隆佐衛門詞譚りゅうざえもんしたん【一】












       「 刀 」            九谷 六口








   
                
                        二00二年十月二十日 
                  








 木谷きや隆佐衛門りゅうざえもん影房かげふさ
 名前は立派だが、雨漏りがする裏長屋に住んでいる。勿論、素浪人。今日も喰うものがなく、仕方なしに井戸水を飲んだだけ。とにかく腹がへってどうしようもない。
 ――いかんな。このままでは、餓死してしまう。しかし、思いのほか江戸にも仕事がない。
 
 既にこの甚平長屋に住むようになって三年が経とうとしている。この長屋は大家の名前をそのまま付けたもの。
 ――そろそろ月の終わり。甚平が家賃の催促に来る時期だ。米を買う金もないのだ。家賃など払える訳がない。だが、あの甚平は不思議な男だ。たまに金が入ると必ず顔を出す。久しぶりに飯が喰えると思っていても持って行ってしまう。金の匂いが判るようだ。アーはなりたくないものじゃ。
 
 隆佐衛門は、武芸だけでなく一角の教養は身に付けている。収入源は長屋や近辺に住む連中の文の代筆や、口入れ屋で貰った仕事程度。定収入などない。唐傘貼りなども遣ってみたが、余りにも賃金が少なく、また性に合わない。
 ――明日にでも口入れ屋に行ってみよう。与平の奴、いつもニヤニヤしおって碌な仕事を廻さん。今回ばかりは言いなりにはならん。このままでは如何ともし難い。とにかく、寝るか。

 空きっ腹で寝るのは辛い。綿がはみ出した蒲団を敷く。この蒲団、前に住んでいた者が置いていったもの。甚平に聞けば、「使いたいのであれば構いませんよ」との事。ありがたく頂戴した。これは助かった……と言いたいところだが、のみしらみがウジョウジョ。風邪をひくよりはと我慢して使っている。寝返りを打つたびに、腹

(1)






がゴボゴボ音を立てる。ままよ、何とかなるわ。隆佐衛門はいつしか寝入っていた。

 ドンドン! ドンドン!

 戸を叩く者がいる。フッと目を覚まし、聞き耳を立てる。
 ドンドン、ドンドン…… 表に誰かがいるようだ。ここに住み出してから訪れる者などいない。
「あいや暫く。そう激しく戸を叩くものではない。今、開ける。ちょっと待て」
 隆佐衛門、心張り棒を外し戸を開けた。見れば髪を結い上げたうら若き女……
「申し訳ございません、ご就寝中のところ。故あって、このようなご迷惑。お許し下さい」
 矢絣やがすり姿をみると腰元か。
「どうか…… どうかこれをお預かりくださいまし」
 手渡されるとズシリと重い。
 ――ん 刀……
 隆佐衛門が呆気に取られていると、この女、どうぞ宜しくと言うなり長屋路地を走って行った。隆佐衛門は、ちょっと待てと言いながら表に出たが、ほんの一瞬の間に女の姿はかき消すように見えなくなっていた。
 ――どう言うことなのだ。まあ良いか、預けると申しておった。明日にでも取りに来るであろう。
 
 翌朝、長屋の連中の声が五月蝿うるさい。眠い目をこすりながら表に出てみた。
「まだ若いらしいよ。可哀想に…… 何か事情があったのかね」
「追剥か強盗じゃないのかい。何も殺さなくてもいいのに。惨いわね」

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 聞けば矢絣姿の若い女の死体が大川に上がったと言う。
 ――矢絣? まさか!

 隆佐衛門、急ぎ足で現場に向かった。女房たちから聞いた大川の川っぷち。大勢の人だかりがしている。人垣を掻き分け前に出た。被害者には筵が掛けてある。岡引が腕組みをしながら話し込んでいる。そこに着流しに半羽織姿の同心が十手を振りかざして駆けつけた。
「旦那、後ろからバッサリ。袈裟懸けですな。見てください」
 岡引が筵を上げた。
 ――あの女だ!
 綺麗な顔つきである。
 ――誰かに追われていたのか。可哀相なことをした。
 厄介なものを預かってしまったとの思いもあったが、昨夜の女の真剣な顔を思い出すと放っておく訳にも、との複雑な気持ちにかられる。
 ――あの刀には何か曰くが……
 同心には何も言うつもりはなかった。

 長屋に戻った隆佐衛門、何故か刀袋を開ける気にはならない。隠す場所を考えたが裏長屋に押入れなどない。仕方なく畳んだ蒲団の間に隠した。
 ――しかし腹がへって堪らん。与平の所にでも行ってみるか。

 隆佐衛門が与平の店の前に来ると、中から人足風の男が二人出てくる所だった。
「良かったな。これでおまんまにありつける」
 二人はニコニコしながら通りを歩いていった。今日は何か口がありそうだ。隆佐衛門が店に入ると、与平は相変わらずの愛想笑いで迎えた。

(3)






「木谷様、ご機嫌うるわしゅうございますな。何ぞご用でも……」
 実に虫の好かん男だ。小男で太っている。帳場にちょこなんと座り、テカテカ光る丸顔に満面笑み。首を前に出し両手を膝に。まるで置物の狸である。
 ――浪人が口入れ屋に来れば、何の用事かぐらいは百も承知のはず。何が、ご機嫌じゃ。(うるわ)しい訳がないであろうが。
 しかし口には出せない。
「何かあるか」
「へー、何度も足を運んでいただきますが…… 木谷様に相応(ふさわ)しい仕事は、とんと……」
「拙者に相応しいかどうかは拙者が決める。先程も人足風の男二人が嬉しそうに出て行ったぞ。何かあるであろうが」
「木谷様、お武家様に土掘りの仕事は紹介できません。この与平、何でも紹介してしまう、そこいら辺の口入れ屋とは違います」
 普段であれば、隆佐衛門はこの辺で引き下がるが今日は違った。
「良いか、そのような悠長なことを聞いている状態ではないのだ。 何でも良い。あるであろうが」
「木谷様、申し上げにくい事ですが、余程、お困りのご様子と見受 けいたしますが……」
「そうだ、余程、お困りじゃ。もう三日間、何も口に入れておらん」 
「み、三日間ですか。私でしたら気が狂います。木谷様は我慢強いお方だ」
「与平っ! 詰まらん事に感心などせんでよい。拙者が餓死でもしたらお主のせいじゃぞ。江戸中に言い触らすぞ!」
「餓死された方が言い触らす事など出来ません。ま、そこまでお困

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りでしたら…… ない事はないのですが……」
「それ見ろ。隠しおって。さー、出してくれぬか」
「実は……」
 与平、帳簿を開いたはいいが躊躇とまどっている。今まで隆佐衛門も見たことがないような面持ち。
「あまり気が進みませんが…… いや、餓死するよりは良いでしょう」
 と何やらブツブツ言いながら、筆を取り紹介状をしたためた。 
「木谷様。神田桧垣町の刀屋、松浦でございます。松浦と書きますが、読みは、まつら。どうも出は長崎の方だと聞いております」
「ほー、まつらか。で、仕事は何だ。もっとも何でも良いがな」
「えー、それが…… お嬢様のおりでございます」
「何、お守りか! 拙者が、女子おなごのお守りか……」
「ほれご覧なさい。顔をしかめておりますぞ。如何いたします」
「良い。何でも良い。入れて貰おう」
「判りました」
 与平、書状に馬鹿でかい判を押した。
「木谷様、すぐに行かれると思いますが、少々お聞かせしたいことがございます」

 与平は語り出した。松浦に口入れをするのは、今回で四度目。今までの三人は、いずれも三、四日で居なくなったと言う。その度に女将が文句を言いに来たらしい。女子は、十二、三。変わった子供で外で遊ぼうとしない。そこで女将が、お稽古事と称して琴を習うようにしたと言う。松浦は大店。もしもの事があってはと、通う間のお守りを頼んだのだった。つまり用心棒である。条件は良く、一部屋を与えられ、しかも食事付き。手当ては月に二両。
「与平。飯、部屋付きで、月二両かっ! 破格じゃな。家賃は八百文。当分、甚平に小言を言われずに済むわ。こんな良い口は滅多にない。いやーありがたい」

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 と言ってはみたが、何故今までの連中は三、四日で辞めてしまったのかが気になる。隆佐衛門の怪訝そうな顔を見た与平……
「いえね、この娘が妙な事を口走るそうで、今までのお武家さんは皆、気味悪がって辞めたそうです。どんな事を話すのかは存知ませんが。それに……」
「与平。今日はどうしたのだ。奥歯に物の挟まったような物言い。はっきり申せ」
「いえ、木谷様、これだけでございます。くれぐれもお気を付けくださいまし」
「そ、そうか。済まぬな。では行くとするか」  

 隆佐衛門は、やはり奇妙な気分であった。
 ――せぬな。妙なことを言うとはいっても小娘ではないか。三人もの男が月二両を捨てるとは解せぬ。他にも何かあるのかも知れんが、化け物屋敷でもあるまいに。

 松浦は大店であった。かなりの商いをしているようだ。店に入った。何人かの侍が刀を見ている。中には頭を下げている者もいる。高く買って欲しいのだろう。あ奴も金が無いのか。隆佐衛門は人ごととは思えぬ気持ちで見つめた。侍たちは、みすぼらしい隆佐衛門を見下すようにしている。番頭らしき男を捕まえ、紹介状を渡して用件を言った。
「へー、少々お待ちを、奥様に伝えてまいります」
 店にある刀は、隆佐衛門が見ても立派なこしらえである。業物わざものもあるようだ。


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「木谷様でございますか」
 声の方に目をやると、紹介状を手にした女が立っていた。女将であろう。その妖艶な姿に隆佐衛門は一瞬、息を呑む思いがした。
「拙者、木谷でござる。与平より聞いて参った」
「さっ、お上がりくださいまし」
 いくつもの部屋を過ぎ広い部屋に通された。
「今、お茶を持ってまいります。しばしお待ちを」
「いや、茶など……。気を使わんでいただきたい。早速、用件に入りたいが如何か」
 隆佐衛門は刀を右脇に置き、座った。
「これっ、誰か居ませんか」
 女将が声を掛けると若い女中がやってきた。
「松、木谷様にお茶を……」
 女将は隆佐衛門と向き合った。
「木谷様。私、松浦の登世とせと申します。お仕事の内容などは与平さんよりお聞きのことと思いますが……」
「聞いておる。仕事の内容、それに条件もな。で、何日いつから……」
 と言った途端、隆佐衛門の腹が、グ・グーッと鳴った。
 それを聞いた登世が急に笑い出した。あくまでも色白で整った顔。そして澄んだ大きな目。この笑いは登世の冷たく妖艶な雰囲気を和らげた。隆佐衛門もさすがにきまりが悪く、顔を赤くした。
「木谷様、おなかがおきのようでございますね。後ほどご用意いたします」
「いや構んで下され。で……」
「明日からでもこちらに来ていただければと思いますが、木谷様のご都合は如何でしょうか」
 都合などあるはずが無い。出来れば前金で、と言いたいところだが、さすがに口には出せない。
「拙者は何日でも構わん。では明日からということで宜しいかな」

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「えー、宜しくお願いいたします。絹……娘でございますが、気分が悪いとか申してまして。明日、お目通りさせますゆえ。ところで、木谷様。これから申し上げます事、お怒りにならないでお聞きいただきたいのですが……」
「構わん。既に登世殿が主人。拙者は雇われた身でござる。何なりと申していただきたい」
「では…… 絹の身を守っていただくのですが、どのような荒くれ者が襲ってくるかも知れませぬ。木谷様は、かなりのお腕とお見受けいたしましたが、いくら剣が達者でいらしても素手で立ち向かうのはあぶのうございます」
 隆佐衛門、かたわらの刀に右手を遣った。判っていたのか。
「お恥ずかしい限り。お見立てどおり竹光でござる」
「如何いたしましょう。お貸しするというのもご無礼かと……」
 隆佐衛門の頭に例の刀が浮かんだが、そうも行くまい。
「かたじけない限りじゃ。では」
 またしても腹が鳴った。
「木谷様。まだお部屋をお見せしていませんでした。案内あないいたします」
 登世は先に立って隆佐衛門を案内した。部屋は屋敷の外れにある六畳間。綺麗に掃き清められている。
「こちらでお待ちください」
 言うなり、登世は部屋を出て行った。
 
 隆佐衛門は縁側に座り庭を見た。広い庭だ。職人が丹念に手を入れたのであろう。庭の造りも植木もしっとりとした風情を出している。
 ――ある所にはあるのだな。金は大勢で居るのが好きだと聞いたが本当のようだ。
 ふと気付くと先程の女中、松が食事を持ってきた。先程は構うな

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と言ったが良い匂いを嗅いだ途端、また腹が大きな音を立てた。松は驚いたようだったが、手で口を押さえ笑いを噛み殺している。
「木谷様、どうぞお召し上がりください」
 松は出て行った。背に腹は変えられぬ。隆佐衛門は貪るように飯を喰った。旨い。さっさと平らげ、一息ついた頃、登世が着物の袖に刀を抱え部屋に入ってきたが、「あら、綺麗に……」 と言って、ふふっと笑った。今度は隆佐衛門の胸がドキッと鳴った。
 ――う、美しい……
「木谷様、いくら武士は喰わねど何とかと申しますが、ご無理はいけません。これからは遠慮なくお申し付けください。刀をお持ちいたしました。脇差はお身があるようでしたので…… こちらの刀をお遣いくださいまし」
 見ると天正拵てんしょうこしらえの立派なもの。右手でつかを、左手でさやを持って静かに抜いた。直刃すぐは刃文はもん。すっきりとした姿。
「登世殿、これをお貸しいただけるのか」
「どうぞお差しくださいませ。それに、いますこしお身を綺麗になさっていただきたいのですが」
「そ、そうであるな。せめて月代さかやき、髭ぐらいはな……」
「差し出がましいようですが、お支度金を用意いたしましたのでお遣いください」
 この日、隆佐衛門は長屋に戻った。別に身支度をする必要もない。着の身着のまま。着替えなどない。何日かおきには帰るつもりだが、気になるのは例の刀である。松浦に持って行くのは無理だ。手にとったが、やはり刀袋を開ける気にはならない。そのまま天井裏に隠すことにした。

 翌朝、隣の女房に暫く部屋を開ける旨伝えた。矢絣の女について聞いてみたが身元も不明。犯人どころか手掛かりもないとの事だった。甚平には、月の終わりには必ず家賃を払うと約した。甚平はす

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でに金の匂いを感じているらしく、やたらと機嫌がよい。長屋を後に、久しぶりに湯屋へ。中身は多少綺麗になったが着物はどうしようもない。松浦に向かった。
 松浦に着くと店の者が部屋に案内してくれた。暫くすると、登世が娘を連れて来た。
「木谷様。娘の絹でございます。絹ご挨拶をなさい」
「絹です」
 絹は頭を下げたが、この一言で黙った。登世に似た綺麗な顔つき。大きな澄んだ目は登世にそっくりである。色白な肌は何か病的なほどの透明感をもっている。じーっと隆佐衛門を見つめている。隆佐衛門も絹の目を見ていたが、何やら見据えられるような気持ちになり目をそらした。落ち着かない。
「木谷様、絹は、一日おきにお稽古に通っております。今日はお休みですが、出来ましたら絹を散歩にでもと思っておりますが……」
「そうじゃな。天気も良い。一歩ひとあるききも良いかも知れぬ」
 話していると、番頭であろうか、店の者が廊下に座った。
「奥様。お見立てを……。宜しゅうございますか」
「茂助か。構いません。入ってください。木谷様、番頭の茂助でございます。松浦には番頭が三人。大番頭は嘉吉と申します。いずれご挨拶させますので。それから店では刀を扱っております。お武家様をお相手にすることがおーございます。お武家様は短気な方が多く、このようにお客様がいらしていても番頭を通させております」
 登世は座をずらし茂助に対した。茂助は、隆佐衛門に軽く頭を下げ刀を登世に渡した。

 登世は柄を右に鞘を左にし、両手で刀を持ち上げ会釈した。拵を丹念に見ている。大振りな刀だ。柄を右手で持ち静かに刀を抜いた。刀を立て、表を見立てている。先程とは違い、恐ろしいほどの真剣な顔付き。食い入るような眼差まなざししである。

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 さっと刀を返し裏を見る。一言も発しない。隆佐衛門の目には、相当な刀のように見える。登世が目釘めくぎを抜いた。左手で柄を持ち、刃を外側にして左肩前あたりに刀身を持っていく。右手でこぶしをつくり柄を持っている左手をトンと叩く。右手ではばきを持ち柄を下に引き抜いた。中心なかごを見ている。銘はあるようだ。登世は、見立てが終わったのか中心を柄に戻し刀を鞘に収めた。茂助に耳打ちしている。話し声は隆佐衛門にも聞こえた。刃絡はがらみ、割れ、烏の口、刃染はじみ……。茂助は顔をしかめている。
「奥様、神田様は業物に匹敵すると言っておりますが……」
「茂助、見立てをはっきりお伝えし、松浦では扱えないとお引き取りいただきなさい」
「へー、かしこまりました」
 茂助は出て行った。登世の見立ては大店を切り盛りするだけの事はあるようだ。見掛けは良いが、どうもそれ程の刀ではないのだろう。
 ――大したものだ。拙者の竹光など一目で見抜かれていたのであろう。
「申し訳ありませんでした。絹、木谷様と散歩など……」
 登世が話し出した途端、また茂助が腰をかがめて部屋に来た。
「奥様、神田様は見立てを直接聞きたいと、大声で……」
「判りました。どうにもあの旗本様には困ったものです。木谷様、いま暫くお待ちください」
 登世は茂助と店へと急いだ。
「神田様は母に気があるのよ」
 えっ! 絹が話したようだ。隆佐衛門は振り向いたが絹はそ知

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らぬ顔をしている。
 
 旗本といえばお目見めみえの身分。以前は誇り高く頼もしい存在だったが、今の世はいくさなどない。無役の旗本、とりわけ次男三男などは、ただ肩をいからせ威張り散らすだけ。歌舞かぶいた者も多く、庶民の鼻つまみ者になっている。しかし仕事がないのである。毎日ぶらぶらしていれば歌舞くこともある。隆佐衛門は困り者であることは認めるが同情出来ないこともなかった。

 絹は相変わらず口を閉じている。隆佐衛門は何か話題でも、と考えたが何も頭に浮かんでこない。気まずささえ感じる。
 ――一日おきに、この絹と出かけるのか。二人ともだんまりのままと言うのも妙なものだが……
 思案していると登世が戻ってきた。隆佐衛門の前に座っても、きつい顔付きのままでいる。隆佐衛門は、なんぞきっかけでもとまた思案した。だが思い浮かばない。親娘揃って黙っている。
「で、店の方は落ち着いたのかな」
「いえね、あーだこうだの連続。あのような刀を持って来るなど侍の風上にも置けない方です。いつも同じなのです。見栄えの良い刀を持ってきては私に見せ、見立てを言えば難癖をおつけになる。お武家様も地に落ちたものです。あっ! 失礼いたしました」
「ワッハッハー。ここにも地に落ちた侍が一人居る。登世殿の言われる通りでござる。世の中は変わっております。では絹殿、表に出てみますか」
 絹が初めて微笑んだ。隆佐衛門は絹の笑窪を見た。何じゃ、笑うことがあるのだ。隆佐衛門は何かほっとした。
 

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 表に出たは良いが、このような子供と一緒に何処を歩けばよいのか。今日は思案ばかりする。
 ――このような毎日なのであろうか。条件は良いが…… 気疲れが貯まるかも知れん。いや、喰うためじゃ。我慢が肝要じゃ。
「木谷様」
 絹が話し掛けてきた。
「はっ! 何でござるか」
「そうでよ、我慢が肝要です。絹は、ただブラブラするだけで良いのです。何処になどと思案する事はありません。木谷様。絹は木谷様とお呼びすれば良いのでしょうか」
 隆佐衛門は、ギョッとした。絹は人が考えていることが判るのだろうか。
「よ、呼び方でござるか。拙者の名前は木谷隆佐衛門影房。絹殿の呼びやすい名前で構わんが……」
「では、隆佐様とお呼びいたします」
「構わん。様を付けなくとも良いぞ」
「どうせ雇われの身とおっしゃりたいのですか。ホホホッ! 余りご自身を卑下するもではありませんよ」
 与平は十二、三と言っていたが、この物言い。本当だろうか。隆佐衛門は首を傾げたまま歩いた。
「隆佐様。隆佐様っ! 絹の話を聞いてください」
 外に出てから絹はよく喋る。隆佐衛門は黙って歩くよりはマシとは思うものの、やはり気疲れを感じる。
「絹殿。拙者は、ちゃんと聞いておるぞ。何なりとお話くだされ」
「では隆佐様、絹殿ではなく、絹と呼んでください。堅苦しくていけません」
「いや、それは出来ぬ。女子を呼びつけにしたことはござらん。たとえ……」
「子供であっても、ですか。ホホホッ。また……そんな顔をなさって。絹が先へ先へとおっしゃりたい事を話してしまうのが不思議な

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のですか。今までの方も同じでしたわ。でも、隆佐様はちょっと違いますね」
「違う?」
「えー。三人のお方は絹を子供だと思っているくせに、大人の女の方に対するような良からぬ事をお考えでした。絹は懲らしめて差し上げました。皆さん翌日から来なくなりましたけど。隆佐様は、そのような事をお考えにならないのですね。それはそれで、ちょっと寂しい気もいたしますが……」
 隆佐衛門は面食らっていた。思わず立ち止まり、絹の顔を見た。
「絹殿、拙者は絹殿のお供でござる。絹殿の身の安全を守るのが役目。何をお話になっても構わんが、まだ初対面。拙者は……お恥ずかしい事だが女子(おなご)の扱いには慣れておらん。今日は、もそっと大人しくしていただけないか」
「駄目です。絹は、絹の思い通りにいたします。隆佐様、今、女子の扱いにとおっしゃいましたが奥様はいらっしゃらないのですか」
 奥様と聞いた途端、隆佐衛門の頭に五年前の出来事が甦ってしまった。

 お城の太鼓が鳴った。家臣は急ぎ登城しなければならない。家臣の前で家老の榊原外記かしわばらげきが話し出した。
「各々方、当藩はお取り潰しになった。今さっき江戸より早馬が入った。殿は江戸屋敷に蟄居謹慎ちっきょきんしん。使者に依れば……」
 外記は言葉に詰まった。家臣がにじり寄る。外記は顔を上げ、つとめて平静を保とうとしている。家臣は固唾を飲んで次の言葉を待った。
「使者に依れば……。殿への沙汰は……」
 外記は、部屋の一点を見つめたまま話した。
「お沙汰は……、せ、切腹との事。このように話している間にも……」
 家臣一同は、ただ俯いているだけであった。

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 藩主の種臣(たねおみ)は余りにも乱行らんぎょうが過ぎた。世継ぎはいない。正室以外に何人もの側室を抱えたが無駄であった。世継ぎを立て公儀に申し出なければ、いずれお家断絶である。外記の再三に渡る進言にも耳を貸さず、ただ酒池肉林に耽っていた。拙いことに事件は江戸屋敷で起こってしまった。江戸城から戻った種臣。いつものように何人かの腰元を側に置き酒を呑み出した。余ほど城で嫌な事があったのか、浴びるような呑み方。一人の腰元が(いさ)めてしまった。それを聞いた種臣。傍らの刀を持ち、庭に飛び出した。
たれるかっ! 出会えっ! 出会えっ!」
 何人かの家臣がバタバタと庭に来た。
「腰元らを庭に引きずり出せっ!」
 家臣は、訳も判らず腰元たちに庭に出るよう促した。種臣は、腰元五人を庭に座らせた。家臣は何が起こるのか全く判っていなかった。やおら種臣は刀を抜き放ち、腰元の首をはね出した。慌てた家臣が種臣を押さえつけたが、既に三人の腰元が倒れていた。
 間の悪い時は重なるもの。ここ数年、登城する種臣が酒臭いとの話が広まり、老中は大目付に調べるよう言い遣けていた。この日、大目付が屋敷を訪れた矢先の出来事であった。事の次第は詳しく老中に報告された。

 外記の話を聞く家臣の中に隆佐衛門も居た。ついに来たか。隆佐衛門は、起こり得べくして起こった事と静かに聞いていた。
 その日、家臣一同はこれからの城引渡しなどについて話し合った。篭城し公儀に手向かおうと言うものはいなかった。

 翌日、屋敷に戻った隆佐衛門に思いも依らない事態が待っていた。
 隆佐衛門の妻は隣藩の家老の娘。二人には一人の男の子が居た。
「今、帰った」

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「お帰りなさいませ。あのー、父が来ております」
「何、お父上が……」
 部屋に入ると義父が居た。
「隆佐衛門。そちの手落ちではない。その事は、拙者も十分心得ておる。良いか、良―く、聞いて欲しい。侍にとり厳しい今の世にお取り潰し。そちの人柄には拙者も敬服するところがある。しかしじゃ、問題は娘ではない。孫じゃ。この孫に浪人生活をさせる訳にはいかん。隆佐衛門、怒るでないぞ。頼むから怒らんでくれ。可愛い孫じゃ。人の道に反する事かも知れん。わしも悩んだ末の事じゃ。ここに金子きんすがある。受け取ってくれ。頼む」
 畳に頭を擦り付けている。義理とはいえ父である。隆佐衛門は呆然とした。
 ――どうしたのだ。何を言いたいのだ。父上が頭を下げ金子など出して……

 義父は、さすがに家老を勤めるだけの事はある。この藩主の総てを見通していた。隆佐衛門は、妻を子供を愛していたが、義父の理路整然とした話や、妻のはっきりしない態度は、有無を言わせず三行半みくだりはんを求めていることが判った。隆佐衛門は三行半を書いた。これで妻は再婚できる。良いではないか。それだけの事だったのだ。
 他藩の娘と一緒になることなど滅多にない。たまたま両藩による花見の宴が開かれた。その折、偶然にも二人は顔を合わせた。隆佐衛門は、初対面でありながら目を合わせた途端、この人だと思った。妻も同じ思いだったと聞いた。妻は家老の一人娘であった。婚礼に至るまでには幾つもの問題があった。妻の両親は、婿になれと執拗に迫った。隆佐衛門は、きっぱりと断わった。一緒になれたのは妻の一言だった。
「この人の妻になります。何があっても離れません」
 娘可愛さからか、両親は何も言えなくなっていた。二人は一緒になった。お取り潰しの知らせが入るまでは幸せな毎日であった。

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 義父は、仕官先を失った隆佐衛門を自分の藩に招くことも出来たはずだ。しかし彼は、そうはしなかった。妻も家老である自分の父に夫の仕官を頼んだりはしなかった。隆佐衛門も頼む気はなかった。経済的には苦しくなるとはいえ、妻は、これからの日々を共に送ってくれるものと思っていた隆佐衛門は、総てを諦めた。

「隆佐様、この辺で想い出に耽るのはお止めになった方が宜しいのでは……」
 隆佐衛門は、絹の言葉で我に帰った。
「いや、ちょっと考え事をしていただけでござる」
「あら、別れた奥様にお会いしたいのかと思ってしまいました。隆佐様、女は現実的でございます。愛などと言っても所詮お金があっての事。そのような状態で、共に暮らす事をお止めになった奥様です。お別れになって良かったのではないですか」
 隆佐衛門は背筋に寒いものを感じた。
 ――この娘。人が考えていることが判る。辞めた三人の気持ちが理解できる。拙者は勤まるのだろうか。
「隆佐様。月が出ています」
 見上げると満月。いかん。こんな遅くまで……
「隆佐様。母に怒られますね。ホホホ。どんな顔で母に謝るのでしょう。絹は楽しみです」
「絹殿、急ぎましょう。隆佐衛門、不覚であった」
「隆佐様っ。月には兎がいると言いますよね。でも、あれは嘘です。兎などいません」
 隆佐衛門は絹の話を聞いてはいなかった。急がなくては……。

 松浦に着くと早速、登世に呼ばれた。

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「木谷様っ!」
「お登世殿、お怒りはごもっとも。今後、このように遅くなる事はござらん。久しぶりに人と話したためか、時間が経つのを忘れてしまったのじゃ」
「まー、お登世殿なんて……」
「いや、つい……。申し訳ない」
「お登世。懐かしい響きです」
「はっ?」
「いえ、何でもございません。部屋にお食事を用意しています。お召し上がりください」
 部屋には食事が用意され、ふかふかの蒲団が敷いてあった。旨い夕餉。気疲れも何処かに飛んでいくような気分であった。蒲団に入ろうとすると松が声を掛けた。
「木谷様。お風呂が沸いております。お入りください。それからお着物ですが、今晩、洗わせていただきます」
 着物を洗ってくれるのか。隆佐衛門は気持ちが綻んでいくようであった。

 絹の稽古事は八ツ半から始まる。それまでの間、隆佐衛門には遣る事がない。部屋で片肘を突き横になっていた。何とも奇妙なことになった。ただの娘ではない。人の心を読む。昨夜、月には兎がどうのこうのと言っていたようだ。登世殿についても良く判らん。怒っていたかと思えば、たった一言で柔和な顔になる。そう言えば、ここの主人、登世殿の夫の話が一切でない。
 それにあの夜の娘。腰元であれば、どこぞの藩からか捜索願が出ていても良いはず。いや、腰元が切られることなど滅多にない。藩に傷が付くとでも思い、申し出ていないのかも知れぬ。例の刀についても、このままで良いのか判断が付かん。娘は偶然とはいえ拙者の戸を叩いた。番所にでも届け出た方が良いのであろうが、それではあの腰元が浮かばれないような気もする。

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 隆佐衛門が悶々としている所に絹が顔を出した。何も言わない。外を指している。外に出たいのか。であれば、登世に伝える必要がある。今日は登世の顔を見ていない。絹は、廊下で相変わらず外を指差したままだ。
「絹殿。稽古に行くには早すぎますぞ」
 絹は何も言わない。
「外に出るのは良いが、母上に伝えなければならぬでしょう。登世殿は、店ですか」
 絹は黙っている。隆佐衛門は、仕方なく店に行き番頭に少し早いが稽古に連れて行くと伝えた。登世は、嘉吉を連れてあるお大名の所に刀を納めに行っているらしい。
 隆佐衛門は多少気にはなったが、絹を連れ表に出ることにした。店を出ると絹が喋り出した。
「お稽古など……どうでも良いのです。散歩をしたいのです」
「登世殿に直接伝えておらんが良いのかな」
「外に出るのに、いちいち母の許しを受ける必要などありません」
「絹殿は、外に出るのが嫌いだと聞いておったが……」 
「そうです。嫌いです。家の中にいるのも嫌い。外に出れば聞きたくもない雑多な事が聞こえてきます。中にいれば店中の者の目が鬱陶しい。まるで化け物を見るような目です。何処にも居場所がない感じです」
「左様か」
 隆佐衛門は、どのように話を続ければ良いのか困っている。
「隆佐様も、絹のことが気味悪いですか」
「い、いや、気味が悪いなどとは……」
「言えないが、多少は気味が悪い、ですか。そうでしょうね。相手の考えている事が判ってしまうのです。口に出さなければ良いのですが、つい出してしまいます。家の中では黙る事に慣れましたが……。隆佐様、私の父についてお知りになりたいのでしょう」


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「ハハハ、何でも判ってしまうのか」
「いえ隆佐様、ご安心を。判るのは絹に絡むこと、絹が興味を持ったことだけです」
 隆佐衛門は、昨日に比べ絹の表情が明るくなっているのに気が付いた。
「そうなのです。隆佐様と一緒だと絹は気が晴れます。この分ですと…… 隆佐様は三、四日でお辞めになることはなさそうですね。ホホホ」
「絹殿っ! そのように大人をからかうものでない」
「まー、お怒りになることもあるのですね。隆佐様はお幾つですの」
「せ、拙者か。に、二十七歳になる」
「絹より十五歳年上。ねー、隆佐様。母と絹…… どちらがお好きですか」
「き、絹殿。何を言い出すかと思えば。そのような事を聞くものではない。お止めなさい」
「母に言い寄るお方は大勢いますのよ。父は散々苦労して母と一緒になったようです。母は父の自慢でした。松浦は先々代が築いたお店です。父は、絹が四つの頃、夕餉を取っている最中に急に立ち上がり両手を突き上げた途端、倒れたそうです。お医者様が来た時には、すでに亡くなっていたと聞きました。死因は働き過ぎて心の臓が急に止まったとか……」
「そうであったのか。父上は亡くなったのか。絹殿、登世殿の刀の見立ては、尋常ではないが、父上が教えたのかな」
「絹にも良く判らないのですが、母は嫁いだ時には既に見立て上手だったそうですよ。先々代は長崎から江戸に出てきたそうです。母は松浦とは関わりがなかったそうですが、長崎の出です。父が長崎に仕事で出かけた時に見初めたと聞きました」
「そうであったか。父上が亡くなられた後、登世殿は一人で店を見てきた訳か」

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「ホホホ、やはり母の事が気になるのですね。お気をつけあそばせ。この九年間、と言っても絹が物心付いてからですけど、何人の殿方がおかしくなったか判りません。中には自分勝手に思い込み、命を失った方もいらっしゃいますのよ。隆佐様、勘違いなさらないでくださいね。娘の私が言うのも変ですが、母は男の方にこびを売るような女ではありません。ただ……」
「何でござる。ただ、何でござるか」
「ただ…… 自然と男の方が寄ってくるのです。母は普通に対しているのですが、男の方は、皆、何か勘違いをなさるようなのです。母は男の方を引きつける何かを持っているのでしょうね」
「……」
「隆佐様、母は、父以外の方とお付き合いした事はありませんよ。ホホホ、嬉しそうな顔をなさって……」
「絹殿、どうも絹殿は話をそちらの方に持って行きたいらしいが、拙者は今、それどころではないのじゃ。明日の飯にも苦労しておる。それに……」
「それに、何ですの」
「いや、何でもない。さっ! 稽古が始まる時間。絹殿、急ぎましょう」
「ウフッ! 上手く逃げたおつもりでしょうが、絹を甘く見てはいけませんことよ」

 絹の稽古の間、隆佐衛門は近くの茶屋で待つことにした。
 見ると二つ隣の席に侍がいる。話し声が聞こえてきた。
「神田、いい加減に諦めろ。傍で見ていてもみっとも良いものではない」
「何を言うか。ここで諦める訳にはいかん」
「おぬしのように夢中になった者が大勢いると聞いておるが、誰にもなびかなかったそうじゃ。女であれば他にも居るではないか」
「おぬし如き盆暗に何が判るか。あの女は別格じゃ。目を見てみ

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ろ。吸い込まれるような澄んだ目じゃ。品良く通った鼻筋。唇は常に濡れておるようじゃ。それにしなやかそうな体付き。話す時には必ず拙者の目をじーっと見る。あの女を見てから他の女など目に入らんわ。何処かに優れた刀はないものかのー。一度で良い、あの女を驚かせたいものじゃ」
「止せ止せ。何を遣っても馬鹿にされるだけじゃ。それに二十八と言うではないか。既に年増じゃ」
「もう良い。拙者一人で刀を捜す」

 登世殿は拙者より一つ上か。ふと人の気配を感じた。気が付かなかったがかたわらに絹が立っていた。
「おー、稽古は終わったようじゃな。では、帰るとしますか」
「隆佐様。あのお方が神田左近様です。まだお若いのに母などに逆上のぼせて……。老中神田様のご子息です。神田様は禄高も多く裕福なお家柄。左近様は金に物を言わせ、名刀といわれる刀をお集めとのことです。神田様も老中でありながら、左近様可愛さから諸藩の大名の方に刀を捜すよう頼んでいると聞きました。神田様は左近様が真面目に刀をお集めだと思っていらっしゃるようです。それもこれも左近様の母への逆上せから来ていることをご存じないようです」
「絹殿は、随分細かなことまで知っておるのー」
「ホホホ、そうなんです。判ってしまうんです。外に出れば下世話な事ばかり。家に居れば母に取り入ろうとする殿方の妄想。煩わしくて嫌になります」
 松浦に戻る間、二人は余り口を利かなかった。
 隆佐衛門は、絹は絹なりに悩んでいることを知った。人の考えが判るのであれば何事にも有利ではと思ったりもしたがそう言うものでもないらしい。登世についても判らない事が多い。言い寄る男が大勢いながら何故、独り身を通すのであろうか。死んだ亭主に対する思いが強いのだろうか。

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「隆佐様」
 絹が口を開いた。
「母は、父をそれ程愛していなかったと思います。何故、再婚しないのかは判りませんが」
「そ、そうか」
 ――見透かされている。
「隆佐様。絹に対しそのような言葉を使うのはお止めください。絹は嫌です。見透かすなどと……。絹に失礼です」
「そ、そうであった。済まん。絹殿、拙者、何事も遠慮なく考え話すことにいたす。その方が気楽じゃな」
「そうでございます。絹もその方が好きです」
「いやー、絹殿、これからもよろしく頼む。拙者、久しぶりに心軽い気分でござる。ところで夕餉に酒を呑みたいが、登世殿は怒るであろうか」
「まー、お酒ですか。隆佐様、かなり図々しくおなりですこと」
「そうじゃ。隆佐衛門は、これから図々しく生きることにいたす。しかし登世殿も絹殿もまっこと綺麗でござるな。拙者も身綺麗にしなければならん。手当てを貰ったらあつらえた方が良いな」
「あら、母に言えば、すぐ揃えてもらえますのに」
「なにを言うか。この隆佐、そこまで図々しくはないわっ!」
 二人は声を上げて笑った。絹は笑いすぎて涙を流している。隆佐衛門が声を上げて笑うなど久しぶりの事。隆佐衛門の心地良い笑いには寂しさも含まれていた。

 笑顔で帰った絹を見て、登世だけでなく店の者も皆、驚いてしまった。  

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 部屋に戻った隆佐衛門を登世が訪れた。後ろには箱膳を持った松がいる。箱膳には徳利がのせてある。絹が伝えたのであろう。松が下ると登世が口を開いた。
「木谷様、何かあったのでございますか。絹の笑顔など何年振りでしょうか」
「いや、これと言って登世殿が心配されるような事はござらんかった。ただ絹殿と話しているうちに拙者、楽しくなってな。声を上げて笑ってしまった。絹殿もつられて笑ってしまったようです」
「そうですか。不思議な事もあるものです。絹が笑うなんて……」

 翌朝、誰かがバタバタと部屋の前に来た。
「木谷様、木谷様。お目覚めでしょうか」
 店の小僧のようだ。
「目は覚めておる。何か用事か」
「はい。甚平の使いとか申す者が来ております。店の方に来ていただけますか」
「判った。すぐ行く」
 甚平の使い? 長屋で何かあったのであろうか。隆佐衛門が店に出ると長屋の新蔵(しんぞう)が汗だくで突っ立っている。
「木谷さんの部屋が滅茶々々です。大家が長屋にすぐ来るようにと言ってます」
「判った。茂助さん、何が起こったかは判らんが行ってみる。今日は絹殿の稽古は休みだ。登世殿、絹殿に宜しく伝えてくれ」
 隆佐衛門は、新蔵と共に長屋に急いだ。
 道すがら新蔵から話を聞いた。昨夜、隣の女房お鶴がゴソゴソという音を聞いた。木谷様であれば何か声を掛けるはず。亭主の熊吉を起こした。確かに音がする。熊吉は表に出ようとしたが、鶴は心

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配になり急に大声で、泥棒! と叫んだらしい。バタバタと大きな音が聞こえた。熊吉が外に出ると、黒装束が三人走り去るのが見えたと言う。木戸を軽々と飛び越え姿を消した。
 忍びか。隆佐衛門は事が大きくなっていくように思えた。

 長屋に着くと甚平が待っていた。部屋は戸を破られ、見るも無残な有様。
「木谷さん。酷いものです。中はもっと凄い」
 隆佐衛門は、切り裂かれた蒲団を見た。もっとも元々それに似た状態ではあったが。畳も反され床板の何枚かは破られている。隆佐衛門は、ふと天井板を見た。賊が天井を調べる前に鶴が叫んだのであろうか、変化はない。刀は無事か。
「木谷さん、何を盗もうとしたのですかね。何もないのに。いや、これは失言」
 甚平は、このような時にも皮肉を言う。
「番所に届けた方が良いのでは……」
「いや甚平、おぬしの言うとおり拙者、盗まれるようなものは一切持っていない。何かの間違えであろう。間抜けな泥棒じゃ」
 隆佐衛門は岡引や同心に会いたくはなかった。
「甚平、今日中に部屋を修理する。大工の八五郎に声を掛けてくれ。ところで修理代はおぬしが持つのか」
「木谷さん、それはないでしょう」
「そうか。だが拙者、金を持っておらん。如何ともし難いのう」
「では……折半といたしましょう。木谷さんの分は貸しにしておきます。月末に家賃と一緒に返してください」
 甚平、珍しくも折半などと言う。八五郎と共に部屋を直した。蒲団は使い物にはならない。

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 引き戸も作り変えられ修理は終わった。七ツ頃になっている。甚平は八五郎に手当てを払った。
 ――さてと、あの刀、如何いたそう。ここには置いておけぬ。松浦に持っていくか。
 隆佐衛門は暗くなるのを待った。四ツには木戸が閉められる。五ツ頃、天井裏より刀袋を取り出して表に出た。既に街は真っ暗である 。
 松浦に着いたが、表から入ることは出来ない。自分の部屋の辺りを見定めて塀を乗り越えた。部屋には灯りが燈っている。刀を縁の下に隠し何気ない顔で部屋に入った。案の定、登世が座っていた。

「随分と遅くのお帰り。しかも表からではないようでございますね。如何いたしましたのでしょうか。お話いただけますでしょうか。別に絹の躾をお願いした訳ではございませんから、どのような事をなさっても構いませぬが、コソコソとお帰りになるなど、登世も気になります」
 登世の整った顔は強張っている。その表情は、ゾッとするほど綺麗なものだ。成る程、何人もの男が狂うのも無理はない。隆佐衛門が黙っていると、いや見とれていると登世が続けた。
「木谷様、折角、良いお方に来ていただいたと喜んでおりましたのに……。これではお辞めいただく以外にございません」
「あいや暫く。そう急かさんでいただきたい。長屋に泥棒が入ったのだ」
 隆佐衛門は部屋の修理などで遅くなった事を話した。
「裏から入ったのは、店の者に迷惑を掛けたくなかったからじゃ」
「木谷様は嘘を付くのがお下手。そのようなことで塀を乗り越えるものですか。でも、女子の所に行っていたのではないようですね」

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「はっ?」
「いえ、こちらの話。明日は、きちんとお願いいたしますよ」
「と、当然でござる。今後は、遅くなっても表から入る事にいたす」
「木谷様っ! 問題が違います。こちらでお過ごしの時は、遅くならないでくれと申しているのです」
「そ、そうであった。相判った」

 翌朝早く、隆佐衛門は刀袋を取り出し押入れにしまった。食事を運んできた松に言った。
「松殿、今日から蒲団は拙者が敷く」
「宜しいのですか。松は助かりますが……」
「おー、拙者、蒲団を敷くのが好きでな」
「まー、変なお方」
 松はクスクス笑いながら出て行った。
 ――いかんな。登世殿の言う通りじゃ。拙者、嘘が下手だ。気を付けねばならんな。

 食事が終わる頃、絹がニヤニヤ笑いながら廊下に座った。隆佐衛門、バツの悪そうな顔で絹を見た。さて何を言われる事やら。
「本当に隆佐様は嘘が下手ですね。蒲団を敷くのが好きなどと余計なことを言うからいけないのです。あれでは嘘を付いていると教えているようなものです。そこが隆佐様の可愛い所かも知れませんが」
「はっ?」
「良いのです。お判りにならなくとも。ところで隆佐様。押入れに隠したもの、絹には何日、お話しいただけるのですか」

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「き、絹殿っ!」
「隆佐様にもいろいろとご事情がおありだとは思いますが……」
「い、いずれな」
 隆佐衛門、何かを隠したことを白状している。

 隆佐衛門が嘘をつけないのには訳があった。藩が取り潰しに合うまでは勘定奉行の元で働いていた。取り調べ、評議などにも顔を出したが、聞くことは嘘偽うそいつわりばかり。見え透いた嘘、考え抜いた挙句の偽り。アーはなりたくないとの思いを抱いての仕事であった。自然、自身は嘘偽りのない人間になっていった。本来、このような人間がまつりごとに加われば良いのだが世の中は濁った沼のようなもの。所詮、綺麗な人間は住みつけない。優秀な隆佐衛門は奉行に上手く使われていた。

 店の方が騒がしい。男の怒声が聞こえてくる。用心棒とはいっても請け負ったのは絹だけである。部屋で寝転んでいたが、まだ続いている。女中の叫び声まで聞こえてきた。隆佐衛門は刀を左手に店に向かった。
 店では、ならず者風の男三人が抜き身を手に登世を睨んでいた。登世は緊張しているものの、しっかと男たちを前に座っている。その毅然とした態度に男たちはたじろいでいるようだ。隆佐衛門は登世の態度に惚れ々れと見入っていた。

「やいやいッ! この刀にケチを付けやがって。女だと思って下手(したて)に出りゃー、いい気になりやがってー。えーっ! もう一度、言ってみろ」
「この刀はきずだらけです。松浦ではお扱い出来かねます」

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「はーッ! この松浦ではだとーッ! こちとらにも事情があらーな。言いなりで帰る訳にはいかねーんだヨッ! どうしても引き取らねーってんだなッ!」
 やにわに一人の男が刀を振りかざした。間違いなく自棄やけになっている。前後の見境がなくなっている。登世目掛けて刀を振り下ろそうとした。隆佐衛門は、つつーっと前に出た。刀をいくぐり男の腕を掴んだ。ヤーッ! 掛け声とともに男を投げ飛ばした。刹那、もう一人の男が刀を突いてきた。シャリーンッ! 隆佐衛門は抜き打ちで男の刀をはね上げた。 テメーッ! 男が上段から斬り込んできた。途端に男は、その場に倒れこんだ。男は別に斬り倒された様子はない。峰打ちだ。いつ隆佐衛門が刀を返したのか誰にも判らなかった。男たちは倒れた男を抱え、「覚えてろッ!」の捨て台詞を残し、出て行った。
 今度は、登世が惚れ々れと隆佐衛門を見つめていた。

「ありがとうございました。命拾いをいたしました」
「いや、何のこれしき。しかしこの刀は扱い易いですな。登世殿、男が刀を振り下ろそうとしたのに身動みじろぎ一つしなかった。危ないとは思わなかったのですか」
「あの状態で体を動かしたとしても、どうにもなりません。それに……隆佐衛門様が来られたのが判りましたので……登世は安心しておりました。この方は、必ず……」
 登世はこの時、木谷様ではなく隆佐衛門様と言った。珍しく登世は赤くなり俯いている。
「登世殿、この刀、柄巻つかまきも拙者の手に吸い付くような出来じゃ。まるであつらえたようじゃ。ところであのような男どもが良く来るのですか」

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 隆佐衛門は登世の変化に気付いていない。
「何やら訳は判りませぬが、近頃多くなったように思います」

 松浦に用心棒が付いた。いや、女将に男が出来たのだ。こんな噂が広まっていた。登世に心を寄せる連中は気が気ではなかった。そんな馬鹿な。ただの浪人者。用心棒でしかない。登世の男である訳はない。と考えつつも心中は穏やかではなかった。自惚うぬぼれた連中には侍が多かった。何を馬鹿なことを。登世は拙者がものにする。

 絹の稽古が終わり、隆佐衛門は絹と共に松浦へと急いでいた。稽古が長引き、辺りは既に暗くなっている。
「隆佐様、男が三人付けております」
「絹殿、二人ではないか」
「三人です」
 隆佐衛門には二人の気配しか感じなかった。二人のはずだが…… 三人なのか。付けられている。やはり二人だ。いやまて、絹の言葉を信じた方が良さそうだ。音もなく男たちが近づいてきた。
「絹殿、身を隠した方が良い」
「はい」
 絹は隆佐衛門から離れ、火消し用の水桶の後ろに身を隠した。二人は無言のまま同時に斬り掛かってきた。隆佐衛門は振り向きざま、右側の男の胴を払った。重い手応え。生暖かい血潮を被った。男は声を上げずに倒れた。もう一人のやいばが隆佐衛門の左肩をかすった。勢い余って踏鞴たたらを踏む男に目を遣った途端、ヒューッという音と共に手裏剣が飛んできた。キーン! 危なかった。絹の言う通りだ。三人目が居た。前のめりになった男が振り返り刀を突いてきた。刀を払った隆佐衛門に第二の手裏剣が飛んできた。身をかわす

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のが精一杯だった。体制を崩した隆佐衛門に、男の刃が振り下ろされた。隆佐衛門は片膝を付き斬り上げた。男の体は腰から肩まで真二つに切り裂かれた。
 隆佐衛門は身構え、体中の神経を耳に集めた。音……。手裏剣の音を捜した。静寂が続いた。

「絹殿、もう大丈夫。出てきて良いぞ」
 絹は、しっかりした足取りで隆佐衛門の傍に来た。
「隆佐様って、母が見込んだだけのことはありますね。凄い腕前。絹は驚きました」
「何を言うか。拙者は必死であった。絹殿が三人と言ってくれなければ手裏剣で遣られておった。絹殿のお陰で助かった。しかし、この刀は素晴らしい。細身でありながら力強い働きをする。体の一部になったような感じじゃ」
「ホホホッ! この刀は母の宝でございますのよ。手入れはいつも母がしていました。母は、この刀に名を付けたんですよ」
「ほー、何と言う名を付けたのかな」
「よせつ」
「よせつ? どのような字でござる」
「夜の雪」
「夜の雪? 刀の名に夜の雪……」
「母はこの刀を見ていると、夜、深々と降る雪、静寂な雰囲気を感じると申していました。誰にも触れさせなかった夜雪を隆佐様に。ホホホ、余程、隆佐様のことが……」
「何じゃ?」
「いえ。ところで隆佐様、この二人、どうするおつもりですか」

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「絹殿は、この男たちに見覚えはござらんか」
「全くございません」
「そうか……面倒は好まん。このままにしておくほかあるまい。拙者は番所に知らせるつもりはない。しかし、もう一人が気になるのう。いずれまた襲ってくるのであろうな」
「絹も同じ事を考えております。ところで隆佐様は奉行所の方がお嫌いなのですね。押入れに隠されたものと何か関わりがあるのですか」
「絹殿っ! 押入れの話は……」
「そうでしたね。まだお話いただけないのでしたね。今日のこと、母には何と……」
「心配されるだけ、黙っておこう。この事は絹殿と拙者の秘密じゃ」
「まー、秘密だなんて。でも、左肩に傷を負われたのでは……。それに着物に付いた血飛沫ちしぶき。そうでなくとも目敏めざとい母です。隠しおおせるものではありません。着物も切られていますし……」
「……」
「絹は良いことを思いつきました」
 言うなり絹は掘割に隆佐衛門を突き落とした。気が緩んでいたためか、隆佐衛門はザンブと水の中に。
「何をいたすっ!」
 隆佐衛門は濡れ鼠になり上がってきた。
「これで少しは血飛沫も落ちたはずです。それに濡れていれば血飛沫も目立ちませぬ。店の者に気付かれたら、ふざけて掘割に落ちたと言えば良いでしょう。お部屋に着きましたら絹が手当てをいたします。それに着物を繕いましょう」
「そうしてもらった方が良いようだな」

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 風呂に入り寝巻きに着替えた。部屋で落ち着いた気分になりかけた頃、登世が入ってきた。
「木谷様、今日も遅くのお帰り。絹は稽古が長引いたと申していますが、本当でしょう」
「如何にも。お疑いをお持ちでしたらお師匠に聞いていただいても構わんが」
「そのような言い様、登世は好みません。あらっ! 木谷様、変ですね」
 隆佐衛門はビクッとした。何か勘付かれたのでは……。
「その帯は女物でございますよ。まー、松の帯! 木谷様っ!」
「登世殿、変な目付きで見るのはお止めいただきたい。初めからこの寝巻きに付いていたものでござる」
 隆佐衛門はホッとした。

 翌日、隆佐衛門は早くに目を覚ました。例の刀袋を出し、刀を改めるつもりだ。刀袋の紐を解き刀を出した。
 ――な、何とっ!
 隆佐衛門が驚くのも当然だった。出てきた刀は登世から借りた夜雪と全く同じ拵えであった。寸法も同じ。抜いてみたが刃文もほとんど同じ刀であった。
 ――こんな事はあり得ない。
 急ぎ、二振りの刀の中心を調べてみた。銘も同じ国吉くによし。隆佐衛門は呆然と二振りの刀を見ていた。
 ――どう言うことなのだ。これほど似通った様子の刀を作るなど不可能なこと。それに何故……
 隆佐衛門は急ぎ刀を押入れに戻したが、頭は混乱していた。
 国吉? まさかあの国吉の刀。国吉と言えば稀有の刀工として名

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が知れている。最後は気が触れて死んだという。隆佐衛門が聞いた話はこうだった。

 藩主は刀を好んだ。自藩の刀工が作る刀を買い上げ、刀を見るのを楽しんでいた。しかし、見ているだけでは飽き足らなくなってきた。試し切り。いく振りかの刀を(ごう)の者に渡し、堅物試(かたものため)しをした。鎧、兜。満足する刀はなかった。藩主は、藩にお触れを出した。十数振りの刀が集まった。紅白の天幕を張り試し切りが行われた。やはりいずれの刀も鎧や兜に傷を付ける程度であった。藩主の機嫌は悪かった。折れてしまう刀が殆どだった。 
 何振り目かに国吉の方が登場した。細身の刀。藩主はこの刀を好んでいた。実に綺麗な刀だ。しかし荒物試しには向かないと思っていた。既に諦めていた。鋭い音がした。藩主は兜を見た。兜の六割近くまで刃が喰い込んでいる。良き業物わざものっ!。 藩主は立ち上がり刀を見た。刃毀はこぼれ一つない。藩内だけでなく他藩にも国吉の名前が広がっていった。藩主は満足であった。しかし、この事が思わぬ結果を招いた。さすがに生き試しはしなかったが死罪になった死体を集め、死人試しを始めた。国吉の刀は実によく切れた。藩主は死人試しに喜びを感じていた。
 ある日、国吉は城に呼ばれた。側役に聞くと三つ胴を試すから立ち会えとのことだった。国吉は断わりたいと言ったが、願いが通る訳はない。否応なくその場に居た。試し切りが行われた。国吉は目を瞑っていた。目を開けた途端、藩主の顔が見えた。狂ったような異様な目付き。食い入るように二つに切り裂かれた三つ胴を見つめている。国吉は、即その場を辞した。
 この日から国吉は出歩かなくなった。藩主が刀を求めても体調が悪く仕事が出来ないと断わり続けた。しかし国吉は黙々と刀を作っ

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ていた。いく振りかの刀を作ったはずであるが、あの日以降、国吉が新たに作った刀を見た者はいない。その後、国吉は訳の判らないことを口走るようになったと言う。
 隆佐衛門は、国吉が同じ姿の刀を作ったなどという噂を聞いた事がない。この二振りの刀は、あの日以降に作られたものなのだろうか。隆佐衛門は、自身の身近にある二振りの刀に得体の知れないものを感じた。
 確か国吉は長崎藩のはず。長崎? 部屋の中で呆然としている隆佐衛門のところに、松が朝飯を持ってきた。
「木谷様、お食事でございます。木谷様っ! お食事……」
 隆佐衛門は松に振り向こうともしない。松は気味悪さを感じたのか部屋から出ていった。
 松が登世に知らせたのだろう、暫くして登世が顔を見せた。隆佐衛門は食事に手を付けていない。ただ、床の間に置いてある夜雪を凝視している。登世が入ってきたのにも気付いていない。
「木谷様。木谷様っ!」
 登世は大きな声で隆佐衛門を呼んだ。ハッと隆佐衛門が振り向いた。登世は驚いた。隆佐衛門の顔は蒼白であった。
「と、登世殿。如何いたした」
「食事に手を付けておりませぬが」
「食事? おー、忘れておった。いかんな、冷めてしまう」
 隆佐衛門は箱膳の前に座ろうとしたが、動きがぎこちない。やはり手を付けようとしない。
「木谷様、ご気分でも……」
 登世は心配そうな顔で隆佐衛門を見ていた。と、そこに絹が入ってきた。
「隆佐様、考え込むのは良くありません。お話しください」

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 登世は、ハッキリした物言いをする絹を見つめた。隆佐衛門は二人に顔を向けた。いつもの顔色に戻っていた。
「ワッハハーッ! 拙者としたことが……。ここ数年、裏長屋でヒッソリと暮らしておりましたもので……。急に暮らしが変わり気が動転しているのかもしれません。まだまだ人生の修行が足らんようですな。登世殿、絹殿。そのような心配そうな顔をせんでくだされ。隆佐衛門は大丈夫でござる。さーて、飯でもいただくか」
 呆気に取られている二人を前に、隆佐衛門は飯を喰い出した。二人は顔を見合わせた。考えてみれば、母娘(おやこ)でありながらこの様に間近で見つめ合うことなど久しぶりのこと。二人ともこの場をどうしてよいか判らないでいる。
「しかし、美しいお二人を前に食事をするのも優雅なのもですな」
 隆佐衛門は頭をカラッポにしていた。いずれ絹の手助けが必要になるだろう。だが自分なりに今までの出来事を整理したい。隆佐衛門の食事が終わると登世は箱膳を引き寄せた。
「絹、箱膳は私が運びます。隆佐衛門様、まだお越しいただいて日も浅そうございます。登世には、木谷様がどのような悩みをお持ちなのか見当もつきませぬ。でも水臭いお方だとは思っておりません。いずれお話くださいまし」
 箱膳を持って登世は出て行った。絹は、じっと隆佐衛門を見ている。隆佐衛門は、また何かに取り付かれたような顔付きになっていた。絹も静かに部屋を出て行った。
 隆佐衛門は一人になり腕組みをして考えていた。
 店に来たならず者は神田の嫌がらせであろう。では襲ってきた三人は……。音もない仕草。忍びの心得がある。長屋に押し入った三人であろう。とすれば目的は刀。国吉の刀と知っての事。腰元を切ったのも連中であろう。奴らは刀が二振りあることを知っているの

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だろうか。いや知らぬはずだ。拙者が差している刀は登世殿に借りたもの。夜雪が目的であれば今になって奪おうとするのは変だ。拙者が松浦に来る前に奪えたはず。判った。例の刀を差していると思ったのだ。
 今日は絹の稽古はない。隆佐衛門は、ふらっと表に出た。すれ違う者たちは目に入っていない。
 何故、登世殿は国吉の刀を持っていたのだろう。登世殿のことだ、夜雪がどれほどの刀かは判っているはず。同じ長崎の者、登世殿は国吉と繋がりがあるのだろうか。夜雪とあの刀はどのようにして長崎から江戸に出てきたのか……。考えても判るものではない。夜雪については登世殿に訊けば済むことである。しかし、隆佐衛門には訊く勇気がない。いずれ、いずれ訊かなくてはならないとは思うが……

 隆佐衛門は付けられている事に気付いていなかった。いつしか人通りのない所に来ていた。
「隆佐様っ! 危ないっ!」
 絹の声だ。振り返ると男が突っ込んできた。危うく身をかわした。見ると長ドスを手に片方の手で着物の裾をだらしなくからげた男たちがいた。
にーさん。結構、遣ってくれているそうだな。余り格好つけるもんじゃねーよ。気に喰わねーと思っているお方が居るんでね。可哀相だが死んでもらうぜ。オイッ! 遣っちまえっ!」
 男たちが刀を振りかざしてかかって来た。喧嘩には慣れているようだ。しかし所詮隆佐衛門の相手ではない。五人ほどいたがまたたく間に倒れこんだ。峰打ちだ。気絶した一人を残しビッコをひきながら逃げていった。

(37)






「絹殿。また助けられたな」
「隆佐様、無用心です。考え事をしながら歩くのも良いですが、度が過ぎます。絹は気になって隆佐様がお部屋をお出になった時から後を付けました。私が付けていることにも全くお気付きになっていません。普段の隆佐様でしたらこんな事はないはず」
「いや、済まなかった」
 隆佐衛門は、男に活を入れた。
「おぬし誰に頼まれた」
「……」
「白状した方が良い。ここは人通りがない。おぬしを如何様(いかよう)にも料理できるぞ。遣ってみるか」
「ま、待ってくれ。腕が良いのは判った。何もするな」
「では、話すか?」
「左近様だ」
「この前、松浦に難癖を付けに来たのもおぬしらの仲間か」
「そうだ、左近様は、まず手始めに俺らを使うといっていた。お前、気を付けろよ。左近様の親父は老中だ。どんな手を使われるか判らねーぜ。いい加減、あの女から手を引いた方がいいんじゃねーかい」
「おーそうか。忠告、かたじけない」
 言うなり、隆佐衛門は男に手刀を入れた。気絶した男を後に二人は歩き出した。
「絹のお守りを引き受けたのは良しとして、何故かこのような事ばかりが続く、ですか」
「いや、拙者、そのような事を考えてはおらん。今度ばかりは外れたな。ワッ、ハッハー」
「まー、年端もいかぬ、か弱き乙女に対して意地の悪い言い様」

(38)






「そうであったな。絹殿は、まだか弱き乙女じゃった」
「そうですよ。母とは違います。隆佐様、絹は諦めようと思っております」
「諦める? 何を諦めるのでござるか」
「隆佐様のことです」
「拙者の事? して拙者の何を諦めるおつもりか」
「妻になることです」
「な、何ーッ! 拙者の妻と申すのか」
「えー、歳は一回り以上違いますが、あと三、四年経てば絹も大人……。でも諦めました。そこで別の道を考えました」
「別の道?」
「はい。隆佐様の娘になることにしました」
「娘っ!」
「そうです。娘です。母には勝てません」
「何故、ここに登世殿が出てまいるのじゃ」
「妻の座は母に譲ります。絹は娘で我慢します」
 隆佐衛門は、絹の突拍子もない話の展開に付いていけない。努めて冷静さを保とうとする。
「またまた、そのような話。絹殿は余りにも自分勝手。拙者、まだお登世とは親しく話をしたこともない。何が、娘じゃ」
「あーッ! 隆佐様っ! 今、お登世と言いましたね。隆佐様より一つ年上の母に向かって、お登世と。母が聞いたらどのように思うでしょうか」
 隆佐衛門、真っ赤になった。
「ちょ、ちょっと待て。口が滑っただけじゃ。それにこの場にお登世殿が居る訳ではない。どのように思うも何もない」
「今度は、お登世殿ですか。この場に母がいなくとも、今夜、私が事の次第を伝えます」

(39)






「そ、そのような余計な事を。登世殿は迷惑するだけでござる」
「隆佐様は本当にお気付きになっていないのですか。母は隆佐様を好いております。いえ、それ以上です。娘の私には良ーく判ります。あの夜雪もそうです。あれほど大事にしていた刀を貸してしまう。自分の父親が作った刀ですよ。言わば形見です」
「い、今、何と申した。絹殿ッ!」
 物凄い形相。絹が後退りしたほどである。
「形見と…… あら、隆佐様は母から聞いていなかったのですか」
「き、聞いておらん。登世殿は国吉の娘だったのか。なるほど、見立て上手は父親譲り。ご主人との関わりも刀か……。しかし、例の刀との関係は……判らん」
「例の刀? それよりも母のことです。隆佐様どうするおつもりですか」
「その話はいずれと致そう。絹殿は特殊な能力を持っておる。どうじゃ、拙者の相棒になってはくれぬか」
「まー、か弱き乙女に向かって相棒などと下品な言い様。も少し趣のある言葉を使っていただきたいものですが……良いでしょう」
 隆佐衛門は、掻い摘んで今までの経緯いきさつを話したが、言葉に出すまでもなく絹には伝わる。
「隆佐様、もう一振りの刀があるなど母から聞いたことはありません。その刀のために斬られた腰元様も可哀相に。判りました。母との婚礼については、この件が片付いてから話し合いましょう」
「婚礼! 絹殿っ。まー良い。絹殿は拙者の相棒じゃ。絹と呼ばせてもらおう。良いな」
「えー、構いませんよ。隆佐」
「ウッ!」
 隆佐と絹。奇妙な二人組ができあがった。

(40)






 隆佐衛門は松浦に戻ると登世を捜した。登世は帳場に座り甲斐々々しく働いていた。
「あら、木谷様。何か……」
「登世殿、手が空いた時で構わんが、ちと内密な話がある。済まんが部屋に来ていただけぬか」
「は、はい」
 登世の顔が急に華やいだ。だが、隆佐衛門はクルッと振り向き出ていった。登世はポーッと顔を赤らめたが隆佐衛門は見ていない。

 上気した顔で登世が部屋にやってきた。何やらソワソワしている。隆佐衛門の前に座ってもモジジモジして落ち着かない。
 ――はて? 店で何かあったのであろうか。
 隆佐衛門は訳が判らない。
「登世殿、見ていただきたいものがある」
 隆佐衛門は襖をあけた。刀袋を出し登世の前に置いた。
「中の物、改めていただきたい」
 登世は、怪訝そうな顔付きで刀を出した。
「こ、これはっ!」
 上気した顔からは血の気が失せ、刀を持つ手が震えだした。
「何故、この刀が……」
 隆佐衛門は黙って登世を見ていた。暫く刀を見つめていた登世の目から大粒の涙がポロポロと落ちた。
「お父様……。見つかりました。やっと見つかりました」
 言うなり、登世はその場に突っ伏し声を上げて泣き出した。隆佐衛門は思わず登世の肩に手を置いた。
「話してくださらんか。拙者も話す」

(41)






 登世は涙を拭おうともせず隆佐衛門を見上げた。その美しさに隆佐衛門は気が遠くなるようであった。
「隆佐衛門様、この刀は父、国吉が作ったものです」
 
 登世は語り出した。
 国吉が亡くなったのは、登世が十四歳の時。国吉はいつからか世間に対しては気が触れたように振る舞いだした。お前の父さんパッパラパーと近所の子供たちから苛められた。登世がその訳を知ったのは国吉が死んでからだった。 
 国吉は規則正しい毎日を送った。幼い登世を傍らにふいごを押し、鎚を振るった。話しても理解できるかどうかなどは気にせず、登世に刀を語った。登世は、土塊つちくれのようなものが次第に美しい刀に生まれ変っていくのを不思議だと思った。総て父の二本の腕が成し得ていることに気付いた時、父が輝いて見えた。
 国吉が満足げに一振りの刀を眺めていた。細身の刀。すっきりと伸びやかな刀を見て登世は美しいと思った。国吉は言った。登世、刀の強さとは見た目ではない。女のようにしとやかな姿。しかし内には力強さを秘めた刀が好きだ。登世、この刀どう思う。父は、このような刀を作りたかった。
 その後、一年ほど国吉は刀を作らなかった。父は、もう刀を作らないのだと登世は思った。
 ある日、鎚の音が響いてきた。登世は父の仕事場に行った。刀を作っている。登世が来た事にも気が付かない。登世はしゃがみこみ、両手を膝に置き見ていた。
「お父様、また刀を作っているのですか」
「登世か。そうだよ。あの刀、一人で寂しそうだからね。奥様を作っているんだよ」

(42)






 国吉は自分の技を極めたかった。あの刀は自分の総てを注ぎ込んだものだ。あの刀を越えるものは出来ない。では、同じような刀を作ることは出来るのだろうか。刀は人の思い通りにはならない。自然の力を借りなければならないからだ。これで良いのでは……。国吉は先に作った刀を取りに行った。ないっ! 刀はなかった。盗まれたのだ。捜す事は出来なかった。国吉は気が触れたことになっている。藩主が盗んだのであれば自慢げに吹聴するはず。しかし噂も入ってこない。他藩の者に……。
 盗まれた刀を気にしながら国吉は病床についた。ある日、登世は枕元に呼ばれた。刀が置いてある。
「登世、あの刀を覚えているね。この刀のお婿さんだ。二人を一緒にしておくれ」
 翌日、国吉は逝った。まだ十四歳の登世は、どうして良いか判らなかった。
 二年が過ぎた。街に出ても、あの刀の噂は全く聞こえてこなかった。美しく育った登世は長崎藩でも評判になっていた。幾つもの話が舞い込んだ。しかし登世は全く興味を示さなかった。いつしか登世の頭の中に、江戸という言葉がこびり付いていった。江戸? 江戸に行けば見つかるのでは。その江戸から刀商が訪ねてきた。国吉の刀を求めていると言う。しかし家にあったのは、あの刀だけである。登世は刀商に魅入られた。彼は毎日登世を訪ねた。一緒に江戸に行こう。登世は刀商には何の感情も抱かなかったが、この言葉を受け入れた。
 
「隆佐衛門様、主人には申し訳なかったと思っています。一緒に暮らしましたが、心から愛することは出来ませんでした。主人が亡くなってからは刀を捜す事だけを考えました」

(43)






「登世殿、拙者の番ですな」
 隆佐衛門は総てを語ったが、登世は全く興味を示さなかった。床の間の夜雪とこの刀を胸に抱いている。隆佐衛門は登世の表情を見た。登世の涙は乾いていた。捜し求めた刀が見つかったためだろか、放心したような面持ちである。ややもすれば空ろともとれる眼差しを見せた。

 翌日、登世は店に顔を見せなかった。絹によれば気分が悪く起きる事ができないとのことだ。登世がこのような状態になったのは初めてだと言う。隆佐衛門は、昨日の事を絹に話した。絹もかなり心配している。
 隆佐衛門は大番頭の嘉吉を呼んだ。
「嘉吉殿、登世殿は体調を崩したようだ。拙者は絹殿の用心棒。このような事を言うのは差し出がましいとは思うが、登世殿が休んでも店の方は大丈夫なのか。見立てを出来る者はおるのか」
「へー、まだ若いですが仁助(にすけ)がおります。奥様は仁助にいろいろとお教えでした」
「そうか。嘉吉、絹殿が登世殿を看るが、松も看病役にと思っておるが良いか」
「はい。私もそのように考えておりました」
「それから、この前、難癖を付けに来た者がおった。連中はもう来ないであろう。だが微力ながら拙者も注意いたそう」
「木谷様、どうか、何ととぞ宜しゅうお願いいたします」
 嘉吉は畳に頭を擦り付けるようにして頭を下げた。隆佐衛門は、この屋敷になくてはならない存在になっていた。

 隆佐衛門は登世が心配であった。あれだけしっかりしていた登世

(44)






が、空ろな毎日を送っている。生きるよすがをなくしたようだ。
 刀を見せなかった方が良かったのだろうか。絹は、稽古を休み甲斐々々しく看病している。
「隆佐様、母はどうしたのでしょう。何も考えていないようです。母は大丈夫でしょうか」
「刀を捜すことが生き甲斐だったのかも知れんな。一時的なことであろう。いや、そう思いたい」
「もう母のことをお嫌いになったのではありませんか」
「な、何を言うか。嫌いになろうはずがない。拙者は……登世殿が好きだ」
 絹は、ついにこの言葉を聞いた。そして、絹の大きな目からは涙がこぼれた。
「絹、拙者は神田や刀を狙う連中の事が気になる。長屋に顔を出してみたいが一緒に頼む」

 甚平に話を聞いたが相変わらず腰元の身元も判らず手掛かりもないとの事だった。二人は長屋を後にした。
「絹、如何いたそう。このままでは暗中模索。如何ともし難い」
「お父上」
 隆佐様は、飛び上がった。
「絹、何を口走るのじゃ。いい加減にせよ。背中がゾクゾクする」    
「あら、まだ早かったでしょうか。でも時間の問題だと思っておりますが」
「とにかく、その話は止めてくれ。何か探る方策はなかろうか」
「何もこちらから探りを入れる必要などありません。待っていれば先方さんがやってきます」
「そうであろうか」

(45)






 その言葉通りであった。長屋に見張りを立てていたのだろうか、気付くと何人かの男に付けられている。
「絹、足は早いか」
「着物が邪魔ですが、結構、早いつもりです」
「では、あの角を曲がったら急いで拙者から離れろ。良いな」
「判りました。で、絹はどうすれば……」
「松浦に戻れ。拙者は必ず戻る」
 角を曲がった途端、絹は着物の裾を持ち上げ尻っぱしょり。一目散に走って行った。
 その姿を見た隆佐衛門は、思わず吹き出してしまった。

 あえて人通りの少ない所へ向かった。手頃な野原に差し掛かった。案の定、バタバタバタっと男たちに取り囲まれた。侍、四人である。
「隆佐衛門とやら、ちと頼みがある。お主が腰にするその刀に用事がある。どうじゃ、置いていってもらえぬか」
「これは面妖な。侍の魂ともいえる刀を置いていけとは。浪人をしておるが、拙者、まだ侍のつもりでおる。生きている間は魂を置いていくことなどできんが」
「浪人風情が小癪な事を申すな。何が魂じゃ。では死んでもらう事にする。各々方、構わん遣ってしまえ」
 一人が斬り込んできた。隆佐衛門、ひょいと身をかがめて両手で土を掴んだ。立ち上がると同時に投げつけた。
「ひ、卑怯なっ!」
 三人が目を押さえた。もう一人は何事かと三人を見た。一瞬の隙である。隆佐衛門はサッと刀を抜き、その男に峰打ちを加えた。後は絹と同様、尻っぱしょりで逃げ出した。

(46)





 松浦に着くと絹が心配そうな顔で待っていた。
「良かった。ご無事で。で、四人は」
「おー、何もせず尻っぱしょりで逃げてきた」
「まー、そのような下品なことを」
「絹もよー言うわ。まだうら若き乙女が、あのような姿を」
「隆佐様は見ていたのですか。まーお下品な」
 二人は、顔を見合わせ大笑いをした。
「また来るでしょうね」
「来る。必ず来る」

 それから二日後。店の者が寝静まった頃、隆佐衛門は寝床で殺気を感じた。さっと夜雪を引き寄せ部屋の隅に行った。物音を立てずに近づく者がいる。一人のようだ。その者が障子に手を掛けた途端、隆佐衛門は、さっと開けた。無言で黒装束の男が斬り掛かけてきた。身をかわし庭に出た。ヒュッと手裏剣が飛んできた。咄嗟に柄で打ち払った。この前の男だろう。離れていては手裏剣の方が有利である。隆佐衛門は、ツツツーと男に近づいた。黒装束は刀を横に払った。シャキーン。隆佐衛門は刀を受け流した。二人とも庭に出て対峙した。黒装束は正眼に構えた。こやつ忍びではなく、忍びを心得た侍か。静かに刀を構えたまま時間が過ぎていく。黒装束は上段に構えた途端、ヤーッ! と掛け声と共に刀を振り下ろした。ガキーン! 夜雪は、相手の刀を切り裂いた。黒装束が脇差に手を掛けた隙に、隆佐衛門の峰打ちが肩口に決まった。
 絹と店の者たちが庭に集まった。登世はいない。一人が行灯あんどんを持ってきた。隆佐衛門は男を縛り上げた。口には木っ端を噛ませ、その上から猿轡さるぐつわをした。舌を噛まれては元も子もない。


(47)






「さっ、皆は部屋に戻って欲しい。もう大丈夫だ」
 隆佐衛門と絹が残った。
「さてと、絹、この男に白状させる。頼むぞ」
 男に活を入れ、隆佐衛門は幾つかの事柄を聞いた。猿轡を外さなくても良い。問い掛ければ男の脳味噌が反応する。それを絹が読めばよい。かなりの時間が必要だった。絹は男を凝視し必死である。
「絹、どうじゃ」
「はい、総て判りました」
「でかしたぞ。疲れたであろう。明日、番所に連れて行こう」
「あら、番所はお嫌いなのでは」
「いや、あの時は刀を隠しておったからな」

 翌日、絹は読み取った内容をしたためた。長い内容だ。
 黒装束は江田伊造。藩の剣術指南であった。伊造は、あの刀についてかなり詳細に調べたようだ。
 国吉の家から刀を盗んだのは、こそ泥であった。この男、刀の価値を知らず、行きずりの侍に売った。この侍は銘を見て国吉の刀であることを知った。喜ぶよりも面倒になることを避けたく刀商に売った。足元をみた刀商は二束三文で買った。国吉の刀とはいえ、隠れた存在の刀。闇から闇へと取り引きされたようだ。
 伊造は三輪藩主に仕えている。刀好きな藩主は高い金を出し、国吉を手に入れた。国吉は江戸屋敷に置いた。名刀を持つと切れ味を知りたくなるものだ。案の定、藩主は竹に藁を巻き試し斬りをした。良く斬れる。 
 人を切ってみたいと言い出したが江戸屋敷である。いくら大名とはいえ死罪にあった死体を手に入れることはできない。では生き試しと言い出した。辻斬りである。家臣は止めた。しかし言い出した

(48)






ら後には引かない性格。仕方なく従ったらしい。二、三人の家臣を引き連れ、お忍びで夜の外出。伊造は斬り役だった。国吉は、驚くほど良く斬れた。藩主は一度では飽き足らず回数を重ねた。
 伊造が非番の日、藩主は他の者に斬り役を命じ表に出た。全く町人が通らない。藩主は侍でも構わんと言い出した。一人の侍が歩いてきた。腕は斬り役の侍より上であった。斬り役は倒れた。藩主は他の者に命じたが、国吉は倒された侍の傍にある。屋敷に戻る以外になかった。
 襲われた侍は、他藩の江戸詰めの侍。月明かりに鈍く輝く国吉に魅入られたのであろうか、屋敷に持ち帰った。銘を見ると国吉。持ち歩く事はしなかった。
 ある日、屋敷に勤めがらみで三輪藩の者が訪ねてきた。床の間に飾った国吉を見た。藩主に伝えた。取り戻せと言ったが、辻斬りをしたことが判ってしまう。そこで刀商を使い買い戻すことにした。侍は頑として頭を縦に振らなかった。執拗に訪ねてくる刀商に不信感を持った侍は、家人らに国吉から目を離すなと言った。業を煮やした藩主は、家臣に侍の屋敷を襲わせた。侍は留守であった。国吉が目的である事は明白。気を利かせた腰元が国吉を持ち、逃げた。

 一振りの刀のために何人もの人間が死んだ。隆佐衛門は複雑な思いにかられた。
 伊造は猿轡をしたまま番所に連れて行かれた。書状は伊造が白状した内容を認めたことにした。同心は伊造を知っていた。これで伊造は舌を噛み切ることは出来なくなった。与力の取り調べに対し、伊造は松浦に押し入ったことは認めたが、他の件については一言も話さなかった。そこで与力は書状を読み上げる事にした。伊造の顔から血の気が失せていった。自分は誰にも喋った事はない。何故、

(49)






これほどまでに詳しく書いてあるのか。伊造は目を見開きガタガタ震えている。読み終わった与力が大声を上げた。伊造、相違ないか。伊造は思わず口を開いた。御意。
 調書は奉行から大目付に渡された。辻斬りが決定的であった。例の侍も証言した。三輪藩主は改易され、伊造には切腹が言い渡された。侍は、屋敷が襲われた事、腰元が殺された事を届け出なかった件に対し厳重注意を受けただけで済んだ。

「絹。ご苦労だったな」
「何のこれしき……。隆佐様も肩の荷が下ろせましたね」
「まだ、もう一件、残っておる。しんどい事じゃ」
「もう諦めたのではないでしょうか」     
「いや、左近は老中を動かすのではないか。愚かな事だが……」 

 四、五日経ったろうか、伊造の件で担当した同心が岡引を連れて松浦に来た。
「済まぬが木谷隆佐衛門を呼んで欲しい」
 隆佐衛門が怪訝な顔をして店に来た。
「おう、あの節はお世話になり申した。して、今日は……」
 同心は、落ち着かない様子で口を開いた。
「奉行所に同道願いたいのだ」
「奉行所に来いというお積りか。しかし、例の件はお裁きが降りたはずだが……」
「今回は、おぬしの件なのだ」
「拙者の件? 拙者がお調べを受けるのか」
「そ、そうじゃ。実はな、奉行からの命令なのじゃ。木谷を連れて来いとな。神田左近の家来に狼藉を働いたとの訴えがあってな。

(50)






それだけではない。氏素性(うじすじょう)も知れぬ侍崩れが、武士の魂ともいえる刀を商うとは誠にけしからんとな。どうも老中からの指示らしいのだ。拙者もあの左近には手を焼いておる。言い掛かりであろうが奉行はおぬしの事を知らん。老中の言うことを鵜呑みにしておる」
「成る程、その手できたか。致し方ない。同道せざるを得ないようじゃな。しかし氏素性と申されてもなー。拙者が居た藩は、お取り潰しにより既にない。狼藉の件は見たものが大勢おるゆえ、調べていただければ奉行も納得するはず。氏素性じゃな問題は」
 同心は、声を落として隆佐衛門に話し掛けた。岡引も傍に来た。
「江戸には人別にも載っておらん浪人が大勢おる。何故、おぬしを目の仇にと思ってな。岡引に聞いてみたのじゃが、左近はここの女将をものにしたいと企んでおるそうではないか」
「どうもそうらしいのじゃ」
「つまり、おぬしと女将の仲を(ねた)んだ横恋慕(よこれんぼ)うじゃな」
「ちょっと待て。女将との仲などと……。まだ、そのような間柄にはなっていない。お前か、そのようなことを言ったのは」
 岡引は首をすくめながら話した。
「しかし、街にはその様な噂が流れていますが……」
「困ったものだ」
「おぬし、まだ、そのような間柄にはと申したが、いずれそうなるのか」
「何を申すか。江戸の治安を守る同心ともあろう者が、下世話なことを考えるものではないわ」
「いや、済まん。拙者も気が進まんが、ま、これもお勤めじゃ。判ってくれ」
 隆佐衛門は二人と共に松浦を出た。
 この日、絹は書状を認め、早飛脚をたてた。

(51)






 三日後、江戸に二通の書状が届いた。一通は絹に、もう一通は奉行宛であった。差出人は藤島藩筆頭家老、木崎主人もんどであった。木崎は、隆佐衛門の義父であった人だ。
 奉行は丁寧に書かれた書状を読んだ。木崎とは参勤交代で江戸に来る度に顔を合わせている。隆佐衛門について、その人柄、禄を失った経緯などが詳しく述べてあった。ついでに孫に不憫な思いはと三行半を求めたが、今では悔やんでいるとも書いてあった。
「身内可愛さか……。神田様も同じだ。無様ぶざまな事をしたものだ」
 与力、同心からの調書も受け取った。老中の指示とは言え、どのように考えても分が悪いのは左近の方。裁きを下すまでもない。隆佐衛門は釈放された。

「絹、お手前は遣るのー。また助けられた。木崎様もよく書いてくれたものだ」
「総ては隆佐様のお人柄でございます。隆佐様、木崎様は私にも文を下さいました」
「何っ! そうか。絹、読ませくれぬか」
「まー、乙女が殿方から受け取った文を読ませろとは……。全くもって礼儀知らず」
「そ、そうであった。では何と書いてあったのじゃ。気になる」
「それは秘密です。そうですね、一つだけお教えしましょう。幸せに、とございました」
「幸せに、か。そうじゃな。人間、幸せでなければな」

 どう言う訳か、この件が江戸中に広まっていた。自分の息子すら判っていない者に老中が勤まるのか。老中の失態。また、鼻つまみ者の左近には渾名が付き囃子たてられた。横車左近。

(52)






 そうでなくとも侍の権威が失墜しつつある時代。噂は将軍の耳にも届いた。老中連中も放っておくことは出来なくなった。評定所で話し合われ老中神田に将軍のお沙汰が下った。
 六万石あった禄高は二万石に減俸。従って老中の役を追われ、ただの旗本大名に。左近には閉門百日。顔を上げて暮らせなくなった。

 万事、滞りなくことが済んだようだったが、隆佐衛門には最大の問題が残っていた。登世である。登世は相変わらず床に伏せっている。医者を呼んだが体には異常はないと言う。
 絹はイライラしている。登世を心配しているが病気ではないと確信している。隆佐衛門をけし掛けることにした。
「隆佐様、母があのように床に伏せるようになったのは、元はと言えば隆佐様がこの松浦に来てからのこと。幸せな家庭を目茶々々になさいましたが、どのように責任を取っていただけるのでしょうか。絹は、隆佐様の顔を見るのも嫌になってまいりました」
 絹にしては酷い言い様。言われてみれば当たらずとも遠からず。だが隆佐衛門にしても辛い過去を持つ身。イジイジしている自分に腹立たしくは思うものの、女に対し自信が持てなくなっている。

 ある夜、意を決し登世の部屋に行った。登世は床の中にいた。
「登世殿、隆佐衛門でござる。しばし宜しいかな」
 登世は向こうを向いたまま寝ている。返事もない。
「総て片付きました。今まで通りの平穏な毎日になりますぞ。父上の望みもかなった。夜雪とあの刀。拙者は、あの刀を夜月よづきと呼びたい。静かに暗い夜を淑やかに照らす月じゃ。どうじゃ、良い名前だとは思いませぬか。登世殿」

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 反応はない。さすがに隆佐衛門も心配になってきた。余程、気の病が重いのだろうか。
「登世殿……。夜雪と夜月。一緒になれて良かったと思わぬか。ところで登世殿には、そのようなお方は居りませんのか。やはり、どなたかと一緒になられた方が良いと思うが……」
 隆佐衛門、話しながら何を言いに来たのか判らなくなっている。
 ――どうも変だ。話がおかしな方向に向かっている。
 気を取り直し話を続けた。
「もし宜しければ、拙者が、そのようなお方をお捜ししても……」
 と言った途端、登世がガバッと跳ね起き、床の上に正座し大声で話し出した。
「先程からゴチャゴチャと、何をたわけたことをお言いなのですかっ! 黙って聞いていれば詮方せんかたないお話。何が、そのようなお方を捜すですか。この盆暗がっ! 隆佐衛門様は登世の気持ちなど、これっぽっちもお判りになっておりません。登世は、呆れ果てております。初めてお会いした時、随分、薄汚れた方だと思いました。しかし何の飾り気もない、無垢なお方だと察しました。職を求めて来られたお方でありながら、平気でお腹をグ、グーと……。登世はお店に来る大勢の殿方を見ております。見立て上手は刀だけではないと思っておりました。このお方であればと思った登世が馬鹿でした。大切にしていた夜雪をお貸ししても、良い刀じゃで終わり。夜雪は父の形見ですよ。形見をお渡ししたのです。そのような女子の気持ち、察することも出来ないお方でした」
「と、登世殿。あの時は形見とは聞いておりませんでしたが……」
「では何日、お知りになったのですか。形見と判った時に、このようなもの迷惑とおっしゃっていただければ良かったのです。形見と判っても平気でお遣いになっている。全く鈍感で恥しらずで…… 

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図々しいお方です。もー、登世は嫌になりました。さっさとこの屋敷から出て行ってください。お顔を見たくありません。お声も聞きたくありません」
 登世は言い終わると床に顔を伏せ、堰を切ったように大声で泣き出した。
 隆佐衛門はその場を動く事が出来なかった。しばし泣き続けた登世が、パッと顔を上げた。
「まだ、いらっしゃるのですか。早く……」
「登世、どうも変なのだ。拙者は先程のようなことを言いに来たのではないのだが、拙者……どうしたのであろうか」
「登世……」
「実はな、夫婦めおとになって欲しいと言いに来たのだ。何故、こうなってしまったのかのー。不思議だ」
 首を傾げ、腕組みをしながら考え込んでいる隆佐衛門の顔を、登世は覗き込みながら訊いた。
「先程の言葉、今一度、おっしゃっていただけませんか」
「先程の言葉……。不思議じゃと……」
「違います。そのちょっと前におっしゃったことです」
「ちょっと前? あー、夫婦になりたいと言ったことか」
「夫婦…… 何故、もっと早くに……」
「しかし、拙者、出て行けといわれたことでもあるし…… 困ったのー」
「もー、隆佐衛門様は意地悪でございます」

 翌日、登世は誰よりも早く店に出た。
 輝くような表情。以前にも増して美しくなった登世。甲斐々々しく働く姿を見た店の者は、皆、驚いた。

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 隆佐衛門も店に顔を出した。そのすぐ後に絹が来た。絹は総てを知っている。わざと大声で話し出した。
「お父様とうさま)、今日は稽古がありますが、ご一緒いただけますか」
 店の者は、また驚いて顔を見合わせた。大番頭の嘉吉が恐る恐る聞いた。
「絹様……そ、それは本当でございますか」
「はいっ! 隆佐様と母は、夫婦になります」

 今度は店の者の顔に笑みが走った。良かった、良かった。皆の喜ぶ顔が店に広がった。

 その中に、真っ赤になり俯く登世の姿があった。 




                         (了)






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