セバスチャンは芸術家。全く売れない芸術家。パリの芸術大学を、首席で卒業したと言ってるが、誰もその事、信じちゃいない。
               
 食べてく糧はパン屋の雑用。毎日毎日、粉まみれ。ほんのちょっとの給料を、それでも笑顔で
やっている。パン屋勤めの良いところ、売れ残ったパンがある。これを貰って食卓に、主食に金が
掛からない。これは何より良い事だ。チーズとワインとパンだけの、とっても質素な食事だが、
セバスチャンは満足だ。残った金の使い道、すべて絵具やキャンバスに。モデルなどは雇えない。
今まで描いた作品は、屋根裏部屋にギッシリと、ホコリを被って置いてある。
 三十歳を過ぎてはいるが、芽など全く出てこない。そんな事にはお構いなしに、相も変わらず
ニコニコと、自分の芸術一筋に、自信に満ちたセバスチャン。
 ロング・コートにベレー帽。パリの通りを颯爽と、胸を張って歩いてく。お気に入りのこの
コート、かつては黒い色だった。ところが今は灰色に。しかもテカテカ光ってる。全く気にせぬ
セバスチャン。自分は真の芸術家。
 街を歩けば知人に会うが、髭を撫ぜ撫ぜ明るい挨拶。傘など買えぬセバスチャン。雨が振ったら
濡れるだけ。背中を丸めてパン屋に急ぐ。

『人間は、なんと愚かな生き物か。くだらん絵画に大金を。まともな絵などはないものを。写実
絵画は写真で充分。林檎は林檎、鳥は鳥。総て表面描くだけ。抽象絵画はインチキだ。判った顔
して絵具を塗って。猿の方が、まだマシだ。私は違う、違うのだ。心を描く、心をね。内面深くに
入り込み、掴んだ心を描くのだ』

 セバスチャンに友はなし。昔は居たが、離れていった。友が描いた絵を見ても、表面的と言う
ばかり。いつも台詞はおんなじだ。呆れてみんな去っていく。けれども気にせぬセバスチャン。
心の奥に耳を向け、音にするのが音楽家。画家は心を描けば良い。
 自分の絵、他人に見せたこともある。無言でみんな去っていく。判らぬ奴に用はない。だから
いつも一人きり。寂しさなどは無関係。

『心が判らぬ奴ばかり。おもて面だけ追っかけて。内面深く入り込み、心を掴んだ事もない、薄っ
ぺらな奴ばかり』

 パン屋の仕事は真面目そのもの、無駄口叩かず雑用を。

『芸術家だって喰わねばならぬ。パン屋の仕事は楽でよい。パン粉の袋を運んだり、掃除をすれ
ば、それで良い』

 いつも見ているパン屋の主人、セバスチャンを大好きに。絵を描く人とは思っていない。ただの
冴えない中年男。真面目な男はパン屋向き。そろそろパンの作り方、教えてやっても良いのかな。
「パンを作る気、あるのかな」
 パン屋の主人が聞いてきた。
「私がパンを作るんですか?」
「雑用だけではまずかろう。何日まで経っても独身だ。技術を持てば身を固め、家庭だって持てる
だろうに」

『パンを作ってなんになる。私は心を描く芸術家。パン屋の主人は知らないな。そうは言っても
断れば、明日のパンがどうなるか。受けた方が得策か』

「嬉しい事でございます」

 屋根裏部屋で考える。今まで描いた芸術品。いずれは世間に認められ、総てが飛ぶように売れて
いく。名前が歴史に刻まれる。心を描いたセバスチャン。明日か、何日かは判らぬが、その日が
必ずやって来る。良いではないかその日まで、パンでも作って待ってても。

 パン屋の主人は驚いた。粉の()ね方、丸め方、焼き方までもすぐ覚え、作ったパンは大評判。
喜ぶはずのセバスチャン。そんな事には無関心。無駄口叩かず真面目そのもの。パン屋の主人は、
感心しきり。ますます好きになっていく。

「セバスチャン、私の娘、マドレーヌ。ちょっと歳はいってるが、嫌いじゃないと思うけど?」
「嫌いなことはありません。でも、何のことだか判りません」

 半年経った晴れた日に、パリの教会、鐘が鳴る。新居は、パン屋の屋根裏部屋に。
 パン屋はますます繁盛し、毎朝、行列できている。長いバゲット、クロワッサン。外国からの
お客さん、これがパリの味なのよ。嬉しそうに話してる。相変わらずのセバスチャン。無駄口叩
かず真面目そのもの。

 パン屋の主人は考える。そろそろパン屋を譲ろうか。
 仲睦まじいこの夫婦。あっという間に長男が、セバスチャンは父親に。それでも散歩は欠かさ
ない。家族の知らない屋根裏部屋に、散歩と偽り訪れる。どんなにパンが売れようが心を描く
芸術家。セバスチャンは、芸術家。
 スクスク育ったアラン君。大きな瞳が美しく、ご近所周りの評判に。三つになった日曜日、
アランと一緒にセバスチャン、散歩と称して屋根裏部屋に。自分が描いた芸術品。絵を見た
アランは立ちすくみ、嵐のように泣き叫ぶ。

 アランの次にジャンヌが生まれ、それと同時にパン屋の主人に。
 前の主人は楽隠居。孫を抱えてご満悦。充実しきった人生が、美味しいパンを作らせる。気付か
ぬうちにこのパン屋、フランス一になっていた。知ってか知らずかセバスチャン、無駄口叩かず
真面目そのもの。

 アランは頭脳明晰で、成績はいつも一番だ。ガリ勉などはしていない。真面目に授業を受ける
だけ。気になる事は一つだけ、なんでこのパン、美味しいの? 理由を求めて本を読む。化学や、
生物、歴史に数学。教科書などは読まないが、それでもテストは、一番だ。将来、学者か教授へと
周りの者は言うけれど、アランの夢はパン屋さん。セバスチャンのパンよりも、もっと美味しく
作りたい。何も言わないセバスチャン。遣りたい事を遣れば良い。同じ気持ちのマドレーヌ、ニコ
ニコ笑って眺めてる。

 散歩に出かけるセバスチャン。四つになったジャンヌと一緒。連れて行こうか、あの屋根裏部屋
に、ちょっと思ったセバスチャン。けれどもアランを思い出し、やっぱり泣くに決まってる。
残念ながら諦める。何処からともなくシャンソンが。それを聞いてたジャンヌちゃん、なんだか
ウキウキ笑い出す。そして可愛くオシャマな顔で、音楽、好きだと語りだす。選んだ楽器は、ヴァイ
オリンチェロ。小さなチェロを弾きだした。

 アランは、二十歳に、ジャンヌは、十七。アランは、毎日、粉まみれ。美味しいパンを作ってる。
それでもアランは研究熱心。もっと美味しく作りたい。日夜の努力を続けてる。
 ジャンヌは、毎日、音楽学校。ダイナミックで繊細な、素敵な演奏が評判に。

 そんなある日に郵便が。授賞式への招待状。美味しいパンへのお礼だと、綺麗な勲章、贈られる。
そして付いた称号は、何と「パンの芸術家」。それでも笑わぬセバスチャン。
 勲章貰った翌日も無駄口叩かず黙々と、クロワッサンを焼いている。
 
 アランに可愛いお嫁さん。パリの小さな教会で、結婚式が開かれる。彼氏と一緒のジャンヌちゃん。
次は私と笑ってる。そばに立ってるセバスチャン。相も変わらず表情静か。

 散歩に行くと、屋根裏部屋に。いつもの通りに心を描く。孫が生まれたその年に、アランにパン屋
を任せることに。そして、孫との楽しい毎日。日向ぼっこが大好きに。
 アランのパン屋は、益々繁盛。それでも研究、続けてる。ジャンヌは世界に羽ばたいて、夫と二人
で演奏旅行。
 たまにパン屋に顔を出し、焼きたてパンを頬ばって、味を調べるセバスチャン。美味しいパンに
満足し、笑い方など忘れたように、相も変わらぬ静かな表情。自分だけが知っている。私は心を描く
芸術家。必ず来ると信じてる。自分の作品売れる日が。

 パリの小さな教会の可愛い鐘が鳴っている。セバスチャンのお葬式。有名人や政治家が、口を揃え
て称えてる。彼は、「パンの芸術家」。

 アランは、ふっと思い出す。セバスチャンの屋根裏部屋を。記憶を頼りに行ってみる。部屋は綺麗
に整理され、住んでる人が出てきそう。塵が付いてるキャンバスや真新しいキャンバスが、所狭しと
置いてある。一所懸命思い出す。絵を見た時の状況を。多分、ワンワン泣いたはず。けれども、どん
な絵だったか、既にすっかり忘れてる。
 アランは、そして考える。おやじが描いた作品を、勇気を出して見てみよう。
 どの絵を見ても、おんなじだ。描かれているのは丸一つ。大きな丸や小さな丸や…… 一枚一枚、
眺めてみたが、使った絵具が違うだけ。綺麗な色やくすんだ色や、いろんな色で描かれてる。なんで
あの時、泣いたのか、どう考えても判らない。だけれど、これらの作品は、おやじが描いたに決まっ
てる。どんな理由で描いたのか、意味が全く判らない。あんなに美味しいパンを焼く、おやじの気持ち
が判らない。綺麗な色の一枚を…… 残りは全部焼くことに。

 パン屋の庭で燃えている。セバスチャンの芸術品。

 天国にいたセバスチャン。パン屋の庭の情景を、ビックリしながら眺めてる。
 ジーッと、ジーッと眺めてる。自分の描いた作品が、炎を立てて燃えている。不思議と怒りは出て
こない。不思議と涙も出てこない。

 セバスチャンは、芸術家。心を描く芸術家……?

 笑い出したセバスチャン。生きてた時は、絶対に、笑った事などなかったくせに、今は、ゲラゲラ
笑ってる。

 胸に掲げた勲章も、一緒になって笑ってる。          

                                     (了)
                                                           



                           




                                            2001.11.13