隆佐衛門詞譚りゅうざえもんしたん【九】











        修 行 」           九谷 六口









   
                
                        二00三年三月二十九日 
                  







 木谷隆佐衛門影房(きやりゅうざえもんかげふさ)、これで良いのかと悩んでいる。拙者、登世と一緒になってから大金を手にするようになったが、実に(おのれ)的でない。隆佐衛門は、葛城を去る前の日の出来事を思い出していた。

 木造(きぞう)が、ささやかな宴を開いてくれた。
 囲炉裏端に木平とお冬、お稲、そして隆佐衛門と絹。酒も置いてある。木造は努めて明るく振舞ってはいるものの、やたらとグスン、グスンと鼻を鳴らす。あの寒気をもようす笑いはない。
 隆佐衛門は痛いほど木造の気持ちが判る。だが別れは確実に訪れる。木平は何やら嬉しそうな表情を絶やさない。木造から木津屋をいずれ旅籠にすると聞いてから、急に活き々きとしだした。木造がこの話をした時、木平は目を輝かせて言った。
「親父さん。お願いがあります。瑞穂(みずほ)に弟子入りさせてください。何年掛かるか判らないが、親父さんが元気なうちに立派な板前になります。この前、木谷様が瑞穂でご馳走してくれました。初めて味わう料理ばかり。自分も造りたいと思いました。親父さんが、木津屋を旅籠に戻すのであれば板前がいります。私に遣らせてください。でも、瑞穂の真似はしたくありません。木津屋の味を造りたいんです」
 木造は、薪拾いしか出来ないのではと心配していた息子の言葉に、喜びと不安の混じった妙な気持ちになってしまった。その時以来、あの笑いは無くなった。
「木谷様、雷様は許してくれたようです。でなければ木平がこうはなりません。木谷様……」
 木造は、隆佐衛門に涙を流しながら話した。聞いた隆佐衛門も言葉に詰まってしまった。
 もう一つ驚く事があった。菊乃が囲炉裏端に座ったのだ。隆佐衛門は緊張した。菊乃は木造から木平の望みを聞き、快く受け入れて

(1)






いる。
「絹さん、今日でお別れですね」
「菊乃さん、何故、寂しさなんてあるんでしょう」
「ほほほ。私が聞きたい事ですよ。絹さん。好きな人がいるようですね」 
「どなたが好きだとは誰にも言っていません。でも、います。何故、大声で言えないんでしょう」
「それも私が聞きたいことです。絹さん、私は何だか貧乏くじを引いているような気持ちです」
「貧乏くじ……何故です」
「好きだと思ったら、そのお方には……。ごめんなさい。別の話をしましょう。私、江戸を知らないんです」
「えっ! 本当ですか。街を歩いているとドキッとするような姐さんを見る事があります。菊乃さんはその人たちよりも……」
「ふふっ。絹さん、それって褒め言葉と取って良いのですか」
「も、勿論です」
「また会えるかしら。いつか……」
「会えますっ!」
 隆佐衛門は、二人が手を取り合っているのを見た。しかし、やはり何か奇妙な感じだった。

 江戸への道中は、物見遊山のような楽しいものだった。絹は、始終笑みを絶やさなかった。隆佐衛門が機嫌が良いようだな、と聞いてもニコッと笑うだけだった。

 江戸に戻ると、登世が静かな笑顔で迎えてくれた。隆佐衛門をじーっと見つめて言った。
「お疲れ様でした。隆様、田島様が戻ったら城に来て欲しいとの事ですが……」

(2)






「そうか。登世。留守中は」          
「はい。何事もなく、今まで通りの毎日でした」      
「……」
「……」
 隆佐衛門と登世は、目を見つめ合ったまま無言でいた。登世の目に涙が……。二人は絹がいるのも忘れているようだった。
 絹は不思議な思いの中にいた。何故、このような時に菊乃さんを思い出すのか……。

 翌日、隆佐衛門は何年ぶりかで裃姿になった。江戸城に行かねばならない。老中田島宗次に会うためだ。

「木谷隆佐衛門影房殿か。大儀じゃ」
 部屋には片岡新左エ門もいる。
「ご公儀にとっては、実に心苦しい結果になった。だが、おぬしの働きがあったればこそ、此処までの被害で済んだ。礼を言う」
 何と老中が頭を下げた。隆佐衛門、畳にへばりつく以外にない。
「ははー」
「人間とは、ややもすれば愚かな事を仕出かす。己の事も大切だが、民をあずかる立場であれば、まずは民を考えなければならない。その仕事により、己は飯を喰える訳だからのう。言わば民は飯の種。民が潤えば己も潤う。簡単な事なのだが……」
「ははー」
「ところで隆佐衛門。路銀だが、足が出たようであれば言ってくれ。払わねばならぬ。あれで足りたのか」
 隆佐衛門、努めて冷静を保ちながら言った。
「ははー」
「隆佐衛門、おぬしは、ははー以外に話せぬのか」
「ははー」

(3)






「また、これだ。老中とて人間。別におぬしを捕って喰う事もない。気楽に話せ。良いな」
「ははー」
「新左エ門。隆佐衛門は、いつもこの様な男か」
「滅相もない。辛辣(しんらつ)な男でござる」
「そうか。では、拙者と話すのが億劫なのかのう。いや話したくないのだな。まー、良い。人それぞれ……」
「ご老中、お言葉でございますが、それは違いまする。お話になられた事、拙者にとっては、総て、ははーにて用が足りる事ばかりでございます」
「なるほど。言われて見ればそうであったな。新左エ門、おぬしの言う通りだ。この男、結構曲がっておるな」
「はっ、何がございますか」           
(へそ)じゃ」
 やっと三人の間に笑いが起きた。
「隆佐衛門、今日、呼び立てたのは他でもない、今度(こたび)の礼だ。少ないが受け取ってくれ」
 宗次、脇に置いてあった白木台(しらきだい)を持ち、隆佐衛門の前に置いた。切り餅がこんもりと積んである。元勘定奉行所で仕事をしていた隆佐衛門、悲しい(さが)とでも言おうか、一目見て何両あるかが判ってしまう。
 ──三段重ね。一段目に九つ、二段目に四つ、そして三段目に一つ。切り餅十四個。切り餅一つが二十五両。〆て三百五十両。うーん……
「ご老中、お納めください。既に過分な金子(きんす)を受け取っております」
「はて、路銀以外に何か渡したかのう。新左エ門、覚えておるか」
「いえ、路銀のみのはず」

(4)






 隆佐衛門は赤くなり、しどろもどろに話した。
「いえ、そのー、充分な路銀でござったゆえ、そのー、事が片付いたのを祝い、手助けしてもらった者たちと料亭で宴を持ったりいたしました。公儀の金でありながら、とは思ったのではありますが、まー、そのー、要するに料亭での飲み食いが公儀からのお礼と思っております訳で……」
 宗次、路銀が余った事は判っている。
「そうか。では、これは不用だな」
 白木台を引っ込めようとする。新左エ門が顔をしかめ言った。
「ご老中、またそのような……」
「わっはっはー。隆佐衛門、おぬしも損な性格じゃなー。金は幾らあっても良いもの。公儀がくれると言うのだ、貰っておけ」
 隆佐衛門、懐紙をだし汗を拭いた。新左エ門は隆佐衛門を睨んでいる。まったく馬鹿正直にも困ったもの。隆佐衛門、ははーと白木台を持ち上げ、頭を下げた。しかし三百五十両は重い。(ひと)財産である。葛城が幕府にとり如何に大きな収税源であったかが判る。
 新左エ門はイライラしていた。宗次は肝心な事をまだ話していない。
「ご老中、例の話を……」
「新左エ門、判っておる。おぬしもせっかちじゃな。関西では、せっかちをいらちと言うらしいが……。ま、そんなことはどうでも良い。隆佐衛門、今ひとつ話しがある。おぬし(ろく)()むつもりはないか」
 禄を食む。つまり仕官である。
「この様な役、かつて設けたことはないが、おぬしが受けてくれるのであれば老中付きの役を設けたい。今までも幾つか手伝って貰っておるが……仕事内容は同じ。どうじゃ」
 隆佐衛門にとっては驚くべき話であった。浪人から抜け出せる。

(5)






しかも幕府に仕官する事になる。一瞬喜びが沸いたが、隆佐衛門、老中の前で腕組みをしてしまった。
「うーん。うーん」
 宗次と新左エ門、固唾(かつず)を呑んで見守っている。

 隆佐衛門の頭の中に、江戸に来てからの出来事が走馬灯のごとく映し出された。食うや食わずの毎日。登世と一緒になってからの自由で楽しい毎日。だが、侍とはいえ中間以下の身分である浪人。しかし、今は金もある。自由な毎日……。勘定奉行の元で仕事をしていた頃の己の身……。仕官した己の身……。隆佐衛門は、ふーっと息を大きく吸った。頭に残ったのは、自由な毎日であった。
「誠に身に余るお言葉、ありがたき幸せにございます。浪人の身にある拙者にとり、涙が出るほど嬉しいお言葉。何より嬉しい事は、拙者、ご公儀のお役に立つ人間であるらしいと言う事でございます。これからもお役に立ちたいと思っております」
 ここで、二人はニコッとした。
「ただ、商人(あきんど)の妻を持ち、浪人であるがゆえの自由な毎日にも捨てがきものがございます」
 二人は怪訝な顔付きになり、身を乗り出して次の話を待っている。
「禄を食むとは、身を縛られる事。喰うものにも事欠いた時であればまだしも、今は困ってはおりませぬ。人間とは、自分の好き勝手をしたいものでございます。しかし何の役にも立たない人間とも思いたくはないもの……」
 二人は、頷き始めた。
「誠に不遜(ふそん)なるお願いかとは存じまするが……」
 ここで言い(よど)んでしまった。
「何をしておる。早く言わんか。途中まで言っておきながら口を噤むとは……。おぬし、武士であろうが」

(6)






「如何にも。では……、言いまするが……。うーん……」
「隆佐衛門っ! いい加減にせよっ! 早く言えっ!」
 二人は、膝を揺すっている。隆佐衛門、急に大声で言った。
「ご老中、拙者を日雇(ひやと)いとしていただけませぬか」
 二人一緒に声を上げた。
「ひ、日雇いっ! 何じゃそれは」
「拙者をお使いになりたい時にご連絡を頂く。お話を聞き、拙者に出来る事であればお受けする。拙者、身を粉にしてお勤めを果たしまする。ご老中は、それに見合う賃をお支払いになる。出来ましたら賃は、お話をうかがう段階で決めさせていただければ嬉しい限り。如何でしょうか」
 宗次は、すでに老中付きを設ける旨、他の老中、奉行たちに伝えている。実務家の宗次は、隆佐衛門を老中付きとして使いたいと思っていた。だが、老中付きと日雇いでは、余りに響きが違いすぎる。それに、今の話では隆佐衛門には仕事を断る自由がある。老中とは言え、命令は出来ない事になる。
 新左エ門が、困惑の表情で言った。
「ご老中、既に、皆には……」
「判っておる。切り餅を渡す前に、こちらの話をすべきだったかのう」
「い、いや。それは。この男、どちらでも同じではなかったかと思います。ご老中、こやつ一度言い出したら後には引かぬところがございます。もしも、どうしてもとお考えでしたら、女房殿を使う以外にございません。隆佐衛門は女房の言う事であれば聞きまする」
「女房殿か。あの綺麗なお方じゃな。うーん。園の婚礼の席で、拙者、縁台で踊ってしまった。女房殿は呆れ顔で見ておった。無理じゃな」
「そうですな。あの姿を見たとすれば、老中の権威は既に地に落ちておりますな」

(7)






「これっ! 余計な事を言うのではない」
 ──日雇いなどと……老中として面目丸潰れ。どうしたものか……。
 隆佐衛門は念押しした。
「して、ご老中、如何いたしまするか」  
「わ、判った。おぬしの言う通りにいたそう。ただし、非常勤老中付きといたす。良いな」
「ははー」
 
 足取りが軽い隆佐衛門。松浦への帰り道、通り過ぎる者たちが顔をしかめるほどニヤニヤしながら歩いた。拙者、浪人ではない。店に入ると、にこやかに言った。
「皆には世話になっておる。拙者、いつも感謝しておるぞ。嘉吉、今夜は鰻だ。松に皆の分を買ってくるように言ってくれ。いや、松一人では持てんな。二、三人で行った方が良い。頼んだぞ。当然、金は拙者が持つ」
 店の者、皆、ポカーンとしている。旦那さん、どうしたんだろう。嘉吉は急いで登世の部屋に行った。奥様、旦那さん陽気のせいとも思いますが……。話を聞いた登世、お城で何かが起こったのではと隆佐衛門の部屋に飛んで行った。隆佐衛門は、部屋の真ん中に座りニヤニヤしている。
「隆様っ! お気は確かで……」
「おう、登世。まー、座れ。拙者、浪人から抜け出せた」
 登世には、隆佐衛門が何を言っているのか判らない。ただ隆佐衛門の緩みきった顔を見つめるだけ。隆佐衛門は、懐から重そうに金子を出し、登世の前に置いた。
「まー、このような……。隆様、まさか、お城から……。いえ、そのような事は出来ませんね」

(8)






 隆佐衛門は笑い声をまじえ、総てを話した。
 聞き終わった登世は硬い表情でいる。隆佐衛門は、はて、拙者の判断は間違っていたのか、相談すべきだったのかと、にやけた顔を引き締めた。
「隆様……。今の暮らし、それほど心地良いものなのでしょうか」
「如何にも」
 登世の目から涙が落ちた。隆佐衛門ににじり寄り、顔を隆佐衛門の肩においた。隆佐衛門は思わず言ってしまった。
「登世、昼間から……」
 さっと登世が身を引いた。
「何を勘違いされているのですか。登世は尊敬できる隆様と、思わず体を寄せただけ。何が昼間からですか。頼もしいお方と一緒になり、登世は幸せ者と感激していたのに……。この金子は私が預かります」
 あっ、と隆佐衛門は手を伸ばしたが、金子はすでに登世が抱え込んでいる。登世、部屋を出る間際にニコッと隆佐衛門を振り返り、切り餅一つを置いた。

 気侭道場に源衛門と数馬の姿があった。近頃、この二人の姿を良く見掛ける。
 周りの者は眉をひそめて二人を見ている。余りにも激しい稽古。数馬は痣だらけであるが、必死に源衛門に喰らいついている。源衛門は鬼の様な形相。何故にあれほどの稽古が必要なのか、見ている者は皆、不思議がる。

「絹、源衛門は、どうしたのであろうか。数馬は侍ではなく蕎麦屋を持つのが夢。あれほどの稽古は不用だと思うが」
「はい。絹も同じ思いです。それに源衛門様は、お痩せになりました」

(9)






「気になるのう。絹、済まぬが……」
「はい」
 数日後、絹が隆佐衛門の部屋に入ってきた。暗い顔をしている。いや目に涙を溜めている。
「絹、元気がないが」
 絹の涙は、隆佐衛門の言葉に刺激を受けたのかポロポロと流れ落ちた。
「絹、話してくれ」
「お父様、絹は堪えられません。知らない方が良かった……」
「頼む。どうしたのだ」
「源衛門様は……」
「源衛門は、どうだったのだ」
「お目が……」
「目っ! 源衛門は右目だけだ。その右目がどうしたのだ」
「見えなくなる……」
「えッ!」
 隆佐衛門は絶句した。源衛門は目が見えなくなる。
「お父様、源衛門様は……、源衛門様は目が見えなくなったらご自害するおつもりです」
「な、何ッ! 自害ッ! 絹、ま、誠かッ!」
 絹は静かに頷いた。隆佐衛門は頭が混乱した。目が見えなくなったら自害する……。拙者であれば、どうであろうか。自害……。目が見えなくなる。隆佐衛門は何度も頭の中で繰り返した。二人の間に沈黙が続いた。

「お父様、源左衛門様は、ご自分の境遇にめげず、強く生きてきたお方だと思っております。そのお方が自らお命を絶とうとしています。お父様、やはりそのような境遇になると人間は弱いものなので

(10)






しょうか」
「拙者は強い弱いの問題ではないように思う。自分の生き様との問題だと思う。拙者が源左衛門と同じ境遇になったとしよう。拙者、どのような事を考えるか全く判らん」
「お父様にもお判りにならない。では、お父様は源左衛門様に何も出来ないとおっしゃるのでしょうか」
「判らん。源左衛門の生き様と源左衛門の命。どちらが大切なのか拙者には判らん」
「絹は命だと思います。何よりも大切なのは生きている事だと思います。絹江さんは権佐様に会いたいとの一心で、辛い毎日を耐えたのだと思います。生きていれば、いずれは望みが適うのではないかと。その思いが通じたのだと思います。絹江さんは命を落しましたが二人は会えたのです」
「絹、それは判る。だが源衛門にそのような思いは……」
 隆佐衛門は、何故、源衛門は数馬に厳しい稽古をするのかを考えてみた。絹が言った。
「何故でしょう。絹にも判りません」

 相変わらず源衛門と数馬の厳しい稽古は続いている。隆佐衛門は常吉に会ってみた。
「常吉、源左衛門は、どうしたのだ。数馬は痣だらけだが」
「木谷様、源さんは近頃変なんです。イライラしています」
 隆佐衛門は理由を言えない。
「常吉、数馬は蕎麦屋になりたいはず。源衛門は、何故あれほど稽古を付けるのだ」
「私の想像ですが、源さんは蕎麦切りには剣道の修行が必要と思っているのではないでしょうか」
「そうか。そういう事か……」

(11)






 十日ほど経ったであろうか、源衛門の言伝(ことづて)だと子供が書き付けを持って来た。読むと、済まぬが夢屋に来てくれぬかと書いてある。何であろうか。隆佐衛門は夢屋に行った。店に入ると袴姿の権佐、いや佐門がいた。
「おぬしも呼ばれたのか」
「木谷さんもですか。何でしょう」
 二人が頭を傾げていると、源衛門が滝の白糸を二枚持ってきた。
「いや、呼び付けたりして済まない。ま、蕎麦でも喰ってくれぬか」
 隆佐衛門は源衛門の目を見た。普段と変わりないように見える。しかし顔付きは厳しい。
「源さん、話は蕎麦を喰った後と言うことですな。では遠慮なく」
 佐門は食べ始めている。隆佐衛門も箸をつけた。いつも通りの旨い蕎麦である。瞬く間に喰い終わった。
「さて、源さん、話を聞きましょうか」
「実は、この蕎麦だが数馬が初めて切った蕎麦じゃ」
「えっ、数馬さんが切ったのですか。源さんが切った蕎麦だとばかり思っていました。数馬さんに蕎麦切りを教えていたのですか」
 源衛門は数馬を呼んだ。二人は痣だらけの数馬を見て驚いてしまった。
「数馬、聞いていたか」
「はいっ! 旨いと……」
 痣だらけの数馬だが、顔は嬉しさに満ちている。安堵したのか源衛門の顔からは厳しさが消えた。そして、何故か、佐門の傍らに置いてある刀を懐かしそうに、じーっと見た。しかし何度も(まばた)きをする。それに目を()らしている。かなり見えなくなっているのだろうか。隆佐衛門は複雑な気持ちでいた。
「理由も言わずに呼びたてたが、済まなかった。二人に喰ってもら

(12)






えば出来が判ると言うもの。拙者、安心した。どうじゃ数馬、拙者の言った通りであったな。蕎麦切りには剣道の修行が必要。厳しい修行の甲斐があったと言うもの。これからは蕎麦切りもお前の仕事の一つになった。良かったな」
 優しい顔で数馬に話している。
 二人は店を出た。佐門は、これから藩邸に行くと言う。隆佐衛門は、源衛門の事を口に出来なかった。

 二日後であろうか、常吉が血相を変えて松浦に来た。
「木谷様、源さんがいないんですが、こちらには」
「いや、来ておらん。数馬と道場ではないのか」
「いえ、数馬は夢屋です。源さんは一人では道場に行きません。それに……」
「何だ、遠慮せず言ってくれ」
「へー、源さんの部屋に古い刀袋に入った懐刀が置いてありまして……。数馬に聞きましたら、いずれ息子である数馬にこの刀を渡す。高藤家にとり大事な物だ。肌身離さず守れと言われた事があったそうで」
「何っ! あの刀が置いてあったとッ!」
 隆佐衛門は迂闊だった。源衛門が、これほど急いているとは思っていなかった。
「常吉、権佐の所に行け。源衛門が自害するかも知れぬ、手下を使い源衛門を捜せとな」
「じ、自害っ! 木谷様、しかし何故っ!」
「常吉、理由はいずれ話す。とにかく急げ。いやまて、隼人にも同じ事を伝えろ。拙者は、これから源衛門を捜す。急げっ!」

 江戸には百万に近い人間がいる。三日が経ったが源衛門は見つからない。

(13)






 源衛門は、杖をつかなければ歩けないほどになっていた。目の前は、ボーっと霞すんでいる。特に日が落ちるとほとんど見えない状態だった。
 ──拙者、右目一つで幾多の勝負をしてきた。酷使したのかのう。(めし)いてまで生きていく事は出来ん。皆、優しい、何やかやと面倒を見てくれるじゃろう。だが迷惑は掛けたくない。数馬も喜和も大丈夫だ。刀も託した。思い残す事はない。
 源衛門は、自分が今、何処を歩いているのか全く判らなかった。自害するつもりだが、どのようにすれば良いのかも判らない。刀はない。首を括るにしても縄を持っていないし、手頃な木を捜す事もできない。
 ──愚かな事よ。決めたは良いが、どうしようもない……
 水の流れる音がする。川だ。源衛門は水音がする方に杖をつきながら歩いて行った。
「何してるのよっ! そっちは川だよ。目が不自由なんでしょう。さっ、こっちに来て」
 源衛門の手を引く者がいた。女だ。
「あらっ、源さんじゃない。どうしたの杖なんかついて」
 源衛門、一所懸命、声のする方を見るが、ボーっとしているだけで誰だか判らない。
「源さん、あんた目が見えないの。琴葉(ことは)よっ。忘れたの」
 琴葉……。源衛門は思い出した。権佐の賭場近くで常吉の屋台を手伝った事があったが、よく蕎麦を喰いに来た女だ。三十路(みそじ)半ばだろうが、ちゃきちゃきの江戸っ子。気風(きっぷ)も良く、姉御肌のいい女だ。開けっぴろげな性格なのだろう、話は楽しかった。賭場に入り浸るような女ではない。源衛門は憂さ晴らしだろうと思っていた。
「琴葉さんか。こんな所で何をしているのじゃ」

(14)






「何言ってんのよ。こっちが聞きたいわよ。でも……源さん、あんた……」
「姐さんらしくもない。しんみりした声なんぞ出して。拙者、盲いたのじゃ。目が見えんのだ」
 見えない目から涙が零れ落ちた。人の前で泣くなど……。琴葉の顔は見えない。どのような顔で見られているかも判らない。未練はないはずなのに何故、涙が出てきたのか。何もかもが判らなかった。
「源さん、あんた水音は聞こえるはず。まさか……。源さん、あんた身投げしようとしていたのかい」
「……」
 バシッ! と音がした。頬を打たれた源衛門。さすがによろよろと後退りした。
「馬鹿やってんじゃないよ、男のくせに女々しいったらありゃしない。もっとも近頃は女の方が強いかも知れなけどね。さっ、今日は、あたしん()においで。性根(しょうね)、叩きなおしてあげるから」
 源衛門は連れて行かれるしかなかった。琴葉が源衛門の手を引いた。言葉はきついが、源衛門は、その手に優しさを感じた。どうした事か、気付かぬうちに強く握っていた。
「源さん、痛いよぉ。ふふ、ま、いいか」
 源衛門は女の肌を知らない。ましてや手など握ったことはない。父親が死んだ時、母は源衛門を捨てて若い男と逃げた。周りの者から男と逃げた女の息子と苛められた。子供たちからは石を投げられた。左目はその時に失った。源衛門は長屋の女房たちから女の優しさを知ったが、女とは決して心を許してはならない存在だと思っている。遊ぶ気もおきなかった。琴葉の手は優しい。源衛門は暖かいものを感じていた。
 ガラガラッと音がした。琴葉の家に着いたのだろうか。

(15)






「さっ、あたしん家だよ。(かまち)があるから気をつけなよ」
 家の中に入ったようだ。何やら木の香りがする。出来たばかりの家なのだろうか。それに、この匂いは……。(にかわ)だ。膠の匂い。
「あんた鼻をピクピクさせて……。他人(ひと)ん家に来て匂いを嗅ぐなんて失礼だよ。これは仕事。私の仕事で使うんだよ。お(まんま)食べなくちゃならないからね」
 何やら衣擦(きぶず)れの音がする。琴葉は着替えているようだ。源衛門は目を開いているはずだが、目の前は、ぼーっとしているだけ。
「悪いね、こんなところで着替えちゃってさ。仕事が溜まってるんだよ。急いで遣んなくちゃならないからね。男の前だろうが構やしない。ふふ、こんな事初めてだよ。でも……、あんた本当に目が見えなくなったんだねー。女が着替えてるっていうのに……。お飯は仕事の後。ちょっと待っててね」
 熾火(おきび)でも()しているのだろうか、ふーふーと音がする。何をしているのだろうか。源衛門は、じっとしていた。

 琴葉は親を知らない。物心がついた時には子沢山の家族の中にいた。てっきりこの二人が親だと思っていた。ある日、前掛けをした男が来た。両親と何やら話している。話が終ると琴葉は、この男に手を引かれ大店(おおだな)に連れて行かれた。不思議な事に悲しくはなかった。この店で雑用をさせられた。後に知ったが、自分の親は盗人(ぬすっと)に殺され、あの二人が育ててくれたらしい。この女房は乳の出が良く、一人増えても同じだよと琴葉を引き取ったという。しかし、その日暮らしの職人。子供が大きくなると、さすがに費えが苦しくなり大店に頼んだという。
 この大店は、人形、こけし、凧、羽子板などを商っている。琴葉は大きくなるにつれ、羽子板の絵付けに興味を持ちだした。店の主

(16)






 人は琴葉に絵を描かせてみた。一目見て琴葉の絵心を知った。初めは押絵羽子板の裏を描かせていたが、次第に裏に描かれた花や鳥の方が評判が高くなってしまった。
 主人は琴葉に押絵羽子板を勧めた。しかし琴葉は、飾り物である押絵羽子板よりも子供が遊べる板羽子板が良いと言う。主人は琴葉の羽子板を売ることにした。琴葉は、花や鳥を描いた。羽子板全体に色を付けず、白い木地を活かした絵柄である。琴葉の羽子板は粋を好む江戸庶民に受けた。主人は琴葉の文字が入った小さな四角い焼鏝(やきごて)を作った。琴葉の羽子板には、必ずこの焼印が押された。

 羽子板は胡鬼板(こぎいた)とも呼ばれる。胡鬼とは蜻蛉(とんぼ)の事。蜻蛉は可愛い子供を刺す蚊を食べることから子供のお守りとして、さらに羽子板で子供の災難を跳ね(羽根)のけて健やかに美しく育つようにという願いを込め、お正月にお祝いするようになっていた。つまり飾り物だったのだが、羽根つきの遊びとしても広まっていた。
 羽根つきは寒い季節の遊びだ。やはり暮から正月にかけて良く売れる。時期が来てから作るのでは間に合わない。羽子板は年間を通して作られた。
 こんな琴葉だが男運には恵まれなかった。絵のように小粋でしゃきしゃきした琴葉に言い寄る男は大勢いた。しかし男たちはいわゆる髪結いの亭主を望んでいた。馬鹿言っちゃいけないよ。琴葉は一人で暮そうと思った。二十歳を迎えた頃、主人に言った。
「こんな年増になって、店に住み込みも辛いものがあります。家を構えたいんですが」
 主人は、琴葉の羽子板を売るのは私の店だけとの条件で快く受けてくれた。小体な家も捜してくれた。
 琴葉といえば羽子板。羽子板といえば琴葉。琴葉は庶民の人気者

(17)






であった。
「源さん、夢屋が心配してるんじゃないのかい」
「……」
「どうせ何か書置きでもしてきたんだろうが……。仕方ないね。夢屋の事は私に任せてもらうよ。さてと、今日の仕事は終わり」
 台所からであろうか包丁の音が聞こえる。ぷーんと煮付けの匂いがする。源衛門は顔をしかめた。
 ──拙者、野菜は嫌いだ。
「さー、お飯が出来たよ。食べてないんでしょう」
源左衛門が箸を持っていくと、ちょうど良いように小鉢を動かしてくれる。源左衛門にはそれが良く判った。口に入れた。やはり思った通りだ。人参と蒟蒻の煮物。お椀は蜆の味噌汁。これは源衛門の大好物だ。味噌の具合も良い。箸の感覚を頼りに蒟蒻ばかり突付く。それを見ていた琴葉は何か感ずるものがあった。
 ──大の大人が、食べ物に好き嫌い。
 とにかく源衛門は、蒟蒻と味噌汁で旨い食事を終った。頭の中は空っぽだった。源右衛門が船を漕ぎだした。
「まーまー、子供と同じだね。腹が膨れたらお寝んねかい。世話が焼けるね」
 
 翌日、琴葉は夢屋に行った。
「ま、そういう事で、当分の間、源さんは私が面倒見させてもらうよ。これも何かの縁だよ。良縁か悪縁かは判んないけどね」
 常吉、喜和、そして数馬はホッとした。居所が判っただけでも良かった。常吉は話を聞き終わると松浦と二本松、それに隼人の新居に走った。
 源衛門は、まるで腑抜けだった。琴葉には仕事がある。琴葉は独り住まい。絵付けした羽子板などを店に納めなければならない。源

(18)






衛門を一人にするのは気になるが、そうそう構ってもいられない。
「あたしゃ仕事を納めに行くよ。あんた変な気を起こしたら承知しないよ。いいかい、家を出ちゃ駄目だよ」
 家を出たくたって行く宛もないし、もう何もしたくない。死ぬ気もなくなった。源衛門は背中を丸め、ただ座っているだけだった。

 賭場では琴葉の事が噂になっていた。勝負の合間に、ふっと場が白ける事がある。誰かが言った。
「おい、近頃、琴葉姐さん来ねーけど、どうしたんだ」
「そうなんだよ。姐さんがいねーと場が暗くっていけねー。誰か知らねーか」
「病気じゃねーのか。おいっ! 誰か見にいった方がいんじゃねーかっ!」
 皆、黙っている。
「おいっ。冷てー野郎どもだな。何とか言えっ!」
「何、一人で粋がってるんだよ。だったら、おめーが行きゃーいいじゃねーか」
「ま、そうも言えるがよ。琴葉姐さんに気があるなんてよー、思われるのもなー」
「何言ってんだい。気があるくせに」
「何ー、じゃぁ、おめーは気がねえって言うのかい。あっ、そうかい。今度、姐さんに会ったら、そう言ってやらー」
「ば、馬鹿な事言うんじゃねーよ。姐さんには言わねーで欲しいな」
 誰もが気にしているが、所詮、琴葉のお眼鏡に適うとは思っていない。行きたいが、あらっ、あんた誰っ、とは言われたくない。この日は全く盛り上がらない場であった。
 隆佐衛門は、源衛門の事が気掛かりだった。琴葉の名前は羽子板

(19)






で知っている。だがこの女に任せておいて良いのだろうか。二本松に向かった。
「木谷さん、琴葉はしっかりした女です。場での打ち方を見れば判ります。源さんの事は、琴葉に任せておけば大丈夫ですよ」 
 歯牙(しが)にも掛けない言いよう。こやつ冷たい男だとは思うが、自分は琴葉を知らない。家を聞いたが権佐は知らないと言う。仕方がない、琴葉の羽子板を扱う店に行った。

「失礼ですが、お侍様は琴葉と……どのようなご関係で」
 ご関係と聞かれても、会った事もない。困った。
「実はな、どうしても家を知りたいのだ。怪しい者ではない。教えてくれぬか」
「お武家様、ご自分から怪しい者だ、と言うお方はおりませんが」
「……」
「お見掛けしたところ、何か余程にお困りのご様子。では丁稚をお供させて頂いても宜しいでしょうか」
「おう、おう。良い考えだ。構わん、丁稚と共に行く」        
 小体な家だった。見るからに慎ましやかなたたずまい。中からは何も聞こえない。源衛門は居るのだろうか。丁稚は傍を離れない。隆佐衛門は良い事を思い付いた。
「お前、駄賃が欲しくはないか」
「えっ! ほ、欲しいですが……」
「琴葉とは顔を合わせた事があるのか」
「あ、当たり前ですよ。駒吉、駒吉って可愛がってもらっています」
「そうか。ちょっと探ってもらえぬか。琴葉の他に誰かが居ないか」

(20)






「お侍様、琴葉姐さんは独りが好きなんです。誰も居ませんよ」
「何か用事を見つけて家の中を見て欲しいのだ。ほれ、駄賃を遣る」
 この丁稚、一分銀を見て態度が変わった。
「こんなに。そ、そうですか。ご機嫌伺いに来たとでも言って上がらせてもらいます」
しばらくして丁稚が出てきた。しきりに首を傾げている。
「どうだった」
「へー、しょぼくれたお侍がおりました。叔父さんだそうです。でも琴葉さんに似ていない」
「しょぼくれていたか。ところで元気だったか」
「何だか(しな)びていましたよ」
「……」
「お侍様、これで良いですか」
「お、おー。済まなかった」
 萎びていた……。やはり気持ちの切り替えは出来ていないようだ。琴葉に会いたいと思った。
 今度は常吉が羽子板屋を訪れた。今度で二人目。主人は変だなと思った。琴葉は、きちんと羽子板は納めてくれる。しかし琴葉に何か起こったのか。主人は、では、私も一緒に行きましょうと店を出た。常吉は源衛門の事を話せないでいる。琴葉の家に着いたが、常吉は私は此処でと中に入らない。主人は何なんだこの人は、と気味悪さを感じたが家に入った。
 主人が首を傾げながら出てきた。琴葉には身内はいないはず。叔父だと言うが変だな。話を聞いた常吉が聞いた。その人元気だったかと。主人は萎びていましたと言い、そのまま常吉を無視して行ってしまった。
 ──萎びている。
 確かに源衛門は萎びていた。ただ部屋に座っているだけ。

(21)






 ある日、手を伸ばすと羽子板らしきものに触れた。琴葉が羽子板の絵付けを仕事としていることは聞いている。羽子板を手に取りいじっていた。何の気なしに放り上げてしまった。コトッと音を立てて羽子板が落ちた。おー、いかん。琴葉の大事な羽子板。源衛門は、さっとその場から立ち上がり、音が聴こえた所に行った。手を伸ばすと羽子板に触れた。また、羽子板をいじる。
 何か気配を感じた。庭の方であろうか。耳を澄ますとニャーッと猫の鳴き声。猫が庭を横切っているようだ。源衛門は、羽子板を持って庭の方に向かった。ポーンと投げてみた。コトンと羽子板が落ちた音。庭に降り、羽子板が落ちたと思われる場所に行った。腰を曲げ、手を下ろした。羽子板が手に触れた。同じ事を何度か遣った。いずれも手を伸ばすと羽子板があった。
 源衛門は面白いと思った。ふと昔を振り返った。拙者、相手と対峙した時に、はたして相手を凝視していただろうか。違う。所詮、片目では距離感が掴めるものではない。しかし、拙者は確実に相手との間合いを読みきっていた。相手の息遣い、足を運ぶ微かな音、空気の動き、勘。これらにより鋭い刀の動きを掴んでいた。源衛門は、ニヤッと笑った。

 玄関に物音、琴葉が帰ってきた。廊下を歩く足音。何やら軽やかな雰囲気。
「源さん、今、帰ったよ。喜んでおくれ。あたし、店の娘の顔を描いてみたんだ。そしたらね、店の主人が大喜び。今度ね、注文を受け、客の顔を羽子板に描く事になったんだよ。祝い事の時なんかに、その人の顔が描かれた羽子板を贈る。子供でも大人でもいいんだ、記念になるからね。源さん、また仕事が増えるよ。嬉しいじゃないか」
 源衛門はニコニコ笑いながら聞いている。
「あんた笑ってるね。(うち)に来て初めてだね。どうしたんだい」

(22)





 源衛門は立ち上がって羽子板を庭に投げた。琴葉はビックリした。納め物を投げるなんて。この人、狂ったのかしら……。源衛門は庭に降り、その羽子板を何の躊躇もなく拾い、部屋に戻ってきた。琴葉はまた驚いてしまった。二人は、向かい合って座った。
「見えるようになったのかい」
「いや、まったく見えん。だが判る。ほれっ、庭を見ろ。雀が……、うーん、五羽遊んどる」
 琴葉は得体の知れないものを見るような面持ちでいる。
 ──この人、初めて会った時から普通じゃないと思ってたけど……
「琴葉さん、おぬしのお陰じゃ。死なんで良かったよ。礼を言う。拙者には耳がある。それに体がある。今まで何人と切り合いをしたか……。気付いたのだが、拙者、音と体に感じる空気の動きや気配で勝負をしておった。目は、それらを瞬時に確かめるもの。今とさほど変わらんはず、とな」
 琴葉は源衛門の顔に、厳しいが何か確信に満ちたものを感じた。この人、もう大丈夫だ。
「だがな琴葉さん、おぬしの描いた羽子板は見れんのじゃ。綺麗な羽子板であろうと思うだけじゃ。見て見たいが……。見る事が出来ない。それが実に辛い」
 源衛門は琴葉の羽子板を愛おしそうに撫ぜている。
「源さん……」
 琴葉は言葉に詰まってしまった。右手を畳に付けた。崩れるように顔を下げ声を出さずに泣いた。

 翌日の朝餉。今まで背中を丸めて箸を使っていた源衛門だが、この朝は背筋を伸ばし、琴葉と向かい合っている。箱膳に触れば後は難なく箸を使う事が出来る。相変わらず野菜は嫌いだ。しかし食事のたびに琴葉に言われる。

(23)






「残したら承知しないよ」
 人参、南瓜、法連草、じゃが芋……。源衛門は仕方なしに食べた。今日も人参がたっぷり。琴葉は自分を苛めているのではと思った事もあったほどだ。
「琴葉さん。頼みがあるのだが」
「人参が嫌いだなんて言わせないよ」
「いや、野菜を食べるのは慣れた。実は夢屋に侘びを言いに行きたいのだ。ここは蛤町。それほど遠くない。済まぬが連れていってはくれぬか」
「あらまー、元気になったもんだね。いいよ。今日は仕事もないし、ずっと付き合ってあげる」
「いや、往きだけで良い。帰りは一人で帰りたい」
「えっ」
「何、往きに道筋を覚えれば、帰りは逆を辿れば良いだけ。たまには外に出て見たいしな」
 琴葉は源衛門の変わりように戸惑ったものの、言う通りにしようと思った。
 樫の杖を持った源衛門を琴葉は夢屋へと連れていった。普通の歩きであれば四半時の距離。琴葉は、なるべく掘割などがない道を選んだ。ここには塀があるよ。ここを右に曲がる。ここはぬかるんでるよ。石ころが多い。人通りが多いから気を付けな……。琴葉は、ゆっくりと周りの状況を話しながら源衛門の手を引いた。源衛門は言われるたびに杖で確かめている。
 一時(いっとき)ほど掛かったが夢屋に着いた。
 
 常吉、喜和、数馬が飛び出してきた。源衛門に抱きついている。拙者は幸せ者だ。源衛門は死のうなどと考えた自分を愚か者と思った。琴葉と共に数馬が切った蕎麦を食べた。旨いなー、旨い。
 数馬の腕は上がっている。ふっと数馬の腹に触った。

(24)






「父上、きちんと肌身離さず……。ご安心ください」
 源左衛門は高々二月(ふたつき)ほどで数馬が逞しい体、声になったと思った。琴葉は喜和と話している。
「常さんは蕎麦を造ることばかり考えているんですよ。もう少し切り盛りに気を入れてくれれば良いのに」
「あら、帳面は誰が見てるの」
「私。ちょっと気を抜くと、この人、高い蕎麦粉を平気で買ってきたりするんです。もう目が離せなくて……」
 琴葉は琴葉で、源衛門に手が掛かってと愚痴をこぼす。まるで二人は世話女房気取り。常吉は源衛門に夢屋に何日戻るか聞いた。源衛門は、まだ判らんと言うだけだった。
 琴葉は常吉に源衛門は一人で帰りたいと言っていると伝えた。常吉は、すぐには返事をしなかったが、源衛門の気持ちを察した。では、私は先に、と琴葉は夢屋を出た。四人は、客が混みだすまで話をした。
「では、拙者は戻るが、喜和、数馬。常吉と共に夢屋を頼むぞ。それから拙者の後を付けたりするな。一人で帰れないようでは、これから遣っていけんからな」
 源衛門は杖を持ち、すっくと立ち上がった。三人は、やはり不安であったが源衛門を見送った。

 琴葉は、夢屋から少し離れた茶屋で源衛門が出てくるのを待っていた。いくら一人でと言われても放っておく訳にはいかない。
 源衛門が出てきた。しっかりした足取りだ。通りの真ん中で立ち止まった。何かを感じようとしているようだ。太陽に顔を向けた。しばしそのままの状態。ふっと気を取り戻したように歩き出した。杖を上手く使っている。大通りに出た。通行人が多い。琴葉は驚いた。源衛門は、相手が気付かずにぶつかりそうになっても、さっと身をかわしている。細い道に出た。掘割がある。

(25)






 あっ! 掘割に向かっている。このまま行けば落ちる。源衛門は、すっと杖を前に出した。遅いっ! 琴葉は、右足を上げたまま体の向きを変えた源衛門を見た。琴葉は見守るのを止め、さっさと家に戻った。あの人は大丈夫。

 既に一時(いっとき)が過ぎているが、源衛門は、まだ戻らない。遅い。琴葉は気が々ではなかった。心配が胸を締め付ける。やはり見ているべきだったのか。
 琴葉は、ふーっと、何故こんなにあの人の事をと思った。四十過ぎの目の見えない男。甲斐性なんてありゃしない。何もあたしが面倒を見る事なんてないんだ。夢屋に戻せばいいんだ。あー、馬鹿々々しい。止めた、止めた。心配なんてしないよ。
 あれから四半時が経った。琴葉は頭を抱えていた。にこにこ笑う源衛門の顔が目の中から出ていかない。琴葉は立ち上がった。同じ道を辿るはず。玄関に行き引き戸を開けようと手を掛けた。戸は自然に開いた。目の前に(どろ)だらけ、傷だらけの源衛門が笑いながら立っていた。
「琴葉さん、どうじゃ。拙者、一人で辿り付いたぞ。褒めてくれぬか」
 琴葉は源衛門に抱きついた。無性に嬉しかった。ただ涙が止めどなく流れた。源衛門も琴葉を抱いた。二人は玄関できつく抱き合っていた。

「お前さん、こんな事聞いたら怒るかも知れないけど……」
「何だ」
「初めてだったのかい」
 源左衛門、真っ赤になってしまった。
「……」
「あんな素敵なの……あたし初めて」

(26)






 琴葉は源衛門の目は治る、長い間、偏食を続けたためだと思っている。野菜を食べないと鳥目になると聞いた事があるからだ。医者に見せた方が良い事は判っている。しかし、治らないと言われるのが怖かった。

 源左衛門は道場にも行くようになっていた。隆佐衛門も絹も元気になった源衛門を見るのが嬉しかった。源衛門が隆佐衛門に言った。
「隆佐衛門殿、拙者、試してみたいのじゃが」
 二人が木刀を持ち向かい合った。源衛門は例の構えである。隆佐衛門の身の毛が逆立った。これはっ! 全く無の状態。何も感じない。居るのかどうかも判らない。しかし確実に木刀はある。かなりの時間が経った。隆佐衛門は何も出来なかった。ふと思った。拙者、隙だらけになって見よう。源衛門の体がピクッと動いた。隆佐衛門には判った。源衛門は戸惑っている。攻めるべきか、攻めを待つべきか。二人の心に笑いが起きてしまった。
「隆佐衛門殿、そのような事をするものではない。困るではないか」
「おぬしこそ。何じゃ、攻めれば良いものを」
「自ら隙だらけになるような相手と対峙した事はない」
「源衛門殿、目は要らぬのかのう」
「それは違う。やはり目じゃ。目があってこそ総てが一体化する。拙者は小さい頃より一つの目で遣ってきた。しかし、これは偶然の事」
「偶然……。理由は判らんが、そうなったと言う事か」
「隆佐衛門殿、おぬし考えすぎじゃ。世間には理由も判らぬ事が多い」
 源衛門はこの時、琴葉の事を考えていた。二人が出会った事を誰が説明できる。


(27)





 琴葉は必死だった。これは自分のためだ。あの人に私の羽子板を見てもらいたい。近所の女房たちに聞きまわった。鳥目はどうすれば治るの。皆、真剣に言ってくれた。
「琴葉さん、鳥目はねー、鰻だよ。八目。まず鰻を喰わせれば何とかなるよ」  
 琴葉は鰻屋に行った。一日おきに鰻を届けておくれ。
「琴葉さん、鰻など贅沢な。拙者、世話になっておるが費えについては何も出来ん」
「お前さん、まだ琴葉さんと言うつもりかえ。寂しいねー」
「琴葉さん、ちょっと待ってはくれぬか。このような男で良いのか」
「良いのか? 何を言いたいのか、あたしには判らないけどね」 
「琴葉さん、拙者……」
 どうしたのか急に源衛門は、身を正した。
「拙者は幾多の勝負、地獄を味わった者。運が良かったとも言えるが、今こうして琴葉さんと居る。拙者にとっては総てが初めての事。おぬしのような……」
「おぬしが、どうしたって言うのかい」
「いや、おぬしのような女と……」
 源衛門、身を固めて言った。
「拙者、女とは信ずるに値わぬものと思っておった。おぬしを知った時から判らなくなった。拙者は……」
 源衛門は続ける事が出来なかったが、琴葉は静かに見ていた。
琴葉はハッキリさせたかった。良いではないか、年増女と四十過ぎの男が一緒になっても。

「どう思います」

(28)






 隆佐衛門は初めて琴葉に会った。源衛門には勿体ない女。表には出さなくとも、男には独占欲のようなものがある。つい俺の方が、などと思ってしまう。
「琴葉さん、何故、拙者の所に」
「あの人が良く話しをするものですから」
 しかし隆佐衛門は、源衛門の女に対する気持ちが判らなかった。返事のしようがない。登世を呼んだ。登世には琴葉の思いが痛いほど判った。だが、やはり源衛門のことは判らない。琴葉、根っからの江戸っ子。気が短い。
「お二人が判らないのなら、あたしはどうすれば良いのっ!」
 相談に来たくせに居直った雰囲気。二人は済まなそうに下を向いている。登世が顔を上げた。
「琴葉さん、いい人を教えます」
 登世は紫雲斎を教えた。琴葉は、またお邪魔して良いですかと聞き、松浦を後にした。

 小暮と表札が掛かっている。琴葉は大きな声で言った。
「小暮様っ、琴葉と申します。ご相談が……宜しいでしょうか」
 これがいけなかった。長屋のあちこちから店子(たなこ)たちが顔を出した。
「琴葉だよ」
「あらまー、あの琴葉さんかえ」
 ぞろぞろと琴葉の周りに集まってしまった。中には羽子板を持ってきて、ねー、何か書いてくれる、などと言い出す始末。琴葉は、それどころではない。しかしお客様には変わりない。一人が持ってきた筆で羽子板にさらさらと名前を書く。こっちも頼む、これは子供の羽子板とうるさくて仕方がない。
 居眠りをしていた紫雲斎、表の騒がしさに目が覚めてしまった。

(29)






引き戸を開けると店子連中が、わいわいがやがや。琴葉は紫雲斎を見た。
「小暮様ですか。ちょっとご相談が……」

「ホッほっほー、実に良いお話じゃ。高藤殿がのー。そうかそうか」
 紫雲斎、しきりに感じ入っている。琴葉は、どうすれば良いのかを聞きたい。ぽつりぽつりと紫雲斎が話しだした。
「世の中、所詮、男と女しか居らんのにな……」
 琴葉、この人、何を言いだすのだろうと心配になる。
「もそっと互いの事が判っても良いようなものを、判らんのじゃなー。これが」
 この人も判らないのか……と諦めかけていると、
「琴葉さん。源衛門殿の気持ちなど確かめんでも良いと思うがな。琴葉さんの好きに遣れば良い。ものごと総て、ハッキリしているようで、そうでもない。固い絆で結ばれたと思った二人が憎み合ったりしている。確実なことは、いずれ人は死ぬという事だけ。であれば良いではないですか、自分の思い通りに遣っても。琴葉さん、高藤殿の女房になりたいのであれば、なれば良いのじゃ。何も相手の気持ちなど、気にせんで良いと思うがな。どうも源衛門殿は琴葉さんを心から好いているようじゃし。ホッほっほー、良い話じゃ、実に良い話じゃ」
 琴葉はポカーンとして聞いていた。次第に肩の力が抜けていった。あたしったら何をいきり立っていたのだろう。ふと、庭を見た。花簪(はなかんざし)が可憐な花を咲かせ風に揺れている。琴葉は目に焼き付けた。
「琴葉さん、ところで源衛門殿の目だが……。先程、医者に見せるのは怖いと言っておったな。だが、現実を見た方が良いと思うが」
「現実……どういう事ですか」

(30)






「ちと、きつい事を言うようだが、物の本にな、目に白い膜が出来た場合は治らんとある。怖いかも知れんが確かめた方が良い。鳥目であれば、野菜、鰻で治るかも知れんが」
 
 琴葉は夕餉の支度をしていた。戻ってから一言も口を利いていない。源衛門は落ち着かなかった。以前、隆佐衛門が喰わせてもらっているだけの身は辛いと言っていた。一人であれば気にすることはない。だが二人で暮している今、その言葉がちくちくと胸を刺す。気付くと、急に琴葉が近寄ってきた。庭の方に連れて行く。空に顔を向けろという。言われるままにした。何やら顔を覗きこんでいるようだ。右目の瞼を押し広げようとしている。
「琴葉、な、何じゃ、何をする」
「め、目を開いてっ。お願いだから」
 源衛門は言われるまま目を開いた。
「あー、白くない。お前さん、白くないよ」
 源衛門は、何故琴葉が騒いでいるのか判らない。琴葉は、そのまま台所に行こうとしたが、ふと思い返した。ふふ、琴葉だって。

 隆佐衛門の所に緊張し切った顔の隼人が来た。今、二人は向かい合って座っている。隆佐衛門は黙っている隼人を見た。隼人は、にやけるかと思えば顔をしかめる。恥ずかしそうに下を向いたかと思えば、顔を上げ額に皺を寄せる。まるで百面相である。
「どうしたのだ。便秘か」
「な、何を言うか。このような大切な事を。おぬし失礼だと思わんのかっ」
「失礼も糞もない。先程から何も言わんではないか。人の家に上がり込み、一人で顔を動かしておる。おぬしこそ失礼だ。さー、用事を言え、用事をっ!」
「拙者、父親になる」

(31)






「な、何っ! 出来たのかっ!」
「如何にも。拙者、父親になる」
何日(いつ)だっ」
「判らん」
「判らんだと。この戯けがっ! 園に聞いておらんのか」
「そこまでは聞かなんだ。そうじゃな。何日であろうかのう」  
 何ともはや気の抜ける話である。
 隆佐衛門が呆れていると、松が常吉つぁんですよ、と言ってきた。常吉、隼人がいるのに、ちょっと驚いた感じ。ままよと隼人の横に座った。
「どうした。店はいいのか。ところで何だ」
 常吉、返事をしない。腕を組み、下を向いたり、上を向いたり。顔をしかめたり、にやけそうになったり。隆佐衛門は百面相を二度見る思い。
「常吉、父親になるとでも言うのではあるまいな」
 常吉、飛び上がって驚いた。
「な、何故、わ、判ったのですか」
 今度は聞いた隆佐衛門が飛び上がった。隼人は二人の話を全く聞いていない。
「あ、相手は誰じゃ」
 言った途端に、喜和の顔が浮かんだ。そうか、喜和か。
「木谷様、喜和は一緒になりたいって言ってくれました」
「当たり前だ。どうも二人は怪しいと思っておったが、困ったものだ」
「困ったものとは……」
「順番があろうが、順番が。一緒になってから子供は出来るものだ」  

(32)






「へー、ですが、喜和とは同じ屋根の下で……」
「そのような事を言っているのではない。隼人を見ろ。きちんと順番を守っておる」
「えっ! 木村様にもお子さんが。それはおめでとうございます」
 隼人、やっと常吉に気付いた。
「いやー、何日、生まれるか聞いておらんのだ。ところで常吉、何故、ここにおるのだ」
 三人が落ち着いた頃、常吉が語りだした。

 ある夜、枕元に人の気配を感じた。志津だった。見ると怒っている顔付き。常吉は喜和の事だと思った。
「お前さん、喜和さんだけどねー」
 やはり、そうだった。
「このままで良いと思ってるのかい」
「しかし、喜和も喜んで仕事をしているし、店も助かっている。何も追い出すことはないだろう」
「何言ってるのかねー、この人は……。常さん。私の時は、すぐに手を出したじゃないか」
「あん時は無我夢中だったからな。志津が元気な時だった。懐かしいなー」
「そんなこと聞きに来たんじゃないんだよ。お前さんね、喜和さんはお前さんに惚れてるよ。お前さんだってそうだろう」
「ま、何ていうか、そのー」
「いいんだよ、無理して隠さなくても。二人とも私に遠慮しているね。特に喜和さんは、ことあるごとに私を引き合いに出すけどねー、会った事もないのに。常さん、このままじゃ喜和さんが可哀相だよ。しっかりおしよ。男でしょう。向こうにいても気になって落ち着かないよ」
「じゃー、どうすればいいって言うんだい」

(33)






「一緒になっちゃいなさいよ。そうだねー、子供でも作ってくれた方が、私は安心できるよ。それに喜和さんを逃したら、お前さん、一生このままだよ」
「そう言うものかねー。ところで、志津、咳が出ないな。病気は治ったのか」
「何、頓狂なこと言ってるのかねー。あっちには病気なんてないんだよ」
「そうか、それは良かったなー」
「変なこと言うね。そんな事は、どうでも良いから頑張んなさいよ」   
 そう言い終ると、ふーっと消えたという。その夜は一睡もできず仕舞い。翌日は眠くてしょうがない。夕刻近くになって、ふらふらしてきた。喜和が、お客も少ないし、後は二人で遣るから二階で寝ていなさいと言う。じゃー、そうさせてもらうかと二階で寝入っていた。
 何やら額に感じたので目を開けると喜和が心配そうに覗き込み、額に手を当てている。常吉、何かに突き動かされるように喜和に抱きついてしまった。もう無我夢中。気が付くと喜和が、常吉さん嬉しい、と目に涙を浮かべていた。

「実は、その時だけだったのですが、できちゃったようで……」
「うーん、手籠(てご)めにしたのだな」
 さすがに二人は大声を上げた。
「そ、そのようないい様は、ないのではっ!」
「済まん済まん。だが二人は幸せの中にある。少しは意地悪な事も言いたくなるものだ。ところで何日の事だ」
「へー、三ヶ月ちょっと前で……。ですから正月頃だと……」
「そうか。楽しみだな。常吉、源衛門には知らせたのか」
「これから行こうと思っています」

(34)






「どうもおぬしは順序が逆だな。源衛門は喜和の親代わり。まず源衛門が先であろうが。まあ良い。急いで知らせた方が良いぞ」
「へいっ!」
 常吉、飛び出していった。隼人は、一所懸命指を折っている。

 すでに夕暮れ近く。源衛門は散歩だと言う。琴葉は部屋で待ってたらと言ってくれた。常吉、職人の(さが)か、どうも体を動かしていないと落ち着かない。そこいら辺を見て来ますわ、と家を出た。近所を捜していると掘割の向こうに源衛門が歩いていた。杖を上手く使っている。源さんも慣れたもんだ。感心していると源衛門の前の方から三人のやくざ風の男が何やら話し込みながら歩いてくる。どうも酒が入っているようだ。源衛門に気付いていない。源衛門は、すっと避けようとしたが小石に足を取られたのか、よろっとした。運悪く男にぶつかってしまった。
「おうおう、爺さん気ー付けなよ」
「済まん」
「済まんで終わりかい。おー痛てー。これじゃー歩けねーよ。どうしてくれるんだいっ」
「いや、済まなかった。だが、どうすると言われてもなー、負ぶう訳にもいかんし……」
「負ぶうだー。目も見えねーくせに洒落た事をぬかすな。治療代だよっ! えー、医者に掛かるんだ、金がいるだろう、金がっ!」
「そう言うことか。だが金は持っておらん」
「爺さん、涼しい顔でそういう事を言うもんじゃねーよ。大人しく出した方が身のためってー事もあるぜ」
「持っておらんのじゃ。逆さに振っても一銭も落ちてはこない」
「逆さだーっ! 面白れーや、振ってやろうじゃねぇか」
 この男、源衛門の胸倉を掴もうとする。源衛門、すーっと身を引く。手を伸ばすと、さっと避ける。

(35)






「こいつー、杖なんか突きやがって見えるんじゃねぇか。ふざけやがって。おいっ、遣っちまえっ!」
 源衛門は長ドスを抜いた音を聞いた。硬い樫で出来ているとは言え、まともに受ければ杖は切られる。
 男は、この野郎ーッと斬り掛かってきた。源衛門は思いっきり杖を左上に振り上げた。男は左脇腹を打たれ、そのまま掘割にザンブと落ち込んだ。
 源衛門は神経を集中しているはず。常吉は声を掛けられない。
もう一人が突いてきた。源衛門は、ひょいっと身をかわし、杖で男の胸を(したた)かに打った。ぐにゅっと嫌な音がした。倒れこんだ男、胸を掻きむしりながらのた打ち回っている。
「おいっ! まだ遣るつもりか。この男、このままでは死ぬぞ。肋骨が折れ肺を破ったかも知れん。変な息をしておる。晒しでも巻いて寝かせた方が良い。どうする」
 掘割から出てきた男と共に男を抱えて去って行った。

「源さん」
「おう、常吉さんか。いやー、参ったよ。しかし杖で良かった。刀であれば切っておった」
「しかし、源さんは強いなー。目明きより強えーや」
「詰まらん感心の仕方をするな。目が見えんのは実に不自由だ。だが、真っ暗闇でも同じじゃな。目明きではそうはいかん。ところで用事か」
「へー、琴葉さん家でお話したい事が……」
「そうか。常吉、今の事、琴葉には言わんでくれ。心配する」

 余りにも帰りが遅いので琴葉は心配していた。常吉と帰った源衛門を見て、
「迷子の迷子の子猫ちゃん。やっと帰ってきたね。さっ、二人とも

(36)






上がっておくれ」
 部屋に行くと夕餉が用意されていた。常吉はたまげた。鰻だ。
「琴葉さん、いつもこんな贅沢をしてるんですか」
「ふふふ、ちょっと理由があってね。話は食べながらでいいでしょう」
 常吉は、箸を付ける前に源衛門に報告した。
「常さん、それは良かった。本当に良かった。喜和も幸せになれる。常吉つぁん、喜和を宜しく頼む」
 源衛門、鼻水を垂らしながら喜んでいる。琴葉は、
「喜和さん、良かったねー。あたしの歳じゃ、もう無理だし……」
 と、嬉しそうな中にも寂しさが漂う。
「源さんは、お爺ちゃんになる。お二人は夫婦(めおと)だから琴葉さんはお婆ちゃんだ。連れてきますよ。可愛がってください」
 常吉が夫婦と言ったのを聞き、二人とも赤くなり俯いてしまった。常吉、そんな事はお構いなしに鰻を喰いだした。
「この鰻は、旨いですね」

 どうした訳か源衛門が琴葉に彫刻刀を頼んだのだ。それに木地屋から木っ端を持ってきてもらえぬかと言った。羽子板は桐を使う。源衛門、縁側に座り、しこしこと桐に彫刻刀を立てている。琴葉は好きにさせておいた。
 
 数日が経った。源衛門が琴葉の前に板を置いた。そこには女の顔が浮き彫りされていた。琴葉の顔だ。
「あんたっ! これ……」
「どうかな。琴葉に見えるか」
 細かな部分には、まだささくれが残っているが自分の顔だ。目などは実に細かく彫られている。わざとであろうか、全体には彫刻刀

(37)






の彫り跡が残されている。これが力強さを出している。
「お前さん、遣る気あるのかい。だったら本気で修業した方が……」
「本気かと聞かれても答えようがない。だが手慰みだけというのも能がない。かと言って使いものになるかどうかも判らんし……」
「このささくれは、私が削ってもいいかい」
「おう、頼む。他の部分は手で撫ぜながら彫ることはできるが、どうも、ささくれだけは取り難い」
 琴葉は、ささくれを丁寧に削り、板を源衛門に渡した。源衛門は板を撫ぜている。

「琴葉さん、あんた彫りも始めなすったのかい。これは、あんたの顔だ」  
「違うよ。家の人が彫ったんだよ」
「家の人ったて、源衛門さんは……」
「そう、目が見えない。撫ぜながら彫るらしいんだよ。昔は刀を振り回していたらしいけどね、次が蕎麦切り包丁。今度が彫刻刀。あの人は器用だ」
「そうかい。恐れ入るねー。じゃー表が浮き彫りの羽子板を作ろうって訳だ。琴葉さんが色を付ける。裏は今まで通りの絵付け。面白いねー」
「売れるかねー」
「それは判りません。でも置いてみたいですね。押絵羽子板は飾るだけ。これは遊びでも使える。賃は売れてから決めるでいいかな」
「あー、構わないよ。第一、まだ家の人と話をしてないんだから」
 やたらと嬉しかった。賃なぞ幾らでも良い。あの人が喜ぶ。

「お前さん、そう言うことなんだけど、遣るかい。好きな物を彫っ

(38)






ておくれ。あたしが色を付ける」
「売れるものかのー。店に出したはいいが全く売れないとしたら気になって眠れんことになる」
「何言ってんだろうね。まだ作ってもいないうちから」
 二人とも幸せであった。

 羽子板屋は、この羽子板に琴源(ことげん)と名前を付けた。浮き彫りの羽子板は爆発的とまではいかないが売れ出していた。源衛門は菖蒲など、姿がスッキリした花を良く彫った。可愛らしい子犬や奴凧も彫った。琴葉は源衛門が浮き彫りにした羽子板に淡い色で彩色した。

 普段、源衛門は目を閉じていた。どうせ開けていても意味がない。閉じていれば瞬きする必要もない。

 今朝は陽の光が強いようだ。源衛門は縁側に立ち、口を開け目を開け、あーあと伸びをした。良い天気だ。しかし太陽が眩しい。思わず目を閉じた。だが目がチカチカしている。まともに太陽を見てしまったようだ。部屋に戻り作業台の前に座った。やっとチカチカが治まった。台の上には琴葉の描いた羽子板が置いてあった。手に取り眺めた。この花は花簪だ。丸い蕾、白い花弁の中には黄色い雄しべや雌しべ。緑色の葉っぱが全体をキリッとさせている。まだ描いている途中のようだが綺麗だ。これが琴葉の羽子板か……。

 夢中になって琴葉の羽子板を見続ける源衛門。自分の目がうっすらと見えているのに気付いていない。

                         (了)

               インデックス・ページに戻る

(39)