譚 綴(たんこう)
















      「 内なる裏切り 」        九谷 六口














   
                
                         二00四年十月十四日 







 高津藩主である宗孝(むねたか)が紙を畳に広げた。繁佐衛門(しげざえもん)は、その書状を読んだ。
「殿っ!」
 繁佐衛門は愕然とした。書状には、先代藩主宗徳(むねのり)の字で『内なる裏切り』と(したた)めてあった。先代は何を言いたかったのか。いや、裏切りとは何なのか。裏切りとは……
 

     (一)

「貴方、今年も皇次郎(こうじろう)は戻りませんね」
「そうじゃな。江戸で忙しいのではないか。(ふみ)、余り皇次郎のことを考えん方が良い」
「えぇ、私もそのように思っております。ですが……他の方々は参勤交代を終え、帰藩なさっております」
「だがな、何かあれば知らせがあるはず。何も来ていないと言うことは元気に遣っていると言うこと。さっ、正月を迎える支度をしよう」
 
 真島繁佐衛門は、高津藩の家老を勤めている。家老になる前は、勘定奉行所の役人であった。家柄は余り良い方ではない。だが、家老になった繁佐衛門を、先代の宗徳は高く評価していた。
 繁佐衛門の具申は、悉く先行きを捉えたものであり、宗徳はいくつもの具申を受け入れた。宗徳は、これらの具申を受け入れたものの、他の家老への配慮もあったのか自らの考えとして家老たちに表

(1)





していた。また、家老や奉行たちとの評議の際には、まず、繁佐衛門に目を遣ってから話を始めた。繁佐衛門は、これで良かった。

 思わぬことが起こった。参勤交代で江戸藩邸にいた宗徳が急死したのだ。嫡子の宗孝は、この時、たまたま墓参のために帰藩していた。宗孝は、二十歳になったばかり。家老たちは、直ちに宗孝を藩主として幕府に申し入れた。数日後に知らせがあった。幕府は、宗孝を藩主として認めた。

 家を継ぐのは嫡子である。宗孝は、自分が家を継ぐことは判っていた。だが、藩主になりたいなどと望んだことはなかった。たまたま自分は藩主の家に生まれただけ。事の重大さは認識していたが、このように急な事態により藩主に就くとは考えてもいなかった。
 ――藩主? 自分がこの藩を切りもりしていく…… 何をすれば良いのか。細かい事については何も判らない。
 宗徳は、藩主が何たるか、何をしなければならないかなどを宗孝に伝えていなかった。戦乱の世であれば、戦さで命を落とすことがあるかも知れん。だが、既に戦さなどない。何も急いで宗孝に伝えなくとも良い、と思っていた。ましてや、自分が早死にするなどとは考えもしなかった。

 宗孝に江戸家老田島薫から早飛脚が届いた。宗孝は、急ぎ将軍にお目見(めみえ)せねばならなかった。宗孝らは出立の準備を始めた。供の者は六人。宗孝は皇次郎を供の一人として加えた。皇次郎は、宗孝よりも二歳年上であった。

(2)





 四代将軍家綱の時代、世の中は落ち着き、幕藩体制も堅固なものとなっていた。大名の人質制度は廃止されたが、武家諸法度による参勤交代、大名妻子の江戸詰めは、既に当然のこととして定着していた。
 宗孝は、幼い頃より江戸屋敷で暮らしたが、帰藩すると皇次郎を近習として学び遊んだ。宗孝は頭脳明晰であり、武術にも秀でた子供であった。だが、総てにおいて皇次郎の方が勝っていた。
 学問や武道に対し、宗孝は負けず嫌いな性格を出した。意地を張る態度も度々見せていた。特に剣道においては、あからさまであった。年下や同い年の者たちには、宗孝に適う者はいなかったが、年上の者の中には五分の勝負をする者がいた。宗孝は、一本取られると必ずもう一勝負を求めた。如何なることにおいても負けを認めたくなかった。
 皇次郎とも良く稽古をやったが、何本挑んでも宗孝が勝つことはなかった。だが、皇次郎に対する態度は他の者とは違った。素直に負けを受け入れた。
 皇次郎は皇次郎で、藩主の嫡子である宗孝に遠慮をしなかった。何事に対しても真っ向から挑み、出来る限りの力を出した。学問の場にあっても、宗孝の間違えなどを的確に諭した。

 これは繁佐衛門の教えであった。 
「皇次郎、人間はな、いつ何時、命を落すか判らん。病かも知れんし事故かも知れん。ひょっとすれば、食べ物に中るかも知れん。明日は判らん。であれば、今を偽りなく、思いきり生きた方が良い」
 宗孝は、皇次郎と過ごす時間が好きだった。取っ組み合いの喧嘩

(3)





をすることもあったが、宗孝は皇次郎を兄のように慕っていた。
 しかし、これからは藩主と家臣の間柄になる。

「皇次郎、江戸は初めてだな」
「はっ、如何にも」
 江戸へは、徒歩で六日ほどの距離だが馬を使った。お目見は早い方が良い。宗孝は、皇次郎を傍らに馬を進めた。
「江戸はな、高津藩とは違い華やかな場所だ。心躍ることも多い。おぬし、遊びなどは好きではないようだが、江戸では判らんな」
「殿、拙者とて生身の人間。心躍る場所であれば心躍ると思いますが」
「わっはっはー、そうか、心躍るか。皇次郎、殿などと呼ばれると背筋が寒くなる。拙者のことは今まで通り宗孝と呼べ」
「そうはいきませぬ。今は、拝領八万石譜代大名高津宗孝様。殿、拙者ではなく余でござる。余は、こう思う……。宜しいですな」
「堅苦しいことだ。藩主などと……」
「殿、藩民七万余が、殿に期待しております。宗徳公の治世は素晴らしかった。それ以上の治世を望んでおりますぞ」
「皇次郎、きついことを申すな。父がこのように早く死ぬとは思っていなかった。拙者は心構えも何も出来ていない。この事は、おぬしも知っておるであろう、拙者は藩主などには向いていない。しかもこの歳で」
「殿、お言葉ですが、家綱公をご覧ください。御歳十一で将軍におなりになりました」
「将軍と一緒にされては堪らん。元服の折、家綱公にお目見いたし

(4)





たが、立派なお方だった。歳若く将軍になられたとは言え、幕府だぞ。優秀な幕閣が揃っておる」
「これは異なことを。では高津藩の役人は、心許ない者ばかりと仰せでしょうか」
「……」
「殿っ、如何か!」
「父が良く言っていた。おぬしの父上、繁佐衛門殿の具申は常に的確だと。繁佐衛門殿は、拙者にも同じように仕えてくれるのだろうな」
「……」
 皇次郎は、繁佐衛門が公務から離れたがっていることを知っていた。

 繁佐衛門は、野心家ではなかった。宗徳に認められていることに喜びを感じていたが、何も具申できない家老たちには辟易としていた。他の家老たちは、何かというと家柄や先祖の功績を吹聴し、安穏としている。しかも禄高は大きい。米は農民の汗の結晶である。大した仕事もせずに農民の結晶である米を貰う。これが、今の世の中と割り切っているつもりだし、特に農民の味方との考えも持っていない。しかし、汗する者と比べ、不甲斐ない家老たちの毎日を見ると理不尽さを感じていた。

 皇次郎には兄がいたが、幼くして流行り病に罹り死んだ。繁佐衛門の子供は皇次郎だけだった。家を継ぐのは皇次郎であるが、繁佐衛門は、真島家を大きくしろとか、出世がどうのこうのと言うこと

(5)





はなかった。だが、生きていくのは自分であり、頼れるのも自分。自分を鍛えるようにと厳しく言った。そのために皇次郎が望むことに対しては、出来る限りの環境を与えた。皇次郎は、幼い頃から剣道や学問の場を求めた。繁佐衛門は、末席家老であり家禄も扶持もそれ程多くはない。だが皇次郎の望みを聞くことはできた。
 皇次郎がまだ幼かった頃、宗徳との雑談において皇次郎の話がでた。繁佐衛門は、親の務めとして子供が求める環境は出来るだけ与えたいと話した。宗徳は、急に笑いだして言った。
「繁佐衛門、皇次郎を宗孝の近習としよう」
「と、殿。そ、そのようなつもりで……」
「判っておる。宗孝のためじゃ。宗孝は江戸だが、戻った時には皇次郎を城に寄越してくれ。その間は、宗孝と共に城住まいとする。良いな」
 宗孝は滅多に帰藩しない。だが、宗徳は剣道指南所や学問所に皇次郎の席を設け、研鑽に励むように言った。皇次郎は思う存分に修行することが出来た。

「皇次郎、返事がないが……。繁佐衛門殿は、拙者を認めていないのか」
「滅相もございません。ただ、近頃、何やら体が弱ったとか申しまして……」
「そうか。まだ隠居は早いがなぁ。先代は、繁佐衛門殿に世話になったが、禄を上げることは出来なかった。皇次郎、家禄と仕事振りとは異なっていても良いと思うか」
「殿、急にそのような難しいお話を……」

(6)





「可笑しな世の中だな。藩主になどなりたくない者が藩主になる。藩に貢献した者の実入りが少ない。皇次郎、拙者は、このまま藩主を勤めなければならないのか……」
「先代がお亡くなりになり、まだ日が浅そうございます。殿は、お気持ちの整理が出来ていないのではと存じます」

 宗孝は一人っ子であった。母は産後の肥立ちが悪く、宗孝を残して死んだ。家老たちは宗徳に再婚や側女を勧めたが、宗徳は、頑として受けなかった。妻を愛していたし、宗孝を愛しんだ。宗孝は丈夫な体をしている。もしもの事など、考える必要はないと思っていた。
 宗徳は、宗孝に厳しい教育を施した。藩の学者や剣道指南役だけでなく優秀な人材を他藩から招いて宗孝につけた。いずれ、一通りの学問や武術を身に付けた折に、藩主について語り合おうと思っていた。その日が来るまでは怖がられても良い。藩主とは孤独なものだ。甘やかせてはいけない。だが、その日が来る前に、宗徳は死んだ。

「皇次郎、拙者は剣道が好きだ。学問も楽しい。自分を研鑽することに喜びを感じる。おぬしと野山を駆け回っていた頃が懐かしい。だが、七万の民や幕府への対応などを考えると頭が痛い。皇次郎、拙者にとって何が自分なのか判らなくなることがある。拙者は、己のことだけで精一杯だ。一介の侍であれば良かったとも思う。藩主などと……。江戸になど行かず、このまま何処かに行っても良いと思っている。逃げたい……」

(7)





 皇次郎の顔付きが変わった。皇次郎は、宗孝が乗る馬の手綱を掴み、大声で叫んだ。
「殿が催された。各々方は、此処にてお待ちいただきたい」

 皇次郎は、宗孝の手綱を掴んだまま走った。鎮守の杜であろうか木々が周りを取り囲む所に来た。皇次郎は下馬し、宗孝に言った。
「下馬、下され」
 宗孝は素直に従った。
 二人は見つめ合った。何と、皇次郎が宗孝の頬を打った。倒れた宗孝の口からは血が流れ出した。口を押さえながら宗孝が立ち上がった。
「皇次郎、おぬし、このような事を……。覚悟は、出来ているのだろうな」
「御意! 高津藩主宗孝様」
 皇次郎は、右膝を地面に付け頭を下げた。
「良いだろう。皇次郎が、その覚悟であれば拙者も覚悟いたそう」
 宗孝は、跪く皇次郎の肩に手を置いた。
「さー、立て。皆が心配する」

 皇次郎は、品川宿を過ぎた頃から賑やかな江戸の活気に驚いていた。
 高津家江戸藩邸は、鍛冶橋御門の近くにあり、北町奉行所と南町のちょうど中ほどにあった。

 宗孝が江戸藩邸に着くと、江戸家老田島は、直ちに江戸における

(8)





藩主の仕事を宗孝に説明した。
「殿、参勤とは、交代するまでの一年間、幕府の御用をすることであります。言い換えれば、徳川家の家臣としてお仕えすることと同じでございます」
 家綱への目通りについても事細かに話した。田島は段取りを守ることが武家にとり一番大切なことだと思っていた。
 翌日、宗孝は田島と共に江戸城に行った。 家綱への目通りは、仕来り通りに終った。
 藩邸に戻った宗孝が田島に言った。
「皇次郎を呼んで欲しい」

 皇次郎は、まだ藩邸に詳しくない。広い屋敷に戸惑いすら感じていた。
 宗孝の顔を見たが、かなり苛ついているようだ。
「殿、大役、ご苦労様でございました」
「皇次郎、家綱公も言われた。先代を凌ぐようにとな。皇次郎、何じゃこれは。拙者は何なのじゃ。父と比べられる毎日を送らなければならぬのか。藩主としての覚悟は出来ている。だが、余りにも周りが煩い」
「……」
「田島が何と言ったと思う。威厳ある態度で臨めと申した。何年か前におぬし申したな。威厳とは内から出てくるもの。生半可なことでは持てるものではないと。拙者もそう思う。だが拙者には、まだ何もないではないか。今ある拙者に威厳ある態度を取れとは、すなわち虚勢を、見栄を張れと言うこと」

(9)





 宗孝は立派な体格をしている。また表情には何処か冷めたところがあり、傍目には落ち着いた雰囲気を感じさせる。
「殿、ご家老は心構えを言ったまで。そのように一々言葉尻を捉えていては、疲れるだけでござる」
「言葉尻か。おぬし、ぬけぬけと言いにくいことを申すな。拙者は言葉尻を捉える肝っ玉の小さい男と言うことか」
「殿っ! 誰がそのような……」
「わっはっはー。いや、済まぬ。そのように目を吊り上げるな。どうだ皇次郎、一勝負遣るか」
「宜しいですな。ところで殿、拙者ではなく余でござる。お気を付けいただきたい」
「構うな。皇次郎と話す時は拙者で通す」
「……」
 木刀が激しくぶつかり合う音が藩邸に響き渡った。

 翌日、宗孝は田島を伴い、近隣の大名屋敷に挨拶回りをした。
「高津藩の宗孝にございます。幾久しく御指導いただきたく存じます」
 宗孝は、これだけ言うと頭を下げた。後は田島が長々と話した。たった一言しか話さなかった宗孝への評判は、すこぶる良かった。先代に勝るとも劣らぬ藩主。何も話さずとも、しっかと相手を見据え、落ち着いた態度がそのように思わせたのであろう。

 数日後、宗孝は田島を自室に呼んだ。
「田島、皇次郎を余の側用人とする。国元にも知らせるように」

(10)





「殿っ、そのような……。もし、側用人をお代えになりたければ、家老たちによる評議をお待ちくだされ。我々より具申いたしますゆえ」
「田島、余は、おぬしらの具申に対し、いかんと言えるはず。であれば、そのような手間など不要じゃ。良いな。すぐに皇次郎を呼んでくれ」
 田島の顔には戸惑いがあった。田島は藩主が変わったとはいえ、まだ就いたばかりであり、従来通りの藩体制が続くものと思っていた。宗孝は、何を考えているのか……。

 高津藩には家老が四人いた。城代家老川嶋公靖、筆頭家老中村頼母、江戸家老田島薫、それに繁佐衛門である。城代は軍事面を担当する。特に藩主が出陣した後は城を守る重要な役目を持っていた。しかし戦いがなくなった今、大きな仕事はなくなっている。
 行政面は他の家老たちの役目であり、実質的な藩政は家老が担っている。参勤交代で藩主が不在の時は、筆頭家老が大きな責を持つことになる。事実、川嶋は城代の肩書きを持つだけになっていた。
 皇次郎は、いずれ繁佐衛門の家督、または跡目を継ぐことは確かだったが、筆頭家老の元で日記役を担っていた。藩史編纂に関わるため、藩の内情には詳しい。

 皇次郎は帰藩の支度をしていた。宗孝を江戸に送り込めば仕事は終る。
「皇次郎、殿がお呼びだ」
 田島が苦々しい顔付きで部屋に入ってきた。

(11)





「は、拙者も帰藩のご挨拶をと思っておりました」
「当分は帰れんぞ」
「はっ? それは、なに故……」
「殿は、おぬしを側用人に任じた」
「……」
 皇次郎の驚きは激しかった。
「おぬしが頼み込んだのではないようじゃな」
「滅相もございません。ご家老方がお決めになったのでは……」
「我らは評議もしておらん。殿が勝手にお決めになった。皇次郎、高津藩は今まで通りじゃ。良いな」
「は、はー」
「この話、繁佐衛門殿が聞いたらどの様な顔をするか。見ものじゃな」
「……」

 国元に知らせが届いた。
 中村頼母は、筆頭家老である自分を交えずに側用人を替えたことを訝った。殿と田島、二人で決めたのか。いや、田島は手順を守る男だ。では殿がお一人で……。
 頼母は、繁佐衛門にこの事を伝えた。繁佐衛門は驚いた。
「真島殿、貴殿はこの事を知っておったのか」
「滅相もございません。ご家老、寝耳に水でござる」
「そうであろうな。筆頭家老の拙者もあずかり知らぬこと。だが真島殿、息子殿が宗孝公の側用人とは…… これからは身分安泰。羨ましい限りじゃ。しかし息子殿は、上手く取り入ったものでござる

(12)





な。中々、(したた)かな御仁でござる」
 こう言って頼母は声高に笑った。

 繁佐衛門は、頼母から執拗な嫌がらせを受けたことがある。また始まるのか。
 翌日、繁佐衛門は頼母にお役ご免を願い出た。体調不良につき役責を全うできないが理由であった。

 宗孝と皇次郎が話していた。
「皇次郎、繁佐衛門殿はお堅い方じゃな。ひょっとしてとは思ったが……。済まぬことをした。おぬし、家督を継いでくれ。だが、家老職はいずれといたす。それまでは、拙者の側用人として勤めてくれ」
「ははー。しかし、身共を側用人とは…… 殿は、何をお考えなのでしょうか」
「大した事は考えていない。高津藩にはこれと言った問題はないはず。だが、理屈に合った藩にしたいだけじゃ。ゆっくりとな」
「理屈でございますか」
 皇次郎は江戸への道すがら、宗孝から聞いた言葉を思い出した。
 ――可笑しな世の中……

 この年は幕府から大した課役もなく、静かな中で一年を終えた。
 年が明けたが、高津藩は喪中であり正月を祝うこともなかった。譜代大名である高津家の参勤交代は、水無月である。宗孝は、皐月晦日に江戸詰めを終り帰藩する。

(13)





「皇次郎、拙者は国に戻るが、おぬしは江戸に残ってくれ」
「は、ご指示とあらば。しかし、私は側用人との事では……」
「如何にも。おぬしは拙者の側にいて家老や奉行たちとの取り次ぎなど、何かと世話を焼くのが仕事じゃ」
「妙でございますな。江戸にては、そのような仕事は無理かと思いますが」
「ん、そう思うか。国では側用人を置かん。拙者が家老や奉行たちと話しをいたす」
「忙しくなりますのでは」
「構わん。どうせ独り身。勤めに専念できる」
「……」
「何かあれば早飛脚を使え。一両日で書状の遣り取りが出来る」
「はっ」
「おぬしは筆も達者だ。気付いた事があれば何でも構わん。書き送れ。良いな」
「しかし、何でもと申されましても……」
「おぬしに任せる。皇次郎、今までは日記役として高津藩を見てきたはずだが、これからは先を見てもらわねばならぬ。拙者も同じだが種々雑多な事柄を見聞きし学ばねばならない。世の中の表と裏、建前と本音、隠れた良き事……」
 宗孝は、表情を引き締めた。
「皇次郎、江戸にては汚れた事も見聞した方が良いかも知れんな。兎に角、何でも構わん、おぬしの好きなように動け。ところで、繁佐衛門殿に何か伝えることでもあれば言ってくれ」
「いえ、別にございません」

(14)





「そうか」

 宗孝は、行列を仕立てて帰藩した。
 先代の宗徳とともに江戸に入った供の者たちは、街道を歩きながら改めて世の移り変わりを感じていた。宗孝様は、まだお若い。先代のような立派な藩主になってくれれば良いが。

 藩主の妻子は江戸で暮らす。これは、いわば人質である。江戸詰めの者たちは、藩主の妻子を守るのも重要な役目である。だが、宗孝はまだ娶っていない。江戸藩邸は静かになった。江戸家老田島以下、留守居十数名により、来夏までの一年、江戸を守る。

 宗孝は、帰藩の際、田島に連絡などは側用人を通すようにと指示していた。
 田島は考え込んでしまった。側用人は、皇次郎しかいない。側用人が、江戸に残る……。では、城には側用人がいないことになる。殿は、総てをご自分で遣ろうとお考えなのか。田島は、訳が判らなかった。
 家臣からの具申などは、側用人の手を経て藩主に知らされる。藩主からの指示も側用人の手を経る。さらに藩主による評議の席にも加わる。八万石の大名ともなれば、これが普通の段取りである。先代の時にもこのようにやった。しかも、側用人が宗徳の傍を離れたことはなかった。
 田島は、側用人とは単なる事務方と考えていた。藩の機密に属する内容であっても、事務方である側用人が目を通しても別に何らの

(15)





問題はないと思っていた。
 だが、側用人が皇次郎だと思うと、何か煮え切らないものを感じた。皇次郎は、近習上がり。宗孝とは気心が通じている。先代は繁佐衛門を高く評価していた。繁佐衛門が隠居を申し出たとはいえ、その存在は気に掛かる。筆頭家老中村は、どのように考えているのだろうか。田島は何やら不安な気持ちになっていった。

「ご家老、何故、側用人でありながら、真島殿は国元に戻らないのでしょうか」
 笹谷庸之助が田島に聞いた。笹谷は江戸詰めの家老用人である。既に江戸は長い。
「……」
「どうにも見張られているようで落ち着きませぬ。筆頭家老は、どのように申されているのでしょうか」
「中村殿とは、まだ連絡を取っておらん」
「な、何故でございます」
「殿が申された。国元との連絡は総て側用人を通すようにと……。総てが漏れてしまう」
「しかし……このままでは国元との連絡が途絶えてしまいます」
「判っておる。だが、何故に殿が皇次郎を残したのか訳が判らんのだ。動く訳にはいかんだろう」
「皇次郎殿にお訊きすれば良いのでは。ご家老は真島殿よりも上でございます」
「そのようなこと、出来る訳がないであろうが」

(16)





 宗孝は、自分宛の書状についてのみ言ったのであり、家臣同士の書状の遣り取りについてまで側用人を通せとは言っていなかった。田島は勘違いをしていた。


     (二)

 皇次郎は、藩主の側用人になったが、この役は江戸詰め侍の役ではない。参勤の場合であれば、勤番侍として江戸に入るのは当然のことであるが、参勤終了とともに帰藩する。宗徳の時代にも、そのようにしていた。
 皇次郎は(いぶか)ったが藩主の命である以上、従わなければならない。しかし見渡したところ、これと言って遣ることはない。皇次郎は、江戸藩邸にいても何やら落ち着かない毎日を送っていた。
 皇次郎は江戸を知ろうと思った。江戸については、何事に関しても話に聞いただけであり知ってはいない。このままではいけない。百聞は一見に如かず。享楽を求める気持ちは毛頭ないが、何でも知っておきたいと思った。聞くところによれば、江戸では勤番侍(きんばんざむらい)浅葱者(あさぎもの)、田舎者と軽んじると言う。今の自分は、勤番侍と変わりはない。出歩きたいとの気持ちはあるが、何やら腰が引けてしまう。

 皇次郎が部屋で寝転んでいると、笹谷が顔を出した。
「真島殿、江戸を案内いたそうか」
(かたじけな)い。江戸は、国元とはかなり異なるように思います。だが、まずは拙者一人で見聞してみたいと思っております」

(17)





「江戸は高津とは全く異なる所でござるぞ。お一人でお歩きになるのも良いが、高津藩の名に恥じぬよう行動していただきたいが」
「笹谷殿、ありがたき忠告。皇次郎、痛み入りまする」
「なーに、慣れるまでのことでござる」
 笹谷は、横目で皇次郎を見ながら部屋を出て行った。
 どういう訳か、皇次郎に対する江戸藩邸の者たちの態度は冷たかった。いや、皇次郎には、そのように映った。どうにも居心地が悪い。あからさまに嫌味な態度を取る者はいないが、目を合わせようともしない。それに言葉を掛ける者もいない。女中も食事を運び下げるだけ。側用人と言うだけで、何故このように疎まれるのか、皇次郎には理由が判らなかった。田島が指示しているとは思わないが余りにも同じような態度である。皇次郎は胃が痛む思いであった。
 遣り切れない思いの中にいたが、とにかく、外を歩いてみようと思った。

 別に当てはなかった。
 藩邸を出て日本橋方面に歩いてみた。通町に着いた。表通りには問屋などの大店が軒を連ねていた。目を見張るほどの賑わいと活気である。それに屋台も多い。天秤棒を肩に担ぎ、威勢良く売り歩く棒手振(ぼてふ)りが行き交う。皇次郎は、徳川家四百二十万石の力を見た思いがした。

 高津藩は、東西に広がった盆地の中にある。川魚は良く捕れるが生の海魚は売っていない。あるのは干物ばかりである。皇次郎は魚屋の前で立ち止まった。江戸前の魚だ。鯛、鯵、穴子、海老、貝。

(18)





皇次郎の知らない魚も置いてある。皇次郎がじろじろと店先を見ていると、店の主人であろうか威勢の良い声で言った。
「お武家さん、何か欲しい魚でもあるのかい。今朝、獲れたものばかりだ。さぁ、さー、見ているだけじゃ味が判らないよ。買うのかい、買わないのかい。こちとら気が短けぇんだ。買わねぇんだったら、あっち行ってくれ。そんなトロンとした目で見られちゃー、魚が腐っちまう」
「い、いや済まなかった」
 これが、江戸の町民と交わした初めての言葉であった。皇次郎は興奮していた。国にはこのような商人はいない。藩民は、武士と顔を合わせれば、まず頭を下げる。言葉も丁寧だ。あっちに行ってくれなどと……。皇次郎は江戸の一面を知った。これは凄い。武士も町人も対等なのか。一人、ニヤニヤしながら京橋の方に歩いた。

「お武家さん、腹、減ってんじゃないかい」
 声の方を向いた。屋台があった。どうやら亭主が声を掛けたらしい。見れば、三人の町人が屋台の前で何かを喰っている。皇次郎は近寄ってみた。ほう、これが鮨の屋台か。国で()れ鮨は喰ったことはあるが、此処では、早鮨(はやずし)を作り売っているらしい。屋台の三人が皇次郎を見た。一目で浅葱者と判る。
「お武家さん、ここの鮨は旨いよ。江戸前の鮨を喰った事はあるのかい」
「……」
「駄目だなー。そんな調子じゃ駄目だ。江戸で暮らすんだったら、物事、はっきりしなくちゃー、駄目だ」

(19)





 皇次郎は言葉が出なかった。武士に向かって何ということを。だが怒りは全く出てこなかった。
「拙者、江戸前の鮨は喰ったことがない。ところで、その鮨は一個幾らだ」
「駄目だ、こりゃ駄目だ。喰う前に値段を聞くようじゃ駄目だ。それに鮨は、一つ八文と決まってる。亭主、俺が持とう。このお武家さんに江戸を教えてやってくれ」
「へぇ、ようがす。さっ、こっちに来なさい」
 皇次郎は、どうして良いか判らなかった。躊躇していると、客の一人が皇次郎の腕を取り、屋台の前に立たせた。亭主が鮨を握り皇次郎の前に置いた。見ると、飯の上に白い切り身がのっている。鯉の洗いは喰ったことがあるがこのようなものは喰ったことがない。皇次郎は、じーっと見つめていた。
「お侍さん、余計なことは言いたくないがねぇ、ここはお江戸だ。明日、帰るんだったら構わねぇが、少しは江戸を知ろとしても良いんじゃないかい。鮨ってものは出されたらすぐ喰うもんだ。うだうだしているようだったら帰った方が良いぜ」
 喰うのを躊躇っているのではない。江戸に驚いているのだ。皇次郎は男を見た。着流し姿。商人でも職人でもないようだ。しかし目は座っているし度胸を感じる。
「そう次から次へと申すものではない。拙者、江戸は初めて。藩邸を出たのも今日が初めてだ。まぁ何と言うか、田舎者だな。江戸については何も判らん。先程より、この鮨を喰いたくて堪らんのだが……」
 皇次郎は鮨を手に取り、口に入れた。口一杯に、ほのかな甘酸っ
(20)





ぱい香り。噛むと魚の甘みが口に広がった。
 ――う、旨い。
 呑み込むのが勿体ない。口の中で何度も噛んだ。亭主と男三人が目を剥いて皇次郎を見た。皇次郎は、中々呑み込まない。
「お侍さん。堪忍してくれませんか。あんた何やってんですか。鮨をクチャクチャ…… 見ていらんないね。おいっ!」
 この男が主人に言った。
「俺も浅葱者は何人も見てきた。だが、このご仁は全くの浅葱者。こんな客がいると商売の邪魔かも知れないが……。ま、これも何かの縁。一通りの鮨を出してやってくれ」
 皇次郎は喰った。穴子の上にのった何とも言えぬタレの味。海苔の旨さ。ふと思った。飯だ。飯が、しっかりと土台を引き受けている。皇次郎は我を忘れていた。
「旨い。どの様な縁でこのようになったかは良く判らん。だが、江戸を知った思いがする。いやー、各々方には世話になった。ところで(つい)えは如何ほどか」
「費えっ! 俺っちが持つって言ったんだ。お侍さん堪忍してくださいよ」
「だが、拙者、かなり喰ってしまった。これでは相済まぬ」
「こちとら江戸っ子よ。宵越しの銭なんざぁ、持たねぇよ」
 その男は懐から汚い財布を出し、主人に代金を払った。そして、ぷいっと屋台を去った。皇次郎は、追うことも出来なかった。

 高津藩では、宗孝と筆頭家老中村頼母が話していた。
「お世継ぎでございます。殿っ、奥方を決めなければなりませぬ」

(21)





「判っておる。頼母、家とはそれ程大事なものか」
「如何にも。高津家そして藩民のためにも、高津藩は続かなくてはなりませぬ」
「そうか。おぬし、余は早死にすると思うか」
「め、滅相もございません。その様な…… 考えた事もございませぬ」
「では、妻については今少し待て」
「はっ」
「おぬしは、日々、何を楽しみとしているのだ。一度、訊いてみたいと思っていた」
「何を? お家大事。これのみでございます」
「家…… 中村家か?」
「滅相もございません。高津家にございます。高津家あっての中村でございます。殿、奥方様を……」
「……」

 江戸家老田島に国元から何の連絡も入っていない。問題は起きていないようだ。江戸藩邸においても普段通りの毎日が続いていた。
 田島は、中村宛に書状を書いた。

「皇次郎、この書状を中村殿に願いたい。急ぎではないが、宜しくな。中を検めよ」
 宗孝宛の書状ではない。皇次郎は、何故、検める必要があるのかと思ったが言われるままに内容を読んだ。
 ――お世継ぎか。

(22)





 宗孝に兄弟はいない。それに縁者は皆年老いている。宗孝に、もしもの事があれば高津藩の存亡にも関わる。皇次郎も気にしていたが藩主になったばかりの宗孝だ。まだ妻を娶るとの心構えは出来ていないと思っていた。
 しかも皇次郎は、宗孝の考えを聞いたことがない。宗孝の思いは兎も角、世継ぎは高津藩七万の民の暮らしが掛かることである。
 宗孝は、文武両面において自分を研鑽する姿勢を持っている。だが女子(おなご)については……。皇次郎は、宗孝が女子をどのように思っているのか知らなかった。少なくとも、在藩中に宗孝が女子に興味を示したことはないはずだ。勿論、遊ぶこともなかった。宗孝は、江戸は心躍る場所と言った。江戸では、どうだったのであろうか。
 田島に訊いた。
「ご家老、お世継ぎの件、藩にとって大事のこと。ところで江戸において、殿は如何な様子でございましたか」
「様子? おぬし、女子について聞いておるのか」
「はい」
「側用人でありながら、知らんのか」
「は、はー。面目もございません」
「まあ、良い。女子については拙者にも判らん。殿はな、お一人で居られることが多かった。それに、一人で出歩くことが多かった。従者を伴うようお願いした。流石にこれだけはお聞きになった。徒侍(かちざむらい)を連れて行かれたが、その日によって供を変えていたようじゃ」
「そうでございますか」
「殿が気に入った女子が江戸に居るとでも思っておるのか」

(23)





「いえ、別にそのようには……。ご家老、殿は、どのような女子がお好きなのでしょうか」
「皇次郎、藩主にはお世継ぎを作る義務がある。好きなお方を奥方になどと……そのようなことは問題外じゃ。高津家に見合う家柄、お世継ぎを生む丈夫なお体。これだけじゃ」
「ご家老に心当たりは……」
「だからして中村殿と話し合うのじゃ。奥方選びは側用人の役ではない。良いな、余計な口出しは無用じゃぞ」
「は、はー」

 皇次郎は、宗孝の文武両面に関しては誰よりも良く知っているつもりでいる。しかし、女子なども含め知らないことが多すぎると思った。宗孝は、どのような処に出掛けたのだろうか。ふと徒侍に聞こうかと思ったが止めた。そうでなくとも、皇次郎は胡散臭(うさんくさ)そうに見られている。そのことを考えると、どうにも気が重くなる。

 この日も、良い天気だ。皇次郎は、江戸を歩くことにした。表通りの賑わいは気持ちを晴れやかにしてくれる。
 大きな書物問屋が目についた。大きな間口、幅の広い暖簾。須原屋とある。この店については国でも聞いたことがある。前掛け姿の商人が忙しなく出入りしている。店に入るには気後れがする。暖簾を潜れば良いのだが、風に揺れる暖簾が鉄板のように見えてくる。皇次郎は腕組みをして眺めるだけであった。裏通りに行ってみた。
 長屋や銭湯……さまざまな店。どの店も造りは小振りで、華やかさはないが活気に溢れている。長屋の入り口には自身番がある。中

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を覗くと月行事の連中であろうか、将棋を指している。どうやら閑を持て余しているらしい。思わず笑いがこぼれてしまう。気が緩んだ訳ではないが、歩き出そうとして人にぶつかってしまった。

「失礼(つかまつ)った」
 見ると着流しに半羽織姿の侍。これは町奉行所定町廻り同心の姿だ。いかん、面倒な事に……
「おっと、お侍。気を付けた方が良い」
「申し訳もござらん」
「お見掛けしたところ……」
 この同心は、皇次郎を上から下まで眺め廻した。その時の目付きは仕事をしている表情であった。
「……江戸勤番でござるか。江戸は人が多い。ま、袖すり合うも他生の縁と申すが袖で良かった。鞘では、ちと面倒だったかも知れんな」
「確かに、江戸はやたらと込み合っておりますな」
「おう、申し遅れた。拙者、北町奉行所同心、(はなぶさ)慎一郎(しんいちろう)と申す」
「ご丁寧に忝い。拙者は、高津藩家臣真島皇次郎と申す。以後、お見知りおきくだされ。江戸詰めでござるが、まだ日が浅く、戸惑っておる」
「高津藩…… おぉ、昨年、藩主が替わられた。先代は急なことで…… お悔やみ申す」
「ご挨拶、痛み入りまする。しかし、良くご存知で」
「町奉行にとり武家社会は管轄外。とは言え、武鑑(ぶかん)が書き換えられ

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れば目を通します。それに宗孝殿……いや、藩主になられた今は、宗孝様でござるな。宗孝様とは顔見知りでござる故……」
「なに! 殿とご入魂(じっこん)でござるのか」
「いや、入魂と言うほどではござらんが…… 気さくで楽しいお方でござる。お一人で府内を散策なさるのがお好きであった。拙者もお会いするたびに声を掛けていただいた」
「お一人で? 必ず供の者と一緒であったはずだが」
「そ、そうであった。お徒を伴っておられた……」
 明らかに英慎一郎は戸惑った様子をみせた。皇次郎は、言いよどんだ慎一郎に訊いた。
「英殿、宗孝様が藩主になられた折、拙者、側用人を任じられた。殿が幼き頃よりお側にお仕えしておった為と思っております。誠にお恥ずかしいことだが、拙者、江戸における殿を知らん。先程、袖すり合うもと申された。これもご縁。どうであろうか、何でも構わんが、殿についてお話いただけないものか」
「……」
「英殿っ!」
「真島殿、そのように目を三角にせんでいただきたい。拙者が何か隠し事でもしているようではござらんか」
「これは失礼仕った。側用人として、何でも知っておきたいと思っておりますので。実は……急に側用人と言われても、何をどうすれば良いか、拙者には良く判っておらんのですわ」
 皇次郎は、知り合ったばかりの慎一郎に本音を漏らした。慎一郎は、皇次郎の人となりを知った。
「真島殿、拙者は定廻りの最中。明後日は非番を取っておる。どう

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であろう、お近付きのご挨拶として、酒でもご一緒いたしますか」
「か、(かたじけな)い。英殿、是非ご一緒願いたい」
「ところで真島殿、ご妻女は、お国でござるか」
「い、いや、拙者、独り身でござる」
「そうですか。ところで女子は、お好きで」
「そ、そうでござるな。す、好きではあるが……」
 皇次郎は赤くなった。慎一郎は直感した。

 ――この男、女にも慣れていない。八万石の譜代大名の側用人ともあろう男が顔を赤くしておる。

 天下は太平になったとは言え、藩政に諍いはつきもの。江戸も知らず、女にも詳しくない。宗孝との雑談において、高津藩には大した問題事などはないとは聞いていた。だが、(まつりごと)には、汚れた物事が付きまとう。あの宗孝が、何故にこのように純な男を側用人に任じたのであろうか。慎一郎は、興味を持った。
「では、明後日、七ツ半頃に藩邸にお迎えに参る」

 皇次郎は、不甲斐なさを感じていた。拙者は何も判っていない。殿についても江戸についても。皇次郎は、ふと思った。何故、慎一郎は、女子が好きかなどと聞いてきたのであろうか。皇次郎は、総てを慎一郎に見透かされたと思った。だが不思議な事に不愉快な気持ちは起きてこなかった。むしろ心地良さを感じていた。
 
 

(27)





     (三)

 ある夜、前触れもなく真島繁佐衛門の屋敷に宗孝が訪れた。
「宗孝様っ! 如何なされました。しかも、このような夜更けに。お城の方々は、ご存知で……」
「驚かせたようだが、こうでもせんとおぬしに会うことはできん。城の者に言ってみろ、何故、閑を取った元家老に会いに行くのかと煩いことを言うに決まっておるからな。誰にも言っておらん」
「殿、いけませぬ。世の中、何が起こるか判りませぬぞ。まさかお一人で」
「繁佐衛門、そう言うな。馬廻りを連れておる。ところで、おぬしは隠居を願い出てしまったが、これで良かったのか」
「良いも悪いも…… お陰で役を離れることができました。しかし私めが降りたがっていたことを良くご存知で」
「皇次郎からそれとなく聞いておった。皇次郎め、おぬしは体が弱ったため勤めが厳しくなったと言った。元気であった者が急に体が弱ることもあるまいにと思っていたがな。案の定だ。繁佐衛門、おぬし、至極元気そうじゃな」
「ははー。急に体調が良くなりまして……」
「ほぉ、急に良くなったのか。それは良かったな」
 宗孝は、にやりと笑った。
「皇次郎を側用人にすれば頭の固いおぬしのこと、役を降りると言い出すのでは思っていたが……。だがな、おぬしの隠居のために皇次郎を側用人にしたのではない。余のため、いや藩のためじゃ。心を開ける者は皇次郎しかおらん」

(28)





「心を開く……」
「繁佐衛門、おぬしは……先代から何処まで聞いておったのじゃ」
「はっ? 何でございますか。何処までと訊かれてましても何のことやら……」
 繁佐衛門は宗孝の言っていることが全く判らなかった。
 宗孝は、懐から一枚の紙を取り出した。
「父上の文箱にあった書状だ。父上は、余に何も言い残さなかった。たまたま文箱を整理していたのだが、この書状を見つけた。他にも何かあるのではと捜したが、これ一通であった。結局、父上が余に残したのは、この紙だけだ」
 宗孝が紙を畳に広げた。繁佐衛門は、その書状を読んだ。
「殿っ!」
 繁佐衛門は愕然とした。書状には、先代藩主宗徳の字で『内なる裏切り、裏切り』と認めてあった。先代は、何を……。いや、裏切りとは何なのか。裏切りとは誰が…… おぼろげに頭に浮かぶことはある。だが、まさか……

 繁佐衛門は、しばし頭を巡らせていた。宗孝は、黙って繁佐衛門を見ていた。驚きの後の沈黙。宗孝は、繁佐衛門が何かを知っているのではと思った。
「父上の評判は良かった。藩政にも落ち度はないと思っている。余には厳しかったが、余は好むと好まざるとに関わらず、いずれ藩主になる身。父上の態度は、あれで良かったと思っておる。だが、教えを受ける前に父上は死んだ」
 繁佐衛門は、神妙な顔付きで聞いていた。

(29)





「繁佐衛門、藩には、これと言った問題はないと思っておる。この書状を見なければ良かったのかも知れぬ。見なければ、今まで通りの藩政を敷けば済んだはずじゃ。だが、この書状を知った以上、何かせねばならん。教えてくれ。これは何を意味するのじゃ」
「……」
「父上は、いや先代は、誰に裏切られていたのだ」
「……」
「まさか、おぬしも、その一味ではあるまいな」
「め、滅相もございません。ですが…… 何故、何故先代が、このような書状をお書きになったのか、拙者にも判りかねます」
 繁佐衛門は、薄々感ずるものはあるものの確信が持てなかった。確信が持てぬ事を軽々しく口にすることはできない。
「何か思い当たることでもあれば知らせてくれ。隠居の身とはいえ元家老じゃ。登城に許可も遠慮もいらぬ。良いな」
「は、はー」


     (四)

 藩邸に英慎一郎が訪ねてきた。皇次郎は、羽織袴姿で玄関に出たが慎一郎を見ると着流し姿である。しばらくお待ちをと言い、部屋に戻り羽織と袴を脱いだ。

 時刻は七ツ半。夕暮れ時であるが、初夏を迎えた江戸の風が心地良い。各町内の木戸は暮六ツに閉まる。街には仕事を終えて家路を

(30)





急ぐ町民であろう、足早に歩く者が多い。

 二人は無言で歩いた。小半時ほども歩いたであろうか、慎一郎は黒塀に囲まれた小体な料亭の前で足を止めた。
「真島殿……」
「英殿、皇次郎とお呼びくだされ」
「では、皇次郎殿、料亭(あずさ)でござる。拙者の懐では入ることはできん料亭だが、何というか役得と言うか……。ま、安くしてもらっておるのじゃ。さっ」
 料亭であれば高津藩にもある。皇次郎も幾度となく使っている。別に身構えることはないのだが、此処は華のお江戸。粗相のないようにと、気が引き締まる思いがした。
 仲居の案内で部屋に通された。八畳ほどの部屋。三方には蝋燭が燈っている。廊下を隔てて庭が見える。石灯籠にも灯が入れられていた。濡れたような庭木や置石、玉砂利が鈍く光を受けている。手水鉢(ちょうずばち)の水にも微かに光が映っている。庭の隅にでも設えてあるのだろうか、鹿威(ししおど)しが小さく聞こえる。耳を澄ませると、何処からか三味線の音も聞こえてくる。静かで落ち着いた部屋だ。箱膳が二つ置いてあった。これは食事をする置き方である。一つは床の間の前、いま一つは、その箱膳の前に置いてある。慎一郎は、皇次郎を上座に座らせた。
「英殿、拙者が上座ですか」
「慎一郎とお呼びくだされ。皇次郎殿、藩によって役柄は異なるが側用人とは家老職にも匹敵するお役目。それに……ちと調べたが、貴殿のお父上は家老職であったはず。家督を継いだのであれば、い

(31)





ずれは家老職を担うお方。この英慎一郎、直参とは申せ、三十俵二人扶持の御家人。いわば足軽でござる。身分が違う」
 皇次郎は、思わず噴き出しそうになった。
「これは、思いもよらぬお話し。町人が武士と対等に遣り合う江戸において……。やはり、侍同士では身分がものを言いますのか」
「如何にも。いくら相手が浅葱の田舎者であり、世の中の機微を知らぬ朴念仁であったとしても、守る事は守らねばなりません」
「しかしまあ、慎一郎殿は、はっきりとものを申しますなー」
 しばし沈黙が続いたが二人は顔を見合わせて大声で笑い出した。
「お怒りにならんのか、皇次郎殿」
「何を言うか。むしろ気持ち良いわっ!」
 皇次郎は、そういうと立ち上がった。
「慎一郎殿もお立ち下され」
 何事かと思ったが慎一郎も立ち上がった。すると皇次郎は、二つの箱膳を床の間と同じ距離のところに並べ替えた。
「これで良い。拙者もこれで落ち着く」
「何もそのような……」
「申しておくが、拙者の頭は固くてな。一度言い出すと曲げることが出来ん頑固な性質(たち)でしてな。ま、これからも宜しく」
 慎一郎は、面白い男と思った。
 仲居が酒や料理を運んできた。酒も入り、二人は打ち解けていった。聞けば、慎一郎は皇次郎と同い年。住まいは八丁堀。子供は、まだ居ないという。

「慎一郎、何故、拙者をこの料亭に……」

(32)





「先程も言ったであろうが。安くしてもらえるのじゃ。皇次郎、おぬし、人の話を聞いておらんのか」
 既に二人は、通称だけで呼び合うようになっていた。
「聞いておる。だが、いくら安いとは言え、余りにもおぬしの身分に合わん場所だ。何かあるのであろう。有体に申せ」
「奉行のような口を利くものではないわ。実はな、この料亭、宗孝様のお気に入りなのじゃ。拙者も何度かお供させてもらった」
「な、何っ!」
 皇次郎の顔付きが変わった。殿が気に入った料亭……皇次郎は、酔いが廻った頭で考えた。雰囲気が気に入ったのか、料理が気に入ったのか、いや、それだけでないはずだ。何か他にもあるはず。
「慎一郎、話せ。いや教えてくれ。殿とは、どのような話をしたのだ」
 その時、廊下に人の気配がした。
「女将の瑞穂(みずほ)でございます。宜しいでしょうか」
「おー、入ってくれ」
 ほど良い肉付きの艶やかな女将が入ってきた。そして、二人から一畳ほど離れた処に座った。
「女将、これが宗孝様の側用人、真島皇次郎殿じゃ。側用人のくせに何も判っておらんお方じゃ。女もな」
「まぁ、そのような。おほほ」
 瑞穂は、着物の袖を口に持っていき微笑んだ。皇次郎は、何を言われても上の空であった。上品に衣紋を抜いた女が、体を軽く崩して笑っている。鬢油(びんあぶら)であろうか、ほのかに良い香りがする。目を見開き瑞穂を見ていた。このような女が居るのか。皇次郎は、えも

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言えぬ思いに囚われていた。まさか、殿はこの様な女子、いや、この女将のことを……

「皇次郎、何を呆けた顔をしておる。涎が流れておるぞ」
 皇次郎は、思わず口に手をやった。
「嘘じゃ、嘘じゃ。女将、このような男じゃ。先が思いやられる」
「英様、このような真面目なお方は、江戸中、何処を捜してもおりませんよ。宗孝様はお目が高い。さぞ、ご信頼されているのではないでしょうか」
「うーん、それは言い得て妙。ところで遅いな」
「申し訳ございません。まだ、お座敷が空いておりません。今、暫くお待ちくださいませ」
「おう、皇次郎に会わせなければならんからな」
 ――拙者に会わせる? 
「真島様、宗孝様はお変わりございませんか」
「はっ? と、殿でござるか。そのように問われても……殿は、ご帰藩なさっておられるし……。しかとは判り申さぬ」
「まぁ、それはいけませぬ。お側用人でございましょう。お殿様がどのようになさっているか、常に知っていなければ」
「い、如何にも」
「女将。まだ新米じゃ。すぐに要領を知る」
 仲居が来た。
「女将さん、姐さんが……」
「通しておくれ。さぁ、お待ちかねの琴音(ことね)さんが来ましたよ」
 皇次郎は緊張した。慎一郎が会わせたいと言っていた女だ。

(34)





「遅くなりまして、琴音です」 
 廊下を見ると、黒の羽織に江戸褄を粋に着こなした女が、手を付き頭を下げている。抜いた衣紋からは上気した背中が見える。皇次郎は顔を合わせるのが何故か躊躇(とまど)われた。女将といい、目の前で挨拶をしている琴音といい、傍にいるだけで気後れを感じてしまう。慎一郎は、何故、会わせたいと言ったのか。琴音が顔を上げた。皇次郎は胸が高鳴った。瑞穂には、ふくよかな女の艶気を感じたが、琴音は違った。溌剌(はつらつ)とした爽やかな女。大きな目、すっきりと筋の通った鼻。今にも語りかけてきそうな唇。島田に結った髷が瓜実顔(うりざねがお)を引き立てている。琴音は、あっけらかんとした表情で皆を見た。皇次郎と目が合った。皇次郎は眩しさを感じた。どうにも目を合わせていられない。思わず目を逸らせてしまった。

貞吉(さだきち)、さっ、中に入ってくれ。忙しいようだな」
「英様、お陰様で、多くのお座敷からお声を掛けていただいております。今夜は、何やらお話があるとのこと。でも、このお席では琴音とお呼びくださいまし。貞吉は、お仕事での名前でございます」
「おう、そうであった。琴音、堅苦しい挨拶などいらぬ。こちらが宗孝様の側用人、真島皇次郎殿じゃ」
「琴音でございます」
「では、琴音さん、後を宜しくね」
 女将は、挨拶をしながら障子を閉めて部屋を出た。
「真島様、宗孝様はお元気でいらっしゃいますか」
「殿はご帰藩中。拙者、お会いしておらぬゆえ、お元気かどうか……」

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「まぁ、心許(こころもと)ないお返事ですこと」
「琴音、どれ程になる」
「そうですね…… かれこれ、半年以上経ちますか」
「寂しいであろう」
「お止しくださいな、寂しいなどと。辰巳芸者に、そのような言葉はありませんよ」
 寂しい? 皇次郎は、改めて琴音を見た。歳は若いようだ。羽織を脱いだが華奢(きゃしゃ)な感じすら受ける。皇次郎は、辰巳芸者とは粋で気風(きっぷ)が良いと聞いていた。そう思って琴音を見ると、きりっとした姿勢には、何やら女の強さのようなものを感じた。

「辰巳芸者と言うことは、琴音殿のお住まいは、深川でござりまするか」
「おほほ。お住まいだなんて……。それに、ござりまするか、ですか」
 琴音は着物の袖を口にあて、右手をついて笑った。皇次郎は、どうして良いか判らなかった。慎一郎を見ると苦虫(にがむし)を噛み潰したような顔をしている。
「如何いたしたのだ。拙者、何か不都合なことでも申したのであろうか」
「真島様、お日が浅いとは存じておりますが、余りにもノッタリとした言い様。此処はお酒の席でございます。それに……」
 琴音は言いよどんだ。皇次郎には、何故、琴音が言葉を切ったか判らない。だが慎一郎には判っていた。
「琴音殿、話を続けてくださらぬか。拙者、江戸には不慣れ。しか

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も、このような雰囲気は国にはござらん。構わん。何でも申してくれまいか」
「皇次郎、おぬしには判らんのか。困ったものじゃ。おぬしのような男を朴念仁と言うのだぞ。良いか、琴音は、これからも宗孝様と共におぬしとも付き合いが続く、堅苦しい言い様は止めてくれと言いたいのじゃ。寂しくないなどと強がりを言っておるがな、宗孝様に会いたくて仕方がないのじゃ」
「英様はいつも勝手にご自分のお考えを…… 真島様が勘違いなさいます。私は、このようにお会いするのも、何かの縁と申したかっただけ。此処にいらっしゃらないお方を引き合いに出すなど、ご迷惑をお掛けします」
「誰に迷惑が掛かるのじゃ。宗孝様にか? 琴音、意地を張るな。皇次郎、おぬしは宗孝様のことを何でも知りたいと申したな」
「如何にも」
「まず、琴音じゃ。三年ほど前であったか、宗孝様と拙者が深川辺りを歩いていた。たまたま琴音と出会った。拙者は役目柄、琴音とも顔見知りじゃ。宗孝様は、じーっと琴音を見ておられた。琴音と別れた後、一言申された。菖蒲(あやめ)のような女子とな。そこで拙者は、梓で引き合わせた。宗孝様は、まだ若かったがお目が高い。琴音を気に入ってしまった」
 琴音は何も言わずに静かに聞いている。
「三年前か。殿は、帰藩されても江戸については余りお話にならなかった。そうであったのか……。そのような事があったのか」
 皇次郎は、妙に思い入れたっぷりな顔で呟いた。
「皇次郎、琴音はな、面倒見が良い。まだ十八だが、皆から姐さん

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姐さんと慕われておる。芸も達者なもの。三味線、琴、太鼓、胡弓、小唄、端唄、長唄……。舞も良いぞ。芸妓名は貞吉。声も良く掛かる。芸は売るが身は売らぬ。生粋(きっすい)の辰巳芸者じゃ。だが筋の通らぬ事には怖いぞ。鬼のようになる。拙者も尻尾を巻いて逃げる廻るほどじゃ」
 ここで琴音が口を開いた。
「英様の悪いお癖、勝手にご自分のお考えを……。えぇえー、どうせ私は鬼婆でございますよ。さ、こんな辛気臭(しんきくさ)い話はやめて、楽しくやりましょう。女将さーん」

 皇次郎にとり、実に意味深い夜であった。宗孝の一面を知ったためか気分が良かった。
 藩邸に着いたのは四ツ頃。高津藩では、表門を明六ツに開き、暮六ツに閉じる。通用門に手を掛けたが閉まっていた。勝手口に廻ったが、こちらも閉まっている。
 いかん。皇次郎は通用門と勝手口が開く時刻は聞いていたが、閉まる時刻は聞いていなかった。遅くなったり外泊する場合は、用人に伝えておかなくてはならないのだ。今日は、何も伝えていない。まさか、塀を乗り越える訳にも…… では、明六ツまで待つか。いや、それでは無断で外泊したことになってしまう。このままでは拙い。(とが)を受けることになる。皇次郎は意を決して塀を乗り越えることにした。塀を巡ると防火用の水桶があった。大きな桶だ。
 水桶のお陰で容易く塀を乗り越えることができた。皇次郎は助かったと思ったが、これでは無用心極まりない。ふと、水桶を替える必要があるなと一人言した。

(38)





 翌朝、皇次郎は田島に呼ばれた。
「昨夜は、遅い帰りだったようだな。藩邸の表門は六ツ、通用門は五ツに閉める。それ以降に帰邸する場合は、用人に伝えておくように。良いな」
「ははー」
「どうやって入ったのじゃ」
「はっ、実は、防火用の水桶がありましたので。ご家老、あの水桶は無用心でござるな。容易く塀を乗り越えることができまする。お取替えになった方が……」
「何を言うか。己の不始末を棚に上げて。しかし、おぬしが容易く乗り越えられたとは……替えた方が良いようじゃな。ところで何をしておったのじゃ、夜遅くまで」
「府内を散策中に酒が呑みたくなり、蕎麦屋で酔い潰れてしまいました。気が付けば夜半。亭主は、何度も起こしたようでしたがお恥ずかしい限り。以後、気を付けまするゆえ」
「そうか。側用人とは言え規則は守ってもらわなくてはならぬ。ところで藩より何か入っておるか」
「いえ、何も。そう言えば筆頭家老からも入っておりませんが」
「うーん何をしておるのか。奥方については急がねばならんのに」
「御意」
「まぁ良い。中村殿から書状が届き次第、持って来るように。良いな」
「は、はー」

(39)





     (五)

 宗孝が示した書状について、繁佐衛門は頭を巡らせていた。
 ――裏切り……
 考えられる事は一つであった。筆頭家老中村頼母が何かを……

 高津藩の開祖である宗秀(むねひで)は、三河の豪族の家に生まれた。石高は二千石ほど。大名に取り立てられたのは、関が原の戦で徳川方につき、敵方の大将首を二つ挙げた事にあった。この時、家康より二万石を与えられた。その後、二度の大阪の陣においても手柄を挙げ、それぞれ三万石の加増を受けた。こうして高津藩八万石の基礎ができた。しかし、急激に領地が大きくなったために管理する役人を集めなければならなかった。自らが滅ぼした中村家を召抱えようと思った。因縁深い中村家であったが、宗秀は中村を召し抱えた。
 中村家とは、現在の筆頭家老頼母の家である。因縁とは次のようなものであった。
 本能寺の変の後、秀吉が全国を手中に収めようと画策していた時期、各地の豪族達は領地拡大のために戦さを繰り返していた。当時の高津家と中村家は共に千石ほどの田舎武家であり、領土は川を挟んで向かい合っていた。小競り合いは何年も続いていた。費えも嵩んだ。間に流れる川が問題であった。川幅も広く水量も多い。軍を動かすためには、船を遣うか仮橋を作らなければならない。戦さでは互いに相手が架けた橋や舟を壊した。このままでは両家とも疲弊してしまうことになる。ややもすれば両家以外の豪族に攻め込まれる恐れもあった。

(40)





 中村家の頭領である頼義(よりちか)が病に倒れた。宗秀は、これを知ると、中村に一気に攻め入り滅ぼした。この事は戦国の世にあっては当たり前のことである。だが、生き延びた中村家にとっては耐え難いことと言えた。
 宗秀は中村家の者たちが恨みを持っていると思っていた。だが、中村家が有能な武家であることも知っていた。家老や奉行たちは強く反対したが、宗秀は中村を召抱えた。
 中村家の者たちは良く働いた。その後、働きが認められ、勘定奉行へ、さらには家老へと登りつめた。筆頭家老の職に就いたのは頼母の時であった。

 皮肉な事に、繁佐衛門を家老に推挙したのは頼母であった。真島家は代々、勘定奉行所の役人であった。家禄は三百石ほど。繁佐衛門は真面目に仕事をした。

 高津藩は、南と北に大きく連なる二つの山脈に挟まれている。その山々の間に東西に広がる平野を持っていた。平野の中央には大きな川が流れている。土地は肥沃で、緑豊かな山々からは、上質な木材を伐採することができた。春には花々が咲き乱れ、夏には蝉の声が五月蝿いほど聞こえた。秋になれば栗などの果実が厭というほど採れる。冬には雪が降るが、歩けなくなるほどには積もらない。四季折々の気候を味わえる、風光明媚な土地柄であった。
 だが、平野の中央を流れる川は何年かおきに氾濫し、藩民は洪水の被害を受けていた。川の名前は神津川(こうずがわ)であったが、大洪水を起こすため、何日しか神無川(かみなしがわ)と呼ばれるようになっていた。

(41)





 氾濫の度に作事奉行は大掛かりな土木工事を施した。だが効果は無く、神無川は同じ氾濫を繰り返していた。作事奉行をはじめ、各奉行たちは半ば諦めの気持ちであった。
 ある年、頼母は藩内に触れを出した。役柄身分に関わりなく、神無川氾濫を防ぐ策を持つ者は具申せよ。ところが具申する者はいなかった。そんな折、繁佐衛門は自分の考えを具申することにした。

 内容は、実に簡単なものだった。
 神無川に広い河川敷を設け、両側に土手、堤防を作る。河川敷に田畑を作るが、河川敷内に在所する農民は土手の外に移住させる。護岸工事は行なわない。
 具申書には但し書も添えられた。
 幾度かの護岸工事は優れたものであった。だが、神無川との渾名(あだな)が示すように人知を超えるがごとく氾濫は起きる。従って神無川は、必ず氾濫するものと捉える。要は、その被害を最小限に抑えることである。被害とは農民の遭難や家屋、作物の流出である。河川敷の外に堤防を敷設することにより、農民と家屋を救うことができる。しかし、氾濫により流出した作物は諦めざるを得ない。これに対する策としては、河川敷が他の耕地に比べ肥沃であり、水の便も良いことに注目し、此処にて作物の増産を図る。増産により生み出された余剰分を備蓄する。この事により流出分を補う事とする。

 頼母は、直ちにこの具申を採用した。三年間の期限付きで神無川奉行所を置いた。そして奉行として繁佐衛門を赴任させた。作事奉行は抵抗したが、半年も経たないうちに繁佐衛門を認めた。工事は

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期限よりも早く終った。一年後に神無川は氾濫した。だが、洪水が土手を越えることはなく、繁佐衛門の具申が正しかった事が証明された。この件により頼母は繁佐衛門を家老にと推挙し、勘定奉行と作事奉行の管理を任せた。
 頼母は繁佐衛門が自分を越える能力を持つことを知ったが、大した家柄でもなく、家禄も少ない真島家であり、しかも推挙したのは自分である。頼母は繁佐衛門を思うように使えると思った。事実、繁佐衛門は良く働いた。
 繁佐衛門が家老職に就き、一年ほど経った頃から、頼母は宗徳との評議の席に繁佐衛門を同席させるようになっていた。宗徳は、具申内容について詳細を問うが、明確に答えられるのは繁佐衛門であった。頼母は、これで良かった。

 だが、頼母と繁佐衛門の間に亀裂が起こった。 
 宗孝出産後、奥方が死んだ。頼母は宗徳に再婚を勧めたが、どうしても首を縦に振らない。次には側女を持つように言った。
「殿、もしもの事が起こった場合、宗孝様、お一人では心許のうございます」
 だが、宗徳は頑として聞き入れなかった。
 その頃、繁佐衛門は、宗徳の信認を受けるようになっていた。宗徳は繁佐衛門にこぼしたことがあった。
「繁佐衛門、頼母は再婚、側女と申す。だがな、余は妻を愛していた。他の女子には興味が湧かぬ。ましてや、子など作ることはできぬ。嫡子が居ないのであればまだしも宗孝がおる。宗孝は身体堅固じゃ」

(43)





 ある日、繁佐衛門は頼母に呼ばれた。
「繁佐衛門、殿に進言してくれぬか」
「は? して何を……」
「側女じゃ。再婚は無理であっても側女は必要じゃ。宗孝様、お一人ではな。繁佐衛門、我が身内にちょうど良い娘が居る。体も丈夫だ。何人も子供を産めるはずじゃ。どうじゃ、殿に勧めてはくれぬか」
 繁佐衛門は宗徳の気持ちを知っている。
「ご家老、お言葉ですが、側女につきましては偏に殿のお気持ち次第でございます。それに、中村様がお話になっても首を縦に振らない殿であれば、拙者では無理でございます」
「これは異なことを。貴殿は、殿からの覚えも良いはず。其処のところを上手く利用すれば殿もお聞きになるとは思わんか。真島殿」
 頼母は、こう言うとニヤッと笑った。繁佐衛門は、その笑い顔に醜さを見た。
「拙者、勘定、及び作事奉行を見るが役目。そのようなお役は、拙者の任にあらず。どうか、ご容赦くだされ」
 繁佐衛門が頼母に逆らったのは、この時が初めてであった。頼母の顔付きが見るみるうちに変わった。

 繁佐衛門は、此処まで記憶を辿ったが、裏切り、裏切りについて、その根拠を探ることは出来なかった。ふと気付いた。これらの事、拙者は誰にも話してはいない。いや待て、この事は筋違いかも知れぬ。だが、繁佐衛門は覚書として認めることにした。

(44)





 宗孝は、宗徳の書斎を隈なく捜した。しかし、例の書状以外には何一つ見つけ出す事はできなかった。

 同じ頃、中村の屋敷で頼母と家老用人亀井相次郎(かめいそうじろう)が話していた。
「亀井、急ぎ、この書状を江戸藩邸の田島に手渡してくれ」
「ご家老、早飛脚を使っては……」
「馬鹿者っ! 手渡せと言ったであろうが。直接、届けろ」
 亀井は、日頃より目を付けていた足軽、脇本飛馬(わきもとひゅうま)を呼んだ。当然ながら亀井は書状の内容を知らない。
「おぬし、健脚と聞く。それに腕も良い。この書状、江戸家老、田島様に直接届けて欲しい。密かに遣れ。良いな。邪魔する者……。いやおらんと思うが、その時は……」
「この脇本、総て承知仕りました」


     (六)

 皇次郎は、一通の書状も宗孝宛に送っていなかった。何を書くかは、おぬしに任せると言われている。だが不思議なもので、そのように言われると何を書くべきか悩んでしまう。とりあえず慎一郎、瑞穂、そして琴音との出会いについては認めておくことにした。
 筆を動かしていたが、琴音の段になると何やらすっきりしない思いに駆られた。琴音の印象は鮮明に残っている。しかし、琴音に対する自分の印象などを書いて何になるのか。
 皇次郎は筆を置いた。宗孝は、琴音のような女が好きなのか。も

(45)





し、そうであれば奥方選びにも関わるのでは。果たして武家の娘の中に琴音のような女子が居るのであろうか。殿と琴音は、どのような話をしたのであろうか。皇次郎は無性に知りたくなった。この気持ちは、真摯なものであった。
 皇次郎は、やもたても居られずに藩邸を出た。
 梓に着くと女将を呼んでもらった。瑞穂は思い詰めたような顔の皇次郎を見た。何が起こったというのであろうか。

「真島様。この様な夜更けに……」
「いや済まぬ。女将、今一度、琴音と話がしたい。手筈を頼みたいのだが」
「まぁ、その様なことでしたら、何も、こんな夜更けにお越しいただくても明日で宜しかったのに」
「そう言うな。江戸詰めも初めて、側用人などという役も初めて。おぬしのような女子や琴音のような女子と会ったのも初めて……。何もかもが初めて。自棄になっているとは思わんが、兎に角、思いたったが吉日。拙者、琴音について知りたいのじゃ。琴音を知れば殿のお気持ちも知れると思う」
「……」
「女将、頼む」
「真島様、宗孝様と琴音のことを知って、どうしようとお考えなのですか」
 瑞穂の顔付きは変わっていた。
「いや、どうこうしようなどとは思っておらん。ただ、殿は奥方を貰わねばならない。奥方選びに拙者が関わることはないが……」 

(46)





 瑞穂は、皇次郎の真面目さは認めていた。だが琴音を知る事により、宗孝の奥方を判断したいとの考えには承服できなかった。
 男と女。身分が違うとは言え何が起こるか判らないではないか。宗孝が琴音を気に入っているのは事実だが、琴音をただの芸妓と考える皇次郎に苛立ちを覚えた。しかも、皇次郎は、琴音を奥方選びの目安にしようと考えている。
「真島様、琴音と話をして宗孝様の好みを知ろうと言うのですか」
「いや、まぁ、何と言えば良いのか」
 皇次郎は押し黙ってしまった。そのように言われてみれば、その通りであった。だが所詮、高津藩主と辰巳芸者である。奥方選びには関係ないはず。
「判りました。手筈は整えましょう。それで宜しいのですね」
 瑞穂の冷たい言い様に皇次郎は戸惑った。意気消沈の皇次郎を見た瑞穂が言った。
「さ、お入りなさいな。まるでお殿様からお咎めを受けたような顔をなさって」
「いや、拙者、藩邸に戻った方が良いようだが……」
「真島様、お幾つにおなりですの」
「二十二歳にござる」
「まぁ、良い大人が、しょんぼりなさって。今夜は、私がご馳走いたしますよ。さ、お入りなさいな」
 皇次郎は、瑞穂に促されるまま後に従った。通されたのは、四角い箱火鉢のある部屋だった。
「真島様、此処はあたしの部屋。今、お酒を持って来ますから」
 そう言うと瑞穂は部屋を出ていった。部屋は、四畳半ほどの広さ

(47)





である。上を向くと神棚があった。(まさき)が活けてある。何を祈るのでもなく皇次郎は手を合わせた。
「あらまぁ、律儀なお方。何をお願いしたのですか」
「いや、ただ手を合わせただけ。座敷の方は良いのか」
「もうお客様は、お酔いになっています。そろそろ、お帰りになる時刻。あたしは、お見送りはいたしません。さっ、お杯を」
「忝い」
 皇次郎は震える手で杯を持った。瑞穂が微かに笑った。二人は黙って酒を注ぎ合った。瑞穂は、別に皇次郎をからかうつもりはなかったが、逞しい体付きでありながら余りにも恐縮する皇次郎を見ていると、ちょっかいを出したくなる。
「真島様は、お独りですか」
「如何にも。歳はいっておるが、まだ所帯を持てずにいる」
「では、お好きなお方はいらっしゃるのですか」
「……」
「いらっしゃらないのですか。勿体ない」
「勿体ない?」
「えぇ、ご立派なお武家様でありながら、高津藩の女子は、見る目がないのでしょうか」
「い、いや、女子の方ではなく…… 女将の前で見栄を張ったところで見透かされるのみ。女将、拙者はな、今まで文武研鑽、お勤めのみに精を出しておった。女子については良く判らん」
「まぁ、では、まだ……」
 何と皇次郎は、下を向いてしまった。話を持っていったのは瑞穂であったが瑞穂も言葉に詰ってしまった。皇次郎が顔を上げた。 

(48)





「女将、これからじゃ。拙者は、これから。何日まで江戸詰めであるかは判らんが、拙者は何でも知るつもりじゃ。女将、何かと手伝ってはくれぬか」
 瑞穂は、良い歳をして何を初心な事をと呆れたが、ここまで明け透けな男を見ると放ってはおけない気持ちにもなっていた。
「良うござんすよ。どうせ真島様よりも年嵩のいった年増女。手伝えとは何やら気の抜けるお言葉。ま、弟ができたと思えばお付き合いもできるでしょうが」
「弟でござるか。弟…… 女将、それでは余りにも無粋。拙者も男でござる」
「まぁ、むきになって。では、口説いてみてくださいな」
「実は女将のような女を初めて見た。早く口説く勇気を持ちたいものだが…… いずれじゃな。いずれ」
「これはこれは、頼もしいお言葉を……。早く勇気をお持ちくださいな。瑞穂、楽しみに待っておりますわ」
 二人は顔を見合わせた。一瞬の沈黙があったが、二人は急に笑い出した。心地良い笑いであった。

 今夜は三日月。梓を出たは良いが、辺りは真っ暗であった。皇次郎は、仄かな月明かりを頼りに歩いた。五ツまでには帰れそうだ。瑞穂との遣り取りを思い出すと、何やら頬が緩んでくる。心躍る思いで藩邸に向かった。
 皇次郎は、藩邸への行き帰りに、必ず水桶を見るようになっていた。田島は、まだ防火用水桶を替えていない。催促したことがあるが、田島は判っていると言うだけだった。この夜も水桶を見ること

(49)





にした。
 角を曲がり水桶を…… 皇次郎は、ギクッとした。水桶に身を隠す者がいる。黒装束(くろしょうぞく)に黒覆面だが、確かにいる。皇次郎は、近くの木立に身を潜めた。
 どの位経ったであろうか。既に五ツは過ぎているはずだ。黒装束が動き出した。見遣ると、その者は水桶に登った。背中が見えた。皇次郎は、すすすーと近付いた。黒装束が、ふっと顔を向けた。月明かりに目だけが見えた。男だ。皇次郎を見ると、一瞬、動揺が走ったようだ。皇次郎は、この男は自分を知っているのではないかと思った。
 男は動けなかった。塀を越えようとすれば皇次郎に背中を向けることになる。水桶から、さっと飛び降りた。皇次郎との距離は十尺ほど。二人は無言のまま対峙した。

「おぬし、物盗りか」
「……」
「この屋敷は、高津藩江戸屋敷。それを知っての所業か。名を名乗れっ!」
「……」
「名乗れまいな。だが、拙者が大声を上げれば藩邸より人が出て来る。それでは、おぬし、困るであろう。いずれにしても観念した方が良い。さっ、大人しく刀を置け」
 盗みではあるまい。盗みであれば相方と二人か、数人で徒党を組んだ方が仕事が遣りやすい。では、誰ぞを(あや)めるためか。または、密使……。そのどちらかであろう。皇次郎は、大声を上げるつもり

(50)





も斬り捨てるつもりもなかった。捕らえて目的を訊き出さねばならない。
 男が、静かに刀を抜いた。
 はて、この構え……。皇次郎は、以前この構えを見たように思った。藩の者か。皇次郎が刀に手を掛けた途端、男が無言のまま斬り込んできたが、皇次郎は身をかわし、刀を抜いた。二人は、正眼のまま対峙した。男は斬り込んでこない。刀を(まじ)えたくないのであろう。交えれば音が響く。皇次郎は鋭い突きを入れてみた。案の定、男は身をかわすのみである。その動きは早かった。かなりの腕と思えた。一太刀で仕留めようと考えているのであろうか、皇次郎の隙を見計らっている。だが、隙を見せるような皇次郎ではない。
 刀を交えたくないとの思いは、勝負においては明らかに不利である。これは男にも判っているはず。
 皇次郎は、何度か斬り込みと突きを繰り返した。男は、その度に身をかわしたが、次第に塀際へと追い遣られていった。男が水桶の上にある手桶を掴み、皇次郎に投げつけた。これが男にとっての命取りであった。この隙に、皇次郎が身を屈め、刀を上に突いた。皇次郎の刀は、男の喉元で止まった。

「刀を置け」
 男は刀を放り出した瞬間、懐から何かを取り出し口に入れようとした。皇次郎は、さっとそれを取り上げた。書状だ。何と、男が口を開いた。
「真島殿、後生じゃ。それを返してくれ」
 男は覆面を取った。

(51)





「脇本っ! お、おぬし、この所業は何なのじゃ」
「訊かんでくれ。真島殿、拙者も武士の端くれ。命が惜しいのではない。しかし、この様なことで命を失いたくはない。これでは余りにも無様(ぶざま)
「なるほど。だが拙者も素直にこの書状を返す訳にはいかん。誰に命じられたのだ。それに誰に届けるのだ。良いか、おぬしの命は、今、拙者の手の内にある。事と次第によっては悪いようにはせん。さっ、話せ」
「……」
 皇次郎は、ふと五ツを過ぎていると思った。また、目の前にある水桶のお世話になる。ま、良いか。
「脇本、話したくないようだな。では、共に藩邸に入るか。それではおぬし、都合が悪かろう」
 脇本は、暫し考え込んだが口を開いた。
「……判った。田島様に届ける書状だ。亀井殿に命じられた。せ、拙者は密かに届けるよう命じられただけだ」
 この様な形で、何を遣り取りしようと言うのだろうか。月明かりでは書状を読む事はできない。
「脇本、此処におれ。おぬしの命は助ける。中身を検めた後、この書状は返す」
「済まぬ。この事、決して忘れはせぬ」
 皇次郎は水桶に上がり藩邸内に入った。部屋で書状を開いた。

『奥方として、我が末娘、七重(ななえ)を推すことに決めた。そちも心して事にあたれ 中村』

(52)





 読み終わると書状を元の状態に戻し、塀の外に放り投げた。外から小さな声が聞こえた。
「済まぬ」

 皇次郎は(いぶか)っていた。高々これだけの事を伝えるために、何が密使だ。脇本は黒装束に身を固めていた。このような装束であれば、見つけた者はただの盗人とは思わない。見付けた者が自分ではなく他の者であったとしても取り押えようとするに決まっている。下手をすれば脇本は死んでいたかも知れぬ。
 高津藩には何かあるのであろうか。皇次郎は、高津藩の世継ぎには、何やら得体の知れぬものが潜んでいると思った。


     (七)

 翌日、藩邸に梓から使いの者が来た。明日の夕刻、お越しください。瑞穂からの伝言だった。
 皇次郎は慎一郎に会いたくなった。
 慎一郎は、町廻りかも知れぬ。だが、とりあえず呉服橋御門にある北町奉行所に向かった。藩邸から奉行所までは、さほど時間は掛からない。
 奉行所で聞くと、今日は非番を取り、家に居るはずだという。

 定町廻りは、奉行所同心が憧れる役目である。三廻りの中でも一番人気が高い。着流しに半羽織。朱房の十手を腰に差し、粋な姿で

(53)





お江戸を廻る。町を廻れば、旦那、旦那と声が掛かる。だが、心身共に堅固な者でなければ勤めることは出来ない。北、南を合わせて十二人で広い江戸を廻らなければならないし、町年寄や町名主との顔合わせも欠かせない。しかも、奉行所には月番があるが、定町廻りにはない。事件などが続けば、休みなどは取れない。
 半羽織を風に(なび)かせ、岡っ引きを連れて歩く姿には惚れ惚れするものがあるが、見掛けの良さに比べ、実に厳しい役目と言える。非番の日は、同僚との都合で取る以外にない。

 皇次郎は、八丁堀まで足を伸ばすことにした。町人地を抜け新橋を渡った。
 八丁堀には小体(こてい)な屋敷が軒を連ねていた。慎一郎の屋敷は、すぐに見つかった。百坪にも満たない小さな屋敷だ。

「ご免」
「はーい」
 出てきたのは、慎一郎の妻女であろう、小柄な可愛い女が顔を出した。
「拙者、真島皇次郎と申す。ご主人はおいでであろうか」
「あら、真島様でいらっしゃいますか。ほほほー」
 妻女は、皇次郎を見た途端、確かに笑った。どう言うことだ、失礼な。だが、どうした訳か何ともバツの悪い思いに駆られた。
「あっ、失礼いたしました。貴方ーっ、皇次郎様ですよー」
 元気の良い妻女だ。しかも真島様ではなく皇次郎様と言った。初対面でありながら馴れなれしい。

(54)





「おぉおー、皇次郎か。良く来たな。さ、上がれ上がれ。この屋敷狭くて古いが、雨露は凌げる」
 部屋に落ち着くと妻女が茶を持ってきた。見ると、そのまま慎一郎の横に座った。
「妻の香苗(かなえ)だ。明るいだけが取り柄の女じゃ。ところで如何した。何か相談事か。恋の悩みか。まさか、梓の女将に惚れたとでも言うのではあるまいな」
 皇次郎は、一瞬、ドキッとした。
「な、何を埒もないことを。その様なことではないわ」
 香苗を見ると先ほどよりクスクス笑い通しである。どうにも所在ない思いである。
「皇次郎、香苗と拙者は一心同体なのじゃ。どうせ、拙者一人で聞いても、後で総てを話してしまうからな。香苗が居るからといって気を使ったり、遠慮することはない。そうであるな、香苗」
「真島様、この人は何でも話すんですよ。真島様のことも色々とお聞きいたしました。先ほどは、初めてお会いしたお方とは思えませんでしたの。失礼いたしました」
 そういうと香苗は、またクスッと笑った。
 慎一郎はどのように話したのであろうか。どうせ拙者のことを面白おかしく話したのであろう。
「拙者は独り者。女子にも慣れておらん浅葱者じゃ。香苗殿、そのようにクスクス笑わんでいただきたい。何やら子供に戻ったような気分になってしまいます」
「そのように膨れんでも良いだろう。ところで何じゃ」
「いや、明晩、琴音殿に会うのでな。一応、おぬしの耳にも入れて

(55)





おこうと思っただけだ」
「ほー、琴音と会うのか。おぬし、それほどまでに宗孝様のことが気になるのか」
「当たり前だ。殿は二十歳。しかも、藩主になられたばかりだが、お世継ぎを急がねばならぬからな。慎一郎、殿は国元においては話しをした女子は奥女中くらい。拙者は、近習としていつもお側におったから良く判っておる。二人で居る時も女子の話などはしなかった。今考えると、それはそれで妙なことではあるが」
「如何にも。拙者もそうであるが、若い男は、二人顔を合わせれば女子の話ばかりだ」
 香苗が、まぁ、と小声で言った。皇次郎もつられて笑った。
「殿は、琴音殿の他には……」
「いや聞いておらん。それに吉原などで遊んだとも聞いていない。拙者など、なけなしの金を叩いて遊びに行ったがなぁ」
 また、香苗が、まぁと言った。先ほどよりも顔付きは(けわ)しくなっている。
「い、いや独り身の時の話じゃ。い、今は、行っておらん」
 香苗の顔付きは変わらない。
「ところで、大名が結婚する場合だが、武家諸法度によれば幕府に願い出る必要がある。厳しく調べるのであろうか」
「諸法度は、大名同士の姻戚関係を見張るためのもの。勝手に大名たちが手を組むのは宜しくないからな」
「先代は他藩の家老の娘御を嫁にした。慎一郎、自藩の家老の娘を奥方にすることもあると思うか」
「ま、考えられんこともないが……。どうであろうなぁ。世継ぎを

(56)





産んだとなれば、その家老が笠に着ることもあろうしな。そうなれば面倒じゃ。むしろ、奥方にするのであれば身分の低い家の方が問題は起きないはず。良くあるではないか。腰元や湯女(ゆな)(はら)ませたとか。将軍家にもある。どうであれ、この子はご落胤(らくいん)じゃ。いや話が逸れてしまった」
「そういうものかのー」
 皇次郎は、例の密書を気にしていた。
「では、あり得ないと思うが、芸妓はどうじゃ」
「芸妓? 何を言い出すかと思えば。ま、芸妓であれば、精々、側女ではないか。こ、皇次郎、おぬし、宗孝様と琴音を言っておるのかっ! 冗談も休み休み……。いや待て、武家社会には面白いところがある。身分、格式を重んじるが、きちんと抜け穴を用意しておる。おぬしも知っておろうが、嫡子が居ない場合は、武家から婿を貰えば良い。それに、町人の娘でも何千石もの旗本の奥方になることがる。どこかの武家が養女とすれば良い。血の繋がりはなくとも武家の娘じゃ。その家から嫁ぐことになる。問題はない。変なものよ」
「養女か。家を相続するのは嫡子、または血の繋がりの濃い者とされている。妻の血を継ぐ訳ではない。つまり娶るのであれば、別に武家の出でなくとも良い訳だ」
「その通り。ま、何処の畑でも構わと言うことよ」
 香苗が、まぁ、女子に失礼な、とつぶやいた。慎一郎は香苗に向かって言った。
「香苗、子供でも作るか。拙者の畑は、一つだけじゃ」
「お止めくださいまし。真島様の前で、そのような……」

(57)





 香苗は真っ赤になった。皇次郎は、妻とは可愛いものだとつくづく思った。
「いや、来て良かった。香苗殿、この男、口は悪いが、拙者は頼りにしておる。ところでお子のこと、楽しみにしておりますぞ。香苗殿に似れば、可愛いお子が生まれる」
「まぁ、皇次郎様まで、そのような……。香苗は知りませぬ」
 香苗は、顔を隠して部屋を出て行った。
「慎一郎、おぬしは果報者じゃ。あのように可愛いお方を娶って。拙者、羨ましく思うぞ」
「うん。香苗は可愛い」
「香苗殿あっての慎一郎か」
「何を言うか。拙者あっての香苗じゃ」
「判った、判った。今日は礼を言う」
「皇次郎、殿も良いが、おぬしもそろそろな」
「判っておるっ! 自分には、香苗殿がおると思って、とやかく言うな」
 玄関に慎一郎と香苗が立った。
「香苗殿、良い一日であった。また、お邪魔させていただいても宜しいか」
 香苗は、真っ赤な顔で俯いたまま、ぼそっと言った。
「皇次郎様、ありがとうございました」
 慎一郎を見ると、香苗の肩に手を置いている。
「慎一郎っ! いい加減にせよっ、当て付けおって。拙者は、まだ独り身。少しは拙者の事も考えよっ!」
 慎一郎は、ニヤニヤしているだけであった。

(58)





 江戸家老の田島は、脇本が届けた書状を見た。そして思った。
 ――先代の時とは事情が違う。今度は上手く行く。さすれば禄高も増える。

 繁佐衛門は、高津藩の今後については安心していた。宗徳の書状を知ったのは公務から身を引いた後である。
 ――拙者、時期を逸したのであろうか。隠居の身。やはり、お城の状況を身をもって感じることができない。
 忸怩(じくじ)たる思いもある。
 繁佐衛門は、先に認めた覚書を、もう一通作っていた。いずれ、皇次郎にも届けるつもりであった。

 此処は、梓の部屋。琴音が、きつい表情で座っていた。皇次郎は打ち解けた雰囲気の中で琴音の話を聞きたかった。
「琴音殿、手間を掛けた。気楽にしてくれぬか」
「真島様、女将から聞きましたが私には良く判りません。宗孝様の何をお知りになりたいのでしょうか」
「困ったのう。そのような剣呑(けんのん)な言い様。殿、いや高津藩のこれからを思い、この席を設けたのだが」
「まぁ、私にとってそのようなこと、興味も何もありませんよ。宗孝様とはお会いできる時にお会いできれば、それだけで私は幸せ。高津藩がどうのこうのと…… 私には関係ないこと」
「琴音殿……」
「真島様は私のことなど何もお判りになっていない。野暮天もよいところでございます。女将にはお世話になっています。女将の顔を

(59)





立てなければと思い参ったまで。さぁ、何をお知りになりたいのでしょうか」
 皇次郎は話の接ぎ穂を見つけることができない。
「さぁ、宗孝様の何をお知りになりたいのですかっ!」
 琴音は、キッと睨んでいる。二人は、にらみ合ったまま、しばしの時が流れた。
 急に琴音の目に涙が湧きあがった。そして琴音は突っ伏して泣き出した。号泣であった。ドタドタドタっと廊下に足音がした。さっと障子を開ける者がいた。女将であった。
「真島様、貴方は……貴方は女心を知らなすぎる。もう良いでしょう。さっ、お引き取りください」
 皇次郎には全く訳が判らなかった。女将の剣幕は凄い。
「女将、拙者は、まだ、まだ何も訊いておらん。今、顔を合わせたばかりじゃ。まだ、何も……」
 瑞穂は、優しく琴音の体を抱いている。皇次郎は途方に暮れていた。
「琴音さん、私が悪うござんした。ご免ね。……涙を拭いて。真島様は、お仕事一途のお方。さっ、体を起こして。辰巳芸者とは言っても、所詮、女は女。ご免ね」
 皇次郎は思いもよらぬ光景を目にしてしまった。まさか琴音が泣くなどとは考えてもいなかった。
「女将……」
「真島様、これで良うござんしょ。細々と聞いたところで何になります」
「……女将、琴音殿は、本気で殿を好いておる」

(60)





「何を今更。さっ、今日はこれまで。これ以上、お顔を合わせていますと、何を言い出してしまうか、自分でも判りません。失礼なことを言ってしまっては、折角、お知り合いになれたのに宜しくありません。真島様、何日でも構いません。またお越しください」
 皇次郎は、帰らざるを得なかった。

 藩邸に戻ったが落ち着かない。先に宗孝宛に認めた書状を取り出して読み返してみた。何枚にもわたり江戸の雰囲気、慎一郎や梓、女将、琴音のことが書かれている。皇次郎は書状を破り捨て、改めて書状を書いた。宗孝への初めての書状でありながら、内容は、たったの一行であった。

『琴音殿を如何にお考えか』

 数日後、宗孝から書状が届いた。二つの歌があった。

『数多なる 民の暮らしを考える 心の支えは遥かな江戸に』

『荒ぶれる 神無川を治めしは 一途に思う 家臣の力か』


     (八)

 筆頭家老中村頼母と城代家老川嶋公靖が話していた。
「ご城代、如何か」

(61)





「……」
「川嶋様」
「うーん。ところで、七重とか申すおぬしの末娘だが体は丈夫か。世継ぎをもうけて、すぐにと言うことでは困る」
「ご安心くだされ。丈夫な体でござる」
「そうか。だが一応、役付きの連中にも声を掛けた方が良い。奥方に適した女子がいるやも知れぬ。その上で、誰もいないようであれば、おぬしの考えを進めても良いのではないか」

 頼母は、大目付や奉行、役付き達を集めた。繁佐衛門が隠居した後、総ての奉行、役付きは頼母が管理している。
「高津藩の存続は、ひとえにお世継ぎにある。殿は既に二十歳。急ぎ、奥方が必要。これと思う娘御を知っておる者はおるか」
 誰も何も言わない。
「では、奥方選びの関しては、川嶋城代、田島家老と拙者に任せて貰うが良いな」
 これだけで終った。これで家臣一同が家老たちに一任するとの賛意を示したことになった。

 繁佐衛門は苦慮していた。今ひとつ、絡んだ紐を解きほぐすことができないでいた。
 意を決して認めた覚書を宗孝に渡すことにした。併せて、皇次郎にも送ろうと思った。皇次郎には宗徳の書状に書かれていた内容、さらに宗孝がお忍びにて繁佐衛門に会いに来たことを細かく認めた書状を添えた。

(62)





 繁佐衛門は、久し振りに登城した。
 暖かく迎える者が多かった。中には、お元気で何よりと手を握る者もいた。驚いたことには、何かとご相談したいことがござる。お伺いしたいが、如何かでござるかなどと顔を覗き込む者もいた。繁佐衛門にとっては嬉しい限りであった。

「殿、ご機嫌、麗しゅう存じます。繁佐衛門、恭悦至極」
「何を改まって。そちも元気そうじゃな。ところで繁佐衛門、おぬしは市井(しせい)についても詳しいであろう。どのようなことでも構わん。気付くことがあれば申して欲しいが」
「はっ」
「余が知る限り、この高津藩には、これといって問題はないように思うが。まさか不穏な空気などはあるまいな」
「不穏な空気など全くございません。隠居の身でございますので、藩内を歩き廻ることが多ございます。農民たちとも言葉を交わしますが、治世には満足している様子。四公六民(しこうろくみん)についても不満を申すものはおりません。此処だけの話としていただきとうござるが、雑穀など、それなりに備蓄している者もおるようでございます」
「藩の財政にも問題はない。雑穀類は年貢の対象にはならん。農民は農民で考えているようだな。これで良い。神無川の河川敷では良く米が育つと聞いた。おぬしのお陰だ」
「そのような。昔の話でございます。神無川は相変わらず数年おきに水が溢れますが、氾濫した水には山々の養分が豊富に含まれております。皮肉なもので、これらの養分が河川敷の土を、さらに肥沃なものとしてくれます」

(63)





「既に散ってしまったが、土手の桜並木も風情があって良い。あれもおぬしの具申か」
「いえ、先代がお決めになりました。桜が根を張れば土手は堅固になる。それに、花見もできると」
「なるほど。先代も知恵を絞ったのじゃな。余も何かせねばならんな」
「殿、お役ご免を願った私めが今更言うのも、おこがましいことですが、高津の山々には立派な木々が育っております。つまり良質な木材を産出できます。勿論、伐採だけでなく植林を計画的に行う必要があります。植林次第では、豊富な木々の育成も可能でございます。これらを建材として、さらには家具などを作り他藩へも売りに出る。これで、一つの産業を興せます」
「……」
「ま、年寄りの話として……」
「言われてみれば容易いこと。おぬし、まだ呆けてはおらんようじゃな」
「閑が多ございますゆえ、何やかやと……」
「遠慮せずに具申してくれ。ところで繁佐衛門、何か話があるのではないか」
「御意。殿、先日の件でございますが、いろいろと思い巡らせましたが、どうにも拙者には……然とは判りかねる状況にございます。誠に申し訳なく存じます」
「そうか。このように穏やかな藩であるのにも関わらず、先代は何を言いたかったのか。繁佐衛門、余はこの事が頭から離れんのじゃ」

(64)





「殿、もしやと思い、私めが知るこの藩の成り立ち、気付いた事などを認めました。筋違いであった場合、咎を受けることになりましょうがお読みくだされ」
 繁佐衛門は懐から分厚い書状を出した。
「判った。読んでみよう。ところで皇次郎から連絡は入るか」
「全くございません。親の心、子知らず。自分ひとりで大人になれたとでも思っているのでしょうか」
「親の愚痴か。まあ、そう言うな。余には書状が届いたぞ。だが、たった一行じゃ」
「はっ? 一行のみ」
「洒落たことをいたす。もっとも、真剣に余のことを思っている事は判ったが」
「して……」
「女子の事じゃ」
「女子? なるほど、殿もそろそろ奥方ですな。お世継ぎ」
「……」
 繁佐衛門は、宗孝の顔が一瞬曇ったのを見逃さなかった。
「すでにご家老たちからお話は出ているのではないでしょうか。私めがとやかく言うことはないですな」
「繁佐衛門、この書状、後程読んでみるが皇次郎には送ったのか」
「いえ。もう一通、認めましたが」
「何じゃ。送るつもりであったのか」
「……」
「遠慮はいらぬ。おぬしの事だ、役に立つ内容であろう。構わん。皇次郎にも送ってくれ」

(65)





 繁佐衛門は表を辞し、廊下を歩いていると家老用人の亀井が声を掛けた。
「真島殿、お久しゅうございます。ご家老がお会いしたいと申しておりますが」
「おう、拙者もご挨拶と思っておったところ」
 頼母の部屋は、以前、自分が詰めていた部屋の隣にある。繁佐衛門が使っていた部屋は空いている。

「真島殿、ご健勝のご様子。喜ばしい限りじゃ」
「ご家老もお元気そうで何よりでございます」
「して、今日は」
「殿へのご機嫌伺い。拙者、閑でしてな。こうでもしなければ呆けてしまいます」
「わ、はっはー。呆ける歳でもあるまいに。殿は、どうであった」
「お元気そのもの。安心いたしました。四方山話をいたしましたが……。ご家老、そろそろ殿は、娶らなければなりませぬな」
「そうよ。口を酸っぱくして申し上げておるところじゃ。急いでいただけねばならぬのに、まだ早いと申される。拙者はな……」
 ここで頼母は口を噤んだ。宗徳への一件を思い出し話を変えた。
「皇次郎殿は如何じゃ」
「殿からも問われましたが、何も言ってきませぬ。困った親不幸者でござる。便りがないは良い便りとか申しますが、やはり親にとって見れば気になるもの。江戸で何をしていることやら」
「殿には何かと連絡を入れているのではないか」
「いえ、一通のみだそうで」

(66)





「それはまた。側用人であるのにのう」
「如何にも。ま、拙者は隠居の身でございます。とやかくは言わないことにしております」
「そうであるか。真島殿、遠慮せず拙者の部屋にも顔をお出しくだされ」
「これはまた勿体ないお言葉。繁佐衛門、嬉しゅうございます」
 当たり障りのない会話であった。頼母は、宗孝とどのような話をしたのか気になっていたが、繁佐衛門の表情には何の陰りもなかった。気に病むことはあるまいと思った。

 宗孝は、繁佐衛門の書状を読んだ。腕を組み目を瞑った。しばしの間、そのままでいたが、皇次郎宛ての書状を認めた。


     (九)

 皇次郎は、琴音のことが気になっていた。明らかに自分は間違っていた。拙者は女を全く判っていない。いや、女だけではない、人の機微を判っていないのではなかろうか。このような状態では、人と和を持ち勤めを進めることなどできん。日記役として藩においては多くの侍や藩民と話しをしたが、考えてみればこちらが知りたいことを聞くのみであった。共に話し合い、共に物事を進めたことはない。これではいけない。
 今までこのようなことで悩むことはなかった。江戸にて心を許せる相手は慎一郎しかいない。しかし、いくらなんでも女子の気持ち

(67)





が判らん、人の機微が判らんなどと話す訳にもいかない。
 ふらっと表に出た。行く当てはない。梓にでも行ってみようかとも思ったが、足は神田へと向いていた。
 江戸の活気が、かえって皇次郎の気持ちを憂鬱にさせた。気付くと両国橋に来ていた。

 江戸は夏の季節を迎えていた。隅田川は、ゆったりと流れ、川岸には葦が茂っている。葦雀(よしきり)が小さな姿を見せて飛んでいる。皇次郎は、小鷺(こさぎ)が器用に川魚をついばむのを見ていた。ふと見ると翡翠(かわせみ)が土手に突き出た小枝に留まっていた。綺麗な鳥だ。しきりに尾っぽを上下に動かしている。さっと川に飛び込んだかと思うと小魚を銜え、また小枝に留まった。しきりに小魚を枝に打ちつけている。川面を見れば魚が飛び跳ねる。
 器用に棹を操る船頭。あれは猪牙舟(ちょきぶね)だ。見れば荷物を載せた舟や客を乗せた舟など、明るい日差しの中をゆったりと進んでいる。
 気付けば、棒手振りが風鈴や金魚鉢を担ぎ、威勢良い売り声を上げている。子供たちは、泥まみれになって遊んでいる。何人かの子供は赤ん坊を背負っている。川に突き出た板場では、女たちが姦しく話をしながら洗濯をしている。
 其処此処には、自然の、そして人の営みがあった。

 行く当てはない。皇次郎は、隅田川の川っ縁を歩いていた。
 何やら騒がしく、一段と人通りが多い場所に出た。浅草だった。浅草寺にでも詣でてみようかとも思ったが、理由もなく待乳山(まつちやま)の横道を上がって行った。所在なく歩いていると、また華やかな場所に

(68)





出た。
 皇次郎は吉原に来ていた。藩邸から随分と歩いたことになる。吉原大門を通り中道を歩いてみた。騒がしい。女の嬌声。侍や町人が大勢歩いている。中には格子を覗いたり出された煙管を吸う者がいる。
 皇次郎は醒めた気持ちでノロノロと歩いていた。
「お武家様、良い妓がいますよ」
 振り返ると、身なり格好は良いが冷めた目付きの男がいた。皇次郎は何も言わずに足を進めようと思った。その男が皇次郎の袖を掴んだ。
「お武家様、気晴らしには女が一番ですぜ。さっ、遊んでいきなさいな」
 男が言った気晴らしとの言葉に心が動いた。皇次郎は誘われるまま、男に従った。
 男は吉原を出ていく。皇次郎は、何処に連れて行かれるのか判らなかったが何処でも良かった。男は、皇次郎を目黄(めき)不動の近くにある家に連れて行った。

「お武家様、お気付きと思いやすが、隠れた場所でして。吉原の女郎たちとは、ちと違いやす」
 男は、そう言いながら皇次郎を二階に上げた。通された部屋には汚れた甘い匂いが満ちていた。
「では、あっしは、これで」
 男は階段を下りて行った。

(69)





 皇次郎は、国元にいた時にも女を買ったことはない。初めて知る場所である。だが、部屋の中で坐っていても何らの感情の動きもなかった。
 足音に気付くと襖障子が開いた。老婆が手にお盆を持ち頭を下げていた。
「どうぞ、お召し上がりくださいまし」
 見ると土瓶と小さな茶碗。それに小鉢が二つ。皇次郎は老婆を見た。小さな体だ。背中を屈めているため、尚更、小さく見える。色が黒く皺だらけの顔。前歯が、二、三本抜けている。
「さっ、どうぞ」
 老婆は小さな茶碗を皇次郎に渡し、土瓶を持ち上げた。
 ――酒か。
 皇次郎は言われるまま酒を注いでもらい呑んだが、何の味もしなかった。老婆は、ちょこなんと座り、じーっと皇次郎を見ている。
「お武家様、何で此処に来なさったので」
 皇次郎は、改めて老婆を見た。目だけが異様に活き活きとしている。
「拙者、あの男に言われるまま此処に連れてこられたのだが……」
「此処は岡場所。お遣りになる処でございますよ。お武家様、お顔には遣りたいと書いてございませんが……」
「……」
「もうすぐ女が来ます」
 襖障子が開いた。見ると小柄な女が手を付いている。女が顔を上げた。まだ若いが諦めとも寂しさとも見える表情をしていた。だが皇次郎は、その表情の中に、きりっとした何かを感じた。

(70)





千恵(ちえ)でございます」
 千恵は皇次郎を見詰めながら、同じ姿勢のままでいる。皇次郎も何も言わずに黙っていた。丸い小さな置物のように見える老婆が口を開いた。
「お武家様、この妓、お客様を取るのは、これが初めて」
 初めて? 皇次郎にもこの言葉が何を意味するかが判った。
「お武家様、縁という言葉がありますが、この妓は…… でも初めてのお客がやくざ(もん)などでなくて良かった」
 老婆は黙った。妙な沈黙があった。
「では、お武家様……」
 老婆は腰をあげ、部屋から出て行った。千恵が部屋に入り、坐って襖障子を閉めた。身のこなしなどは稟としている。知恵は皇次郎の前に座り、また両手を付き頭を下げた。皇次郎は、どうすれば良いのか判らなかった。
「酒を呑むか」
「……」
「では、これは、どうじゃ」
 皇次郎は小鉢を前に出した。千恵は、ジッとしているだけ。どうすれば良いのだろうか。千恵が立ち上がった。見ていると千恵は着物を脱ぎだしている。皇次郎は、ウッと思ったが、何も言えないでいた。千恵は裸になり、そのまま立っていた。華奢だと思っていたが、そこには豊かな膨らみを持つ体があった。皇次郎は見つめた。千恵も皇次郎を見つめている。皇次郎の中で何かが動いた。
 皇次郎は、さっと立ち上がり、我武者羅(がむしゃら)に裸になった。

(71)





「優しいお方……」
「……」
「私、怖かった。でも、お婆から聞いた話とは違っていました。嬉しい」
「……」
「いつも祈っていました。幸せになりたいと……」
「幸せ? 今は、どう思っているのじゃ」
「……」
「い、いや良い。何も言わずとも良い」
 この時、皇次郎の頭の中には何もなかった。ただ、千恵の腹に手を置いているだけで良かった。
「お武家様、もうお会いにはなれませんよね」
「……」
「良いんです。私、本当に怖かった。家は、お取り潰し……私は売られた身。どうされても仕方ないと諦めていました。でも、優しいお方で良かった。このような思いは初めてです。嬉しい……」
 皇次郎は、もうこれ以上、千恵の話を聞きたくなかった。皇次郎は目を閉じたままでいた。二人は、そのままでいた。
 皇次郎が目を開けると、千恵の顔があった。千恵は目に涙を浮かべていた。皇次郎は思わず口走った。
「拙者も初めて……」
 しばしの沈黙があったが、千恵がニコッと笑った。

 部屋を出て玄関に立つと、お婆が居た。皇次郎は金を払った。
(おー)、ございます」

(72)





「判らん。これで良い」
「では遠慮なく。ところでお武家様、また千恵と……」
「お婆、何も言うな。拙者、此度のこと忘れんと思う」
 表に出る間際、皇次郎は振り返った。お婆が何か意味ありげな優しい目で見ていた。
 
 藩邸に戻った。
 文机を見ると書状が二通、置いてあった。差出人を見ると、二通とも父からだった。一通は、かなり分厚い。
 皇次郎は疲れていた。頭の中は今日の出来事で埋まっていた。読まなければならないが何故か書状を手に取ることが出来なかった。皇次郎は心静かな時に読みたかった。
 夜半、皇次郎は目を覚ました。
 ただ目を開けているだけだったが、気付くと天井の木目を見ていた。幾重にも連なる木目。年を経て生きていたという証しだ。大木であったのだろう、これだけの年輪を重ねている。柾目(まさめ)の中に波のような筋が混じっている。乱れた筋。この年に何かが起こったのだろうか。旱魃であろうか。それとも長雨。まさか、心の乱れであるまい。皇次郎は苦笑いをした。自分は、何を戯けたことを考えているのだ。木が悩む訳がなかろうに。
 沸々と千恵とのことが蘇ってくる。皇次郎は、今まであのような柔らかな時を経験したことはなかった。男と女。寝返りを打った。いかん、書状……。

 皇次郎は、行灯に火を燈し、薄い方の書状を手に取った。

(73)





 内なる裏切り、裏切り……。皇次郎は、愕然(がくぜん)とした。書状には、宗孝と繁佐衛門との遣り取りが認められていた。殿は、お忍びで父に会ったのか。それに先代は、何を言いたかったのか。眠気は一気に醒めたが、この書状だけでは何も判らない。分厚い方を開いた。
 父の業績は藩史により知っていた。だが、認められた内容の大部分、特に宗秀と中村家との戦さについては初めて知ることだった。何故、藩誌に載っていないのであろうか。このような由緒ある歴史が省かれることはない。高津藩の藩誌は、宗秀が関が原の戦さで手柄を挙げた時から始まっている。皇次郎は日記役であり、第一部から十一部まで総ての藩誌に目を通している。皇次郎は十二部以降を担当していた。今まで疑問などは抱かなかったが、考えてみればおかしな事である。開祖が宗秀である以上、宗秀の時代から藩誌が綴られるのは(もっと)もなことである。しかし、開祖の生い立ちから八万石の藩を興した経緯については綴られていない。藩誌は、国元にある。皇次郎は必死になり、藩誌を思い出した。第一部の装丁や汚れ具合、それ以降の装丁と汚れ具合。
 ――まさか改竄(かいざん)……
 何故、今まで気付かなかったのか。長い年月の間には装丁の仕方も変わるのが普通だ。余りにも似通った十一部。第一部の内容を削除したい者がいた。第一部だけを改竄することはできない。改竄したことが判ってしまう。十一部総てを一時期に改竄、書き直しをした。誰であるかは判らないが、改竄した者がいたことについて疑う余地はない。日記役は筆頭家老の管理下にある。

 この日一日、皇次郎は自分の部屋にいた。父の書状、そして添え

(74)





書きにあった内なる裏切り、裏切りとの言葉、頼母が田島に送った七重を宗孝の奥方にするとの密書。武家における嫁取りについての慎一郎との会話……。皇次郎の頭は回った。
 皇次郎は、これらの内容を強引に結び付けていった。すると、一つの筋書きが出来上がった。ひょっとすると、この筋書きは先代が書き残した、内なる裏切りと言えるかも知れない。書くべきか。いや憶測の域を脱していない。いま少し考えた方が良い。

 頼母は、部屋に妻と末娘の七重を呼んだ。
「七重を高津家に嫁がせる。以後、立ち居振る舞いに気を付けよ。良いな」
「貴方、では、七重を宗孝様の奥方に……」
「如何にも。今度が最後の機会になるかも知れぬ。しくじる事は許されぬ。この件、藩には口を挟む者はいない。それに形だけだが、七重を寺社奉行日川の養女にする」
「えっ、今更、養女ですか」
「まず問題はないと思うが、幕府が難癖を付けるやも知れん。家老の娘じゃからな。日川の屋敷に行くことはない。七重は此処におれば良い。だが、お前も七重の躾を厳しくせねばならん。後は、宗孝に言うのみじゃ」

 皇次郎は頭が痛くなるほど考えた。ふと気分を変えたくなり、藩邸を出た。
 夕暮れ時、西の空を見ると赤く染まっている。夕焼けに気付くとは何年振りであろうか。

(75)





 ――綺麗だ。
 夕焼けに気を取られながら歩いた。道を横切る男が皇次郎にぶつかった。
「やいやい、三ピン。何処に目ぇ付けてんだい。おー痛てぇ」
「何を言うか。歩く者を気にせずに道を横切るものではない」
「なにぃ、洒落た事を言うんじゃねぇよ。おいっ!」
 バタバタバターっと三人の男が走り寄ってきた。皇次郎は、四人に取り囲まれた。
 皇次郎の風体には、まだ浅葱者の空気が色濃く漂っていた。それにつけ込んだのであろう。男たちは、袖を肩までたくし上げ、着物の裾を持っている。
 道を歩く者たちは立ち止まり、大勢が眺めていた。
「やいやい、三ピン。長いものを差してるからって、いい気になってんじゃねぇよ。おー脇腹が痛てぇ。これじゃ仕事が出来ねぇぜ。どうしてくれるんだい」
「……」
「えっ! 治療代でも払ってもらおうか」
「なるほど、そう言うことであったのか。徒党を組むと言うが、まさにその通りじゃな。烏合の衆とも言うがな」
「なにを判らねぇ事を言ってんだい。どうするんだい。払うのか払わねぇのか」
「払う気など、全くない」
「面白れぇ。江戸もんを舐めるとどうなるか教えてやろうじゃねぇか。いいかい、こうなるんだぜっ!」
 一人が皇次郎の胸倉を掴もうとした。皇次郎は、ヒョイッと男の

(76)





腕を掴み、捩じ上げた。男は、たったこれだけでもんどり打ってひっくり返った。一瞬の出来事だった。
「ふざけやがってっ!」
 もう一人がドスを腹に構え突いてきた。皇次郎は、ほんのちょっと身をかわしただけだったが、男はツツツーと踏鞴(たたら)を踏んだ。振り返った男は、
「この野郎っ!」
と叫びながら勢いよく突いてきた。皇次郎は左手で手首を掴み、右手で胸倉を持って投げ飛ばした。皇次郎の手には、ドスが握られていた。
「覚えてろッ!」
 男たちは逃げようとした。
「おいっ! ドスは要らぬのかっ」
 皇次郎はドスを放り投げた。男はドスを拾い逃げて行った。
 荒んだ男たちもいる。皇次郎は江戸のもう一面を知った。実に気分の悪い出来事だ。歩き出したがイライラした気持ちは治まらなかった。足は梓に向かっていた。

「今度は、どんな頼みですか」
 瑞穂が皮肉っぽく言った。
「酒が呑みたくなった。良いか」
「お部屋は、皆ふさがっていますよ。あたしの部屋で良ければ」
「済まぬな」
 この部屋は居心地が良い。幾分、気持ちが治まったようだ。瑞穂が酒を持ってきた。

(77)





「あら、強張(こわば)った顔をして。どうしたんですか」
「いや、通りで詰まらん難癖を付けられてな。強請(ゆすり)じゃ。あー言う者もいるのかと思うと情けない気持ちになる」
「それもお江戸。ま、良い事も、悪い事も……。お江戸には何でもございますからねぇ」
「あれから琴音殿に会ったのか」
「ええ、会いましたよ」
「どうであった」
「気にしてたんですか。あたしたちは終わった事を何日までも気には留めません。琴音さんは、今までどおりの琴音さんに戻っていましたよ」
「そうか」
 先ほどの男たちとの件が、まだ頭に残っている。皇次郎は気持ちが高ぶっていた。だからであろうか、いつにも増して瑞穂が艶かしく見える。皇次郎が瑞穂の手を握った。瑞穂は手を振り払う様子もない。皇次郎は、瑞穂を引き寄せようとした。その途端、ピシャッと音がした。瑞穂の平手打ちだった。

「こんな事だろうと思ったよ。あんたも難癖を付けた男たちと同じじゃないか。情けないったらありゃしない。ちょっと優しくすれば頭に乗って。確かに口説いてごらんとは言ったけどね、こんな様子じゃ当分無理だね。どうするの、帰るのかい。それともお酒を呑むのかい」
 皇次郎は、明け透けに罵倒されると返って気が晴れてしまう。
「しかし、女将の平手打ちは凄いのう。目の前が真っ白になってし

(78)





まった。以後、気を付けねばならんな。見ろっ、血が出ておる」
 瑞穂は、そんな皇次郎をジーッと見ていた。
「あんた、どっかで女でも買ったんじゃないかい」
「……」
「男は一度経験すると女に対する態度が変わるからね。単純なもんだよ。そんなこと位で女が判った気になる。男と女は、体だけじゃないんだからね。多分、あんたは、女に惚れたことなんかないんだろう。琴音さんに対しても、そうだよ。惚れた男の女房捜しを手伝ってくれって、あんたはそう言ったんだ。あたしも馬鹿だった。琴音さんには悪いことをしてしまったよ」
 皇次郎は、聞いている以外になかった。
「何処で買ったのか知らないけど暮らしのために年季奉公しなくちゃならない女もいるんだよ。でもね、そういう女だって金だけじゃないんだ。ただの遊び道具だなんて考えているようだったらあんた大間違いだよ」
「女将、そのようにポンポン言うものではない。男にも辛い思いが残ることもある」
「……辛い思い……」
 皇次郎の口から思いもよらない言葉を……瑞穂は口を噤んだ。
 二人は、少しの間、静かなままでいた。
「さっ、お酒でしたよね」
 口の中が沁みたが、旨い酒だった。

 五ツ前に藩邸に戻った。廊下を歩いていると家人が声を掛けた。
「真島様、書状が……」

(79)





 受け取ると宗孝からの書状だった。何であろう。部屋に入り読んだ。

『繁佐衛門殿の書状、憶測でも構わん、述べよ』

 皇次郎が長い書状を書き終わった時には夜が明けていた。
 眠い目をしていると家人が来た。慎一郎が来ているという。こんな明け方に……

「おぬし、何という顔をしているのじゃ。それに左の頬が腫れておる。何かあったのか」
「余計なことを聞くな。何用だ、このように朝早くから」
「湯屋に寄って朝風呂でも思ってな。そのついでじゃ」

 定町廻り同心の朝風呂は、つとに有名であった。日がな一日、お江戸を歩き廻る同心には、朝風呂に入り、身をさっぱりとしてから廻り始める者が多かった。
 この時代には、男湯と女湯は分かれていた。江戸っ子は、やたらと風呂好きであり、熱い朝風呂に入るのを粋と気取った。これは男の見栄であるが男湯は朝から混んでいた。女たちは家のことで朝風呂などに入る余裕はない。自然、女湯には人が居ない。そこで、同心たちは女湯に入った。女湯の壁には刀賭けが用意されていた。

「どうしたのじゃ、機嫌が悪いな」
「寝ていないものでな」

(80)





「ほぉ、夜なべか。どうじゃ、拙者と朝風呂にでも行かぬか」
「いや、そうもいかん。ところで用件は何だ」
「いやなに、ちょっと気になってな。知り合いに大目付がおるので訊いてみたのだが、やはり諸法度は大名同士の縁組を禁じておる。だが、藩主が家老の娘を娶ったとしても幕府はとやかくは言わないらしい。あくまでも藩内の問題であり、幕府は預かり知らんとのことだ。事実、自藩の家老の娘を正室にした例は過去にもあったそうだ。皇次郎、変わった例としてな、面白い話を聞いたぞ。届け出をしないで正室を持ち、子供を産ませた大名がいた。愚かな事に幕府に嫡子誕生と知らせてしまった。明らかに諸法度に反する。幕府にとっては些細な事であり大した問題ではない。だがな、示しが付かん。どうなったと思う」
「まさか改易……」
「まさかではない」 
「……」
「おぬし、やたらと宗孝様の婚姻を気にしておるが何かあるのか。世継ぎは藩にとり大事なこと。だが宗孝様は、まだお若い。藩主になられたからといって、何も危急のことでもあるまいに。おぬしの頭には、この事しかないようじゃが……。急いては事を仕損じるとの言葉がある」
 皇次郎は、慎一郎に総てを話せなかった。自藩の問題である。
「まぁ良い。おぬしの人生じゃ。好きに遣れば良い」
「慎一郎……」
 慎一郎は、皇次郎の目を見た。
 ――この男、いずれは話してくれるだろう。

(81)





「おう、そう言えば、香苗がおぬしの事を気に掛けておる」
「香苗殿が?」
「おう、会ったら伝えてくれとな」
「何を?」
「夫婦になってこそ初めて人間。それに我々だけが幸せでは、皇次郎に申し訳ないとな」
「……」
「香苗の奴、偉そうなことを申したぞ。独り身とは、ケモノ虫の身ということらしい」
「けものむし? どういうことだ」
「独の字は、犭偏に虫と書く」
「……」
「香苗はけろっとした顔で、このような穿ったことを言う。可愛い奴よ」
 皇次郎は、何も言えなかった。
 
 慎一郎が帰った後、皇次郎は飛脚をたて、宗孝宛に認めた書状を託した。


     (十)

「殿、如何か」
 頼母が宗孝と話している。
「……」

(82)





「高津藩七万の民をお考え下され。先代は思いもよらず早くにご逝去された。この頼母も、いつ何時、寿命が尽きるかは判りませぬ。殿は身体堅固。その様なことはないと信じておりまするが、お家断絶、お取り潰しは藩民をも苦しめまする。殿っ!」
「世継ぎは作らねばならんと思っておる。中村、余には余の考えがある。しばし待て。だが、おぬしの娘でなければならぬ訳でもあるのか」
「いえ、そのような……。中村家は、ご開祖様よりお使えする身。これからも幾久しくと思っております。たまたま末娘は体も丈夫。逞しいお世継ぎが生まれます。頼母、それのみを願っている次第でございます」
「そうか。覚えておこう」
 部屋を辞した頼母は苛立ちを覚えた。小癪な。藩主とは言え、まだ若造。言う通りにすれば良いのじゃ。逆らいおって。ふっと、先代の件が蘇った。繁佐衛門が何か……
 
 繁佐衛門の屋敷に亀井が来た。脇本を伴っている。
「真島殿、ご家老の伝言でござる」
「何でござるかな」
 話は、こうであった。
 今、高津藩にとり世継ぎを持つことが大事。江戸に好きな女子が居るのかどうかは判らんが、そのような話は聞いていない。藩にて話し合いを持ったが、正室候補は我が娘以外にいないとなった。先般、殿に会ったが何を話したのか。まさか、詰らん入れ知恵をしたのではないだろうな。隠居の身、藩に対し余計なことをするもので

(83)





はない。大人しくせよ。

 繁佐衛門は、先日、城にて頼母と話したことを思い起こした。
 ――狸め。
「どのような伝言かと思えば埒もない。ご家老が言われるように、拙者は隠居の身でござる。殿へのご機嫌伺いに対し、そのような憶測をするとは……。拙者にとり全くもって理解に苦しむ内容でござる。亀井殿、おぬしもご家老と同じことをお考えか」
「……」
「先ほどの話、拙者にとり誹謗とも言える内容でござる。ご家老にお伝え願いたい。全くの戯言とな。亀井殿、この様な子供の使いとも言える仕事、遣っていて楽しいか」
「な、何ーっ!」
 亀井は右脇の刀に手を掛け、左手に持ち替えて右膝を立てた。
「亀井様っ!」
 亀井を押し止めたのは、脇本だった。
 
 宗孝は、久し振りに遠乗りに出た。馬廻り二人を伴っている。
 神無川の土手、高津の平野、山裾……。汗が心地良い。裾野は全体としてはの傾斜は緩やかであるが起伏は激しい。馬を操り駆け回るのは難しい。だが、それが返って面白い。宗孝は、皇次郎と馳せた頃を懐かみながら駆け回った。供の二人は、木立に見え隠れする宗孝を必死で追った。ふっと宗孝が見えなくなった。二人は、ギョッとして顔を見合わせた。
「急げっ!」

(84)





 見れば馬が倒れている。獣の巣穴にでも足を取られたのであろうか、前足が折れている。宗孝を探した。宗孝は十間ほど先に倒れていた。気を失っている。不自然な腕の具合。左腕が折れ曲がっていた。
「殿っ!」
 二人が絶叫した。

 頼母は、この事故を江戸には知らせなかった。
 頭を打ったのであろうか、宗孝の意識は定かではなかった。それに左腕は脱臼していた。宗孝は、ただ眠っていた。
 翌日、頼母が宗孝の部屋に来た。
「殿、お見舞い申し上げます。展医によればお命に別状はないとのこと。頼母、ホッといたしました。もしもの事がと思い、生きた心地もいたしませんでした。殿、先日、申し上げた件、この様な事がありますと急がねばと思いまする」
 宗孝の意識は朦朧としていた。
「殿、ご決断を」
 誰の声かは判らない。頭の中で声が響き渡っている。頭が割れるように痛い。
「宜しいでしょうか、殿」
 宗孝は、頭を動かした。
「御意」
 宗孝は、何が起こったのか意識していなかった。 

 頼母の動きは早かった。まず、幕府に婚姻の願い出をした。寺社

(85)





奉行日川の娘を高津藩主の嫁とする。
 併せて田島にも書状を送った。幕府も宗徳の突然の死や、独り身である宗孝の藩主就任に関し注視していた。許可はすぐに下りた。受けたのは江戸家老の田島だった。
 田島は早飛脚を立てた。書状を受け取った頼母は、藩内に宗孝結婚のお触れを出した。田島は江戸藩邸の者たちを集め、この事を知らせた。その中に皇次郎もいた。
 皇次郎は訝った。宗孝には、自分の考えを認めた書状を送っている。だが何の連絡もない。宗孝は、頼母の末娘との結婚を受けた。藩では何があったのだろうか。皇次郎は見当も付かなかった。

 宗孝の意識は程なく回復したが、まだ朦朧としていた。左腕の自由は利かない。
 横になっていると茶坊主が来た。
「お殿様、奥方様がお待ちです」
 ――奥方? こやつ何を言っているのだ。
 茶坊主は、頭を下げたままだ。
 宗孝は、必死になり記憶を辿った。意識が戻ったのは二日前。遠乗り、落馬……。その間の記憶は定かではなかった。茶坊主が言った。
「お殿様」
 宗孝は立ち上り、ふらつくまま茶坊主と共に中奥に歩いた。
 茶坊主が障子を開けると、そこには三人の女が平伏していた。宗孝は部屋に入った。真ん中に平伏する女が顔を上げた。宗孝は、女の顔を見た。女は、何の感情も表さない冷たい眼差しを向けた。

(86)





「七重にございます。幾久しゅう、宜しくお願いいたします」
 ――七重? 頼母の末娘か。自分は、この女を娶ったのか。
 七重が頭を下げた。
「……」
 左腕の痛みが増してきた。宗孝は、黙って部屋を出た。

 部屋に戻ると朦朧としていた頭がすっきりしてきた。それと同時に頭の中が凄まじい勢いで動いた。総てを悟った後、宗孝はガクッと頭を垂れた。力なく頭を上げると、文机の書状に気付いた。見れば皇次郎からの分厚い書状。宗孝は飛びつくように書状を開き、読んだ。

 ――皇次郎…… 済まぬ。 

 頼母の部屋に亀井が居た。
「亀井、世継ぎが生まれれば総て上手く行く。いずれ、おぬしを家老に取り立てる。ところであの爺い。目障りだな」
「御意」


     (十一)

 宗孝の結婚を聞いてから二ヶ月ほどが経った。皇次郎は、部屋に篭る毎日が続いた。何もする気が起きない。空しさが募ってくる。 表に出た。皇次郎の足は梓ではなく、黄目不動へと向いていた。

(87)





 周りの賑やかさは目に入らなかった。朝早くに藩邸を出たが、既に陽は真上にあった。真夏の太陽が眩しかった。

 お婆が優しく声を掛けた。
「お武家様、やはりお越しくださいましたね。さぁさぁ、千恵は綺麗なままですよ」
 部屋に座り、団扇で風を送っていると千恵が入ってきた。
「千恵です」
「……」
 皇次郎は、動かなかった。
「お武家様、どうなさったのですか」
 皇次郎と千恵が目を合わせた。
「まぁ、目が真っ赤……」
 二人は、そのまま静かに座っていた。皇次郎は、千恵の所に来て良かったと思った。気持ちは安らいでいった。

 藩邸内が騒がしい。皇次郎は何事かと部屋を出た。廊下を急ぐ家人に訊いた。国元で思わぬ事が起こっていた。亀井が何者かに斬られたと言う。話はこれだけではなかった。脇本が出奔(しゅっぽん)したという。何があったのだ。皇次郎が部屋に戻ると、家人が駆け込んできた。
「真島様、早飛脚です。それも二通……」
 急ぎ書状を見た。一通は父から、もう一通は、何と脇本から。皇次郎は逸る気持ちを抑えて封を開けた。

 繁佐衛門からの書状には、夜半、歩いていると何者かに後を付け

(88)





られた。振り返ると男が斬り掛けてきた。思わず、その場にへたり込んでしまった。男が刀を振りかざした。その時、近くで男の声がした。
「余りにも卑怯。許せん!」
 気付くと男が斬り倒されていた。男を見ると亀井だった。急ぎ奉行所に知らせた。斬った者の顔は見ていなかった。誰が斬ったのかは判らん。皇次郎、このままでは高津藩が危ない。

 震える手で脇本の書状を開いた。ただ一行、
『先般の返礼。亀井を成敗。卑怯なり筆頭家老』
とあった。
 戻らなくては……。だが、宗孝からは何の指示もない。


     (十二)

 大目付と町奉行の捜査にも関わらず、誰が亀井を斬ったのかは判らなかった。また亀井が何故に繁佐衛門を襲ったかについては、さほどの調べもなく有耶無耶にされた。繁佐衛門は敢えて詳しく調べるようにと訴えなかった。所詮、頼母らの仕業であろうと思っていた。
 宗孝も部屋に篭る日が多くなっていた。それは迂闊にも進んでしまった七重との結婚や亀井の死、脇本の出奔など頭を悩ませることが続いたためであった。
 落馬がなければ、このようになる前に皇次郎からの書状を読むこ

(89)





とができた。何よりも悔やまれるのは落馬であった。悔やんでも時を(さかのぼ)ることはできない。これは当たり前のことと判ってはいるが、自分の不甲斐なさに忸怩たる思いでいた。
 皇次郎の推測通り、内なる裏切りが進んでいるのであろうか。
 自分は七重を娶ったことになっている。だが、七重と顔を合わせたのは一度だけである。まだ決定的な事態には至ってはいない。

 部屋の外で声がした。
「殿、宜しいか」
 声は、城代家老川嶋であった。
「構わん」
 川嶋が典医を従えて入ってきた。
「殿、おめでとうございます。奥方がご懐妊されました。ご嫡男であればと願う次第でございます」  
 ――懐妊? そのような事、起こるはずがない。
 呆然とする宗孝をそのままに、二人は退出した。
 宗孝は、筆を取った。

 皇次郎に早飛脚が届いた。火急の件あり。大至急、帰藩せよ。

 皇次郎は、笹谷に帰藩すると伝え、身支度を整えた。馬は二頭。一頭の手綱を右手に掴み、江戸の町を駆け抜けた。昼夜を通し駆ければ二日ほどで帰藩できるはず。皇次郎は、凄まじい土埃を上げ、疾走した。馬が泡を吹いた。皇次郎は、もう一頭に乗り換えた。
 城に着いたのは、二日目の深夜であった。

(90)





「ご開門っ! 藩主側用人、真島皇次郎、上意により帰藩っ! 開門せよっ!」
 皇次郎の体は泥だらけであった。暑い中、馬を飛ばした。汗に塗れた顔には容赦なく土埃が舞った。顔は真っ黒。土埃が入った目からは涙が流れている。まさに泥だらけの様相。皇次郎は、このままの姿で急ぎ本丸に向かった。

「殿っ! 皇次郎めにございます」
 襖が開いた。宗孝は、寝衣ではなく袴姿であった。
「皇次郎、入れ」

 二人は、明け方近くまで話し込んだ。
 
 家老職が登城するのは明四ツ。それまでに皇次郎は身なりを整えた。まる三日、眠っていない。それに、あれほど馬に乗り続けたことはなかった。体中が痛く、腰を伸ばすのが辛い。腰を屈め、まるで年寄りのような格好で歩いた。

 城代川嶋公靖、筆頭家老中村頼母、それに七重が大広間にいた。 宗孝の右前には皇次郎が、その横には大目付瀬川賢吾(せがわけんご)が座っていた。

「七重、誰の子供じゃ。申してみよ」
「……」
 川嶋が目を白黒させて呟いた。

(91)





「誰の子…… 殿のお子では……」
「中村、おぬしはこの事、知った上であったのか」
「……」
 皇次郎は、三人の前に宗徳が残した書状を置いた。
「川嶋、読んでくれ」
 川嶋は何が始まろうとしているのか判からなかった。震える手で書状を持った。川嶋の顔付きが変わった。
「と、殿、これは……」
「先代が書き残されたものじゃ。中村に読んで聞かせてくれ」
「う、内なる裏切り、裏切り……」
 頼母の顔が醜く歪んでいった。

「中村、高津家が中村家を滅ぼしたのは遠い昔の話だ。強いものが勝つ。この事は戦国の世の(なら)い。今の世、どう足掻(あが)こうが、この藩は中村藩にはならん。高津藩は高津藩じゃ。先代にも側女を勧めたそうだな。しかも、まだ年端もいかぬ七重だったとのこと。おぬし、それほどまでして高津藩主に中村の血を入れたかったのか。それだけではあるまい。藩名は高津でも良いが、己の血族を藩主にしたかったと願ったのではないか。もし先代が、おぬしの勧めに乗ったとしよう。男子が生まれれば、余は邪魔者であった。此度も同じじゃ。中村、どうやって余を消すつもりだったのじゃ。おぬしの企てを聞いてみたいものだ。余が居なくなれば、この藩を己の自由に出来る。まさか、そのように考えたのではあるまいな。余と七重のこと、おぬしは、余が一度位は夜を共にすると思ったのであろうが思惑が外れたな。だが、赤子に罪はない。赤子も不憫なものじゃ。

(92)





中村、赤子が女子だったらどうするつもりだったのだ」 
 頼母と七重は下を向いたままだった。川嶋は、ただ目を見開き、聞き入るのみだった。

「亀井の件…… 皇次郎、続けてくれ」
 皇次郎は、脇本の書状を持った。
「元家老の真島繁佐衛門が襲われた。襲ったのは亀井。この事、繁佐衛門は、しっかと亀井の顔を見ておったゆえ、間違えはない。だが、亀井は何者かに斬られた。此処にあるは出奔した脇本飛馬からの書状である」
 皇次郎は脇本からの書状を広げ、大きな声で読み上げた。
「亀井を成敗。卑怯なり筆頭家老。この書状によれば、亀井を斬ったのは脇本。中村殿、ここに、卑怯なり筆頭家老とあるが、これについて釈明願いたい。さらに、先般、脇本を使い、江戸家老田島殿へ送りし密書。奥方として、我が末娘、七重を推すことに決めた。そちも心して事にあたれとの内容。これについてもご説明願いたい。密書の存在については拙者が目を通したゆえ間違えはござらん。此度の件、田島殿も加担せしは確実。中村殿、如何かっ!」

 しばしの沈黙があった。頼母が静かに顔を上げた。そして腰に差した脇差を取り、前に置いた。そのまま宗孝をじーっと睨んだ。顔付きは元に戻っていた。

「殿、いや卑劣なる宗秀の血を受け継ぎし末裔、宗孝。強い者が勝つのが世の倣いだと。若造が何を判ったようなことを。我が頼義様

(93)





は優れた武将であった。宗秀ごときに敗れるお方ではなかった。だが、運悪く病に罹られた。宗秀め、卑怯にも此処ぞとばかりに攻め入った。良いか、武士道とは正義。敵に塩を送りし武将もいた。これぞ武士。宗秀め、相手が病んだのを幸いと、弱みに付け込み攻め入った。何たる仕業か。宗秀ごときは武士の風上にも置けん輩だ。卑劣なる宗秀の血は、おぬしの中にも流れておる。高津藩だと。馬鹿を言うものではない。真っ当な勝負をしておれば中村家が勝っておった。さすれば、この地は中村家のもの。中村の血を受け継ぎし者が藩主にならなくてはならんのじゃ」
「頼母、もしもとの言葉に意味があると思っておるのか。時を遡ることは出来んがなー」
「……小癪な。おぬしごとき若造から、その様なこと、聞きとうないわ」
「で」
「おぬしの父親、宗徳も宗徳じゃ。あ奴め、愛する女しか抱けんと申しおったわ。何が愛する女じゃ。女を孕ませるに何がいる。愛だなどと片腹痛いわ。女はただ男に抱かれ、世継ぎを産めば良いのじゃ。高津家の男は男ではない。おぬしも同じじゃ。男ではないわ」
「おぬしは、そのようにして妻を抱き、七重を産んだのか。男と女とは、そのようなものなのか」
「……」
「七重のことは良く判らんが、身篭っておる。これは、おぬしの考えなのか、七重の考えなのかは判らん。だが、七重の中には、一つの命があることは事実。おぬしも命を持っておろう。自分の命が大切ではないか」

(94)





「……」
「七重の腹の中にいる赤子の命も、おぬしの命と同じで大切なものじゃ。時が来れば赤子は生まれ出る。おぬしが持つ高津への恨みを何も判らぬ赤子に押し付けるつもりだったのか。世の中は動いておる。藩主になどなりたくなかった者が藩主になる。だがな、これが流れじゃ。己の意思とは異なる流れもある。良いではないか、その流れに身を任せても。その流れの中で精一杯生きるのが人間じゃ」
「……」
「亀井は、おぬしの妄想の中で死んだ」
「……」
「余は、この藩を喜び豊かな土地としたいと思っておる。頼母、いい加減に昔のことは忘れろ。此度の件はともかく、今まで藩に尽くしてきたではないか。昔の事に囚われることこそ惨め」
「……」

 頼母は宗孝を睨んだまま脇差を持った。そして、静かに抜いた。
不思議な光景であった。誰も頼母を止める者はいなかった。頼母が宗孝を刺すとは考えないのか。
 両手で脇差を握った頼母は、己の胸を突いた。七重は平伏したままだった。

 江戸家老田島薫宛に、大目付からの書状が届いた。直ちに謹慎せよ。沙汰は、追って下す。田島は驚いた。だが、全く訳が判らなかった。

(95)





 宗孝は、この件に関して急ぎ沙汰を下さなければならなかった。
宗孝の命により繁佐衛門が城に呼ばれた。宗孝、瀬川、繁佐衛門、そして皇次郎による評議が開かれた。川嶋からは、お役ご免の隠居願いが申し出されていた。宗孝は、これを受けていた。
 中村家と田島家に関する評議は、すんなりと進んだが、七重の処置を巡っては、宗孝と瀬川の意見が分かれた。瀬川は、大目付の立場から、七重が藩主を謀った罪は重いと死罪を主張した。宗孝は赤子が忍びないと言い張った。
 評議において、皆の意見を取りまとめたのは繁佐衛門であった。

 宗孝の沙汰が下った。
 頼母は、急な病で死亡。中村家は嫡子届け出を怠ったためお家取り潰し、家禄没収。田島は、お役目怠慢との理由にて、お家取り潰し家禄没収。七重は乱心のため離縁。川嶋家預かり。

 藩政の中枢を担う役職である城代家老と筆頭家老、それに江戸家老の席が空いた。藩政に穴を開けることはできない。これも急ぎ決める必要があったが宗孝は評議を持たなかった。

 翌日、皇次郎と繁佐衛門が宗孝に呼ばれた。
「城代家老は置かんことにした。城代の下にいる手廻り、馬廻りの者たちは筆頭家老が見ることとする。その他の奉行所、役所は当分の間、今のままとしたい。奉行たちも替えるつもりはない。そこでじゃ。繁佐衛門、おぬし、余の下では働くのは厭なようだが、これは本心なのか」

(96)





 これを聞いた繁佐衛門。目を剥いて片膝を進めた。
「えっ! な、何と! と、殿っ! そ、そのような。拙者、そのような事、口にしたことは一切ござらん」
 こう言った後、元の姿勢に戻り、声太に話し出した。
「たとえ我が藩主とはいえども、余りにも失礼な言い様でござる。拙者、腹を掻っ捌く覚悟で申し上げます。即刻、お取り消しくだされ」
 たとえどうであれ藩主が言った言葉を取り消せなどとは言ってはならないことである。宗孝も冗談が過ぎた。
「言い方が拙かったようだ。言い換えよう、繁佐衛門、おぬしは余の下で働きたいと思ったことはあるのか」
「ぎょ、御意」
「そうか、それは良かった。では、筆頭家老を遣ってくれ」
「はっ?」
「余と共に働きたいのであろう。良いな。家禄だが……気に喰わぬかも知れぬが、中村家から没収した分とする。だが、真島本家は、皇次郎が継いでおるゆえ、おぬしの方は繁佐衛門一代の分家じゃ。本家よりも分家の方が家禄が高いのも妙なものだが、一々割り振りを考えるのも面倒だ。ま、これで良いだろう」
「……」
「良いな」
「殿、恐れながらお訊きしとうございます。このこと、既にお決めになったのでしょうか。それとも身共に対する問い掛けでございましょうか」
「決めた」

(97)





 繁佐衛門は打診であれば、一言句、言いたいことはあった。何しろ一度は、お役ご免を願い出たことがあるのだ。だが藩主は既に決めたと言う。
「殿のご命令とあらば、繁佐衛門、ありがたくお受けいたします。ところで……」
「何じゃ、構わぬ。言ってくれ」
「願いがございまする。まず、職禄(しょくろく)はご辞退いたします。次に、木材を基にした産業を興す件、ご許可を。また……出来ますれば、その任を私めに」
「何じゃ、遣る気満々ではないか。繁佐衛門、おぬしの好きにして良い。で、江戸家老じゃが……これは皇次郎とする。すでに家督を継いでおるし、良いな」
「は、はー」
「ところで早速だが、二人に新たな制度を考えてもらいたい。優秀であっても家禄が少ないがため、適した役に就けん者がおる。これは藩にとっても良くないこと。そのような者が存分に働ける藩にしたい。そうあってこそ、初めて高津藩の発展がある。藩の発展は、民の幸せにつながる。急ぎ考えてくれ」
「は、はー」
「言い忘れた。優秀な人材とは言え、当面は職禄にて報いるようにしてくれ。一気に家禄を上げるのも良いが、費えが増えたままで固定化してしまう。藩財政のことも考えなければな。それに、藩組織も見直したいのだが……。ま、これは、追々、考えれば良いな」
 皇次郎と繁佐衛門は顔を見合わせた。胸の内は同じであった。高津藩主は、中々遣りおるわ。

(98)





 何やら宗孝が、笑顔のまま顔をゆがめた。
「筆頭家老と江戸家老が真島家の者とはな。自らが決めたこととは言え、これからは気を付けねばならんな」
「はっ?」
 二人が同時に声をあげた。
「いや何、真島家親子による高津藩、乗っ取り……」
 キョトンとした二人。三人の大きな笑い声が響き渡った。

 皇次郎は、すでに江戸に思いを馳せていた。 

 繁佐衛門は筆頭家老として藩の役職変更を知らせた。併せて、城代の引退、筆頭家老の急死、江戸家老のお役目怠慢による取り潰しとの宗孝の沙汰内容を幕府に知らせた。これらは藩政に関わることであり、本来であれば幕府への報告は不要であるが、繁佐衛門は念には念を入れた。
 繁佐衛門は、次のように考えた。
 一つの藩で、これだけのことが同時に起こったが、幕府がとやかく口出しをする問題ではない。
 しかし、幕府は常に各藩の状況を独自に調べている。放っておけば詰らぬ憶測を生みかねないことでもあるし、幕府から此度の件に関し理由を述べよとのお達しを受けるかもしれない。こうなると危ないのだ。
 幕府は、些細な理由で大名の改易やら転封をすることがある。その決定が、たとえ理解に苦しむものであっても藩としては逆らうことは出来ない。

(99)





 繁佐衛門は状況を考えたが、宗孝は粗相をしていないし、藩主になったばかり。宗孝が責を負うことはないと思った。
 仮に幕府が頼母の裏切りを掴み、藩主のお役目怠慢として突いてきたとしても、そのことを見破り、解決したのは宗孝である。
 とにかく、何事も早め早めに知らせておいた方が良いのだ。


     (十三)
 
 川嶋家は、嫡男友靖(ともやす)が継いだ。友靖は寺社奉行所に勤めている。元々家老職の家柄であり家禄は多い方だ。だが、公靖が城代家老を引退した今、城代としての職禄はなくなるため、当然ながら家計は苦しくなってしまう。屋敷にいる総ての用人や家人たち家臣をこのまま雇い続けることは出来ない。

 友靖は、父の公靖に聞いた。
「父上、何故、お役ご免などと……。父上に非はなかったはず」
「世の中は移り変わる。城代は軍事面においてお役に立つのが勤めじゃ。藩主出征時には、藩主の替わりに藩を見る重要な役目だった。だが、すでに戦いなどはないし今後も起こりえない。これからは藩の内政に力を入れる時代じゃ。父は藩政について頼母や繁佐衛門に任せっきりであった。気付いた時には遅かった。二人は、優秀な家老じゃ。父が入り込む余地はなかった。それに友靖、あえて父の非を述べれば、頼母の裏切りに気付いていなかったことじゃ。余りにも安穏としておった」

(100)





「……」
「頼母の裏切りについては、繁佐衛門も気付いていなかったはず。気付いていれば閑を願ったりせんからな。繁佐衛門が閑を申し出たのは、頼母との確執に嫌気が差したためじゃろう。友靖、殿が先代の書状を知った時にな、打ち明けたのは城代の私ではなく、隠居した繁佐衛門であった。繁佐衛門は、私利私欲を求めず藩に尽くした男だ。此度のような事件が起きなければ、繁佐衛門は、このまま隠居で終ったかも知れんが…… ま、これからはそうもいかんだろう。
此度の件が明らかになった時、父は、このままでは老醜を晒すだけだと思った。退いた方が良い。友靖、これでも父は潔さを貫いたつもりじゃ。これからはお前が川嶋家を見る。川嶋家は家老の家柄。殿に、そして藩に尽くせ。己が何を遣れば良いかを常に考えろ。さすれば、いずれまた家老職を任されるようになる。父のようにはなるな。良いな」
「父上……」

 友靖は用人や足軽などの下級武士に閑を言い渡さなければならなかった。友靖は悩んだ。

「ご家老、如何でございましょう」
「ご苦労なことでござるな。心中、お察しいたす。実はな友靖殿、拙者、筆頭家老になったは良いが、家臣がおらんのですわ。隠居を願い出た時に閑を出しましてな。閑を出すのは容易いことだが、放っぽり出す訳にもいきませんからな。奉行殿たちに雇ってくれるようお願いしましたよ。公靖殿にも何人か雇っていただいた。そんな

(101)





こんなで、今、困っておったところでしてな。ちょうど良い機会でござった。もしも、我が方で働きたいと申す者がおれば願ってもないこと。如何か」
「ありがたきお言葉、誠に忝く存じます。しかし……」
「構いません。何でも聞いてくだされ」
「真島様のご家老職は、一代限りと聞き及びましたが」
「如何にも。拙者は成り行き上、筆頭家老になった。だがな、友靖殿、父親とは子供に期待するものなのじゃ。此処だけの話だが、いずれは皇次郎に筆頭家老を遣ってもらいのじゃ。そうなった時の話ではあるが、拙者がお役を退いたとしても、貴殿の家臣たちが路頭に迷うことはない。皇次郎が見るようになる。皇次郎は、側用人から江戸家老になった。江戸家老の家臣は少ない。仮に筆頭家老になったとしても家臣が足らん。ところで、友康殿、この事は皇次郎に言ってなりませんぞ。本人には、筆頭家老の、ひの字も言っておらん。好きなように遣れと言ってある。念を押しますが、この話、皇次郎には内緒でござるぞ。公靖殿にも……いやいや、他言無用と言うこと。宜しいですな」
「……」
 堅苦しい表情で聞いていた友靖の顔が緩んだ。そして二人して笑った。
「公靖殿も同じ思いのはず。いや、これは余計なお世話であった」
「良きお話し。意を決し、ご相談いたしましたが心が晴れ申した。これからもご指導いただければと存じます」
「皆、高津藩の家臣。藩をより良く、そして己をより良くしたいものですな」

(102)





 仕事とは言え、大目付瀬川賢吾には、気の進まぬ仕事が残っていた。此度の件は藩にとり稀有な出来事である。沙汰は下ったが、詳しく調べておかなければならない。しかし、頼母が死んだ今となっては、川嶋家預かりの身である七重と母親に聞く以外にない。田島は頼母に利用されていただけであり、詳細を知ってはいなかった。まさにお役目怠慢であった。

 瀬川は、部下に任せずに総てを自分で調べることにした。後始末であるが、筆頭家老に裏切りがあったなどと藩内部にも漏れてはいけないことである。ましてや、他藩にでも漏れようものなら藩に傷が付くことになる。
 七重は、表向きには乱心による離縁であり、中村家が取り潰されため川嶋家に預けられたことになっている。だが、実際のところは謹慎処分であった。従って、瀬川が川嶋家に赴き、事情を聴取せざるを得ないことになる。

 七重を預かることになった川嶋友靖だが、乱心と聞いているため何かと心を配った。友靖は屋敷に送られてきた七重を見た。虚ろな表情ではあるが、どうも乱心とは思えなかった。一言も口を聞かないところを見ると、気の病ではないかと思った。どのような事が原因であったのかは、知る由もないが可哀想な女子だと思った。
 川嶋家に座敷牢はなかった。そこで友靖は庭にある離れ家を座敷牢に充てて母娘を住まわせた。また、温厚な家臣を二人選び、離れ家の見張り役とした。食事などもこの家臣が運んだ。

(103)





「瀬川様、ご苦労様です」
「友靖殿、お手間を取らせます」
「ところで、お調べの間ですが、見張りは不要と家臣に伝えておりますが」
「忝い。ご配慮、ありがたく存じます。しかし……気の重い仕事」

 この日、瀬川が何を訊いても、二人は全く口を開かなかった。同じ毎日が続いた。

 瀬川は、苛立つ気持ちを抑えられなくなっていた。五日ほど経ったであろうか、瀬川は大目付として話してはならないことを口にしてしまった。それは藩主との評議内容であった。
「拙者は大目付。おぬしらも知ってのとおり、武家の諸法度や規律を守るが役目。不正があれば取り締まる。此度の件、評議の場にて拙者は大目付として、おぬしの死罪を主張した。藩主を謀ったのだからな。これは重罪じゃ。だが……七重、例の席でおぬしも聞いたであろう、殿が言われた赤子が不憫とのお言葉を。殿は、評議の場でも同じことを言われた。考えてみれば確かに赤子には罪がない。おぬしへの死罪とは、併せて赤子を殺すことにも繋がる。これは流石に惨いことじゃ。拙者も、殿の仰せの通りと思った。それに川嶋家預かりは、殿がお決めになった」

 二人の表情が変わっていった。七重が口を開き小さな声で言った。
「宗孝様が……」

(104)





 しばし、沈黙が続いたが、七重が語り始めた。

 頼母は、七重が物心付いた頃より宗秀と頼義の戦さについて話した。そして中村家のことを話した。高津家は、武士の風上にも置けぬ卑劣な輩ばかり。今、高津がこの藩を治めているが、これは間違っている。正しくは中村家が治めるべきである。
 七重は、このような環境の中で育った。父親の言うことであり、七重は信じた。そして、いつの日か、自分は藩主を生むと思っていた。だが、頼母の一言が七重を変えてしまった。
「七重を宗徳の側女にでもすれば何とかなる」
 七重は驚いた。筆頭家老の娘である自分が側女に。しかも、これは父親の言葉。この私を、遥かに年上である宗徳の側女にしようとしている……。これを聞いた七重は、感情を表さない冷たい女になっていった。そして自分の人生など、どうなっても良いと思った。父親は、自分をただの道具と考えている。誰に対しても、情けなど感じない女に変わっていった。自分でもこの変化に気付いていた。家臣たちは口を利こうとも、目を合わせようともしなくなった。命令は聞く。だが、それだけであった。七重はそれでも構わないと思ったが、気持ちは荒んでいった。次第に刺激を求め出した。忍びで遊んだこともある。金を払えば、男は寄ってきた。男を知ったのも金であった。 
 宗孝が藩主になった。頼母が奥方の話をした。自分は正室になれるかも知れない。七重は、一筋の光を見た。しかし、今までを振り返ると、男たちは、皆、自分を避けた。宗孝は愛してくれないと思った。子供の頃より聞かされていた言葉が甦ってきた。高津家の男

(105)





は、中村家にとっては敵。敵になど愛されなくとも良い。嫡子を産めば、総ては上手くいく。
 不安があった。宗孝が抱いてくれなかったらどうするのか。大名家には、形だけの結婚があると聞いたこともある。
 七重と母親は話し合った。宗孝も男、一度や二度は……。だが、確信は持てなかった。そこで、何人かの男に金を払った。宗孝の子供でなくとも良い。身篭れば何とかなる。たとえ一度でも抱いてくれたとすれば、宗孝の子と言えば良い。もし、抱いてくれなかったとしても、自分の妻が他の男の子供を宿したなど、自分の恥であり人には言えぬもの。二人は、この事を頼母には話さなかった。

「そうであったのか……」
 瀬川は、まだ幼い自分の娘を頭に浮かべた。無垢な心……だが、これからは綺麗なことだけでなく、汚れたことも見聞きしていく。親とは可愛がるだけではいけない。真っ当に育って欲しい……

「ところで、頼母とおぬしたち以外に、この事に関わった者はおるのか」
 母親が初めて口を開いた。
「いえ、おりませぬ。他の者たちは家臣でしかありません。藩の名前がどうあれ、我が血族が藩主になれば、この藩は中村家のもの。総ては中村家の問題でございました」
「相判った。よもや他言はせぬと思うが……」
「ご安心くださいませ。この件、今となっては中村家の恥でござい

(106)





ます」
「そうか。当分は友靖殿の世話を受けてくれ。いずれ、殿に何らかの具申をしよう。ま、窮屈かもしれんが…… 良きお子をな」
「ありがとうございます。皆様には、何かとご迷惑をお掛けいたしました」
 二人は、静かに頭を下げた。

 翌朝、瀬川の屋敷に友靖の使いが来た。
「瀬川様っ! 急ぎ屋敷まで」
 使いの者は、真っ青な顔でゼーゼーと息をしている。
 ――しまったっ!
 瀬川は、川嶋の屋敷に急いだ。

「瀬川様、申し訳ないことを」
 友靖は、土下座した。
「友靖殿、貴殿が頭を下げることではない。頭を下げるは、拙者の方」
 瀬川は離れ家に急いだ。部屋の中を見た。そこには、向かい合った二人が互いの胸に懐刀を刺したまま座っていた。七重が母親を、母親が七重を……。
 ――綺麗だっ!
 瀬川は自分の感覚を疑った。何故、綺麗などと。
「瀬川様、書き置きがあります。この二人、このままでは……」
「寝かせてくだされ」
「お調べは?」

(107)





「不要じゃ。すでに赤子も……」
 
 何故、気付かなかったのか。いや、気付いたとしても武家の女から懐刀を取り上げることは出来ない。どうすれば良かったのか。
 瀬川は、語り終わった時の七重の爽やかな表情を思い出した。そして、七重を見守る母親を……。二人の顔が浮かんだ。瀬川は、考え込んでしまった。
 書き置きは、七重が書いたものだった。瀬川は読んだ。

『此処に至りて思う。人は皆、無垢な気持ちを持ちて生まれ出でたはず。我が身も然り。何も判らぬ澄んだ心が、周りの色に染まるは必然。さらに、染まりしことを、是として生きるは当然のこと。だが、異なる生き方を知り、己の考えが崩れし今、我に残ったものは何か。それは我が子か。しかし、我が子を思う時、この子が如何に真っ当な生き方を求めようとも、周りが見る目は別。乱心したる母より産まれ出でた子。我が身が招いたこととは言え、そのような中で育つこの子は、余りにも不憫。心打つ優しきお沙汰に、涙は流れども、如何ともし難き状況にあり。さらに罪を重ねるは非道とは思えども、誰に許しを請うか判らず。今、我が子と共に、この世を去る道を選ばざるを得ず』

 これを知った宗孝は、何も言わずに大天守に向かった。晴れた空を仰ぎ、つぶやいた。
 ――余りにも痛ましい。心までは推し測れなかった。果たして、これで良かったのだろうか……

(108)





 藩内では、城代の引退や筆頭家老、江戸家老のお家取り潰しについて、さらには奥方乱心について戸惑いの様子が出ていた。

 これを和やらげたのは、繁佐衛門であった。繁佐衛門は忙しかった。筆頭家老とは言え、国の家老は一人である。もう一人の家老である皇次郎は江戸。繁佐衛門は、各奉行と話しをした。奉行によって技量は違ったが、それを見極め、重要な案件であっても任せられる奉行には、それを託した。繁佐衛門は、こうして藩内を廻る時間を作った。

 藩民は、藩内を歩き廻る繁佐衛門に驚いた。筆頭家老が藩民の中に入り込み、気軽に話しをすることなど、今までなかったことである。繁佐衛門は、農民や商人、職人たちとよく話をした。
 特に、木材に関する新規産業については熱っぽく語った。農民たちは、繁佐衛門と共に神無川の治水工事をやったことがあり、繁佐衛門を自分たちの仲間と思っている。植林に協力したいと申し出る農民も多かった。繁佐衛門は、直ちに山奉行に話した。
 家具職人たちは顔を強張らせた。自分たちの腕では、他藩に自慢できる家具などは作れない。いや、技を身に付ければ何とかなる。熱心な話し合いが続いた。繁佐衛門は、拙者が手伝えることがあれば遠慮なく申せと伝えた。直ぐに要求があった。製材場が欲しい。 技を磨くために腕の良い職人を呼んで欲しい。修行に行かせてくれ。
 繁佐衛門は、郡奉行と共に高津藩の三郡を廻った。村々には緊張が走った。何かのお調べではないか。だが、繁佐衛門のにこやかな

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顔を見た。繁佐衛門は、顔を見せるだけで良かった。郡奉行も繁佐衛門に見習った。

 宗孝は、繁佐衛門の報告を聞き、余も廻りたいと言い出した。
「おぬしばかりが人気者になるのは、藩にとって問題じゃ。藩主はこの宗孝。歩き廻るぞ」
 宗孝は徒歩にてと言い張った。繁佐衛門は、せめて馬にてと説いた。宗孝は従ったが藩民が集ると下馬してしまう。警護の手廻りや馬廻の役人は、その度に神経を尖らせたが杞憂であった。見栄えが良いと言うことは何かと得なものである。宗孝の人気は上がっていった。
 皇次郎は瓦版などを集めた。今、江戸ではどのようなことが話題になっているかを藩に知らせるためだ。これらは町奉行の手で藩内の高札場(こうさつば)に貼られた。普段は、堅苦しいお達しが掲載される高札場である。藩民は喜んだ。おい、江戸っ子も俺たちと同じように馬鹿なことを遣っているなー。
 さらに、国にはない面白い風物も伝えた。高津藩で流行ったのは凧であった。特に、奴凧(やっこだこ)鳶凧(とんびだこ)は人気があった。普段から槍持ちの足軽、奴さんは人気者であったが威勢良く大空に上がる様子が気に入られたようだ。鳶は、元々人気のある鳥だった。


     (十四)

 新しい年を迎え、高津藩では、其処此処で和やかな祝いの挨拶廻

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りが行なわれていた。新年を喜び合う人々の間に、お世継ぎ誕生をを祝いたいですなとの話が出ていた。それに、宗孝がどのような奥方を娶るのか、家だけでなく藩民の間でも自分のことのように話されるようになっていた。

「皇次郎……いや、高津藩江戸家老殿か」
「慎一郎、おぬしもそのような事を気にする男なのか」
「当たり前じゃ。家老と言えば家禄も大きいのであろうな。こちらは子供もでき、家計は苦しくなると言うのに」
「ん! 子供。おぬし、出来たのかっ!」
「おう、香苗が喜んでおる」
「おぬしは、嬉しくないのか」
「嬉しい。だが、たったの三十俵二人扶持じゃ。内職を考えねばならん」
「内職か。(つま)しい話だ」
「人のことだと思いおって、言い難いことをしゃあしゃあと」
「だが、定廻りは同心にとり誇らしい役ではないのか」
「如何にも。だが実入りには関係せん」
「待て、大店などから懐に入ると聞いたことがあるが」
「おぬし、拙者が(まいない)を受け取っているとでも言うのか」
「怒るな。そう聞いたことがあると言っただけだ」
「まあ、たまにはな。そうでもしなければ遣っていけん。岡っ引きにも渡さねばならんしな。皇次郎、拙者、子供は嬉しいが先のことを考えると頭が痛いわ」
「どうも話を進める雰囲気ではないな。今日は、非番か」

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「いや、これから定廻りじゃ。叩けば埃の出る店も多い。突付いてみるか」
「おいおい、いい加減にした方が良いぞ。手が後ろに回る」
「冗談じゃ。ところで高津藩は、大変だったな」
「おぬしにも手伝ってもらった。礼を言う」
「宗孝様も良く頑張った」
「今、考えると辛い毎日だったと思うわ。だが、お世継ぎを考えねばならん」
「その話は、またじゃ。拙者、仕事をせねばならん。子供と香苗のためにもな」
「おうおう、幸せそうな顔をしおって。食い扶持など……。世の中とは何とかなるものよ」
「そうあって欲しいものだ」 

 時は弥生。宗孝の参勤までには、まだ三月(みつき)ほどある。皇次郎は、琴音のことが気になっていた。

 国元から皇次郎に、木材産業の報告が入るようになった。繁佐衛門は活躍しているようだ。高津の木材を取り寄せる職人や高津藩に招かれる職人など、江戸においても高津の話が出るようになっていた。江戸藩邸を訪ねる問屋や職人も多く、何やかやと忙しい。木材や家具などの任は、あの笹谷が担った。
 笹谷は、人が変わったように皇次郎との仕事を進めていた。聞けば、藩邸の者たちは、皇次郎を江戸藩邸の粗探し役と考えていたらしい。申し訳ございませんでしたと頭を下げた後の顔付きは、皆、

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明るかった。それに笹谷とは、すぐに打ち解けた。
 繁佐衛門は、先般の騒動の後始末を幕府に知らせていたが、これが功を奏した。
 皇次郎が登城することは滅多にないが、城に行く度に、大目付の和賀荘司(わがそうじ)が声を掛けてくれた。幕府要人でありながら気さくで言葉遣いも優しい男だった。

「真島殿、家老職にはお慣れになったかな」
「いえ、まだ不調法でして」
「若くして家老とは気を使うであろう。それに藩主もお若い。何でも構いませんよ。判らないことでもあれば聞いてくだされ。城では堅苦しいとお思いであれば、我が屋敷にでも来られれば良い」
「ありがたきお言葉。色々とお教えいただきたい事もございます」
「実はな真島殿、近頃の高津藩は以前にも増して活気が見られると聞きましてな。今は大目付を遣っておりますが、拙者も藩を持つ身。こちらこそ真島殿に何かとお聞きしたいと思っております」
「これはこれは、勿体ないお言葉。大目付様がそのように申されたと、早速、国に知らせたく思います。皆、喜びます」
「何、このような些細なことまで、お国に……。成る程」
「いやお恥ずかしい限り。和賀様は些細と申されましたが、このような事こそ喜びに繋がり、益々意気を感ずるものでございます」
「……」
「拙者、日記役でございました。こう見えましても筆まめでして、努めて記すことにしております。それらをまとめ藩に送っております。ところで…… 本当に、お邪魔しても宜しいのでしょうか」

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「何を遠慮などあろうものか。歓迎いたしますよ。酒でも遣りましょう」

 皇次郎は、宗孝の歌にあった心の支えは遥かな江戸にとの言葉が頭から離れなかった。これは琴音についての問い合わせに対する返事である。心の支えとは、琴音のこと。何とか成らんものか。余計なお節介であってはいけないし……。瑞穂を訪ねることにした。

「あら、ご家老様。まだ、明るいというのに、良くお越しくださいました」
「女将、茶化したような言い様、止めてくれ」
「お呑みになります」
「そうじゃな。手出しなどせんから安心しろ」
「まぁ、寂しいことを……」
 ふくよかな後姿を見ると、やはり心は動く。一度で良いから……いや触るだけでも、などと不埒な考えが浮かんでしまう。
「さっ、どうぞ」
 二人は杯を交わした。普段にも増して瑞穂の杯は多かった。瑞穂は酔ったのであろうか、目も潤み、体を横に崩している。何とも言えぬ艶気を放つ姿に目が眩む。皇次郎を見る潤んだ眼差しには、心を(とろ)けさせるようなものがあった。
 皇次郎は動きそうな気持ちを抑え、切り出した。
「女将、琴音殿が宗孝様を好いていることは判っているが、どうなのであろう」
「あら、お越しいただいたのは、琴音さんのことでしたの」

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 瑞穂は、何やら気を落としたようだった。
「どうと申されましても……。真島様っ、貴方まさか……。いえ、まさかねぇ。そんな事……」
 瑞穂は、一人で話し、一人で納得している。
「無理かのう」
 皇次郎は宗孝の歌を口ずさんだ。それを聞いた瑞穂が言った。
「心の支えですか……。男と女、身分は違ってもねぇ……。それに色恋だけではありませんからねぇ、男と女は」
「拙者、ちと動いてみようと思っておるが、どう思う。余計なことであろうか」
「ふふふ。その様なことを……。私は聞いた事はありませんが……でも、お遣んなさい。そうですよ。世の中なんて、どうなるか判りませんものねぇ。お遣んなさい」
「そうか。拙者、勇気が出てきた感じだ。女将、礼を言う」
 皇次郎は立ち上がって部屋を出ようとした。瑞穂が慌てて皇次郎の袖を掴んだ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいな」
 皇次郎は振り返り、その場に座った。
「もう一つの勇気は、どうなさったんですか。私も女……」
「……」
「本気で口説いては……」
「女将、おぬしのような女は見たことがない。疼きっぱなしだ。抱きたい。今すぐにでも抱きたい。だが……」
 瑞穂の顔付きが曇った。
「……心に残る……辛い思いですか」

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「どうしても、頭から離れんのだ」
「……」
「……」
「ふふふ、良いお方。貴方様は、本当に良いお方。瑞穂は大丈夫」
 皇次郎が帰った後、瑞穂は箱火鉢に肘を付け、頭を手に置いた。そして、静かに泣いた。

 皇次郎は悩み抜いた末、大目付の和賀を訪ねることにした。

「真島殿、良くもお話しくださった。実はな貞吉、いや琴音じゃ。拙者も琴音を知っておる。まさに粋で気風の良い女子。身持ちも良い。そうであったか、宗孝殿がのう。いや、良い話じゃ。ところで宗孝殿は、何日、江戸に」
「水無月でござる」
「まだ、間がありますな」

 二十日ほどが経った。皇次郎に和賀からの使いが来た。明後日、拙宅にお越しくだされ。
 皇次郎は和賀を訪ねた。用人が部屋へと案内してくれた。廊下に座り声を掛けた。
「ご免、真島にございます」
「おう、お入りくだされ」
 皇次郎は障子に近付き、開けた。そして部屋を覗いた。
 ――な、何とっ!
 このような驚きは初めてであった。和賀の横に、にこやかに微笑

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む琴音がいた。
「さ、お入りなさい。真島殿、娘を紹介しよう。これが我が娘、琴音じゃ。不束者(ふつつかもの)じゃが宜しくな」
 皇次郎は、開いた口を閉じることができないでいた。
「真島様、琴音にございます。お噂は父より伺っております。宜しくお願いいたします」
「せ、拙者の方こそ、宜しく願いたい」
 皇次郎は、深々と頭を下げた。急に和賀が笑い出した。
「真島殿、芝居は、もう良い。さっ、こちらに」
 琴音が席を立った。
「真島殿、これで良いのかな。如何じゃ」
「和賀様……」
 和賀は宗孝と琴音のことを知り、琴音を養女として迎えていた。

 琴音は既に年季も明け、自前で芸妓を遣っていた。芸達者であることや気風の良さが評判になり、奉公中から多くの声が掛かった。置屋や茶屋の実入りも良かったため、女将たちも琴音を大切にしていた。旦那になりたいとの話も多かったが、琴音が心を許せる客はいなかった。女将は、芸妓が惚れてもいない客との仲人はしない。芸妓と旦那が、互いに惚れ合っていればこそ仲人をするのだ。琴音が和賀の養女になるのに、何ら(はばか)ることはなかった。

 皇次郎は言葉を出せなかった。気付くと涙が頬を濡らしていた。琴音が来た。皇次郎は、慌てて涙を拭った。
「さっ、呑みましょう」

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 水無月。行列を連ね、宗孝が江戸入りした。皇次郎は琴音のことを宗孝に知らせていなかった。
 藩邸に落ち着いた頃、宗孝は和賀に呼ばれた。
 ――はて、大目付殿からお呼びが掛かるとは……。何か不具合でも。
 宗孝は登城の折、心して大目付が詰める部屋に顔を出した。
「宗孝殿、お役目ご苦労でござる」
「ははー、お勤めさせていただきます」
「ところで、宗孝殿、お世継ぎじゃが、如何いたすおつもりか」
 宗孝は驚いた。世継ぎの話しをするために呼んだのであろうか。
「はっ、私めも、そろそろ考えねばと思っておるところでございます」
「そうであるか。そう言えば、先の奥方は、お気の毒であったな。して、どなたを奥方にとお考えか」
 どうもおかしい。御法度である大名同士の縁組みであればともかく、そのようなことはない。ましてや、縁組み話など一切出ていない。一藩主の奥方選びに大目付とは言え、口は挟めないはず。
「……」
「いらっしゃらない」
「はっ!」
「いかんですな。高津藩の存続に関わること」
「はっ、申される通りでございます」
「いかん、このままではいかん。では、こういたそう。我が娘を娶っていただこう」
「はっ?」
「我が娘にお引き合わせいたす。明日、江戸家老共々、屋敷にお越

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しくだされ」
 宗孝は何が何だか判らなかった。どのように考えても理解することは出来なかった。

 藩邸に戻り、皇次郎を呼んだ。
「皇次郎、おぬし、どう思う。大目付殿は、お気が触れたのではないか。急に娘を娶れと申す。良いか、大目付殿は既にかなりのお歳じゃ。娘御と申されてもなあ。拙者は、まだ若いつもり。如何すべきかのう」
「殿、大目付殿に逆らうは、お家のためになりませぬ。睨まれでもすれば、幕府より如何なる難癖を付けられるか判ったものではありません。殿、仮にご息女が、お歳を召されていたといたしましても…… 殿、お諦めくだされ」
 皇次郎は、笑いを堪えるのに必死であった。

 翌日、肩を落とした宗孝と神妙な顔付きの皇次郎が和賀の屋敷を訪ねた。
「宗孝殿、遠慮はいらぬ。さっ、どうぞ、どうぞ」
 和賀は、宗孝を下にも置かぬ持て成し様で部屋に招き入れた。
「おーいっ!」
 急に大声を上げた。
「今、娘が参ります」
 障子が開いた。女が頭を下げている。宗孝には諦めの表情があった。女が顔を上げた。宗孝が飛び上がった。
「琴音ッ!」

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 琴音は、涙を流したまま、宗孝を見つめていた。

 江戸藩邸では、宗孝と琴音の暮らしが始まっていた。
「皇次郎、おぬしの仕業であろう」
「これは異なことを。仕業とは、お言葉が過ぎまする」
「何じゃ辛気臭い顔をしおって。皇次郎、おぬしは、まだ娶らんのか」
「……」
 皇次郎の体から力が抜けていった。勤めは順調であり、何ら問題はない。だが、このように宗孝と話しをしていても、以前のように気持ちが乗る事はなかった。皇次郎は、何故なのか判らなかった。

 此処は梓。
 部屋には、宗孝と琴音、瑞穂、それに慎一郎がいた。今、宗孝は藩主であり琴音は奥方と立場は変わっているが、昔の仲間とも言える連中だ。気兼ねのない雰囲気が流れていた。
「どうなのじゃ? 今は藩主と家老とは言え、皇次郎は余にとっては竹馬の友じゃ。慎一郎は何も聞いておらんのか」
「拙者は何も聞いておりませぬ。心許す仲と思っておるのに……。ひょっとして誰も居らんのでは。それに宗孝様、近頃、顔を合わせても何やら浮かぬ様子でござるが」
「もう少し心を開かれても宜しいように思いますが、真島様は、一途なお方。琴音も泣かされました」
「なに、皇次郎が、そなたを苛めたのか」
「いえ、違います。一途であるが為のこと。お陰で、私は宗孝様と

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一緒になれました」
「琴音、我々のことは良い。皇次郎じゃ」
「……」
「……」
「好きな女子でも居れば、仲立ちできるがなあ」
 瑞穂が、初めて口を開いた。
「辛い思い……」
「何じゃ、女将。話してくれ」
 瑞穂は、寂しげに語りだした。
「ある夜のことでした。真島様が、お呑みになりたいと……。長く料亭の女将などを遣っておりますと、煩わしいことに殿方の変化に気付いてしまいます。どうも真島様のご様子が今までと違う。ふと気付きました。ひょっとして、どなたかとお肌を……。わたしは、お遊びになったのかと思い、そのようにお話しいたしました。ですが……。何やら、辛い思いとか申されました。お肌を合わせた女子に、辛い思いを抱く……。ただのお遊びではなかったのでは。それに、相手のお方には、何かご事情があるのではと……」 
 琴音は聞いていて辛かった。瑞穂の方が皇次郎よりも年嵩はいっているが、女将も女。気丈な者は、滅多に物事に動じないし、自分を曝け出すこともない。しかし、そのような女ほど如何に細い針であっても、一度(ひとたび)、胸を刺されると大きく心を動かされてしまう。

 十日ほどが経った。珍しくも宗孝が皇次郎の部屋に来た。
「何かと世話になったな」

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「はっ?」
「皇次郎、好き合う夫婦とは良いものじゃ」
「何かと思えば、改まってそのような。恐れ入りますが、笹谷が打ち合わせを持ちたいと待っておりますので」
 皇次郎は立ち上がった。
「まぁ、待て。ところで、家臣の婚姻には藩主の許可が要ること、おぬし、知っておるな」
「……」
「面白い世の中じゃ。家臣が申し出ても藩主は否と言える。互いに好き合っておれば構わんのにな。家と家との関係や、周りに与える影響、さらには身分までとやかく取り沙汰いたすと聞く。拙者は、そうはなりたくない。だが、考え様によっては、家臣の婚姻は藩主が決めても良いことになる。そう思わんか」
「仕事に戻りたく思います。恐れながら、この辺で……」
 やおら宗孝は、隣の部屋に向かって言った。
「千恵、こちらに来い」
 襖が開いた。
「皇次郎、藩主からの命令じゃ。この娘を娶れ」
 
 繁佐衛門と文の前に、皇次郎と千恵がいた。婚姻の報告のため、特別に帰藩させてもらったのだ。

「そうか、そうか。千恵殿、ご苦労なさったのじゃなぁ。これからは幸せな毎日を送らねばな。これからじゃ。ま、皇次郎を頼む。だがな、千恵殿。親の躾が悪かったのか、皇次郎は、融通が利かぬ頑

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固者に育ってしまった。それに全くの田舎者。千恵殿から見れば、こやつ、どうしようもない男かも知れんがな。これからも苦労のし通しと思うが、くれぐれも宜しくな」
「お、お父上様」
 千恵も、そして、文も涙を流している。

 皇次郎が、重々しく口を開いた。

「筆頭家老殿。拙者、高津藩江戸家老にござるぞ。それに、拙者が本家でござる。分家の身にありながら、そのような雑言、口をお慎みくだされ」
 
 部屋には、笑い声が続いた。



                         (了)   




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