隆佐衛門詞譚りゅうざえもんしたん【五】












        きずな 」            九谷 六口








   
                
                         二00三年一月十八日 
                  








 木谷きや隆佐衛門りゅうざえもん影房かげふさ)、登世とせと夫婦になり三年が経とうとしている。夫婦仲は良く何の不満もないが、今だに無職。松浦まつらは繁盛しているし、登世は活き活きと仕事をしている。絹は、稽古事や店の手伝い、それに書き物などで自分の時間を楽しんでいる。

 隼人は、片岡新左エ門かたおかしんざえもんの養女になったそのとの婚礼を控え、これまた公私共に忙しい毎日を送っている。園は、侍の妻としての行儀見習い、長刀なぎなたの扱い、武家のしきたり、覚悟などを身に付けた。武家、商家、両方を知った事になる。奉行所に勤める者にとり両面を知っている事は重要な意味を持つ。園は隼人にとり良き伴侶になりつつあった。
 大番頭の嘉吉は、勘定吟味役であった隆佐衛門に商売に関する定めや税の事などをよく相談する。隆佐衛門は松浦には欠かせない存在になっていたが、どうも本人には充実感がない。所詮手伝いだと思っている。

 暇な時間が多い。暇つぶしと体のためにと庭に出て木刀を振ったりする事が多くなっている。たまには外に出るが、別に用事がある訳でもなく、足は夢屋や二本松に向いてしまう。
 蕎麦処夢屋も繁盛している。常吉や源衛門は、やたらと忙しい毎日を送っている。隆佐衛門は、たまに手伝う事もあるが薪割りぐらいしか遣る事がない。
 二本松も繁盛している。権佐は縄張りという言葉を嫌うが、江戸市中のほとんどの賭場や廓を仕切っている。また、大店間のイザコザや町人同士の喧嘩の仲裁など、これまた何かと忙しい。
 ――暇なのは拙者だけか。やはり定職を持たなければならんが、万請負よろずうけおいの看板でも出して見ようか。いやまて居なくなった猫を捜せなどと言われても困る。はてさて如何いかがしたものか。


(1)






 そんな隆佐衛門に飛脚便が届いた。
 ――拙者に書状……
 隆佐衛門は差出人を見た。何と別れた妻、和代(かずよ)からの書状である。何故、此処が判ったのか。部屋に座り、書状を見ていたが刀の一件を思い出した。あの時、絹が義父木崎主人に書状を送っている。そう言えば、絹は木崎から返事を貰ったと言っていた。和代は住所を義父に聞いたのであろう。隆佐衛門は、改めて差出人を見た。木崎和代…… まだ、再婚していないようだ。
 しかし、何が書いてあるのであろうか。そう言えば絹が義父に送った書状の内容も、返事の内容も聞いていない。絹はただ一言、幸せにと書いてありますと言っただけであった。
 隆佐衛門は頭を巡らせたが、別れて十年近く経った今、和代が何を言ってきたのか想像することもできない。書状を読むのが鬱陶しくもある。どのような内容であれ、今更の感を拭えない。気が進まぬまま封を切った。綺麗な文字、話し言葉で綴られている。

『お久しゅうございます。私からの書状、さぞ驚かれた事と思います。父より聞きましたが江戸で刀屋の用心棒のようなことをなさっておられるとの事。また、お元気に過ごされているとも聞いております。署名をご覧になり、お判りのことと存じますが、私は再婚しておりません。貴方様の事が忘れることが出来ず……などと誤解なされませぬようお願いいたします。いくつかのお話はございましたが煩わしさを感ずるのみ。お断りしております。
 書状をお送りいたしましたのは、息子、千代松の事でございます。貴方様とお別れした時には四歳だった千代松も、今は十三歳になりました。父や私の言うことを良く聞く、素直な息子ではありますが、ただ一つ言う事を聞かぬ事がございます。二、三年前より父親である貴方様に会いたいと我侭を言うようになっております。
 これは、私の父に由るところも多く、千代松が物心付きました頃

(2)






より、事ある毎にお前の父は立派な侍だった。文武両面に優れた男だったと話しております。再三、父に注意いたしたのですが、父は止めようといたしません。困った事だと思っておりましたが、皮肉な事に面影すら覚えていない貴方様を手本に、勉学、鍛錬に励んだとも言えます。文武共に良く学び、母親の私が言うのもおかしなものですが立派に育っております。先にも書きましたように、滅多に我侭などを言わず、また、父や私にも優しい子供でもありますのに、余りにも強く貴方様に会いたいと申します。父は死んだと申しておけば良かったのではと、今になって悔やんでおりますが、母親とは弱いもの、一つくらいは我侭を聞いて上げてもと思うようになりました。
 千代松は、既に江戸に向かっております。父には、まだ伝えておりませんが、この書状を送りました後に話すつもりでおります。
 千代松は、貴方様とは血の繋がった者。ご迷惑をお掛けする事とは存じますが、数日間、千代松の事、宜しくお願いいたします。千代松も、貴方様に会えば気が済む事と思います。
 なお、江戸は、華やかで下らない遊びなども多いところと聞いております。つとめてそのような場所には連れて行かぬようお願いいたします。また、貴方様が、裏長屋にお暮らしのようでしたら、旅籠にでも泊めていただければと思っております。千代松には、十分なる路銀を持たせておりますゆえ、貴方様にご迷惑になるような事はございません』

 隆佐衛門の頭に残ったのは千代松の事である。拙者の息子が来るのか。十三歳……。別れを言った時には、ただポカーンと見送っていただけであった。妻との別れよりも、千代松との別れの方が辛かった。もう会う事もなかろうと、隆佐衛門は千代松の事は忘れる事にしていた。
 千代松の幼い顔が浮かんできた。隆佐衛門の胸に悦びと不安が混

(3)






じりあった抑えようのない感情の塊が膨らんでいった。
 ――既に江戸に向かっている……
 書状を読み返して見たが、和代の気持ちを理解する事は出来なかった。奇妙な内容である。何故、義父に相談もせず千代松を送り出したのか。義父が知ったら、どのように思うのであろうか。拙者に会えば、それで気が済むはずと書いてあるが、千代松の気持ちは……。今の暮らしについては知らぬようだが…… いや、これは当然であろう。
 登世には何と…… 絹にも何と言えば良いのであろうか。別れた妻との間に出来た息子。あと数日で千代松は、このに来る。

 隆佐衛門は、落ち着かない毎日を送っていた。複雑な思いが渦巻く。沈んだ顔に登世と絹が気付いた。
「隆様、ご気分でも悪いのですか」
「いや、別に…… どうと言う事はない」
 絹は両親の心は読まない事にしているが、流石に心配そうな目を向けている。

 和代の書状が届いてから二日後、また早飛脚が来た。今度は義父からの長い書状だった。
 書状には、次のような事が述べられていた。

『ご無沙汰いたしておる。和代の書状は貴殿を驚かせた事と思う。何故、相談しなかったのかと問うた。和代は拙者が許さないと思ったらしい。全く逆である。拙者は和代の気持ちを考え、江戸行きを言い出せないでいたのだ。
 じきに千代松が江戸に着くと思う。和代は数日の滞在と言ったと思うが、何ヶ月でも構わん。傍に置いてやって欲しい。滞在中は、剣道、算盤、書道などを叩き込んで欲しい。剣道については、怪我けが

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しても構わん、徹底して仕込んで欲しい。会えば判るが多少の事で壊れるような体ではない。
 江戸についても出来る限り見聞、体験させてくれ。きちんと善悪の判断が出来る孫だ。
 千代松は既に藤島藩主である藤島上総守昭寿かずさのかみあきひさ公に目通めどおっておる。実は今日、昭寿公より嬉しいお達しを受けた。千代松の元服じゃ。昭寿公が言うには、千代松の元服は何も十五歳になるまで待つ事はない。それに十三歳での元服は、それほど珍しい事ではない。早く元服させて公務に就けろとの事じゃ。和代にも伝えた。そこで貴殿に頼みがある。千代松の元服をして欲しい。通称、実名は拙者が決めた。木崎小太郎隆典きざきこたろうたかのりじゃ。貴殿の一字を貰った。元服の場所は裏長屋でも何処でも良い。烏帽子えぼしがなくても構わん。前髪を落とし、月代さかやきを剃ってくれ。小太郎は喜ぶはずだ。いずれは家督を継がせ、拙者は隠居する。
 貴殿の事は、小太郎が帰ってくれば知る事が出来る。これも楽しみだ。聞きたくはなかろうが、和代は武家の子女を集め和歌や書道を教えている。それなりに楽しそうな日々を送っている。再婚の気持ちはないようだ。
 過ぎた事を悔やんでも致し方ないが、過日の件はこれも世の流れと許して欲しい』
 ――木崎小太郎隆典か…… 義父、木崎主人は藤島藩の筆頭家老だ。明晰な頭脳を持つ施政家。藩は木崎の政策により潤っていると聞く。義父の家督を継ぐとは大変な事であろうに。
 隆佐衛門は、千代松に会う前から心配をしている。

 意を決し、隆佐衛門は登世と絹を部屋に呼んだ。二人は沈んだ隆佐衛門の顔を見ていた。何か重大な話であろうかと緊張している。隆佐衛門は千代松の事を話した。
 二人の顔が、ぱーっと明るくなった。

(5)






「まー、隆様のご子息。ということは…… 私に息子が出来たのですね。楽しくなりますね」
「私にとっては弟。可愛がってやりましょう。ほほほ」
 
 ――何じゃ悩む事はなかったのか。
 隆佐衛門は拍子抜けしてしまった。
 登世は気が早い。嘉吉に烏帽子を買ってくるよう伝えた。

 松浦の店先に若者が立った。すっくと背の高い、目鼻立ちの整った顔つき。まだ前髪を剃っていないが、体付きは十六、七歳に見える。右手で暖簾(のれん)を分け店に入ってきた。
 登世が目ざとく若者に気が付いた。
 ――千代松だわ。まー、隆様と瓜二つ。それに立派な体付き。十三歳には見えない。

「ご免。少々お尋ねいたします。こちらに木谷隆佐衛門様は、ご滞在でしょうか」
 登世は立ち上がり千代松の前に来た。
「千代松さんですか」
「は、はい。木谷隆佐衛門様は……」
「さー、どうぞ」
 登世は、千代松を隆佐衛門の部屋に連れていった。隆佐衛門は、部屋の真ん中で腕組みをしたまま目をつぶっていた。
「隆様、千代松さんですよ。さー、千代松さん、中にお入りになって」   
 隆佐衛門は目を開ける事が出来ない。
「父上、千代松です。お久しゅうございます」
「……」
「父上……。祖父も母も元気で暮らしております。ご安心ください

(6)






ませ」
 隆佐衛門は腕組みをしたままだ。部屋に絹が入ってきた。
「お父様、千代松さんが尋ねて来たのですよ」
 千代松は驚いた様子で絹を見た。
「お、お父様……。誠に不躾な事をお聞きしますが、今、お父様と……」
「えー、私は絹と申します。木谷隆佐衛門の娘です。ほほほ、そんな驚いた顔をなさって。千代松さんは私の弟です。宜しくね」
 千代松は口をポカーンと開けたまま絹を、そして登世を見た。ふっと隆佐衛門に目を移した。
「父上、お話しください。母から聞きました事と異なります。父上は、この店の用心棒と……」
 隆佐衛門は目を開き、千代松を見た。
 ――これが千代松か。拙者の息子……。立派な男になった。
 隆佐衛門の胸に熱いものが流れた。
「千代松か。隆佐衛門じゃ」
 二人は見詰め合った。千代松の前には思い描いていた父がいた。
「千代松、拙者が国を離れ、かなりの年月が経っておる。こちらが拙者の妻だ。登世と言う」
「千代松さん。江戸にいる時は私が母親ですよ。何でも言ってくださいね」
「父上は再婚なさったのですか。そうだったのですか……」
 千代松は、確かに呑み込みが早いようだ。
「父上、お願いがございます。庭にて一手、お手合わせを」
「まー、今、家に着いたばかりなのに。千代松は疲れているのではないですか」
 絹は、千代松と呼び捨てにしている。既に姉さん気取りである。
「いえ、疲れなど……。剣道を始めた頃より、この日が来るのを願っておりました」

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「千代松、では遣るか」
 二人は庭に下り、木刀を握った。腰を落とし、頭を下げて挨拶をする。腰に持った木刀を前に出し立ち上がった。二人とも正眼に構えた。隆佐衛門は、これだけで千代松の腕を把握した。
 ――なるほど。義父が言うだけの事はある。十三歳とは思えん。鍛え甲斐がある。
 隆佐衛門が木刀を下げ、腰を落とした。
「父上、もう終わりですか。まだ一手もお手合わせをしておりませんが」
「今日は、これで良い。おぬし、かなり厳しい稽古を積んだようだな。先生は誰じゃ」
 千代松も腰を落として言った。
「はい。私も父上のように何人かの先生につきました。皆、厳しい先生です。父上は、一つの型に囚われたくないとのお考えだったとか……。祖父から聞きました」
 義父は、何でも良く覚えているようだ。二人は話しながら部屋に上がった。
「千代松さん、隆様とお話がしたいでしょうが、お部屋に案内しましょう。それにお風呂を使ってくださいね。それに……店の者にも紹介しなくては」
 登世と絹は、さっさと千代松を連れていってしまった。
 ――何じゃ、あの二人は…… 元服の事を伝えなければならんのに。
 隆佐衛門は苦笑した。そして思った。さてと忙しくなるぞ。久しぶりに明るい表情になっていた。

 千代松は、隆佐衛門の隣にある四畳半を使った。この日の夕食は隆佐衛門の部屋でとった。四人一緒だ。
「千代松。木崎殿より書状を貰っている。藤島上総守昭寿公が、お

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ぬしを元服させると言っているそうだ。木崎殿は拙者に烏帽子親をと申しておる。明日、前髪を切るぞ。良いな」
 千代松は余程驚いたものと見えて、口に入れている物を危なく噴出しそうになった。
「父上っ! 本当でございますか。千代松は、この前髪が鬱陶しくて仕方ありませんでした。町を歩きますと皆、クスクス笑います。何故だろうと思っておりましたが、母によると体が大きいのに前髪をつけている。何ともチグハグな様子だそうです。ホッといたしました。しかし元服するとは大人の仲間入り。今までのように甘えてばかりはいられませんね」
「何を言うか。人間、そう急に変われるものではないわ」
「あら、千代松は甘えん坊なのですか。随分、大きな甘えん坊ですね」
「い、いや……。そういう訳ではないのですが……」
 笑いが起きる。千代松も一緒になって笑っている。しかし千代松は良く喰う。登世は、おひつを気にしだした。
「父上、元服したあとは、自分の事を拙者と言っても良いのですよね」
「構わん」
「拙者か……。良いですね。やはり急に大人になったように思います。で、名前は」
くな。明日になれば判る」
 教えてやっても良いようなものだが隆佐衛門はきちんと遣りたかった。
 千代松にとっては眠れぬ夜であった。

 翌朝、隆佐衛門の部屋に千代松が座っていた。立会いは登世と絹だ。隆佐衛門が前髪を切り、月代を剃った。三人は驚いた。千代松は、凛々しい若者に変わっていた。烏帽子を被せ、通称、実名が書

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いてある半紙を広げた。木崎が書いたものだ。隆佐衛門が読み上げた後、半紙を千代松に渡した。千代松は、(うやうや)しく受け取り、声を上げて読んだ。
「木崎小太郎隆典」
 登世と絹は、昨日会ったばかりだと言うのに涙している。隆佐衛門は女とは変わり身の早いものと呆れている。店の者たちが来た。改めて小太郎を紹介した。若い女たち、特に松などは小太郎に見惚れている。絹は意地悪く小声で言った。
「松さん、小太郎は、まだ十三歳ですよ」
「まー、歳が離れすぎだわ」
 二人は、クスクス笑った。確かに小太郎は十三歳には見えない。十六歳の絹と並んでも小太郎の方が幾つか年上に見える。ややもすると若夫婦のような感じだ。

 隆佐衛門は小太郎を夢屋と二本松に連れて行く事にした。まず夢屋だ。蕎麦を喰わせたい。
 夢屋は、運良く客が少なかった。店に入ると隆佐衛門に気付いた常吉が来た。
「木谷様、こちらのお侍様は……」
 常吉は、あっと声を上げた。隆佐衛門と瓜二つ。まさかと思いつつも聞いてみた。
「ご子息様でいらっしゃいますか」
 隆佐衛門は嬉しそうな顔をしている。源衛門も傍に来た。
「初めてお目に掛かります。拙者、木谷隆佐衛門影房が嫡子ちゃくし、木崎小太郎隆典と申します。以後、お見知りおきいただきたい」

 小太郎、生まれて初めて拙者といった。名乗るときには厳しい顔つきであったが言った途端に顔を赤らめている。このような時には幼さが出る。源衛門が、じーっと小太郎を見ている。隆佐衛門に耳

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打ちした。
「木谷さん、小太郎さんは結構、遣りそうですね」
「おう、まだ十三だが、様になっておる。仕込むつもりじゃ。おぬし、木刀であれば構わんだろう。付き合え」
「木谷さん、それは屁理屈と言うもの。しかし……木刀ならば構わんかな」
 源衛門も嬉しそうにしている。
 小太郎は、出された蕎麦を喰った。
「これが江戸の蕎麦ですか。掛け蕎麦も美味しいし、この冷たい方も美味しい。江戸とは良いところですね」
「小太郎、江戸の蕎麦が旨いのではない。この夢屋の蕎麦が旨いのじゃ」
 小太郎は聞いているのだろうか、とにかく凄まじい勢いで蕎麦を喰っている。掛け蕎麦、五杯。滝の白糸は、何と八枚も喰ってしまった。
「ウップ! 失礼いたしました。拙者、食べ過ぎたようでござりまする」
 皆が笑い出した。
「小太郎、ござりまするなどとは言わぬぞ。ござるで良い。しかしまー、おぬしは良く喰うな。常吉、こんなに喰った客はいたか」
「おりません。紙に書いて貼っておきます。そうですね、木崎小太郎隆典殿、掛け蕎麦五杯、滝の白糸八枚を一時(いちどき)に食す。これで良いでしょう。そうだ、日付も入れましょう」
「常吉さん。そんな恥ずかしい事、お止めくだされ」
「構わん。面白いではないか。のー、各々方」
 店に笑いが広がった。常吉は、本気で貼る事にしている。
 小太郎は、常吉の蕎麦打ちや源衛門のそば切りを目を輝かせて見た。特に源衛門が蕎麦を切る時には、手元をじーっと見ていた。

 二本松への道すがら、小太郎が言った。

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「父上、あの源衛門さんですが、ひょっとして…… 以前は侍だったのでは」
「おー気付いたか。今は刀を捨てておるが、凄い使い手だった。拙者と相打ちじゃった」
 隆佐衛門は源衛門との一件を話した。小太郎は、身震いしながら聞いていた。隆佐衛門は小太郎に感じていた。こやつ、刀を極めるかも知れんな。

 権佐に会った小太郎は緊張していた。このような男は国には居ない。一見、遊び人のような雰囲気。しかし、目付き身のこなしなどは侍である。聞けばやくざとの事。
 ――父は、このような人間とも付き合いがあるのか。
 堅苦しく話を聞いていたが、権佐が広げた絵を見た途端、表情が柔らかく変わった。
「お聞きしたいが、これをお描きになったのですか」
手慰てなぐさみです。書も良いが、絵も良い」
「拙者にも、手ほどきをお願いしたいが、如何でしょうか」
「ワッハッハー! 私に教えろと言うのですか。面白いお方だ。私が人に物を教えるなどとは、お天道様が西から上がります」
「良いではないか。近々小太郎を寄こす。教えてやってくれ」

 帰りしな、隆佐衛門は権佐に耳打ちした。
「権佐、あちらの方も教えてやってくれ。拙者は苦手じゃ」
「元服したと言っていましたね。判りました。任せてください」

 まだ、日は落ちていない。隆佐衛門は、明日にしようかと思っていたが隼人を訪ねる事にした。この月は非番のはずだ。

「隼人良いか」
 隼人は、綺麗に掃き清められた部屋で書類に目を通していた。

(12)






「おう、隆佐殿。久しぶりではないか。して、このご仁は……」
 二人を見比べている。急に笑い出した。
「何と、まるで瓜二つではないか。まさか、おぬしの隠し子ではなかろうな」
 隼人は冗談のつもりで言ったが、小太郎の顔が引き攣った。まだ、このような冗談には付いていけない。
「失礼だが初対面の者に向かい、その言い様は非礼でござろう。拙者は、木谷隆佐衛門影房の嫡子、木崎小太郎隆典でござる。隠し子とは聞き捨てならぬお言葉。事によっては容赦はいたさん」
 言上ごんじょうも様になっている。隆佐衛門は小太郎が本をよく読んでいる事を知った。
「こ、これは失礼つかまつった。拙者は北町奉行所同心、木村隼人芳衛よしえでござる。木谷殿より貴殿の事を聞いておらんかった。お許し願いたい。ところで苗字が異なるが……」
 隆佐衛門は国での出来事を誰にも語っていなかった。
「さ、小太郎、部屋に上げてもらおう。隼人、茶でも馳走してもらえぬか」
「茶か。まてまて、園が揃えていたはずじゃ。小太郎殿、さ、上がってくだされ」
 小太郎の顔は、まだ強張っている。小さい頃、てて無し子と囃し立てられた事がある。隠し子と言われ、その頃の事が思い出されていた。

「小太郎殿、先ほどは失礼した。実はな、拙者、父を早くに亡くした。運良く家を継ぐ事が出来たのだが、小さき頃は父がいないのが辛くてのう。苛める子も()ったわ。つとめて明るく振舞う事にした。お陰で絹殿には顔がにやけていると言われる始末じゃがな」

 隆佐衛門も初めて聞くことだ。そうであったのか。隼人と小太郎が見つめ合っている。二人の目には涙が溜まっていた。語り合わな

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くとも相通ずるものがあるのだろうか。
「小太郎、隼人は近々嫁を(めと)る。いずれおぬしも会う事とは思うが綺麗なお方だ」
「木村様、おめでとうございます」
 小太郎は優しい顔付きになっていた。隼人は真っ赤になった。園と夫婦めおとになることが余程嬉しいと見える。

 帰りしな、隆佐衛門は小太郎に言った。
「隼人は、二本使うぞ」
「えっ! 話には聞いていますが、まだ見た事がありません。どのような刀さばきですか」
「隼人に手合わせしてもらえ。常に両足を動かしている。まるで踊っているようじゃ」
「木村様は五輪書ごりんしょをお読みになったのでしょうか」
「おう、読んだらしい。あやつ、体付きはしなやかだが平気で二本を使う。余程、修行を積んだのであろう。おぬしもそうであろう」
「いえ、私は、まだこれからです。源衛門さん、木村様、それに権佐様。習う事が沢山ありますね」
「小太郎、刀や絵だけではないぞ。そなたの祖父は算盤、書なども教えろと言っている。江戸を逃げ出したくなるのではないか」
「滅相もございません。小太郎は父上のように立派な侍になりとうございます」
 今までは、父親らしく威厳たっぷりであった隆佐衛門だったが、立派な侍と聞いた途端、下を向いてしまった。

 隆佐衛門は時間を無駄に使いたくなかった。いずれ小太郎は藤島藩に戻るのだ。これはいたし方ない事である。小太郎が、どのような人生を送るかは判らないが、自分に出来る事は総て伝えたいと思っている。隆佐衛門の部屋には文机が二つ置いてある。一つが隆佐

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衛門、もう一つが小太郎のものである。
 実にもの覚えの良い小太郎であった。このような相手に教えるのは楽しい。砂に水が吸い込まれるように覚えていく。算盤を教えるとは、算盤の使い方や計算だけでなく、金の遣り繰りについて、さらに土地の広さ、建物などの力の配分などの内容も含んでいる。
 書道については絹に対する時とは全く違っていた。姿勢が崩れたりすると容赦なく扇子で打った。絹には帯の上からであったが、小太郎に対しては頭や手の甲を扇子でぴしゃりと叩いた。小太郎は文句も言わずに筆を進めた。まだ、こなれた字ではないが楷書などは実に形良くまとまっている。行書、草書は、江戸にいる間に会得する事は難しいだろう。しかし、焦る事はない。

 松浦の庭は広い。二人の剣術の稽古は騒々しく、またすさまじく、掛け声や木刀のぶつかり合う音が響いた。いくら松浦の屋敷が広いとはいえ、このような声や音は良く響くものである。店に来る客のほとんどが侍。掛け声や木刀のぶつかり合う音が聞こえると、ビクッと体を硬直させる。店の者は、当初さほど気にはしてなかったが、それが幾度となく続くと流石に顔をしかめるようになっていた。この事を大番頭の嘉吉が、登世に伝えた。登世も同じ思いであった。
 ある夜、登世は隆佐衛門に伝えた。言われて見れば、その通りである。隆佐衛門は意を決した。

 翌日、隆佐衛門は小太郎に自習するように言い、松浦を出た。小走りで向かったのは熊吉のいる番所であった。話を聞いた熊吉、
「ようがす。あっしに任せておくんなさい」
 と、胸を叩いた。

 小太郎は、権佐のところには一人で行った。壺、花、脇息きょうそく

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草履、刀……。二人は筆と墨を使い一緒に何でも描いた。描き終わると権佐はいろいろと指摘した。構図の取り方、線の太さ、陰影の濃さ……。何にも増して権佐が言う事は決まっていた。
「小太郎さん、描くものを自分のものにするのです。そして、貴方が思った通りに描くのです。人の目など気にする事はありません。勿論、私の事も考える必要などありません。しかし出来上がったものは人の目に触れます。一人一人が勝手な思いを持ちます。その意見は、とりあえず聞く事です。聞いた後、自分のものにすれば良いのです」
 権佐の指摘は、常に歯に衣を着せぬものであった。小太郎はけなされているのではないかと思うほどである。
「小太郎さん、筆使いは、刀と同じです。無理があってはいけません」

 ある日、小太郎が権佐のところに行くと、いつも絵を描く部屋の襖が半分開いていた。そこに権佐の姿があった。部屋中に半紙が散らばっている。権佐は夢中になり筆を動かしている。じっと見ている小太郎に権佐が気付いた。
「さ、部屋に入って描きなさい」
 小太郎は部屋に入った途端にドキッとした。部屋には、浴衣ゆかたを着た女がいた。右手を畳につけ腰を崩している。浴衣の胸元が開き、豊かな乳房がちらっと見える。このような光景を見るのは初めて。小太郎は身動きが出来なかった。ただ、体の一部だけが自分の意思に関わりなく活動していた。立っているのが辛い。

「何を突っ立ているのですか。早く墨を磨って絵を描きなさい」
 小太郎は、ほっとして座った。硯に水を垂らし、墨を磨り始めた。
「小太郎さん、描くものをしっかりと見る事が大切です。硯ばかり

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を見ていてどうするのですか」
 部屋の中は薄明かり。しかし、小太郎は女が(まぶ)しくて見る事が出来ない。権佐は既に何枚も描いている。
「墨は磨れたはずです。何度も言わせないでください。さ、描いてみなさい」
 小太郎は筆を取り、女を描き始めた。造りの大きなはっきりとした美しい顔。柔らかく波打つような体。ちらっと覗く豊かな乳房。小太郎は、眩しさしか感じない。とにかく何枚かの絵を描いた。
「描きましたか。お玉、良いでしょう。ありがとう」
 お玉と呼ばれた女は、身づくろいをし、
「小太郎さん、では、また」
 と意味ありげに頬笑み部屋を出て行った。権佐は、絵を見たが何も言わなかった。
「小太郎さん、疲れたでしょう。今夜は私と一緒です」
「権佐さん、帰らないと皆が心配します」
「気にする事はありません。木谷さんから今夜は泊まっても良いと聞いています。さ、出掛けましょう」

 夜の江戸。人影の全くない地域や酒臭い街角を幾つか越えた。権佐は、小太郎を行灯や提灯が点される一角に連れて行った。派手々々しい家が並んでいる。懐手をした侍や町人がウロウロしながら家の中を覗いている。周囲には嬌声が満ち溢れている。
 ――これが江戸の色町なのだろうか。騒々しいところだ。
「権佐さん。このような所もあるのですね。良く判りました。戻りましょう」
「小太郎さんは、今夜は此処に泊まります。さ、行きましょう」
 小太郎には、それが何を意味するか薄々理解できた。
 ――これも、江戸を見聞する事になるのだろうか。
「権佐さん、私は、まだこのような所に泊まるのは早い……」
「小太郎さんは元服しましたよね」

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 小太郎は観念した。

 隆佐衛門は、登世と絹に、小太郎は権佐の所に泊まると伝えた。登世は、それが何を意味するかを理解した。
 ――小太郎さんは、まだ十三歳。早すぎるのでは……。あっ、元服……。そうでした。元服したのでした。
 絹は、何となく理解できた。
 ――ひょっとして小太郎ったら……。まだ、姉の私が知らない事を……

 大きな館であった。権佐が中に入ると半被はっぴを着た男たちが深々と頭を下げた。
「権佐親分、さ、こちらへ」
 二人は奥まった部屋に案内された。部屋に落ち着くと権佐が言った。
「さてと、では小太郎さん、私はこれで帰ります」
 権佐は言うなり部屋を出て行ってしまった。小太郎は、とにかく落ち着かなかった。きょろきょろと部屋を見渡した。屏風、衣紋掛け。襖を開けて見た。蒲団が敷いてある。膝が、がくがくと震えてきた。
 ――どうすれば良いのだろうか。
「入りますよ」
 綺麗に着飾った女が入ってきた。小太郎は、顔を見て驚いた。お玉である。
「絵は描けましたか、小太郎さん。綺麗に描いてくれなければ怒りますよ」
 この夜、お玉は、小太郎を優しくみちびいた。

 翌朝、小太郎は、お玉と共に朝餉あさげをとった。

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 小太郎は、母や登世、そして絹とは違う女の優しさを知った。

「父上。小太郎、戻りました」
 小太郎は、隆佐衛門の部屋の前で挨拶をした。
「そうか。小太郎、拙者は、ちと用事がある。一人で稽古をするように。良いな」
「はい」

 隆佐衛門は、熊吉の案内でその家を見に行った。松浦から二町ほどの距離。門構え、部屋の広さ。文句の付けようがない。
「熊吉、流石だな。気に入った」
「へい、そうおっしゃって頂くと、捜し甲斐があったと言うもんです」
 隆佐衛門は、熊吉に手間賃を渡した。隆佐衛門は、この家を道場として使うつもりでいる。例の褒美が役に立っている。ここであれば気兼ねなく稽古が出来る。しかし、小太郎はいずれ国に帰る。その後、この家は……。ままよ、その時に考えればよい。多少の手直しや掃除をしなければならない。明日にでも小太郎とやるか。隆佐衛門はウキウキしていた。

 その頃、小太郎は部屋で絵を描いていた。お玉の絵である。描き終わるとその絵を持って権佐の所に急いだ。
「ワッハハー! 小太郎さん、これで良いのです。これが小太郎さんの見たお玉でしょう。活きています。お玉は優しかったようですね。小太郎さん、昨夜の事を大切にしてください。一晩でこれほどの絵が描けるようになるとはな。何事も経験ですね」
 言うなり権佐は、小太郎の肩をぽんと叩いた。

 その日の夕方、隆佐衛門が部屋を覗くと小太郎がいない。絹の部屋に近づくと、文机を前に二人が何やら話しこんでいる。拙者も仲

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間入りをと思ったが止めた。何にでも口を挟む父親とは思われたくない。
 のんびりしていると絹が部屋の前を通り過ぎていった。何じゃ、小太郎は一人で絹の部屋にいるのか。隆佐衛門は絹の部屋をそっと覗いてみた。小太郎は隆佐衛門が廊下に立っている事にも気付かずに、文机に置いた書物を一心不乱に読んでいる。何を読んでいるか知りたくて仕方がない。しかし、これも諦める事にした。父親とはいちいち細かな事に口を出すものではない。父親とは、ちと辛いものだな、などと貧乏ゆすりをする。その点、母親は何事にも口を挟む事が出来る。登世などは小太郎の顔の洗い方にまで口を挟む。

 小太郎が部屋に入ってきた。顔を紅潮させている。
「父上、書道の時間ですが」
「おう、そうじゃったな」
 筆を持ち習字を始めたが、小太郎は、絹の部屋での事を何も話さない。こうなるとイライラが高じてくる。
「小太郎、ところで何をしておったのじゃ」
「はっ、今日は権佐さんに絵を見てもらいましたが」
「そうではない、先ほど何をしておったのかと訊いておるのだ」
「先ほど? 姉上の部屋での事ですか。父上、良くご存知で」
「い、いや、チラッとおぬしの姿が見えたからのう」
絹夢けんむ日記を読ませていただきました」
「何っ! 絹の日記を読んでいたのか」
「はい。日記とは言っても姉上がまとめ直した日記の方です。ご自分用の日記ではありません」
「ど、どのような内容であった」
 隆佐衛門は咳き込むように聞いた。せ、拙者は、まだ読ませてもらっていない。
「父上、姉上から口止めされていますので申せません。いずれ皆に

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読んでもらうそうです。それまで待たれたら良かろうと思います。しかし、姉上には文才があります。冷静に物事を見、そしてご自分の考えなどを(したた)めています。皮肉もたっぷりと含まれています。小太郎は書を読むのが好きですが、絹夢日記のようなものは読んだ事がありません。興奮しました」
 隆佐衛門は、聞けば聞くほど読みたくなってしまった。また、貧乏ゆすりである。
「父上、その貧乏ゆすり何とかなりませぬか。文机が揺れて書き難くうございます」
「おっ、いや、済まなかった」

 翌朝、隆佐衛門は小太郎と絹を伴い道場に行った。手桶、雑巾、障子紙。小太郎には大工道具を持たせている。道すがら二人は楽しそうに話している。どうも絹夢日記についてのようである。隆佐衛門は中に入れない。癪には障るがどうしようもない。

 道場は見違えるように綺麗になった。さすがに二時ふたときも体を動かすと腹が減る。夢屋に行く事にした。
 夢屋は満員であった。店の前には三人ほどが順番を待っている。いくら親しい隆佐衛門たちとは言え、割り込む事は出来ない。また二人は楽しげに話しをしている。隆佐衛門はけ者である。
 ――いかんな、また貧乏ゆすりが出てしまう。
 店に入った。絹が壁に貼ってある紙を読んだ途端、大声で笑い出してしまった。
「小太郎、こんなに食べたのですか。貴方は大喰おおぐららいですね」
「姉上、そんな大きな声で言わないでください。私の事だと判ってしまうではないですか」
 客が小太郎を見た。店の中は爆笑に包まれた。一人、小太郎だけが真っ赤になり俯いている。


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 隆佐衛門は、源衛門に道場を持ったと伝えた。源衛門は複雑な顔をしている。
 ――木刀ならば良いであろう。木刀ならば……
 自分を納得させている。しかし、刀を捨てたとは言え体の中からは剣道に対する熱いものが込み上げてくるのを源衛門は止められないでいた。

 小太郎は、登世と仁助から刀の見立てを学んだ。小太郎の刀は、まだ血糊の痕もない綺麗なものだ。源衛門の刀は登世が預かっている。何遍か研ぎをしたようだ。刀身は細くなっている。しかも、何人もの血を吸ったのであろう、鈍く輝いている。登世は小太郎に見せた。小太郎もこの刀の過去を理解したようだ。顔つきが変わり、蒼白になった。
「母上、怖いものですね。刀とは……。この刀を見ていると恐ろしくなります」
「小太郎、刀ほど美しく綺麗なものはありません。刀が、この国を造ったといっても過言ではないのですよ。人を守り、心の支えにもなっています。しかし、使い方を間違えると、これほど恐ろしいものもありません。清く、あくまでも清い心で接しなくてはなりません。私もこの刀を見た時には恐ろしさを感じました。何人もの人を斬ったと思います。でも邪悪なものは感じませんでした。それなりの理由わけがあったのではないでしょうか」
 登世は、夜月よづきを見せた。
「母上、これは美しいですね。細身なのに力強さを感じます。刀工のなせるわざなのでしょうね」
「小太郎、あとで隆様の刀も見せてもらいなさい」
 小太郎は、すぐに隆佐衛門の部屋に行った。隆佐衛門は夜雪よせつを見せた。小太郎は飛び上がらんばかりに驚いた。
「父上、先ほど夜月を見ましたが、これは……」


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 隆佐衛門は国吉のこと、登世のことを話して聞かせた。小太郎はまんじりともせずに聞き入っていた。

 隆佐衛門は道場開きに隼人、源衛門にも声を掛けた。絹もいる。知り合いだけが使う道場だが皆で玄関に塩を撒き、道場に神棚を祭った。
 広い部屋だ。板の間に正座をすれば気分は稽古へと向かう。まず隆佐衛門と小太郎が相対した。篭手こても面も胴も着けない稽古。木刀のぶつかり合う音が道場に響いた。二人の稽古が終った。
 隼人は、普段と異なり厳しい顔をしている。絹が不思議なものを見るような顔付きで隆佐衛門に言った。
「隼人様はどうしたのですか。あのような隼人様を見るのは初めてです。お園さんの影響なのでしょうか」
「絹、隼人は、あー見えて、求めるものに対しては真剣になる。あやつの刀は実に無駄のない素晴らしいものだ。常に的確に状況を掴み、状況に応じて変化する。浮ついている所もあったが、園と知り合い、無理に自分を殺し笑顔を作らなくとも良くなったのではないか」

 二人が話してると隼人は刀を持って中央に進んだ。まず刀を腰に持ち神棚の前に両膝を付き座った。静かに頭を下げた。刀を腰に差し立ち上がった。刀を抜いた。まず上段の構え、続いて中段に持って行き正眼の構え、さらに下段の構えに。そして右脇の構え、左脇の構えを見せた。五方ごほうの構えだ。この構えを基本に刀を振り出した。突き、袈裟懸け、横払い、右上への切り上げ、左上への切上げ、足払い……。左右の足は常に前後、左右に軽やかに動く。まるで舞うように身をこなす。正眼の構えで動きは止まった。しかし、これで終わりではなかった。刀を右手で持ち、静かに脇差を左手で抜いた。両手に刀を持ち動き出した。右手は、先程と同じように上段、正眼、下段、右脇、左脇の構えと移っていった。その構え方、

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それぞれに応じて左手の脇差が刀を助けるように上下左右に動く。相手が何処から切り込んできても、二本の刀が体を守るであろう事が理解できる。一度、相手が隙を見せれば、その状況に応じ、左右どちらかの刀が相手を倒すであろう。静かに動きが止まった。隼人は、刀を下げたまま静かに神棚に頭を下げた。

 絹は、隼人がこれほどに物事を極めようと、真摯な姿勢を持つ男だとは気付かなかった。
 ――私も、まだまだね。これからだわ。

「いやー、お恥ずかしいものをお見せした。しかし、じっとしていられなかった」
 小太郎は剣道の奥深さを感じていた。両手を膝に置き背筋を伸ばして座っている。隼人が皆の傍に座った。小太郎は身動きが出来なかった。
「隼人、一人で修練したのか」
「うーん、教えてくれる者がおらんかった。自分で求める以外になかったのじゃ」
「あれだけの動きであったのに息が上がらんな」
二天一流にてんいちりゅうは、こだわりを捨てた自由なものじゃ。厳しい修行をせねばならぬが、いざと言う時には逆に無理を求めない。無理は所詮無理。るがままの自分で接する事が最善の道と言っている。また、その場で自らが持てるものを総て使い、相手に対した方が理に適うとも言っている」
「二本使うのも、その考えから来ていると言うわけか」
「そうじゃ。一本で事が済めば、それで良い。しかし、一本では足りないと思った時には、折角、もう一本持っているのだから使わない法はないとの考えじゃな。持てる物を総て使わずに負けてしまっては、後味が悪いだろうとも言っている」
 源衛門は、二人のやり取りを聞いていた。腕組みをしたままだ。

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「隼人様、しかし、刀は重いものです。片手で扱うのは大変な事だと思います。どのような鍛錬をしたのですか」
「小太郎さん、そのように考えるかも知れんが、実はそれほど大した事ではない」
「簡単な事なのですか」
「まあ、簡単と言えるかも知れん。普段から片手で刀を振り回しておれば良いのだからな。小太郎さん、人間の体とは面白いもので、常に同じようにしていると、体は、そのようなものなのかと思ってしまうのです。慣れと言う奴です」
 小太郎は、半信半疑であった。絹が言った。
「では、女子でも同じように出来るのでしょうか」
「はっきりとは言えんが、求めるものがあれば、同じように出来るのではないかと思いますが」
 隆佐衛門は、源衛門に訊いた。
「おぬしは、どう思う」
 源衛門が目を開き、話しだした。
「男、女に関わらず、また、刀に限らず何かを求めるには、まず、おのれを知ることが肝要。その上で自分に適した方法を見出せば良い。簡単には見つからんと思うが……。先ほど隼人さんは、無理は所詮無理と申した。その通りだと思う。闇雲(やみくも)に無理に求めても、無理は所詮無理。果たせるものではない」
「では、自分に適した方法が見出せない時にはどうすれば良いのですか」
 絹は、強い口調で言った。
「ワッハッハー。お絹さん……」
 源衛門は、珍しくも声を上げて笑った。
「どのように遣っても見出せなかったとしよう。その者に残された道は、一つしかない」
「どのような道なのですか」
 源衛門は、満面に優しさを込めて言った。

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あきらめるのじゃ」
 絹は、ムッとした表情を見せた。大きく口を開け、何かを言おうとした。しかし、静かな表情に戻り、源衛門を見つめた。
「源衛門さん、何だか肩の力が抜けました。ほほほ、目の前が明るくなったようです」
 源衛門の一言で、絹の表情が柔らかくなった。
「源衛門さん、お手合わせ願えませんか」
 小太郎が声を掛けた。源衛門は複雑な顔付きになった。どうするか決めかねているのだ。誰の目にも、そのように映った。躊躇している。絹が笑いながら言った。 
「源衛門さん、ご自分が決めたからと言って……無理に我慢するのは…… 無理は所詮無理」
「ワッハッハー。絹殿に一本とられました。小太郎さん良いですよ」
 源衛門は木刀を持ち、前に進んだ。二人は会釈し対峙した。

 二人は正眼に構えた。隆佐衛門は、あれっと思った。源衛門は正眼に構えている。しかも、その構えには隙がない。まず、小太郎が打ち込んだ。
「エイッ! エイッ! エイッ!」
 源衛門は軽々と受ける。その度に木刀のぶつかり合う音が響く。次は源衛門の番だ。痩せた体でありながら、打ち下ろされる木刀は強い。この打ち込みを三度ほど繰り返した。
 次に、二人は正眼にて静かに向かい合った。小太郎が足を進めると源衛門は下がる。源衛門が進むと小太郎が下がる。足捌きは見事なものだ。源衛門が、ちらっと隙を見せた。その一瞬を逃さず小太郎は気合もろとも上段より打ち込もうとした…… が、体をぴたりと止めた。その時、源衛門の木刀の先は小太郎の喉元にあった。一本である。鋭い突きであった。
 二人は会釈した。小太郎は、二本目をと言った。源衛門が微笑ん

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だようだ。二人は向かい合い会釈をした。そして、同時に声を出した。
「いざっ!」
 小太郎は上段に構えた。源衛門は木刀をダラーっと下げた。源衛門の体から力が抜けていく。あの構えだ。小太郎は驚いた。隙だらけである。道場には小太郎の掛け声だけが響く。しかし、源衛門は総てが抜けきった木偶のように、ただフラーッと立っているだけだ。段々と小太郎の掛け声が弱くなっていった。身動きが出来ないでいる。

 どのくらいの時間が経ったであろうか、小太郎の額からは汗が流れ落ち、上段に構えた両腕が震えている。小太郎は静かに木刀を下げた。
「参りました」
 その時、隆佐衛門の大声が響いた。
「何を遣っているのだ、この馬鹿者がーッ! 参りましたとはどういう事だッ! 木刀だと思うなっ! 常に真剣だと思え。ただ、参りましたと言って殺されるのを待つつもりか。この大馬鹿者が。それでも侍かっ! しかも、高藤殿と刀を合わせる機会など滅多にない。小太郎っ!」
 源衛門は、全く同じ姿勢でいる。小太郎の声が響いた。
「はいッ!」
 小太郎は、正眼に構え掛け声を掛けた。
「ウ、リャーッ!」
 状況は変わらない。源衛門は相変わらず隙だらけで、ふらーっと立っている。小太郎の必死な表情は、見ている者にも伝わる。絹などは着物の袖を噛んでいる。隼人は、ただ、じーっと見ている。小太郎は、前に後ろにと、さらには右に左へと体を動かし、打ち込む機会を狙っている。しかし、所詮、無駄な事であった。何しろ源衛門は、隙だらけ。打ち込めば良いのだが、出来ない。 

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 隼人の言葉が頭に浮かんだ。持てるものを総て使う。父は、真剣と思えといった。小太郎にとり、これはすでに稽古ではなくなっていた。
 小太郎は、懐紙を取り出し、源衛門に放った。ほんの微かだが源衛門の体が動いた。小太郎は、素早い動きで木刀を上段に持っていき振り下ろした。その途端、源衛門の体が、ふっと沈んだ。左膝を床に着け、左下より木刀を右上に振り上げた。木刀は、小太郎の腹に触り、止まった。
「一本ッ!」
 隆佐衛門の声だ。手合わせは終わった。二人は会釈した。

 道場の真ん中に車座が出来た。源衛門が言った。 
「やはり剣術は良い」
 息の上がった小太郎が聞いた。
「源衛門さん、私には判りません。隙だらけの構え。どう言うことなのですか」
「小太郎さん、私は小さい頃身寄りをなくした。それに……理由は聞かんで欲しいが、国を出ざるを得なかった。その時、何もかも失った。左目も失った。ただ一つ残ったのが刀だった。刀に頼り、生きる以外になかった。しかし、右目だけで刀を使うのは容易な事ではない。隙をつくってはいけないと思った。稽古をした。強くなっていったよ。
 ある日、互角の力を持つ者と稽古をした。なかなか勝負が付かなかった。そのうちに、右目だけで戦っている事を気付かれてしまった。負けた。拙者は、相手に片方の目が利かない事を悟られる前に決着を付けなければならないと悟った。そして、どうすれば良いのか考えた。気が付いたのじゃ。人間は斬り込む時には、その動きにのみに集中し、他の動きをとる自由が利かなくなるという事にな。その瞬間、隙が出来る。では相手が拙者より先に刀を振るように仕向けるには、どうすれば良いのか考えた。簡単じゃった。こちらが

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隙だらけになれば良いのじゃ。しかし、瞬時に刀をあやつれない場合は、そのまま斬られる事になる。鍛錬を重ねた。寝食も体を洗うことも忘れ修行した。しかし、どうしても納得の行く剣法を見出せないでいた。
 先ほどの話ではないが諦めようかとも思った。拙者は、疲れ切っていたのだろう、体に力を入れる事も出来なくなっていた。ただ、刀を右手に持ち呆然としていた。体が匂ったのだろうか蝿が何匹も飛んできた。小太郎さん、拙者、その蝿を一瞬の動きで斬る事が出来た。その時、自分なりの道を見出せた」
 皆、黙って聞いていた。絹が口を開いた。
「源衛門さん、諦めるとは、生きる術を失う……」
「そうだ。生きる術を失う事になる。いっそ、人に斬られた方がとも思った事もある。昔のことだ。ところが三年ほど前であろうか、人を斬る虚しさが募ってきた。刀を、生きる術を捨てようと思った。良い相手を見つけた。そして、その者と対峙した。相打ちじゃった。その時、拙者は刀を返した。斬られる覚悟だったからの。ところが、何と相手も瞬時に刀を返した。両者とも峰打ちじゃった。刀を返すのは、余程腕の立つ者でなければ出来ない。
 絹さん、峰打ちをくらうと痛い。猛烈に痛い。気を失ったよ。相手も同じだった。その相手が隆佐衛門殿だった」
「へー、隆佐様って、結構、凄いんですね」
 絹が素っ頓狂な声を上げた。 
「これっ! 何を今更感心しておる」
 笑いの渦が起こった。

 道場からの帰り道、隆佐衛門は、ふと町人の話を小耳に挟んだ。
「なんでも高藤とか言う侍らしい」
「ほー、それで捜し当てたのか」
「いや、まだらしい」
 ――高藤……。源衛門の事であろうか。

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 隆佐衛門は絹と小太郎を先に行かせ、町人に近づいた。

「済まぬが、教えてくれ。今、高藤とか申しておったが、高藤がどうかしたのか」
「いえね、あだ討ちの相手を捜している姉弟がいるそうでして……」
「仇討ちか……。で、その姉弟は、今、どこに居るのじゃ」
「この先の旅籠に、助っ人三人ほどと居りますが……」
「そうか。いや済まなかったな」
 隆佐衛門は嫌な気分になった。源衛門は何人もの人を斬っているが、それなりの理由があったはず。しかし、残された身内はかたきと思う事もあるだろう。

 隆佐衛門は、旅籠に行き、亭主と話した。
「助っ人が三人と聞いたが……」
「えー、何でも二人の話を聞き助けたいと申し出たとか……」
「ほー、それは殊勝な事だな」
「はい。ただ……」
「ただ? 何だ。どういう事だ」
「えー、どうも、殊勝な方々とは思えないところもありまして」
「亭主っ、おぬしの言う事、良く理解できんが」
「へー、何と言うか余り素行の良くない方々にも見えまして……」
 隆佐衛門は、仇討ちの助っ人とは血縁関係の者や義理を受けた者が義を感じ手伝うものと思っている。どうも雰囲気が違うようだ。源衛門の事も気になった。本人は、仇を受けている事を知っているのだろか。いや、仇を受けるような事をしたのだろうか。

 正規の仇討ちには許可がいる。しかるべき理由を藩主に届け、許しを受けなければならない。父や兄といった尊属が、卑劣な手段で殺されたのであれば認められるが、果し合いなどの場合は認められない。藩は幕府に届け、町奉行が記録する。町奉行は仇討ちをする

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者に許可する旨を記した書状を渡す。仇を見つけた場合、その藩に書状と共に申し出なければ仇討ちは出来ない。此処は江戸だ。届け出る先は町奉行になる。
 隆佐衛門は、仇を狙う者と狙われる者の存在を知ってしまった。心情的には源衛門に心を寄せている。しかし、源衛門の総てを知っている訳ではない。源衛門は仇を受けるような事を遣ったのだろうか。そんな事はないと思いたい。しかし、確信は持てなかった。

 小太郎を部屋に呼んだ。
「小太郎、江戸に来て二十日ばかりが経った。どうじゃ、江戸は」
「はい。江戸はと問われますと返事に困ります。父上の所に来てと問われれば、即、お返事する事ができます」
「そうか。では、拙者の所に来てどう思うかと問い直そう」
「まだ、国に帰る気はいたしません。まだまだ()る事は多いと思っております。ところで父上、何故そのような事をお尋ねになるのか判りかねますが」
「いや、ちょっと面倒な事態になりそうなのじゃ。おぬしに時間を割けない事にも成りかねんのだ。気になるのは義父とそちの母親。余り滞在が長くなると心配するのではないかと気に病んでおる」
「確かに母の事は気になりまする。しかし、祖父はどのように長く滞在しようが理解してくれるものと思います。父上、面倒な事態とは……」
「おぬしには関わりのない事じゃ。気にせんでも良い」
 隆佐衛門は、仇討ちに小太郎を巻き込みたくなかった。

 隆佐衛門は、隼人を訪ねた。
「隼人、仇討ちには藩の許しが要るはずだが」
「そうだ。何故そのような事を聞く」
「うーん、訳は聞くな。ところで最近、どこかの藩から奉行所に仇

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討ちの届けが出たか聞いてはおらぬか」
「出ておらん。届けが出ても町奉行が仇討ちを許すとの書状を出さねば仇討ちは出来ん。それに江戸で仇を見つけたのであれば、その旨申し出なければ駄目だ」
「やはりそうか。では、正規の仇討ちではないのかの……」
「おぬし、何を言っておる。隠し立ては拙いぞ。話してみろ」
「隼人、今少し待ってくれ。いずれ話す」

 隆佐衛門は解せなかった。熊吉に手伝いをとも思ったが隼人にも事情を話していない以上、頼む訳には行かない。絹しかいなかった。絹を部屋に呼び、話した。
「絹、そう言う事なのだが、手伝ってはくれぬか」
「はい。逗留客(とうりゅうきゃく)としてその旅籠に泊まってみます」

 絹は旅装束(たびしょうぞく)になり旅籠に行った。地味な格好をすると幾つか歳が増したように見える。旅籠には二、三日の逗留と伝えた。絹の部屋には巡礼姿の老夫婦、行商人が三人いた。姉弟と浪人たちは居なかった。それとなく調べると一つ離れた部屋のようだった。その部屋の前の廊下に座り、手摺に腕を置いた。外を眺める風情だ。姉弟は居ないようだ。小声で話す浪人たちの声が聞こえてきた。
「今の所、上手く行っているな」
「これで良いのじゃ。あの餓鬼どもは、結構持っているようだ」
「話が広まる前に頂戴した方が良いと思うがな」
「判っておる。だが肌身離さずじゃ」
「高藤とか申す者を郊外で見つけた事にすれば良い。二人を連れ出して()ってしまった方が早いと思うが」
 絹は事情を掴んだが、肝心の姉弟が判らない。それに余り長く此処に座っている訳にもいかない。部屋に戻った。
 姉弟は、誰かれ構わず高藤と言う侍を知らないかと訊き歩いていた。

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「姉上、本当に高藤と言う侍は江戸に居るのでしょうか」
「何を弱気な事を言うのですか。親類の伯父たちが言うのです。間違いありません」
「しかし、何故、父の仇を討たなければならないのですか。父は我々を捨てたのではないですか」
「貴方は、まだ小さかったから詳しく判からないのです」
「母から聞いています。それに母は、姉上と私を育てるために昼夜を問わず働きました。父が死んだとの知らせを聞き、病に倒れ逝ってしまいました。働き過ぎたのです。総て父のせいです。そのような父の仇など討っても意味がありません」
「数馬っ! いい加減にしなさい。仇を討たなければ国には戻れません。私たちは親類を頼りにしなければ生きていけないではありませんか。貴方は、どうやって生きていくつもりですか」
 数馬は黙ってしまった。生きていく術などない。

 この日も空しく旅籠に戻った。三人の侍は部屋には居なかった。また、酒でも呑みに行ったのであろう。いざと言う時には助っ人すると言ってくれた。二人は刀など振り回した事はない。三人に頼る以外にない。数馬は、先ほどと同じ事を姉の喜和に言った。絹に二人の話が届いた。

 常吉も、街で仇討ちの話を聞いた。
 ――源さんの事だ。どうしよう。
 常吉は、隆佐衛門を訪ねた。ちょうど絹も戻ったところだった。
「どうやら隼人に伝えた方が良いようじゃな。明日、話しに行く。この仇討ち、ちと筋が通らん。常吉、まだ源衛門には言うな。良いな」
「へー、判りました」
「拙者、二人の事が気になる。今から旅籠に行ってみる」

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 隆佐衛門が松浦を出ようとすると、店先で小太郎にばったりと出くわした。
「父上、お出掛けですか」
「おう、小太郎。ちょっと出掛けてくる。おぬし何処に行っていたのじゃ」
「はい。権佐さんの所です」
「そうか……」
 小太郎は、隆佐衛門の強張(こわば)った顔を見た。
「父上、同道いたします」
「いかん。拙者一人で行く。おぬしは部屋で書道でもしておれ」
「父上。書道でもとは解せぬお言葉。剣道も、剣道でもとお考えなのですか」
「小太郎、拙者急いでおる。とにかく同道はまかりならん」
「いえ、同道いたします」
 隆佐衛門は、初めて小太郎の強情(ごうじょう)を知った。

 旅籠に向かう途中、隆佐衛門は先ほどの事を詫びた。次いで仇討ちの件を話した。
「良いな、事によっては二人を松浦に連れてくる。明日、隼人の所で詳しい話を聞く。どうも裏がありそうだ」

 旅籠の亭主は隆佐衛門を覚えていた。部屋に行ったが、三人の侍は、まだ戻っていないようだ。突然部屋に入ってきた隆佐衛門に二人は驚いた。隆佐衛門は仇討ちについて丁寧に話した。聞いた二人は顔を見合わせ戸惑っていた。三人の侍の魂胆も話した。今度は、手を取り合いガタガタと震えだした。
「姉上っ!」
「数馬っ!」
 二人は涙を流している。
「伯父たちは何故? あの三人は金のため…… お武家様、ありが

(34)






とうございました。私は、喜和と申します。こちらは数馬……」
「さっ、拙者の家に行こう。明日、奉行所に連れて行く。おぬしらには何の(とが)もない」
 打ちひしがれた二人は身支度をして隆佐衛門の後ろに続いた。
「亭主、世話になったな」
「いえいえ、私もおかしいなと思っていた所で……。仲の良い姉弟です。宜しくお願いいたします」

 旅籠を出たところで、声を掛けられた。
「おぬしら何を遣っておる。この二人は我らが預かる者たち。何処に連れて行こうと言うのだ」
 口調は静かだが、充分脅しの利いた言い様だ。
「済まぬが、拙者が身元を引き受ける事になった。今後、手出しは無用」
「何を小癪(こしゃく)な事を申しておる。今まで拙者らが世話をしてきた。余計な事をするものではない」
 他の二人は既に刀に手を掛けている。姉弟は、ぶるぶると震えているだけである。隆佐衛門は話だけでは済みそうもないと思った。

「小太郎、この二人を家に連れて行け」
 小太郎が二人を促し、歩き出そうとした途端、連中が行くてを(さえぎ)った。
「若いの、怪我をしたくなければ余計な事はせぬ方が良いぞ」
 言うなり、真っ青になりおどおどしている姉弟の腕を引いた。隆佐衛門が一人の肩を掴んだ。
「おぬしらこそ、いい加減に諦めた方が良い。さっ、小太郎!」
 既に三人は腰を落とし、構えている。隆佐衛門は、この場で(かた)を付ける以外にないと思った。
「小太郎、この二人を頼んだぞ」
 隆佐衛門は、三人と向かい合った。小太郎は、姉弟を背にして立

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った。隆佐衛門は、ささっと通りの真ん中に進んだ。三人も同じように動いた。一人が刀を抜いた。隆佐衛門は、じっと立っている。その時、もう一人が小太郎の方に小走りに近寄った。
「小太郎っ! 気を付けろっ!」
 その隙を突き、男が斬り掛かった。隆佐衛門は、さっと刀を()けた。小太郎を見ると刀を抜いた男と向かい合っている。小太郎は、刀を抜いていない。

 隆佐衛門は心配であった。小太郎は、まだ真剣での勝負は経験していないはず。
 もう一人も刀を抜き隆佐衛門に向かった。二人を相手にするだけでなく、小太郎にも気を回さなければならない。自然、体の動きは鈍くなる。対峙する二人は、そこに付け込む気である。交互に斬り掛けてくる。受け流す余裕はない。刃と刃がもろにぶつかり合う。ギッ! ギッ! と(きし)んだ音がする。これが良かった。夜雪は強い。二人の刀は刃毀(はこぼ)れが酷い。
 小太郎は逃げ回っている。隆佐衛門は思った。
 ――あいつは利口だ。拙者が終わるのを、あーして待っている。
 隆佐衛門は、一人の刀を思いっきり力を込めて打った。ガキッ! と鈍い音を立てて刀が折れた。男は、刀を捨てて脇差を抜こうとした。しかし、夜雪が男の体を右腰から左の肩まで斬り裂いた。
 小太郎を見た。刀を抜き対峙している。二度三度と刀を交えている。隆佐衛門は焦っていた。早くこの男を倒さねばならない。しかし、なかなかの遣い手だった。刃毀れの激しい刀を上手く使っている。既に刃は(のこぎり)のようになっている。男は斬るのではなく、鋭い突きを繰り返しだした。男が鋭い足捌(あしさば)きで突きを入れてきた。隆佐衛門は、さっと身を屈め、男の足を払った。男は叫び声を上げ、ストンと落ちた。隆佐衛門は(とど)めを刺した。
 すぐに小太郎を見た。あっ! 何と小太郎の刀が根元からポキッと折れた。相手がニヤッと笑った。小太郎も武士。余程の事がない

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限り助太刀は出来ない。隆佐衛門は、夜雪を渡すつもりで小太郎に走りよろうとした。
 しかし不用だった。男は上段より小太郎目掛けて斬り下げようとしたが、既に小太郎は男の懐に飛び込んでいた。男は、仰け反って倒れた。小太郎の手には脇差が握られていた。
 小太郎は、脇差を戻したが、そのまましゃがみ込んでしまった。隆佐衛門が近づくと小太郎は戻していた。
「大丈夫か」
「父上、何のこれしき」
 と言った途端、気絶した。

 姉弟が傍に来たが、まだ震えは止まっていない。膝は硬直しているようである。隆佐衛門は二人を座らせた。そして小太郎に活を入れた。
「良く遣った。小太郎、褒めてつかわす」
「父上、小太郎は気を失ったのですか。遣られると思いました。怖かった……」
 小太郎は下を向き、息を整えている。
「父上、お願いがございます」
「何じゃ、言ってみろ」
「気を失った事は、誰にも……」
 隆佐衛門は、大声で笑い出した。
「そうか、誰にも言ってはならぬか。判った。しかし、絹にだけは言っても良いか」
「父上、最も言って欲しくない相手は、姉上でございます」
 また、隆佐衛門は大声で笑った。

「あのー」
 喜和が口を開いた。
「私の思慮が浅かったばかりにご迷惑をお掛けしました。どのよう

(37)






にお礼をすれば良いのでしょうか」
 姉弟は、深々と頭を下げた。
「ま、とにかく拙者の家に行こう」
 旅籠の亭主に後を任せ、四人は松浦に向かった。

 返り血を浴びたままの二人を見た登世は気絶しそうになった。絹は、じっと四人を見ている。
「済まぬが話は後じゃ。まず、風呂に入りたい」

 隆佐衛門の部屋に皆が集まった。姉弟は、かしこまっている。隆佐衛門が事の成り行きを皆に話した。ただし、小太郎が気を失った事は話さなかった。

 話を聞き終わった登世、さっと席を立った。間もなく刀を持ってきた。
「小太郎さん、これをお使いなさい」
 見れば夜月である。隆佐衛門が驚いて言った。
「と、登世っ! これを小太郎に渡すのか。ちょっと勿体ないのではないか。それに父の形見だろうが」
「まー、何と言う了見の狭さ。ご自分は夜雪をお使いのくせに。私にとっては小太郎も隆様同様、大切な家族です。小太郎に使ってもらえれば夜月も喜びます」
 小太郎は感激の余り、夜月を抱きしめた。それを見た絹が言った。
「何ですか、男のくせに抱きしめたりして。あー、みっともない」
「姉上、拙者はこの刀を持つに相応(ふさわ)しい侍になるつもりです」

 喜和と数馬は疲れきっていた。二日後、隆佐衛門は小太郎と共に二人を連れて隼人の所に行った。隼人は、旅籠の亭主から事情を聞き、詳細を調べ終わっていた。

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「隆佐殿、この二人は可愛そうな身の上でござる。藩の江戸屋敷に聞いて見た。二人には辛い話だとは思うが聞いておいた方が良いだろう」

 二人の父親は藩を飛び出し浪々の身になったらしい。どうも(うつ)の気があったようだ。江戸での暮らしなどは、全く判らないが、どこぞの用心棒をやっていたらしい。斬ったのは確かに源衛門であったが、用心棒同士の斬り合いであり、仇討ちの対象にはならない。問題は母親が死んだ後であった。親類連中は、二人を養う気はなかった。言わば厄介者。追い払う方法を考えた。そこで仇討ちを考えた。伯父たちは仇討ちの手続きは知っていたが申し出ても許されるはずはない。なーに、二人に話せば信じるだろう。どうせ殺られるに決まっている。旅立たせる段階になり、さすがに気が引けたのか、たっぷりと路銀を渡した。まんまと二人を騙した事になる。

 この話を聞いた二人は肩を震わせ泣き出した。隆佐衛門も居たたまれない気持ちであった。小太郎は俯いたままでいた。
 隼人によれば、二人の親類連中は藩主より厳しい(とが)が下されるらしい。

 皆は、松浦に戻った。隆佐衛門は隼人から聞いた話を登世と絹に話したが、やはり二人は泣いた。
「姉上、私たちはこれからどうすれば良いのでしょうか」
 数馬の言葉を聞いた喜和は、突っ伏してしまった。背中を震わせて泣いている。

 そこに源衛門が駆け込んできた。隼人はお調べの都合上、源衛門にも事情を聞いていたのだった。
「隆佐衛門殿っ! その二人とは……」
 

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 源衛門は、突っ伏して泣いている二人を見た途端、ガタッと膝を付いた。源衛門も涙を流しているようだ。ポタポタと涙が膝元に落ちる。
「拙者が遣ってきた事は、こういう事だったのだ。刀を捨てるのが遅かった。済まぬ。済まぬ」
 二人に向かい、ただ、済まぬを繰り返している。
「源衛門、総て終わった事だ」
 源衛門は同じ姿勢でいる。隆佐衛門は強い口調で言った。
「源衛門っ! 終わった事をとやかく考えて何になる。問題は二人のこれからだっ! おぬし、何か考えはないのか。このままでは、おぬしを含めこの二人も駄目になる。何か考えろっ!」
 急に源衛門が顔を上げた。
「おぬしたちに訊きたい。拙者を、まだ恨んでおるのか」
 二人は、源衛門の問い掛けに戸惑ったようだ。二人は顔を見合わせている。弟の数馬が言った。
「貴方様を恨んだ事など一度もありません。しかし、親類から仇を討てと言われ、そうしなければならないと思ったのです」
「恨んでなどいません。生きていくためには親類に頼らざるを得ません。その親類が父の仇を討てと……」
 喜和は、また突っ伏して泣いた。
「喜和と数馬だったな。おぬしたち、侍を捨て武家を去る気はあるか」
 源衛門は優しい口調になっていた。
「自分は侍だと思った事はありません。ただ、野垂れ死には恥だと思っているだけです」
 源衛門は腕組みをしている。急に顔を上げた。
「木谷さん、私がこの二人の面倒をみさせてもらう。すぐ戻る」
 言うなり源衛門は部屋を飛び出ていった。侍は滅多に走らない。隆佐衛門は思った。源衛門は町人になりつつある。

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 小半時後、源衛門が常吉を連れ戻ってきた。二人を見た途端、常吉が言った。
「源さん。こちらも助かりますね」

 姉弟は蕎麦処夢屋に住む事になった。

 松浦の大広間に大勢が集まっている。喜和と数馬も居る。当然、松浦の連中は全員座っている。隼人、園、常吉、源衛門、権佐、そして、その手下。いや待て、お玉も居る。大広間は祭りのようにうるさい。
 お玉は権佐がいくら言っても小太郎の傍を離れない。小太郎は、お玉が寄り添っているので赤面のしっぱなしだ。ダクダクと汗をかいている。
 絹は小太郎め、私が知らない世界を知っていると気に喰わない表情。登世は、ただメソメソ泣いている。

 大広間には夢屋の屋台が(しつら)えてあり、横には木鉢、打ち板、蕎麦切り包丁が置いてある。酒もある。宴会だ。常吉が打ち源衛門が切る。蕎麦が出来ると、喜和と数馬が皆に配る。こっちは、まだかっ、もう一枚などと大声が飛ぶ。

 小太郎が帰郷する。隆佐衛門はニコニコと笑い、チビチビと酒を呑んでいる。

 ――たかが、息子一人が国に帰るだけじゃ。騒ぐ事もない。登世などはメソメソ泣きおって。拙者にもそのような情を見せて貰いたいものじゃ。何じゃ絹は、あの仏頂面。何とかせねば嫁の貰い手がなくなるではないか。絹夢日記だとっ! しゃらくさい。誰が読んであげるものか。隼人と園、困った二人だ。小太郎のために開いた宴じゃぞ。ぴったりと寄り添いおって。少しは周りを気にしろっ!

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源衛門め、あの時は泣いておったくせに、今は幸せそうな顔をしおって。気に喰わん。常吉も常吉だ。真面目一方では世の中を渡って行けん。少しは羽目を外せ。おーおー権佐め、何人も女がおろうに。お玉のことばかり気にしおって。そんなに気になるのであれば、別の女を小太郎に合わせれば良かったものを。未練がましい男だ。いや待て問題は我が息子。お玉に寄り添われてオドオドしておる。あー情けない息子じゃ。息子……

 急に隆佐衛門は、下を向いた。小太郎が気が付いた。
「父上っ! 今日は楽しい日ですなっ! 拙者、江戸が好きになってしまいました。ところで今度は何日、お会いできるのでしょうか」
 余りにも明るく元気な小太郎の言い様。隆佐衛門は切れてしまった。
「馬鹿者っ! 父親の気も知らず、何を能天気な事を申しておる。当分、拙者とは会えんのだぞっ! 少しは、悲しそうな顔をしてみろ。この薄情者がっ!」
 急に場が静かになった。隆佐衛門は、しまったと思ったが後の祭り。取り返しが付かない雰囲気になってしまった。困った。笑い声の中で帰郷させたかった。拙者は何を詰まらない事を……。

 その時立ち上がったのは源衛門であった。何とあの男が舞い始めた。何の舞だか判る者はいない。しかし、時には緩やかに、時には激しく、また、時には滑稽に、時には寂しげに……。一同は、見入っていた。目が回ったのであろうか、急に源衛門がぶっ倒れた。皆が顔を覗きこむ。源衛門が呟いた。
「拙者に娘と息子が出来た」

 小太郎が松浦を去る日が来た。隆佐衛門は部屋で小太郎と二人でいた。

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「父上」
「おう、短かったな」
「はい。しかし、小太郎にとっては、今まで生きてきた年月を遥かに超える日々でした」

 二人の沈黙が続いた。

「父上、小太郎は、明るい明日を感じております。何故に、こんなに明るく感じるのか、良く判りません」
「……」
「父上、祖父は常に言っていました。お前の父は立派な侍だと。私は、その言葉が理解できました」
「……」
「小太郎も言います。拙者の父は、立派な侍だと」






                           (了)




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