2001.10.17
  新進気鋭の棋士が、評判になっておりました。
  棋士といえば、あの、餅焼き網のような縦横の線が描いてある分厚い板の前に二人が座り、
 黒と白の石を置いていく、いわば、陣取り合戦をやる人でして、この陣取り合戦を「囲碁」と
 呼びますな。
  この男、滅法強いのであります。小さい時から頭角を現し、連戦連勝、向かうところ敵なし
 の勢いであります。
  囲碁の打ち方は自由奔放、定石など気にしません。独特のヒラメキと、天性のものなので
 しょうか、相手の打ち筋を読みきってしまいます。従って、実に打ち方が早い。落ち着いた
 打ち方をする棋士連中も、そのスピードに惑わされるのかも知れません、対局中にしきりと
 汗を拭きます。ペースを乱されてしまいます。しかも、定石破りは日頃の態度にも表れます。
 ボサボサ頭に無精髭、ジーパンにTシャツ。規則破りこそいたしませんが、関係各位、困った
 ものだと頭を痛めております。態度、風体は悪くても強い事は強い。なにしろ負け知らずで
 あります。
  そんな彼が、いよいよ棋聖と対局する事になります。対局は、テレビ中継され全国に放映
 されます。
 「棋聖と対局か。ま、普段通り遣るだけだな」
  せめて当日は、羽織、袴で来て欲しいが、との周囲の心配など、どこ吹く風。全く気にも
 止めておりません。忠告する人もおりますが、耳を貸しません。
  一番、心配いたしましたのが、彼の両親です。ご近所からは、
 「お宅の息子さん、お強いですね。小さい頃からお二人が囲碁を教えられたそうですね。
 素晴らしいですね。でも……余りにも囲碁ばかりに夢中になり、躾まで手が廻らなかったの
 でございましょう。もう少し、ネ〜!」
 などと、いつも嫌味を言われています。
  今回は、全国中継です。このままですと躾も出来ない親だと宣伝するようなもの。

 「オー、おまえか。今度、棋聖と対局するそうだな。頑張れよ。それに全国中継されそうじゃ
 ないか。オイッ! ちゃんと聞いてるのかっ。いいか、今までは自由に遣らせていたが、今回
 は、棋聖が相手だ。棋聖だぞ。いわば、囲碁の神様に一番近い人だっ。礼を失してはいけない。
 絶対に粗相のない様にしなければ駄目だぞ。負けた事がないなど、普通の事じゃない。きっと、
 囲碁の神様が見守っていてくれたためかも知れない。その神様に一番近い人だ。だが、勝負は、
 勝負。今まで通り遣って良い。しかし、礼儀を尽くし、相手を敬う気持で対局しなければ、
 神様から見放されるぞッ! 礼儀については、小さい時にいろいろと話しただろう。全く言う
 事を聞かなかったが、よーくっ、思い出せっ! いいな!」
  父親からの電話であります。
  そう言われてみれば、そうだな。確かに、今まで一回も負けた事がないけど、考えてみれば
 普通じゃない。よしっ!

  対局の当日、無精髭を剃り、髪をキチンと整え、しかも、羽織袴。関係各位、大喜び。まと
 もな中継が出来ると、ホッと胸を撫で下ろします。

  対局が始まります。彼は、黒番。つまり先番であります。碁笥から、ゆっくりと碁石をとり
 ます。右手の人差し指と中指に挟み、碁盤の目に………… 彼の手が、フッと止まってしまい
 ます。彼は、そのままの姿勢でジッとしています。そして、手のひらに碁石をのせたまま見つ
 めています。碁石をひっくり返したりします。なおも、ジーッと見つめます。動きません。
 そのうちに、脂汗が出てまいります。
  周りは、何が起こったのだと不安気な雰囲気に包まれます。棋聖も、どうしたんだっ? と
 声を掛けたいのですが、なにしろ対局中です。何も出来ません。ただ、待つほか仕方がありま
 せん。
  彼の持ち時間は、ドンドン経っていきます。テレビを観戦している視聴者からテレビ局に
 電話が入ります。
 「どうなってるんだッ! 今までと違って身なりが良くなったと思ったら、ただ、ジッと碁石
 を見ているだけじゃないか! 何とかしろ!!!」
  お叱りの電話がジャンジャン入りますが、どうしようもありません。

  そのうちに彼の持ち時間はなくなり、生まれて初めての負けを経験します。
  対局が終わっても、彼は、まだ碁石を見つめています。
  堪りかねた関係者が、恐る恐る、どうしたんですか? と聞きます。

 「小さい時に、おやじから、ものには表と裏がある。相手に差し出す時には、表を上にするの
 が礼儀だと教えられました。ちょうど打とうとした時に、それを思い出しまして……。碁石の
 表と裏が判らなくて……。ところで、この碁石、どっちが表で、どっちが裏なんですか?」

   蛇足:筆者は、日本棋院に表と裏の存在、及びその判別についてメールで問い合わせたことががあるが、返事はなかった。


  似たような噺が、もう一つございます。

  今度は、女性であります。
  この女性、眉目秀麗、頭脳明晰、スタイル抜群、八頭身。それに加えて、金持ちときていま
 す。普通なら、たった一つでも持っていれば、もう、女性として幸せといえるものを総て持っ
 ております。
  ついでに申しますと出るところはキチンと出ておりますし、クビレる所は、これまたきちん
 とくびれております。さらに蛇足ながら、出るところは、ちょっと大きめに出ておりまして、
 もう言葉がありません。仕事を遣れば男も顔負けの優秀さ。黒か紺のタイトスカートに真っ白
 なブラウス。シンプルな装いが、かえって彼女の美しさを際立たせます。料理でもそうですな。
 食材が良いときは、あまりゴテゴテと手を加えない方が宜しいのと同じです。正に素材が良い
 のであります。

  何も悩みなどないように思えますが、彼女にも悩みがございます。男友達が居ないのであり
 ます。当然ながら、会社には独身の男性はおりますが仕事の話ばかりでプライベートな話は
 してくれません。
  性格も良く、女性からも好かれるほどでありますが、言い寄ってくる男性はいません。
  会社の男連中は、ただ、見ほれるだけ。「守る会」などを結成し、毎週、「彼女を語る一時」
 などと銘打った会合を開いたりしております。ほとんどの男性社員がメンバーになっていますが、
 誰一人として彼女を会合に誘える男はおりません。自分たちには、高根の花と決め付けており
 ます。
 
 「なんで、誰も声を掛けてくれないのかしら。学生時代の友達や、会社の同期の人達が次々と
 結婚してるっていうのに……。どうすれば皆と同じようになれるのかしら……」
  世の中とは理不尽なもので、ちょっと足りないくらいの方が、物事、スンナリと行くことが
 多いようであります。
  可哀想に悩みは深刻になっていきます。同期の連中、学生時代の友人、一人一人を思い出し、
 自分と比べてみます。他人と自分を比べるなどということは初めてのことであります。必要が
 なかったのであります。どう考えてみても自分が劣るところは見つかりません。
 「何故なんだろう?」 ハタと気が付きます。
 「そうか、皆、ちょっとドジだったり、足りなかったりしている。それが良いんだッ!」
  急に嬉しくなります。練習しよ! 改めて鏡の中の自分を見つめてみます。普段は化粧など
 したことはありませんが、目じりを下げ気味に、口は半開きに、姿勢を横に傾けたり……。
 ヘソ出しジーパンをはいてみたり。テープレコーダーに録音し、話し方を研究します。
 「違うじゃーん。超おかしいっ! だって、こうじゃーないですか〜。やってられないわー。
 もうダサイんだからー、バッカみたい……。私ってさ〜……」
  自分でも呆れてしまいますが必死です。2、3ヶ月練習し、いざ、本番に。仕事が退けてから、
 毎日、歓楽街に……。面白いように男が寄ってきます。しかし、慣れないことですから疲れます
 が、これしかないとの思いの方が強く、がんばります。
  二つの顔を持ったことになりますが、生活ではキチンと区別しています。
  人間とは不思議なもので、同じ事を続けていると徐々に身に付いてきます。阿呆な男連中との
 付き合いにも面白さを感じてきます。
  さらに、人間はものを考える時には、自分の置かれた環境に一番適した言語、口調を使うもの
 だそうです。彼女、独りでいる時に、
 『うちの社長ったら、急に変な事業計画をぶっちゃべるんだもん。超ビックリ! それを遣れ
 だってサー。アッタマきちゃうー。どうすれば良いか判らないジャン!』
 などと呟いてしまいます。
 「アレッ! ひょっとすると、こっちの私が本当の私なんじゃないかしら……。なんてね」
  完全に使い分けをマスターします。いろな男とも付き合いましたが、所詮阿呆な男とは本当の
 幸せを共に出来ないなと確信いたします。

  そんなある日、縁談が持ち上がります。超一流の大學出。超一流の会社勤め。しかもスポーツ
 万能な絵に描いたようなお相手。元々の彼女とはピッタリ。仲人は今までの彼女しか知りません。
  この縁談は、銀行レースのようなもの。これで、100組目。そろそろ仲人家業も終わろうか、
 などと弁慶のようなことを考えております。

  仲人の挨拶も終わり、お互いに頭を下げてのご挨拶。いよいよ二人だけの会話がスタートします。
 嫌味のないユッタリとした雰囲気を持つ彼氏。彼女は、夢心地。
 『本当の幸せが来たみたい。何だか、ホワーンとして来たわ』
  こんなの初めての経験。
 「初めまして。私、ナニノナニベイです。見合いなんて初めてなもんで、(以下省略)」
  彼女が話す番です。
  その時……、
 『判らない! 判らない! どっちの自分を出せば良いの。どっちなの? どっち?』

  結局、彼女は、一言も話せませんでした。
  無理は、所詮、無理。あるがままの自分。これが一番では……