「鼻口蓋管嚢(膿)胞」ビコウガイカンノウホウと読みます。口腔外科用語です。切歯管(セッシカン)嚢胞とも呼ぶそうです。
 鼻口蓋管とは、鼻と口を結ぶ管だそうで、胎児の時には必要ですが生まれた後は使われなくなります。つまり「不用」になる訳です。頭蓋がくっつき、固まりだすとともに消えていくそうです。
 
 稀に、この「管」が大人になっても残る事があるそうです。そして、そのような人の中で、稀に何らかの原因でこの管にバイ菌などが入り、化膿する事があるそうです。口蓋、つまり上顎の骨と皮の間に嚢胞ができるのです。しかし、「稀」が二つ付く位ですから滅多に登場しない病気のはずです。

 この「稀な病気」に罹った事があります。
 上顎を舌で触るとプクッと膨らんでいます。痛いのです。そして、これが破れ、膿が出ることがあります。痛みと気持悪さ。口の中の出来事ですので、その不快感は例えようもなく、さらに激痛により最悪の状態が続きます。食事どころではありませんし、勤務中であっても仕事など手につきません。

 1977年3月。結婚式は、一ヵ月後でした。私は出張中でしたが、余りの痛さに近所の歯科医院に。レントゲン撮影の後、先生曰く、
「この病気は、一般の歯科医院では治せません。私が卒業した大学病院に紹介状を書きましょう」

 即、JR水道橋駅にある東京歯科大学病院に。
 紹介状とレントゲン写真を見たY教授、
「ウ〜ン、鼻口蓋管嚢胞だな」
 大学病院ですから、学生が担当としてつきます。K女史。実家が歯医者だそうで、自分も歯医者にとのことでこの大学に。目がパッチリと、どちらかと言えばカワイイ系の女性。しかし、可愛い顔をしていながら、言うことは結構キツイ。
「キチンと検査をします。言われた通りに行動してください」
 こちらは、学生のクセにとは思っても口には出せない。

 数日後、Y先生との会話、
「マ〜、手術した方が良いけど、いつ頃が良いですか」
「三週間後に結婚式。その後、新婚旅行ですが」
「アッ、そー。で、いつ頃が良いですか」
「イヤーそう言われても…… 手術がどの程度のものかも判りませんし」
「ところで新婚旅行は、何処に行くの?」
「スリランカです」
「アッ、そー。スリランカね。前の名前はセイロンだ。紅茶だね。詳しくは知らないけど、医療施設は完備してるのかなー?」
「イヤー、そこまでは……」
「アッ、そー。そーね。いちいち、そこまではね。思うに、行く前に遣っちゃった方が良いね。新婚旅行中に痛みが続いちゃーネ。ウッ、フッフー」
(なんとなく気味悪いムード)
「そうですか? で、どんな手術なんですか?」
「アッ、そーか、まだ、言ってなかったね。ところで、君……歯を抜いたことある? 奥歯だけど……」
「ありますよ。奥歯くらい」
「アッ、そー。それと同じ。大した事ないんだよ」
「イヤー、安心しました。なーんだ奥歯の抜歯ですか」
「そう、奥歯の抜歯」
 この言葉を信じ、手術は結婚式の一週間前と決まる。

 だだっ広い部屋に何十台もの診察台(所謂、歯医者さんの患者用の椅子)が並んでいる。その中の一つに座る。学生達が私の診察台の周りにゾロゾロと集まって来た。その数、約十数名。勿論、K女史は私のすぐ横につく。Y教授が、病気について一くさり。要は珍しい病気だから良く観察しろとの内容。まるで実験材料である。

 麻酔係が上顎の何箇所かに注射を始める。奥歯の抜歯よりは、かなり数が多い感じだが…… まっ、良いか。
 Y教授、メスを持つ。部分麻酔のため口の中以外は通常の状態。
「では、始めます」

 ギョッ、ギョッ!……?!!?#%??!!!!!

 何と、教授のメスは上顎の左側の犬歯、いや犬歯よりも奥の歯の内側に触った。一瞬にして手術の過程を理解。左側と言うことは、右側まで? 教授のメスは、静かに予想した道筋通り、上の歯に沿って動いている。
 ── こッ、これが、奥歯の抜歯と同じと言えるの?????  
 以後、目をつむり俎板の鯉。
 ── これから私はどうなるんだろう……

 教授、丁寧に上顎の皮を骨から剥がしだしたようだ。学生がドヨメキだしたのが判る。
 教授、
「意外と嚢胞の範囲が広い。これを除去する」
 全く痛みは感じないが、何かが上顎を擦っているのが判る。
 Yの奴、ヘラかなんかで俺の骨を擦ってんだろー。
 ── 何が奥歯ダッ! この嘘つきメッ!
 空しい抵抗。
 
「先生ッ!」と、麻酔係の緊急っぽい声。
「予定時間を越えます。どうしましょう?」
 ── どうしましょうだと! このままじゃ麻酔が切れて、俺はどうなるんだッ! 決まってんだろ、追加だ、追加ッ!

「この患者の場合、レントゲンなどで調べた結果を超えた範囲まで、嚢胞が広がっている。結構、ヒドイ。麻酔の追加だナ」
 ── ノンビリ構えている状況かッ! 早くしろ、ハヤク!
「判りました。麻酔、打ちますッ」
 ホッとしたのを覚えている。俎板の鯉。

「では、縫合する」
 教授、剥がした皮を上顎に親指で押し付けているようだ。
 ── 壁紙じゃネーンダ。もっと科学的な遣り方はネーのかッ!
 これ、心の叫び。どうやら接着剤は使っていない様子。大丈夫かな……

 教授、縫い始める。歯と歯の間に針を刺している。即、理解。
 ── 左側の犬歯の奥から右側の犬歯の奥まで針を通し結んでいくんだ。
 物事は、その通りに進む。刺しては結び、糸を切る。刺しては結び、糸を切る。
 何遍、遣ったかって? 知らない!
 
 絶望的雰囲気の中で手術が終わった。手術中、目を開けていても問題はなかったはずだが、なんと一回も目を開けることは出来なかった。

「君達も良い経験が出来たはずだ。これが、鼻口蓋管嚢胞だッ!」
 ── アッ、そー。みんな良かったね。良い勉強になりましたか?
 学生達、ゾロゾロと退場しているようだ。目を開けた、K女史が居た。

「一、二時間、ジッとしていてください。決して舌で上顎に触らないでくださいね。剥がれますから」
 ── ヤッパリ壁紙だッ! 人間に対して、剥がれるなんて言葉を使うな!
と言いたいのだが、喋ると舌が上顎に触れてしまう。無言。ただ、無言。ただ、頷くだけ。

 どのくらの時間が経ったのだろうか。K女史が来た。
「はい、これで帰って良いです」
 ── 帰えれッ?
 麻酔は、まだ残っているし口は半開き。
 ── 一泊位させろッ!
とも言えず、ただ頷き病院を後に。

 水道橋駅のホーム。口の中は、血がイッパイ。しかも、まだ出血中。仕方なくホームにある水道まで行く。ただ、口を開けているだけだ。ペッ、と出来ない。舌が上顎に付いてしまう。唾液も混じったのだろう、とにかく血の量が多い。血が流れ出るまでそのままでいた。
 人が寄ってくる。
「大丈夫ですか? 救急車を呼びましょうか」 
 そりゃーそうでしょう。ホームで口を開け、血をダラダラ流している人が居るんだから。結構、惨め。手で、大丈夫のサイン。都合、三人くらいの人が声を掛けてくれた。
 ── 俺の結婚式は……? 今更、中止できないし……

 結婚式は、まだ抜糸前。糸つき新郎。しかも、術後数日間、口にしたのは流動食のみ。普段49.5Kgの体重は、どれほど減っていただろうか??

 素晴らしい、素晴らしい結婚式。
 抜糸をしてもらい、スリランカへ。異次元ともいえる世界。

「何事も経験。経験して見なきゃ……ネ」と言うが、はたしてこのような経験も人生の糧になっているのだろうか?
 ところでY教授にK女史、今頃、どうしているのかナー。

 人生、何事も可笑しくもあり、また楽しくもあり、かナー?