譚 綴









      「 女絵師 志乃 」        九谷 六口









   
                   二00四年 九月 八日 







   (一)

 桜の花弁が舞い散る茂平長屋の昼下がり。
 前掛け姿のお鶴が、小鉢を手に志乃の家に来た。
「志乃さん、いるかい」
「はい。今、開けますから」
 襷を掛けた志乃が顔を出した。
「あんた里芋、好きだったよね。さっき煮っ転がしを作ったんだけ
ど、お裾分けと思ってね。ちょっと味が濃いけど……」
「いつも済みません。お世話になってばかりで。あら、お鶴さん、
目が赤い……」
「なに言ってんのよ。いつものあれよ」
「また、お酒ですか。程々にしないと」
「いいのよ。お酒しか楽しみがないんだから。でもねぇ、亭主が呑
めないってのも詰まらないものよ。大工のくせに匂いだけで赤くな
っちゃうんだから。棟上げの日なんか朝から渋い顔。まったく棟梁
の名前が泣くよ」
「ほほほ、八五郎さんは真面目な旦那さんだから」
「あらっ、あたしは真面目じゃないって言うのかい」
「お鶴さんたら……」
 二人は笑った。
「仕事の方はどうだい」
「はい、お陰様で淀屋さんには可愛がっていただいています」

 茂平長屋は、表通りから奥まった所にある裏長屋。
 路地を挟んで両側に三軒ずつが並ぶ棟割長屋だ。間口は二間。裏
長屋に多い造りになっている。いわゆる二間長屋で店賃は五百文で
ある。
 路地を入ってすぐ右側には大工の八五郎夫婦が住み、隣りが志乃
の家だ。その隣だが今は空き家になっている。厠とゴミ捨て場は、

(1)







路地の一番奥にある。路地の左側だが、まず吉沢半次郎が住む家。
 半次郎は、独身の浪人である。半次郎の家は、間口が三間の一戸
建てで部屋も広い。そのため、店賃は八百文と高い。五年前より
この広い部屋で寺子屋を開いている。寺子は二十人ほどだが、親た
ちの評判も良い。
 半次郎の家のすぐ隣には井戸があり、井戸端の奥にはお稲荷さん
が祭ってある。井戸の隣が飾り職人松吉の家だ。そして、その奥が
大家茂平の家。厠の向かい側に当たる。
 茂平の家は広いが、それには理由があった。
 茂平は中途半端が嫌いな男で、何事にもきちんとしなければ気の
すまない性格である。自然、金にもうるさい。店子が店賃を滞納し
ようものなら大変である。その店子の日々の費えにまで口を挟み、
無駄な金を使わせない。だが、たまに店賃の工面が出来ない店子が
出る事がある。今月は金がないと店子がいくら頭を下げても、先送
りは許さなかった。
「いいかい、そう言う甘えが人間を駄目にしていくんだよ。店賃だ
から良いようなものだが、商いだったらどうするんだい。下手すり
ゃお飯が喰えなくなるじゃないか」
「へぇ、しかし、金がないんで」 
「じゃあ、貸そうじゃないか。その代わりに担保を持っておいで」
 担保は形がある物であれば何でも良かった。夏は、火鉢や炬燵、
どてらが担保になった。冬になれば簾や団扇などである。火鉢など
はともかく、団扇などは担保になるものではない。しかし茂平は、
担保が何であれ、髙を変えずに店賃分の金を貸した。金貸しのよう
だが貸す相手は店子だけ。しかも、利息は取らない。理解に苦しむ
所があるが、とにかく、茂平はこれで気分が落ち着く。つまり、家
の一部屋を担保を置くために使っているのである。家が広くなけれ
ば寝るところがなくなってしまう。

(2)






 引っ越してきた店子たちは、口うるさい大家だと顔をしかめたが
考えてみれば自分たちのために遣ってくれること。今では店子たち
全員が茂平を信頼している。
 とにかく茂平はしっかりしていた。厠の使い方にもうるさい。店
子たちだけでなく、寺子屋に来る子供たちにも、便所は長屋の厠を
使えと厳しく言った。近郷の百姓が定期的に糞尿を買いにくるから
だ。百姓たちは下肥を作るために糞尿を買う。値段は年単位で決め
られるが、糞尿とは言え馬鹿にならない金額である。普通であれば
年一両ほどなのだが、茂平は高く売った。その言い草が振るっている。
「いいかい、商人たちはケチだから碌なものを食わないんだよ。そ
れに比べ、職人は宵越しの銭は持たねぇと粋がるからね。ほとんど
を飲み食いに使っちゃうんだよ。だから出てくる糞尿も上等。ほか
よりも高く買うのが道理じゃないかい」
 百姓たちも茂平がしっかり者で優しい好々爺であることを知って
いる。
「ようがす。特別に言い値で買いましょう」   
 茂平は、一両二分で売った。

 志乃は一人で暮している。
 両親は、早くに流行り病で逝ってしまった。その時、志乃はまだ
乳飲み子。茂平は、志乃に身寄りがないことを知っていた。養女に
したいと申し出た店もあり、茂平はその方が良いかとも思ったが、
一応、店子たちに訊いてみた。ところが、長屋の連中は皆で育てよ
うと言い出した。そう言われれば、茂平もやぶさかではない。だが
運悪く長屋に乳が出る女は居ない。これでは乳飲み子である志乃の
育てようがない。
 店子の中で夫婦者はお鶴たちだけだが、一緒になったばかりで乳

(3)






は出ない。思案していると、お鶴が乳の出の良い女房を見つけてき
た。茂平は、長屋で志乃を育てることにした。お鶴は、いずれ自分
たちにも子供が出来る。志乃に情が移っちゃいけない、と言ながら
も、おしめを取り替えたりお湯に入れたりした。
 志乃はすくすくと育った。

 志乃の父親、勘斎は絵師であったが、これからという時に流行り
病で死んだ。
 茂平は、志乃が物心つきだした頃、勘斎のかつての絵師仲間であ
る玄斎の家に志乃を連れて行った。別に絵師の子供だからといって
絵心があるとは思っていない。だが、とにかく志乃に絵師の世界を
見せておきたかった。
「志乃、覚えちゃいないと思うけど、お前の父親は絵師だったんだ
よ」
 玄斎の仕事部屋には紙や絵皿、筆が散らかっていた。それを見た
志乃は、にこにこ笑いながら筆を持ったりして遊びだした。
 玄斎は、いつでも良いから遊びにおいでと言った。
 玄斎の仕事場は長屋から、そう遠くない所にある。志乃は、一人
で遊びに行った。玄斎は一人暮らし。寂しさを紛らわせるためでは
ないが、志乃が可愛く、志乃が訊くことには何でも優しく教えた。
 志乃が十歳になった時、急に真顔になって茂平に言った。
「絵師になりたい」
 広いお江戸とは言え、女の絵師など居ない。それに父親の後を継
げるとも思ってはいない。だが、茂平は志乃の好きにさせた。
 絵師で食べていけるはずはないが、ま、良いではないか、いずれ
商人か職人の嫁になるだろう。

 何年か経ったある日、玄斎が茂平のところに来た。
「茂平さん、志乃だが……ひょっとすると、ものになるかも知れん

(4)






よ。どうかな、本気で修行させたいが」
「ものになるとは、金を稼げるということかな」
「版元次第だが赤本や黒本などの草双紙であれば、そうだな二、三
年も経てば描けるようになる。だが、志乃の絵には、そのような読
本の挿絵だけではなく、もっと広いものがある。男であれば良かっ
たが……」
「そうですか。手に技を持つに越したことはないが、絵師とはね…
…。ま、いいでしょう。玄斎さんにお任せしましょう」
 ここで玄斎が、落ち着かない素振りを見せ始めた。
「茂平さん、言い難いのだが、ついては……」  
「何ですか。遠慮せずに言ってください」    
「月謝を貰えれば助かるのだが」 
「月謝っ! 志乃から月謝をとると言うのですか」
 玄斎、頭を掻きながら、
「実は苦しくてなぁ」      
 茂平は、金にうるさい。それに玄斎と志乃の父親は仕事仲間であ
ったはず。額に皺を寄せ、腕組みをして考え込んでいた茂平が口を
開いた。
「腹蔵なく聞きますが、それほど……苦しいのですか」
「お恥ずかしい限り。実は、小金欲しさに危な絵に手を出しまして
な。これが版元に知れ、当分の間だが敷居を跨たげん状態でして」
「……判りました、で、月謝は」 
「此処の寺子屋は、月八十文と聞いています。同じでは……」
「いいでしょう」
 この日から、志乃に対する玄斎の態度が変わった。
 志乃が玄斎のところから泣きながら帰ってくることも度々あった。
茂平が聞くと、玄斎はかなり厳しい手ほどきをしているらしい。
「志乃、では止めるか」
「いえ、続けます」 

(5)






 あれから三年。志乃は、十七歳になっていた。
 玄斎の口利きで、志乃は版元淀屋から草双紙の注文を受け、曲が
りなりにも独立した日々を送れるようになっていた。今は、両親が
住んでいた一部屋を借りている。店賃は自分で払っている。
 志乃の隣りには鶴たちが住んでいる。子供が大好きな夫婦だが、
ついに子供はできずじまい。仲は良いのだが、一抹の寂しさを漂わ
せている。
「あんた、あの時、志乃さんを養子にしておけば良かったね」
「なに言ってやがる。子供ができるできないは、お天道様が決める
ことよ。だからと言って、今更そんなことを言って何になる。これ
でいいんだよ。今じゃお隣さんとして仲良くやってんじゃねぇか。
親子となりゃーこうはいかねえ。これでいいんだよ」
 八五郎は、腕の良い大工の棟梁である。

 夏のある日、志乃が井戸に水を汲みに行くと、半次郎が体を拭い
ていた。そういえば、もう五ツ半頃だと言うのに寺子たちの声が聞
こえない。志乃は、寺子たちが元気に素読する声を聴くのが好きだ
った。
「あら、今日はお勉強、お休みなんですか」   
 志乃が、半次郎に声を掛けることなど滅多にない。
「今朝は気に入った草花を摘んで来いと言ってあります。もうすぐ
帰ってくるでしょう」
「草花をどうするのですか。あっ、押し花ではないですか」   
「押し花ですか。悪くないな。描かせた後で押し花にしましょう」
「えっ、子供たちに花を描かせるのですか」   
「筆遣いのためです。私には絵心がありませんが……。あっ、そう
言えば志乃さんは絵師でしたね。これは迂闊だった。今日、お時間
はありませんか。子供たちに……。いや突然、このようなこと失礼
しました」

(6)






 志乃は、草双紙の挿絵も楽しい仕事と思っているが、やはり色絵
が描きたかった。仕事の合間を見つけては草木の絵をよく描いてい
る。いずれこの様な絵が売れれば良いが……。
 長屋の連中は半次郎を先生と呼ぶ。寺子屋は評判が良かった。読
み書き、そろばんは勿論だが、それ以外にも寺子が求める学問を教
えた。半次郎は温厚な男だが、寺子に対する躾は厳しかった。親た
ちは皆仕事を持っている。半次郎に預けておけば手が掛からないだ
けでなく、為になる学問や躾をしてくれる。中には月謝を払えない
寺子もいたが半次郎はとやかく言わなかった。半次郎にとり、月八
百文の店賃は辛い。月謝のほとんどが店賃に消えていく事もある。
だが嬉しいことに、特別な勉強を求める大店の親たちは、月謝以外
にも手当てを弾んだ。

「宜しいですよ。では、お昼過ぎに伺います」
「そうですか。助かります。子供たちも喜ぶでしょう。いつも私の
講義ばかりで飽きているはずです」
 半次郎は志乃よりも十歳ほど年上のはずである。羽織袴姿で脇差
を差し、常に礼儀正しい。だが、何故浪人になったのかなど、過去
について知っている者はいなかった。そういえば、半次郎は外出す
る時にも刀を差さない。
 寺子たちは目を輝かせて志乃の話を聞いた。志乃が筆を取り、さ
ーっと茎を描いた。これだけで部屋中にわーっと歓声が上がった。
志乃の方が恥ずかしくなるほどだ。いつも部屋に篭り一人で草双紙
を描いているが、この日は気分が明るくなるようであった。
 寺子屋は八ツに終る。寺子たちは部屋を掃除して帰っていった。
  
 志乃は改めて半次郎の家の中を見回した。奥の部屋には、何の本
であろうか、うず高く積まれている。それに見たこともないような
道具も置いてある。

(7)






「志乃さん、たまにで構わないんですが……お手伝いいただけます
か」
「えぇ、私も楽しかったです」  
 半次郎は、何やら次の言葉を捜しているような様子である。志乃
は黙っていた。
 ── 何を言いたいのだろう。
「実は、手間賃ですが……」
 志乃が急に笑い出した。
「まぁ、そんな事でしたの。こちらも気分を変えられますし、子供
に教えるのって楽しい。来るなと言われても、お手伝いに来させて
いただきますよ」
 半次郎と面と向かって話をしたのは初めてである。痩せていると
思っていたが、逞しい体付き。月代や顎鬚は綺麗に剃り、髪は後ろ
で束ねて下げている。老けていると思っていたが、これも違った。
整った顔付きは、すっきりしてとして目が清々しかった。

「何度言ったら判るんだ。この盆暗がっ!」
 珍しく八五郎が大声を上げて怒っている。お鶴の声も聞こえた。
「あんた、そんなに怒ったら佐吉が可哀想でしょう。鉋を一日研が
なかっただけじゃないかい」
 佐吉は、八五郎が可愛がっている弟子である。
「馬鹿野郎。傍から余計なことを言うんじゃねぇ。道具はな、大工
にとって命の次に大切なもんだ。使ったら必ず研ぐもんだ。次の仕
事に対する心構えと同じよ。気ぃ入れてねぇ証拠だ」
「あんた、あたしに向かって馬鹿野郎なんて、随分な口を利くね。
あたしゃ、野郎じゃないよ。女だよ。言うんだったら馬鹿女郎と言
ったらどうだい」 
 口ではお鶴に構わない。これで八五郎の小言は終る。

(8)






 佐吉は、指物師の次男坊だった。親は稼業を遣れと言ったが、俺
はでかいものを作りてぇ、大工になりてぇと、普段は大人しい佐吉
が言い張った。親は仕方なく八五郎の所に連れてきたのだ。八五郎
は佐吉を見込みがある男と思っている。だからであろうか、矢鱈と
口うるさい。だが、佐吉は棟梁、棟梁と片時も傍を離れずに仕事を
盗んでいる。職人の親方は、一々弟子に技を教えたりはしない。弟
子にとり、自分の腕を磨けるかどうかは、如何に仕事を盗むかに掛
かっている。

 ある朝、今度は、茂平が表で怒鳴っていた。長屋の連中も気にな
り表に顔を出した。
「松吉、今月は月番だろう。厠の掃除をしていないが、どうしたん
だい。ゴミも整理していない。駄目じゃないか」
「へぇ、済みません。ちょっと仕事が入り込んじゃいまして。手が
離せなかったもんで」
「この長屋に住む以上、言い訳は聞きたくないね。皆、ちゃんと遣
ってるんだから。そりゃ、この長屋は古いよ。口の悪いやつらは貧
乏長屋なんて言う。だがね、塵一つ落ちていない長屋とも言われて
いるんだ。すぐ遣っておくれ」
 松吉は眠そうな目を擦りながら、頭を掻き掻き外に出てきた。松
吉が厠の掃除を始めると、茂平が後ろに立って見張っている。
 厠もゴミ捨て場も金を生む場所である。茂平は、汚すなどもって
の外と思っている。反故などが捨ててあると、誰が捨てたと一軒一
軒に聞いて廻る。
「何度言ったら判るんだい。いいかい、紙切れ一枚でも捨てちゃー
駄目だよ。ちゃんと紙屑買いが来るんだから」
 松吉は、仕事に篭ることが多く、店子たちとも余り話をしない。
陰気な感じの若者である。結構腕は良いらしく、問屋がちょくちょ

(9)






く顔を出している。だが、どのような飾り物を作っているのか店子
たちは知らない。


   (二)

 そんな松吉の家に小粋な様子の女が訪ねて来た。見れば中年増。
長旅だったようで伽半も汚れ、着物には埃が付いている。戸を開け
た松吉はびっくりした顔をしたが、すぐに女を家に入れた。
 しばらくすると松吉と女が茂平の家の戸を叩いた。着の身着のま
まで江戸に来たのであろうか、着替えてはいない。

「そうですか。松吉の親戚の方ですか。川越から……それは大変で
したね。ご不幸があったとはご愁傷さまです。ちょうど良かった。
一軒空いています。そこで良ければお貸ししますよ。えーと、小浜
さんでしたね」
 小浜は、松吉の向かい側の家に住むことになった。普段、長屋の
連中とは滅多に話をしない松吉だが、一軒一軒に小浜を紹介した。

「まぁ、旦那さんがお亡くなりになったんですか」
「いえね、急な病気でコロッと逝っちゃいまして。松吉は甥っ子な
んですが、物心付くと俺は江戸に行くと出て行きまして。姉が死ん
だ時も戻らなかったんですよ。しょうがない子供だと思っていたん
ですが、あたしがこうなってみると頼るのは松吉だけ。人生、どう
なるか判りません」
 お鶴は、聞きながら涙を溜めている。このような話を聞くといつ
も涙を流す。

 志乃の家に入ると、小浜はいろいろと話し出した。

(10)






「菖蒲なんか生きているようだね。志乃さん、あなた人間は描かな
いのかい。これだけ描けるんだ。描いてみなさいよ」
 初対面だと言うのに捌けた話しっぷりだ。松吉は土間に立って黙
っている。
「そうですね、いずれと思っていますが」
「いずれねぇ。志乃さん若いうちだよ、いろいろ遣ってみるのは」

 松吉と小浜が半次郎の家に行くと、半次郎は教えている最中であ
った。小浜は入り口で、
「小浜です。宜しく」
 と頭を下げただけだった。

 小浜が住みだしてから、長屋は賑やかになった。小浜のどことな
く垢抜けた身のこなしや気風の良さは、辰巳芸者を思わせたし、伝
法な口のきき方は周りに張りのある雰囲気を与えていた。
 小浜は朝が早い。起きるとお稲荷さんに手を合わせ、井戸端で米
を研ぐ。そこに志乃やお鶴が加わる。松吉は自分で米を研ぎ飯を作
っていたのだが小浜が来てから井戸端に顔を見せなくなっていた。
どうやら小浜と共に食事をとっているらしい。
 井戸端でのお喋りが終われば、長屋の其処此処から米を炊く匂い
や、魚を焼く煙が出てくる。そして、八五郎は、行ってくるぜと道
具箱を肩に背負い、威勢良く家を出て行く。松吉の家からは金槌で
鏨を叩く音が聴こえ、五ツ前後になれば半次郎の家に寺子が集り、
ワイワイガヤガヤと黄色い声を上げ出す。半次郎の食事は、寺子が
順繰りに持ってくる事になっている。こうして茂平長屋の一日が始
まる。
 茂平だが、自分で食事を作ることはない。大抵が屋台の蕎麦か握
り鮨で済ませる。たまにだが、弁当を買ってきて家で喰うこともあ
る。雨の日などは面倒だと飯を抜くこともある。総てにきちんとし

(11)






ている茂平なのだが、食事だけは不規則だった。いつも茂平に小言
を言われっぱなしのお鶴は、ここぞとばかりに言った。
「茂平さん、駄目じゃないですか。きちんと食べなければ」
「お鶴さん、判っておりますよ。ただ胃の腑が言うことを聞かん。
こればかりは私もどうしようもない」
 と言っておきながら、お鶴がお裾分けを持ってくるとペロッと平
らげてしまう。要するに飯を作るのが面倒なのだ。

 小浜は、どういう訳か長屋の外には出なかった。たまに出歩くに
しても夕方である。しかも必ず松吉と一緒だった。仕事もしていな
いようだ。
 お鶴などは佐吉がいるのも構わずに八五郎に言う。
「いいご身分だね。旦那が残したんだよ。あやかりたいね」
「てやんでぇ。こちとら江戸っ子よ。宵越しの銭なんか持たねぇ。
やだね田舎もんは。銭を眺めてニヤニヤしてるんだ。気持ち悪いっ
たらねぇや。なー、佐吉。そうだろう」
「へぇ、棟梁の言う通りで」
「佐吉、いいんだよ。好きなこと言って。この人、あたしには月に
一両ちょっとしか渡さないんだよ。いくら下戸の棟梁って言われて
いても結構良い手間賃取ってんだよ。わたしゃきちんと知ってるん
だからね。佐吉だって、この人からちゃんと貰ってるんだろう」
「へぇ、仲間うちからも羨ましがられています」
「松吉っ、余計なことを言うんじゃねぇよ。鶴に渡してみろ、酒に
化けるだけじゃねぇか」
「あんた、そんなこと言っていいのかい。子供もいないんだ。酒ぐ
らいいいじゃないか」
 お鶴は、すぐに泣く。
 実際、八五郎の手間賃は良かった。八五郎は、宵越しの銭なんか
と粋がってはいるが、自分にもしもの事があってはと、恋女房お鶴

(12)






のために金を貯めていた。
 お鶴たちが言い合っていると、
「宜しいですか」
 と志乃の声がした。佐吉が戸を開けると志乃が手に丼を持って立
っていた。
「お裾分けです。おしたしを作りましたので……あら、お鶴さん、
泣いてるんですか」
「この人が、あたしのことを呑ん兵衛だって……」
「あら、違うかしら」
 お鶴が泣きやんだ。
「あーそうでしょうとも。どうせ、私は呑ん兵衛ですよ。子供がい
ない寂しさなんか志乃さんには判りませんよ」
 と言いながら急に真顔になった。
「志乃さんもそろそろ見つけなきゃね。あんた誰か居ないのかい」
 泣いてたことなどすっかり忘れている。確かに志乃も、自分にそ
のような時が来るとは思っている。だが、焦る気持ちなどは全くな
かった。
「ねぇ、小浜さんだけど、先生とお似合いな歳だと思わないかい。
でも……先生は娶る気持ちなんかないみたいだしねぇ。結構見栄え
が良いのに女遊びもしないらしいよ。世の中、勿体ないことが多い
ね」
 志乃は笑って聞いていたが、すぐにお鉢が廻ってくる。
「あんたも同じだよ。女らしくなったのに。志乃さん、あんた綺麗
になったよ」
 確かに志乃は綺麗になっていた。色白で細面。目鼻立ちもはっき
りしている。ぽってりとした唇や、ほど良い肉付きの体付きは男心
をくすぐる。しかし、言い寄る男はいないし、志乃も興味を抱くよ
うな男に出会ってはいなかった。

(13)






   (三)

 江戸は夏を迎えていた。
 長屋でも戸を開け放ち、簾をかけて風を呼んだ。夕方ともなれば
蚊遣粉の匂いが路地に流れる。
 小浜が長屋に来てから半年ほどが経った。小浜は、すっかり長屋
に溶け込んでいた。店子たちの挨拶は、今日も暑いねぇになってい
たが、相変わらずの毎日。変わったことと言えば、志乃の仕事であ
った。
 版元淀屋は、志乃が描いた草木の絵を表具屋に見せた。絵を見た
表具屋は飛びついた。草木の描かれた襖絵を思い付いたのだ。淀屋
は志乃に言った。
「志乃さん、そう言うことなんだけどどうする。ただし条件がある
よ。襖屋の仕事よりも淀屋の仕事を優先する。これでどうだい」
 志乃は嬉しかった。
 襖絵とは言っても、予め唐紙や襖紙に絵を描くのではなく、仕立
てた襖に絵を描くのである。襖屋の目論見は当たった。大店や武家
屋敷から多くの注文が入った。志乃は、自分の部屋に襖を持ち込ん
でもらったり、屋敷に行って絵を描いた。羽振りの良い大店などは
季節ごとに襖を替えた。
 小浜は、相変わらず人間を描けと言っている。志乃は、寺子たち
を描いたことがある。志乃は、その絵を小浜に見せたが、小浜は、
にこっと笑い可愛いねぇと言った。
「志乃さん、男でも女でも構わない。大人を描きなさいよ。ただ変
な絵は止めなよ」
 変な絵と言われても、志乃には判らない。大人を描いてみたいと
は思うが、どうも感ずるものがない。子供は可愛いい。見ていれば
自然と描きたいとの思いが出てくるが、大人にはそのような感情が
湧いてこない。

(14)






 暑い朝だった。
 志乃は、家中の戸を開け放ち、庭に咲く朝顔を写生していた。襖
絵に使うつもりだ。ふと、入り口に人の気配を感じて振り向くと、
小浜が立っていた。明るい日差しの中に立つ小浜の顔は輝いて見え
た。それに程よい肉付きの体に衣紋を抜いた浴衣の姿。志乃は、小
浜を綺麗だと思った。
「ちょっと良いかい」
 小浜は、そう言いながら部屋に上がってきた。朝顔の絵を見てい
るが、何やら顔付きが厳しい。志乃は気になったが筆を止めなかっ
た。
「志乃さん、くどいようだけど、まだ大人を描く気にならないのか
い」
「……草花を見ると可憐で愛おしいと思います。子供は愛らしく可
愛いと思います。そういう時に描きたくなります。でも大人には」
 小浜は、じーっと志乃を見ていたが口を開いた。
「あんた……まだ、知らないね」 
「えっ!」   
 志乃は、その言葉が意味することをすぐに理解した。理解した途
端、何故か顔が赤くなり俯いてしまった。小浜は、障子を閉めるよ
と言いながら、さっさと動いた。風の流れが止まった。部屋の中は
暑くなっていった。見ると小浜は後ろを向き帯を解きだしている。
驚いて見ている志乃の前で、小浜の浴衣が落ちた。
「あっ!」
 志乃は思わず声を上げた。背中一面に色鮮やかな緋牡丹の刺青が
あった。小浜は、顔だけを志乃に向けた。
「驚いたかい。つべこべ余計な事を訊いちゃ駄目だよ。描いて欲し
いんだ、あんたに。いずれ、花は萎んで枯れちゃうからね」
 志乃は、銭湯でもこれほど綺麗な刺青を見たことがない。
 ―― 綺麗……。でも、花は、いずれは萎んで枯れる……

(15)






「今すぐにでも描いて欲しいんだけど……その前に教えたいことが
あるんだ。あんたも裸におなりよ」
 志乃は、何がなんだか判らなくなっていた。ただ呆けたように小
浜を見ていた。小浜は志乃を立たせ、帯を解いて浴衣を脱がせた。
志乃は恥ずかしかった。女の証を知ってから、自分の裸を他人に見
せたことなどない。
 小浜は、大きな目で志乃の体を上から下へと見ている。志乃は、
見られているだけなのだが何やらくすぐられているような気持ちに
なり、真っ赤になった。
「綺麗な体だねぇ。いいかい、よーく聞くんだよ。此処にいるのは
小浜じゃない。いいね」
 志乃は、小浜じゃないと言われても意味が判らない。返事もせず
にいると、小浜は志乃の目を閉じさせた。志乃は怖い気持ちもあっ
たが、小浜が何をしようとしているのか、何となく気付いていた。
志乃は、胸に小浜の手を感じた。立っているのが辛い。志乃の体か
ら力が抜けていった。志乃は、ゆっくりと畳みの上に崩れた。小浜
の手と体が横たわる自分を包んでいる。志乃は目を閉じて、される
がままでいた。
 生まれて初めて知る感覚であった。

「さっ、目を開けてごらん」   
 目の前に汗に光る小浜の体があった。志乃は体を動かそうと思っ
たが力が入らない。
「勘違いしちゃいけないよ。あんたに思いがあるからしたんじゃな
い。あんたが女だってことを教えたかっただけなんだからね。何か
判ったかい」
 志乃は、何かと言われ困ったが、思わず頷いた。
 ―― 女って……
 小浜は優しい顔になっていた。

(16)






「ふふ、女っていいもんだろう。あんたは優しい男と一緒になって
欲しいよ」
 小浜は、あんたは、と言った。
「女絵師……。粋じゃないか。羨ましいよ」
 小浜は、そう言いながら志乃の体に浴衣を掛け、自分も浴衣を着
た。
「明日、また来るけど……もしも、その気になったら描いてくれる
かい。障子を締め切るから、あんたも暑いと思うけどね」
 小浜は、土間の方に体を向けたが、
「あっ、背中のことは、人に話しちゃ駄目だよ」
 と言い残して出ていった。
 志乃は、じっとしていたが、ふーっと笑みがこぼれてくるのが判
った。そして、浴衣を着て障子を開け放なった。部屋の中に風が流
れこんできた。
 志乃は、清々しさを感じていた。

 翌朝、志乃は、部屋を綺麗にして半紙と絵皿、筆を用意した。
 辺りが明るくなりだした頃、小浜が来た。二人は目を合わせ、ニ
コッと笑った。志乃は、人の目が届かない程度の隙間を残して障子
を締めた。少しだが風は通る。
 もう言葉はいらない。小浜が浴衣を脱いだ。志乃は改めて小浜の
体を見た。
 ―― これが大人の女……
 起伏のあるふくよかな肉置き。たっぷりとした乳房は勢いがあり
体を動かすと重たく揺れる。
 志乃は、昨日の感触を思い出した。
 ―― 描きたい!
 この思いが体の底から湧き出てきた。身震いする思いだ。だが、
気になることがあった。綺麗な肌に青痣のような痕がある。

(17)






「小浜さん、痣が……」     
「つべこべ聞いちゃ駄目って言ったろう。痣を描くかどうかは、あ
んたに任せるよ」

 志乃は、小浜を庭に面した障子の前に横座りさせた。背中をこち
ら側にして右手は畳につけている。志乃は、改めて小浜の背中を見
た。薄っすらと汗に包まれた緋牡丹が綺麗に咲いている。まるで、
志乃に挑みかかるような様子だ。
「小浜さん」
 声を掛けた。
「えっ!」
 小浜は、顔だけを志乃の方に向けた。
「そのままで……。小浜さん、動かないで欲しいんだけど、意識す
ると体に力が入ります。それとない感じで居てくれますか」
「志乃さん、あんた顔も描くのかい。背中だけでいいんだよ」
「描くのは私です。つべこべ余計な事を言わないでください」
「ふふ、判ったよ」

 志乃は、何枚も下絵を描いた。二人は無言だった。志乃の筆は流
れるように動いている。あれほど描く気が起きなかったのに。志乃
は夢中になって描いた。右の脇から重い乳房が顔を見せている。志
乃は筆を動かしながらクスッと笑った。そしてつぶやいた。小浜さ
ん、ありがとう。
 既に九ツは過ぎていたはずだ。描き出してから三時ほどが経つ。
「小浜さん、疲れたでしょう。終わりましたよ」 
 小浜は部屋中に散らばった下絵を見た。凄い数だ。
「しかしまー、随分描いたもんだねぇ」 
「えぇ、小浜さんて余りにも綺麗だから。これを元に仕上げます。
大きさは三尺四方。描くのは仕事の合間になりますから……結構、
 

(18)






日数は掛かります」
「何日でもいいよ。ところで手間賃だけど遠慮なく言っておくれ」
「ふふ、小浜さんからは、昨日、お金よりもっと大切なものをいた
だきましたから」
「ふふ……判ったよ。志乃さん、あたしも嬉しい」

 このような時に限って仕事が舞い込む。小浜の絵は、ほぼ描き上
がっているが、志乃は、細かな所に筆を入れたかった。後四、五日
は掛かりそうだ。


   (四)

 夜中の五ツ頃、長屋に叫び声が上がった。小浜の家らしい。
 半次郎と八五郎が路地に飛び出した。見ると黒装束に身を包んだ
者が厠の方に走って行く。黒装束は三人。半次郎と八五郎が追い掛
けたが、三人は塀を乗り越えて逃げてしまった。店子たちが小浜の
部屋に入った。小浜は俯せに倒れている。お鶴が小浜を抱いた。小
浜に怪我はないようだがブルブル震えている。これ程の騒ぎなのに
松吉の顔が見えない。茂平は、松吉の家を覗いたが、松吉はいなか
った。茂平は、小浜に優しく声を掛けた。
「小浜さん大丈夫かい。物盗りかも知れんな。今夜はあたしの所に
居なさい。八五郎、済まんが、自身番に知らせてくれないか」

 茂平は、いたわるようにして小浜を自分の部屋に連れていった。
小浜と二人になると訊いた。
「さっきは、物盗りと言ったが、裏長屋に黒装束の者が押し込むこ
となど滅多にない事だよ。何か事情があるのかい」
 小浜は、いえ別にと言うだけだった。

(19)






 志乃とお鶴が、お茶を入れましょうと部屋に上がった。だが、さ
すがのお鶴も何を話して良いか判らない。
 すでに四ツを過ぎているはず。木戸は四ツに閉まるが、松吉は戻
ってこない。
 茂平の部屋に張り詰めた空気が漂っていた。

 戸を叩く者がいる。志乃が立ち上がり、戸を開けた。
 見れば、半羽織姿で朱房の十手の定町廻り同心が立っていた。
「大家の茂平はいるかい」
 茂平は、別に慌てることもなく、ゆっくりと立ち上がって土間に
降りた。
「へぇへぇ、茂平はあたしですが」
「拙者、南町奉行所同心、神田右近と申す。この男だが、おぬしの
店子ではないか」
 右近が後ろを向き、顎をしゃくった。後ろから岡っ引きの勇造が
男を負ぶったまま前に出た。勇造が男を腕に抱き変えて部屋に入っ
てきた。
「松吉っ!」
 大声を上げたのは小浜だった。
 松吉は框に寝かされたが、血だらけ。辛うじて息をしている状態
だ。小浜が、寝ている松吉を抱いた。右近が言った。
「大丈夫だ。暴行を受けたようだが死ぬことはない。後で傷口を洗
ってやれ。ところで先ほど押し込みがあったと知らせが入ったが…
…小浜とは、おぬしか。松吉とはどのような間柄じゃ」
 小浜が、甥っ子ですと小声でつぶやいた。
 右近が話した。
「自身番が木戸を閉めてすぐの事、松吉がふらつきながら木戸まで
来た。どう見ても逃げてきた様子。自身番は、松吉を知っている。
金は盗まれたかと訊けば、頭を横に振るだけ。ただ、暴行を受けた

(20)






だけであれば、拙者が出張ることもないが、同じ長屋の店子が同じ
日に被害に合った。何か事情があるのではと思い出張ったが。どう
なのじゃ。おぬしたちが事情を話し、訴えを起こせば良し。起こさ
ぬのであれば、拙者とて動く訳にはいかん。如何する」
 小浜と松吉が顔を合わせた。小浜が言った。
「お役目ご苦労さまです。神田様、これはたまたま二人が同じ日に
被害に合っただけでございます。物を盗られた訳でもなし。事情を
と申されましても……何もございませんが」
 右近は、じーっと小浜を見ている。
「そうか。相判った」
 右近は、勇造に、おい、と言いさっさと帰ってしまった。

 松吉は自分の部屋に寝かされた。傷は大したことはない。だが、
打ち身が酷いのか歩くことが出来ない。
 翌日、小浜は志乃に医者を頼んだ。医者は、左の脛の骨に(ひび)が入
っている。治るには十日から二十日掛かるだろうと言った。小浜は
医者の話を聞き終わると茂平の家に行った。

「大家さん、皆さんには優しくしていただいたのにご迷惑をお掛け
いたしました。松吉が歩けるようになりましたら、二人で引越しま
す」
「なにも引っ越すことはないでしょう。ただの物盗りと暴漢だ。小
浜さん、あたしゃ、水臭いのは嫌いだよ」
 この言葉を聞いた小浜は、下を向きながら、いえ、ご迷惑が……
と言って黙った。
 しばらくして、茂平は、半次郎の所に行き何やら話をした。

 志乃は、小浜の絵を完成できないでいた。
 ―― 先日の騒ぎ……

(21)






 心に動揺があるのだろうかと思ったが、今は落ち着いている。
 ―― 後、少しなのに……
 と自分に呟き、筆を持って絵に向かうが手が動かないのである。
筆はピクリとも動かない。志乃は何故なのか理由が判らなかった。

 ―― 何が邪魔をしているのか…… あっ! 背中の痣……

 小浜は松吉を介抱していた。
「またあいつらが来ます。叔母さんだけ逃げてください」
「なに言ってんだよ。馬鹿なこと考えてないで、早く治りますよう
にって、お天道様にお願いするんだよ。あたしはお稲荷さんにお願
いしてるからね。お天道様とお稲荷さんにお願いすれば、早く治る
よ。脛で良かった。腕だったら仕事に関わるところだったね」
「……やはり叔母さんは逃げた方がいい。もう、俺を襲うことはな
いよ」
「判ったような口を利くんじゃないよ。いいかい、あいつらは、あ
たしの居場所を知ってたんだよ。変じゃないか。松吉を襲う必要な
んかなかったんだよ。あいつら、なんか言ってなかったかい」
「……」
「松吉、身内はおまえだけだよ。何でも話しておくれよ。寂しいじ
ゃないか」
「……あの女の身内はおめえだけだそうだな。(かくま)ったそうじゃねぇ
か。許せねぇ……」
「それごらん。あたしのせいでおまえにも迷惑を……悪かったね」
「叔母さん、俺はそんなふうには考えちゃいねえ。頭なんか下げな
いでくれよ」
「さ、早く治して、一緒に何処かに行こうよ」


(22)






   (五)

 数日が経った。長屋はいつも通りの毎日に戻りつつあった。
 そんな中で、半次郎が押入れから埃だらけの刀袋を取り出してい
た。埃を払い、袋帯を解いて刀を出した。番指拵えの刀。目貫は、
さすがに竹に変わっているが、元は金無垢であったはずだ。これだ
け立派な拵えの刀……
 半次郎が、右手で柄を左手で鞘を持って静かに刀を抜いた。刀を
立てて表を自分の方に向け、じっと見た。次に裏を見た。刃切れや
刃毀れはない。長く手入れをしていなかったが錆も浮いていない。
 半次郎は使わないで済めば良いがと呟きながら、打ち粉を叩いて
紙で拭いた。左手で刀を立て陽にかざした。銘は直信。直刃で細身
の綺麗な刀だ。
 ――昔は世話になったな……
 丁寧に丁子油を塗り、鞘に戻した。

 志乃は、小浜が心配であった。
 親しくなったつもりだったが、小浜は昔のことを一切、話してく
れない。川越から来たと言う。元は芸妓だったのではないかと勝手
に考えていたが、緋牡丹の刺青。それに幾つもの痣。芸妓であれば
刺青など入れない。小浜には何かある。背中のことは人には話すな
と言った。考えれば考えるほど、思いは暗い方に向かっていく。

 志乃は、版元淀屋に行ったついでに葛餅を買い、それを持って松
吉の家に行った。
「志乃です。宜しいですか」
 中から小浜の声がした。
「どうぞ、入っていいよ」

(23)






 志乃が松吉の家に上がるのは初めてだった。松吉は、左足を投げ
出して座っていた。二人に目を遣ったが表情は暗い。志乃の顔付き
も厳しくなる。
「どうしたんだい志乃さん。お通夜じゃないんだ。そんな顔して」
「済みません。松吉さんにお見舞いと思って……」
 志乃は葛餅を出した。
「あら、気ぃ遣わしちゃったね。三人で食べようか」
 小浜は立ち上がり、茶箪笥から皿を用意している。
 志乃は、部屋を見回した。綺麗に整理された道具類が仕事台に置
いてある。それに壁にも掛けてある。松吉の仕事振りを髣髴とさせ
る。志乃は、同じ職人として、このように道具類を大切にする松吉
を知り、嬉しかった。
「今度は、にこにこ顔かい。あんたは、ころころ変わるね」
「だって、道具類が綺麗に……」 
 その時、松吉が笑った。志乃は松吉の笑顔を初めて見た。誰と顔
を合わせても、挨拶は頭を下げるだけ。無表情で話をしない松吉に
は、あのお喋りなお鶴も声を掛けない。
「松吉さんも笑うことがあるのね」
 小浜が急に笑いだした。
「松吉はね、良い腕なのにまだ自信がないのよ。仕事に打ちこみ過
ぎなの。頭の中は仕事だけ。せっかくお江戸で問屋さんに可愛がら
れるようになったというのに……」
「えっ! 小浜さん、それはどう言うことなんですか」
 小浜は、いけないと言うような顔をして話を変えた。
「絵は、まだなのかい」
「済みません。もうちょっとなんですが、筆が動かなくて……」
「いろいろあったからね。あんな事がなければねぇ。驚かせちゃっ
たね。でもそろそろ描き上げて欲しいんだけど」
 志乃は返事をしなかった。刺青とか事件のことが頭の中でぐるぐ

(24)






る廻っていた。
「忘れろと言っても無理だろうけど、今回のことはあんたには関係
ないことなんだよ。余計なことは考えないでおくれ。いいね」
 志乃は、頷く以外になかった。

 志乃はお米を研ごうと思い、井戸端に行った。まだ誰も来ていな
い。研いでいると松吉が路地をゆっくりと歩いていた。
「あら、松吉さん、歩けるようになったんですね。良かった」
 松吉は頭を掻きながら井戸端に来た。見ているとお稲荷さんに手
を合わせている。
「葛餅、美味しかったです。あのー、小浜叔母さんの絵を描いてい
るんですか。どんな絵なんですか」
 小浜は話していないようだ。志乃は話そうかと思ったが止めた。
「内緒。松吉さん、もうすぐ仕上がりますから、小浜さんに見せて
貰ってくださいな。松吉さん、もう仕事は始めたんですか」
 松吉は頭を横に振り、ではと言って家の方に歩いていった。

 お鶴が来た。井戸端に座ると、ぷーんと酒の匂いがした。
「お鶴さん、匂いますよ」
「いいんだよ。亭主の奴、でかい仕事を請け負ったらしくて泊まり
込み。もう何日も帰ってこないんだから。佐吉も佐吉だよ。顔も見
せやしない。そりゃ男は仕事だからね。あたしゃ構わないけどね」
 お鶴たちは、良く夫婦喧嘩もするが、聞けば噴出しそうな事が原
因だ。犬も喰わぬとは良く言ったものだなどと志乃も呆れてしまう
ことが多い。
「志乃さん、大きな声では言えないけどね、小浜さんのこと、どう
思う」
「どうって……」
「変じゃないか、身内同士が襲われるなんてさ。あたしは何かある

(25)






と思うね。小浜さんは、小粋で気風もいい。あたしは好きなんだけ
ど、川越で何やってたのかも話さない。志乃さん、あんた何か聞い
てないかい」
 志乃の頭に緋牡丹や痣が浮かんだ。
 ――誰かに話せば、小浜さんを助けることができるかも知れない。
 そうとも思うが、判断が付かなかった。
「別に、何も……」
「そうかい。小浜さんたち、また襲われるんじゃないかとあたしは
気になるんだけどね。神田という同心は、そうかって言って帰っち
ゃったけどね。小浜さんも何か事情があるんだったらお上に話した
方がいいんだよ。あんたも寝る時は、戸締りをきちんとした方がい
いよ」
 お鶴の言う通りであった。志乃も、また襲われるのではと考えて
いた。


   (六)

「叔母さん、走るのは無理だけど、俺の脚はもう大丈夫だ」
「本当だね。あたしはすぐにでも身支度できる。おまえも道具類を
まとめといた方がいいよ。明日か明後日にでも出ようね」
 この日、小浜は茂平に店賃を清算した。引っ越すと言う小浜を、
茂平は引き止めようとはしなかった。
「小浜さん、長屋の連中には挨拶をするのかい」
「大家さんの方から伝えていただけますか。夜逃げするようで気が
引けますが……。どうかお願いします」
 小浜は畳に頭を擦り付けて頼んだ。茂平は判りましたと言った。

 次の日の夕暮れ、小浜と松吉が身支度を整え、夜が来るのを待っ

(26)






ていた。
「松吉、五ツ頃出るからね。もっと遅い方がいいんだけど、木戸が
閉まるからね。足は大丈夫だね。道具類は二つに分けたね。一つは
あたしが背負うから」
「済みません。足は大丈夫です。叔母さん、遠くに行きましょう」
「そう、遠くにね」
 二人は、小田原に行くつもりだった。

 薄い月明かりのなか、二人は長屋を出た。
 夜っぴいて歩けば、日の出までには戸塚辺りまで行けるはずだ。
松吉は大丈夫と言っていたが、やはり足を引きずっている。
 二人は旅行灯を持っていたが、江戸を遠く離れるまでは目立たな
いようにと灯していない。小浜は、必死になって歩く松吉を可哀相
だと思った。小浜は、涙しながら歩いた。
 ―― 仕方なかったんだ。仕方なかったんだよ。松吉、おまえまで巻き込んじゃってご免ね。でも、仕方なかったんだ。
 小浜は、同じことを何遍も頭の中で繰り返した。
 あと半里ほどで品川宿というところに差し掛かった。辺りには家
もなく寂しい道が続く。街道を逸れないようにと、二人は下を見て
歩いていた。
 突然、バタバタバターッと、人が駆け寄る音がした。二人は、ギ
クッと振り返った。五、六人の男がこっちに向かっている。
「松吉、走るんだよッ!」
「叔母さん、何処かに隠れた方がいい」
 二人は手を取り合って茂みに身を隠そうとした。
「おっと待ちねぇ。今更、隠れようったって無駄な足掻きよ」
 二人は、六人の男に取り囲まれた。着流しに一本差し。顔は隠し
ていない。小浜は男たちを見た。知っている男ばかりであった。
「やっと捕まえたぜ。姐さん、苦労させやがって。此処で殺っても

(27)






悪くはねぇがな、それじゃー、俺たちの腹の虫が収まらねぇ。安中
までお連れしやすぜ。おいっ、二人をふん縛れっ!」
 男たちが二人に手を掛けようとしたその時、
 ハックション!
 少し離れたところで大きなくしゃみ。男たちは振り返った。月明
かりに照らされて、ボーっと侍が立っているのが見えた。その侍が
近づいて来た。
「女、子供相手に六人か。大袈裟なことだ。さっ、手を離せ」
 小浜と松吉は、その侍を見た。
 そこに立っていたのは、あの半次郎だった。すでに襷を掛けてい
る。
 ―― しくじったな。もっと早く追い着くべきだった。肝心な時に
風邪を引くとは……。いかん熱がありそうだ。意識が朦朧とする。
 半次郎は、早足で二人を追いかけたつもりだったが来るのが遅か
った。案の定、男の一人が小浜の首に腕を回し、刀を喉に突き付け
ている。松吉は、まだ足が利かないらしく、へたり込んでいる。
「浪人風情が一人で何を粋がっていやがる。一歩でも動いてみろ、
小浜の命はなくなるぜ。さあ、退きやがれ」
「おぬしらであれば、拙者一人で充分」
 と言った途端、ヒューッと音がした。と同時に、ギャーッと叫び
声。
 小浜に刀を突き付けていた男が目を押さえた。指の間から血が噴
き出している。その男がぶっ倒れた。半次郎が小柄を投げたのだ。
「小浜、逃げろ!」
 半次郎の声を聞き、小浜は松吉の手を取って走り出した。だが、
松吉は走れなかった。男四人が刀を抜き、半次郎を取り囲んだ。そ
して一人が小浜たちを追った。
 その時、呼子が聞こえ、凄い形相で二人の男が走ってきた。
「神妙にしろ。南町奉行所同心神田右近だっ!」

(28)






 勇造も居る。威勢が良い名乗りではあったが、二人ともゼイゼイ
言っている。
「右近殿か。助かった。小浜たちを頼む」
 勇造が小浜たちを追った。半次郎と右近は背中合わせになり四人
に対した。
「右近殿、勇造一人で大丈夫か!」
「あいつは目潰しを使う。凄い効き目だ。心配はない。ところでお
ぬしは寺子屋の先生、刀など遣えるのか」
「お二人さん、なに戯言を言ってんだいよ! 二人一緒に冥土に送
ってやらー。おいっ! 殺っちまえ」
 四人は、右手に刀をだらっと持ち、機会を窺っている。やくざ特
有の喧嘩剣法だ。半次郎と右近は、少しづつ離れていった。この方
が闘い易い。
 遠くから、ギャーッと叫び声が上がった。
「半次郎殿、勇造だ。一人は終ったぞ。ところで、こいつら掛かっ
てこんな。こちらから行くとしよう」
 言うなり、右近は一人に斬り掛っていった。もの凄い切っ先だ。
もう一人が右近の背後から斬り掛けた。右近はこれを読んでいた。
振り向きざま、男を斬り下げた。男は右肩から斬り裂かれた。
 半次郎は、まだ二人と対峙したまま刀を交えていない。右近の相
手を見ると、わなわなと震えている。そこに勇造が戻ってきた。
「どうした」
「へぇ、ふん縛ってあります」
 勇造はそう言うなり、右近の相手に何か粉のような物を投げつけ
た。男は叫び声を上げて地面をのたうち廻った。右近が半次郎を見
た。
「半次郎殿、助太刀は!」
「無用じゃ!」
 二人の男が同時に半次郎に斬り掛かった。半次郎は左膝を地面に

(29)






付けたかと思うと刀を右上に斬り上げた。一人が腹を裂かれた。と
同時に半次郎は、さっと立ち上がり、刀を右八双に持っていき、も
う一人を袈裟懸けに斬り倒した。
 流れるような刀遣い。目の覚めるような腕だ。
「おぬし、読み書きそろばんだけじゃと思っておったが遣るな」
「いやー、何年振りかで刀を遣った。ハックション! 実はな、怖
かったのじゃ」 
 二人は顔を見合わせ、大声で笑った。やくざ二人は生き証人である。

 帰りの道すがら、右近は半次郎に、昔は何をやっていたのかと訊
いた。
 半次郎は、ある藩で吟味与力だったと言う。右近は同心である。
幕府と藩の違いはあるが、位から言えば半次郎の方が上になる。

 半次郎は吟味役であったが、腕が良かったためよく捕り物に引っ
張り出された。幾つもの手柄を挙げ、周りからも一目置かれる存在
であった。だが、半次郎は喜びを感じない。
 ―― どうも、このような仕事、拙者には向いておらん。
 半次郎は、とにかく本を読むのが好きであった。藩内を歩いてい
ても、珍しい植物などを見つけると、日暮れまで飽かず観察する事
が多かった。
「おい見ろよ、与力の半さん。また遣ってるよ」
「腕も良いが……。あー言うのを学究肌と言うのかのう」
「妻も娶らずに……よう飽きもせず……」
 周りの者たちも半次郎の学問好きを認めていた。
 ―― 私は、自由に学問が出来る道を選びたい。
 半次郎は奉行にお役ご免の申し出をした。奉行は、かなり難色を
示したが、半次郎の頑固さを知っていた。半次郎は、浪人の身とな

(30)






り江戸に出て来た。
 話しを聞いた右近が、
「で、半次郎殿、今の暮らしは……」
 半次郎は、今の寺子屋生活に満足していると言った。
「だが、おぬし、よくも小浜を見つけられたな」
「茂平に頼まれたのだ。見張ってくれとな。耄碌しているようで、
あの男はしっかりしている。昼は寺子屋、夜は見張り。寝不足が続
いてな。お陰で風邪を引いてしまった」
 と言い、また、ハックション! と馬鹿でかいクシャミをした。
半次郎が鼻を啜りながら右近に言った。
「奉行所も遣るな」
「当たり前じゃ。勇造の子分に張らせていたのよ。小浜め、何の事
情もないなどと。拙者の目は節穴ではないわ」
 
 神田右近は八丁堀に小体な屋敷を構えている。敷地は、七十坪ほ
ど。妻の絹代と女中の喜和と三人暮らしである。子供はいない。右
近は、ほっそりとした体躯で上背があり、半羽織姿に朱房の十手が
良く似合った。切れ長な目。涼しげな面持ち。訴えを聞く時も、捜
査をする時も、出合いの時も、表情一つ変えずに淡々と仕事をこな
す。滅多に笑うこともなければ表情を変えることもない。何日しか
能面右近などと渾名されていた。しかし、同心とは下級武士であり
扶持も少ない。謂わば貧乏なのである。そうであっても、岡っ引き
や下っ引きに手当てを渡さなくてはならない。

「奥様、旦那様ですけど、外でお会いしてもチラッと見るだけなん
ですよ」
「いいじゃないか、喜和。家にいる時は違うんだから」 
 右近は、外では颯爽と着物の裾をなびかせ役者のように歩くが、
家に入ると全くの別人になった。まず、絹代と一緒にいる時である

(31)






が、顔は緩みっ放し。
「鬼子母神様のほおづき市と浅草寺の朝顔市に鉢植えを出します。
これで何がしかの費えを補えます」
「如何にも。拙者、絹代の才覚には敬服しておる」
「なにが敬服ですか。そうやってダラダラしているのでしたら、鉢
植えを整えるとか……水遣りをするとか、遣る事は沢山あるのでは
ないですか。貴方!」
 この貴方! の声音如何によって、右近の動作が決まる。高い声
であれば笑っていれば良いが、低い声の場合は、即、行動を起さな
ければならない。右近は、絹代に頭が上がらない。

 南町奉行所に連れて行かれたやくざ二人の口から、思わぬ事が話
された。
 南町奉行は、安中の奉行所に同心の一人を送った。
 三日後、同心が戻ったが、やくざの話は事実だった。

 お白州に小浜と松吉がいた。吟味筋の厳しい取り調べが行なわれ
た。半次郎は関係者として、総ての調べに同席させられた。
 数日後、お裁きが下った。
 小浜は、情状酌量の余地あり。依って遠島の刑。松吉はお咎めな
し。小浜は、二ヵ月後に流人船に乗せられることになった。

 半次郎の部屋に志乃がいた。志乃は、描き終えた小浜の絵を半次
郎に見せている。
「小浜さんから……そうだったのですか。綺麗な絵だ。小伝馬町に
行けば、小浜さんに渡すことは出来るが……」
「半次郎様、小浜さんの事をお聞かせください。それによって、こ
の絵をどうするか決めます」
 半次郎は志乃に語った。

(32)






 小浜は、安中に住んでいた。川越と言ったのは身を隠すための嘘
だった。
 小浜は真面目に小料理屋の仲居を遣っていたが、器量と気風の良
さが災いし、やくざの親分、駒吉に見込まれてしまった。小浜は、
やくざなどは嫌いであり駒吉の事など何とも思ってはいなかった。
だが、駒吉は小料理屋に通い続けた。
 やくざは、二足の草鞋を履く。駒吉は、市中取締りの役も担って
いたが、その腕は大したものだった。揉め事があっても、その場に
駒吉が顔を見せれば、双方とも、
「親分にお越しいたくほどの事はありません」
 と頭を掻き、背中を丸めて立ち去るほどであった。
 小浜は、そんな駒吉の姿を見るうちに絆されたことも手伝い惚れ
てしまった。
 二人は夫婦になったが、小浜は駒吉が裏表のある酷い男である事
を知らなかった。外面は度胸の据わった親分。しかし、家に入ると
酒浸りのいじけた男でしかなかった。小浜を思い通りにしたい。そ
の姿は、駄々を捏ねる子供と同じであった。爪を切ってくれ、背中
を掻いてくれ、体を洗ってくれ……。惚れた弱みではないが、小浜
は何でも駒吉の言う通りにした。駄々っ子は、望みが叶うと、益々
駄々を捏ねる。
 ある日、駒吉は小浜に刺青を彫れと言った。小浜は親から貰った
大事な体。針を刺すなど嫌だと言った。
「馬鹿言うんじゃねぇよ。しみったれた店の仲居だったお前を、大
親分の女将さんにしたのは、何処の誰だい。俺じゃねぇか。良いよ
元に戻りたいんだったら、何日でも戻してやるよ。だがな、俺を嫌
な気分にさせた奴は、どう言う理由か知らねぇが、皆、あの世に行
っちゃうんだな。簀巻きにされて川を流れて行った奴もいたな」
 小浜は、ゾッとしたが、
 ―― 良いじゃないか。惚れた男が、あれほど言うんだ。

(33)






 と痛みに堪えた。
 小浜は、どうせ消すことが出来ない緋牡丹であれば思いっ切り
愛でようと思った。
 ところが、駒吉は、賭場の壺振りをやれと小浜に言った。
「出来ねぇだと!」
 駒吉は小浜を殴った。駒吉が、小浜に壺振りをさせたのは、儲け
のためだけではなかった。小浜を、そして緋牡丹の刺青を見せびら
かしたかったのだ。これも駄々っ子と同じである。
 小浜は肩肌を脱ぎ、賽を振った。緋牡丹小浜は、安中で有名にな
った。整った顔立ち、男好きのする体つき。小浜に色目をつかう博
徒が増えていった。小浜は伝法な言葉を使い、姉御のように振舞っ
た。男を足蹴にすることもあった。
 ―― こんな事……。あたしじゃない。でも、言い寄る男を避ける
ためには仕方ない……
 問題は駒吉であった。壺振りをさせたのは自分でありながら、駒
吉は博徒たちの艶目に嫉妬しだした。しかし、今更小浜に壺振りを
止めさせる訳にはいかなかった。小浜が居なくなれば賭場が寂れる
のは目に見えていた。
 駒吉は酒を呑むと、小浜をいびり始めた。
「壺を振るだけで良いんだよ。お前は、盆に居る奴らに目を遣るが
な、見なくていいんだよ。奴ら、お前が艶目を使ったと思うじゃね
ぇか。お前は、俺の女なんだよ」
 駒吉は暴力を振るいだした。殴る蹴るの毎日。
 ある夜、ぐでんぐでんに酔った駒吉がドスを振り回しだした。小
浜の胸倉を掴み、ドスを真上に持っていった。小浜は駒吉の顔を見
たが狂ったとしか考えられなかった。駒吉がドスを振り下ろした。
小浜は駒吉の手首を掴んだ。二人は揉み合いになった。
 気付くと駒吉の胸にドスが刺さっていた。小浜は恐ろしくなり逃
げようとした。だが、逃げるには金が要ると気付き、部屋にあった

(34)






金を掻き集めた。何処に逃げようかと考えたが、むしろ人が多い方
が身を隠せる。思い出したのは、江戸に居る甥の松吉だった。

 殺しと盗み。本来であれば死罪だが、小浜の証言、安中の奉行所
の話から情状が酌量された。

「半次郎様、船は何処から……」 
「霊岸島だそうだ」
 永代橋から出る流人船に乗せられた罪人が戻ることはない。
「良かった。では、恩赦の時には……」 
「如何にも。何年後かは判りませんが、小浜さんのことだ、病にも
罹らず必ず戻ってくるでしょう」
 二人は見つめたまま語り合った。
 志乃は、何故かは理解できなかったが、小浜に教えてもらったあ
の感覚に似たものを半次郎に感じていた。

 良く晴れた日だった。風も穏やかに流れている。
 霊岸島には見送りをする何人もの人たちがいた。その中に志乃も
半次郎もいた。いや長屋の連中、全員がいた。茂平は皺くちゃな顔
に涙を幾筋も流し、水っ洟を流したままで遠くを見ている。お鶴も
居る。
「志乃さん、聞いておくれよ。うちの亭主ったら、辛すぎて見送れ
ないって言うんだよ。男のくせに情ないったりゃありゃしない」
 そう言いながら、オイオイ声を上げて泣いている。
 止めどなく涙を流しているのは松吉だった。
 
 半次郎が、ふと、後ろの方に目をやると着流し姿の右近がいた。
半次郎は、人垣を分けて右近に近付いた。
「わざわざ小吉の見送り……」

(35)






「人間とは辛いものよ。己の思いとは別に、相手次第で幸せにも不
幸にもなる。だが、どうであれ、罪を犯せば償わなくてはならん。
小吉……戻れれば良いが」
「相手次第……そう言うものかも知れませんな。ところで着流しと
は、非番ですか」
「ん、まーな。年がら年中お役目ばかりでは、体が持たん。許しを
得て参った」  
「家でのんびりすれば良いものを優しいお方だ。許しとはお奉行の
……」
「いや、妻だ」 
「はっ、奥様のの許し……どういう事ですか。解せませんが」
 能面右近の表情が変わった。
「判らんでも良いではないか。おぬしには関わりのないこと」
「私は、学問に打ち込んでおります。学問とは、道理や筋道を解き
明かすもの。スッキリしないことがありますと、余計に知りたくな
ります」
「半次郎殿、拙者と妻の事にとやかく口を挟むものではない。良い
ではないか拙者が、妻の尻に敷かれていようが」
 右近は、ハッとして表情を戻したが、もう遅い。
「尻に……。つまり御妻女に頭が上がらない……。非番の日、奥様
の許しを得なければ外に出る事もできない。と言うことになります
な。先ほど、何事も相手次第と申されていたが……詳しく知りたい
ものです」
 能面右近、情けない顔になった。
「話しても判らんだろう。それほどまでに申すのであれば構わん、
拙宅に来ればよい」
「いや、有難き幸せ。いずれお邪魔致します」
 苦虫を潰したような顔の右近。興味津々、目を輝かせた半次郎。


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 そうこうしているうちに、ギー、ギーっと、艪を漕ぐ音が聴こえ
てきた。流人たちは、品川沖に停泊する本船まで、はしけで送られ
る。はしけの屋形がゆっくりと姿を見せた。人垣の動きが激しくな
った。

 志乃は、懸命に小浜を捜した。
 居た。背筋を伸ばし、屹度、沖の方を見据えた小浜がいた。
「小浜さーん。小浜さーん!」
 志乃は大声で叫んだ。小浜が顔をこちらに向けた。遠目にもくっ
きりと映える小浜の顔。小浜が志乃に気付いた。小浜が、にこっと
笑った。
 志乃は、手にしていた小浜の絵を両手で広げ、上に掲げた。
 小浜の目が大きく開かれた。そして、その目から大粒の涙が零れ
落ちた。
 小浜の絵に、あの痣は描かれていない。

「小浜さーん、待ってますよー。この絵、渡しますからー」

 志乃の目にも涙があった。
 半歩離れたところに、そんな志乃を優しく見守る半次郎の目があ
った。 

    

                         (了)


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