで、後どのくら
いで終る」
「十日ほどは掛かろうかと思っております」
「十日か。急いだ方が良いな」

 川野と鈴木が小料理屋で酒を呑んでいる。
「隼人の奴、いい気になっておる。鈴木、この事、城代殿には話し
ておらんのか」
「拙者は三男。所詮、後を継ぐ事も出来んし親父殿は拙者には目も
くれん」
「だが、このままでは誰かが放り出される」
「放り出される? どういう事でござるか」
「考えてみよ。管理する武具が減れば今の頭数はいらん。隼人は、

(28)





それを狙っておる」
「まさか、そこまでは……」
「遣るよ。家老との企み、うまく殿に付け入ったものよ。城代抜き
でな。このままでは拙者は出される。河原崎が辞めた時、家柄や経
験から言えば奉行は拙者であったはず。または城代の息子であるお
ぬしでも良かった」
「しかし、年功で言えば畑中殿か柴田殿では」        
「鈴木、おぬしは鈍いな。柴田は耄碌しておる。畑中もあと何年か
でお役ご免だ。それに畑中は家柄が悪い。おぬしは三男だがゆくゆ
くは武具奉行にと城代は考えておったはず」
「いや、そのようなことは聞いていないが……言われてみれば、そ
うやも知れぬ。親父殿から武具奉行所と言われた時、鈴木には(ゆかり)のない役所、変だとは思ったが。しかし、拙者が出されることはないのでは」
「わっ、はっはー。甘いな。既におぬしは隼人に嫌われておる。城
代の三男ごとき、家老と組めば何処にでもおっ放り出せるわ。そう
なってみろ、家の恥だぞ。城代の顔に泥を塗ることになる」
「そのような。だが、そうなったとすれば。親父殿は拙者にどのよ
うな沙汰を下すか」

 隼人は皆を集め、仕事を急ぐように指示した。ほとんどが持ち場
に戻ったが、芦沢が話があると言う。
「隼人、いや失礼、お奉行」
「芦沢殿、二人で話す場では隼人で構わん」
「そうもいくまい。だが、その様なことはどうでも良い。奉行、急
げと言われても奴らは職人。手を抜くことを知らん。いや、手を抜
けと指示したことはないがな。よう遣る連中よ。拙者も頭が下がる
思いじゃ。急がせても精々一日か二日。それ以上は無理じゃ」

(29)





 服部からの指示も気になったが、芦沢には宜しく頼むと言った。
 もう一方の組を見に行った。職人たちは丁寧に吟味していた。川
野に聞いた。
「川野殿、進み具合は如何か」
「これはこれは、お奉行殿、見ての通り」
「あと何日ほどで終りますか」
「そうじゃな。やはり十日は必要じゃ。鈴木殿、如何思う」
「そ、そうでござるな。やはり十日は掛かると思われる」
「そうですか。一日でも二日でも構いません。何とか急がせてくだ
さい」
「それは無理と言うもの。職人らを鞭打つこともできんしな」
 話を聞いていた鉄砲鍛冶が口を挟んだ。
「お奉行様、一日、二日でしたら何とかいたしやしょう」
 これを聞いた川野の形相が変わった。いきなり職人の胸倉を掴ん
だかと思うと、思いっきり殴りつけた。
「この身の程知らずが。余計な事をほざくなっ!」
 大声で叫びながら胸倉を締め付け始めた。職人は目を剥き、喘ぎ
だしている。隼人は止めようと思ったが、鈴木が川野に飛びつき腕
を解いて言った。
「川野殿、ここは城内。遣り過ぎでござる」
 川野は手を離したが、まだ職人を睨んでいる。場を納めなければ
ならない。
「まだ、打ち合わせ前であったのか。相済まぬことを。ところで、
おぬしは……」
「へぇ、小吉と申しやす」
「小吉か。川野殿に状況を有体に伝えてくれ。川野殿、拙者が出過
ぎてしまったようでござる。お許し願いたい」
 川野の顔付きは戻っていた。
「奉行、拙者には拙者の遣り方がある。そこの所を充分ご認識いた

(30)





だきたい」
「相判った」
 服部には、やはり十日は覚悟して欲しい旨伝えた。


     十一

 河原崎の屋敷に勘定奉行の平川と寺社奉行鎌田が来ていた。
 二人は数日前に次の様な話をしていた。
「鎌田殿、此度の武具奉行所の動き、如何思われる」
「ご家老は使えなくなった武具の整理と申しておったが」
「それだけであろうか」
「いや、何かあるはずだが既に世の中は落ち着いておる。この藩も
同じ。今のままで良いのじゃ。武具奉行所の動きがこのまま進めば
我ら奉行にも何らかのお達しがあると見ておる。誠にもって迷惑千
万な話じゃ」
「捨てる武具があると言うことは殿もご了承なさったこと。殿のお
考えであろうか」
「いや、殿は具申を待つお方だ」
「では、ご家老のお考え」
「良いか、染谷が着任し、此度の動きが始まったのだぞ。染谷であ
ろう」
「染谷でござろうか。本来、染谷家は奉行を出すほどの家柄ではな
い。奉行になっただけでも皆は驚いている。そのような者が、家老
を動かし、殿までも動かせるものかのう」
「そこよ。染谷一人の考えとは思えんな。拙者、河原崎も絡んでい
ると見る」
「そう言えば、ご家老と河原崎が会っているとの噂も入っている」
「なるほど。では、河原崎を突きますか」 

(31)





「河原崎殿、何かご存知なのでは」
「ご両人、拙者はお役ご免を言い渡された者。お城での動きについ
ては既に関わりもなく、事情も判りもうさん」
「だが貴殿は何かを染谷殿に託し、役を降りたとの噂もござるが」
 河原崎は驚いた。そのような噂が。
「これは失礼千万な言い様。隼人に何かを託したと申されたが、今
もって役については拙者の方が遥かに上と思っておる。何か遣らね
ばならぬことがあれば拙者が遣る。そうであろうが。ご両人も奉行
の身。お判りになるはず。此度のお役ご免も部下の名前を挙げれば
免れたこと。武具奉行所が騒がしいとの話は耳にしておる。だが、
お役ご免を沙汰された拙者、興味もござらん」
 二人は頷き合い河原崎を辞した。

「鎌田殿、如何か」
「平川殿、河原崎は絡んでおるな」
「確実か」
「河原崎の顔を見たであろう。我らは侍。奉行を下ろされた者が、
あのように活き活きとした顔で居られると思うか。己の恥ではない
か。平川殿は勘定奉行、色々な話が耳に入るはず。ご城代は、どの
ようにお考えかご存知ないか」
「いや、何も聞いておらんが。一度、探ってみますか」    

 平川は城代の三男に目を付けた。鈴木であれば、城代の考えや武
具奉行所の動きが判るかも知れない。
 ところが、鈴木は父親から何も聞かされていないと言った。これ
だけであれば良かったが、鈴木は、川野の考えを話した。
「平川様、不要な武具と共に役人の数を減らすのが目的ではないの
でしょうか」
 平川は思った。まさか、そこまでは。

(32)





 勘定奉行は藩の財政を一手に預かる要職である。各奉行所の費え
なども把握している。また、年貢徴収に絡む争い事が起これば、そ
の処理も担当する。従って藩の内情に詳しい。
 平川は武具奉行所の動きを理解できなかった。今のままで何ら問
題はない。財政難であれば役人の数を云々することもやぶさかでは
ない。だが、財政は逼迫などしていない。各奉行所間にも、さらに
は藩民の間にも大きな揉め事はない。家老と染谷は何を考えている
のだろう。
 寺社奉行所に行き、鎌田に話しをした。
「鎌田殿、鈴木は役人の数を減らすのが目的ではないか申しておっ
たが」
「どうやら城代には、武具の整理と伝えられているだけのようじゃ
な。平川殿、拙者の家は、この藩にて代々寺社奉行を勤めておる。
我ら、殿の覚えも良い。このままで良いのじゃ。殿に余計なことを
具申されては堪らん」
「では、如何いたすお積りじゃ」
「城代を動かすべきじゃろう。城代に止めていただこう」
「しかし、如何にして」
「裏が必要じゃ。平川殿、拙者に考えがある」

 何とか武具類の吟味が終った。隼人は服部に報告した。
「隼人、ご苦労であった。次の評議にて褒賞制度、配転について吟
味する。おぬしにとっては辛いことかも知れんが、配転させる部下
を進言してくれぬか」
「承知いたしました」
「決めたのか」
「いま少し猶予を」
「良いだろう。明後日。良いな」
「はっ」

(33)





 隼人は自分の部屋で仰向けになり天井を眺めていた。隼人は、既
に配転させる者を決めていた。真琴が部屋に来た。
「隼人、柴田様が何やらお話がと」
 柴田を通してもらった。
「お休みの所、恐縮です」
「柴田殿、どうぞ堅苦しい事は抜きにして、楽にしてください」
「お奉行、お役ご免をと思いまして」
「お役ご免? 柴田殿、如何なされたのですか」
「拙者、五十を一つ越えております。此度のような武具整理は初め
ての事。これは面白いと、何年か振りで胸が騒ぐ思いでござったが
付いていけませんでした。歳ですなー」

 隼人は家老に名簿を出した。柴田のお役ご免は受理している。隼
人は二名を残し、三名を配転させるつもりである。
 翌日、服部は城代、側用人、目付と評議した。褒賞制度について
は殿のご意向として実施が決まった。詳細は側用人と目付が作る。
問題は配転についてであった。
 城代家老は主に軍事面を担当する。直接の配下は留守居、手廻、
馬廻組である。だが鈴木は筆頭家老も勤めている。行政面の担当は
他の家老たちであり、目付及び各奉行を見ている。従って、配転に
ついては服部の裁量で行なえるが、筆頭家老である鈴木の賛同は必
要であった。
 城代の鈴木は、人を動かすことに反対した。
「我が息子を動かすことは構わん。だが他の者は先祖代々、武具奉
行所に勤めてきた家の者たちじゃ。何も波風を立てることもあるま
いに。人手を欲しがる奉行所は足軽でも増やせば良いではないか。
それでも足りないと言うのであれば職人や農民を駆り出せば良い。
何も役人を動かしてまで、いざこざの種を撒くこともあるまいに」
 鈴木の話を聞いた側用人と目付は何も言わなかった。結論が出そ

(34)





うにもない。鈴木が続けた。
「服部殿、まさかこの手のこと、細々と殿にご報告するのではある
まいな」
 側用人が口を挟んだ。
「ご城代、拙者は役目柄、殿にはお知らせいたすが」
「おぬしは当然じゃ。拙者は服部殿に訊いておる。服部殿、我らを
差し置いて殿のご決済を仰ぐようなことはあるまいな」
「滅相もない。今までと同様、我らの評議結果についてご承認いた
だくだけでござる。もっとも、殿が反対されれば評議を遣り直さね
ばならぬが」
 配転に関しては、後日と言うことになり棚上げされた。

 この日以降、城内や役所で配転問題が尾鰭をつけて噂されること
になった。
「どうやら、ご家老は武具奉行所を皮切りに藩全体の組織を変えよ
うとしているらしい」
「ご城代は配転に関し、火急な状態ではないと反対されているとい
う。ご三男は配転組だそうだ。思い切ったことを」
「先祖代々の家柄も関係なく動かされるらしい。そのような事をさ
れては武士の面目が立たんし、ご先祖に申し訳が立たん」
「聞いたか。武具奉行が進言したらしい。自分の腹を切るようなも
のじゃ。染谷は、頭がおかしいのではないか」

 普請奉行の荒井が隼人の屋敷に来ていた。
「染谷殿、噂話だけでこの様な願い、ちと面目ないが、是非、阿波
村殿を回していただきたいが」
「荒井殿、まだ評議は終っておらんと聞いております。それに、決
まったとしても配転はご家老がお決めになる事でござる」
「では、ご家老に進言して頂けないか。それから川野、鈴木は回し

(35)





て欲しくない。奉行所内の雰囲気が壊れる」
「どうか、そのようなお話、ご堪忍仕る」
「まあ、そう言わずに」
 と荒井が語っている所に血相を変えた佐門と芦沢が入ってきた。
 蒼白な顔面の芦沢が言った。
「ご免。お奉行っ! 河原崎殿が亡くなりました」
「えっ!」

 芦沢によると、今朝方、町奉行が役所に来たという。往来に侍が
倒れていた。見つけた者は仰天したが、近寄ると面相も判らぬほど
顔面から体にかけて傷だらけ。だが、息はまだあった。男が一言、
武具奉行、と言ったという。その者は急ぎ自身番に届けた。芦沢は
町奉行と共に自身番に行き、河原崎の(むくろ)を見たと言う。
「お奉行、何故に、誰が」
 隼人に判ろうはずがない。落ち着け。隼人は自分に言い聞かせた
が頭は混乱していた。
「荒井殿、危急の事態。恐れ入るがお引取り願いたい」
 荒井は、驚いた顔をして部屋を出て行った。
「芦沢殿、ご家老には」
「阿波村殿が伝えているはず」
 隼人は服部の処に急いだ。服部が沈痛な面持ちで言った。
「思わぬことになってしまった。町奉行と目付が犯人を捜している
が……」
「ご家老、何が起こったのでしょうか」
「隼人、慎重にと思っておったが裏目に出たようじゃな」
「……」
「要らぬ憶測、河原崎が何かを知っていると責めたのであろう。だ
が、河原崎は律儀に口を閉ざしたままだった。死ぬまで責めるとは
……。此度の改革は藩において初めての試み。他藩でも例を見ない

(36)





もの。懸念も多くあったが、藩、いや役人にとっても良き考えであ
ったはず。真意を知った時、皆は喜ぶと思っていた。隼人、人の心
は複雑じゃな」
 服部は腕組みをしたまま黙っている。
「隼人、しばし考えさせて欲しい」

 隼人は城を出たが、既に夕暮れ時を過ぎていた。隼人は虚ろであ
った。拙者、何か間違ったことを。人が殺されるとは思ってもいな
かった。すっきりせぬまま歩いていた。
 ―― ん!
 この時刻、普段は人通りのない道。隼人は気配を感じた。
 ―― 三人か。成る程、次は拙者か。
 隼人は鯉口に指を掛けた。気配が近付いてきた。明らかに三人。
隼人は、そのまま足を進めた。
「やーっ!」
 甲高い声と共に一人が背後より斬り込んできた。刃音がしない。
 突きだ。隼人は間髪を入れずに思いっきり路地塀に体を寄せた。
踏鞴(たたら)を踏んだその男は、ツツツッーと前にのめった。後ろからは斬りたくない。と、もう一人が声を上げずに迫ってきた。その男は、正眼に構えた。三人目は見えない。踏鞴を踏んだ男は後ろに迫っている。前にいる男は、見知らぬ者だった。腕は後ろの男よりも良いようだ。これは手間が掛かる。隼人はその男に鋭い突きを入れた。男は、ササーッと体を引いた。案の定、後ろの男が背後より斬り迫った。隼人は身を落し、振り向き様、刀を斬り上げた。ズンと重い手応え。
 前の男は怯んだものの正眼のまま迫ってきた。隼人も正眼に構え
た。隼人は構えながら耳を澄ませた。もう一人が見えない。男の構
えに濁りは感じられない。清らかな構えだ。そのまま静かな時が流

(37)





れた。隼人は(いぶか)った。
「この藩の者か」
「如何にも」
「おぬし、拙者を染谷隼人と知ってのことか」
「如何にも」
「拙者を斬らねばならないのか」
「如何にも」
 このように乱れのない刀を使う者を自分は斬るのだろうか……
何故(なにゆえ)に」
「お家大事」
 判らなかった。この様な清らかな刀を使う侍が自分を斬ろうとし
ている。
 ―― 何故だ。
 静かな構えであったが、ツッと切っ先が動いた。隼人は掛け声を
掛けた。明らかに動揺が見えた。出来れば斬りたくない。だが男は
上段から鋭く斬り掛かってきた。隼人の体が無意識に反応した。隼
人は左膝を地に着け、右上に斬り上げた。もう一人の気配は無くな
っていた。隼人は空しさを感じていた。


     十三

 翌朝、隼人は田宮の屋敷に行きたくなった。
 文乃は顔を曇らせていた。
「お疲れのご様子。隼人様、いろいろと耳に入っておりますが」
 隼人が力なく言った。
「これで良かったのか……」
 これを聞いた文乃の顔付きが変わった。
「隼人様は以前、貧乏くじを、と申されました。今、お遣りのお仕

(38)





事、無駄なことなのでございましょうか」
「滅相もない。遣らねばならぬことでござる」
「隼人様は、既にご自分で貧乏くじをお引きなった」
「い、如何にも」
「ほほほ。文乃は、貧乏くじの当たりとは、どのようなものなのか
聞いたことはありませんが、知りたいと思っておりますのよ」
「文乃殿」
 暫し二人は黙っていた。
「隼人様、侘助は終っておりますが、また来年、綺麗な花を付けて
くれる事と思います。お茶をたてましょう」
 文乃は微笑を浮かべて茶をたてた。静かな時の流れ。心地良い茶
筅の音。文乃が静かに言った。
「良いものですね」
「えっ」
「いえ、このような空気」
「空気……」

 隼人は登城した。隼人に非はないため、目付の吟味はすぐに終わ
った。訊けば一人は旗奉行所の近藤。もう一人は人別帖に載ってい
ない者であった。旗奉行の者だったのか。隼人は男の澄んだ目を思
い出した。何故、拙者を狙ったのか。
 隼人は、服部から思わぬ言葉を聞いた。
「隼人、これで良いのだろうか」
「ご家老」
「此度の件、殺し合わなければならない内容ではないはず。しかし
三人も死んだ。これ以上、事が起きるのは耐えがたい」
「では藩の行く末は、どうでも良いと。ご家老、ご自分の時代だけ
何事もなく過ぎれば、それで良いとお考えなのでしょうか。今は良
くとも、いずれ無駄な費えにより藩の財政は逼迫いたいします。そ

(39)





れに技量ある者が無駄な勤めをしている」
「……」
「より良き世は皆が望んでいるはず。藩の行く末は藩が担う。これ
が徳川幕府の考えでは。ご家老っ!」
 服部が静かに顔を上げた。
「隼人、おぬしは若いのう。悩みはあろうが惚れ惚れするわ」
「殿はすでにご存知で」
「側用人がお知らせした。ところで殿に呼ばれておる。おぬしと共
に来いと言う」
「えっ! 私も……。ご家老、殿はどの様なお方でありますか」
「お会いしたことがないのか」
「元服の折、一度だけ」
「そうか。聡明なお方じゃ。我慢強くもある。だが、家臣からの具
申を待たれるだけでなく、ご自分のお考えを、もそっと、と思うこ
とがある」

 高虎は、二人が来ると側用人に次の指示をだした。
「武具奉行所役人の配転は服部の裁量に任せる。褒賞制度について
は詳細をつめよ。ただし実施は時期を見て沙汰する」
「御意」
 高虎は言い終えると側用人に席を外すように言った。側用人は、
えっと声を上げた。席を外せとは、異例のこと。
 隼人は平伏していた。
「染谷隼人か。表を上げよ」
「ははー」
 隼人は顔を上げた。
「おう、逞しくなったな。父上はお元気か」
「は、お陰を持ちまして」
「そうか。服部、側用人もおらんし記録にも残らん。話してみよ」

(40)





 既に評議内容は側用人から報告されている。服部は昨日までの出
来事を話した。河原崎が何者かに殺害されたこと、近藤たちが隼人
を襲ったことなどであった。高虎は黙って聞いていた。
「可哀想なことをした。どうやら世の中の変化に気付いておらん家
臣が多いようじゃな。無理もないが」
 高虎は隼人を見た。
「隼人、此度の件、おぬしが具申したと言うが、武具奉行所の改革
を終えたのち、藩をどの様に変えるつもりじゃ」
 隼人は驚いた。
「ははー。恐れながら、私は武具奉行にございます。藩を変えるな
どと滅相もございません」
「そうか。服部、隼人とはこれだけの男であったのか」
 服部が隼人に言った。
「殿があのように仰せじゃ。話してみよ」
「その様に申されましても。どうか平に平にご容赦を」
 高虎が大声を上げた。服部も初めて聞く大声であった。
「戯けたことを申すな。己の部署のみを考えただけ、後は知らんと
申すのか。嘘を付け。人間とはな、大きな事を考えるからこそ小さ
な痛みに耐えられるもの。己の部署のみを考えるような男であれば
何も改革などせんわ。じっとしている方が楽じゃからな」
 髙虎が息をつき、声音を落とした。
「何人もの家臣が死んだ。不憫なことじゃ。おぬしも人が死ぬとは
考えもしなかったはず。だがな、既に動き出しておる。余は止める
つもりはない。我が藩は、これからの世を見据え、変わらなくては
ならん。そうあってこそ死んだ者たちも浮かばれるというもの」
 隼人は、きりっと姿勢を正した。恐れながらと前置きし、殖産の
時代が来ると話しに話した。

(41)





     十四

 服部は、配転について該当する奉行と個別に話しをした。普請奉
行荒井は阿波村を是非にと嘆願し、すんなりと決まった。服部は、
川野、鈴木を勘定奉行に任せたかった。これからの殖産事業は勘定
奉行の仕事と考えているからだ。だが、平川は鈴木は欲しいが川野
は要らないと言った。
 寺社奉行の鎌田が来た。鈴木を欲しいと言う。服部は寺社奉行所
に人を増やすつもりはない。鈴木は勘定奉行に任せた旨伝えた。鎌
田は顔を強張らせ退出した。
 結局、川野を欲しいと言う奉行は居なかった。服部は仕方なく川
野を旗奉行所に配属し、とりあえず一段落した。

 数ヵ月後、武具奉行所に人が訪れるようになった。いや、宝物保
管所と言うべきだろう。代々の島岡藩主が使用した武具が整然と並
んでいる。それらの武具には但し書きが添えられていた。畑中には
文才があるようだ。武具にまつわる逸話が簡潔にまとめてある。中
には吹きだすような物もある。

【二代目藩主島岡和虎が近隣の豪族と戦った際、使用した槍】
  和虎公が落馬したため直ちに馬廻役からこの槍を受け取った。
  だが、前後を間違って持ってしまった。いかんと思い、持ち
  変えようとしたが、偶然にも背後の敵を刺して助かった。

 二代目藩主和虎を知っている者はいない。隼人は畑中に、これは
本当の話かと確認した。
「お奉行、拙者は曽祖父より聞いております。この藩が今あるのは
この槍のお陰であります」

(42)






 畑中は事も無げに話した。畑中は忙しかった。見に来た者が話を
聞きたがるのだ。隼人は畑中の自由にさせた。

「ご家老、宝物保管所でありますが」
「何じゃ、言い淀むことはない申せ」
「広く藩民に開放してはと」
「何、藩民に見せたいと言うことか」
「はい。特定の日であれば藩政の邪魔にはなりません。畑中殿の但
し書きは素晴らしいものであります。この藩の歴史を語っておりま
す。しかも面白おかしく」
「うーん。おぬしの話、聞けば良いことと思うが前例のないことば
かりじゃ。全く面倒の掛る男じゃ」
「では、出来ないと」
「うるさいっ! 遣れば良いのじゃろう。遣れば!」 
 月に一日、藩民に宝物保管所が開放された。畑中は更に忙しくな
った。
「お奉行。拙者、この様な事態は考えてもおりませんでした。あり
がたき幸せ」
 畑中は目に涙を浮かべて隼人の手を握った。

 心躍ることばかりではなかった。河原崎殺害と近藤に関する捜査
は一向に進んでいなかった。


     十五

 季節は春、高虎が参勤交代で出府する。高虎は主だった者に集ま
るように言ったが城代は風邪を理由に代役を立てた。

(43)





「十日後に出府する。我が藩は過去になかったことを経験した。痛
ましいことも起こった。家臣、藩民にも戸惑いがあるかも知れん。
この一年、今のまま藩政を保つように。良いな」
 一同、ははーと頭を下げた。
「ところで、城代は体を壊したと聞いた。この一年は服部に城代を
兼任させる。鈴木には充分養生するよう伝えろ。服部、良いな」

 真琴も父も何も言わないが、文乃はちょくちょく田宮と共に屋敷
に来ているようであった。隼人も閑が出来ると田宮を訪れた。その
度に文乃は茶をたててくれた。隼人にとり心休まるものであった。

 高虎が出府した数日後、隼人は服部に呼ばれた。
「ご家老、何か」
「うん、ご城代の病気だが…… いや、その前に、近頃何人かの奉
行が城代の屋敷に訪れているらしいのだが、病気見舞いにしては、
ちと変。おぬし、今は閑じゃな」
「これは異な事を申される。拙者、真面目に勤めております」 
「判っておる。だが、これと言って忙しい事もあるまい。つまり閑
じゃ。閑つぶしに城代の件、調べてみては」
「何かと思えば。そのような事は目付殿の仕事。武具奉行には関わ
りのないこと」
「そうか、では仕方がない。拙者が調べる以外にないか。近頃、腰
も痛うなってな」
「お止しくだされ。見っともない。目付殿にお言い付け下され」
「どうしても嫌か」
「……」
「では命令じゃ。遣れっ!」
「これはまた。お年寄がすこぶるお元気なお声で。しかし、命令と
あらば仕方ござらん」

(44)





「隼人、頼む。これからは、つべこべ言わずに拙者の言うことを聞
いてくれ」

 隼人も、城代の屋敷に奉行たちが集まっているとの噂は聞いてい
た。この一年、この藩の全権は服部が握る。城代は、それを面白く
思っていないのであろうか。奉行を集め、何を話しているのであろ
うか。
 夕刻になっていた。隼人が思案顔で歩いていると、酔っぱらった
侍がフラフラと歩いていた。その男が近付いてきた。酒臭い。見る
と川野であった。
「これはこれは、お奉行様。お久しぶりでござる」
「川野殿、お元気か」
「お元気? ご立派なお奉行様のお陰で見ての通り、すこぶる元気
でござる」
「それは何より」
「抜け抜けと。おぬしのお陰で老いぼれが勤める旗奉行に回された
わ。拙者、藩の笑い者じゃ。父などは川野家の面汚しなどと言って
おる。余計なことを遣りおって」
「それは違う。旗奉行所云々については拙者の預かり知らぬこと」
「では、拙者をおっ放り出したのは誰じゃ。おぬしであろうが」
「……」
「大した家柄でもない糞侍ごときに……」
「川野殿、言葉が過ぎますぞ」
「なにーッ! 偉そうに。どいつもこいつも気に食わん。近藤も近
藤だ。あの白痴(たわけ)が。しくじりおって」
「か、川野殿、今、何と申した。近藤とは旗奉行所の……」
「何を(わめ)いておる。旗奉行所はいずれ閉鎖と話したら、奴め青ざめおって。腕が立つと聞いていたが……」
「近藤殿を(たぶら)かしたのは、おぬしかっ!」

(45)





「誑かすだと。聞き捨てならんことを。武士の風上にもおけんな」
 川野がゆっくりと刀を抜いた。無益な殺生はしたくない。隼人は
(くびす)を返した。
「逃げるのか! この臆病者がっ!」
「如何にも」
 隼人は急ぎその場を離れた。

 翌日、往来の真ん中に腹を刺した川野が横たわっていた。
 隼人は、服部だけに昨夜のことを話した。服部は、ただ黙って聞
いていたが一言呟いた。
「また一人、死んだか」


     十六

 佐門の朝顔が活躍する季節が来た。田宮父娘もちょくちょく手伝
いに来ている。筋が良いのか、二人とも飲み込みが早い。教える佐
門も楽しそうにしている。
 ある日、隼人は田宮を訪れた。庭には朝顔の鉢が並んでいる。
「父も夢中ですの。どの様な朝顔が咲くのか今から楽しみです。隼
人様はお作りにならないのですか」
「拙者は見るだけ。不調法でして」
「花は世話する人の優しい気持ちが判るそうですよ。それに応えよ
うと、一層綺麗な花を咲かせようとすると聞いております。隼人様
の優しさに花は応えると思います。お作りになれば良いのに」
「文乃殿、拙者、優しいですか」
「父も…… 近頃は隼人様の優しさに支えられているようだと」
「そうですか。だが、拙者はお二人にこれと言って何もしておりま
せんが」

(46)





「気に掛けていただいていることが嬉しいのです」
 文乃は俯いたままニコッと笑った。隼人はときめきを感じた。
「文乃殿、文乃殿は…… 拙者を好きですか」
「えぇ、大好きです」
「文乃殿っ! では拙者と……」
「隼人様、それとこれとは……。文乃を困らせないでください」
「いや、申し訳ござらん。拙者、ちと先走ってしまいました」
「先走る……?」

 相変わらず城代の屋敷に何人かの奉行が訪れていた。城代は体調
が悪いと屋敷にこもる日が多くなっていた。訪れる奉行は、寺社奉
行の鎌田、山奉行岡田、旗奉行山本であった。時たま勘定奉行の平
川も顔を出しているようだ。しかし何を話しているのかは、皆目判
らなかった。

 服部と隼人は、殖産事業について話し合っていた。
 高虎は譜代大名である。島岡藩は、拝領石高七万八千石。藩には
四郡百五十八カ村が存在する。田畑が七割を占め三割が山である。
人口は七万五千人余。年貢を納める農民は、五万五千五百人。商人
と職人一万五千人。侍は四千五百人。
 藩は、山に囲まれ盆地のようになっている。米、麦などの穀物、
大豆、野菜は辛うじて自給できる状態であるが、数年おきに起こる
旱魃や洪水は悲惨であった。山には針葉樹、広葉樹が茂り材木が切
りだされている。漆や三椏も採れる。海に接していないため魚類は
川魚が主である。だが、その他これと言った産物はない。

「ご家老、まず平和な世とは戦いや殺戮がない世の中。これは徳川
様の全国統一で成し得たと言えます。次に、我らの藩でありますが
貧しいとはいえ、旱魃(かんばつ)、洪水がなければ藩民は平穏に暮らせます。しかし、言い換えれば……カスカスな状態とも言えます。旱魃は避

(47)





けられません。だが食料は備えることができます。また、洪水は治
水により被害を軽減できます。まず殖産の前に治水と考えます。同
時に灌漑を行ない田畑を潤す。さらに干害に備え、溜め池を配置す
る。当藩には、まだ荒地が存在します。今になって考えれば荒地が
在って良かったと言えます。荒地を開墾すれば増産を約してくれま
す。これらは藩の基盤を確固たるものにする事業です。開墾した土
地の一部に梨などの果物を育てましょう。果物を作っている藩は少
ないです。これらは他藩に売りましょう。木椀、藁細工、中には小
さいながら窯を持ち陶器を作っている村もあります。手慰み程度の
こけし作りをしている村もあると聞いています。いや忘れるところ
でした。持ちを良くしようと、漆器を作っている職人もいるそうで
す。ただ塗りが弱く、売り物にはなっていないとか……。今はそれ
で良いのです。技を磨けば良いのですから。これらの職人から事情
を聞きましょう。我が藩の特産に出来るかもしれません。そのため
には技を持つ者を招く必要があります。治水、荒地の開墾指導に併
行して、匠を捜しましょう。それに……」
「こ、これ隼人っ! ちょっと待て。それにしても、おぬしは良ー
ベラベラと喋くる男じゃな。しかも早口で。聞く者の立場になって
話さなければならんぞ」
「いや、自己陶酔の境地でありました。面目もございません。ところで話しながらチラッとご家老を拝見いたしましたが、何やら小舟を漕いでおりましたようで」
「それ見ろ。自分勝手に話しよるからそういうことになる。拙者の
責任ではないわ」
 二人は顔を見合わせ大声で笑った。
「隼人、心躍る話。だが財政面をどうするかが問題じゃな」
「如何にも。基盤を整備する期間は、侍以下藩民総てが倹約の心を
持つことが肝要だと思っております。我ら侍も、この期間は扶持の
幾らかを我慢せざるを得ないでしょう」

(48)





「組織を変える必要もあるな」
「如何にも。難しい問題ではありますが」
 二人の話は尽きなかった。


     十七

 秋を迎えていたが河原崎の犯人も挙がらず、また城代らの動きも
なかった。

 隼人には、殖産以外にもう一つ成し遂げなければならないことが
あった。文乃である。近頃は田宮家の夕餉の席に招かれるようにな
っていた。一汁二菜の質素な夕餉でありながら、文乃は実にしっと
りとした静かな味わいの料理を作った。初めて口にした時、隼人は
物足りなさを感じた。だが、口を動かしているうちに素材が持つ味
が広がっていった。文乃は母親を知らない。この様な味付けを誰に
教わったのだろうか。隼人は真琴の料理も好きだった。味付けは自
由闊達。同じ素材、同じ料理であっても日によって味わいが異なる
が、それがまた楽しくもあり美味しくもあった。隼人は、いずれ、
両方の料理を味わえると心の内で喜んでいた。
「文乃殿、失礼だが料理はどなたに」
 文乃は笑いながら田宮を見た。
「隼人殿、拙者が賄頭取であったことをご存知か。賄先の者たちだ
が、ただ食材を持ってくるだけではない。如何に旨いか、どの様に
料理すれば味を引き出せるかを訊きもしないのに話す。彼らは自分
が作ったもの、商っているものに自信があるのであろうな。そのよ
うな時、目を輝かせて話しおったわ」
 ―― そうか、田宮様が教えたのか。
「田宮殿も包丁を」

(49)





「如何にも。男手一つでこの家を切り盛りしましたからな。今は文
乃が総てを遣ってくれる。嬉しいことじゃ」
 文乃は俯いている。田宮は遠い昔を思い出しているようだ。必死
になり姪である文乃を育てたのであろう。いつにも増して温もりの
ある夕餉であった。

 寒さを感じる夜、隼人は寝具を掻きあげた。そろそろ掛け布団を
変えた方が良いななどと考えていると何やら玄関の方が騒がしい。
何事であろう。既に亥の刻を過ぎているはず。真琴の声と共にドタ
ドタドタと足音。隼人は刀を手にした。
「お奉行っ、お奉行ッ!」
 男の声である。月明かりに照らされたのは、鉄砲鍛冶の小吉。
「何じゃ、この夜更けに」
「お奉行、て、大変(てーへん)なことが起こりやした」
 小吉の顔は蒼白、口をパクパクさせている。
「落ち着け。落ち着いて話せっ!」
「ご家老の屋敷に賊がッ!」
 小吉の仕事場は家老屋敷の向かいにある。
「何ッ! 小吉、本当かっ!」
「へー、お奉行、急いで」
「判ったッ!」
 佐門も何事かと顔を出した。
「父上っ、ご家老の屋敷に賊が押し入ったとのこと。火急の事態で
ござる。恐れ入るが、目付殿に知らせていただけませんか」
「は、隼人。判った!」
 まさに押っ取り刀。隼人は小吉と共に部屋を飛び出した。服部の
屋敷までは七町ほど。走りながら聞いた。
「小吉、どういう事だっ」
「夜鍋してたんで。そしたらお屋敷の前に五、六人の影が。何だろ

(50)





うと見てやしたら肩車して塀を乗り越えだしたんで。こりゃ、いけ
ねぇと思いやしてお奉行の所に」
 小吉は、やたらと足が速い。隼人は遅れてしまう。
「お奉行、急いで」
「急いでおる」
 刀を腰に差し左手で握って走る。小吉は少し走っては止まり隼人
を待つ。走っては待つ。この繰り返しである。

 屋敷に着いた。だが、物音は聞こえない。
「小吉、町奉行に知らせてくれ」
「へぇ、お奉行は」
「今から屋敷に入る。小吉、済まんが背中を貸してくれ」   
 屈んだ小吉の背中に足を掛け、塀を登った。小吉はそれを見届け
ると走り出した。
 屋敷に入った。勝手知ったる家老の屋敷。物音は聞こえない。広
い屋敷とはいえ、賊が押し入ったのであれば、家人はともかく用人
が気付くはず。変だ。幾つかの部屋を抜け服部の寝所に向かった。
 薄っすらと人影が見えた。耳を澄ます。
「ご家老、観念なさった方が良い。我ら、これ以上待てませぬ」
 隼人は驚いた。話しているのは寺社奉行の鎌田だ。
「何度、同じことを言われようが、おぬしらの申し出、聞く訳には
いかん」
 ―― ご家老の声はしっかりしている。
「では、用人が死ぬことになるが、それでも良いのか。今は当て身
のみ。隣の部屋で気を失っておるわ。だが、拙者が声を掛ければ」
「卑怯なことを言うものではない。いずれにしても松崎を殺すつも
りであろうが。拙者が河原崎、近藤、川野らが死んだ責任を取り、

(51)





切腹だと。そのような戯言、誰が信じるか。片腹痛いわ。所詮、その程度の浅薄な考えしかできんおぬしらじゃ。藩の行く末など、これっぽっちも考えておらんのじゃろう。愚かなことじゃ」
「何が藩の行く末だ。武勲多き城代様をないがしろに、殿に付け入
り、藩を我が物にしようとのおぬしの企み。私腹を肥やそうとの魂
胆。良くも河原崎や染谷と仕組んだものじゃ。河原崎め、白状すれ
ば良いものを」
「何じゃっ! 河原崎は、おぬしらの仕業かっ!」      
「冥土の土産、教えてやろう。如何にも拙者と岡田が遣った。染谷
もいずれ成敗いたす。これも藩のためじゃ」
「藩のためっ! 藩のためじゃとッ!」
「各々方、埒が明かん。これ以上、長引いては危険。致し方ない、
死んで貰おう」
 隼人にも張り詰めた部屋の雰囲気が伝わってくる。そうであった
のか。隼人は障子を蹴破り部屋に飛び込んだ。
「総ては、この耳で(しっか)と聞いた。さー、ご家老を離せ!」
 鎌田が服部に迫ろうとした途端、隣の部屋でギャーと声が上がっ
た。皆が声の方を向いた。一人が襖を開けた。その隙に、隼人は服
部を後ろに庇った。
 ―― いかん松崎が!
 見れば若い侍が股間を押さえ、口から泡を吹いている。松崎は刀
を持って構えていた。
「染谷殿、拙者が居りながら面目ない。ご家老を頼む」
 と言うなり鎌田らに斬り掛かっていった。
 屋敷内がざわめいてきた。家人が恐る恐る部屋を覗いている。服
部が大声で言った。
「来るなっ。下がれ、下がれっ!」
 押し入ったのは鎌田、岡田、山本それに下士三人。一人は既に倒
れている。戦う相手は五人。松崎は、凄い形相で刀を振り回してい
る。松崎は山本ともう一人を斬り倒したが、完全に我を失っている

(52)





ようだ。
 ―― 危険だ!
 隼人は服部の前に立っていた。
「松崎殿、壁を背に。そのままでは後ろから遣られるぞっ!」 
 遅かった。岡田が後から松崎を袈裟懸けにした。
 岡田が叫んだ。
「各々方、家人に顔を見られた。急げっ!」         
 その時、服部が床の間にある刀を取った。
「隼人、己の身は己で守る。拙者の事は気にせず存分に遣れっ!」
 服部を見ると寝巻きの前が肌蹴け、凄まじい格好のまま刀を構え
ている。どうした訳か、隼人の頭にこの姿がくっきりとこびり付い
てしまった。
「ではっ!」
 隼人は、ツツッと前に出た。四人は明らかに焦っている。
「おぬしら諦めろ。目付、町奉行にも知らせを遣っている。今少し
で到着するはず。逃げることはできん。潔く刀を引け。だが、この
所業じゃ。いずれにしても死罪は避けられんな」
「何を小癪な。冥土への道連れ」
 言うなり鎌田が斬り込んできた。刀を受け流すと若い侍が突いて
きた。隼人は、その侍の両腕を切り落とした。その男は叫び声を上
げ、のたうち回っている。もう一人の侍は、真っ青になりへたり込
んだ。見ると袴が小便で濡れている。こ奴は放っておけば良い。
 服部は岡田と対峙していた。だが勢いは一目瞭然であった。
 岡田の腰は完全に引けている。
「ご家老、岡田は突きに弱い。お突きくだされ」
「判ったっ!」
 服部は、半歩前に出て突きだした。岡田が更に腰を引く。隼人は

(53)





岡田のことを詳しく知らない。突きに弱いと言ったが、これは出任せである。何でも良い、勢いを付けた方が勝つ。
 鎌田の腕は良かった。しかし隼人とは状況が違う。蒼白になった
顔。どうであれ死が待っている。冷静でいられるはずがない。
 表が騒がしくなった。目付か町奉行であろう。鎌田の顔が醜く引
き攣った。正眼に構えたまま闇雲に前に出てきた。死を覚悟した刀
は怖い。隼人は恐怖を感じた。
 ―― 捕り手が来るまで、このままで居た方が良いのでは……
 そう思った刹那、鎌田が上段から斬り込んできた。右に避けたが
左腕に痛みが走った。痺れも感じる。このままでは遣られる。鎌田
が、ニヤッと笑った。ゾッとする笑いだ。
 その時、服部の突きに後退りを続ける岡田の背中が鎌田にぶつか
った。一瞬の隙。隼人は右腕一本で左から胴を払った。鎌田の体が
二つになった。見ると岡田も倒れている。着物の背が二つに裂け、
一筋の斬り傷があった。だが、息はあるようだ。
 服部を見るとゼイゼイ言っている。刀を右手に肌蹴たままの寝巻
き姿。股を開き両足を放り出して座りこんでいる。何と、下帯が丸
見えだ。何故か、またこの姿が隼人の脳裏に焼き付いた。
 ドタドタドタと大きな足音。捕り手が来たようだ。
「ご家老!」
「おう隼人。良く遣った。良く遣った」
「ご褒美につきましては後日ゆっくりと。ご家老、少しは面子(めんつ)をお
考えくだされ」
「褒美? それに面子じゃと。何を言うか、この大事に。見損なっ
たぞ、隼人」
 隼人は服部の股間を指差した。服部、あっと声を上げ、寝巻きを
整えながらニヤッと笑いながら言った。



(54)





     十九

 隼人の腕の傷は深かった。小吉が手当てをしたが上手いものだ。
鍛冶屋は荒っぽい仕事をする。傷が絶えないため、自分で手当ての
方法を知っていないと仕事にならないという。しかし仕事と同じで
実に荒っぽい手当てであった。止血は医者に診せるまでと言いなが
ら、渾身の力で締め上げた。
 その夜の内に医者を叩き起こし、看て貰った。小吉も居る。医者
は目を擦りながら看た。
「深いな。だが…… 只の刀傷」
 縫合が始まった。何と荒っぽい治療か。小吉どころではない。隼
人は大声を出した。
「おぬし、拙者に何か恨みでもあるのかっ! もそっと優しく遣っ
たらどうじゃ!」
「恨みなどない。ただ眠いだけじゃ。だが、今後のために言ってお
こう」
「な、何じゃ?」
「斬られるのであれば、夜は止せ。朝か昼間に斬られよ。医者泣か
せじゃ。良いな」
 隼人は口を噤んだ。
 ―― この医者、拙者を越えている。

 隼人は自宅で寝ていた。傷口が傷むが、考えてみれば運が良かっ
た。ご家老が突きを続けていなければ、岡田がぶつからなければ。
隼人は頭を振った。己に判らないことが己に起こる。これが人生。
起こったことは起こった事として受け入れれば良い。何故を繰り返
したとしても所詮、判らんこと。隼人は眠った。
 目を覚ますと部屋は暗かった。既に夜なのか。
 傍らに……。見ると文乃がコックリをしている。嬉しかった。隼

(55)





人は、ただ嬉しかった。

 翌朝、高虎に早馬が飛んだ。高虎の沙汰は、吟味結果を知らせよ
との簡単なものであった。生存者は、岡田と鎌田の部下である豊島
の二人。岡田の傷は、命には別状ないものであった。目付の元で二
人の吟味が続いていた。

「隼人、おぬし褒美とか言っていたが、欲しいのか?」    
「はっ? 褒美? 拙者、そのような下賎なことを口にいたしまし
たでしょうか」
「言った」
「はて?」
「惚けるものではない。欲しいなら欲しいと言え。来春、殿が戻ら
れる。この事をお伝えしよう。褒美を欲しがる男とな」
「そのような。では私めは、ご家老の所業をお伝えいたします」
「所業? 何じゃ、それは」
「いえ、肌蹴た寝巻き、下帯丸出しで尻餅をついていた。家老とも
思えぬ有様。家臣への示しもつかぬ所業。権威も何もあったもので
はないと。拙者、事細かにお伝えすることができまするぞ」
「うーん。覚えておるのか」
「はっ、今も目を閉じますと、ありありと」
「ま、お互いに、これらの事、忘れるといたそうか」
「そうもいきませぬ。折角、拝見できたお姿でござる」
「いい加減にせよっ!」
 心地良い笑いが起こった。
 事件から三日しか経っていないが、隼人の左腕には、まだ痛みが
残るものの普段通りの勤めが出来ていた。
「ご免仕る。ご家老、宜しいでしょうか」
 服部の部屋に側用人が来た。見ると沈痛な面持ちでいる。

(56)





「ご城代が、腹をお切りになりました」
 二人に驚きはなかった。起こるべくして起こったこと。城代の藩
への貢献は大きかった。だが、それは天下が統一されるまでのこと
である。城代は世の中の動きに付いていけなかったのか。二人に言
葉はなかった。
 城代の死が吟味を早めた。岡田の話は鎌田が死ぬ前に言った事を
裏付けるものだった。豊島は何も知らなかった。上司である鎌田の
指示に従っただけであった。
 高虎から吟味に対する沙汰が降りた。            
 山奉行岡田は切腹。豊島は半年の蟄居。勘定奉行平川は暴挙に加
わらなかったが事の次第を知っていた。奉行に有るまじき姿勢。本
来であれば切腹にも値するところだが、今までの業績に免じ、国払
い。鎌田家、岡田家、山本家は取り潰された。だが妻子の身柄は家
老預かりとされた。これからの仕事振り次第では家を起こすことが
できる。
 城代、勘定奉行、寺社奉行、山奉行、それに旗奉行が居なくなっ
てしまった。だが、不思議なことに役人、藩民の間に動揺はなかっ
た。高虎が参勤を終えて戻るまでの間、これらの役は服部が兼務す
ることになった。

「ご家老、老いた身に大変でござるな。お察しいたしまする」 
「馬鹿者。拙者、老いてなどおらんわ」           
「これは失礼仕った。先般、腰がとか申されておりましたが」 
「本当に余計なことしか覚えておらんな。痛みは取れたわ。どうや
ら閑を持て余しているようじゃが今に見ておれ。おぬしの泣きっ面
が見たいものじゃ」
「わっはっはー。ご家老のあの姿のお陰で、拙者には怖いものがな
くなり申した」
「相変わらず口の減らない失礼な奴じゃ。ところで文乃殿とか言っ

(57)





たな、どうなっておるのじゃ」
「ご心配なく。細工は上々、仕上げをごろうじろと言うところでし
ょうか」
 これを聞いた服部の顔が見る見るうちに変わっていった。
「何ーッ! 隼人、今、何と言った。細工だとーッ! こ、この大
戯けがっ!」
「はっ?」
「そもそも夫婦とは互いに心許すもの同士が睦み合い、共に人生を
歩むもの。細工を施さなければならないのであれば止めてしまえ!
 文乃殿に失礼であろうが。もっとも、そのようなおぬしであれば
文乃殿に愛想をつかされるわ。戯けでは気が済まん。おぬしは大馬
鹿者じゃっ!」
 服部は青筋を立てて怒っている。隼人は、この様な服部を見るの
は初めてであった。
「ご、ご家老…… 先ほどは言葉の綾……」
「言葉の綾だとっ! それも細工の内じゃ。お、おぬしを見損なっ
たわ。で、出て行けっ!」
 取り付く島がない。隼人は、すごすごと部屋を出た。

 ちょっとした言葉の遣い間違え。それに対する服部のあの怒り。
心許せる上司と思っていた。これからの世を見据えた藩造りを、共
に語り、共に励む上司と思っていた。拙者は見捨てられたのだろう
か。隼人は、初冬に入った街を当てもなくトボトボと歩いていた。
 気付くと勝手に田宮の庭に入り込み、濡れ縁に座っていた。呆然
と座る隼人の目には、蕾を膨らませ、花を付けだした侘助だけが映
っていた。花は世話をする人の優しさに応えようとする。文乃の言
葉が思いだされる。綺麗な侘助だ。
 文乃が庭に出てきたが、肩を落し、意気消沈の隼人を見て驚いて
しまった。

(58)





 ―― まあ、お声も掛けずに……
「隼人様、如何なされました」
「あっ、文乃殿。申し分けない。黙って入り込んだりして」
「ふふ、お声ぐらいお掛けくださいまし。お茶にしますか」
「か、忝い」

 物事には好機と言うものがある。それを掴むかどうかは、その者
に委ねられているはず。文乃に対し細工など考えてはいなかった。
自分は文乃殿が好きだ。夫婦にと決めている。ただ切り出す機会、
好機を待っていただけである。仕事でも同じではないか。手順とい
うものがある。仕事と同じ……。隼人は、ふっと何かに気付いた。
二人は、縁側で話した。
「寒くなりましたね。侘助は喜んでいるようですけど」    
 そうか、もう一年が過ぎたのか。隼人の空ろな目は侘助だけを見
ていた。
「隼人様、何をお話になっても宜しいですよ。文乃は聞きとうござ
います」
 隼人は話すのが怖かった。また、ご家老のように愛想を付かされ
るのではないか。
「隼人様、世の中が終ってしまったようなお顔ですよ。額に皺をお
寄せになって。それはそれで素敵なお顔ですが」
「はっ?」
 隼人は文乃の顔を見た。文乃は明るく微笑んでいる。
「文乃殿、拙者っ!」
 隼人は、堰を切ったように服部との遣り取りを話し出した。仕上
げをごろうじろ、言葉の綾…… 身振り手振りを加え、服部の表情
まで真似て喋った。隼人は田宮が庭に出てきたことにも気が付かな
かった。総て話し終わった隼人だが、気が抜けたように背中を丸め
ていた。

(59)





「隼人様……」
 隼人は、ふと気付いたように文乃の顔を見た。笑顔は益々明るく
なっていた。隼人は何か拍子抜けした感じであった。
「文乃殿、拙者、ご家老にも愛想を付かされ、文乃殿にもこのよう
な面目ない話をしてしまいました。もう終りです。侘助を一枝、い
ただけますか。帰ります」
「ご家老はお優しいお方のようですね。お会いしとうございます」
 ―― 服部に会いたい? とんでもない。服部は、あんな男、止めろと言うに決まっている。
 隼人は腰を上げた。すると田宮が近付いてきた。隼人は、やっと
田宮に気が付いた。
「田宮様…… 拙者、失礼いたします」
「まあまあ、そう急くことはないでしょう」
 田宮も縁側に座った。文乃は、お父様にもお茶をと席を立った。
「隼人殿、済まぬと思ったが話を聞いてしまった。腕の方は、もう
大丈夫なようですな」
「は、お蔭様で」
「お怪我なさった時、文乃は一晩中看病いたしましたな」   
「は、感謝しております。いや、ただ嬉しさを感じておりました」
「翌朝でした。よほど疲れたのでしょうな、文乃は部屋でうたた寝
をしておりました。風邪でも引いてはと思い、羽織る物を持って部
屋に入ろうといたしました。隼人殿、その時、文乃の寝言が聞こえ
ましてな。これは文乃に内緒ですぞ。隼人様、隼人様とな」
「……」
「不憫と思いましてな。文乃は好きなんですなー隼人殿を。拙者、
見合いでしてな。何かと噛み合わず、妻と別れました。だからでは
ないが、文乃には見合いなどさせたくなかった」
 その時、文乃が茶を持ってきた。
「お父様のお声だけ。何をお話になっていたのですか」 

(60)





「ちょうど良い。文乃にも聞いて貰いたい。そこに座りなさい」
 田宮は、茶をすすりながら話しだした。
「昔より味噌汁が冷めない距離と申してな。染谷殿のお宅とは、一
町しか離れておらん。ちょうど良い距離。佐門殿、真琴殿とも気心
通うお付き合いをさせていただいている」
「お父様……」
「隼人殿は遠慮深いのかも知れんが、いかんなー、その様なことで
は。文乃が言ったことを真に受けて。それはそれ、これはこれでは
なかろうか」
 と言った途端、もの静かな田宮が大声で笑いだした。その目には
涙があった。

 田宮を辞すると、隼人はその足で再び服部の屋敷に急いだ。既に
戌の刻に近い。屋敷の門は閉ざされていた。隼人は扉を叩いた。
「ご家老っ! 染谷でござる。お開けください!」
 事件が起こったばかりである。通用門の小窓が開いた。家人が隼
人を確認すると扉を開けた。一目散に服部の部屋に……
「な、何じゃ、この夜更けに」
「ご、ご家老。お願いがございます」
「願い? また何か細工を施したのか」
「ご、ご家老。その儀はご勘弁を。願いとは仲人でござる。文乃も
ご家老にお会いしたいと申しております。是非っ!」
「……」
「ご家老、目が覚めました。好きなら好きと、一緒になりたければ
一緒になりたいと。それだけで良いのです。それだけで」

 その夜、隼人は明け方まで服部の話に付き合わされた。
そもそも夫婦とはな、拙者と妻との出会いはな、拙者の妻は、なか
なか可愛い所があってな、先日、二人で茶を飲んでいるとな。

(61)





 隼人が大欠伸をしても気にも止めずに話し続ける。
 ―― 何じゃ、聞く相手の身になって話せと言ったくせにベラベラと……
 だが、隼人は聞く以外になかった。


     廿

 翌朝、隼人は、フラフラになって屋敷に戻った。案の定、玄関で
真琴が仁王立ちで迎えた。
「隼人っ! 朝帰りとは! 訳を言いなさい」
 真琴が見ると隼人は目に隈を作りゲッソリとしている。遊びでは
なさそうだ。何があったのか。
「父上と母上にお話がございます」
 流石に真琴も心配そうな顔になった。藩のごたごたが落ち着いた
というのに。
 隼人は二人の前に手を付いた。二人も緊張している。
「父上、母上、喜んでください。隼人は文乃殿と夫婦になります。
田宮殿のお許しも得ました。仲人はご家老にお願いいたしました」
 さぞ喜んでいるだろうと顔を上げ、二人を見た。
 あれっ? 二人の顔には笑顔がない。まさに拍子抜けである。佐
門が口を開けた。
「今更、何が喜べだ。待ちくたびれて笑顔も出んわ。ウダウダしお
って。誰に似たのか」
「それは、貴方に似たのです」
「何、拙者だと。お前に似たのだ」
「まあ、私ではありません。貴方です」
 二人が言い合いを始めてしまった。隼人は足音を立てずに、そっ
と部屋を出た。

(62)





 疲れた一日であった。だが生まれて始めて味わう心地良い疲れ。
着代えもせず部屋で眠った。

 何やら高虎と服部の間で仲人争いがあったらしい。服部は藩主が
家臣の仲人をするなど前例がない。それに縁を結んだのは拙者だと
言い張り、江戸に長ったらしい文を送ったらしい。高虎からの書状
には、致し方ない。だが余が戻るまで婚礼の儀は許さんと書いてあ
った。さらに書状には上の文字が認めてあったらしい。上意。流石
の服部も大笑い。殿はご健在だ。もう一通あった。服部、藩の組織
に関して大至急具申せよ。但し、城代は置かず、筆頭家老の役目と
する。なお、筆頭家老は服部とする。二日の猶予を与えるが遅れる
ことは許さん。遅れた場合は、減俸の沙汰を下すゆえ覚悟して掛か
れ。追、これは仲人ができなくなった腹癒(はらい)せではない。
 婚礼の儀は、来春、高虎が参勤を終え帰藩してからと決まった。

 服部は、組織について自分一人で考えをまとめた。旗奉行の役目
を武具奉行に加える。普請奉行の下に普請役、作事役、小普請役を
置く。寺社奉行はそのまま残す。侍、藩民共に基盤作りをするため
目付の下に町奉行を置き同じ目で治安を見る。また、郡及び村に対
しても同様とする。勘定奉行の下に山奉行を置き、郡奉行が行なっ
ていた郡の管理も勘定奉行の役目とする。従って旗奉行、郡奉行、
山奉行はなくなる。従来、城代の配下にあった手廻、馬廻、留守居
などの管理は筆頭家老が担い、これを臨時役とする。
 家老を中心とした側用人、目付、そして勘定奉行、普請奉行、寺
社奉行、武具奉行による藩制である。服部は武具奉行、寺社奉行も
なくそうとした。だが藩政を担う我々は武士である。仕事は少なく
なるが武具奉行は必要であった。また、寺社は藩民の心の拠り所で
もある。服部は隼人を呼んで組織図を見せた。
 隼人は腕を組み、じーっと図を見ていた。拝領石高七万八千石の

(63)





小振りな藩が大々的に殖産事業を進めるためには、役目を重視した
組織、迅速な動きが取れる組織が求められる。この縦割り組織は実
に無駄のない組織だった。
 隼人は思い切って武具奉行を武具役として側用人配下に、寺社奉
行を寺社役として勘定奉行の下へと進言しようと思った。だが武具
奉行については、畑中の心模様の言葉を思いだし止めた。それに寺
社役を付けては、勘定奉行の役目が多くなりすぎる。
 隼人はかなりの間、黙って見ていた。服部は一切口を挟まなかっ
た。隼人は重要な事に気が付いた。この組織図には、まだ奉行の名
前が書かれていない。ふっと顔を上げて服部を見た。
「ご家老、この組織にまだ奉行名が」
「おう、ところで如何に思ったか、遠慮せず申してみよ」
「申し分なきお考え。隼人、ご家老を見直した思いでござる」
「そうか。では、この場で奉行の名前を書こうと思う」
 服部は筆をとり書き出した。目付は据え置き、普請奉行荒井。
 ―― 荒井殿は、意気盛ん。役目も大きくなり喜ぶことだろう。 寺社奉行芦沢。
 ―― 芦沢? 武具奉行所から抜擢か。前向きな男だ。寺社奉行所も変わるかも知れんな。
 武具奉行畑中。
 ―― えっ、畑中殿! 武具に対する敬意、藩を思う心。なるほど…… いや、待て。
 隼人は顔を上げ服部を見た。
「ご家老。僭越ながら武具奉行は、拙者では」
「もう遣らんで良い」
 服部は、ゆっくりと勘定奉行の名前を認めた。
「これで良い。勘定奉行染谷隼人」
 暫し、沈黙があった。
「ご、ご家老。染谷家は代々武具奉行所の役人勤めをいたしていた

(64)





下積みの家柄。私めが奉行を拝命されたこと事態、異例なことであ
ります。勘定奉行のような要職を」
「まぁ、大変であろうな。これでやっと、おぬしの泣きっ面を見る
ことができそうじゃ。明朝、江戸に早飛脚を立てる。殿のこと、す
ぐにご承認されるだろう。お帰りになるまでには新たな奉行による
藩政が始まっておる」
「ご家老!」
「嫌とは申せまい。殿からの命じゃ。どうしてもと言うのであれば
この藩には居られまい。そうなれば、拙者、仲人を降りる。いやそ
の前に文乃殿との夫婦の話も終るじゃろう。ま、それも良いが」

 褒賞制度は治水事業、灌漑事業、そして殖産事業に適応された。


     廿一

 数年後、島岡藩は生まれ変わった。自藩の旱魃も怖くはない。さ
らに近隣の藩の旱魃、水害への救援も行なえるようになっていた。
それにも増して種々の工芸品が、自藩、他藩の民の心を豊かにして
いた。


「貴方。また服部様が、お越しですが」           
「またか。良く来るのお。うーん、構わん。お通ししろ」   
「まあ、お顔が綻んでおりますよ」             
「またお小言じゃろう。文乃、庭の侘助を二枝ほど手折ってくれ。
あの爺さん、侘助を見れば機嫌が良くなる」
 腰を曲げた服部が入って来た。
「隼人、先般、進言した件じゃが、おぬし、まだ遣っておらんな」

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 服部、持参した書状を舐め舐め小言をいう。この癖、隼人は、も
う諦めている。
「おぬし、拙者が隠居の身だと思い、軽く考えて居るようじゃな。
そもそも家老職にある者は……」
 また長々としたお小言だ。
 
 島岡藩筆頭家老、染谷隼人は、大欠伸をしながら服部の話を聞く
以外になかった。 




                           (了)






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