隆佐衛門詞譚りゅうざえもんしたん【二】












      「 幽 霊 」           九谷 六口










   
                
                       二00二年十月三十一日 
                  








 木谷きや隆佐衛門りゅうざえもん影房かげふさ、今日も昼近くまで寝ている。

りゅう様、もうすぐ、お天道様がお空のてっぺんに来ますよ」
「……」
「隆様っ! お食事をとらなければ体に良くありません。お起きくださいまし」
 登世は、隆佐衛門の体を揺すった。
「おー、済まん、済まん。眩しいな。何じゃ、もう昼か」

 長い浪人時代では喰うか喰わずの生活。その疲れが出たのか、刀にまつわる事件の疲れか、ここ数日間長寝が続いている。
 登世と一緒になり数ヶ月が過ぎた。松浦まつらは広い屋敷だ。使っていない部屋も多い。登世は隆佐衛門に奥の部屋で過ごすように言ったが、隆佐衛門はこの離れが気に入っている。夜は、登世がこの部屋に来たり隆佐衛門が登世の部屋に行ったりしている。
 目を覚ました隆佐衛門、着替えると布団を畳み、押入れにしまった。女中の松に布団の上げ下げが好きだと言った手前、自分で遣らざるを得ない。顔を洗い、部屋に座って居ると登世と松が箱膳を運んできた。
「旦那様、お召し上がりください」
「松、何度言えば判るのじゃ。拙者を旦那様と呼ぶなと言っておるであろうに」
「では……どのようにお呼びすれば良いのですか。ご主人様と呼んでも駄目だとおっしゃる」
 隆佐衛門は、松浦の旦那でも主人でもないとかたくなに言い張っている。

(1)






「木谷様か隆佐衛門様で良いでしょうに」
「でも奥様、木谷様では堅苦しすぎます。それに隆佐衛門様なんて長すぎます。隆佐様と呼ぼうとしたら絹様が隆佐様と呼ぶのは私だけ、松は使ってはいけないと……。では……、りゅう様でよろしいでしょうか」
「駄目です。隆様は私が使います。他の者には使わせません」
「困ります。じゃー、影房様にします」
「松、そのお名は実名です。誰も使ってはいけません」
 登世が言うことは屁理屈でしかない。
「判りました。では、きゃ様とお呼びします」
「何ですか、それは」
「きや様ですから、縮めてきゃ様です」
 隆佐衛門、思わず喰っていた飯を吹き出してしまった。
「松、あなたが変な事を言うから……。御覧なさい。まーまー、子供の様に……」
 登世は懐紙を出し隆佐衛門の着物を拭いている。松は気を利かせて部屋を出た。そこに絹が顔を出した。
「まー、昼間っから仲のお宜しいこと。お母様は、何で隆様などとお呼びになるのですか。お前様とか、あなたとお呼びすれば良いのに」
「絹のせいです」
「私のせい?」
「そうです。貴女は娘、私は妻です。絹が隆佐様とお呼びするのであれば、私は隆様です。娘よりも妻の方が身近な存在です。呼び方も身近に、つまり短くするのです」
 隆佐衛門は二人の会話を聞きながら、このような他愛もないことを語り合うのが夫婦であり家族なのだろうか、堅苦しい侍の生活に比べ、町人の生活も良いものだと思っている。
 しかし、隆佐衛門は近頃、憂鬱であった。

(2)






 食事を終わり登世と絹は店に出た。片肘をつき寝転んでいると、松が来た。
「きゃ様。同心の木村隼人様がお越しですが」
 本気できゃ様を使うつもりらしい。
「木村殿か。通してくれぬか」
 木村隼人は北町奉行所定町廻りの同心。刀の件で親しくなっている。
「木谷殿、閑そうだな。ちょいと良いか」
「構わん。入ってくれ」
「おぬし結局こうなったではないか。拙者の見立てた通りだ。しかし、登世殿は良い女だな。この幸せ者が」
「何を言うか。成り行きだ。それに人の女房に色目など使うものではないわ」
「拙者は独り身だが人の女房に色目など使わん。気を廻すな」
「で、何ぞ用か。また奉行所に来いと言うのではあるまいな」
「別に用などない。暇つぶしだ」
「何だ人の事を閑そうなどと申して、同心が油を売っていて良いのか」
「非番だ。たまには息抜きをせねば遣っておられん。定廻りをすれば、街の者たちが何やかんやと言ってくる。やれ、隣の鼾がうるさいとか、女房の様子がおかしいから調べてくれとか……。拙者は女房の浮気を調べるために同心になったのではないわ」
「良いではないか。おぬしのことを頼りにしておるのだ。羨ましいわ」
「何だ、浮かぬ顔をして」
「木村殿……」
「隼人で良い。拙者もおぬしを隆佐衛門と呼びたいが歳上のお方。隆佐殿と呼ばせていただく。ただし、それ以外は歳など気にせん。宜しいか」 

(3)






「うーん、隆佐……殿だな。であればイザコザは起こらんだろう。構わん」
「イザコザ? 何でござるか」
「いや、こちらの話」
「隆佐殿、何か悩みでも持っておるのか」
「持っておる」
「あるのか、言ってみろ」
 隼人、野次馬根性にかけては人に引けを取らない。町人は何でもかんでも隼人に相談する。うるさくてかなわんと言っているが、本人は下世話な話を聞くことが嫌いではない。今も目を輝かせて隆佐衛門を見ている。
「早く言わんか。拙者は忙しいのだ」
「先ほどは閑と申しておったくせに……。実はな、拙者、このままでは松浦の紐でしかない。何かせねばならんと思ってはおるが、何もない。仕官先をと思うが、どの藩も余裕がない。町人になり松浦を手伝っても良いが、まだ刀には未練がある。如何ともし難い状態なのだ」
「紐で良いではないか。拙者が替わりたい位だ。とは言っても考えてみれば確かにそうだな。そうそう事が起こることもなければおぬしの出番はない。当初は良いが、だんだんとおぬしのことが目障りになってくる。いずれ穀潰ごくつぶしと思われるようになる。肩身の狭い居候。拙者はそんな人生、嫌だな。願い下げだ」
「よーまた、はっきりと申すな」
「おぬしは腕も立つ。ゴロゴロしているのは性に合わんのじゃろう。どうだ、拙者を手伝わんか」

(4)






「おぬしを手伝っても銭にはならん」
「それはそうだ。銭にはならん。しかしな、仕事を捜すにしても、松浦の亭主が与平のところで口捜しでは様にならんしな。この屋敷連中を集め、読み書きでも教えたらどうだ。ヤットーでも良い」
「ま、考えれば何かあるかも知れんな」
「定廻りの時にでもそれとなく捜してみよう」
「おー、頼むわ」
 そこに絹が顔を出した。
「木村様。お父様と、また良からぬ相談ですか」
「絹殿、そのような事ではない。それに、またと言われたが、まだ良からぬ事などしたことはござらん」
「まだ、と言うことは、いずれあるのですか」
「どうも口では絹殿に負けるな。実はな、隆佐殿の悩みを聞いてあげているのだ」
 隆佐殿と呼ぶ隼人にちょっと顔をしかめたが、納得したようだ。
「まー、隆佐様は悩みをお持ちなのですか」
 絹には判っているが、とぼけている。
「隼人っ! もう良い。おぬしは何でもベラベラとしゃべる。同心は口を硬くせねばならぬ。気を付けた方が良いぞ」
「絹殿、いずれお教えいたそう。しかし、いつお会いしてもお綺麗ですな。母娘おやこそろって別嬪べっぴんさん。隆佐殿も鼻が高いであろう」
「隼人、今度はおべっかか。しかし本人を目の前にして、よくもヘラヘラとそのような事を言えるものだな。拙者、ソーは、なりたくないものじゃ」
「ワッハッハー。独り身の気楽さよ」
「木村様は、お幾つになられたのですか」

(5)






「拙者か、数えで二十歳(はたち)
「まー、結構なお歳。どなたもいらっしゃらないのですか」
 隼人、今までの威勢がどこかに行ってしまった様子。
「誰か()らんかのー」
「木村様、そのような情けない顔をしていては女子おなごは寄ってきませんよ。男とは常に赫灼かくしゃくとしていなければ駄目です」
「絹殿は、まだお若いのに言うことが厳しいですな」
「そうです。特に殿方に対しては厳しい目で接するつもりでおります」
「ほー、殿方に対しては、でござるか」
「絹はニ、三年後には結婚いたします。光り輝くようなお方を、じっくり吟味して捜すつもりでおります」
「じっくり吟味とは、これまた厳しいですな」
「当然です。女子の一生は殿方の良し悪しにより左右されます。しっかりしたお方を捜すつもりでおります」
「良し悪しとは……。教えてくださらんか。しっかりしたお方とは、どのようなお方か」
「まず、頑丈なお体でなければなりません。ひ弱なお方は駄目です。次にあきないにけていなければなりません。妻子を養っていく甲斐性が必要です。それに教養です。尊敬できるお方でなければ毎日の会話が続きませぬ。絹に知的な刺激を与えてくれるお方です。そして一番大切な事は、絹だけを愛しいと思ってくれるお方です。絹は、そのような殿方をお捜しいたします」

 隆佐衛門と隼人は顔を見合わせ、互いにバツの悪そうな表情で下を向いた。
「絹殿、女子は皆、そのような殿方を求めておるのかのー」
「はい」
 胸を張り活き活きとしているのは絹だけ。男二人は腕組みをして

(6)






俯き加減。隆佐衛門の胸には妻子を養う甲斐性の言葉がグサリと刺さった。隼人は、この条件を考えてみたが合致するのは体が丈夫だという部分だけ。ふーと溜息を漏らす始末。
 松がお茶を取替えに来たが、場の雰囲気を感じたのか、そっとその場を離れていった。
 絹には二人の気持、総てが見えている。からかっている訳ではないが言うことはきちんと言う性分である。しかし、余りにも二人に元気がないのを見て話題を変えることにした。
「おとう様。今日はお稽古のある日ですが……」
「おー、そうだったな。そろそろ出掛けた方が良いな」
「はい。木村様も途中までご一緒いたしませんか」
「せ、拙者は、ちょっと定廻りが……」
 今日、隼人は非番。隆佐衛門は嘘であると判っているが黙っている。隼人は大丈夫だろうか。陽気な男ほど胸に何かが刺さると落ち込むものである。
 隼人は、では、いずれ、と出て行った。二人は店に行き登世に稽古に行くことを伝えた。
 出掛けに登世が、絹を呼んだ。
「絹、木村様に何か申し上げたのですか。あんなにションボリした木村様を見たことがありません」
「おかー様。絹は苛めたりしていません。当たり前のことをお話しただけです」
「どのような事をお話したのかは判りませんが、その当たり前のことが人様を傷つけるのですよ。相手の方のお心を考えて話すのが優しさです」
「判っています。絹にもちゃんと優しさがあります」
 プイっと横を向き、表に出た。膨れっ面のまま黙って歩く。隆佐衛門は甲斐性の一言が重く圧し掛かり腕組みをしたまま歩いた。

 稽古の間、隆佐衛門は茶屋で時間を潰す。今日の茶は、やたらと

(7)






渋い。顔をしかめて飲んでいると登世がひょっこりと隣に座った。
「隆様、お元気がありませんね。どうなさったのですか」
「おう登世か。店の方は良いのか」
「えー、今日はお客様も少のうございます。木村様もお元気がありませんでしたが……」
「隼人のことはさて置き、登世、拙者ちょっと居づらくてな」
「はっ! 居づらい? で、何処にでしょうか」
「松浦だ」
「まー、その様な事。登世の何処が御気に召さないのでしょうか」
「そうではない。別の事だ」
「お話くださいませ。私は隆様の妻でございます。夫の悩みは妻の悩みでもございます」
「そのように元気な声で話さんでくれ。実はなー、何とかせねばならんと思っておる。拙者には実入りがない」
「あらっ! その様な事でお悩みでしたの。拍子抜けいたしました」
 登世、急にそっぽを向く。登世にとっては、どうでも良い事のようである。
「では、今まで通り絹の送り迎え月二両とし、その二両を松浦に入れてくださいまし。松浦の儲けといたします」
「登世、それは屁理屈。それでは結局、行って来いではないか。それに絹は拙者の娘だ」
「計算が合えば宜しいのではないでしょうか。それにお気持の問題です。さー、絹が来ましたよ。絹っ、今夜は親子三人で豪勢に鰻ですよ」
「ワー、鰻は大好きです」
 膨れっ面は元に戻っている。
 鰻屋で二人はニコニコと話しながら美味しそうに食べているが、隆佐衛門は味わう気にはなれない。自然、周りの客たちの話が聞こ

(8)






えてきた。

「また、出たな」
「出た出た。今度は、柳町だっ!」
「洒落てるね。柳町か。ピッタリだ」
 隆佐衛門、何が出たのかと耳をそばだてた。
(いろ)っぽいようだが人が殺されてるんだ。前と同じように世直しと書いた紙があったらしい。これは事だぜ」
「そうよ、楽しんじゃいられねーぜ。今度は首を絞められたって話だ。そんな力があるのかね」
「判んねえもんだ。刺したり絞めたり。気を付けた方がいいぜ。夜中は出歩いちゃ駄目だな」
桑原(くわばら)、桑原……」
 隆佐衛門、気にはなったが話に割り込む事はできない。食事を終わり、松浦に戻った。二人は始終ご機嫌であった。すでに隆佐衛門は家族の一員。黙っていても二人は一々気を使わない。

 翌日、隆佐衛門は久しぶりに甚平長屋に行ってみた。溜まった家賃、修理代は既に払い、長屋を引き払っている。
 甚平はご機嫌であった。修理したお陰で部屋は綺麗になり店子がすぐに見つかったからだ。
「木谷様、松浦でのお暮らしは如何ですか。この長屋と違い蚤や虱はいないでしょうし、美しい奥様とご一緒。羨ましい限りでございます」
 どうも皮肉に聞こえてしまう。
「甚平、拙者の後にはどのような者が越してきたのじゃ」
「へー、若夫婦でして。いえね、部屋も綺麗になった事だし……家賃を少し高くと思ったのですが、所帯を持ったばかりとか申しますので……。私は優しいですから据え置きました」

(9)






 優しい? 隆佐衛門、ほんの少し違和感を覚えた。
「大家さん」
 表で声がした。
「誰かな」
常吉つねきちです」
「常吉さんか。何かな。入ってください」
「どうも。えー、お家賃を……」
「おー、おー。まだ一月(ひとつき)も経っておらんのに。それは、それは……」
 常吉が部屋に入ってきた。
「払える時に払っておかねーと……」
 若い男だ。
「これはこれは……。まー、若いのに偉いですな。他の連中は、催促しても何やかんや申して払わんのになー。いやいや。確かに八百文。まー、頑張ってくださいな。木谷様、このような真面目な方も居るのです。中には何ヶ月も払わんお方も居ったのに」
 やはり皮肉だ。
「木谷様、常吉は屋台の蕎麦屋を遣っております。真面目に遣っておりますよ。長屋の連中に引越し蕎麦を振舞って……」
「蕎麦屋か。二八蕎麦かな。常吉、儲かっておるのか」
「まだまだで……。ただ、旨いと言ってもらいたくて遣っております」
「そうか。子供は居るのか」
「いえ、二人っきりですが……」
 隆佐衛門、若々しいが何か寂しげな常吉をじっと見た。
「大家さん。あっしは仕込みがありますんで……」
「そうか、そうか。頑張んなさいよ」

 隆佐衛門は、何かひっかかるものがあり、甚平にいとまを言って常吉の所に足を運んだ。常吉は、煮干を釜に入れ出汁だしをとっていた。

(10)






 傍に来た隆佐衛門に気付いた。
「出汁が難しいんで。いつもこれで良いのかと思案します。木谷様、少し待っていただければ蕎麦を作れますが」
 なかなか良い匂いがする。
「いや、ちょっと寄ってみただけじゃ。常吉、女房は……」
「へー、中で休んでおります。体が弱いもんで」
「そうか。大事にしなければな」
「さー、出汁が出来ました。食べてください。旨いかどうか遠慮なくお聞きしたいです」
「そうか。では、貰おうか」
 蕎麦を茹で、ドンブリに入れ、隆佐衛門に渡した。隆佐衛門は汁を吸った。旨い。蕎麦もちょうど良い茹で加減。ズルズルと喰った。夢中になれる味である。
「常吉っ! これで十六文か」
「へー、高すぎますか。木谷様、味はどうなんで……」
「旨い。常吉、これで儲けは出るのか」
「お気に入って貰えたようで。少しですが儲けはキチンと考えています」
「そうか……」
「お前さん」
 見ると女房であろうか、部屋から顔を出した。隆佐衛門は女房の痩せ細った体に驚いた。そう言えば先ほどから咳が聞こえていた。
「志津、起きてきては駄目じゃないか」
「だって、お武家様が旨いとおっしゃるもんですから、つい」
「お志津さんか。常吉の蕎麦は旨い。良い亭主を持ったな。働き者

(11)






のようだ。拙者も見習わなくてはならん」
「まー、お武家様。そのような勿体ないお言葉……」
「志津、さー、中に入りなさい。体に障る」
「はい。お武家様、どうぞ夢屋をご贔屓に……」
 志津は言うと部屋に入った。
「夢屋か」
「へー。せめて楽しい夢くらいは、と思いまして」
「お志津さんは……」
「咳が止まりません。優しい良い女房です。志津が咳き込むと……、あっしも辛くて……」
 隆佐衛門は言葉に詰まった。二人は黙ったまま立っていた。
「常吉つ! 神田桧垣町の松浦を知っておるかっ!」
「あの刀屋ですか」
「そうじゃ。どうじゃ今日はあの辺(あたり)で屋台を出してみては」
「へー。でも何故……」
「いや、拙者桧垣町に住んでおるが蕎麦屋の声を聞いたことがない。声を聞いてみたいと思ってな」

 隆佐衛門、松浦に戻ると大番頭の嘉吉を捜した。
「嘉吉さん、夜中に蕎麦屋が来る。若いもんは腹が空くだろう。蕎麦屋の声が聞こえたら少し時間を遣って欲しいが……」
 嘉吉は急に何を……とは思ったものの隆佐衛門の真剣な顔を見て何かを察した。
「良うございます。ところで木谷様、先ほどより木村様がお待ちですが」

(12)






 部屋に入ると隼人が待っていた。
「遅いな。何をしておったのだ」
「何を言うか、拙者が何をしようがおぬしには関わりのないこと。で、何だ」
「いやな、隆佐殿、おぬし幽霊などいると思うか」
「何だ、そのような事を聞きたくて待っておったのか。同心とは閑だな。まー良い。幽霊か。話には聞くが拙者、お目にかかった事はないが」
「そうであろうな。拙者も見たことはござらん」
「で、幽霊がどうした」
「妙な事件が起こってな。実は、三人ほど殺された者がおるのだが……。幽霊が殺したとの噂が流れておる」
 隆佐衛門は鰻屋での話を思い出した。出たと言うのは幽霊だったのか。
「一人は柳町か」
「何故、おぬしが知っておる」
 掻い摘んで隼人に話した。
「そうなのだ。幽霊が出た後に人が殺されると言うのだ」
「幽霊を見た者がおると言うのか」
「居る。痩せた女の幽霊だそうだ」
「隼人、太った幽霊など聞いたことはないがな」
「隆佐殿っ! 真面目に話しておる、言葉尻を捉えるものではないわ」
「おー、済まん済まん。で、その幽霊が人を殺す所を見た者はおるのか」
「いや、それはおらん。ところで相談だが隆佐殿には妙なところがある。先の件でもそうだったが、このような事件に向いておると思うが、どうじゃ手伝ってはくれぬか」
「銭にはならんがな。まー良いか。何かをせねば気が滅入る」

(13)






 隼人は返事を聞くと、宜しくと頭を下げ帰った。妙な事になったとは思うものの、夜が来るのが待ち遠しかった。
 
「蕎麦ーィ、蕎麦ー。夢屋でござーいっ! 美味しい二八蕎麦ー。蕎麦ーィ、蕎麦ー」
 来た来た。隆佐衛門は、イソイソと表に出た。
「常吉っ! 蕎麦をくれぬか」
「木谷様っ! へーい、蕎麦一丁っ!」
 店からも何人かが出てきた。嘉吉もいる。隆佐衛門は嬉しくて仕方がない。良い連中だ。蕎麦を啜るが一緒に鼻水も吸っている。見ると登世も絹もいる。嘉吉が隆佐衛門に目配めくばせをした。男の目配せ。余り気持の良いものではないが隆佐衛門もそれに応えた。用心棒代二両の残りがある。隆佐衛門は常吉の手が空いた隙に皆の分を手渡した。長屋で喰った分も入っている。
 先に喰い終わった隆佐衛門は部屋に戻った。
 登世が入ってきた。
「皆が喜んでおりましたよ。美味しいお蕎麦。隆様の奢り」
「そうか。旨いと言っていたか。夢屋の蕎麦は旨い。常吉も良い男じゃ」
「常吉? 夢屋を遣っているのは常吉という名前なのですか。良くご存知で…… 隆様、何かございますね」
「う、うん。まーな」
「ホホホ、嬉しそうなお顔をなさって」

 翌朝、絹が隆佐衛門の部屋に来た。神妙な顔付きである。
「お父様、絹はお話がございます」
「おう、改まってどうしたのだ」
「絹は、人の考えている事が読めまする。煩わしいと思うこともございます。それに知ってはいけない事も知ってしまうこともござい

(14)






ます。それに知ってはいけない事も知ってしまうこともございます。絹は決めました。これからは必要と思う時以外は読まぬことにいたしました」
「そうか。そうだな。絹にとってその方が良いかも知れん。で、使い分ける事はできるのか」
「はい。試してみましたが自由に使い分けられます。もしお父様が、必要だと思われた時にはおっしゃってくださいまし。絹は喜んでお手伝いいたします」
「そのような時が来れば頼むかも知れん。しかしな、絹は分別をわきまえておる。絹が判断すれば良いと思う。絹は立派な大人だ」
 絹は初めて父親に抱きついた。

「隆佐殿は、おるか」
 隼人が岡引の熊吉を連れてやってきた。この岡引、名前は威勢が良いが痩せた小男。むしろ鼠に似ている。元はこそ泥である。店の前で立ち話。
「また殺された。女だ。今度は五郎兵衛町」
「柳町と離れておらんな。四人目か。隼人、この四人に何かつながりはないのか」
「それがさっぱり判らんのだ。熊も聞き込みをしておるが……」
「へー、さっぱりでして……」
「やはり幽霊は出たのか」
「へー」
「今まで幽霊を見た者は何と申しておる」
「二人目の時に見た者が一番はっきりと覚えていやした。何でも青黒い顔で髪は長く垂らしたまま。白い浴衣姿で手を、このようにダラーっと」
「熊吉っ! そのような顔をするな。気持が悪いではないか。それにその手つき。しかし、汚い手だな」
「余計なお世話です。右手を上にして左手を下に。お手本

(15)






どおりだと申してましたが……」
「ほうっ、手本どおりか。で、歩いていたのか」
「まさかっ! 旦那、幽霊には足はありませんぜ」
 熊吉、徐々に地が出てきた。隆佐衛門に打ち解けてきたようだ。言葉遣いもぞんざいになる。
「地面から一尺くらいの所をふーと動いていくそうで。ちらっと顔を向けたと言ってやした」
「隆佐殿、総てが手本どおり。きちんとした礼儀正しい幽霊でござるな」
「隼人、詰まらん事に感心するものではないわ」
 話していると店から番頭の茂助が出てきた。
「木谷様、外で立ち話もなんですから部屋の方でと奥様が申しておりますが」
「おう、隼人如何する」
「いや、今日は報告のみ。隆佐殿、どう思われる」
「うーん、幽霊がおるとは思わんな。ましてや人を殺すなど。誰ぞが……。しかし殺しが目的であれば何も幽霊など……」
「隆佐殿。やはり殺された者たちには何かつながりがあると考えた方が良いようじゃな」

 隼人や熊吉は聞き込みを続けた。隆佐衛門は幽霊などいないと思っている。これは作り物の幽霊を使った殺しだろう。しかし何故、幽霊を使うのか判らなかった。

 幽霊事件は続いていた。すでに八人の犠牲者が出ている。女の幽霊が人を殺すとの噂が江戸中に広まっていた。何人かが集まるとこの噂に始終していた。

(16)






「隆様、幽霊は雪姫だとの噂ですが……」
「雪姫? 登世、あの豊臣方の雪姫か」
「えー、夏の陣で大阪城と命をともにした雪姫です。夫に尽くし必死に城を守った女の鏡。今も雪姫の命日には、非業の死を悼みお線香をあげる女が多ございます」
「しかし、何で数十年も経った今ごろになって雪姫の幽霊が出るのだ」
「あら、そんな事! ご本人にお聞きしなければ判りませんわ」

 噂は、思わぬ方に向かっていた。

 雪姫は徳川を恨んでいたが、世の中が平和になり、庶民が楽しく暮らせるようになったため恨みは消えていた。しかし、近頃は庶民だけでなく武家の暮らしも苦しくなっている。とりわけ豊臣方の元家臣たちは仕官もできず悲惨な生活をしている。これら総ては徳川幕府が蒔いた種。雪姫の恨みが再燃し出てきたのだ。世直し幽霊。
 隆佐衛門は噂を聞き呆れてしまった。
 ――世直し幽霊であれば幕府要人を狙うはず。庶民を殺したりはしない。これでは雪姫も浮かばれまい。誰かがこのような噂を流しているはず。そやつらが犯人。

 隆佐衛門は絹を呼んだ。
「お父様。幽霊の件でございますね」
「おー、そうだ」
「絹も人ごみに出てみました。何か感ずるものがあるかなと思いまして」
「そうか。絹、余り人ごみに出るのは感心せんがな……」
「はい。明るい間だけですし家から遠くには参りません。お父様にご心配をお掛けするようなことはいたしません。ご安心を」
「うん、であれば良いが……。で、どうじゃった」

(17)






「ほとんどの方が、噂をそのまま信じ怖がっているようでした。気になりましたのは、噂話が出ていることを喜んでいる人がいた事でございます」
「なるほど。まさか大勢ではなかろうな」
「大勢ではありませんでしたが、何人かの方が……。お父様、ご浪人の方ばかりでした」
「浪人っ?」
「はい。商いなどをやっている方の中にはいませんでした」
「絹。今日は稽古はないな」
「ございません。それに店の方も手伝わなくとも良いようです。表にでましょうか?」
「そういたそう」
 二人は、街の中をそぞろ歩いた。絹が声を上げた。
「あらっ! 今、お父様の肩口に人の気配がいたしましたが……」
「なにっ! 肩口に。絹、幽霊でもあるまいに。肩口だけに人の気配など……何かの勘違いであろう」
「そうでございますよね。気のせいでしょう」
 絹が真剣な顔付きになった。
「お父様、あの方も喜んでいらっしゃいますよ」
 隆佐衛門が見ると確かに浪人者。腕を組み、キョロキョロと周りを気にしながら歩いている。
「それに噂話が出ていないか捜しているようでございます。訳は良く判りませんが、あのようなご浪人の中に多いように思います」
 隆佐衛門は、自身が浪人だった時を考えた。いや、侍として見れば今も浪人である。ただ喰うには困らないだけである。浪人の辛さは身にしみている。
「絹。そのような者の中に人をあやめたことがあるかどうかを感じる事はできるか」
「お父様、それは難しゅうございます。人を殺めた事を自慢してい

(18)






るお方であれば判りますが」
「うん、そうだな。絹、助かったぞ。疲れたか」
「いえ。お父様、絹は何故幽霊が人を殺めるのか判りません。雪姫といえば女の鏡といわれておりますのに……」
「絹は、幽霊はいると思うか」
「どうなんでしょう、はっきりとは判りません。ただ、誰もいないのに何かをふっと感じる事がございます。姿などは見えませんが」
「そうか。拙者はおらんと思う。幽霊は戯作者たちが作り上げたもの。人間には恐怖心があるからのー。その心がさらに幽霊を本当にいるように思わせているだけだよ。薄を見ても幽霊と思い逃げるほどだ」
「では人間は、この世限り……」
「そう思っておる」

 松浦では、店の者が共に夕餉をとる慣わしがある。台所の横にある部屋に皆が集まり、登世のご苦労様でしたの一言で食事が始まる。食事は黙ってとるものだが、松浦は違った。しかも食事中での話は無礼講。丁稚から大番頭まで一緒になり、下世話な話や商売の事を話す。
 近頃の話は、やはり幽霊のこと。居ないと思っていたが居るんだ。夜歩きの時は何人かで。雪姫は怒っている。いや、雪姫ではない。雪姫だったら町人を殺したりしない……。
 隆様もご一緒にと登世は誘うが、隆佐衛門は、いや拙者は……と取り合わない。部屋で松が運ぶ箱膳を待つことになる。たまに松が忙しい時など遅れることがあるが、待つ以外にない。

 この日も箱膳がなかなか来ない。腹は空いているがどうしようもない。隼人の言うように拙者、居候かのーなどと考えている。腹は結構空いているが食欲がなくなってきた。そんなところに登世が食

(19)






事を運んできた。
「隆様、お食事です」
 隆佐衛門は、箸を持つ気がおきない。
「隆様っ!」
「登世、拙者……」
「あら、また実入りのことでもお考えですか。詮ないことを。店の者は皆、隆様を頼っております。店を守ってくれるお方と。正真正銘の旦那様でございます。さー、そんなにションボリしていないでお食べくださいまし」
「……」
「その様な事では、もしもの事があっても登世は成仏できません。夜な夜な幽霊になって出て来なくてはなりませんよ」
「と、登世が先に逝く事などないっ! ば、馬鹿な事を申すではないっ!」
 珍しく隆佐衛門が大声を上げた。聞き付けたのか絹が来た。
「お父様、どうなさったのですか。あらっ! お母様は涙ぐんで……」
「お食事を取らなければ……元気がでません。それなのに登世の事を馬鹿と……」
「そうではない。先に……などと言うからだ。それに幽霊などと……」
「でもお父様、居候などと僻んだお考えには絹も寂しく思います。殿方は、いつも胸を張り光り輝くように赫灼と……」
「き、絹、判った判った。もう良い。赫灼だな」
「何でございますの。私には何のことか……」
「登世、いずれ話す。しかし、夜な夜な幽霊になり出てくるとは本気か。もっとも先に逝くのは拙者の方だとは思うが」
「えー、本気でございますよ。この世にいてもあの世に行っても、登世は隆様のお傍にいつまでも居とうございますもの」

(20)






「まー、お母様ったら。娘のいる前でそのような……」
 隆佐衛門は、真っ赤になり俯いた。
「この続きは、お二人でおやりくださいませ。絹は寝ます」

 昨夜、また幽霊が出たという。隆佐衛門は隼人から状況を聞くために番所に行った。番所の中が騒がしい。
「おー、隆佐殿、ちょうど良い所に参ってくれた。今、変なものを見たと、この……」
「木谷様っ!」
「おー、常吉!」
「何だ。知っているのか。ところで常吉、話を続けてくれ」
「へー。昨夜、小川町付近で店を出したんですが、ふと見ると立木の間に光る物があります。まるで蜘蛛の糸のようでした。何だろうと思っていたんですが、客が次々に来まして……。気が付くとかなり遅くなってました。志津が心配でしたので光る物を確かめずに帰りました。今朝、小川町に幽霊が出たと聞きましたので何かの手掛かりになればと来た次第です」
「光る蜘蛛の糸のような物……。これは何でしょうな」
 隆佐衛門は、常吉に、また鍛冶町に来てくれと言い残し番所を出た。隼人は、何だ、もう帰るのかと声を掛けたが隆佐衛門はスタスタと行ってしまった。

 隆佐衛門の部屋に隼人と熊吉が来ていた。
「綺麗な部屋なのに済まんな。番所でも良いのだが周りがうるさい。八丁堀の拙宅は裏長屋と同じ有様。お上は独り身の同心の部屋など、眠ることができればそれで良いと考えておる。酷いものだ」
「戯言はもう良い。で、どうだった」
「全く判らん。九人になってしまったが、つながりは見つからん。北町奉行所あげての聞き込みを遣ったがな」

(21)






「九人とも、誰かが幽霊を見た後に殺されておるのか」
「へー、必ず幽霊がでた後です。やはり幽霊が遣ってるんじゃねーですか。あっしは幽霊はいると思ってますんで」
「熊吉、もし幽霊がいるとしての話だが、幽霊は人を呪い殺せるのではないか。なぜ刃物で刺したり首を絞めたり面倒なことをするのだ。おぬしは言ったではないか、刺し傷、首の跡は人間がやったのと同じだと」
「へー、木谷様、その通りで……」
「隼人、どうも気になるのだが、殺したい相手がいる。しかも外で遣るとする。その場合だが、その者を待ち伏せて遣るか、または後を付け、人気がないところで遣るのではないか」
「当たり前だ」
「良いか。幽霊を誰かに見せ、その後で殺している。手間が掛かりすぎるではないか。そのように都合よく殺したい相手がその場に来るものかのー」
「何を言いたいのだ」
「九人につながりはない。つまり、殺す相手は誰でも良い……」
「誰でも良いっ!」
「そうじゃ。幽霊は作り物。芝居でよく遣るであろうが、針金に吊るし、すーっと動かす。常吉が見た光る蜘蛛の糸とは針金じゃ。場を作っておいて誰かに見せ、その後に来た者を殺す。つまり誰でも良い」
「何故、そのような……」
「雪姫世直し幽霊の噂話とむすびつけると、どうも今の徳川様のご時勢に逆らう者たちの企みではないかと思うが」

(22)






「しかし、そのために町人を殺すというのか」
「既に自暴自棄になっているのではないか。はぐれ者よ。どうあがいてみても徳川様の世を動かす事など出来ん。拙者も何年間かは世の中から取り残された暮らしをしたがな。酷いものよ。世の中を恨みたくもなる」
「浪人者だと言うのか」
「そうであろう。その連中と芝居小屋などに居着いたごろつきどもの仕業ではないか。雪姫の幽霊を思いつくなど芝居がかっておる。それに幽霊を吊るしたりするのもな。幕府に対する嫌がらせよ」
「だが、そのような事をしても仕官できる訳もない。挙句の果ては獄門だが……。拙者には到底理解できんが」
「所詮、生きる術を失っておる。可哀相なものよ。おぬしなど扶持は少なくとも、お上に仕える身じゃ。奴らに比べれば極楽にいるようなもの」
「極楽ねー」
「で、隼人、おぬしはどうするつもりなのだ」
「どうするとは……」
「何を寝ぼけておる。奉行所はどのようにして奴らを捜すつもりなのかと聞いておる」
「おっ! そうであった。まず与力殿にお伝えることにする。芝居小屋、浪人を片っ端から調べつぶすわ」
「芝居小屋は兎も角、浪人を片っ端からと言うのは乱暴すぎる。奴ら徒党を組んで騒ぎ出すかも知れんぞ。そうなれば犠牲者がでる」
「いかにも。しかし、いくら奉行所といっても当てがござらん。浪人であれば人別にも載っておらんだろうし」

(23)






「隼人、浪人については拙者に考えがある。任せてもらおう」
「お奉行からも早くせよとお達しが出ている。おぬし一人に任せる訳にはいかんと思うが」
「拙者は一銭にもならんのに手伝っているのだぞ。奉行、与力に上手く伝えろ。それよりもこれ以上犠牲が出ないように、夜回りを増やした方が良かろう。まず、蜘蛛の糸を見つければ良い」
「ふーん。失敗すれば拙者の首が飛ぶかも知れんが……。判り申した。隆佐殿に賭けてみよう」
「ところで、熊吉。おぬしの手下を二人ほど貸してくれんか。なるべく人相の良い者をな」
「旦那、あっしの子分は二人しかいませんがね。そんな人相が良いのをと言われても……」
「おぬしより良ければよいのだ」
「だ、旦那っ! それはないでしょう。あっしの人相が悪いと言っているようなものですぜ」
「判るか。まー、そー怒るな」

 翌日、二人の手下が来た。隆佐衛門の部屋でかしこまっている。
「済まぬな。名前は何と申すのだ」
「へー、亥助いすけ牛蔵ぎゅうぞうで」
「親分が熊。手下が猪に牛か。熊よりは良い人相をしている」
「へー、親分より悪い人相はそうはおりませんです」
「そうしゃっちょこ張らずに楽にしてよいぞ。ちょっと立ってみてくれぬか」
 二人は、おずおずと立ち上がった。

(24)






「まず、その尻っぱしょりを下げてくれ。そうだ。それに股引は脱いでくれ。何を恥かしそうにしてる。それでよい。後ろを向いてくれ」
 何と着物の尻の部分はボロボロ。隆佐衛門は、二人をそのままにして店に行った。しばらくすると店の者の着物を持ってきた。絹も一緒だ。見ると二人は、先ほどの姿勢のままでいる。
「き、絹さんだっ! おい、絹さんだよ」
「絹さん……」
 二人は、急に顔を赤らめ、もじもじし始めた。
「何だ、絹を知っているのか。絹、この二人を知っているか」
「いえ、初めてお目にかかります」
 どうも絹は、若い連中の間でも評判であるようだ。
「これに着替えてくれ」
「だ、旦那。絹さんの前ではちょっと……」
「何を言っておる。絹、済まぬが廊下で待っていてくれぬか」
 絹は、面白そうに二人を見た後、廊下に出た。
「おーおー、商人に見えるではないか」
「あのー、あっしらは何を遣るんで……」
「ちょっと待ってろ。絹、良いぞ」
 隆佐衛門は、二人にこれからのことを説明した。
「良いな、拙者があの男と言ったら、そやつを付けるのじゃ。居場所を付きとめて欲しい。絹も一緒だ。店の者が出歩いているように見せ掛けたいのじゃ」
 絹とは打ち合せてある。店から出ると二人は、絹の傍に付き、しきりに絹に話し掛けている。

(25)






「これ、お前たちは使用人に扮しているんだぞ。店の者がそんな風にお嬢様に話し掛けるか。少し離れろ」
 絹は、神経を集中させている。どれほど歩いただろうか。絹が隆佐衛門の袖を引いた。見ると浪人が歩いている。隆佐衛門は亥助に指示した。亥助は、絹を振り返りながら浪人を付け出した。四半時ほど歩いた頃、また袖を引く。牛蔵の番だ。

 夜回りは強化され蜘蛛の糸も何本か見つかった。ただ仕掛けている者を見つける事は出来ないでいる。それに、芝居小屋にも手掛かりはなかった。奉行は老中から急げと言われている。噂は、実しやかに拡がっていた。困った事に噂は地方にも広まっている。これは幕府にとって都合が悪い。
 今日も隆佐衛門の部屋に隼人、熊蔵が居た。皆、イライラしている。
「隆佐殿、あの二人は、まだ戻って来ん」
「昨日の今日。焦るではない」
 この日、二人は戻らなかった。
 
 蜘蛛の糸が見つかり出してから幽霊による被害者は出ていない。しかし、別の犯罪が起こっていた。辻斬りである。町民だけでなく侍も含まれている。二つの事件には共通点があった。斬られた者の体には「世直し」と書いた紙が置かれていた。

「隼人、奴らは狂ってきたようだ。手当たり次第に人を殺め出したようじゃ。これは事だぞ」

(26)






「蜘蛛の糸を見つけたのは良かった。だが、それがこのような事態を招いている。しかも、亥助、牛蔵が姿を消して四日が経つ。隆佐殿、如何致す。このままでは拙者もおぬしも拙いことになる」
 隆佐衛門の部屋に厳しい顔をした二人がいた。絹が入ってきた。
「お父様、二人でお話がしとうございます」
「判った。隼人、済まぬが店の方に行ってくれぬか」
 隼人は不服そうな顔をしたが、部屋を出て行った。
「絹、何だ」
「お父様、あの二人は生きております。このような時に言いにくいのですが、絹の事を慕っているようです。強く感じます。身動きが取れないのだと思います。方向は判りますがこれでは場所が判りません。絹は考えたのですが、ここだけではなく、少し離れたところで方向を感ずれば、二つの方向が交わるところが居場所だと思うのですが……」
「……絹っ! その通りじゃ。二人は別々のところにおるのか」
「いえ、同じところにいるようです。例の浪人もそこにいるのでは……」
「そうか。絹、遣ってみるか」
「はいっ!」

 その頃、老中と町奉行たちが評議を重ねていた。
「如何にもまずい状態じゃ。世直しなどと戯けた噂が蔓延しておる。北町奉行が言う通り浪人たちの仕業だとすれば、やつらが結託するかも知れん。それだけであれば何とかなる。しかし、農民たち

(27)






がそれに加われば大事になることは必至」
 商人、職人たちの時代になりつつあった。士農工商の士と農、つまり侍と農民が苦しんでいた。この二つが結びついた時、何が起こるかは明白であった。
「首謀者たちは、まだ判らんのか」
「いまだ……。与力、同心、町方を動員しておりますが奴らは尻尾も見せぬ状態でございます」
「如何いたすつもりか」
「必ずや見つけ出してみせまする。しばし時間をいただきたい」
 奉行は言ったが目途は立っていない。このままでは侍を首謀とした農民一揆が……。

 隆佐衛門と絹は愛宕山に登った。絹は青ざめるほど真剣になっていた。
「絹、大丈夫か」
「はい。この小山は景色の良い所。このような事のために登るとは思ってもいませんでした」
 急に絹は黙り込んだ。しきりに顔を前に突き出している。
「お父様っ!」
 隆佐衛門に向けた顔には笑顔があった。

 二人は北町奉行所に急いだ。急いだところで着くには半時ほど掛かる。既に暮六ツ半は過ぎている。辺りは暗い。急ぐ二人を付ける者たちがいた。
「お父様っ!」

(28)






「おう、拙者も気付いておる。厄介な事じゃ。奉行所に着く前に追いつかれる。この辺で始末した方が良いようだ。絹、尻っぱしょりを許す。奉行所に急げ」
「お父上はっ?」
「大丈夫じゃ。夜雪がおる。さー、急げっ!」
「はいっ!」
 絹は急いだ。奉行所に奴らの居場所を伝えなければならない。そこには亥助も牛蔵もいる。
 隆佐衛門も尻っぱしょりをし、襷を十字に掛けた。夜雪は何人まで持ちこたえられるのだろうか。バタバタバタッ! と連中が隆佐衛門を取り囲んだ。七、八人はいるようだ。月明かりに連中が見えた。どう見ても浪人たち。隆佐衛門は夜雪を抜いた。
「たーっ!」
 一人が斬り込んできた。他の連中は刀を構えたままだ。隆佐衛門の動きを見極めようとしている。斬り込んだ一人と刀を合わせた。二つの刀がギシッと音を立てた。刃と刃が噛みあったまま動きが止まった、と見るや夜雪は敵の刀を真二つにした。隆佐衛門は間髪を入れずに夜雪を押し出した。相手は左肩口から右脇腹まで切り裂かれた。一瞬、連中が動揺するのが判った。その場の動きが止まった。隆佐衛門は正眼に構えた。敵は後ろにもいる。前と後ろにいた相手が同時に突きを掛けてきた。隆佐衛門は、さっと突っ伏した。その勢いで地面を転がった。二人は咄嗟の出来事に動きを止められなかった。互いの腹を突き通した。他の者が転がった隆佐衛門に刀を振り下ろした。ヤーッ! 隆佐衛門が声を発し足を払った。ギャーッ! 声を上げた二人の両足は膝から下がなくなっていた。声を

(29)






上げながら地面をのたうち回っている。残るは三人。隆佐衛門は静かに刀を構えた。息は上がっていない。一人が前に出た。

「おぬし、余計な事をしおって。我ら浪人の苦しみを知らんのか。腕も技量もある我らを虚仮こけにしよる今の世の中が憎い。総ては……総ては徳川家、幕府が悪い。一騒動起こすのじゃ。このままでは腹の虫が収まらん。さー掛かって来い。邪魔をする者は誰であろうが容赦はせん」
 じりじりと足を運ぶ。やおら正眼に構えた刀を右に廻し出した。刀が右足に近づいた途端、左足を踏み出し隆佐衛門目掛けて左上に切上げた。隆佐衛門は咄嗟に夜雪で受けたが勢いがなかった。腕に痺れを感じた。隆佐衛門が躊躇した隙を狙い、鋭い突きが襲った。かろうじて避けたが、右脇腹に熱い感覚が走った。夜雪は高く持ち上げられていた。それが良かった。隆佐衛門は夜雪を左に払った。相手の頭が空中に飛んだ。残った二人は、体をガタガタ震わせ出し、動けなくなっている。既に戦意はない。隆佐衛門は峰打ちを入れた。気絶した二人の両手、両足を縛った。
 隆佐衛門は、右脇腹を押さえながら奉行所に向かった。

 奉行所に着くと絹が駆け寄って来た。
「お父様っ! 血がっ!」
 言った途端、絹は気絶した。町方が絹を座敷に横たえた。すでに根城の在りかは伝えられていた。隼人と与力が来た。
「隆佐殿、傷は」
「いや、大丈夫だ。良いか、静かに動かんと奴らに勘付かれる。人

(30)






数は判らんが……」
「南町にも伝えた。両奉行所、総がかりじゃ。静かに動くよう皆に伝えてある。安心しろ。おぬしは絹殿を見てくれ。手当ては、すぐにした方が良い」
「かたじけない。拙者、不甲斐なくも手傷を負った。残念だが共には動けん。与力殿。手抜かりなく頼む」
「木谷殿。また手伝ってもらった。いずれ礼はする。休んでくれ。では、各々方参るとしよう」

 捕り物は大掛かりなものだった。古寺にいた者、総勢五十人余り。三人を残し他の者は死んだ。捕り方の方にも死者が出た。三人は取り調べの後、獄門晒し首。事件のあらましは隆佐衛門の読み通りであった。寺には作られた幽霊が五、六体転がっていた。出来栄えの悪い人形であった。

 絹は松浦に運ばれる途中で気が付いた。
「お父上はっ」
「絹、拙者は絹の傍を離れん。さー、もうすぐ家に着く」
「傷は?」
「大丈夫だ。それに捕り物は上手くいったようだ。絹の手柄だな」

 隆佐衛門の傷は軽くはなかった。甲斐々々しく介抱する登世。他の者の前では大丈夫と強がる隆佐衛門だが、登世には痛い痛いと泣き言をいう。さすがに登世も絹も、その度に噴き出してしまう。

(31)






 五日ほど経つと隆佐衛門は外に出られるようになった。そんな昼過ぎに隼人が訪ねてきた。
「隆佐殿、傷は癒えたか。何やら老中、奉行連中がおぬしに礼を与えるそうだ。額を聞いて驚くなよ。幕府の面目を救った門により金一封、三百両。三百両だぞ。良かったな。どうだ、拙者を手伝えば金になるであろうが」
「そうか、悪くないな。拙者が稼いだ金だ。登世に渡せる」
「何だ、登世殿に渡してしまうのか。拙者、幾らか融通してもらおうかと思っとたのに。残念だな」
「おう、そうだ。おぬしには旨い蕎麦を馳走してやろう。一緒に参ろう」
 出掛けに隆佐衛門は、店にいる登世に何やら話している。登世は、そっと隆佐衛門に何かを渡した。

 二人は夢屋に急いだ。暮六ツ近くになっている。常吉が屋台を持ち上げようとしている所だった。
「木谷様、木村様。お疲れ様でした。今夜は常吉に奢らせてください」
「馬鹿を言うものではない。痩せても枯れても拙者は侍。常吉に奢らせる訳にはいかぬ。ところで志津殿はどうだ」
「へー、今も寝ています。余り良くないようでして……。医者も厳しいと……」
「そうか。常吉にも褒美が出たぞ。受け取れ。その金で良い薬でも買うんじゃな。さて、蕎麦を貰おうか」
「木谷様、この褒美、結構重いようですが……」

(32)






「そうか。拙者、中身は知らん。さー、蕎麦だっ」
 旨い蕎麦を喰い終わり、隆佐衛門と隼人は、夜の江戸を歩いていた。
「しかし、夜目遠目傘の内と言うが、あのような人形を幽霊と思うのだな。人間とは意外と単純なところがある」
「隆佐殿。おぬしの言う通り。幽霊などこの世に居らんな。拙者、目が覚めた思いだ」
「ワッハッハハー! 愚か者がっ!」

 語りながら大川の川っぷちを歩く二人。少し離れたところに柳の木が見えた。ちょうど柳の傍に差し掛かった頃、風に揺れる柳の横に白いものが動いた。どうも例の幽霊のようだ。
「何だ、まだ残っておったようだな」
「おう、しかしこのように見ると、確かに幽霊のように見える」

 その白いものがすーっと音もなく近づいてきた。型どおり右手を上に左手を下にダラーっと下げ、俯き加減。長い髪で顔は良く見えないが痩せた女の幽霊のようだ。じっと見ている二人の前でピタッと止まった。

「隆佐殿。これは良く出来て……ますな」
「良く……、できて……いる」
 その幽霊が、心持ち顔を上げた。整った青白い顔。ゾクッとするような良い女。目は伏せている。 
 口を半開きにし、目を見張る二人に顔を向け、切れ長の目をゆっ

(33)






っくりと開いた。涙をためた目に月の光がキラッと輝いた。

「雪姫にございます……。此度は……、ありがとう……ございました……」
 言うなりニヤッと微笑んだ。二人は固まったままでいる。幽霊は言い終わると二人の前からふーっと消えた。

「は、隼人っ!」
「りゅ、隆佐殿っ! ほ、本物の……」
「ほ、本物の、ゆ、幽霊っ!」

 二人は、わーっ! と大声を上げながら、その場から一目散で逃げていった。



                         (了)


              インデックス・ページに戻る

(34)