隆佐衛門詞譚りゅうざえもんしたん【八】











         」            九谷 六口









   
                
                        二00三年三月十八日 
                  







 木谷(きや)隆佐衛門(りゅうざえもん)影房(かげふさ)、困りきっている。登世は覚悟を決めた。絹は人事(ひとごと)だと思い無責任に喜んでいる。
 二日ほど前、北町奉行所奉行片岡新左エ門と呉服問屋千國屋が松浦(まつら)を訪れた。しかも手土産までぶらさげて。話は簡単であったが、聞いた隆佐衛門と登世はビックリ仰天してしまった。

 新左エ門は、隼人の嫁にするために園を養女としたが、今は園が可愛くて仕方がない。出来れば、いつまでも片岡に居て欲しいなどと考えている。若い二人は、早くあの新居で暮らしたいのだが、新左エ門は、なかなか婚礼の日取りを決めようとしない。業を煮やした隼人と園は千國屋を動かした。
「片岡様、実の親である私も早く婚礼をと思っておりますのに、何故、日取りをお決めにならないのでしょうか。これで は話が違います」
 新左エ門が面倒くさそうに言った。
「千國屋、まだ修行が終わっておらん」
「これは異な事を。家事万端、さらには武家の奥方として身に付けるべき事は習得したと聞いておりますが。では、何に関する修行が足りないのでしょうか」
「そ、それは……。おぅ、そうじゃ、武家とは、いつ何時(なんどき)(いくさ)が起きたとしても、即、それに立ち向かわねばならぬものじゃ。武家の嫁も同じである。長刀、刀、懐刀を使いこなせなければならない。園は今少し稽古をした方が良い。このままでは、いざと言う時に可哀想ではないか。親として不憫じゃ」
「さすが片岡様、園に稽古を付けてくださっているとは知りませんでした」

(1)






 新左エ門、園に剣術を教えたことなど一度もない。
「ま、そういう事じゃ」
「では、片岡様が園と稽古をしているところをお見せいただけませんでしょうか」
「ま、その内にな」
 この話を傍で聞いていた新左エ門の妻、しばしお待ちくださいと部屋を出て行った。しばらくすると園を連れてきた。園は鉢巻に襷掛け。手には木刀を二本持っている。
「お父様、では、お稽古を」
 こうなっては新左エ門も後には引けない。渋々、庭に降りた。新左エ門の誤算は園が剣舞道(けんぶどう)を遣っていることを知らない事だった。向かい合ったが園には隙がない。はてっ、と思っていると園が木刀を綺麗に操りだした。これはいかんと正眼に構えたが、木刀の動きに幻惑される。その内に、やーっ! との掛け声と共に振り下ろされた園の木刀に、あっさり面を取られてしまった。そんな馬鹿な、と思ったものの一本取られたことには変わりない。
「片岡様、園の刀は問題ないようですが」
 この件により新左エ門は、二人の婚礼について口を挟めなくなってしまった。

「何っ、あの屋敷で式を挙げたいだとっ! 此処、拙者の屋敷で挙げるのが常識であろうが」
「貴方、二人がそのようにしたいと言うのですから、宜しいではありませんか」

「何っ、木谷隆佐衛門に媒酌人を頼むだとっ! 拙者は老中殿にお願いする積もりじゃ。上司に頼むのが常識であろうが」
「貴方、二人がめぐり合ったのは木谷様とのご縁のお陰。二人が木

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谷様と申しているのですから宜しいではありませんか」
 新左エ門も隆佐衛門を好ましく思っているし、捜査の面などでいろいろと手助けを貰っている。ま、良いか。
 
「と言う訳です。是非ともお引き受けいただきたい」
 新左エ門と千國屋が頭を下げて言った。聞いた隆佐衛門と登世は飛び上がっってしまった。少しの間をおいて顔を見つめあった。隆佐衛門は頭を巡らせ、断り文句を考えた。
「ご、ご両人、若き二人の門出の媒酌。誠に身に余る光栄。これからの奉行所を背負(しょ)って立つ木村殿、そしてその奥方。前途洋々たるお二人です。奉行所、いや幕府の要人の方々も列席される事でしょう。いやー目出度い限り。式の様子が目に浮かびまする。このような大事な婚礼の席で、お二人の両脇に座り媒酌をする。隆佐衛門にとり、あの世への良き土産が出来るというもの。お(ことわ)り申す」

 今度は新左エ門と千國屋が顔を見合わせた。何じゃ、べらべら喋りおって断るだと。こうなると人間は意地になるもの。新左エ門と千國屋、そうはさせじと言い寄る。
「では二人の婚礼を祝う気持ちになれんと言うのかっ!」
 興奮したのか筋違いなことを言う。
「木谷様は立派なお侍様と思っておりましたが、尻込みなさいますのかっ!」
「お二人とも冷静になっていただきたい。先程も申したように、実に大事な婚礼だと思っております。宜しいですか、拙者は一介の浪人でござる。拙者ごときが媒酌をするなど、お二人のこれからに泥を塗るようなもの。申し出は嬉しいが、拙者の身にもなっていただきたい」
 黙っていた登世が怖い顔で隆佐衛門に言った。

(3)






「まぁ、聞き捨てならぬお言葉。一介の浪人とか、拙者ごときとか……。では、そのようなお方を大切な夫とする私は、塵芥(ちりあくた)なのでしょうか。見損(みそこ)ないました」
 隆佐衛門が折角考えた断り文句だったが、思わぬ事態を引き起こしてしまった。これは拙い。
 新左エ門と千國屋は、シメシメとほくそ笑んでいる。女房の方が強いもの。後は登世殿に任せれば良い。
「委細は、後日打ち合わせるとして……。では、宜しく」
 と帰ってしまった。
 二人の前で啖呵を切ってしまったが登世も困っていた。初めてのことである。それに隆佐衛門が式の様子が目に見えると言ったことを思い出し、すでに緊張している。
「隆様、私、ちょっと言い過ぎたように思いますが……」
「ま、もう良い。だが、拙者、この浦舟に帆を上げて……などと(うた)った事はないが、謡わねばならぬのかのー」
 登世は隆佐衛門の話を聞いていない。どのような着物を着て行けば良いのかと、思いは別の方に向かっている。
「登世っ! どうすれば良いのかと訊いておるっ!」
「はーっ?」

 何とも風変わりな婚礼であった。主役は自分たち。とにかく大勢に祝ってもらいたいと、式次第など総ては隼人と園が決めた。
 屋敷中に紅白の天幕が張り巡らされ、道行く者にも紅白饅頭が配られた。屋敷は、それ程広くない。部屋の中には花婿、花嫁、媒酌人、列席者の席が用意してあるが、さらに庭にも縁台が置かれている。皆が座り、型通りに婚礼が始まった。まずは三々九度の杯。隆佐衛門と登世が二人に酌をした。間違えないようにと稽古は積んである。列席者にも酒が注がれた。皆が呑み干したのを見計らい、謡

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が始まった。謡うは松下柿右衛門。隆佐衛門は上手く逃れる事ができた。この浦舟に…… が、朗々と響き渡った。
「ご列席の方々、木村隼人、園のご両人は、ここに目出度く夫婦(めおと)となりました。木村家が末永く、千代に八千代に栄えますように。また列席の方々の益々のご繁栄を願い(たてまつ)り……」
 シャンシャンシャンと手が打たれ式は終わった。音頭を取ったのは、仲人の隆佐衛門。
 これからが大変であった。老中や各奉行、同僚などの侍に混じり松浦、夢屋、二本松の連中が入り乱れての宴会である。老中などは庭の縁台で今日は無礼講であると叫び、踊りだす始末。隼人と園は一人一人に宜しく宜しくと米つきバッタのように頭を下げ酌をして回る。二人とも満面、はち切れんばかりの笑顔。新左エ門と千國屋は部屋の中で二人でチビチビ遣っている。
 夢屋の蕎麦も出されたが、(またた)く間になくなった。
 真っ赤な顔の隆佐衛門に登世が言った。
「私たち、式を挙げていませんが……。登世は二人が羨ましい」
「えっ!」
「ほほほ、今更、式でもないですね」
 権田佐門は、絹の事を気にしているようだ。だが特に傍に行ったりすることはない。庭を静かな様子でゆっくりと歩いている。絹は別に佐門のことを気にしている様子はない。
 昼の八ツから始まった婚礼も、暮六ツ近くにお開きになった。

 皆が家路に付いた頃、春だと言うのに季節外れの雷。
 ゴロゴロッ、ピッシャーン! 続いて凄まじい夕立。

 新居で二人きりになった隼人と園。縁側で雨を見ている。
「園、雷様も我々を祝っているようだ。この雨のように激しく生き

(5)






ようぞ」
「はい、隼人様」
 仲睦まじい夫婦が出来上がった。

 徳川幕府は、各地に幕領を持ち代官所をおいた。代官所は勘定奉行が支配した。

 婚礼が済んだ数日後、隼人が隆佐衛門を訪ねた。
「隆佐殿、近頃、物乞いが増えたとは思わんか」
「いや、それ程とも思わんが。それよりも、どうじゃ仲良く遣っておるのか」
「そちらの方は全く問題ない。二人で暮らすとは良いものだ。この前もな……。隆佐殿っ、話を変えるものではない。実は相談があって参ったのだが、ちと言いづらくてな」
「何だ、隼人らしくもない。遠慮せず申してみよ」
「どうも…… 物乞いたちは葛城(かつらぎ)の百姓のようなのだ。田を捨て江戸に潜り込んでいるらしい」
「葛城と言えば、江戸の隣ではないか。代官は何をしている」
「それだ、その代官なのだが……。どうも、鎌田大善の良からぬ噂がな、飛び()っておる」
「良からぬ噂?」
「私腹を肥やしているらしいのだ。しかも農民たちから搾り取っているらしい」
「隼人、仮にそうであったとしても町奉行には関係ないはず。勘定奉行の仕事ではないか」
「代官所は関係ないが、物乞いについては町奉行所の役割でな」
「成る程、入り込んでおるな。で、相談とは……」
「実は、大膳は勘定奉行の身内に当たる者。勘定奉行も手を出しかねている。それにな、老中も他の者に調べさせたいようなのだ。勘定奉行の身内では手を抜きかねんと思ってな」

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「そうかも知れんな」
「まだある。町奉行は管轄外。我々が葛城に行く訳にもいかん。つまり役人は使えん事になる」
 隆佐衛門、段々嫌な気分になってきた。
「隼人、公儀が困っていることは判った。ところで拙者、出掛ける用事があってな。済まんが話しは、これで終わりとして欲しいが」
「そう言うな。拙者の話は、まだ終わっておらん」
 隆佐衛門は顔を(そむ)けている。隼人は急いで用件を言ってしまおうと思った。
「老中がな、隆佐殿に頼めと言っておる。拙者の婚礼の席でおぬしを見て、どうした訳か気に入ったらしい。それに今までの手助けも総てご存知なのだ」
「誰が、そのような余計な事を……」
「片岡様だ。隆佐殿、此度は調べるだけで良いのだ。何とかならんか」
「うーん」

 身分は侍とは言え、(ろく)()んでいる訳ではない。指示を受ける立場にもない。断ることは出来る。しかし隆佐衛門は身動きが出来なかった。断った場合、登世は何と言うだろうか。目を瞑り、何が頭に浮かぶか占って見た。悪い予感が当たった。怖い顔をした登世の顔が見えた。ブルブルッと頭を振ったが、怖い顔は消えない。
「隼人、致し方ない引き受けよう」
 隼人は、隆佐殿っ! と言ったまま感極まっている。
「ここに老中の書状、通行手形、路銀がある。書状には葛城のここ数年の年貢米などの数字がある。持ち歩くは危険。読み終わったのち破り捨てた方が良い。手形は神田明神が切った事になっている。身分は浪人じゃ」

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 隼人は、懐から次々とこれらを出した。どうやら引き受けて貰えるものと、はなから決めていたようだ。
「隆佐殿、この路銀、(たか)は知らぬが結構重い」
 隆佐衛門も持って見た。確かに重い。幕府が、どれほど今回の件に気を使っているかが判る。隆佐衛門は引き受けると言ってしまったが、事の重大さに身が引き締まった。

 隆佐衛門は登世と絹を部屋に呼び、詳しく事情を話したが話の途中で登世が言った。
「事情は、おおよそ判りましたが、隆様、お断りしたのですよね」
「えっ!」
「そのような危険なお仕事、何が起こるか判りません。この前の件ではご褒美を頂きましたが、別にご公儀から禄を頂いている訳でもありませんし、これ以上お手伝する義理はないと思いますが」
 隆佐衛門は面食らってしまった。言われてみれば、その通りである。腕を組み顔をしかめた。
「隆様、まさかお引き受けになったのではないでしょうね」
 隆佐衛門は、小さな声で言った。
「実は、引き受けた」
「まぁっ! では、今の話は相談ではなく、私たちへの報告になるのですか」
「そ、そう言うことになる」
「では仕方ありません。武士に二言はと申します」
 強い口調で話していた登世が、急に下を向いてしまった。小さな声でブツブツ言っている。
「隆様に、もしもの事があったら、私はどうしよう」
 登世の気持ちを判った上で、絹は明るい表情で言った。
「お父様、絹はお供します」
 それを聞いた登世が、また強い口調で話し出した。
「何を言うのですか絹まで。いけません。そのような危険な……。

(8)






母は許しません」
「絹は江戸しか知りません。お父様もお母様も他の国を知っています。お母様は長崎から江戸まで知っています。絹も知りたいです」
 しかし、絹の望みは叶えられなかった。

 出立まで数日になった。
 隆佐衛門は道場の連中、夢屋、二本松、それに紫雲斎に当分江戸を離れる旨伝えた。隆佐衛門はどれ程の間、江戸を離れるのか判っていない。調べが早く終われば良いが、長引いた場合は、どうなるのであろうか。なるべく親子で食事をするようにした。三人のささやかな夕餉。隆佐衛門は努めて明るく振舞ったが、登世は大人しかった。絹は頬を膨らませ不満顔。隆佐衛門は、それでも良いと思った。
 出立の前の夜、登世は無茶はしないで欲しいと何度も訴えた。隆佐衛門は調べに行くだけ、心配する事はないと登世に優しく言った。

 葛城は甲州道を三日ほどで着くことが出来る。隆佐衛門は、明け六ツに松浦を出ることにした。松浦の皆には昨晩挨拶をしている。店の前で、登世、嘉吉、茂助、そして松が見送った。絹は居ない。まだ膨れているのであろうか。

 しばしの別れと思うと江戸の町も風情豊かに見えるものだ。菅笠を右手に持ち、四谷大木戸に向かった。大木戸には、すでに多くの旅姿があった。江戸に入る時には汚れた着物に空腹を抱え、夜陰に紛れて入ったものだが、今は違う。隆佐衛門は足を止め、懐かしげに大木戸を眺めた。
 ふと視線を感じた。見れば道中杖を持ち、二つ折りの菅笠を深く

(9)






被った旅姿の女がこちらに近付いて来る。一人旅は心細いのであろう、同道を望んでいるのかも知れぬ。隆佐衛門、これは幸先(さいさき)が良いと女を見ていた。女は隆佐衛門の前で立ち止まり、菅笠を取った。

「絹っ! どうしたのだっ! それに何だ、その格好はっ!」
「お侍様、旅は道連れ世は情け…… ご同道いただけませんか」
「ば、馬鹿なことを言っている場合ではない。どういうつもりだ!」
「母上の許しをいただきました。ご一緒いたします」
「登世が許しただとっ! 今朝、そのような事は言っておらんかったぞ。さー、帰りなさい」
「本当の事でございます」
「あれだけ許さんと言っていたのだ。拙者は信じられん」
「あら、お母上は、すぐにお許しになりましたよ」
「すぐにっ? 絹、何と頼んだのだ。言ってみよっ!」
「お父様は見栄(みば)えも良いし優しいところがあります。お父様が、その気にならなくとも女子(おなご)が放っては置かないのでは。絹が一緒であれば、間違えは起きないと思いますと申しました」
「登世は何と言った」
「あら、そう言われて見れば、そうですね。一緒に行きなさい。どうせだから大木戸付近で驚かせたらどうですとおっしゃいました」
「登世も困ったものだ」
 とは言ったものの、たまには羽目を外しても、と思っていたことも事実。先程も幸先が……などと考えてしまった。拙者は、何処に居ても松浦を離れることは出来ないのか。隆佐衛門、ちょっと詰まらないと思った。
「だが…… 絹、手形はどうした」
「隼人様からいただきました。父が、そのように申していますと伝えましたら四半時も掛からずに」

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 と懐から手形を出した。
「隼人も隼人だ」
 しかし、考えて見れば今までの難事は、常に絹と共に解決してきている。自分一人ではなかった。それに、絹に江戸以外の土地を見せるのも良い事かも知れぬ。
「判った。絹、一緒に参ろうか」
「はい、お父様」
 二人で四谷大木戸を越えた。
 
 絹は初めて江戸を離れる。気を()めているのだろう、歩きが早い。街道筋には桜が咲き、並木も活き々きしている。だが絹は見向きもしない。国領(こくりょう)を過ぎ、布田五ヶ宿(ふだごかしゅく)に着いた。八ツ頃であろうか、日はまだ高い。絹は疲れているはずだ。だが隆佐衛門は府中宿(ふちゅうしゅく)まで足をのばすことにした。
 府中宿は江戸から十里ほど、武蔵の国の中心だ。本陣、脇本陣、問屋、旅籠、木賃宿、飯盛宿など宿場として栄えている。大きな神社もあり正月、縁日の賑わいは大したものだ。
 木賃宿とは、木賃、つまり薪代を払えば泊まれる安宿であり、旅人は、米、干飯(ほしいい)などを持ち込む。
 飯盛宿では飯盛女が夜も付きあう。夕食の時に、それなりの金を払うと夜中に部屋に来てくれる。もちろん遊郭も揃っている。
 街道を歩くと活気ある旅籠の呼びこみが凄い。隆佐衛門は、旅籠の中でも立派な玄関を構える一軒に泊まることにした。これからどのような事が起こるか判らない。今夜くらいは絹にのんびりとした宿をと思っている。玄関を入り、(かまち)に座ると宿の者が足を洗う。
「さーさー、こちらですよ」
 通されたのは二階にある次の間付きの上等な部屋。障子を開けると街道を見ることが出来る。街道沿いの旅籠には提灯が掛けられ、

(11)






人々が行き来する様が一望できる。絹も楽しそうに眺めている。

 番頭が宿帳を持ってきた。神田檜垣町木谷隆佐衛門、その娘絹。番頭は風呂が沸いていると言う。隆佐衛門は、男湯と女湯があるか聞いた。番頭は勿論でございますと自慢げに言う。
「絹、どうだ、一風呂浴びてくるか」
 二人は手拭い片手に風呂場に向かったが、宿賃が高いだけの事はある。風呂は檜造りであった。檜の心地良い香りが疲れを癒してくれる。他に人がいない事を幸いに、隆佐衛門、この浦舟に帆を上げて……と謡ってみた。風呂場での詠いは心地良い。
「お父様っ! みっともない真似は、お止めくださいっ!」
 絹の声が聞こえた。それと同時に女の笑い声。上を見ると天井部分には間仕切りがなかった。隣の女湯は混んでいるようだ。洗い桶が床に当たる音であろうか、コーン、カーンと湯殿に響き渡る。
 風呂からあがり、頬を赤く染め、浴衣に丹前姿が良く似合う絹。隆佐衛門は、松浦での絹とは違う絹を見た。
 ――そろそろ嫁入りかのー。

 夕餉も川魚や野菜の煮付け、香の物、焼いた乾き物、汁椀と贅を凝らしている。酒も付いたが、絹は、いえ私はと遠慮した。そう言えば、絹はまだ酒を呑んだ事はない。
 仲居が如何でしたかと顔を出した。二人は美味しかったと礼を言った。
「あら、こちらのお嬢様は、そろそろお蒲団ですね」
 見れば、絹はコックリ、コックリと舟を漕ぎだしている。そうであろう、十里近くを一気に歩いたのだ。仲居が次の間に絹を連れていった。さてと、拙者はどうするか。まだ寝るには早い。

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 隆佐衛門は外に出てみた。五ツ頃であろうか、まだ宿場は活き々きと動いている。相変わらず客引きも多い。だが先ほどと異なり、飯盛宿や女郎屋の客引きが多くなっている。いわゆる遣り手婆さんもいる。
「旦那さん、可愛い娘がいますよ。旅の一人寝は寂しいでしょう。さーさー」
 袖を引く。絹は寝ているし顔見知りもいない。隆佐衛門がニヤッとした途端、登世の顔が浮かんだ。登世は、すでに怒り心頭の顔付きである。
 
 翌朝は七ツ半には目を覚まし、干物と味噌汁の朝餉を取った。絹の顔付きは活き々きとしている。宿には握り飯を頼んである。番頭から竹の皮に包んだ弁当を受け取り出立した。
 葛城までは十二里ほど。ひたすら歩けば、今夕には着けるかも知れない。此度の仕事は、総て自分の裁量次第だが、何が待ち構えているか判らない。平穏なのは今日だけかも知れぬ。隆佐衛門は、のんびり行くことにした。
 絹は、旅を一日経験しただけで要領が判ったようだ。顔にも余裕がある。街道筋の草花や並木、遠くに見える山々や富士に目を遣り、風景を楽しんでいる。街道を()く旅人は急ぐ者、ゆっくりとした足の者、侍、商人(あきんど)、お遍路(へんろ)、荷馬車を引く者など見ていて飽きることがない。早足で通り過ぎるのは定飛脚(じょうびきゃく)であろうか、瞬く間に姿が見えなくなる。

 綺麗に区切られた田圃(たんぼ)には、薄紫色の蓮華草が広がっている。見れば小川も流れている。絹は、小川の側で昼餉を取りたいと言う。時間はある。隆佐衛門は、瑞々(みずみず)しい自然の中で休む事にした。
 宿で用意してもらった弁当は握り飯。沢庵が入っていた。二人

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は蓮華草の上で握り飯を頬張った。これほど旨い握り飯を喰った事はないと思った。絹も嬉しそうだ。
「お父様、このように二人でおにぎりを食べるのも楽しいものですね。沢庵てこんなに美味しいものだとは知りませんでした」
 隆佐衛門も幸せであった。春の柔らかい日差しが、心まで暖かくしてくれる。握り飯を終わると、隆佐衛門は蓮華草の中でごろんと横になった。絹は小川に足を入れたりして遊んでいる。
「わー、綺麗な魚っ! あっ! これは蛙の卵ね。透き通った丸い粒の中に黒い点がある」
 昨夜は絹も大人になった、嫁入りも……などと考えたが、このように遊ぶ姿を見ると、まだまだと思ってしまう。
「お父様っ! 髭を生やした変なのがいるっ!」
 隆佐衛門は起き上がり、絹の近くに行った。小川の中に黒い大きなものがいる。
「絹、これは鯰だ。かなり大きい」
「へー、これが鯰ですか」
「喰うと旨いぞ。捕まえて宿で喰うか」
「駄目です。これは鯰の親分です。子分の鯰が困ります」
 絹は指でツンと鯰の頭を突いたが、鯰はビクリともしない。確かにここまで大きくなると威厳すら感じる。
「さっ、お父様。道中を続けましょう」
 絹は、綺麗な花を見付ければ傍に行き、じっと見る。野兎が飛び出せば追いかける。隆佐衛門は、別に何も言わずに好きなようにさせていた。既に時刻は七ツ。そろそろ宿を考えなければならない。

 葛城から三里ほど手前に小さな()びれた宿場があった。旅籠は一軒だけ。旅籠は、どんなに混んでいても人を泊める。断れば旅人は野宿になってしまう。旅籠には大部屋があり、その部屋に泊める

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が、ややもすれば雑魚寝(ざこね)状態になる。旅人は、それでも文句は言わない。野宿に比べれば天国である。運良く一部屋空いていた。狭い部屋だが雑魚寝よりは心地良い。宿の亭主が宿帳を持ってきた。隆佐衛門が筆を持った途端、ドタドタドタっと階段を駆け上がってくる者がある。失礼しますと障子を開けた。見ると宿の者らしい。
「旦那っ! 裏山で……」
 その男は亭主に耳打ちした。亭主は、エッと声を上げ隆佐衛門に振り向いた。
「お侍様、申し訳ございません。ちょっと難事が起きまして。宿帳は後程、取りに参りますので」
 と言い残し部屋を出て行った。夕食を終わった頃、亭主が戻って来た。
「先程は失礼いたしました。宿帳は……。では、ごゆっくりお休みくださいませ」
 亭主が出て行こうとする。隆佐衛門は呼び止めた。
「亭主、何が起こったのだ」
「へぇ、どうぞ先程の件はお忘れくださいませ。旅のお方の耳に入れられるような事ではございません」
「心遣いは嬉しいが、気になるではないか。構わん。聞かせてくれ」
「そうでございますか。実は親子の心中でして。困ったものです」
「そうか。確かに気持ちの良い話ではないな。親子と言うが……」
「へぇ、葛城の百姓です。私も顔見知りの一家です」
「葛城の百姓っ!」
 隆佐衛門と絹は顔を見合わせた。
「しかし亭主。葛城と言えば此処より三里ほどであろう。何故、この地で……」
「それが……どうも江戸へ逃げようとしたらしいのですが、子供が

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病気で江戸までは無理と思ったようです。あの子は病気の上に衰弱し切っていましたし……。しかし死ぬことはなかったのに……」
 亭主は俯きながら話した。
「葛城は幕領。何故に江戸に逃げようとしたのじゃ」
「幕領、天領と申しましても葛城は百姓にとっては地獄でございます」
「地獄っ! どういう事じゃ」
「お代官様が……」
とまで言ったが、亭主は急に口を(つぐ)んだ。隆佐衛門が何者かを知らない。余計な事を言ってはと思ったのであろう。
「拙者、別に葛城とは関係のない者。安心せよ。手間を取らせたな亭主」
 隆佐衛門は、これ以上聞くのは止めた。逆に、こちらが不審に思われかねない。どうやら思った以上に葛城の状況は悪いようだ。隆佐衛門は眠れぬ夜を過ごした。絹は隣ですやすやと寝息をたて眠っている。

 翌朝は曇りだった。葛城の方を見ると黒い雲が立ちこめていた。今までの道中は天気も良く楽しいものだった。だが、この朝は余り気持ちの良いものではなかった。隆佐衛門は、葛城に着いたら木賃宿を捜すつもりでいる。四ツ頃、葛城に差しかかった。幕領とは言え、別に関所がある訳ではない。だが、中間風の男が二人、街道の両脇に立っていた。入ってくる者ではなく出ていく者を見張っているのであろう。隆佐衛門は、昔勘定奉行の下で働いていた。田畑を見れば大体の石高を読む事は出来る。市中に入るまでの間、それとなく田畑を見ながら歩いたが土地は肥沃に見える。これであれば余程の旱魃(かんばつ)でもない限り、幕領五万石は維持できるはずだ。しかし農民は逃げ出す。やはり代官鎌田大善の施政が問題なのであろうか。

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 宿はすぐに見つかった。絹も木賃宿とは言え、小奇麗な旅籠とも見える二階家に、ほっとしているようだ。亭主は結構な歳のようだが中々愛想が良い。隆佐衛門は、娘がいるため小さくとも良いが一部屋借りたいと言った。それに米は持ってきていないが、飯を頼めるかと聞いた。亭主は、お代を頂ければ宜しいです。ただ私たちと一緒に食べていただきますが、それで良ければと言ってくれた。二階の端にある部屋に連れて行かれた。
 部屋は東側と南側に雨戸があり、風通しも良いようだ。天気が良ければ陽も差し込むはずだ。二人は荷を解いて落ち着く事にした。

「絹、あの亭主だが、拙者は信用できると見たが、どのように思う」
「はい。私もあの愛想は本物と思います。ただ何か悟り切ったというか……。いえ違います。どちらかと言えば諦めのようなものを感じましたが」
「そうか。しかし信用は出来そうだな」
「で、お父様は、これからどのようにと……」
「目立ってはいかんからな。仕事を捜す風采の上がらぬ浪人者として振舞うつもりだ」
「まぁ、お父様に風采の上がらぬお方の真似など、できるのでしょうか」
「これ、真面目な話だ。絹も、当分の間は顔も洗えんぞ。汚れた貧乏娘でなければならんからな」
「本当でございますか」
 絹は、すでに気持ち悪がっている。
「絹、葛城の農地は肥沃に見える。このような土地であれば農民は充分な収穫があるはず。多分、代官は阿漕(あこぎ)な年貢徴収を農民に課し

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ているのではと思う。まずは、どれ程の収穫が見込めるのか調べるつもりじゃ」
「絹は、どうすれば……」
「亭主に頼み、この木賃宿の手伝いをさせてもらう。宿賃を倹約したいとな。宿の者、泊り客の話を聞きこんでくれ。絹、この(あた)りがどのような所か判らん。一人では遠くには行かんようにな」
「はい、判りました」

 隆佐衛門は、さっそく階下に降り亭主に話した。亭主は、まぁまぁと言いながら、絹の好きな時間に手伝ってくれれば良いと快く受け入れてくれた。では、宿賃の二割を引きましょうとも言ってくれた。
 夕食の時間だ。亭主と宿の者が囲炉裏のある板の間に居た。隆佐衛門と絹もその中に加わった。亭主が二人を紹介した。
「木谷様、私は、この木津屋(きづや)の亭主で木造(きぞう)と申します」
 隆佐衛門は、木賃宿木津屋の木造か、覚えやすいなと笑いそうになった。
「これが息子の木平、こっちが女中のお冬とお稲です」
 三人が頭を下げた。食事は粗末なものだが、何か心暖まる雰囲気であり美味しかった。

 木造によれば葛城には旅籠が三軒あった。だが今は、一軒を残し他は木賃宿になったそうだ。どうも数年前より葛城全体の景気が悪くなり、それに伴い泊り客が減ったためらしい。料亭は二軒あったが一軒は潰れ、残った一軒は代官所のお抱え料亭と噂されているとのことだ。
「木谷様、絹さんはお綺麗です。お怒りにならないでくださいよ。どう見てもご浪人の娘さんとは見えません。それに木谷様自身も

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浪々の身とは思えませんが……」
 木造は結構ハッキリとものを言う。
「いやー、木造。人間、見掛けも大事じゃが問題は(ふところ)だ。金があればなー」
 と隆佐衛門は言ったが、はたして今の拙者は金がある方なのかどうか良く判らない。隆佐衛門は、腹蔵(ふくぞう)なく話しをする木造を好ましく思っている。はたして協力を頼んでも良いのだろうか。
 部屋に戻り絹に、もう一度聞いてみた。
「木造には話しても良いように思うが」
「はい、絹もそう思います」

 翌日、絹はお冬、お稲と部屋の掃除をしている。木平は薪を捜しに行っている。泊り客は皆出立したあとだ。隆佐衛門は木造の部屋に行った。
「ちょっと良いかな」
「木谷様、構いませんよ。どうぞ」
「おぬし、拙者を浪人には見えんと言ったが……」
「おやおや、お気にされたようですね。ご身分は浪人かも知れませんが、浪々の身には見えません。木谷様、長く宿屋商売をやっていますと、何となくお客様の事が判ってしまうものです」
「なるほど。では拙者をどのように見る」
「少なくとも葛城で仕事を捜すお方ではありませんね。何か別の目的でお泊りになっている。金はないと言われましたが、これも違います。人間は貧すれば鈍するものです。この木津屋にお泊りになっていますが、これは目立ちたくないため。しかしねぇ木谷様、これは逆ですよ。目立ちます」
「そうかのー。亭主、何かの目的と申したが……」
「これ以上は木谷様がお話になることでは……。そうそう木谷様は私の遠い縁者……。その方が良いと思います。そうですね、母方

(19)






の甥とでもしておきましょう。江戸で禄を()んでいたが、お家の事情で浪人になったと……。木谷様、無理にみすぼらしい真似をすることはありません」
 木造は勝手に決めている。隆佐衛門は話すことにした。
「そうか。おぬしの言う通りにしよう。ところで木造、拙者、この地でちょっと調べものがあってな」
「木谷様、世の中とは良く判らないところがあります。木賃宿を遣っている亭主が、若いころ侍であったり、幕府から管理だけを任じられた者が、好き勝手に振舞ったり……。ヒャッハッハー!」
 何とも(すさ)まじい笑い声。隆佐衛門、顔をしかめてしまった。
「いや失礼。息子から人前で笑うなと言われておりますのに……」
 見れば、前歯二本は健在ながら、奥歯との間の歯がない。笑うと息が漏れるようだ。
「木谷様、歳は取りたくないものです」
 木造、何とも情けない顔をする。隆佐衛門は木造の人柄を知った。
「木造、いずれ手伝ってもらうかも知れん。その時は頼む」
「へぇ、へぇ、()ーございますよ。このまま静かにあの世にとも思っておりましたが、どのようなご縁か、木谷様がお出でになりました。何なりと申してください」
「うん。縁かのー」

 隆佐衛門は、この日、葛城を歩いてみることにした。着流しに夜雪を一本差すだけ。市中は、こぢんまりとまとまっている。万屋、乾物屋、呉服屋など生活に関わる店は揃っている。旅籠も立派なものだ。旅人の数から考えれば一軒で事足りるのかも知れぬ。葛城は小高い山に囲まれているが、その麓に料亭があった。黒塀に囲まれている。店の名前は瑞穂(みずほ)(さび)れた様子はない。前を通り過ぎようとすると、中から女中を連れた女が出てきた。女将であろうか、中年

(20)






増のこざっぱりとした良い女だ。隆佐衛門を見て軽く会釈をした。

 隆佐衛門は田畑を見てみようと思い、街の反対側まで歩いた。低い土地に出た。田畑の中央には川が流れている。水量も多い。水の心配はないようだ。畑には麦が緑の葉を立てている。田圃は蓮華などで覆われている。今は休ませる時期だ。畦道の両側には、ちょろちょろと灌漑用の小川が流れている。田圃に降りてみた。まさか土を見るために穿(ほじく)り返す訳にはいかない。誰かに見られれば不審に思われる。様にはならないとは思ったが、蓮華を摘む仕草で抜き取ってみた。菌根(きんこん)も多く土は真っ黒。思った通り肥沃な土だ。
「何してるだ、おらの田圃で」
 隆佐衛門は百姓が近付いたのに気付かなかった。茫洋と見えるが逞しい体つきの男だ。
「いや、蓮華を摘もうとしたが引っこ抜いてしまった。おぬしの田であったか。勝手に入り込んだが済まぬ」
「見掛けねぇお侍だな。袴、履いてねぇが、代官所に来た新任の役人か」
「いや違う。拙者、浪人だ。木津屋の遠縁の者でな。何も遣る事がない。閑でなー」
「蓮華など珍しくもねぇのにな。どっから来たんだ」
「江戸だ」
「江戸かー。江戸にいた方が面白れぇだろぅに、こんただ田舎に来てよー」
「わっ、はっはー。江戸に居辛いから来たのだ。おぬし新任の役人とか申しておったが」
「いやー、また一人江戸に戻されたと聞いたからよ。てっきり新任かと思っただ。そう言えば、前の時も新任は来てねぇな」
 この百姓、隆佐衛門の顔を繁々と眺めた。

(21)






「お侍さんは役人みてぇな顔してねぇな」
 隆佐衛門は、とぼけたような話し方をする男の目が、自分を抜かりなく見据えていることに気付いていた。
「拙者、木谷と申す。また会うかも知れんな」
「おらー、吾助だ。余りウロウロしねぇ方がいいだ。ここの役人は、すぐに代官所にしょっぴくからな。気ぃ付けな」
「そうか。いろいろ済まなかったな」
 隆佐衛門は、その場を去ったが、背中に吾助の強い視線を感じていた。

 隆佐衛門は、代官所の役人の人数も調べる必要があると思った。代官所には、代官を含め三十名ほどが赴任する。禄もそれに見合うように支給される。隆佐衛門は役人の内訳を思い浮かべた。
 代官一、元締二、手付・手代八、書役二、侍三、足軽・中間十四。これは幕府により決められている。吾助は、また役人が戻されたと言った。補充はされていないのか。と言う事は……。幕府は、その事を知らないことになる。隆佐衛門は幾重にも渡り不正が行われているように思った。これは事が大きくなる。

 絹は憂鬱であった。お冬とお稲は夜逃げや心中の話しばかりをする。前の宿での出来事を思い出した。総て農民の話しだ。余りにも聞くのが辛い。お冬が変なことを言った。
「代官所のお侍が、また一人減ったね」
「お冬さん駄目だよ、そういう事を言っちゃ。誰が聞いてるか判らないよ」
 二人して絹を見た。
「誰かにって……、聞かれると何かあるの」
「そりゃー、ねー」
 二人は口を噤んでしまった。絹は隆佐衛門にこの事を伝えた。

(22)






 数日が経った。隆佐衛門は葛城の田畑のほとんどを見ることが出来た。紙に残すことは出来ない。老中の書状に上納される米は六万石とあった。隆佐衛門が見積もった収穫高は、十二万石。この中から税を徴収する。仮に代官所の帳簿を見ることが出来たとしても六万石に見合う収穫高が記されているはず。これでは不正を暴いた事にはならない。
 隆佐衛門が、腕組みをしていると木造が上がってきた。
「木谷様、代官所から元締(もとじめ)が来られましたが」
「代官所っ」
「長く逗留しているようだが、一応、会っておきたいとのことでございます。私の甥っ子で江戸から来たと申してあります」
「そうか、判った」
 隆佐衛門は玄関に降りた。侍と足軽がいた。

「木谷だが、拙者に用事とは……」
「木谷殿か。代官所の井上と申す。貴殿に伺いたいが、何用でこの葛城に逗留されておるのかな」
 罪を犯したのであれば別だが、代官所の役人とは言え、身分を証明する手形などを要求することはできない。各関所を通ってきたことは確実であり、在所の人別帖には記載されているからだ。それに手形とは各関所に渡すものであり、今持っているものは帰りに使う手形である。隆佐衛門は、別に何も罪を犯すような事はしていない。
「木造から聞いたと思うが、仕官していた藩に事情があってな。拙者、浪人になってしまった。しばし江戸を離れたいと思い、こうして木造の厄介になっておる」
「そうであるか。浪人にな……。中間の話によると葛城を歩き回っておるようじゃが、何かあるのかな」

(23)






「わっ、はっはー。木津屋で木刀を振り回せとでも言いたいのかな。体を(なま)らせたくないのだ。歩き回る以外になかろうが。それとも代官所の道場を使わせて貰えるかな。さすれば歩き回る必要はないが」
 隆佐衛門は、既に収穫高は掴んでいる。代官所の中に入り込みたいと思っている。
「ほー、剣道には自信がおありのようですな」
 井上は、隆佐衛門を胡散臭く思っている。道場を使わせ、身近で調べた方が良いかも知れぬと思い始めていた。二人は、しばし見つめあった。
「良いでしょう。ご存知だと思うが、代官所には公事が多い。道場だけであれば構わんでしょう。門番には井上の知り合いだと申せば良い。道場に案内してくれるよう手配する」
「いやー、忝い。田畑を歩くのも良いが、拙者、蛇が嫌いでな。まだ春だと言うに、ちょろちょろ出てきおります。道場で体をほぐせるとは願ってもないこと」
「蛇がお嫌いか。ま、好きな者は少ないと思うが……。ところで木谷殿、何日頃まで此処に……」
「そうよなー、江戸でのほとぼりがさめた頃までかのう。井上殿とやら、そのように拙者を毛嫌わなくとも……」
 話しの途中で井上は慌てて口を挟んだ。
「い、いや毛嫌ってなどおらん。これもお役目」
 では、と頭を下げ木津屋を出て行った。

「木谷様、随分とハッキリものを申されますな」
「おぬしと同じだ」
 二人は顔を見合わせ笑った。木造は、あのヒャッハッハー! である。どうも(かん)(さわ)る笑い声だ。
「木谷様のお調べ事、うすうす感じておりますが……」

(24)






「おう、おぬしの読み通りと思うがな」
 隆佐衛門は口には出さなかったが、木造は気が付いていると思った。
 夕方であった。隆佐衛門が通りを眺めていると、吾助が急ぎ足で歩いている。すぐに絹を呼んだ。
「判るか」
「ちょっと離れていますが……。あらっ、集まりに遅れる、遅れると……」   
「何ーっ! 集まりとなっ!」
 隆佐衛門、ドタドタドターと階段を降り、通りに飛び出した。吾助の後姿(うしろすがた)を見つけた。人通りが少ない。後を追うにしても気を付けねば……と思ったが、吾助は一目散の様子であり気付かれる心配はなさそうだ。とある古家に着いた。この時だけ、吾助は後ろを振り返った。
 隆佐衛門は音を立てないように近付いた。中から押し殺したような声が聞こえる。
「吾助、無理だ。それは無理だ」
「何を言うだ。だば、どうすれば良いのだ」
 別の声が聞こえる。どうも六、七人は居るようだ。
「俺らでは無理だ。代官所は人数を減らしてはいるが、二十人はいるだ。皆、ヤットウを遣っている。俺らの(にわ)か剣道では無理だ。諦めるだ。それがええよ」
「このままで()いって言うだか。おら我慢ならねぇよ。どうせこのままでも扱き使われるだけでねぇか。おめぇら、嫁も貰ってねー。おらも同じだがよー。何かしなければ葛城は、このまんまだ。それで良いのか」
 どうも嫁の一言が利いたようだ。
「そりゃ良いとは言えねぇよ。だどもよー」

(25)






 皆、押し黙ってしまったようだ。
 隆佐衛門は、若い農民が事を起こそうとしているのを知った。急がねばならない。どのような理由があろうとも、また農民に正義があったとしても事を起こした場合、(とが)は総て農民に掛かる。いくらそれが理不尽だと叫んだ所で、何も変わりはしない。隆佐衛門は焦りを感じた。

 道場に行った。門番に告げると中間が呼ばれた。この中間が道場まで案内してくれた。それだけではなかった。この中間は隆佐衛門の傍を離れない。見張りであろう。道場では四人が稽古をしていた。 隆佐衛門は会釈をし、壁際に座り稽古を見ていた。するとその中の一人が来た。
「木谷殿でござるか。井上から聞いております。もし宜しければ拙者がお相手いたすが」
「ではお願いいたす」
 型通りの挨拶をし、稽古を始めた。隆佐衛門は手を抜かずに木刀を振った。相手は汗だくで応じた。他の者は稽古を見ている。小半時ほど稽古をしたが、他の者が手合わせを言ってきた。隆佐衛門は、見ている者が驚くほど厳しく木刀を振った。腕の違いは明らかだった。道場の入り口に一人の侍が立っていたが、稽古の途中でその場を離れた。

「井上殿、あの木谷とか申す浪人、凄い腕前です。この代官所で適うものはいないでしょう」
「そうか。ただの浪人とは思っておらなかったが……。おぬし木谷をどう思う。葛城に来た理由は何じゃと思う」
「さぁ、それは判りかねます」

 井上は、代官鎌田大善の部屋に行った。

(26)






「代官、あの浪人、結構な腕だそうです」
「そうか。ところで肝心の事は判ったのか」
「はっ、散歩と称し、葛城を見て回っておりましたが、それ以外には不審な動きはしておりません」
「あの男が江戸で何をしていたかも判らんのか」
「今、江戸にそのような事を頼める者はおりませぬ。代官所の者を江戸に(つか)わせた方が早いかと思いますが」
「このような時に備え、江戸に伝手(つて)を置いておけと、いつも言っておったであろうが。馬を使って良い。誰かを江戸にやれ」
「で、今日は木谷をこのまま帰しても宜しいでしょうか」
「当たり前だ。何者かも判らん者を捕らえる訳にもいかん。仮に公儀の者であった場合を考えよ。ここに来ている事は判っておるはず。もしも木谷からの連絡が途絶えた場合、公儀は拙者を疑う。そうじゃ、瑞穂にでも連れていき何者か探ってみよ」
「ははー」
 井上は侍の一人を呼び、江戸での用件を伝えた。その足で道場に行った。
「木谷殿、稽古は終わったかな」
「これは井上殿。気分爽快でござる」
「それは良かった。ところで、どうですか。葛城にも旨いものがあります。お付き合いいただけますか」
 隆佐衛門は、井上に合わせることにした。
「それは良いですな。木津屋の飯に飽きてきたところです」
 井上は、隆佐衛門と稽古をした二人を連れ代官所を出た。行き先は瑞穂であった。
 四人には広すぎる部屋に通された。しばらくすると女将が顔を見せた。女将は隆佐衛門に気付き、あらっ、と言うような顔をした。

(27)






「瑞穂の女将、菊乃でございます」
 芸妓も来た。贅沢な宴である。隆佐衛門は、皆に合わせてはいるが、どうにも呵責(かしゃく)の念に囚われてしまう。このような贅沢を……。
「木谷殿、江戸が恋しくはござらんか」
「いやー、江戸の話はご法度(はっと)でござるぞ。禄を失ったことを思い出してしまう」
「これは失礼した。かなりな腕と聞きましたが、流儀は何でござるか」  
「拙者は、ひねくれ者でしてな。いろいろな流儀に手を出し、結局どの流儀も皆伝できずじまい。ま、あえて言えば木谷流ですか。もっとも弟子などはおらんが」
「ところで葛城の印象は如何かな」
「幕領と聞いておりましたゆえ、活気ある所かと思っておりましたが、以外と静かで気が抜けておりまする」
 この言葉を聞いた途端、一同の顔が急に引きつった。隆佐衛門は、連中が感情的になるのを待っていた。だが、菊乃が場を取り持ってしまった。
「さー、どなたかお三味(しゃみ)に合わせ、お唄など如何ですか」
 若い侍が、では拙者がと三味線に合わせ唄いだした。宴は五ツ頃に終わった。

 隆佐衛門が木津屋への道を急いでいると後ろから声がした。
「木谷様、お待ちください」
 見ると菊乃である。
「木谷様、老婆心ながら申しますが、あのような事は(おっしゃ)らない方がお身のためですが……」
「あのような事とは……」
「葛城についてです。代官所の方々は、都合の悪い事を聞きますと

(28)






、仰った方に何をするか判りません」
「おーそうか。以後気を付けよう。ところで、おぬしは長いのか」
「かれこれ五年ほどになります」
「五年か。代官所の者たちは瑞穂を良く使うと聞いたが、大切な客なのであろうな」
「まぁ、そのような。(あきない)は商。お客様は、どなたでも大切だと思っております」
「なるほど、当たり障りのない返事。いや忠告、忝い」
 隆佐衛門は、その場を離れようとした。
「木谷様、お話はまだ終わっておりませんのですが……」
「うっ、何かな」
「私は、木津屋さんとは親しくさせていただいております。以前、木造さんが身内は木平さんだけ。親類縁者は居ないとおっしゃっておりましたが、先程のお話ですと木造さんの(おい)御様との事ですが……」
「菊乃とか申したな。おぬし、その事を代官所の者に話したのかな」   
「滅相もございません。代官所の方は、ただのお客様。何故、私が話したと」
「い、いや。済まなかった」
「娘さんがご一緒とか、お会いしたものですが」
「そうだな。考えておこう」
 ニコッと微笑み、菊乃は行った。
 微笑んだ菊乃を見て、隆佐衛門は、ゾクッとしてしまった。
 同じように商をするとは言え、菊乃は衣紋を抜いた商売。登世とは違った女の艶気がある。隆佐衛門は、また登世の怒った顔が浮かぶかと思い、目を閉じてみたが、登世の顔は出てこなかった。

(29)






 隆佐衛門は絹に菊乃を会わせ、協力を頼めるかどうか確かめたかった。

 宿に戻ると絹が浮かない顔でいた。
「お父様、木平さんですがここ数日、様子が変です。何か、思い詰めたようで」
 隆佐衛門は、あの夜の事が思い出された。集まった者の顔は見えなかった。百姓だけだと思っていたが、木平もいたのだろうか。
「どのような事か判るか」
「いえ、何やら支離滅裂で……。ただ、代官所、代官所と……」   隆佐衛門は悪い予感が当たったと思った。急がねばならぬ。
「そうか。ところで絹、瑞穂を知っているか」
「はい、料亭ですね」
 隆佐衛門は、今日の出来事を話した。
「判りました。絹も菊乃さんに会って見たいと思います。お父様、何やら菊乃さんに心()かれているご様子。お気を付けあそばせ。絹は、お母様より見張りを頼まれておりますゆえ」
「何を申すか。そのような不埒な事など考えておらん」
「お父様、図星の場合、人は語気を荒げるものです。今のお父様のように」
 隆佐衛門は、自分が囚われの身である事を改めて悟った。

 数日後、代官所に早馬が駆け込んだ。
「おう、戻ったか。して如何だった」
 大膳の部屋には井上もいる。
「木谷は神田檜垣町の刀屋、松浦の亭主。江戸に来た時から素浪人でござる」
「何っ! 江戸で職を失ったというのは真っ赤な嘘かっ!」
「何やら奇妙な道場を持っております」

(30)






「道場の事など、どうでも良い」      
「はっ。木造とのつながりですが、これは判りませんでした。しかし話の辻褄が合いませぬ。これも嘘ではないかと思われます」
「うーん。で、公儀との関係はどうじゃ」
「北町奉行所の同心に親しい者がおりますが、それ以外は……」
「町奉行であれば我々に関わりはない。だが何故にそのような嘘を付くのか……。何やら胡散臭い。実に不愉快だ。嫌な予感がする。井上、やつらに頼めっ!」
「しかし、代官。木谷は何もしておりませぬが」
「この(たわけ)がっ! 嘘を付いて葛城に来た。何かあるに決まっておろうが。構わんからやつらに頼め。良いな」

 ある夜、隆佐衛門は木造を部屋に呼んだ。
「木造、木平の様子がおかしいが……おぬし代官所について何やら隠し事があるのではないか」 
「ヒャッハッハー! これは異なことを。木谷様は公儀のお仕事をされていると思っております。既に幾つかの事についてはお調べになったはずですが、何も話してはくださりませぬが」
「うっ、そうであったな。木造、そう怒るな」
 隆佐衛門は、今までの経緯(いきさつ)、石高、さらに吾助のことについて話した。
「良くお調べで……。木平は今夜は外ですが、吾助らと共に事を起こすつもりでおります。おっしゃる通り、どのような結果であろうが皆、死罪。木谷様、私は止める立場かとも思いましたが口を挟まぬことにいたしました」
「何故だ、自分の息子であろうが」
「人間はいずれ死にまする。それが早いか遅いかの違いだけ。どのような理由(わけ)かも人それぞれ。相談を受ければ止めまする。しかし自分で決め、自ら行おうと思っている事に、たとえ親とはいえ、とや

(31)






かく言うのはお節介というもの」
「……」
「それに……」
 木造は話を急に()め、障子を開けて外を見た。隆佐衛門にも聞こえた。まだ遠くのようだが蹄の音である。五、六騎は居ようか。

「やつらだっ! 木谷様、代官所が動き出しましたな」
「どういう事だ」
「代官所は、自らの手を汚さぬために野盗を使います。やつらは金を貰えば何でも遣ります。ひょっとすると目的は木谷様かも知れませんな」
「以前にもそのような事があったのか」
「はい。つい数ヶ月前にも代官所の侍が襲われました。この侍は何かを掴んだのでしょう。じっとしていれば良かったものを……」
「誰も何も言わんのか」
「知っていても口には出しませぬ。()られたくはないですからな」
 蹄の音が近付いてくる。
「木造、下の者に逃げるように言ってくれ。それに、おぬしもな」
「木谷様、それこそ余計なお節介。私は自分の思い通りにやります」
「何を言うか。年寄りの冷や水じゃ」
「ヒャッハッハー! 何をおっしゃる。昔とった杵柄(きねづか)でござる」
「木造っ! その笑い声、何とかならんか」
「いやはや相済まぬことで……」
 木造は階段を降りて行った。外を見ると野盗は木津屋の前まで来ていた。人数は五人。獣の革を着ている。顔は髭だらけで、刀は背負っている。連中が馬から降りた。二人が入り口の戸を蹴破った。

(32)






「木津屋ーッ! 用事がある出て来いっ!」
 隆佐衛門は夜雪を腰に差し、階段の途中で下の様子を覗った。玄関の土間に野盗が三人いる。三人の前には刀を手にした木造。
「亭主、何だその刀は。二階の浪人に用がある。呼んで来い!」
「ヒャッハッハー!」
 一際(ひときわ)大きな笑い声。隆佐衛門、寒気(さむけ)がした。野盗も顔をしかめている。
「二階の浪人か三階の女郎(じょろう)か知らぬが、この木津屋に泊まる者は、すべて拙者の子供と同じ。子供に用事があらば、まず親に話したらどうじゃ」
 木造、侍言葉になっている。野盗も面食らったのか一瞬、(ひる)んだ様子を見せた。
「芝居の稽古じゃねぇんだ。何も死に急ぐ事はねぇだろう。えー、爺さんっ!」
「ヒャッハッハー! おぬしらの頭には金の事しかないのではと思っておったが、芝居の稽古とは洒落たことを申すな。代官の言いなりになりおって、お前らを(くず)と言う。良ーく、覚えておけ」
 木造、もの凄い事を言い出した。野盗の顔付きが変わった。構わねぇ、(じじい)をぶった切れ。一人が刀を抜き、この野郎っ! と木造に斬り掛かった。あの年寄りが、ふっと身を屈め、下から居合い抜き。隆佐衛門も驚くほどの綺麗な居合い。一瞬の静寂。腹から血を噴出し、野盗が、ど、どうと倒れた。だが隆佐衛門は気付いた。木造は、この一振りで精も根も尽きている。二振りは出来まい。

 野盗たち皆が、土間に入ってきた。
「爺さん、我慢ならねぇぜ」

(33)






 さすがに木造も青ざめている。隆佐衛門は、拙者の番だなと階段を降りた。
「あいや暫く。大勢で年寄りを苛めるものではないわ。拙者に用事とのことだが」
 たたたーッ と木造の前に出た。手で木造を後ろに下がるように示した。
「お前が木谷か。悪いが死んでもらう。表に出ろっ!」
 四人は、さっと刀を抜き、身構えた。
 隆佐衛門は表に出る気はない。多勢に無勢、広い場所では囲まれてしまう。狭い場所の方が都合が良い。ゆっくりと夜雪を抜いた。
「用事は死んで欲しいとの事だが、まだこの世に未練があってな」
(やかま)しいっ!」
 言うなり、二人が同時に切り掛かった。訓練されている。隆佐衛門は、さっと引き下がり壁を背に構えた。二人が刀を正眼に構え目の前に居る。突きで一気に攻められたら危ない。
「さて、どちらさんと刺し違えようかのう。お前か、それともお前か」
 隆佐衛門が刺し違える覚悟と知ると、二人は顔を見合わせた。面白いもので、こうなると自分は嫌だと腰が引けてくる。後ろから声が掛かった。
「馬鹿野郎っ! 同時に突きを入れろっ!」
 ハッとした二人、やーっ! と突いてきた。隆佐衛門は、思いっきり体を左に持っていった。間一髪で切っ先をかわすことが出来た。左側から別の野盗が切り掛けてきた。夜雪を振り上げた。カキーン! と音がして野盗の刀は折れた。先程の二人が右側から切り掛かる。夜雪を右に振り切った。右手一本である。全く手応えはなかったが、夜雪が一人の野盗の喉に届いていた。シャーっと喉から血飛沫(ちしぶき)が飛んだ。この野盗は、もう一人の野盗に倒れ掛かった。
 隆佐衛門は、重なった二人を斬り上げた。夜雪は切れる。隆佐衛

(34)






門は改めて夜雪の凄さを知った。だが、辺りは血の海。余りにも凄惨な光景に目を覆った。あと二人だが、一人は、すでに腰を抜かしている。木造に目を遣った。木造は平静を保っているようだ。
「木造、こやつを縛れっ!」
 木造は、さっとこの男に近付いた。男は木造に抵抗することもできない。
 頭目と思える野盗は、逃げようと後ろを向いた。と、そこには、短めの刀を構えた女がいる。何を小癪なっ! 出ようとした。
「これっ! 相手に背を向けるとは臆病者の証。恥を知れ恥を。絹っ! 離れておれ」
 野盗は覚悟を決めたのか、隆佐衛門に向き直り、ヤーッと斬り掛けてきた。隆佐衛門は、一太刀で切り倒した。
「絹、駄目ではないか。怪我でもしたらどうするのだ」
「そうですが、お父様のことが気になって……」
「判った。だが無茶はしてはいかん。良いな」
「はい」
「木谷様、恐ろしい出来事でしたな。しかし凄い腕前でござった。それに凄い刀をお持ちだ。初めてでござるよ、このような刀を見たのは」
「何の。おぬしの居合い、しかと見たぞ。恐れ入った」
「いやお恥ずかしい。一振りで息が切れてしもうた。歳ですな。ヒャッハッハー!」
「これ、その笑い……」
「木谷様、諦めてくだされ。ここにいる間は、我慢していただく以外にない」
「何じゃ、開き直りか」
「ヒャッハッハー! 如何にも」
 隆佐衛門、我慢する以外にないと覚悟した。

(35)






 捕らえた野盗に猿轡(さるぐつわ)()ませ、物置小屋に縛り付けた。

 翌日、木造は一応代官所に届けると出て行った。一人は逃げた事にした。
 一時(いっとき)ほどして役人が来た。井上はいない。役人は型通りの調べをし、後を中間に任せた。中間は四つの体を大八車に乗せ、運んでいった。

 大膳は脇息に両腕を置き、苦虫を噛み潰したような顔をしている。 木谷とは何者だ。代官所には何もして来ない。野盗らは()られてしまったが証拠はない。(おおやけ)にはならんだろう。しかし、どうしたものか。

 隆佐衛門は、絹と共に木造と木平を部屋に呼んだ。木平は、あの夜遅くに戻ってきたが惨状をみて腰を抜かした。元は侍であった木造の息子とは言え、木平は根っからの町人と言える。
「木平、代官所を襲うのは()せ」
 これを聞いた木平、ビクッと体を震わせた。
「なぜ、ご存知で」
 隆佐衛門は集まりを覗いた事を話した。木平は頷いた。木造は目に涙を溜めている。
「木造、どうした」
「いえね、息子が思い止まってくれました。やはり、息子には危険な目に合わせたくないもので……」
「木造、此処から早飛脚を立てることは出来るか」
「木谷様、それは無理です。ただ、毎日常飛脚が通ります。費用は掛かりますが定飛脚に頼めば早飛脚と同じですが」
「そうか。木造、その時はおぬしに頼む」
「へぇ、何なりと」

(36)






 翌日、吾助が訪ねてきた。
「木平から聞いただ。おれら死ぬのは嫌だ。だども、このままも嫌だ。嫁の来てがねぇから子供も持てねぇ。おらたちの大切な田圃の後を継ぐ者もいねー。お侍さん、木平はお侍さんに任せてみようと言ってるだが、大丈夫か」
「それは約束できん。だがな、おぬしらの企ては、いずれにしても死が待っている。これだけは確実だ。拙者は、その事を言いたいのだ」
「もし、上手くいかなかった場合だが、おれら遣るかも知れねぇが……」
「吾助、その時には、また話をしよう。どうだ」
「判っただ。お侍さん、何か手伝う事があったら言ってくれろ」

 隆佐衛門には、まだ調べなければならない事があった。代官所の人数である。決められた身分毎の役人が仕事をしているのか。隆佐衛門は、代官が人数を偽り、幕府から与えられる禄を懐に入れているとの確信を持っていた。
 絹を呼んだ。
「今夕、瑞穂で落ち合わんか」
「まぁ、親娘(おやこ)が料亭で待ち合わせですか。菊乃さんですね」
「そうだ。絹に判断してもらいたい」
「菊乃さんについては、以前、お父様から聞いております。私は信用しても、と思っておりますが」
「念には念を入れたいのだ。直接会って欲しい」
「判りました。時刻は」
「暮六ツ、といたそう」

 隆佐衛門は、大善たちが自分の事を調べたと思っている。野盗を使ったと言うことは、ただの浪人が何やら余計な事をと思ったため

(37)






で、公儀との関連については判っていないはずだ。関係があると知った場合、密かに抹殺(まっさつ)を図るはず。その後、知らぬ存ぜぬを通せば良い。葛城の代官所が江戸に手出しすることは出来ないし、松浦も被害を受けることはないだろう。
 隆佐衛門は、道場に行った。
「此度は大変でしたな。しかし大した腕前。恐れ入りまする」
「拙者、野盗との争いで、つくづく稽古の大切さを知った。どうじゃ、今日は申し合いをしたいが。木刀じゃ、互いに大怪我をすることもあるまい」
 道場にいた連中は尻込みの気配。
「そもそも、幕領でありながら野盗が襲ってくること自体、余り自慢できることではない。拙者、気を入れて木刀を振りたいが」
 凄まじい申し合いであった。終わってみれば、泡を吹いて失神する者、頭に瘤を作り目を剥いて気絶する者、足腰を打たれ、立ち上がれない者……。道場には呻き声が充満した。
 隆佐衛門は、先程より道場の窓より覗いている者に気付いていた。
「井上殿っ! そのようなところで……。こちらに来られたが良い、さぁっ!」
 井上、しまったと思ったが、そう言われては仕方がない。道場に入ってきた。
「野盗の件は代官所でも済まんと思っておる。何しろ人手不足でな」
「これは異な事を。代官所には武家など三十人が()るはず。野盗は五人でござったぞ。高々、五人を野放しとは。天領、幕領の名が泣きますな。ワッハッハー」
 井上は何も言えない。
「ところで井上殿。拙者、此度の件で代官殿に直接お話ししたい事

(38)






がある。取り継いではもえぬかのー」
「き、木谷殿。それは……」
「何、無理であれば構わんが……。拙者、いずれ江戸に戻るつもりだが口は軽い方でな。葛城の代官所は、五人の野盗も取り締まることが出来んとの噂が立つかも知れん。もっとも、ご公儀から余計な事を申すなと、お小言があるかも知れんがな。わっハッハー」
 井上、ここまで言われては取り継がないわけにはいかない。

「木谷殿か。鎌田大善でござる。此度は済まなかった。しかし怪我がなくて良かった」
「お代官殿、拙者危険な目に合った。一言申し上げたい。葛城の代官所は(たる)んでおるようですな。野盗の件も(しか)り。もそっと気を入れて治安を維持せねばならんと思いますが。如何か」
「き、木谷殿。それはお上に対する非難と取られますぞ」
「それは違う。拙者、幕府直轄葛城の代官所を非難しておる」
「な、何とっ! おぬし、公儀に逆らう積もりかっ!」
「わっハッハー。大善殿、拙者、ご公儀に逆らうつもりは爪の先程もござらん。ただ葛城の代官所は弛んでおると申しておるだけ。拙者、当分葛城に()るつもりじゃ。何かあればいつでも参上いたす。逃げも隠れもせん」
 隆佐衛門、此処まで言うと、ご免、と席を立った。
 大膳の顔は、赤を通り越し赤銅色になっている。素浪人ごときに……。代官所に対する侮辱。しかし、あれほどの事を言われても、 これだけで罪を咎め捕らえることは出来ない。大声で井上を呼んだ。
「良いな、最後の手段は我らであの男を殺る」

 隆佐衛門は、瑞穂に向かった。瑞穂の前では絹が待っていた。
「待たせたかのう。済まん」
「いえ、絹も今来たばかりです」

(39)






 仲居が二人を瀟洒(しょうしゃ)な部屋に通した。八畳ほどであろうか。庭にはカタン、カタンと鹿威(ししおど)し。苔生(こけむ)す庭の風情は、夕暮れの中にしっとりとした雰囲気を作っている。
「お父様。葛城にも、このようなお庭があるのですね」
「絹、此処は高そうだな」
「えっ、何が……」
「食事代だ。女将に話があるとは言え、何も瑞穂でなく木津屋でも良かったのかのう」
「お父様っ! 本気でそのような事をお考えなのですか」
「まぁ、本気だが」
「あー情けない。ご老中からたんまり金を貰ったと申されておりましたが」
「それはそうだが、このような所で使っても良いのかどうか……」
「絹は、これもお仕事の一つと思っております。何を(はばか)ることがありましょうか」
「そうかのう」
「当たり前です。全くお父様は、堅物(かたぶつ)のこんこんちきなのですから。絹は堪りません」
「……」
 そんな会話を(かわ)していると、廊下で声がした。
「菊乃でございます。宜しいでしょうか」
「おう、入ってくだされ」
 障子が静かに開いた。頭を下げ、両手をついた菊乃が座っている。
 今は春。まだ肌寒さを感じるというのに裾の長い黒の單衣(ひとえ)。ゆっくりと顔を上げ、隆佐衛門を見てニコッと微笑んだ。絹は見とれてしまった。綺麗に結い上げた髪。衣紋を品良く抜いている。細面(ほそおもて)の顔には切れ長の目が……。ハッキリとした鼻筋が気高(けだか)さを感じさせる。額は広く、知性ある雰囲気を現している。柔らかな体付き。

(40)






 隆佐衛門を見る目が潤んでいる。
  ──お母様とは違う魅力を持っている。

「菊乃、これが拙者の娘、絹だ」
 菊乃が絹に目を移した。絹はこの時、菊乃の眉毛が、ほんの少し釣り上がったのを見逃さなかった。菊乃さんは、お父様と二人でお話がしたかったのだ。私は邪魔者。
「絹さんですか。菊乃です。今夜はゆっくりしてくださいね。瑞穂とっておきの料理をお出しいたしますから……」
 如才ない物腰。絹は、菊乃の仕草を見習いたいと思った。
 仲居が次々と料理を持ってくる。どれも美味しい料理だ。絹は一つ一つを味わった。酒も出ている。菊乃は隆佐衛門の横に座り酌をしている。
「絹さんは、お酒は召し上がりますの」
「いえ。不調法でして」
「そうですか。絹さん、私、木谷様のご相伴(しょうばん)をしたいのですが良いでしょうか」
「え、えぇ、どうぞ」

 隆佐衛門は絹に目配せをした。絹は、頭をちょっと下げ、信じて良いと示した。隆佐衛門は懸念なく話すことにした。

「菊乃、済まんが頼みがある」
「そうでした。今夜は、木谷様のお話をうかがうのでした。私とした事が、ちょっと気が(ゆる)んだようです」
「菊乃、有体(ありてい)に申すが、拙者、代官所の陣容を知りたいのじゃ。おぬし知っておるか」
「まぁ、どのような事かと思えば……。木谷様、代官所ではお正月の祝いとしてお役人様に紅白の餅を配ります。用意するのは瑞穂。

(41)






これで宜しいでしょうか」
「宜しいとは……」
「明日、お教えいたします。木津屋でしたね。木谷様、菊乃はお酒をいただきとうございます」
「お、おー、そうであった」
 隆佐衛門は菊乃の猪口(ちょこ)に酒を注いだ。菊乃は、少し腰を崩し、両手で猪口を口に持っていった。女の絹が見ても、その仕草には艶気を感じる。自然に出る仕草。絹は眩暈に似たものを感じた。菊乃は立て続けに猪口を口に運んだ。余り酒が強くないのであろうか、菊乃の頬は、すでに桃色になっている。柔らかな物腰が、更に柔らかくなる。絹は、ただ見惚れていた。
「絹さん。お酒は良いものですよ。辛さや悩みを忘れさせてくれます。でも、お酒って怖いもの。普段、心の奥底に仕舞って置いたものが出てくることがあるんですよ。ほほほー、でも、どちらも本当の自分。絹さん、寂しい時ってあります」
「は、はい」
「そんな時、どうされますの」
「部屋で一人で黙って……。そう、日記などを書くこともあります」
「まぁ、日記ですの。素敵。私は部屋で一人で……。ふふふー、はしたないなんて言わないでくださいね。お酒を…… 一人で……」
 絹は、菊乃が自分の寂しさを隆佐衛門に伝えていると思った。

 ──菊乃さんは、お父様を好いている。でも、会うのは今日で二回目。そんなに早く人を好きになる事があるのだろうか。私は何度もお会いし好きになった。気付いたら、そのお方の事ばかりを考えていた。お会いしたいと思った時、好いているんだと思った。

(42)






「絹さん、そんなに私の顔を見つめて……。何を考えているのですか」
 ──菊乃さんは酔っている。お父様は、先程からご自分でお酒を注いでいる。菊乃さんにも同じようにお酌をしている。お父様は微笑みながら何も言わない。私は邪魔者。
 絹は廊下に隆佐衛門を呼んだ。
「お父様、菊乃さんて素敵な方ですね」
「うん、そうじゃな」
「絹は帰ります。今夜の事は、お母様には内緒にします」
「内諸? 何故だ」
「菊乃さん……」
 隆佐衛門は、絹の頭をコツンと叩いた。
「絹、菊乃は素晴らしい女だ。だがな、拙者には登世がいる。絹、比べるものではないが二人とも良い女だ。もしも登世がいなければ、菊乃に惚れたかも知れん。しかしな絹。もしも、との言葉は意味がないとは思わんか。今、在る事が大切なのだ。時を(さかのぼ)ることは出来んからな。拙者、登世にめぐり合えて幸せだったと思っておる」
「まぁ。でも菊乃さんて寂しそう」
「おぬしが先に帰り、拙者と菊乃が二人になったとしよう。菊乃は喜ぶと思うか。喜ばん。作られた場など誰も喜ばんよ」
「……」

 二人は部屋に戻った。見ると菊乃は腕枕で目を閉じ、静かな面持ちで眠っていた。二人は顔を見合わせ微笑んでしまった。
 仲居が飛んで来た。
「お客様、女将さんにとっては初めての事です。お許しくださいな。でも女将さん、今夜はどうしたのでしょう」
 月明かりの中、二人は木津屋に向かった。
 夜風が清々しい夜であった。

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 翌朝、木津屋に菊乃が来た。
「昨夜は失礼いしました」
 薄化粧の菊乃を見るのは初めてだ。初々しさの残る肌。昨夜の事を気にしているのか、はにかんだような表情。瑞々しい雰囲気に満ちた菊乃は、魅力的だった。絹は(ほう)けたような顔で菊乃を見ている。
「木谷様、これで宜しいでしょうか。これは昨年暮のものです。お侍は二名になっていますが、今はお一人だけです」
 菊乃が書状を出した。隆佐衛門は手に取り書状を見た。何と代官所から瑞穂宛の注文書である。代官所の印もある。
「菊乃、理由(わけ)も聞かずこのようなものを拙者に……」
「ほほほ、理由ですか。木谷様、理由など知らない方が良いこともございます。多分、この書状は誰かに盗まれ、瑞穂から姿を消したのではないでしょうか」
「なるほど」
 隆佐衛門は書状を読んだ。葛城では、正月に代官所の役人たちに紅白餅を配る。この書状には、熨斗紙に(したた)める役人の役柄と名前が書いてある。
 元締は井上だけ。手付・手代は五人。書役は二人揃っている。侍は二名だが今は一名。足軽・中間は十一名。計二十名。幕府は代官を除き二十九名で幕領を治めるよう指示し、禄もそれに見合う値としている。約二百三十両七十人扶持である。しかし葛城では九名少ない。ざっと見て百両ちょっとが浮く。これは明らかに使い込み。

 隆佐衛門は収穫高についても考えてみたが、低く見積もっても十二万石は下らないと見ている。幕領での年貢率は定免法により決められるが、葛城は肥沃な土地。収穫率は良いはず。過去の税率を平均し、数字は七割となっている。従って八万四千石が収められるは

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ず。しかし、幕府には六万石しか収められていない。ここでも二万四千石が浮く。収穫高を八万五、六千石と偽っているのであろう。
 隆佐衛門は年貢率七割にも疑問を抱いている。七割であれば農民には、三万六千石が残る。これだけあれば何とか遣っていける。夜逃げや心中などをするはずはない。まさかとは思うが、八割、九割の……。これは酷い。農民は告げられた石高を必死に収めているのだろう。これは、農民を騙すことになる。税については吾助に聞けば良い。
 隆佐衛門は、ふーっと息をついた。ふと菊乃と絹がいることを思い出した。
「いや済まぬ。ちょっと考え事をしてしまった。菊乃、礼を言う。おぬしには迷惑が掛からぬよう拙者、充分に気を付ける」
「お酒の席での木谷様も素敵ですが、そのように顔をしかめ、考え事をなさっているお姿もなかなか素敵でいらっしゃいます」
「そ、そうであるか」
 隆佐衛門は急に相好を崩した。
「まぁ、そのようにデレデレと……。お父様、みっともありませんよ」
「絹、そう言うな。滅多に素敵などと言われる事はない。しかし、言われると嬉しいものだのー」
 三人は声をあげて笑った。

 隆佐衛門は、吾助に会った。
「木谷様、(おら)たちは言われた年貢を収めてるだけだ」
「吾助、自分の収穫高を知っておるのか」
「馬鹿言うでねぇよ。自分の田圃でどれだけ採れるか知らねぇ百姓はいねぇよ」
「吾助、何割を収めている」

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「そうだなー。九割ちょっとだな」
「おぬし、それでも良いと思ったのか」
「俺の田圃は収穫が()え。他の百姓を助けると思えと代官所に言われただ。木谷様、そう言われれば出すほかあるめー。だがなー聞いただよ(ほか)の百姓に。驚いただ。皆、同じ事を言われ、同じように米を出していただ。これは変だと思っただ。俺たち上手く騙されていただよ」
「吾助、おぬし字は書けるか」
「馬鹿にするんでねぇよ」
「す、済まん」
 隆佐衛門は素直に頭を下げた。顔を上げると吾助はにこにこ笑っている。隆佐衛門は、ほっとした。吾助は、自分の収穫高、徴収された石高を記録していた。
 隆佐衛門は書状を認めた。一通は、老中田島宗次に、もう一通は、勘定奉行鎌田多門に。
 翌日、木造に聞いた。
「木造、(くだ)りの定飛脚は」
「そろそろ此処を通りますが」
「木造、下りが来たら知らせてくれ」
「木谷様、何故下りを……」
「おう気付かれんためだ」

 木造が常飛脚が来たと知らせてくれた。隆佐衛門は書状を持ち玄関に降りた。
「街道を下る途中で(のぼ)りの定飛脚と擦れ違うであろう。済まぬがこの書状、上りに渡してくれ」
 飛脚は怪訝そうな顔で書状を見た。老中田島宗次……。さっと隆佐衛門の顔を見た。
「判りやした。届け先が判り易いくて助かりやす。これじゃ間違え

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っこねぇ。ご老……、いえ、お相手さんには明日中に届くと思いやすよ」
 隆佐衛門は小判を渡した。飛脚は書状の差出人を見て言った。
「えーと、木谷様ですか。そんなもの出されても、つりなどありやせんぜ」
「そうか。では、つりは上りの者と折半でもすれば良い」
「へぇ、そうさせていただきやす」
 そう言うと飛脚は、表にすっ飛んで行った。
 此処まで気を使う事はないとは思うものの隆佐衛門は用心した。代官所の者が、どこかで見張っているはず。定飛脚は幕府より鑑札を受け、営んでいる。つまり幕府の保護を受けているとも言える。しかし、念を入れるに越した事はない。

 代官所では、代官を囲み、井上ら五人が話し合っていた。
「木谷をこのままにしておくのは、実に宜しくない。何を仕出かすか判らん。消す以外にないであろう」
「代官。そう申されても如何にして……」
「何でも構わん。消せば良いのじゃ。いくら腕が立つとは言え、此処の者総てで掛かれば問題はなかろう」
「お言葉ですが、理由も言わずに遣れと言っても動く者はおりませぬ」
「何を言うか。下知(げち)すれば良いであろうが」
「それは無体と言うもの。それに多くの役人を巻き込まない方が宜しいのでは。事が広がります。我々五人以外は事情も知らぬただの役人」
「……」
「代官、こうすれば良かろうと思います」
 井上は策を語った。

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「木谷とは、そのような男。必ず一人で参ります。手筈(てはず)を整えまする」

 数日後、中間が木津屋に来た。代官が隆佐衛門に話がある。来て欲しい。
 隆佐衛門は、いよいよ来たかと思った。そして江戸の事も考えた。老中田島と勘定奉行鎌田。鎌田は身内を(かば)うだろうか。であれば時間が掛かる。吾助たちが動くことはない。しかし老中には急いでもらわねば拙者が困る。気を引き締めて木津屋を出た。絹には伝えていない。

 鎌田大善の部屋に通された。大膳は脇息に身を傾け座っていた。隆佐衛門は、夜雪を自分の左に置き座った。大膳がちらっと刀を見た。侍が刀を左に置くとは、何か事が起これば相手を切るとの意思を現すもの。こやつ、小癪な真似を。
「済まぬな。実は、おぬしが目障りになってきたのじゃ。どうじゃ、江戸に戻っては。路銀は用意した。これだけあれば総てを忘れる事も出来るじゃろう」
 紫の袱紗(ふくさ)の上に、綺麗に包まれた切り餅が山を作っている。
「これはまた豪勢な。良い眺めでござるな。しかし代官、何故に侍たちが隣の部屋に控えておりますのかな」
「……」
「腐ったような(にお)いが、ぷんぷん致しますな。この小判も(にお)いまする。(くさ)い臭い。拙者は、この臭いが大嫌いでしてな」

 隆佐衛門が木津屋を出てから程なく、絹は遠くに早馬の蹄の音を

(48)






聞いた。何なんだろうと表に出た。もうもうと土埃を上げ、三頭の騎馬が走ってくる。
「邪魔だ、邪魔だっ! 退()けーいっ! 我ら公儀の者っ。道を()けーいッ!」
 侍たちは泥だらけ。大声で叫びながら絹の前を駆け抜けて行った。
 お父様っ! 絹は、部屋に戻り脇差を差した。大急ぎで尻っぱしょり。馬の後を追いかけだした。  

「おぬし……」
 大膳が手を打ったと同時に、さっと襖が開けられた。襷掛けに刀を抜いた侍が身構えている。
「お出ましですな」
「木谷、我慢ならん。死んでもらう」
「わっはっはー。大膳、もう遅いわ。おぬしらの所業総てを(したた)め、既に公儀に送っておる。ここで拙者を切ってもおぬしらは終わりじゃっ。潔く観念せよっ!」
 この言葉で空気が凍った。この隙に隆佐衛門は夜雪を握った。さっと大膳に詰め寄り(こじり)で腹を突いた。うっと唸った大膳を鞘で押さえ、静かに夜雪を抜いた。
「多勢に無勢。拙者、無駄死にはしとうない。ちと不満じゃが、この大膳を道連れにいたす。さー、各々方、如何いたす。さぁ、さーっ!」
 その時、けたたましい蹄の音。玄関にまで馬で入り込んだのか、もの凄い響き。大声が聞こえた。
「鎌田大善っ! 勘定奉行所与力早瀬主人(もんど)じゃーっ!」
 ドタドタドタっと泥まみれの侍三人が駆け込んできた。三人は場を見てニヤッと笑った。

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「間に合ったようじゃな。公儀からの書状を持って参った。頭を下げーいっ!」
 主人は、懐より上と認めてある書状を出し、高々と示した。ははーっ! 皆、平伏した。
「葛城代官鎌田大膳、おぬしの所業、ご政道を乱すものなり。取り調べの要あり。咎人として江戸にて吟味する。老中田島宗次」

 与力の一人が中間を連れてきた。手には縄を持っている。
「この者たちに縄を掛けよ」
 戸惑う中間たち。先程まで命令を下していた者たちに縄を掛けろと言う。主人が言った。
「この者たちは江戸に送られる。新たな代官が赴任するまでの間、我々三人が葛城を見る。縄を掛けよ」
 戸惑いながら縄を掛けている。主人ら三人は、余程疲れたのであろうか、どたっと胡坐を掻いた。
「木谷殿、誠にご苦労であった。礼を言いまする。貴殿の書状、実に見事であった。我ら老中田島様の命により()せ参じた。我が上司、勘定奉行鎌田殿だが……、貴殿の書状を読まれた後、残念ながら切腹なされた」
 この時、大膳がゲーッと声を上げた。

 絹は代官所に着いたが門番がいない。中に入ると馬が草を()んでいる。侍の足跡であろうか、泥が点々と付いている。その足跡を辿って行った。声が聞こえる。開け放たれた部屋に着いた。
「誰じゃ、この娘は」
 主人が気付いた。
「早瀬殿、拙者の娘でござる」
「おうおう脇差を差し、威勢が良いな。父親が心配で我らが後を追ってきたのか。殊勝な娘御じゃ。木谷殿は幸せ者だな」

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 その時、隆佐衛門の大声が響き渡った。
「絹っ! 何じゃ、その格好はッ! 親に恥を掻かせるつもりかっ! 早く、尻っぱしょりを下げろっ!」
 はっと気付いた絹、真っ赤になり裾を下げた。笑ったのは与力ら三人だけであった。

 大善以下、代官所の十人。それに野盗の一人が江戸に送られた。
 
「俺たち、こんただところで飯を喰って良いのかのう」
「しかし、(うめ)ぇな。この酒も上等なもんだ。だどもこんたら事、一度だけで()いだ。おらには野良で喰う握り飯の方が性に合うだ」
「そうだ、そうだ。()い思い出でになるだ」
 瑞穂の大広間には木造親子、お冬、お稲、それに百姓たちがいる。隆佐衛門、老中に貰った金にはほとんど手を付けていない。今日は気が大きくなったのか皆に大判振る舞い。絹も呆れるほど。菊乃は、隆佐衛門が江戸に戻る日が近いことを知っている。絹が見ても可哀想なほど寂しげな様子。人を好きになるのって辛いもの。絹は菊乃の気持ちを思い、自分も寂しくなった。

 江戸では、鎌田大善らに切腹ではなく斬首(ざんしゅ)の沙汰が下った。幕府が直轄する幕領での出来事。罪は重い。

 江戸への帰り支度も終わった。隆佐衛門は木造を部屋に呼んだ。
「木造、いろいろと手助けえをしてもらった。礼を言う」
 隆佐衛門は手をついて頭を下げた。
「ヒャッハッハー!」
 隆佐衛門、どうしてもこの笑い声に慣れることが出来ない。
「お止めくだされ。木谷様。そのような事をされると困りまする。葛城は肥沃な土地です。新任のお代官は、まだお若い。あのよう

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な活き々きしたお代官であれば、百姓たちとも気軽に話ができるはず。木谷様のお陰です」
 これまた手を付き頭を下げる。 
「ところで木造、木津屋を旅籠に戻す気はないか。木平に修行を積ませ、後を譲れば良い。そろそろ、のんびりしても良いのではないか」
「嬉しい事をおっしゃりますな。出来れば、そうしたい。ですが先立つものがございません」
「そこでじゃ、木造。ここに老中より受け取った金がある。瑞穂でかなり使ったと思ったが、菊乃が金はいらんと言う。やっと折半にしたが、まだほとんどが残っておる。礼として、いや、宿代として受け取って欲しいが」
「滅相もない。絹さんには働いていただきました。こちらが(ちん)を払わなければならない立場。受け取れません」
「そうか。ではこうしよう。半分を宿賃とし半分を絹の賃として拙者が受け取る。これでどうじゃ」
「木谷様、理屈が通りませぬ。であれば、半分は絹さんのもの。木谷様のものではありませんが」
「何を言うか。拙者は絹の親だ。問題はあるまい」
 
 金を前に、二人は腕組みをしている。金は欲しいが……何か後ろめたい。
「木谷様、これは使い込みでは……」
「断じて違う。拙者が公儀より貰った金。残りも倹約した拙者のものだ」
「お天道様に誓っても、そのように言われますのか」
「如何にも」

 二つに分けられた金に、二人が手を伸ばした、その途端、ガラガラッ、ピッシャーンと春の雷。

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 二人は顔を見合わせた。
 果たして雷様は、お許しになったのか……、それとも怒っているのか……





                         (了)








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