隆佐衛門詞譚りゅうざえもんしたん【三】












      「 夢 」           九谷 六口









   
                
                        二00二年十一月八日 
                  








 木谷きや隆佐衛門りゅうざえもん影房かげふさ、この夜もうなされている。うめき声で目が覚めた登世。蒲団の上に座り、魘されている隆佐衛門をじっと見ている。悪い夢を見ているに決まっているが、魘されている最中に起こすのは良くない。途中で起こすと悪い夢が(うつつ)になるからだ。

 隆佐衛門は落ち着いたようだ。寝汗をぐっしょりとかいている。
「隆様。隆様」
「う、うっ!」
 隆佐衛門が目を開けた。登世が覗き込んだ。
「登世、どうしたのだ」
「何か悪い夢でも……」
「悪い夢? い、いや。何故だ」
「魘されておりましたが……」
「拙者が、魘されていた?」
 隆佐衛門の頭がはっきりとしてきた。雪姫である。

「登世、心配する事はない。喰い過ぎたのかも知れん。いい大人が見っともないことだ」
「いえ、夕食は少のうございました。隆様、登世がお手伝いできることでしたらおっしゃってください。悩み事は人に話すと軽くなると申します」
「登世、気にすることはない。大丈夫だ。何かあれば登世に話す。さっ、そのようにしていると風邪をひく。寝た方が良い。拙者が蒲団に入れてあげよう」
 隆佐衛門は戸惑っていた。幽霊など居るはずはないと信じていたが、あれは何だったのか。

 翌日、隼人が来た。
「隆佐殿、あれは正真正銘、幽霊でござった。拙者、生まれて初め

(1)






て幽霊を見た」
「……」
「これっ! 何か言え。おぬし、拙者のことを戯け者と申したのだぞ」
「隼人、余り話し掛けないでくれ。頭が痛いのだ。ところで、おぬし、夜は大丈夫か」
「い、いや、かなりご無沙汰しておる。何にしろ付き合う女子(おなご)もおらんしなー。それに遊びに行く金もない……。情けないのー」
「ば、馬鹿者っ! そのような話ではないわ。夜は眠れるかと聞いておるのじゃ」
 隼人、多少、ギクッとしたが、
「全く問題ない。何故その様なことを聞く」
 と、とぼけた。
「鈍い者は良いな。羨ましいわ」
「おぬし、眠れんのか。何故だ」
「雪姫じゃ。眠りにつくと夢に出てくる。ニヤッと笑ってな。親しげに話してくるが、拙者には何を言っているか全く判らん。どうも魘されておるらしい」
「魘されているのか。しかし、魘されているかどうか何故に判る」
「えっ! 登世じゃ。登世から聞いた」
「おぅ、そうであった。おぬしには登世殿がおったな。拙者は一人寝。そうであった。そうであった」
 隼人、やけに強調する。隆佐衛門も何やらバツの悪そうな顔をしている。
「夫婦が一緒に寝ておっても問題はあるまいに。そのように改めて得心とくしんしたような言い様は気に喰わんが……」
「まぁまー、そのように顔をしかめるものではない。して、幽霊は居ないと言っておったが、今はどのように思っているのじゃ」
「隼人、確かめたいのだが…… 二人の前でふーっと消えたように思うが、おぬしはどのように見えたのだ」

(2)






「同じよ。ニヤッと笑ってフーっと消えた。あれは雪姫の幽霊。間違いない」
「隼人、と言うことは幽霊はいることになる。おぬし、このこと誰かに話したか」
「いや、一切話してはおらん。深く真実を知った者は沈黙するものだ。能ある鷹はと申してな」
「何を偉そうに……とは言え、拙者も話すつもりはない。隼人、拙者はな、二人揃って(まぼろし)を見たと思いたい」
「おぬしがどのように思おうと拙者は構わんが、拙者は居ると信じておる」
「……」

 そこに絹が加わった。近頃、絹はなるべく人の心を読まないようにしている。
「まぁ、深刻なお顔をなさって……。如何いたしたのですか」
「絹殿、お元気そうで何より。相変わらずお綺麗で……」
「隼人様、余りそのようにおっしゃると真実味がなくなります。ある時、ふっと一言いわれますと、女子はゾクッとくるものでございますよ」
「そうであるか。良い勉強になった。勉強といえば、お琴の方は如何でござるか」
「面白うございます。隼人様、絹は三味線も始めたのですよ。それに書道も……。まだ、お習字のようなものですが」
「ほう、書道も」
「先生は父です。父の教え方はとても厳く、姿勢が悪かったりすると扇子でピシャリ。本気で打ちます」
「隆佐殿、尻に痣でも残ったら如何いたすつもりじゃ。嫁入り前の娘に……」
「誰が尻を打つといった。勝手な想像をするものではないわ。帯の上からじゃ。音はするが痛くはない。絹もキチンと言わねばな。こ

(3)






の男のように変なことを考える者がおるからのー」
「尻ではないのか」
「何をがっかりしておる。隼人、も少し品のある人間にならねばならぬぞ。赫灼とした品のある男にな」
「なんだ、二人揃って拙者にお小言か。こりゃ堪らんなー」
 部屋の中に笑い声が流れた。

「隼人様、書道は奥深いものでございます。ただ字を書けば良いというものではございません。字は正直。同じ字でも心安らかな時とそうでない時とでは違ってしまいます。怖いほど」
「そうか。読める字を書けば良いというものではないのだな」
「隼人様は、何かお勉強でもなさっているのですか」
「ハハハ……。忙しくてな。気持ちはあるのだが時間が取れん」
「嘘を付け。時間があってもどうせ部屋の中でごろごろ鼻毛でも抜いているのであろうが」
「これはまた手厳しい。しかしな、おぬしは判っておらん。拙者の部屋はな、ノンビリと過ごせるような所ではござらん。甚平長屋と同じようなもの。古くて汚い。一時いっときたりとも居たくはない所だ」
「まぁ。では、お掃除などをして綺麗になさればよいのに」
「そ、そうなのだが……。今日は攻められてばかりおるのー。日が悪いのか。そろそろ退散した方が良いようだな」
 笑い声の中を隼人は帰っていった。

 絹が真剣な顔付きで話し出した。
「この前、お父様の肩口に人の気配を感じたと申しましたが……覚えていらっしゃいますか」

(4)






「おう、覚えておる」
「あれは強い意思を持った人間の気配でした。お父様に危害を加えるではなく、むしろ好意を寄せるような感じでした」
 隆佐衛門は気付いていた。あの時、絹が感じた気配は雪姫のものであろうと。
「お父様、何かおありなのですか。額に皺を寄せていらっしゃいますが……」
「実はな……。いや何でもない。隼人と約してしまったからのう」
「まあ、隼人様との秘め事でございますか。男同士の秘め事など気色悪うございます。お話ししていただけないのでしたら絹は構いませんが」
 絹の額にも皺が寄った。向かい合って座り、無言のままの時が過ぎた。
「絹、判った。隼人には後で話そう。実はな……」
 隆佐衛門は仔細を話した。

「そうだったのですか。まー、素敵っ!」
「素敵っ? これの何処が素敵なのじゃ。拙者、魘されてかなわん。しかも本物の幽霊だとしたら拙者の信念が揺らぐことになる」
「あらっ、幽霊が居る居ないということが、それほど大きな意味を持つのでしょうか。絹には判りません。信念とは、もっと大きなものでは……」
「うっ! そのように言われればそうとも言えるが……」
「私も雪姫様にお会いしとうございます。お父様、雪姫様が夢に出てこられましたら宜しゅうお伝えくださいまし」
「何を言う。出て来られては困る。もう魘されるのは嫌じゃ」
「まあ、幼き子供のような言い様。可笑しゅうございます」
 絹は笑ったが、隆佐衛門は皺を寄せたままだった。


(5)






 翌朝、松が朝飯を持ってきた。
「旦那様、お食事でございます」
「松、きゃ様は止めたのか。それにその呼び方は好かんが……」
「あら、奥様のお達しですが……」
「お達しっ! どう言う事だ」
「まあ、ご存知ではないのですか。それは宜しくありません。夫婦の会話が途絶えると危険でございますよ旦那様」
「何を判ったような事を申しておる。登世が何と言ったのか教えてくれぬか。そうじゃ駄賃をあげるゆえ教えてくれ」
「そのような下賎な手にのる松ではございません。それに奥様から特別なお手当を頂きましたから、お小遣いには余裕がございます。お手当ては皆が頂きました」
「松、ではこうしよう。話してくれたら松の肩を揉んでやろう。これで良いであろう」
「まー、いやらしい。それほどまでにして女子に触りたいのでございますか」
「ち、違う。そのような意味ではない。困ったのー」
「ほほほ。人を焦らすのって楽しいものでございますね。お話ししますよ、旦那様」

 二日ほど前に登世が店の者を集め、こう言ったという。
『此度は皆さん、いろいろとご苦労様でした。お陰で旦那様はお上からご褒美までいただきました。旦那様も、これは皆が松浦を思う気持ちの表れと喜んでおいでです。皆に渡すものがあります。旦那様が店の者一人一人にも褒美をと用意したものです。旦那様は礼などを聞くのがお嫌いです。いちいち礼など言わぬようにしてください。宜しいですね』
 念を押したあと、一人一人に、旦那様からですと褒美を手渡した


(6)






という。
「旦那様、ありがとうございました。旦那様が嫌がっても店の者は皆、旦那様とお呼びいたしますよ」
「そ、そうか。その事であったか」
 褒美を渡した事など聞いてはいなかった。しかし、この事については自分が登世に伝えたことにしなければならない。
「しかし、登世は旦那様と呼べとは申しておらんだろうが」
「旦那様、奥様はお話の最中に何遍も旦那様とおっしゃいました。もういい加減にお諦めになった方が宜しいと思いますが」
 そう言うと、松は部屋を出て行こうとした。だが、隆佐衛門は呼び止めた。
「松、拙者は松浦の旦那様に見えるか」
「はい。立派な旦那様でございます。ご近所の評判も宜しいのですよ。頼もしい旦那様だと。松も鼻が高いです」 
 隆佐衛門は複雑な気持ちであった。

 登世に聞いたが、あら、皆が喜んでいましたよ、旦那様、の一言だけだった。

 ここ二、三日、常吉の声が聞えない。店の若い連中も楽しみにしているらしい。見立て上手の仁助にすけも心配している。
「旦那様、蕎麦屋が来ませんが、どうしたのでしょう」
 店の者は皆、旦那様と呼ぶ。隆佐衛門は、もう諦めている。
「今日にでも長屋に行ってみるか」

 常吉の部屋の戸は閉めきってあった。
「ご免。木谷でござる」
 中でごそごそ音がした。しかし、なかなか戸を開けてくれない。隆佐衛門は心配になった。

(7)






「常吉っ! 隆佐衛門じゃっ!」
 やっと戸が開いた。出てきた常吉を見て隆佐衛門は仰天してしまった。
「ど、どうしたのじゃ。その体はっ!」
 常吉の体は、さらしでぐるぐる巻きであり、その晒の所々には血が滲んでいる。顔は見るも無残な有様。青黒く腫れあがり以前の面影もない。唇の何箇所かは裂けている。これでは返事も出来まい。部屋から出てきたが足は引きずっている。
「常吉、返事だけでよい、拙者が言うことに答えてくれ。誰かに遣られたのか」
 常吉、頭を縦に振った。
「医者には見せたのか」
 横に振った。
「馬鹿者っ!」
 声を聞き付けた甚平が走ってきた。
「木谷様、良いところに……。常吉、あとは私が話す。部屋で寝ていなさい」
 常吉は頭を下げ部屋に戻った。二人は甚平の部屋に行った。
「木谷様、可哀相なことで……」
「甚平、いつのことだ」
「へー、四日前でございます……」

 その夜、甚平の所にお鶴が血相を変えて飛び込んできた。常吉の隣にいる女房だ。常吉が血だらけになり、這って戻ってきたという。お志津は体を動かせない。近所の女房たちが介抱した。お志津は、済みません、済みませんと涙を流しながら頭を下げていたらしい。甚平が行くと常吉は、まだ口が利けた。
 常吉が春山町付近で店を出していると、五、六人の男が屋台を取り囲んだ。一本差しの見るからにごろつき風。一人が、誰の許しで

(8)






店を出しているのかと聞いてきた。常吉は、そのようなことは知らないと言った。その途端、屋台が蹴飛ばされ踏み壊された。次いで殴る蹴るの暴行。気付いたのは四ツ頃。必死になり戻って来たらしい。

「番所には届けたのか」
「へー」
「医者は呼ばなかったのか」
「常吉は、医者はお志津のもの。自分のためには呼ばないと言い張りまして。私は金の事は心配するなと言ったんですが、金の問題ではなく願掛(がんか)けだと言いまして……。どうしようもありません」
「そうか。願掛けか……。甚平、手伝ってくれぬか」

 二人は常吉の部屋に行った。お鶴にも声を掛けお志津を見てくれといった。部屋に入り常吉をおぶった。常吉はうめき声を上げたが隆佐衛門は容赦しない。お志津にすぐに戻るからな、と声を掛け常吉を甚平の部屋に運んだ。
「甚平、誰かに医者を連れてくるようにいってくれ。常吉、願掛けだそうだが、ここは甚平の部屋じゃ。お志津と一緒ではない。ここであれば願掛けにも影響はあるまい」
 屁理屈である。常吉はじっとしていた。
「甚平、番所では何か聞かなかったか」
「近頃、やくざ連中の縄張り争いが……とか申してましたが」
「やくざか……」

 運良く常吉の骨には異常がなかった。軟膏を塗りながら医者が言った。
「若いから二、三日で歩けるようになるでしょう。しかし、大勢に遣られたようですね。酷いもんだ」

(9)






 隆佐衛門は隼人を訪ねた。八丁堀同心組屋敷。確かに古めかしい屋敷だ。隼人は寝床の中にいた。
「木村殿っ! 起きてくだされ」
 隼人は何を勘違いしたのか、ガバッと起き上がり、刀を取って、
「雪姫っ! 案ずるな。拙者がお助けいたす」
 と寝ぼけた顔で隆佐衛門を見た。
「おー、隆佐殿、如何いたした」
 隆佐衛門は、ちょっと気分を害した。
 ――雪姫は隼人の夢にも……。拙者だけではなかった……
 平安時代であれば自分を思う人が夢に現われると信じられていたが、今は江戸。何を詮方ないことをと隆佐衛門は苦笑い。
「隼人、先ほど雪姫とか申しておったが、雪姫がどうしたのだ」
「い、いや。まー良いではないか。ところで何だ」
「常吉がやくざに襲われたが」
「おー、届けられておる。浪花屋の連中が遣ったようだが証拠がない」
「浪花屋とは……聞いたことがないが」
「二年ほど前に大阪から流れてきた錦之丞きんのじょうとか申す、侍崩れが作った小間物屋だ。だが、小間物など扱ってはおらん。やくざを集め、賭場を開いたり岡場所にも絡んでおる。用心棒と称し店から金の巻き上げ、しょば代稼ぎなどを遣っておる。すべて裏稼業よ」
「しかし、二本松の権佐ごんざが黙っておらんだろうに」
「二本松と浪花の縄張り争いが起こりそうでな」
「浪花は、勢力を伸ばしておるのか」
「錦之丞は上手いことを考えおってな。子分どもにわたす月々の手当ては少ないのだが、それ以外に子分が儲けた三割を渡しておる。歩合じゃ。仁義も何もない。子分どもは儲けようと阿漕あこぎな事ばかりを遣りおる。二本松もやくざには違いないが仁義だけは通す。それ

(10)






に子分どもを掌握しておる。何か問題を起こせばすぐに権佐が頭を下げに来る。ま、可愛い所もある」
「錦之丞とは気障な名前だが……」
「それが醜男ぶおとこでな。拙者、人の事は言えんが実に見るに耐えん顔でな。こちらが寂しくなる……。同情するくらいだ」
「おぬしは男前だ。ただデレッとした感じが漂うのが玉に疵よ」
「そ、そうか。ハハハ…… ところで常吉の怪我の方はどうだ」
「おう、医者は二、三日と言っておる。大丈夫だろう」
「お志津さんは……」
「うん、良くないらしい。気にはなるが何も出来ん。人間とは真に人助けは出来んな」
「まあ、病は自ら治らなければ、どうしようもない」
「ま、そうだな。ところで浪花だがどの位の人数なのだ」
「そうよなー、五十人は下らんと思う。浪人者が十数名、後は木っ端じゃな。女衒ぜげんもおってな。苦しんでいる農民の足元を見て微々たる金で娘を買っておるわ」
「隠れとはいっても場所は判っておるはず。何故、踏み込まぬ」
「そうは行かん。岡場所は難しいのだ。取り締まる事はできる。しかしな、たとえ裏とはいえ、無くなると後が困る。吉原などは公認だが金が掛かる。安い所が必要なのだ。人間とは困ったものよ」
「ところで権佐とは、どのような男なのだ。おぬしは気に入っているようだが」
「別に気に入っている訳ではない。ただな、あいつは利口なのだが運がない。元々は侍の出。気の毒に、詰まらんイザコザに首を突っ込んだ先代が濡れ衣を着せられてな。お家取り潰し。喰うためには

(11)






武士がどうのこうのとは言っておれん。手っ取り早く金を稼げる賭場に顔を出すのは時間の問題。才覚があったらしく稼ぐ稼ぐ。かなりの金を貯め込んだらしい」
「そうか金は持っているようだな。子分についてはどうなのだ」
「それが出来すぎた話なのだが、権佐め、子分にするかどうかを決める時に必ず本人と会い、今の世をどう思うかとか、金とは人間とは、などと禅問答のようなことをするらしい。意にそぐわない者は二本松を名乗らせん」
「うーん。やくざとは言え何か持った男だな」
「そうなのだ。同心などを遣っているといろいろな人間を知る。世間の常識では推し量れない人間に会ってしまう。嬉しいと思うこともあれば、自分が寂しくなることもある。こう見えても結構、考えておるのだぞ」
「そうか。ま、世の中はいろいろだからな。隼人、常吉は誰の許しをと聞かれたらしいが、屋台を出すのに許可などいるのか」
「いや、お上は気にしておらん。普通の町人は収税には関係ない。その日暮しの町人には税を掛けん。やくざがしょば代などと申して金を巻き上げている。違法だが仕返しされるのが怖く誰も言って来ん」
「二本松もしょば代稼ぎを遣っておるのか」
「いや連中の稼ぎは賭場とくるわ)だ。何軒も持っておる。浪花のようなしょば代稼ぎは遣っておらん。権佐は香具師やしを抱えておるからのー。祭りなどでの露天商の場所の割り当てや世話をしておるがその礼金は貰っているらしい。香具師がいないと祭は成り立たん。二本松は喜ばれておる」
「では縄張りなど関係ないのであろうに」

(12)






「おぬしは判っておらんな。町人にはな、お上に訴えられないイザコザがある。大店も含めてな。そのような時にはやくざに仲裁を頼む。やくざは仕切れる範囲が広ければ広いほど実入りが良くなる。それが縄張りよ」
「春山町は……」
「二本松の縄張りだ。権佐は常吉の事を聞いておると思う。奉行所も頭が痛い。拙者もな」
「権佐の手下はどの位いるのだ」
「ま、三十四、五人というところかのー」
「なんだ。では、喧嘩になれば浪花が勝つではないか」
「全くおぬしは判っておらん。やくざの世界には一宿一飯の義理というのがあってな、各地の渡世人は権佐の世話になっておる。権佐が一声掛ければ、そいつらが駆けつける。浪花は阿漕な連中。集まる渡世人は少ない」
「なるほどな。では、権佐は常吉の件をどうしようと……」
「それが判らん。拙者も困っておる」
「何を馬鹿な事を申しておるのだ、権佐に会えば良いものを」
「隆佐殿、お奉行が許さんのだ」
「奉行が……」
「以前、やくざからの袖の下が広まり、捜査内容などが筒抜け。今のお奉行は固いお方でな、そのような事は奉行所としてあるまじき事と一切禁止だ。事が起これば別だがな」
まいないか。ようするにおぬしは信用されてない訳だな」
「め、滅相もない。奉行がお達しを出したのは着任したての時。その時に、皆の事は信用しておる。しかし拙者も含め人間とは弱い所があると申したわ。この、拙者も含めとの一言が利いてな、お奉行は一気に信頼を得た。今回の件は、やくざ同士の喧嘩になるやも知れぬ。会いにいっても良いのだが……。おー、そうか。おぬしに頼めば良いのだ」

(13)






「何っ! 拙者にと言うのか。そのような、銭にもならん事を」
「銭にはならんとは言わせんぞ。あの褒美は何なのだ」
「あれはあれ。あれで終わりだ」
「そうは行かん。拙者の頭には金額がくっきりと焼きついておる。おぬしの事を考えなかったとは寝不足のためだな。どうもいかん」
「寝不足? どういうことだ。そう言えば先ほども雪姫と口走っておったが。おい、ぐっすり眠れると言っておったが、あれは何だ」
「ま、強がりと言うか……そんなところだ」
「恰好付けおって、この弱虫がっ!」
「人の事を言えるかっ!」
 笑いの中で、隆佐衛門は、権佐に会おうと思っていた。
「隼人、実はな、雪姫の件だが絹に感づかれてな。拙者、話したが……」
「おう、そうか。おぬし拙者が魘されている事も話したのかっ!」
「おぬしのことなど話さん。何だ、おぬしも魘されているのか」
 また笑いが起こった。

 数日が経った昼過ぎ、甚平の使いの者が来た。長屋に来てくれと言う。隆佐衛門は何故か嫌な予感がした。案の定、使いの者は志津が死んだと言った。今夜が通夜。
 常吉の部屋には裏返しに簾が掛けてあり、忌中の張り紙。隆佐衛門は線香の香りが漂っている部屋に入った。常吉は志津の前に座っていた。隆佐衛門は、志津の顔に掛けられている布を取った。綺麗な顔だ。手を合わせ線香をたむけた。
「常吉、お志津殿は可哀相なことであった。心中を察するが気を落とすな」
 常吉は同じ姿勢で黙っている。目からは涙が落ちている。
「常吉……」
 何を言っても振り向こうともしない。隆佐衛門は、明日も来ると

(14)






言い残して部屋を出た。常吉の体からは晒が少なくなっていた。それに顔の腫れもひいている。体の傷は回復したのだろうが、今度は心の傷である。

 翌日、先に甚平の所に行ってみた。すでに葬った後、甚平は部屋にいた。聞けば常吉は誰とも口をきいていないと言う。お鶴が食事を持っていってもそのまま。長屋の連中もかなり心配しているらしい。常吉の部屋に入った。常吉は、白木の位牌を前に昨日と同じ姿で座っている。突っ張った両腕を膝に置き顔を下げたままだ。涙がこぼれている。
 隆佐衛門は位牌に手を合わせ線香をあげた。
「常吉。話をするのは無理か」
「……」
「お志津は綺麗な安らかな顔だった。常吉、お志津はおまえと一緒になり幸せだったのではないか」
「……」
「今は何を言っても無駄かも知れんがな、大切なのは今この世で生きている者なんだぞ。逝った者を悲しむ気持ちは大切な事だ。しかしな、おまえがいつまでもそのようにしておったら、お志津が悲しむぞ。おまえとの幸せだった日々を胸に抱き逝ったのだ。このままでは、おまえの事が気掛かりであの世でゆったりとした毎日を送れんぞ。のんびりとした幸せな毎日を送らせてあげろ。それが供養というものぞ」
「木谷様……」
 常吉が口を開いた。暗く乾き切った声。
「おっしゃる事は判ります。しかし、二人で描いた夢が消えたんです。一緒に遣ろうと言ったお志津がいなければ総て意味がありません」
「二人で描いた夢か……。どのような夢かは知らぬ。どうなのかのー、拙者は、その夢をお前が追いかける姿を、お志津は見たがって

(15)






いるのではと思うが」
「お志津は、本当にそのように思っているでしょうか」
「お志津さんは一緒に遣りたかったに決まっている。しかし人間の寿命は誰にも判らん。描いた夢を自分が居なくなったからといって諦めてしまうおまえの姿など見たくないのではないか。拙者は行ったことはないが、あの世だぞ。お志津さんは常にお前を見ていると思うがなー」
「もし、そうだったら、こうしてはいられませんが……」
「おう。常吉、夢を持つとは素晴らしい事だのー」
「木谷様に騙されているのかも知れませんが、そのような気がしてきました」
「拙者、騙したりはせん。思った事を言ったまで。ところでどのような夢なのだ」
「木谷様が聞いたら笑ってしまうようなチッポケな夢です。恥かしくて言えません」
「常吉、今日は説教じみた話ばかりでいかんが、もう一つ聞いてくれ。絹がな、習字をと言い出した。しかも拙者に習いたいと言う。実は拙者も父に習った。子供の頃の話だ。上手くなりたくてな。拙者、懸命に筆を動かした。ある日、父がどうだと顔を見せたのだが、拙者、書いた半紙をさっと隠した。どうしたのだと父が聞いた。咄嗟に恥かしいからと答えた。父は怒ったわ。人に見られて恥かしいのであれば止めてしまえとな。そうなのだ、自分が一所懸命であれば恥かしい事などないのだ。どのように言われようが胸を張っていれば良いのだ」
「今日の木谷様は、よく話をされます。このように親身になって話してくれた人はいません。夢ですが…… お志津と店を持ちたいと話していました。小さくて良いのです。二人で蕎麦屋を……。屋号も決めていました。夢蕎麦です」
「夢蕎麦か。で、どうするつもりなのだ」
「えー、また屋台からやり直してみます」

(16)






「しかし、またやくざが来るかもしれんが」
「構いません。何遍、遣られても……」
「だが…… 下手をすると殺されるぞ」
「構いません。殺されたらお志津のところに行けます」
 言うなり常吉は突っ伏して大声で泣き出した。その号泣は長く続いた。隆佐衛門は、じっと傍にいた。愛する者を失うとはこれほどにも辛いものなのか。登世や絹の顔が浮かんだ。
 常吉は、しばし泣いていたが、ふっと顔を上げた。
「木谷様、明日から屋台をこしらえます。夢を果たすまで命は大切にします。また、檜垣町に行きます。皆さんに宜しく伝えてください」
「おう、待っておるぞ。屋台を出す場所については充分気をつけるのだぞ」
「はい」
 常吉は、思い出したように怪訝な顔をした。
「実は、奇妙なのですが…… 木谷様からお上の褒美として受け取った数日後に、奉行所に呼ばれまして……。恐る恐る行きました。するとまた褒美をいただきました。奉行所からは、二両でしたが、木谷様から受け取った褒美は……」
「常吉っ!」
 隆佐衛門は常吉の話を遮った。
「良いのだ。お上と奉行所から貰ったのであろうに」
「木谷様、変ですよ。お上も奉行所も同じです。ひょっとしてあの金は木谷様が……」
「お前もきちんとしなければ気の済まぬ男のようだな。拙者が渡した褒美は拙者の褒美の中から出たもの。つまり、お上からの褒美じゃ。問題あるまいに」
 常吉が笑った。明るい顔であった。
「木谷様、何となく屁理屈のようでもありますが判りました。あり

(17)






がたく頂戴します。店を開く資金にいたします」

 権佐にも会わなくてはならぬ。隆佐衛門は二本松の屋敷に向かった。門構えのしっかりした屋敷。やくざとは儲かる商売なのか。隆佐衛門、詰まらぬことを考えた。ふらっと門を入ろうとすると、
「お侍。ちょっと待っておくんなさい。素通りとは行きませんぜ。何の用事で」
 門の側にいた者が声を掛けた。
「木谷だが……」
「あっ! 木谷様で。失礼いたしやした。どうぞ」
 権佐の部屋に通された。隆佐衛門は目を見張った。すらりとした良い男。清々しい顔付き。
「木谷でござる」
「木谷隆佐衛門影房殿か」
「実名までご存知か」
「木村さんから文を受け取っています。文には、妙な男だが良い所があると書かれています。木村さんとは親しいのですね」
「うーん、どうであろうか。親しいような、そうでないような。よう判らんが。あの男、拙者を隆佐殿と呼びおる。しかし年下でありながら、おぬしとも呼ぶ。礼儀を知らぬ男だ」
「しかし、木谷さんはそれを許しておられる。余程、親しみを持っているのでしょう。羨ましい話です。私には、そのような友はいない」
「ほー、子分を何人も持っているのになー」
「木谷さん、それは皮肉ですか」
 権佐の目はキラキラ輝いている。不思議な魅力を持っている。
「ところで……」
「常吉の件ですか。浪花屋にも困ったものだと思っています。いずれ……ところで木谷さんは常吉とか申す男が気に入っているようですねが、何故ですか」

(18)






「それも隼人の文に書いてあったのか。いや、けなげに蕎麦を作っておる。一途な男よ。可哀相に女房を亡くしてな。一緒に描いた夢が消えたと泣いておった。確かに良き伴侶を失えば夢も消えるであろう」
 隆佐衛門、目を伏せた。
「常吉は夢を捨てた。では、腑抜け同然でしょうな」
「いや、お志津が見ている、初めからやり直すと言っておった」
「そうですか。死んだ女房が見ていると……夢ですか。夢ね……」
 権佐は、腕組みをしたまま、何処か遠くを見ている。
「木谷さん、どんな夢か聞きましたか」
 隆佐衛門は話した。

「夢蕎麦ですか。木谷さん、常吉の蕎麦は旨いのですか。蕎麦は難しいが……」
「旨い。松浦の前に屋台を出すが若い連中も喜んでおる。おぬしも一度喰ってみればよい」
「ま、そのうちに……」
「権佐さん……」
「妙な呼び方は止めて欲しい。権佐と呼んでください。木谷さん、浪花屋をどうするのか聞きたいのでしょうね」
「如何にも。隼人も争いになれば町人も被害を受けると心配しておる。拙者も同じだが……」
「うーん……私も町人を巻き込むつもりはありません。木谷さん、ま、今日のところはこの辺でよいでしょう」
「おー、長居をしてしまった」

 浪花屋の狼藉が続いている。二本松は動きを見せない。それを良い事に遣りたい放題。奉行所も動いてはいるが後手に廻っている。二本松の縄張りにある店を歩き、守ってやるから月々手数料を払えと押しかけている。断わるとなんやかんやと商売の邪魔をする。

(19)






しつこさに負け、仕方なく金を払う店もでてきた。奉行所に訴えた店もあったが、その店には糞尿が撒かれた。真夜中の事、犯人は判らない。

 ある夜、売り声が聞えてきた。
「蕎麦ーィ、蕎麦ー。夢屋でござーいっ! 美味しい二八蕎麦ー。蕎麦ーィ、蕎麦ー」
 松浦の若い者が飛び出ていく。番頭も、まー良いかの雰囲気。隆佐衛門もおもむろに表に出た。何人かが既に蕎麦を喰っている。
「蕎麦をくれぬか」
「木谷様っ!」
 常吉は嬉しそうに蕎麦を茹でる。晒はほとんど見えない。屋台もきちんとしている。隆佐衛門は大丈夫だなと思った。蕎麦を喰っていると、ふらっと男が屋台に近づいてきた。隆佐衛門は驚いた。
「亭主……」
 亭主と呼ばれたが、常吉は自分が呼ばれたとは思っていない。どんぶりを洗っている。
「夢屋の亭主っ! 聞えないのかっ!」
 常吉が振り返った。
「へえ、何か……」
「何を言っている。蕎麦をくれ」
 周りの者たちが驚いてその男を見ている。権佐だった。しかも一人である。権佐は一人歩きなどしない。いつも子分を何人か引きつれている。何故、権佐が一人で……。どうも常吉は、権佐を知らないようだ。隆佐衛門は、成り行きを黙って見ていた。
「へーいっ! 蕎麦一丁出来上がり。どうぞ」

 権佐は、どんぶりを受け取った。箸を持ち、蕎麦をじーっと見ている。そーっとどんぶりを鼻に近づけた。鼻を動かしている。無表

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情だ。次に汁を吸った。すぐには飲み込まない。どうも口の中で汁を転がしているようだ。ゴクンと飲み込んだ。箸をどんぶりに入れた。数本の蕎麦を摘み、持ち上げた。またじーっと見ている。口に入れた。口の中でクチャクチャ遣っている。決して格好の良い喰い方ではない。常吉は、どんぶりを洗っている。見ているのは隆佐衛門と店の者。権佐が飲み込んだ。また、汁を吸い飲み込んだ。ふーっと息をついた。少しの間があった。次の瞬間。権佐は、勢い良く蕎麦を喰いだした。凄まじい喰い方。これまた決して上品な喰い方ではない。ズルズル、ゴックンと音を立てて喰っている。どんぶりを両手で持ち最後の一滴まで飲み干したようだ。また、ふーっと息をついた。

「亭主っ!」
 常吉は、まだどんぶりを洗っている。ふっと振り返った。
「亭主っ!」
 権佐の声が荒い。周りの者は固唾を呑んで見ている。
「亭主ッ! もう一杯くれ」
「へーぃ、おかわり一丁っ!」
 常吉は権佐から受け取ったどんぶりを洗い桶に入れようとした。
「亭主、私が喰ったどんぶりだ。洗う必要はない。それに入れてくれ」
「宜しいのですか」
 蕎麦を茹でだした。権佐は、じーっと常吉の動きを見ている。なにやら右足が小刻みに震えている。何のことはない貧乏揺すりだ。隆佐衛門は思った。こやつ面白い。
「亭主、まだか」
「へーぃ、もう少しです……。さてと、はい、お待ちどうさま」
 どんぶりを受け取った権佐。喰らいつくようにして蕎麦を喰い始め、瞬く間に喰い終わった。
「ふーっ! 亭主、二杯だ。三十二文だな」

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「へい」
 権佐、懐から財布を出し銭を数え、三十二文を常吉に渡した。
「へーいっ! まいどありー」
 権佐、プイッときびすを返し、すたすたと去っていった。見ていた者は呆気に取られている。

「木谷様、余程、蕎麦が好きな方ですね。どなたかご存知ですか」
「おー、二本松の権佐だ」
「げー、あの二本松の大親分っ!」
 常吉の表情は仰天そのもの。
「一段落付いたようだな。今晩は、どうするのじゃ」
「へい、もう少し商って見ようかと……」
「そうか、場所に気を付けろよ」
 常吉は、屋台を担ぎ売り声を上げ歩いていった。隆佐衛門は、何とはなしに気になり後を付けていった。

 常吉は、大川沿いに屋台を置き売り声を上げている。隆佐衛門の心配が当たった。少し離れたところで見ていると五、六人の男が屋台に近づいて来る。明らかにやくざである。
「兄ちゃんも懲りねー男だな。えーっ! 俺たちを馬鹿にしてんじゃねーのか。誰の許しも受けねぇで、また商売してやがる。いい根性しているぜ。どう言うつもりだいっ!」
「へぇ」
「へーじゃ判んねーだろうにっ! 俺たちにどうしてもらいたいんだ。えーっ! もうちょっと可愛がってもらいてーのかいっ! 面白れー遣ってやろーじゃねーか。おいっ! 遣っちまえっ!」
 一人が屋台に手を掛けた瞬間、ピューっと音がした。その男は、ギャーッ!と声を上げ左眼に手をやった。指の間から血が吹き上げた。もう一人の男が常吉に掴みかかろうとした。またビューッと音が。その男は額を押さえた。声も立てずにぶっ倒れた。礫だ。残り

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の男たちは辺りをキョロキョロ見渡しながら、覚えていろよっ! と言い残し逃げていった。スタスタスタッと隆佐衛門が走り寄った。

「き、木谷様っ!」
「おう、気になってな。後を付けた。浪花屋の連中だろう。まだ店を閉めるには早いだろうが、今日は帰った方が良い。長屋まで送ろう」
「また助けて頂きました。ありがとうございます。真っ直ぐ帰ります。木谷様、もう大丈夫と思いますが」
「まあ、そう言うな。拙者、最近は体を動かしておらん。歩きたいのだ。さっ、帰ろう」
 常吉は屋台を担ぎ、二人揃って長屋に向かった。四半時ほど歩いただろうか、バタバタバターッと、誰かが追いかけてくる。見ると先ほど逃げた三人と浪人風の者二人が迫っていた。
「常吉っ、離れていろっ」
 隆佐衛門は待ち構えた。五人が隆佐衛門を取り囲んだ。
「旦那っ! こいつです。遣っちまってくだせーっ!」
 やくざ達が用心棒の浪人を連れてきた。木っ端連中は遠巻きにしている。二人が体を向けた。若い浪人と四十位の浪人。若い方が数歩足を進め、隆佐衛門と対峙した。何の温かみも感じない異様に光る目。命を惜しむ気配もない虚ろな雰囲気。このような男は、人を斬ること以外に生きている証をを持っていないのだろう。危険だ。

 男は静かに刀を抜いた。隆佐衛門は動けなかった。男は正眼に構えた。隆佐衛門は突っ立ったままだ。下手に動くと何が起こるか予測もつかない。刀を抜く事さえ出来ない。しかし、間合いを見極め隙を見せない隆佐衛門に、男も身動きが出来なかった。鋭い緊張感だけが流れている。一瞬たりとも隙を与えてはならない。見せた方

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が斬られる。二人とも判っていた。
 判っていないのが木っ端ども三人。イライラして来たのだろう、声を上げ出した。
「旦那っ! 早えーとこ遣っちまってくだせー。刀も抜けねぇ野郎じゃねーですか。じっとしてねぇでスパッと遣っておくんなせー」
「旦那っ!」
「旦那っ!」
 流石の男も木っ端どものうるさい声に怒りを覚えたのか、黙れっ! と声を上げた。
 木っ端どもに一瞬気が移ったのを隆佐衛門は見逃さなかった。夜雪をさっと抜き、鋭い突きを入れた。男は、さっと刀で返したが、一瞬の差であった。男の刀は、夜雪をとらえたが、夜雪は胸深く突き刺さっていた。隆佐衛門は、さっと男の胸から夜雪を抜き取った。危ないところであった。もう一人の刀が振り下ろされていた。隆佐衛門は、咄嗟に男の左側に転がった。男は隆佐衛門を一瞬、見失った。
 二人は下段に構え対峙した。隆佐衛門は気付いた。
 ――この男、右目だけで生きて来たのか。
 ダラッと下げた刀。全く力が入っていない。殺気もない。存在を感じさせない男。
 ――居合いか……
 右足を半歩前に出し、切っ先を左足に近づけじーっとしている。まるで身を潜め、獲物を狙う山猫のような男。相手が斬りかかるのをしぶとく待っている。隆佐衛門も下段に構えたが正解だった。上段であれば、時間とともに両腕から血が引き、痺れが起きてしまう。静かな時間が過ぎていく。流石に木っ端どもも今度は静かにしている。
 すると、何処からともなく、ピー、ピーと音が聞えてきた。按摩の笛の音だ。杖をついた按摩が笛を吹きながら近づいて来た。場の緊張感を感じたのだろうか、ピタッと笛の音が止んだ。木っ端の一

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人が、小声で按摩に言った。
「目が見えねぇくせに。うろちょろするんじゃねーよ。てめぇみてーな半端もんはあっちにいってろ。目障りだ」
 それを聞いた男は、さっと振り返りその木っ端を切り裂いた。ヒャーっと声を上げ他の木っ端は逃げ去った。男は、既に刀を鞘に収めている。切り裂かれた死体に向かって言った。
「不自由な体を持つ者を馬鹿にするものではない」
 男は、振り返った。隆佐衛門も刀を収めている。
「この勝負、いずれまた」
 男は立ち去ろうとした。隆佐衛門が声を掛けた。
「おぬし……」
「そうよ、そこもとの見立て通りじゃ。ま、良くも今まで遣ってこれたものよ。いずれまた会うであろう」
 隆佐衛門は、思った。あの男、浪花屋には戻らんな。

「木谷様、また助けられました」
「常吉、お前を狙ったのではない。拙者だ。さっ! 帰ろう」

 五ツを過ぎた頃であろうか、帰り道を急ぐ二人を追いかける者たちがいた。常吉は怯えている。
 隆佐衛門も、余りのしつこさに呆れていた。三人ほどが追いつき前に立ちふさがった。隆佐衛門は身構えた。しかし、殺気を感じない。
「やっと見つけましたぜ。お二人さん、ちょっと付き合ってくださいな」
「付き合えっ? どう言う事じゃ」
「いえね、親分がうるさいんで」
「親分?」
「権佐様ですよ。蕎麦屋を連れて来いと……。常吉つぁん、二本松まで来てくだせー」

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 二人は、顔を見合わせた。
「常吉、どうする」
「へい、まだ商いの時間です。お客様に呼ばれれば喜んで行くのが商いでは……」
「そうか。行くか」

 二本松の屋敷の前に五、六人が立っていた。常吉は屋台を置き蕎麦を作りだした。皆、旨そうに喰っている。
「親分の言う通りだ。こりゃ旨めぇぜ。亭主、お代わりはあるか」
「へー、申し訳ありませんが、あと一杯分。これが最後で。召し上がってください」
 言い終わるか終わらないうちに、権佐が出てきた。
「亭主、どうしても、もう一杯喰いたくなった。夜遅くに悪かったな、一杯くれぬか」
「権佐様、売り切れでして……」
「何っ! 売り切れっ! ど、どう言うことだ。喰えんのかっ!」
「へー。もう蕎麦がありません……」
 権佐、唸ったまま立ちすくんでいる。
「権佐。おぬし……先ほど二杯も喰ったではないか。またにしろ。いくら唸っていても蕎麦はない」
「常吉っ! 明日は、まず最初に二本松に来てくれるな」
「権佐、そうは行かぬ。まず松浦が先だ。こちらは長くの贔屓。のー、常吉。さっ、帰るとしようか」
 二人は帰りかけた。権佐が、二、三歩追いかけ、大きな声で呼び止めた。
「木谷さんっ!」
 隆佐衛門は立ち止まった。二人は真剣な顔で向き合った。傍から見ると睨み合いの風体である。子分たちに緊張感が走った。権佐が話し掛けたようだ。

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「常吉を独り占めするとは、木谷さん、貴方はちと狡いのではないですか」
 子分には聞えない。二人が黙って睨みあっているように見える。子分の中には懐に手を入れる者もいる。ドスに手でも掛けているのであろう。
 見ていると、二人が急に大声で笑い出した。権佐は腹を抱えている。二人の馬鹿笑い。権佐が大声で笑うのはこの時が始めて。驚いたのは子分たち。互いに顔を見合わせている。ひとしきり笑いあった二人。ではな、の言葉で背中を向けた。権佐は、さー寝ようかと子分と屋敷に入っていった。

 隆佐衛門との一件があった後、錦之丞の動きが激しくなった。やたらと浪人を集め出したのだ。
 隼人が隆佐衛門を訪ねた。
「隆佐殿、権佐は全く動かんが、おぬし何か聞かなかったか」
「隼人、権佐は馬鹿ではない。バタバタとは動かんだろう。いずれと申しておった。何を考えておるのか拙者にも判らん。それに町人を巻き込むつもりはないとも言っておった」
「そうか。何を考えておるのやら……。錦之丞が浪人を集めているだけであれば奉行所も動けんしな。被害に合ったものが訴えてくれれば良いのだが……」

 その頃、二本松から何人かの飛脚が各地の宿場に飛んでいた。

 松浦では、登世と絹が庭に面した日の当たる暖かい部屋で話していた。
「お母様、字とは不思議ですね。楷書、行書、草書。同じ字でも見た目は全く異なります。意味は同じなのに。それに書き順まで違います。簡単な、と言う字も書く人によって雰囲気が異なります。

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お父様のは、力強く、絹のは貧弱」
「それが個性です。意味を伝えるだけでしたら書道などなかったと思いますよ。書の道ですから。絹は近頃本を読んでいますね」
「ええ、お習字のためです。お母様、紫式部って凄い方ですね。よくもこのような物語を書いたものです」
「ほほほ、絹は全帖読んだのですか」
「いえ、五十四帖なんて長すぎます。平安の代ではこのように恋ばかりしていたのでしょうか」
「何を言っているのですか。貴族だけです。庶民は藁葺き小屋で食うや食わずの生活。書かれているのは一部の世界です」
「絹は、何人もの女子と付き合う光源氏のような男は好きになれません」
「まあ。絹ったら。時代が違いますよ」
「それに何人もの女子に好かれるなんて、そんな男などいる訳がありません。綺麗な字で流れるような文章ですが内容が良くありません」
「しかし、今は式部のように物語を書く女子はいませんね」
「何故でしょう」
「そうですね。男と女の仕事などは分けられていたと思いますが、自由だったのでしょうね。式部だけでなく清少納言もいますし。武士の世になってからかもしれませんね、物語を書く女子が出なくなったのは」
「それでは答えになっていません。武士の女子おなごは頭が悪くなったのでしょうか」
「そうではなく、使う内容が違ってきたと思いますよ。戦いの日々ですから。男はいくさに出る。女子は家を守る。そのために武芸も遣っています。戦国の世では女子は勢力を伸ばす道具でした。物語を書こうなどとは思わなかったのだと思いますよ」
「昔には、このような物語を書く女子がいながら……。何だか昔の女子の方が魅力的です。絹は詰まりません」

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「ほほほー、では、絹も書いてみたらよいでしょうに。でも絹にはまだ恋の物語は書けませんね」
「まー、お母様にはお判りにならないでしょうが、絹にも思いを寄せる男はおります」
「熊蔵親分の亥助に牛蔵ですか。母は口を挟みませんが、好きなお方に寄せる思いが恋物語を作らせるのかも知れませんよ」
「絹が書くとしても恋物語とは限りません」
「では隆様武芸帖でも書くつもりですか。絹、まずは日記が良いのではないですか。お習字にもなりますよ」
「日記ですかー」
 絹はその気になっていた。

 後に、絹が書いた日記、「絹夢けんむ日記」は、江戸中に広まることになる。

 江戸の街には縞の合羽に三度笠、長脇差を腰に差し、手甲伽半の股旅姿の渡世人が目立つようになった。一人で足を速める者、または数人が一列になり足並みを揃えて歩く連中。周りなど気にせずに歩く。渡世人が向かう先は浪花屋。浪花屋は部屋がないのであろうか、訪れた渡世人の数人かを除き、ほとんどの者が木賃宿に向かった。二本松を訪れる者は普段と変わらず数人しかいない。

 街の者はささやき合っている。
「こりゃ、何かが起こるぜ。浪花屋が人を集めている。結構大人数だ」
「そうよ。この分じゃ二本松に殴りこみじゃねーのか。しかしよー二本松に行く渡世人はほとんどいねーぜ。これじゃー、二本松はひとたまりもねーや」
「俺は権佐の方が好きだね。錦之丞は阿漕な男よ。あんな奴に江戸を牛耳られたら堪らねーぜ」

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 隼人も気が気ではなかった。隆佐衛門を訪ねた。
「隆佐殿。何をのんびりしておるのじゃ。それに権佐は全く動こうとせん」
「何を言うか。ここで権佐が動いたら二本松と浪花屋の出入りが始まる」
「しかし、なぜ浪花屋に渡世人が、あーも集まるのであろうか。おかしいのじゃ。とは言え、このままでは多勢に無勢。権佐は危ないぞ。何とかしろっ!」
「これ、何とかするのが奉行所であろうが。もっとも今は奉行所も動かん方が良いが」
「何故じゃ」
「おぬし、権佐は只者ではないぞ。なまじ我らがゴチョゴチョ動いてみろ権佐の迷惑になる」
「何ーッ! 奉行所がやくざに迷惑を掛けると言うのかッ! おぬしーッ! 黙って聞いていれば言いたい放題。治安を守るのはお上の仕事。この拙者もお上の一員。そこまで言われては黙ってはおれん」
「黙ってはおれんとは笑止千番。よーしゃべっておるではないか。隼人、拙者が保証する。権佐は町人、いや江戸に危害を加えるようなことはせん。奉行所も黙って見ていればよい」
「隆佐殿。よいか、此度の件は拙者が担当しているのだぞっ! 拙者、まだ切腹はしとうない。そこのところを充分理解した上で言っておるのだな」
「如何にも。拙者もまだ、おぬしを失いとうないわ」
「………… そ、そうか。で、ではおぬしの言う通りにするか。しかし、大丈夫かのー」
 と言いながら貧乏揺すりが激しくなる。

「隼人様。ご機嫌は……」
「おう絹殿。間の悪いときにお会いした。拙者、ひょっとすると切

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腹じゃ」
「まあ、お気の毒に。まだお若いのに……。で、何日でしょか」
「はっ! 何日とは?」
「切腹なさる時でございます。絹は、お線香でも差し上げたいと思います」
「絹殿。言葉の綾だ。困っておるのじゃ」
「お気楽に切腹などと言うお言葉を……。絹は、そのようなお言葉を聞きとうございません」
「…………」
「絹、明日にでも街を歩いてみたいが」
「はい。お気楽な隼人様はどういたします」
「うっ! 残念じゃが今は不穏な状態。定廻りの回数を増やさねばならんのだ。途中でお会いするかも知れん。その時は優しい声を掛けて欲しいが……」
「ほほほ、判りました」

 常吉は、松浦と二本松、交互に屋台を出しているが、落ち着かない街の雰囲気を感じている。二本松では見知らぬ男も中から出てきた。向こう傷を持った男、右手一本の男らが子分に混じって蕎麦を喰っている。権佐も必ず顔を出す。
「権佐様、浪花屋が何やら良からぬことをしでかすのではとの噂が流れていますが」
「常吉、気にする事はない。ところで私は賭場を持っている。中の者は飯も喰わんで夢中になっている。どうだ、今度賭場の近くで商ってみては」
「へー、賭場ですか……」
「お前に博打を勧めているのではない。売り声を聞いた連中がどうするか見てみたい」

 隆佐衛門と絹は街を歩いていた。

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「やはり落ち着かない雰囲気ですね」
「おー、何やらワサワサしておる。渡世人も歩いているが何か感ずるか」
「えぇ、殺気だった人……。しかし、穏やかな雰囲気の渡世人さんの方が多いようですが」
「穏やか。ふーん、出入りがあるかも知れんのになー」
 熊蔵にばったり会った。
「木谷様、それにお嬢様」
「どうだ、何か起こりそうか」
「へぃ、間違いなく出入りがありますね。夜中に浪花屋の連中が竹林でゴソゴソやってます。竹槍でしょうな。松浦に刀を買いには来ていませんか」
「いや、そのような連中は来ていないようだ」
「隼人様はふらふらです。朝から夜まで街に出て……。ちょっとでも事が起これば町方を動かさなければなりません。神経を使っております」
「そうか。あ奴も真面目だからのー。無理をするなと伝えてくれ」
「へー。ではあっしは見回りを続けますんで」

「隼人様は仕事に関しては真面目すぎます。過ぎたるは……との言葉もありますのに」
「ま、性分だ」
「お父様、雪姫に絹のこと伝えていただけました」
「おお、そう言えば、近頃出てこんな。遠慮しているのかも知れんな」
「遠慮?」
「こう見えても拙者、江戸に何かが起こってはと気を揉んでおる。雪姫も同じかも知れん。グッスリ眠らせてやろうとでも考えておるのではないか。隼人も時間は短くとも熟睡できているはずだ」
「はっ、何故ここに隼人様のことが……」

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「い、いや何でもない」
 隆佐衛門は、絹が言った穏やかな雰囲気の渡世人との言葉が気になっていた。彼らは常に後ろを気にする連中。どう言うことなのだろう。権佐に会いたくなった。
「絹、二本松に行くが、一緒に行くか」
「えぇ、やくざの親分さんに会ってみたいです」

 皆とは顔なじみ。さぁさぁと権佐の部屋に案内してくれた。ついでに、綺麗なお嬢様で、と愛想笑いも忘れてはいない。
「立派なお屋敷ですこと。やくざさんて儲かるのですね」
「これ、拙者と同じ事を考えるのではない」
 二人は笑った。その時、権佐が来た。絹を見て、何かハッとしたようだった。
「絹さんですか。権佐です」
「初めまして。父がいつもお世話になっております」
「い、いや、世話など……。木谷さん、絹さんに何を話されたのですか。私は所詮、やくざ。碌な事はしていない」
 絹がキーっと目を開いた。隆佐衛門が気付いた時には遅かった。
「権佐様、今のお言葉、どう言うことなのでしょうか。所詮とか、碌な事は、とか……本当にそのように思っておられるのでしたら、今すぐやくざをお止めになった方が良いと思いますが」
 隆佐衛門は、あー始まったかと思ったが、もう止められない。権佐はびっくりして絹を見ている。
「お父様は良い男だとおっしゃっていました。でも、それは見かけだけのようです。お父様、帰りましょう。いえ、絹は一人で帰ります」
 ぷいっと席を立った。
「絹、一人では危ない。しばし待て。拙者も帰るゆえ」
「木谷さん、若い者に送らせます。おいっ!」
 絹は、目を吊り上げたまま出ていった。

(33)






「権佐、気にせんで貰いたい。どうも父親になって日が浅いものでな。躾まで手が廻らん。あれが絹の性分」
「木谷さん、私は怒ってなどいない。絹さんか……」
 権佐は、遠くを見る目つきになっている。

権佐、動きが出ているが……」
「木谷さん、木村さんに権佐は総ての手は打ったようだと伝えて欲しい」
「そ、そうか。相判った。では、いとまするか」
 穏やかな渡世人の言葉が気に掛かるが帰ることにした。
「木谷さん、絹さんだが……。い、いや、何でもない。うーん、数日前に街で木村さんにあったが……」
 珍しく歯切れが悪い。
「木村さんは……。いや、絹さんは……。……木谷さん、済まなかった、引き止めてしまった」
「権佐。おぬしも話に躊躇することがあるようだな。物事すべて、蕎麦をかっ喰らうように威勢良く遣るかと思っておったが」
「私も人の子。ためらう事はある。木谷さん、やはり驚かせてしまったようですね」
「えっ!」
「私は旨い蕎麦に出会うと周りが見えなくなる。上品に振舞うつもりはないが、どうもいけません。喰い終わって気がつくのです。あー、また遣ってしまったと。性分ですね」
「性分とは如何ともし難いものですなー」
 また、二人は大声をあげて笑った。

 松浦に帰ったが、絹の事が気になる。絹の部屋に足を運んだ。
「絹、良いか」
「どうぞ」
 部屋に入ると何やら文机に向かい書いている。振り向いた顔は怒

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っている。
「お父様、何故、赫灼とした殿方はいないのでしょうか。一瞬、まーこのお方はと思った権佐様は、あのように卑下したお言葉。隼人様も真面目で良いのですが軽いお言葉ばかり」
「絹、そう言うな。別に婿捜しでもあるまいに」
「血相変えて捜すつもりなどありません。しかし、男と女。いつ何時、火花が散るか判りませぬ」
「まー、確かに何処でどうなるかは判らんが。ところで何を書いているのだ」
「お母様が習字にもなるとおっしゃいましたので日記をつけております。今日などは幾ら書いても終わりませぬ」
「そうか。登世がそのように言ったのか。見せてくれぬか」
「まー、そのような。いくら父親とはいえ娘の日記を読みたいとは……。お父様まで……。絹は世の中のおのこには呆れ果てました」
「い、いや、拙者は習字の先生であろうが。字を見てあげようと思ったのだ」
「まー、そのような言い訳。今日は書くことが多く、眠れそうにありません。絹のお肌が乱れたらお父様のせいです。その時はお覚悟を」
「わ、判った。と、ところで絹、胡瓜を輪切りにして顔につけておくと良いと聞いたぞ」
「何をおっしゃっているのですか。そのようなことをするようになっては終わりです。どうかもうお話しにならないでください。ますます眠れなくなります」
「そ、そうだな。拙者は寝ることにする」

 この晩、隆佐衛門は仔細に渡り登世に話した。登世は始終、クスクス笑っていた。

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 熊蔵が飛んできた。
「木谷さん、いよいよ浪花屋が動くようです」
「二本松はっ!」
「何も動きはありません」
「隼人は、どうしておる」
「へい、権佐は総て手を打ったと木谷さんから聞いた。まだ、浪花屋は外に出ていない。物騒な格好で大勢が出てきた時に捕り方を廻しても良いが何日になるか判らん。それに町方に犠牲が出るのも避けたい。こう申しています」
「そうか。事が起こらん限り奉行所とはいえ何も出来んしな」
 そのまま数日が過ぎたが浪花屋は動かない。
 浪花屋では出入りの準備が進められていた。竹槍を作る者、礫を集める者、刀の手入れをする浪人。しかし、木賃宿に泊まっている渡世人たちはのんびりとした毎日を送っている。まるで、長脇差一本あれば事は済むと思っているような雰囲気である。

 その日が来た。六ツ半。木賃宿に泊まっていた渡世人たちが静かに宿を出た。向かうは浪花屋。
 浪花屋には八十余名が集まった。手甲伽半に鉢巻。襷を十字に掛けて尻っぱしょり。長脇差を差し、手には槍や竹槍。部屋の真中にはもっこ被りの酒樽。錦之丞は、酒樽の横に立っている。出入りの格好はしていない。柄杓ひしゃくを樽に突っ込み酒を汲み上げ、大袈裟な身振りで酒を飲み干した。
「さー、景気づけだ。おめーらも呑め。いいか、狙うは権佐、一人だ。あいつが居なくなれば江戸は俺たちのもの。おめーらも、しこたま稼ぐことができると言うものよ。抜かるんじゃねー。こっちの方は倍の人数。権佐の奴はまだ気付いちゃいねーし、楽な仕事よ」
 蝦蟇がまがえるを思わせる太った小男。しゃがれ声が聞き苦しい。出入りは子

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分に任せ自分は此処で結果を待つつもりだ。既に勝ち誇った気分になっている。指揮をとるのは一の子分、政蔵。浪花屋に来る前に何度か出入りを経験している。
「いいな、二本松に着くまでは音を立てるな。向こうに着いたら手向かう奴は構わねぇからぶった切れ。権佐を仕留めた奴には親分から褒美が出る。半端な褒美じゃねーぞ。気ー入れて遣れっ!」
 一味が浪花屋を出て二本松に向かった。音を立てずに静かに歩いていく。

 あざみが原に近づいた。二本松までは、此処から後四半時ほどの距離。原っぱの中央に差し掛かった。静まり返っていた薊が原に突如、銅鑼どらの音が響き渡った。慌てたのは浪花屋の八十人。右往左往しだした。
「馬鹿野郎っ! 慌てんじゃねー。二本松だろうが、こっちは倍の人数だ。たっぷり可愛がってやれっ!」
 政蔵が怒鳴った。はっと我に帰った連中が丸く固まり体制を整えた。相手は見えない。そのままの状態で時間が過ぎていった。誰かの声がした。
「付けろっ!」
 何と夜空に花火が上がった。周りが明るくなった途端、わーと大声が聞えた。これが合図だった。丸く固まった浪花屋の連中に四方八方から礫が投げられた。固まった連中の体制がバラバラっと崩れていった。そして斬り合いが始まった。てめー、やろー、くたばりやがれっ! 
 その時驚くことが起こった。何と浪花屋の内側にいた十数人が浪花屋の連中に斬りかかったのだ。外側からは二本松。これでは人数は倍とは言え浪花屋の連中も一溜まりもない。
 町人の連絡により隼人たち捕り方が到着した時には決着がついていた。浪花屋一家は刀を放り出し地面にひれ伏していた。

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 同じ頃、浪花屋には、隆佐衛門と権佐の手下がいた。中には錦之丞と数名の手下だけ。隆佐衛門の腕は聞いていたようで、隆佐衛門らが踏み込むと連中は座り込んでしまった。錦之丞などはひれ伏し小さな声で言った。
「ど、どうかお助けください」

 奉行所では浪花屋一味の取調べが行われていた。人数が多いため時間が掛かる。

 風の強い日、隆佐衛門は、奉行所から松浦に向かっていた。ふと見ると通りの向こうに男が立っている。あの隻眼の浪人だった。
「江戸を離れようと思っていたが、おぬしの事が気になってな。邪魔者はいない」
「どうしても勝負したいのか」
「拙者、刀に生きてきた。おぬしに会わなければ良かったものを……。知ってしまったからにはそのままには出来ん」
 男は刀を抜いた。隆佐衛門も抜いた。二人はこの前と同じ構えで対峙した。土埃が舞う中、時間だけが静かに流れていく。相手は隙だらけである。しかし隆佐衛門は動けない。焦りが出てきた。冷静でなければならない。男にちょっとした変化が起こった。土埃が目に入ったのか一瞬目を瞑った。隆佐衛門は、すかさず夜雪を右に斬りあげた。間髪を入れずに男も同じ動作を取った。夜雪が男の右脇腹に、男の刀も隆佐衛門の右脇腹に入った。相打ち。二人は、同時に倒れた。

 どの位の時間が経ったであろうか。二人がむくむくと動き出し、脇腹を押さえてその場に座り込んだ。口を開いたのは 隻眼の男だった。
「何故、峰打ちなど……」

(38)






「峰打ちはおぬしであろうが、何故、刀をかえした」
「相打ちは覚悟しておった。仮に拙者が勝つようであってもおぬしを斬るつもりはなかった」
「危ないところだったぞ、おぬし。すんでで斬っていた」
「しかし、よう反したな。斬れば良かったのじゃ」
「おぬし死にたかったのか」
「わ、はっはー。おぬしであれば斬られても良いと思っていた。刀を反すとは……。相手を間違えたようだな。もう人を斬りとうなくなったのだ。もう良い」
「で、どうするつもりなのだ」
「刀を捨て、江戸を離れたい。だが刀以外に出来る事がない。物乞いかのー。ま、それも良いかも知れぬ。すでに余分な人生じゃ」

 隆佐衛門に誰かが話し掛けたような気がした。
『家に連れて行きなさい』
 隆佐衛門は、思わず言った。
「おぬし、これも縁だ。しばし拙者の部屋で休んではどうだ」
「いや堪忍してくれ。おぬし立てるか」
「おう」
 二人はヨロヨロと立ち上がった。肋骨は折れていないようだ。
「名は何と申す」
「木谷でござる。おぬしは」
「そうよな、独眼とでも言っておこうか。さらばじゃ」
 男はふらふらと去っていった。気付くと刀が落ちていた。
 隆佐衛門は刀を拾った。声がした。
『何を遣っているのです。高藤たかとうは私が面倒をみましょう』
 ――高藤? あの男、高藤と言うのか。
 隆佐衛門は辺りを見廻したが声の主は判らなかった。

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 常吉は屋台を担ぎ商いに精を出している。権佐がいった賭場での商いは思いのほか当たった。店を持つにはもう少し稼がなくてはならない。忙しい毎日だったがいつも志津と一緒だ。忙しさが心地良かった。
 ふらっとあの碧眼の男が蕎麦を喰いに来た。常吉は身構えたが見ると刀を差していない。旨そうに蕎麦を喰っている。十六文を払い立ち去ろうとする。何故か思いもよらない言葉が出た。
「お武家さん、長屋に来てください」

 奉行所から錦之丞一味に言い渡しがされた。錦之丞、政蔵、それに主だった数人は島送り。手下連中は江戸、所払い。

 松浦、隆佐衛門の部屋。ノンビリとした表情の男三人。登世と絹もいる。
「二人とも、そろそろ話しても良いだろう。拙者だけが事情を聞かされていなかった」
 隼人はのけ者にされたとむくれている。権佐は静かな表情ですましている。隆佐衛門がニヤニヤして言った。
「権佐。おぬしは、所詮、やくざであろうが。それに碌な事はしておらんのだろう。もったいぶるものではない。隼人に話してやれ」
「お父様、言い過ぎです。権佐様はあのように言ったことを悔いているかも知れません」
「そうですよ隆様。こちらなかなか繊細な方のように見受けられます。そのような言い様は失礼です。ねー、権佐様。お話しくださいますよね」
「いやー、私はどうすれば良いのですか。木村さん、何とか言ってください」
「ま、この部屋にいる以上、お二人には逆らえませんな。素直に白状した方が良い」
「は、白状っ! 言うに事欠いて……。私はなるべく被害を少なく

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事を収めたかっただけです」
 権佐は、成り行きを話した。

 二本松が浪花屋に同調するような動きをしては事が大きくなるに決まっている。そこで、幾つかの宿場の亭主宛に飛脚を立てた。二本松につながりのある渡世人に伝えてもらうためだ。浪花屋の狼藉を許せないと思う者は二本松ではなく、浪花屋に助っ人として足を運んで欲しい。錦之丞は江戸に来て二年ほど。皆の面は割れていないはず。しかし、宿は木賃宿。阿漕な錦之丞とは言え、一宿一飯の借りを作ってはいけない。仕事は二つ。一つは情報を入れること。いま一つは、出入りの時の動き。

「奉行所には気を揉ませたと思いますが、ま、私が遣ったことは大した事ではありません」
 事もなげに話す権佐に、女二人は聞き惚れるが、隼人は何を気障なの雰囲気。

 絹は、ふっとこの部屋にもう一人の気配を感じた。
 ――雪姫も聞いている。お父様と隼人様。また魘されるのかしら。ふふ。

 一人で微笑む絹に三人は怪訝な顔を見せた。事情を聞いても隼人は、しかめっ面でブツブツ文句を言っている。

 その時、表から声が聞えてきた。

「蕎麦ーィ、蕎麦ー。夢屋でござーいっ! 美味しい二八蕎麦ー。蕎麦ーィ、蕎麦ー」

 やおら三人の男は顔を見合わせ、さっと立ち上がり、我先にと表

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に飛び出していった。

 後には、呆気に取られた登世と絹……。
 そして、もう一人が残った。



                         (了)











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