隆佐衛門詞譚りゅうざえもんしたん【六】













      (はな) (かんざし) 」          九谷 六口










                
                        二00三年二月十八日 
                  







 木谷きや隆佐衛門りゅうざえもん影房かげふさ、別に蕎麦の喰い過ぎでもなく、雪姫が夢に出てくる訳でもないが、どうした事か、この夜は寝つかれないでいる。蒲団の中で寝返りばかり。
 隣りからは、登世の柔らかな寝息。冴え渡った意識の中にスヤスヤと聞こえる寝息。隆佐衛門の中に強烈な愛おしさが湧き上がる。
 ――登世……
 声には出さないが思いは募る。
 松浦(まつら)は繁盛している。店を切り盛りする登世は気が抜けない。徳川の世になり世情は落ち着いたとは言え、地方では争いが起こったりしている。武器としての刀、そして、武士の証としての刀。刀に対する思いは色々ある。質実剛健な刀もあれば、見栄えだけを重んじた刀もある。しかしどうであれ、いずれも刀である事には変わりがない。それを求める侍は、自分の好みを細かく言ってくる。その一言一言を丁寧に聞き、刀を見せる。神経を使う仕事。これが登世の毎日であった。隆佐衛門は、甲斐甲斐しく働く登世を認めていた。

 登世が目を覚まさないように静かに寝返りを打つ。どうにも眠れない。仰向けになり天井を見る。月明かりの中にぼんやりと天井が見える。目を凝らせば木目を見る事もできる。
 ――しかし、眠れんな。ますます目が冴えてくる。木目とは綺麗なものだな。自由奔放に波を打っている。自然のなせる(わざ)か。昼間に気付けば、もっと鮮明に木目を見る事が出来るのであろうに……。何故、このような夜中に……
 何を考えようが眠気は訪れてくれない。また隆佐門は寝返りを打った。登世がムニョムニョと寝言を言った。耳を澄ますが、何を言っているのかは判らない。じっと、体を動かさないようにする。登世に気を使えば使うほど、目が冴えてくる。
 ――眠れん。困った。
 隆佐衛門は静かに体を起こした。登世に気付かれないように立ち

(1)





上がり廊下に出た。雨戸を開ける事は出来ない。大きな音がしてしまう。着替えを抱え、店に歩いた。店には誰もいない。隆佐衛門は着替えてから、くぐり戸を開け、外に出た。空には大きな月が出ている。薄金色(うすこがねいろ)に輝く月を見た。寒さは感じない。冴え冴えとした月。ただ静かに人間の(いとな)みを見ていたであろう月。月がこんなにも大きな存在だと思った事はなかった。
 ――お月様。皆が幸せになれますように……
 思わず(つぶや)いてしまった隆佐衛門。声を上げて笑った。
 ――拙者としたことが、月に祈るとは……
 目は冴えたままだ。どうしたのだろう。気に掛かることはない。何故に眠れないのか。どうしようもない。隆佐衛門は江戸の夜中を歩き出したが、足は道場に向かっていた。
 道場には誰もいない。道場の真ん中に座り、腕組みをしたまま目を(つむ)った。
 頭の中には、先日まで共に暮らした小太郎の事があった。強がりを言い国に帰したが、寂しさが残る。
 ――何も急いで国に帰す事はなかったのだ。和代がとやかく言ったとしても木崎殿が抑えてくれたはず。いつまでも小太郎と一緒にいたいと言えば、女々しいと笑われると思った。何日また会えるか判らんと言うのに……
 隆佐衛門は、この道場をどうするか考える事にした。
 ――買い取ってしまったが、このまま放っておく訳にもいかんだろう。家とは人が使わぬと古びるのが早いと言う。しかし、拙者が道場主になるのもな……
 どこかで鳴いているのか、犬の遠吠えが聞こえる。

 登世は、ふと目を覚ました。隣に寝ているはずの隆佐衛門がいない。(かわや)? しかし、なかなか戻ってこない。眠気は覚めてしまった。真夜中に何処かに出掛ける? 登世は隆佐衛門を信じている。まさか、とは思うものの余りにも戻りが遅い。月明かりが差し込む

(2)





が、部屋は暗い。自然、思いも暗い方へといってしまう。店の方で物音がした。隆佐衛門であろう。登世は寝床に潜り込んだ。
 隆佐衛門は登世を起こすまいと、そっと寝床に入った。気付かれなかったようだ。

 翌朝、登世の雰囲気がよそよそしい。隆佐衛門は気になったが、朝餉(あさげ)の後、道場に向かった。

 道場には見慣れぬ若い男が二人いた。熱心に稽古をしている。隆佐衛門が近づくと不審な目つきで見つめた。
「失礼だが、我々の稽古の邪魔になるが……」
 さすがの隆佐衛門も、この言葉には驚いてしまった。
「邪魔するつもりはない。だが、何故この道場で稽古をしておる」
「何故も何もない。北町奉行所同心、木村隼人様から聞いて参ったまでのこと。この道場は誰が使っても良いと言われておる」
「何っ! うーん」
 隆佐衛門は唸ってしまった。隼人め、何とも勝手な振る舞い。拙者の許しも得ずして……
「どなたかは存ぜぬが、この道場を使いたいのであれば我らと同じ思いの者と言えます。しばし、お待ちくだされ。後程、拙者がお相手(つかまつ)る」
 隆佐衛門は、とやかく言うのを止め、壁際に座った。
 ――世の流れとは面白いものだ。自分の事でありながら他人が好きなように動かしよる。

「お待たせいたしました。拙者、北町奉行所同心東小平太(あずまこへいた)と申します。一手、お手合わせを」
 隆佐衛門は、小太郎の代わりに小平太が来たかと苦笑した。もう一人の侍は会釈をして道場を後にした。
 二人は対峙した。小平太の腕は悪くない。だが、まだまだ若い。

(3)





実戦を経験していないようだ。
 何手か合わせたが、隆佐衛門の相手ではなかった。

「ありがとうございました。さぞかし名のあるお方とお見受けいたしましたが、宜しければお名前をお聞かせくださいませんでしょうか」
 小平太、一本も取れなかった自分にイラついている。隆佐衛門は名乗り、話しだした。
「小平太殿、この道場は拙者のものじゃ」
「えっ! 何とっ! 先ほどの失礼は平に……」
 小平太、床にへばり付いた。
「まー良い。しかし、隼人が誰でも使って良いと申したそうだな」
「はい。剣道を志す者は誰でもと……」
「そうか……」

 隆佐衛門は隼人に先を越されたと思った。誰でも使える道場。隆佐衛門が、昨夜考えた事と同じである。隼人め……。隆佐衛門が苦虫をつぶしたような顔付きになった途端、ひょこひょこと軽い足取りで隼人が入ってきた。
「おうおう使っておるな。隆佐殿、この者は小平太じゃ。まだ若いが剣道に対する気持ちだけは殊勝なものがある」
 隆佐衛門は隼人に付いていけない。
「隆佐殿、看板だ、看板。道場に看板を掛けるのじゃ。急いだ方が良いぞ。看板には何と書くつもりじゃ」
 隆佐衛門は思った。
 ――好きにせよ。
「拙者はな、気侭(きまま)道場が良いと思う。誰でも気侭に剣道ができる道場。いや、剣道に限らん。何でも良いのじゃ。何かを遣りたくなったら気侭に使える道場。どうじゃっ! 面白いと思わんか」
 隆佐衛門は、ただ聞いているばかりである。

(4)





「しかも金はとらん。ただじゃ。どうせおぬしは閑であろうが。道場主としてふんぞり返っておれば良い」
「隼人、勝手に決めておるが、拙者も金を稼がなくてはならん。ただと言うのはな……」
「何を言うか。あれだけの褒美を貰っておきながらケチった事を申すでない」
「まだ、あの褒美を言うのか。くどいのう」
「当たり前だ。拙者の計算では、まだまだ余っているはず。おぬし良いではないか。どんな道場になるか判らんが楽しいとは思わんか。そのうち弟子ができ、金を払う者が出て来るとも限らん」
 そう言われてみれば何かが起こるかも判らないのが人生。婚礼を控え、何事にも積極的な隼人に従う事にした。

 登世は、あの夜のことが気になっていた。翌朝、それとなく訊いてしまえば、どうと言う事はなかったのであろうが、日を置いてしまうと大層な事のように思えてきてしまう。
 ――隆様は夜中に出掛けた事など、もう忘れているかも知れぬのに…… もし訊いたとしても、まさか驚いたりはしないはず。でもビクッとでもされたら……
 そのような思いに囚われていると、店先に隆佐衛門を尋ねて職人が来た。代金の支払いを求めた。金額を聞いて驚いてしまった。十両だと言う。聞けば看板の代金との事。初めて聞く話だ。十両もの看板。とにかく支払う事にした。

 隆佐衛門が戻った。登世は十両の話をした。隆佐衛門は聞いた途端、何ーっ! と叫んだまま、表に飛び出て行った。結局、登世は何も聞けず仕舞いだった。
 ――隆様は何も話してはくれない。

 隆佐衛門は道場に行ったが、尻餅を付かんばかりに驚いてしまっ

(5)





た。六尺ほどもあろうかという看板が掲げてあった。しかも、金無垢、いや、金箔を貼ったのだろうかキラキラと輝いている。
 ――隼人め……
 隼人の所に、とも思ったが、今更何を言っても始まらないであろう。ただガックリと肩を落すだけ。松浦に戻ろうとしたが、まだ看板を良く見ていない。振り返って輝く看板を読んだ。
 気侭(きまま)道場 道場主木谷隆佐衛門影房
 総ての文字は同じ大きさである。
 ――拙者の名前まで……
 とぼとぼと松浦に向かった。
 
 蕎麦処夢屋は、相変わらず繁盛していた。姉弟が住むようになってからは常吉は蕎麦打ちと蕎麦汁作りに、源衛門は蕎麦切りに専念できるようになった。良く働く姉弟だ。姉の喜和は愛想が良い。客からも好かれている。数馬はちょこまかと蕎麦を運んだ。身のこなしが良い。若い二人が注文を聞き蕎麦を運ぶ。自然、店の空気も明るくなる。
 ある日、店が終わってから喜和が数馬に訊いた。
「数馬、あなたどうするつもりですか?」
「えっ! どうするつもりって……」
「これからの事です。町人として生きていくのであれば、何か手に職を持たねばなりませんよ」
「あー、そのことですか。姉上、心配はご無用です。いずれ夢屋の暖簾を分けてもらいます。修行は大変でしょうが自信があります。それより、源衛門さんが私たちを自分の子供にしたいと言ってますが、姉上はどうするおつもりですか」
「このように同じ屋根の下で暮らしているのですから、すでに親子のようなものだと思うけど…… 何か特別の事があるのかしら」
「さー」

(6)





 常吉は、喜和が好きだった。明るく動きまわる喜和を見ていると元気だった頃の志津を思い出す。喜和は志津より幾つか年下だが、中々のしっかり者である。既に帳場を任せる程になっている。晦日(みそか)には四人で蕎麦を食べながらその月を振り返るが、売り上げと支払いは喜和が報告する。
 いつも注意されるのは常吉であった。蕎麦粉の仕入れである。問屋の言い値で買ってしまうのだ。
「蕎麦粉は値動きします。お蕎麦の売値は十六文と決まっています。安い時に買って置いた方が儲けが多くなります。もう少し相場にも気を回さなくては……。あの世でお志津さんが呆れていますよ」

 この時初めて喜和の口から志津の名前が出た。常吉は不思議な気持ちになった。会った事もない志津を意識しているのだろうか。源衛門も同じように感じた。

 絹は、片岡新左エ門の屋敷に園を訪ねることが多くなっていた。婚礼を控えた園の話は楽しかった。武家の女房としての修行がどのようなものか、絹は園から詳しく聞いていた。長刀(なぎなた)懐刀(ふところがたな)の使い方には絹も興味を持ったが、足首を縛り、着物が乱れないようにして懐刀で胸を刺すと聞いた時には流石に寒気がした。しぐさをまじえ、明るく話す園がいじらしくも感じた。
 そんな園が最後に言う言葉は決まっていた。
「隼人様と私……生まれた時から赤い糸で結ばれていたのだと思うの……」
 絹は、この言葉が出ると(いとま)する事にしている。二人の会話を再現し始めるからだ。
 絹は松浦への帰り道、急に道場に寄ってみたくなった。既に金ぴかに輝く悪趣味な看板については知っている。この看板、近所の評

(7)





判も良くない。目を(そむ)けながら門を通り、道場に入った。四、五人の若い侍が木刀を振っていた。皆、知らない顔だ。絹が壁際に座っても、チラッと目を遣っただけで稽古をしている。中の一人が絹に声を掛けた。
「さー、お嬢さん。一緒にどうですか」
「エッ! 一緒にとは……」
「剣道です。道場の持ち主は、誰でも気侭にこの道場を使って良いと言っています。看板にも書いてあったでしょう、木谷隆佐衛門様です。中々太っ腹な方です。茫洋(ぼうよう)とした感じのお侍ですが、実に腕の立つお方です。もっと我々を指導してくれれば良いのにと、皆、願っていますが滅多にお顔をお見せになりません」
「そうですか……。しかし、剣道と言われましてもこの格好では……」
「ワッハッハー。いや失礼(つかまつ)った。おっしゃる通りですな。お宅は近いのですか。身軽な格好に着替えてこられたら良い。思い立ったが吉日と申します。それが今日かも知れません。言い遅れましたが、拙者、北町奉行所同心東小平太と申します。おー、そうじゃ、拙者、お供仕りましょう。さ、行きましょう」
 何とも気忙(きぜわ)しい男である。人の話を聞かずに、さっさと表に出て絹を待っている。それほど気乗りはしないが言われるまま同道した。
 松浦に入ろうとすると小平太が言った。
「では、拙者は、ここでお待ちしましょう」
「いえ、どうぞ店の中でお待ちください。すぐに着替えてまいります」
 小平太は、店に並ぶ刀に見惚れていた。仁助が声を掛けた。
「お侍様、お気に召した刀がございましたら、お気軽にお申し付けください」
「いやいや、拙者には手が届かぬものばかり……」

(8)





「では、お買い求めは、いずれと言う事で……」
 と言いながら、二振りの刀を小平太の前に置いた。小平太は(かまち)に腰を置き、一振りの刀を手に取った。作法通り左手で鞘を抜き上げた。刀は侍の心を奪うものだ。小平太は、ただじーっと鈍く輝く刀身を見つめていた。
「お待たせしました」
 絹が声を掛けた。小平太は、ふっと顔を上げたが、框から転げ落ちそうになった。絹の後ろに隆佐衛門が居るのだ。
「木谷様っ! 何故、此処においでなのですか」
 隆佐衛門は思った。
 ――隼人め、おしゃべりなくせに拙者が何処に住んでいるかは言っておらんようじゃ。
「お嬢様。これはどういう事なのですか」
「ほほほー、木谷隆佐衛門は私の父です。私は松浦の娘、絹と申します。どうぞ宜しく」
 小平太は、口をポカンと開けたままだ。
「さ、小平太、参るとしよう」
 道すがら、小平太は奉行所同心になり日が浅い事、隼人は良き先輩である事などを話した。
 道場に着くと隆佐衛門は、五人の若侍に稽古を付けた。実に厳しい稽古だった。絹は気付いた。
 ――隆佐様は、本気で剣道指南を考えている。
「さ、小平太、絹に稽古を付けてやれ」
 小平太は、稽古に伴う基本的な事柄を話した。道場とは神聖な場所である事、常に綺麗に保たなければならない事、掃除や雑巾掛けは体の鍛錬になる事、また木刀の一振り一振りには気持ちを込めなければならない事、稽古相手を敬い真摯に対峙しなければならない事などを判りやすく話した。さらに剣道において何よりも大切な事は、心、技、体を一体化させ鍛錬することであり、どれ一つとして

(9)





おろそかにしてはいけない。心とは清く澄んだもの、技とは、自らを守るためのもの、体とはどのような状況であっても耐える事のできる土台のようなもの。話は続いた。隆佐衛門は思った。
 ――小平太の腕はまだ未熟だが、なかなか賢い所がある。奉行所には必要な人間だ。
「絹殿、話が長くなってしまいました。今日は素振りをしましょう」

 小平太が店に来た時、登世は帳場に座っていたが話に加わる気がしなかった。今日は、番頭の茂助とある大名に刀を納めに行く。
 帰りしな、茂助に言った。
「茂助、私、ちょっと散歩したくなりました。済まないけれど先に帰ってくれますか」
「へー、よろしご座います。たまにはのんびりしてくださいませ」
「ありがとう」
 
 登世は、松浦への帰り道を少し外して帰ることにした。とは言っても、ほんのちょっと道をそれるだけの寄り道。裏道、裏長屋、川沿いの細い道。登世は楽しかった。裏道には、晴れているのに水溜りがあったり、川沿いにはビチャビチャの小道があったり、そして猫が居たり、溝鼠(どぶねずみ)が居たり……。でも、何で猫は溝鼠を捕まえないのだろうか。猫は日溜りで髭を撫ぜている。
 ――ほれっ! 鼠を捕まえなさい。
 登世がけし掛けても、猫はじっとしている。
 ――全くもー。鼠を捕まえなさいっ!
 登世は、心の中で大声を出すが、猫はそ知らぬ様子。しばし猫を見ていたが拉致(らち)が開かない。
「もう知りません」
 と声に出してはみたものの、何か、はぐらかされた感じである。

(10)





 ある長屋の中通りを歩いていた。目の中に花が飛び込んできた。小さな丸い白い蕾。蕾には細く赤い筋が通っている。
 ――可愛い! こんな小さな花が……
 登世は、その花が咲く部屋の前に座り、見つめた。
 ――綺麗……
 時間が経つのも忘れていた。

「お内儀、余程、この花がお好きなようですな」
 気付くと痩せた老人が側に立っていた。
「あっ! いえ、このような可憐な花を知りませんでしたので」
「ホッ、ほっほー。確かにこの花は可憐です。私も大好きです」
「あのー、この花の名前は……」
「お内儀、見て綺麗だと思われれば、花はそれだけで幸せなはず。名前を知ってもらえれば、なお更、幸せと思うかも知れません。しかし、人間の気持ちなど関係なしに、花は綺麗な姿を見せてくれます」
「花を()でる気持ち……。忘れていました」
「名前でしたね。この花は幸せものです。花簪(はなかんざし)が、この花の名前です」
「花簪…… 素敵な名前……」
「綺麗な花であっても、変な名前を付けられることがあります。人間は勝手な名前をつけます」
「……」
「人間とは名前で判断する事があります。自分が見て綺麗だと思えば、それが綺麗な花。名前を聞いた途端、顔をしかめてしまう人もいます。自分が感じた事が一番大切なのに……」
「自分が感じたことが一番大切……」
「綺麗だと思うものは人によって違います。総て同じであれば、この世の中、面白くない」

(11)





「それはそうですが……」
「失礼だが、ご亭主とは好き合って夫婦になられたのかな」
「えっ、えー」
「そうですか。それは良かった。自分が好きだと感じた方と一緒になる。これが一番ですからな」
 登世の脳裏に隆佐衛門の顔が浮かんだ。
「ご亭主も同じ思いだったのでしょうな。こんな綺麗な方と……。幸せなご亭主だ。お内儀、要するにそういう事なのですよ。自分が感じた事が一番なのです」
「……」
 登世は、あの夜のことがまだ頭から離れないでいる。
「私、登世と申します……」
 ふと、表札を見て言った。
「小暮様で宜しいのでしょうか。あのー、またお邪魔して宜しいでしょうか」
「いつでも構いませんよ。閑な毎日を送っています。このような綺麗な方と話ができると考えただけで嬉しいものです」
「あのー、小暮様は、お武家様で……」
「ホッ、ほっほー。大昔の事じゃ」
 登世は、花簪の可愛らしさを思い浮かべながら松浦に帰った。

 隆佐衛門の部屋に隼人が来ていた。
「隆佐殿、奉行が屋敷をくれたぞ。あのボロボロ屋敷ともおさらばじゃ。あの屋敷で新婚生活もないものな。ところで、どうせ閑であろう。今から見に行かぬか。奉行は、既に表札だけは掛けたとおっしゃっている。小さな屋敷らしいが嬉しいではないか。いずれは拙者の義父になるが、良いところがあるお奉行だ」
 隆佐衛門は、何を面倒なと思ったが付き合うことにした。隼人の足取りは軽い。拙者の屋敷、拙者の屋敷とうるさいほどである。屋

(12)





敷の近くに来た。隼人はウキウキしている。塀が見えた。どうも古いようだ。いや、ところどころ板が(やぶ)けている。
「塀は、作りかえた方が良いな。ま、塀だけであればどうって事はない」
 塀を巡ると門が見えてきた。門もかなり古い。この辺になると隼人の元気の良さも、やや落ち込んできている。二人は門の前に立った。左側の門柱は傾いている。いや、倒れ掛かっている。隼人は下を向いている。
「隼人、確かにおぬしの屋敷のようだな。表札が掛かっておる。大きな立派な表札だな。しかも、真新しすぎて周りと合わん。金箔は貼ってない。おいっ、中に入ってみんのか」
 隼人は、帰ろうとしている。
「隼人っ! おぬしの屋敷であろうが。しかも、お園との新居。さー、中に入ろう」
「隆佐殿、拙者、今日の所はここいら辺で帰った方が良いように思うがな」
「何を言うか。さーっ!」
 隆佐衛門は、(かし)いだ門を開けた。静かに扉を開けないと壊れそうだ。二人で中に入った。唖然とした。草がボウボウで人間の背丈ほどもある。草を掻き分けて進むと、すぐ前に屋敷、いや、家らしきものが建っていた。流石に隆佐衛門も驚いてしまった。古材を立てかけ、その上に欠けた瓦を置いただけと言った方が良いような様相だ。隼人は涙を浮かべている。隆佐衛門も、掛ける言葉がない。
「隼人、人が住むのであれば、ちと手間を掛けなければな。表札だけは立派だが」
「……」
「ま、良いではないか、おぬしの屋敷だ。大事にせい」
「……」
「おい、何とか言ったらどうだ」

(13)





「おぬし、腹の中で笑っておるのであろうが。表札は立派、表札は立派と……。道場の看板を根に持っておるのであろう。どうせ拙者の人生は、こんなものよ。奉行も奉行じゃ。屋敷、屋敷と言っておきながら……」
 隼人は涙を流している。
「さてと、ここに居ても詮方ない。蕎麦でも喰いにいかぬか。屋敷の手直しは、ゆっくり考えれば良いだろう。さー、どうする」
「拙者は組屋敷に帰る」
 言うなり隼人はスタスタと行ってしまった。しかし、これは余りにも酷い。隆佐衛門も奉行片岡の気持ちを(はか)りかねていた。

 登世の出掛ける日が多くなった。今まで大番頭の嘉吉や番頭の茂助が受け持っていた仕事も、
 ――私が行ってきましょう。
 と登世が言う。番頭連中は、あー、散歩がてらなのだろうと思っていたが、度重なると不審な顔付きになる。隆佐衛門も気付いていた。絹に、何か知っているのかとそれとなく訊いたが、別に、そうですかと気にもとめていない。しかし、考えてみれば、登世と近頃話をしていない。夜も互いの部屋で寝ている。
 この日も店先に行くと登世が出掛けるところであった。何やら笑みを浮かべながら、いそいそと店を出ていく。変だな、とは思うがあえて訊く事もなかろうと部屋に戻った。

 登世は小暮の長屋に行くのを楽しみにしていた。花簪は、蕾から花へと変身している。何とも可愛い花だ。小暮の話も楽しい。笑い方も好きだった。ホッ、ほっほー、と鳩が鳴くように笑う。その度に頬が膨らむ。質素な生活をしているが、部屋はいつも綺麗に掃き清められ清々しい。
 小暮はかなり読書家のようだった。海の向こうにある大陸の文書(もんじょ)

(14)





も読んでいるようだ。話の一つ一つに教えが込められている。小暮はいつも、人間は一人一人が大切な存在だと話した。謙虚でなければとも話した。登世は聞くたびに、自分の心の狭さを感じた。隆佐衛門にも今まで通り心を開かなければと思うが、松浦に戻るとその思いも(しぼ)んでしまう。

 隆佐衛門は道場に顔を出した。この日は、小平太やその仲間連中に混じり、源衛門と数馬が来ていた。皆、汗を流し、体を動かしている。見ていると源衛門が傍に来た。
「おぬしは遣らんのか」
「拙者の事より、おぬし、刀は捨てたのではないのか」
「おう、刀は捨てた。しかし、木刀を捨てるとは言っておらんぞ」
「おぬしも適当じゃの」
 二人は笑った。
「ところで木谷さん、気侭道場を良く思っておらん連中がおるようだ。夢屋に来た侍が言っておったぞ。この道場も結構、評判になっておるようでな。道場主連中が自分らの商売の邪魔になると思っているらしい」
「そうか。しかしなー、流儀を掲げ師範を置いている訳でもなし…… 免状を渡す事もない。気にする事はなかろう」
「ま、注意するに越したことはないぞ。おうそうだ、絹殿だが…… 不思議な剣術を使うが、おぬしが教えたのか」
「絹が? 拙者、絹に刀を教えた事はないが」
「そうか。しかし、凄い上達振りだ。小平太など何本も取られておるぞ」
「絹がなー」
 隆佐衛門は理解できなかった。小平太が来たが、同じ事を言っている。
「木谷様、隼人様ですが……、近頃、全く元気がありません。何かあったのしょうか」

(15)





 隆佐衛門は屋敷の事だと思った。既に二月(ふたつき)ほどが経っているというのに、余程気落ちしたのであろうか。

 今、隼人は北町奉行片岡新左エ門の屋敷に居る。(かたわら)には園もいる。
「隼人、最近顔色が悪いがどうしたのじゃ」
「はっ、そのような事はございませぬ。今までと変わりない毎日でございますが」
「そうか。そうであれば良いがな。園も気にしておるようだが……」
「お父様っ! まるで園が言い付けたように思われます。私は、ただ仕事がお忙しいのですかとお訊きしただけです」
「隼人の仕事はいつも通り。別段、忙しくなどはない。そうであろう、隼人」
「はっ、仰せの通りでございます」
「であれば、園と共に居る時もおぬしは元気がない事になる。何かあったのか。有体(ありてい)に申せっ」
「お父様ったら、まるでお仕事中のような……。隼人様、お父様のお話は終わったようでございます。散歩にでも行きませぬか」
「おー、そう言えば隼人、二人でおぬし達の屋敷を見て参れ。園はまだ見てないであろう」
「あらっ! 嬉しい。隼人様、行きませぬか。園は、まだ家を見ておりません」
 隼人、急に下を向いてしまった。
「屋敷も良いのですが、今日は雨が振るやも知れませぬ。また、いずれ……」
「何を言うか。雲ひとつない良い天気。さー、行って来い」
 あの日以来、隼人は屋敷の近くにも行っていない。手を加えるだけで済む家ではない。建て直しが必要なほどだ。そのような金はな

(16)





い。憂鬱な毎日が続いていた。
 表に出た。園は嬉しそうに足を運び、何やかやと隼人に語りかける。しかし、隼人は、どうしたものかと暗い表情になる。そのうちに園も機嫌が悪くなっていく。
「隼人様、そんなに園と一緒に居るのがお(いや)なのですか。園は悲しい……」
 道に座りこみ泣き出す始末。隼人は、義父になるであろう奉行の無神経さにも戸惑っていた。あのような屋敷を見たら、園は悲しむに決まっている。しかし、このまま通りに(とど)まっている訳にもいかない。園を促した。
「済まぬ。ちょっと考え事をしていたのだ。さー、参ろうか」
 今度は隼人が饒舌になった。夫婦とは何事も零から作り上げていくものだとか、石の上にも三年とか……。屋敷が近くなった。饒舌だった隼人の声が静かになり俯きだしていった。この日は塀際の道ではなく、門の正面の道を歩いた。門が見える所に来たが隼人は顔を上げられないでいる。園の声が聞こえた。
「素敵ッ! 綺麗なお屋敷っ! まー、立派な表札も……」
 声を聞き、隼人は恐る々る顔を上げた。何と、真新しい門が建っている。例の表札が掛かっている。塀を見たが竹を組んだ綺麗な竹垣になっている。園に手を取られ門の中に入って行った。雑草など何処にも見当たらない。玄関までは飛び石が……。目の前には、小体な新築の武家屋敷。狐に鼻を摘まれたような気分だ。隼人は声を発する事ができなかった。やっと小さな声で呟いた。
「お奉行っ!」

 今日も登世は出掛けている。登世の事が気掛かりだが、隆佐衛門は道場に行った。
 何人もの侍。町人もいるようだ。中央に目を遣ると隼人である。

(17)





真っ赤な顔をして木刀を振っている。元気そのものである。屋敷の件は、どうなったのであろうか。黄色い声が聞こえた。何と絹もいる。ふと壁際を見た。見慣れない侍が三人ほど腕を組んで皆の稽古を見ている。どうも風体(ふうてい)が良くない。源衛門の言葉が思い出された。他の道場の者であろうか……。隼人が同心である事を知っているのだろうか、おとなしくしている。
 隆佐衛門は、絹の動きを見た。ふと源衛門の言葉を思い出した。絹殿は不思議な剣術を使う……。絹は、突きが好きなようだ。いや違う。まだ腕力がなく木刀を勢い良く振れないのである。申し合いで一本を取るには、突き以外にないのであろう。しかし身のこなしは良い。まだまだ、これからだ。隆佐衛門は微笑ましい気持ちになっていた。

「隆佐殿、おぬしは遣らんのか」
 隼人が傍に来た。
「いや、見に来ただけだ。おぬし、やたらと元気なようだがどうしたのだ」
「おうおうその事よ。お奉行は心持の優しいお方だ」
「何じゃ、ボロ家を見てしょげ返っていたのではないのか」
 隼人は事の次第を話した。隆佐衛門も、それでこそ父親というものと納得していた。
 と、その時……
「この道場では、真面目に剣道を遣ろうと思う者はおらんようだな。町人やら小娘やら……。まるで盆踊りではないか。神聖な剣道をなんと心得ておることやら」
 大きな声ではなかったが、道場内に良く響いた。三人の中で一番若い侍が言ったようだ。道場内の動きがピタッと止まった。隼人が三人に近づこうとしたが、隆佐衛門はビックリした。絹が、ツカツカッと三人の前に立ちはだかったのだ。

(18)





「あら、先程から何もせず、ただボケーッと見ているだけのお方が盆踊りとは……。このような時に殿方は片腹痛いと言うのでしょうね」
 三人の顔が引きつった。若い侍は片膝を立て、刀に手を遣っている。隆佐衛門は、しまったと思ったが、時すでに遅しである。隼人も困った顔で隆佐衛門を見ている。出番を逸してしまったのだ。
「小娘と思い下手(したて)に出れば調子に乗りおって。女とて容赦はせぬ。剣道がどのようなものか教えてやろう」
 若い侍が木刀を持って道場の中央に立った。隆佐衛門が体を動かそうとすると隼人が止めた。
「絹殿が危なくなった時まで、しばらく見ていた方が良い」
 隆佐衛門は仕方なく腰を下ろした。絹も木刀を持ち、侍の前に立った。
「拙者が、審判を勤める。二人とも良いな」
 隼人が言った。
 二人は型通り会釈をして対峙した。しかし、どう見ても大人と赤子の勝負。二人とも正眼に構えているが絹の木刀はユラユラ揺れている。侍は、せせら笑いながら木刀を上段に持っていった。
「イヤーッ!」
 木刀が振り下ろされた……が、木刀は床を叩いただけであった。すでに絹は、そこにはいない。振り下ろされる寸前にササッと右に動いていた。気を取り直した侍は、今度は左脇より木刀を斜め上に振り上げたが、すでに絹は二歩ほど後ろに下がっている。侍は、右八双の構えのまま絹を追いかけだした。前に行けば横に、横に行けば後ろに……。隆佐衛門は、尻ぱしょりをして逃げ出した絹の姿を思い出し笑ってしまった。
 同じ事が繰り返されたが、勝負は呆気なく付いた。侍が木刀を八双から上段に持ってこうとした瞬間、絹の突きが侍の喉に届いた。絹は、まだ寸止めなどは出来ない。腕力が無い事が幸いした。だが

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侍は、
「ゲーッ!」
 と喉を押さえ倒れ込んだ。真剣であれば絶命している所である。
「勝負ありっ!」
 二人の侍は若侍の所に駆け寄った。侍は泡を吹いているが命には別状ないようである。
「おぬしら何処の者じゃ。拙者は北町奉行所で同心をやっているものだが、この度の所業、余り格好よいものではないな。何処の者たちじゃ」
「我々は奉行所の世話になるような事は遣っておらん。何処の道場であるかなど、町方に言う必要はないと思うが」
「おう、別に(とが)になるような事は遣っておらん。名乗らんでもよい。いずこかの道場の者か。口を滑らせたのう」
 しまったとは思ったものの、もう遅い。
「おぬしら、此度の件、町人が喜ぶぞ。江戸中に噂が飛ぶ。良いな、逆恨(さかうら)みなどするな」
 二人は泡を吹いている侍を担ぎ、出て行った。

 隆佐衛門は絹の剣術が理解できた。相手の動きが完全に読めるのである。絹が人の心を読める事を知っている者はいない。いや、源衛門は気付いているかも知れぬが。
「絹は、ちょっと遣りすぎたようです。もっと、お(しと)やかにならねばなりません。父親の(しつけ)が悪いと娘はこのようになってしまいます」
 相変わらずの絹である。
 だが、この話は意外な方へと動いていった。町のそこ此処で女剣士の噂が流れ始めたのだ。

 気侭道場は大繁盛であった。いや無料である以上、繁盛とは言え

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ない。女剣士を見たいのであろうか見物客が多い。女たちも多い。隆佐衛門は別に気にしてはいないが、若い侍たちは、どうも気になるらしくチラチラと目を遣っている。

 深川にある料亭に何人かが集まっていた。泡を吹いた侍の道場主が他の道場主を集めたのだ。
「いかんな。実に宜しくない。気侭道場なる道場、どのように考えても我々の仕事の邪魔をしているとしか思えん。各々方は何とも思わんのか」
「近藤(うじ)、怒り心頭の様相である事は判る。おぬしの道場が面目丸潰れである事も判る。苦虫を噛み潰したような顔で毎日を送っているであろう事も判る。しかし相手は女じゃぞ。女子(おなご)相手に一本取られるようでは如何ともし難いであろうが。しかも泡を吹いてぶっ倒れたと言うではないか」
「金子氏、良くもそのような言いにくい事を……。少しは遠慮があっても良いものを。先日の集まりで、何とかせねばならぬと言ったのはおぬしらではないか」
「それはそうだが、何も道場まで押しかけ、しかも負けてくる事はないであろうが。金子氏の言う事は(もっと)もでござる。どのような指導をなさっているのか、(はなは)だ疑問でござる」
「そうじゃな。いくらなんでも女子に負けるとはな……。泡を吹いたのは要之助か。あやつ、腕は立つ方ではなかったのか」
「おぬしら良くも抜けぬけと言いたい放題。門弟は、三人しか残っておらん。少しは拙者を助けようとは思わんのか」
「近藤氏、おぬしのお陰で、我々の道場も被害を受けておる。神道無双流の看板を掲げておるが、流儀を教える道場は、まやかしとまで言う(たわ)け者まで出て参った。何代も前より受け継いできた無双流が泣いておるわ。あの道場には流儀などないと言うではないか。流儀も持たぬ剣道に負けるとは……。近藤氏、どのように責任をとるおつもりじゃ」

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「せ、責任となっ! おぬしら、そこまで拙者を愚弄(ぐろう)するのかっ! もう、おぬしらには頼まん」
 近藤は、ぷっと席を立ち、出て行ってしまった。残った道場主らは腕を組み顔に皺を寄せている。
「話しによると変わった剣法であるそうじゃな」
「おう、とにかくミズスマシのようにスーイッ、スーイと木刀を避けるらしい。要之助は一度も木刀を交えていないそうな」
「うーん。厄介ですな。しかし、あの道場の者は、皆そのような剣法を使うのでござるか」
「いや、その小娘だけとの事じゃ。他の者は我々と同じような剣法と聞いておる」
「しかし、各々方。小娘の件はさておき、要するにじゃ、あの道場が金を取らんのが問題なのではないか。趣味の悪い金ピカな看板には、道場主木谷隆佐衛門とある。拙者、一度()うてみようと思っておるが、どなたか同道せぬか」
「そうであるな、金を取るように言うてみよう。ついでに小娘の剣法も見てみたいものじゃ」

 松浦の店を一人の老人が覗いている。小暮である。茂助が気が付いた。
「さーさー、覗いていないでお入りください。さーさー」
 小暮、どうしたものかと思案したが入る事にした。登世は奥にいるのか、帳場には大番頭の嘉吉が座っている。
「ホッほっほー、ちょっと近所に用があったのでな、ついでと思い持って参ったのじゃが……、お内儀は居らんのかな」
 小暮は、手に下げていた花簪の鉢を差し出した。茂助が声を上げた。
「これはこれは、可愛い花ですねー。いやいや、これは可愛い」
 店の者だけでなく客たちも目を向け、小さな鉢の周りに人が集まった。客も含め、それぞれが花の名前を言い始めた。いや違う、こ

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れは何々だ。おぬしこそ間違っておる。これはな何々じゃ。丁稚まで一緒になり、これは何々だ、何々だと言い出す始末。何とも騒々しい。小暮は、そのような連中を見て微笑んでいる。
 ――皆、花を()でる気持ちを失っておらんな。良い事じゃ、良い事じゃ。
 客の一人が、小暮に聞いた。
「ご老人、皆の意見が食い違っておる。この花の名前を教えてくださらんか。拙者、このように花をじーっと見る事など久しくなかった。綺麗なものでござるな」

 その時、店が余りにもうるさいので隆佐衛門と登世が同時に店に顔を出した。二人が同時に小暮を見た。また、同時にアッと声を上げた。同じ動作と同じ言葉。何ともバツの悪いもの。苦笑(にがわら)いをしながら小暮に近づいた。小暮は二人を見たが、すぐに登世に言った。
「お内儀、近くに用があったものでな、花簪(はなかんざし)を持ってきた。庭にでも植えてはどうじゃ」
 周りから何人もの声が上がった。花簪…… 花簪だ。これが花簪か。

 小暮は鉢を渡すと店を出ようとした。ふと見ると、登世と一緒にいた男がひれ伏している。周りの者も気付いた。登世は隆佐衛門のこのような姿を見た事がない。どうしたのだろうと不審顔。

「先生、お久しぶりでございます。小暮紫雲斎(しうんさい)先生っ!」
「ホッほっほー、わしの名前をご存知のようじゃが、はて、どなたでござるかのー」
「木谷、木谷隆佐衛門にございます。お見受けしたところご健勝のご様子、隆佐衛門、嬉しゅうございます」

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 隆佐衛門は、涙を流している。
「木谷……隆佐衛門。おー、おー、おー、木谷の菊坊か。大きゅうなったな。立ってみよ。おー、おー、立派な男になった。はて、何故、おぬし江戸におるのじゃ。おー、そうか江戸詰めか。真面目な子供じゃったからのぅ。家督を継いだと聞いておる。勤めに精進しておるのであろう」
 紫雲斎、勝手に考え、勝手に話している。隆佐衛門は、まだ涙を流している。登世は、事情は判らぬが、とにかく部屋に案内した。

 隆佐衛門の部屋。紫雲斎を前に隆佐衛門と登世が座っている。登世が花簪の礼を言った。
「たまには、私がお内儀を訪ねてもと思ってな。立派な店じゃ。チラッと見ただけだが良い刀を揃えておるようだな。余程の目利(めき)きがおるのであろうな」
「先生、総て登世が選んでおります」
「おー、そうか。登世殿は優れた目利きなのじゃな。知らなんだ」
「小暮様、私のことより隆佐衛門様のことが聞きとうございます」
「ホッほっほー、木谷の菊坊じゃな。真面目に通ってきたわ。静かな子供でな。しかし、剣道に対する思いは凄かった。生意気にも何人かの師範に付いてな。理由を聞いたら言いおったわ。一つの型に(とら)われたくないとな。私も若かったからのぅ、徹底して鍛えたわ。良く付いてきた。ところで隆佐衛門、今は何をしているのじゃ」
 隆佐衛門は藩で起きた事や、その後の事を語った。

 小暮紫雲斎は、暮波(くれは)一刀流の道場に生まれ、祖父、父より流派の後継ぎとして厳しく鍛えられた。暮破一刀流には、上段、正眼、右脇、左脇の四方の構えを基本としているが下段がない。小暮家の人間は代々背が低い。開祖の小暮釆女(うねめ)も小男であった。釆女は、体が

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頑丈で腕力も滅法強かった。道場通いを続け腕を磨いたが、下段の構えを強いられると動きが取れなかった。刀が地面に着いてしまうのだ。一時は刀身の短い刀にしてみたが、やはり不利である。腕力があるため二尺五寸ほどの刀でも平気で振り回す事ができた。それに相手は、所詮自分よりも上背がある。何も下段にこだわる事はない。そこで下段を捨てた。腕力の強さが、基本の型を超えた自由奔放な刀の動きを可能にした。右に突く時は右手一本で、左に突く時は左手一本で刀を持った。前に突く時も右手一本。この方が刀が届く範囲が広くなる。このようにして繰り出される刀は小さい体を感じさせなかった。
 ある者が釆女に聞いた。では刀を二本持てば良いのではないか。しかし、釆女は一刀流にこだわった。刀を二本持つと気が散るとの理由だった。釆女の偉いところは、腕力がなくとも刀を自由に扱えるように型の流れを作った事にある。微妙な足腰の動き、そして腕の振り。これらの流れを暮波一刀流としてまとめた。
 紫雲斎は、若いうちに暮波一刀流を皆伝した。祖父、父は喜んだが紫雲斎は飽きたらなかった。ある日、二人に武者修行に行きたいと申し出た。まだ若かった父は、これを了承した。しかし、これ以降、紫雲斎は家に戻らなかった。
 紫雲斎は、諸国を歩き回った。どの藩でも剣道指南役を頼まれたが在藩は二、三年であった。隆佐衛門と出会ったのは、尾沼藩に逗留中のことであった。取り潰しに合った種臣(たねおみ)の先代、胤次(たねつぐ)の時代である。胤次は紫雲斎に家を与え、ここに永く住むように言ったのだが、紫雲斎は尾沼藩に三年ほど留まっただけで旅に出てしまった。この三年の間に隆佐衛門を指南した事になる。

「縁じゃのー、こうして菊坊のお内儀とも知り合いになっておる」
「先生、登世は、度々(たびたび)お邪魔を……」
「おうおう、よく来てくれた。嬉しい事じゃ。ところで隆佐、その

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先生と呼ぶのは止めてくれぬか。今はただの隠居の身じゃ」
「は、はい」
「隆様、小暮様と話していると楽しゅうございます。外回りの度にお邪魔しておりました」
「そうであったのかー」
 隆佐衛門の深い言い様に、登世はクスッと笑った。まー、何か疑っておいでだった様子。登世は、ちょうど良い、あの夜の事を聞くことにした。紫雲斎の前で、どのように答えるのか興味があった。
「隆様、何日ぞやの夜、長い間、床を離れていらっしゃいました。かなり経ってからでしょうか、耳を澄ませば店の(くぐ)り戸が開いた様子。すると、隆様が、そーっと戻ってまいりましたが……」
「あー、あの夜の事か。あの夜は眠れんでな。おぬしはグッスリ眠っておる。起こしてはいかんと、そっと床を離れた。拙者、あの夜は道場に行っておったのだが……。登世っ! おぬし何か勘違いをしておらぬか。翌朝より何かよそよそしくなったが」
「本当に道場に行かれたのでしょうか。どこぞの女子の所ではないのですか」
「こ、これっ! 先生……、いや紫雲斎殿の前で何ということを言う。恥を知りなさい」
「小暮様、道場なんて本当でしょうか」
「ホッほっほー、何とも楽しいお二人じゃな。登世殿、こやつは子供の頃から嘘を付けん男じゃった。多分、道場に行っておったのではないかのー」
「紫雲斎殿っ、多分とはどういう事でござるか。もっとも(あかし)を立ててくれる者はおらんが……」
 隆佐衛門は、むきになって話したが、二人は顔を見合わせ笑っている。
「さー、登世殿、もう良いであろう。ところで隆佐、おぬし道場を持っているのか」
「はい。ちょっとした事情がありまして持つ事になりました。どう

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でしょう、いずれ見にきていただけませんか」
 三人は庭におり、花簪を植えた。蕾と咲き始めた花が綺麗だ。
 庭にある草木の世話は隆佐衛門がしている。水遣りと掃除だけだが、花たちは季節になると綺麗な花を付けてくれる。
 たまに水遣りを忘れる事があるが、松が催促に来る。
「旦那様、草木はものを言えませんよ。いつも見ていてあげないと可愛そうです。ほれご覧なさい。あの花は下を向いていますよ」
「松、おぬしが水遣りをしても罰は当たらんぞ。気付いたら水を遣れば良いだろうに」
「まー、松は旦那様の楽しみを奪うほど、無粋な女ではございません。さー、急いだ方が良いですよ。枯れてしまってからでは遅いですよ」
 隆佐衛門、いそいそと水桶を取りに行く。松は廊下に腰を下ろして隆佐衛門の水遣りを見ている。
「そうです、それで良いのです。ご覧なさい旦那様、草木が喜んでいます」
 まるで、どちらが主人か判らない。

 早朝、隆佐衛門は道場に一人でいた。
「ご免っ! 木谷隆佐衛門殿はいらっしゃるかっ!」
 誰やらが尋ねてきたようだ。
「どなたか存ぜぬが、構いませぬ、お上がりください」
 どやどやと三人の侍が入ってきた。体格が良く図太い面構えの連中である。例の道場主金子以下二人である。
「拙者、神道無双流道場にて師範を勤める金子大善でござる。この二人もそれぞれ道場主をしております。此度は、ちと相談があって参った。宜しいかな」
 隆佐衛門は、おおよその察しがついた。
「どうぞ遠慮なく。何なりとお話しくだされ」
 金子が中心に、まず先日の無礼は、この三人には関係の無い事、

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無料というのは何とも困る事、このままでは道場経営が難しくなる事などを話した。隆佐衛門は、何も他の道場の邪魔をするつもりは毛頭ない。たまたまこのような流れになった旨、話した。

「師範がいる訳でもなく、流儀を掲げているでもない。免許などもない。所謂(いわゆる)、道場ではないですな。各々方、如何いたそうかのー」
 金子が他の道場主に聞いた。二人は、もうどうでも良いのではとの顔付きになっている。隆佐衛門を含め、四人が腕組みをしながら黙っている。静かな道場にけたたましい声が響き渡った。
「あらー、誰も稽古してないのー」
 隆佐衛門が振り向くと絹である。袴を着け準備万端。ドタドタドタッ! と道場に駆け上がってきた。車座になって渋い顔付きの五人に気付いた。
「し、失礼いたしました。お話の最中だったのですね」
 絹は、奥の部屋に行こうとした。
「あいや(しばら)く」
 道場主の一人が絹に声を掛けた。
「恐れ入るが、お聞きしたい。ミズスマシ剣法をお使いになるのは貴女(あなた)様でございますか」
 絹は目を丸くした。ミズスマシ剣法? 目を見開いたのは絹だけではなかった。隆佐衛門も、何じゃ、との顔をしている。
「今、巷では、気侭道場にはミズスマシ剣法を使う女剣士がいるとの噂が広まっております。拙者はそのような剣法を見た事も聞いた事もござらん。もし、貴女が、その女剣士であれば、ミズスマシ剣法をお見せいただけないものか」
 他の二人も真面目な顔で頷いている。絹と隆佐衛門は顔を見合わせた。ミズスマシ剣法?
「あのー、私は、この道場に通いだして、まだ日が浅い者です。先日、たまたま若いお侍様と木刀を交えましたが、必死に動き回った

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だけでございます。終わってみればお侍様は、泡を吹いて倒れておりました。私自身、驚いている状態です。お見せ頂きたいと申されましても、どうして良いものやら、戸惑ってしまいます」
 隆佐衛門は神妙な顔付きで一言一言に(うなず)く。三人は顔を見合わせたが、一人が言った。
「では、拙者とお手合わせ頂けませんか」
 隆佐衛門と絹が、また顔を見合わせる。隆佐衛門は、良いのではないかとの表情を見せた。
「あのー、私もいろいろな方に稽古を付けていただきたいと思っております。もし、稽古を付けていただけるのであればお相手させていただきます」
 などと話していると、玄関にもう一人が訪れた。

「お話し中、失礼仕る。木谷殿はいらっしゃるかな」
 隆佐衛門が顔を向けると、玄関に紫雲斎が立っていた。
「紫雲斎殿っ! 遠慮はいりませぬ。こちらへどうぞ」
 隆佐衛門は、丁寧に紫雲斎を道場に招いた。
「ホッほっほー、何かが始まろうとしておるな。見物させていただこうか」
 睦月(むつき)馬之助が中央に進む。絹も、おずおずと道場の真ん中に進んだ。何とも奇妙な手合わせである。片や頑丈な体付きの苦みばしった侍。こちらは、頬も(くれない)年端(としは)も行かぬ乙女。仕方がない、隆佐衛門が審判を勤めることにした。挨拶を交わす二人。
「いざっ!」
 二人は対峙した。馬之助は真面目であった。静かに木刀を正眼に置いた。絹は、ユラユラ揺れる木刀を前屈みになった体の真ん中に持った。必死の形相。まるで仇討ちをする有様(ありさま)である。紫雲斎は、登世と話す時とは全く違った顔付きになっている。
 馬之助は、ユラユラと揺れる木刀にも戸惑ったが、何よりも解せ

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なかったのは、絹の隙だらけの構えにあった。これは、ただ木刀を持っているだけの構え。この娘に要之助は負けたのか。馬之助は困惑の中にいた。正眼に構えた木刀を、ツツッと前に動かした。絹に変化はない。正眼を八双に持っていった。これまた、絹に変化はない。上段に……下段に……。こちらの構えの変化に全く動じない。
 ――どうすれば良いのか。
 馬之助は木刀を片手で持ち、ダラーッと下げた。絹は攻めて来ない。これでは勝負にならない。金子を見たが、金子も困惑の面持ちである。拙者は、もう知らんとの表情。馬之助は仕方なしに掛け声を掛けて見た。
「ウリャ、リャーッ!」
 絹は、ビクッとしたが、それだけ。馬之助は型通りに木刀を動かす事にした。
「ウリャーッ、オリャーッ!」
 そのたびに、絹は、ススー、ススーと体を動かす。四半時ほど経ったが、誰が見ても試合になっていない事は判る。馬之助が声を上げた。
「あいや、ここまでとしたい」
 皆、納得したようである。隆佐衛門も仕方なく、
「これまで」
 と声を上げた。馬之助は、どうにも所在ない様子。絹は、まるで何か悪い事をして、叱られる寸前の子供のように肩を落している。全く手合わせにはなっていなかった。何となく道場内に白けた雰囲気が流れた。何か言わねばと誰もが思っているが、何をどう言えばよいか思案している顔付きである。

 その時、紫雲斎が声を上げた。
「絹さんと言ったかな。どうじゃ、まだ木刀を持つ気はあるかな」
「は、はい」
「そうか、よしよし。では、わしも久しぶりに木刀を握ってみるか

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な。絹さん、お相手をお願いできるかな」
「でも、やはり私は、まだ皆様のお相手は出来ないのでは……」
「ホッほっほー、身に危険が迫った時に、そのような事を言って、相手は引き下がるかな。何やら女剣士との噂を耳にしたが、どうも絹さんのことのようだが……。絹さん、世の中には馬鹿な者がおってな、そのような名前を聞くと打ち破ろうとして刀を抜いてくるのじゃ」
 隆佐衛門は、ハッとした。紫雲斎の言うとおりである。噂とは一人歩きをする。いつ何時、絹は襲われるか判らない。この時になって隆佐衛門は事の重大さに気が付いた。
 紫雲斎は道場の中央に立ち、絹を促している。絹は立ち上がり、紫雲斎と対峙した。木刀を構えた紫雲斎の体がキリッとした。隆佐衛門は驚いた。一部の隙もない構えである。小さい体が大きく見えてくる。
 ――先生は、健在だ。変わっていない。

「絹さん、拙者はな、このように木刀を持つとな、相手が誰であっても打ち倒す事にしておるのじゃ。済まぬがな、今も同じ気持ちでおる。わしはな、手加減などという言葉を知らん」
 紫雲斎の気迫は、もの凄いものだ。絹の顔付きも変わった。紫雲斎は絹をしっかと見据え、正眼に構えた木刀を右八双に持っていき左足を一歩進めるや、いきなり斬り掛かった。
 絹の動きは一瞬遅かった。紫雲斎の木刀の切っ先が絹の左袖に触れた。バシッと音を立て袖が切れた。絹の顔は蒼白になっている。例のへっぴり腰のまま木刀を正眼に構えてはいるが、木刀はユラユラ揺れている。絹も紫雲斎の目を睨んだ。あの老人の目が爛々と輝いている。まるで獲物を見据える猛獣のような感じである。絹は紫雲斎の動きが読み取れてきた。
 ――来るっ!
 紫雲斎は、素早い動きですすっと前に出た途端、上段から絹を目

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掛けて木刀を振り下ろした。隆佐衛門はドキッとした。無茶なっ。思わず目を瞑ってしまった。カスンッ! と気の抜けた音がした。目を開けると絹は、ほんのちょっと体を左に回し、木刀を体の中心に立て、あの木刀を受け流していた。頭の上で木刀を水平に、もろに受けていれば木刀をへし折られ、脳天を割られていたであろう。紫雲斎は木刀を左斜(ひだりはす)下段に構えた。暮波一刀流には、下段の構えはない。左脇構えの木刀を、少し下げた程度のものである。紫雲斎は、この構えのままスススーッと前に出た。合わせて絹も下がる。紫雲斎は、引くと見せかけ、絹が前に出る瞬間に左斜上から木刀を打ち下ろすつもりでいた。これであれば絹が見切っていた木刀の距離を狭めることができる。ツッと体を引いた。さっと木刀を斜め上に持っていき、一気に踏み込もうとした。が、何と絹の体がない。気付くと木刀を左脇腹に押し付けた絹が、自分の腹に密着していた。紫雲斎は右脇腹に鈍痛を覚えた。一本、取られてしまった。
「絹さん、痛いのー」
「あっ! 済みません。だって、先程の方は稽古の雰囲気でしたが先生は違いました。年端(としは)も行かない乙女に、本気で打ち込んで来るんですもの」
「う、うー。痛いなー。絹さんは脇差で大丈夫じゃな。二尺もの刀を差して歩くのは重いじゃろう。着物に合った(こしら)えの脇差であれば目立たん。登世殿に言えば見つけてくれるであろう。当分は気を付けた方が良い。しかしまー、年寄り相手に。少しは手加減をしてくれても良いものを。おー、痛ッ!」
「あら、先程、先生は手加減という言葉を知らんとおっしゃっていましたよ」
「相手に対してはそうだが、受けるとなると話しは違う」
「まー、都合の良いこと」
 道場内に笑い声が起こった。もう一人の道場主、榊原景樹が隆佐衛門に訊いた。

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「先程、紫雲斎殿と申されたが小暮紫雲斎殿でござるか」
「いかにも」
「ひゃー、暮波一刀流の紫雲斎殿かっ! ま、まだ、ご健在だったのですか」
 榊原は金子と睦月に耳打ちしている。二人もひゃーっと声を上げた。三人は横になっている紫雲斎にツツッと近づいた。三人が同時に言った。
「先生っ! 是非、私の道場に来てくださいませぬか」
「ホッほー」
 笑い声が途中で止まった。
「笑わせるものではない。脇腹が痛いのだ。わしはもう隠居じゃ。今日は、ちと動いたがな。年寄りの冷や水。もう()りたわ。とは言え、この道場は気にいった。散歩がてら、ちょくちょく覗いてみるかな」

 三人がいなくなると、紫雲斎は隆佐衛門と絹に言った。
「絹さんは相手の動きを読めるのじゃな。先程も言ったが馬鹿者がおる。充分に気を付けねばならんぞ。絹さん、極稀(ごくまれ)にじゃが、全くの無心で刀を使う者もおる。そのような相手の場合、絹さんの剣法は通用せん。そのような時にはな……」
「尻っぱしょりで逃げまする」
「ホッほっ……。痛っ! その通りじゃ。良いな、逃げるが勝ちじゃ。絹さんの尻っぱしょりか……。大勢が集まってくるじゃろう。そうなれば相手も手出しはできん」

 隆佐衛門は紫雲斎を松浦に連れていった。部屋に寝かせ医者を呼んだ。
 登世は話を聞き、絹に言った。
「駄目ではないですか。このようなお年寄りを……」
 登世は、紫雲斎が現役の剣士である事を知らない。

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 庭には、丸く小さな白い花をつけた花簪が風に揺れていた。

 絹は、まさかとは思うものの紫雲斎の言う通りにした。登世に頼み、脇差を捜してもらった。(さや)は薄い紺色で小さめの(つば)柄巻(つかまき)が薄い緋色の脇差が見つかった。登世は、絹に余り出歩かないように言った。普段であれば、何か一言口ごたえをする絹だが、この時は素直に返事をした。絹は、道場にも顔を出さなくなった。

 三人の道場主たちは面白い事を始めた。流儀、流派は異なるが各々の良さを取り込んだ新たな流儀を作り出そうとしていた。研鑽(けんさん)は、人間を進歩させる。門弟たちの行き来も多くなり、三つの道場には活気がみなぎっていた。
 その動きに反し近藤道場は、ただ忸怩(じくじ)たる思いの中にいた。特に、要之助は道場に留まってはいるものの稽古もせず、ただ暗い顔で毎日を送っていた。近藤も他の道場主の仕打ちに煮え返るような思いを抱いていた。このままでは、この道場は駄目になる。要之助の不甲斐なさにも(かん)(さわ)る。
「要之助、おぬしの剣術は何だったのだ。恥を掻くために稽古をしていたのか。近藤道場の三羽烏などと(おだ)てられ、()い気になりおって。何じゃ小娘なんぞに……。お陰でこの道場もこの有様じゃ」
 要之助は居たたまれない気持ちで聞いている。あれは剣術などではない。真っ当な勝負であれば負けるはずはない。いくらそのように考えても、負けたと言う事実は消えるものではない。何故、このような事になってしまったのか。街を歩く事も出来ない。誰が言うともなく()(がらす)との渾名(あだな)が流れている。家に帰る事も出来ない。厳格な父親は、顔をそむけ、恥さらしと言う。要之助の居場所はなくなっていた。出歩くのは夜だけ。自然と足は居酒屋へと向かう。それほど呑めもしない酒を無理に呑む。真面目に剣道に打ち込んでいた要之助は、(すさ)んだ男になっていった。

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 絹は久しぶりに園を訪ねた。園は絹に新居を見せたいと言った。新居は片岡の家からさほど遠くない所にある。屋敷に着くと隼人が庭いじりをしていた。
「どうです、この樫の木。まだ苗木だが、我々二人が年輪を重ねるように年とともに大きくなっていく。楽しみです」
 余程、この屋敷が気に入ったのであろうか、隼人らしくない詩的なもの言いをする。園も潤んだ目で隼人を見ている。絹は、そろそろ始まるなと思った。
「絹さん、隼人様と私は……」
 園が言い終わらないうちに、絹は(いとま)を告げた。隼人はアレッと顔を向けたが、絹は、
「では」
 と一言つぶやき、屋敷を後にした。赤い糸は聞き飽きている。
 ――園さんは、良い人なんだけど……

 ふと気付くと誰かに後を付けられていた。殺気すら感じる。紫雲斎の言葉が思い出された。誰なんだろう。神経を集中する。明らかに自分を狙っている。尻っぱしょりで逃げるか。しかし、相手が何処にいるのか判らない。脇差の柄に手を遣ったまま早足で歩く。相手は近づいて来るようだ。絹は角を曲がり、数歩進んでから振り返った。相手の男は曲がりっぱな、絹とばったり顔を合わせ、ビクッとしたようだった。見れば月代も伸び放題、汚れ切った着物をまとった浪人が立っていた。すでに左手を刀に置き、親指で鯉口を切ろうとしている。ニヤニヤと笑いながら言った。
「済まぬが金が要り様でな。おとなしく付いて来てくれぬか。親に金を持ってくるように言ってくれればそれで良いのだ。どうだ簡単だろう。金を受け取れば逃がしてやる。殺したりはせん」
 絹は、女剣士の噂には関係がないと思った。さらにこの男が言う事は嘘であることも判った。殺した上で身に付けている物を届け、両親から金を取るつもりだ。大声を出しても人が来る前に殺られる

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かもしれない。後ろを向いて逃げるには近付き過ぎる。このままでは居合いで殺られる。絹は、生まれて初めて恐怖を感じた。どうしよう。
「さー、言う事を聞いた方が良いぞ」
 浪人が絹の肩に右手を掛けようとした。絹は咄嗟に体を屈め、脇差を抜いた。浪人は無言で刀を抜き、そのまま無造作に左上から斬り下ろした。絹は、さっと右へ動いた。絹は脇差を構えながら思った。脇差は木刀より軽い。絹は履物を脱ぎ捨てた。足袋の方が動きやすい。浪人は左手を鞘に置いたまま、右手一本で刀を持っている。浪人は苛ついているようだ。刀を振り回し始めた。絹は冷静になってきた。しかし、着物の裾が邪魔である。すすーっと後ろに下がった。何と着物の裾を膝の辺りから縦に切り裂いた。浪人も驚いたのか、一瞬、戸惑ったようだ。間髪を入れずに、絹は隼人の屋敷を目指して走り出した。自分でも判った。きっと凄まじい格好だわ。これでは当分、お嫁に行けない。浪人の足も速い。隼人の屋敷に近づいた所で追い付かれてしまった。

「娘っ! 小癪な事を…… 。だがな、これで終わりだ」
 浪人が上段から刀を振り下ろした。キシーンッ! 何と、絹は見事に受け流した。絹は大声で叫んだ。
「隼人さーん、園さーん。助けてーっ!」
 なおも浪人は斬り込んでくる。動きは読めている。しかし、真剣は、やはり怖い。浪人が刀を横に払った。絹はさっと後退りした。が、石に足を取られ尻餅をついてしまった。刀が上段から振り下ろされた。絹は、ごろごろっと転がった。その時、隼人が飛び出してきた。
「絹さん、大丈夫か。さーっ、拙者が相手だ」
「小癪なっ!」
 浪人は遮二無二斬り込んできたが、場所が悪かった。絹がさっと伸ばした足にけつまずき、ドサッと倒れこんでしま

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った。隼人は浪人の腰をあらん限りの力を込めて峰打ちにした。浪人は気絶した。
 園が、恐々(こわごわ)顔を見せた。
「絹さん。良かった」
 園は、その場に泣き伏してしまった。ふっと、我に返った絹。両足は太腿(ふともも)まで剥き出し。あられもない姿にしばし呆然としてしまったが、咄嗟に、
「隼人さん、見ちゃ駄目ッ!」
 と叫んだ。

 隼人と園に連れられ絹が戻ってきた。登世は腰を抜かさんばかりに驚いてしまった。隆佐衛門も自分がその場に居なかったため、話を聞いておろおろしている。かと言って家に閉じ込めておく訳にもいかず思案顔でいる。絹も流石に静かにしている。
 絹の災難は、まだ続いた。

 ある夜、絹は部屋で日記を書いていた。カタンと廊下で小さな音がした。障子を開けると紙に包まれた物が落ちている。手に取ると小石だった。紙には、女狐と書いてある。
 誰かの悪戯(いたずら)か嫌がらせであろうか。次の夜も同じ事が起こった。今度は、妖怪(ようかい)と書いてあった。絹は、両親には心配を掛けまいと話さなかった。次の夜、神経を外に集中していた。が、何も起こらなかった。

 ここ数日、絹は外に出ていない。例の浪人は腰の骨を折り、牢屋で寝たきりだと言う。いずれ、死を待つ以外にないらしい。嫌な話だ。絹は、暗い表情で毎日を送った。そんな絹を園は尋ねてくれるし、努めて外での楽しい話をしてくれる。園は近頃赤い糸を言わなくなっていた。この話をすると絹が暇を言う事に気付いたのだ。絹には園の優しい気持ちが痛いように判る。しかし、置かれた状況は

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余りにも違っていた。嫌がらせを受け、ややもすれば命まで狙われるかも知れない自分。
 隼人は、狭い庭にせっせと草木を植えていると言う。陽の光の下、二人が楽しそうに草木を植え、水を遣っている姿が浮かぶ。絹の目に涙が浮かんだ。園の前で涙を流すのは初めての事。園は、そっと絹の肩を抱いた。小さい頃、母に抱かれた記憶はある。しかし、その時とは違った安らぎがあった。

 絹は、一人で出掛ける時、遠回りでも表通りを歩くことにしている。昼間だった。大通りを歩いていると周りの者が(いぶか)しげな顔で見る。中には顔をしかめる者もいる。どうしたのだろうと、ふと振り返ると、絹の真後(まうし)ろを女の乞食が歩いている。明らかに絹と二、三歩の距離を保っている。半町ほど歩き、また振り返ったが同じだった。女乞食は、ニヤニヤ笑っているだけだ。絹は路地に入り、その女に聞いた。
「物乞いでしょうか」
「うんにゃ、何も欲しくねぇよ」
「先ほどから私の後を付けているようですが、何ぞご用でもおありなんでしょうか」
「別に……用もねぇよ」
「どなたかに頼まれたのですか」
「そんな事、言えねぇよ」
「では、何時まで私の後を付けなければならないのですか」
「もう少しだ。ほれっ、あの角までだ。あそこまで付いていけば終るよ」
「そうですか。姐さんにも何か事情があるのでしょう。あそこの角までご一緒します。さーっ、行きましょう」
「へーっ! あんた優しいんだねー。判ったよ。此処まで付いてきたんだ、もういいだろう。ねー、あんた。気を付けた方がいいよ。変な男が居るからね」

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 そう言うと女乞食は、ひょこひょこと路地の奥へと行ってしまった。嫌がらせである。女は、変な男と言った。誰だろう。小石を投げた男と同じ男だろうか。
 大通りに出た。急いで帰った方が良い。絹は足早に松浦に向かったが、今度は子供たちが寄ってきた。ワーイ、ワーイと言いながら泥だらけの手を着物に()りつけてくる。絹は立ち止まった。
「坊たち、どうしたの。お姉ちゃん、当ててみようか」
「判りっこないよー」
「誰かが、この遊びを教えたんでしょう」
「違わーい。変なおじちゃんが、お姉ちゃんを指差して、綺麗な着物だから汚して遣んなさいって言ったんだーぃ! そんな事できないよって言ったら、綺麗な着物を着ていると、悪い人に襲われるんだってさー。でも、助けてあげるのはお姉ちゃんだけでいいんだって。駄賃くれたよ」
「そうだったの。お姉ちゃん、助かったわ。さっ、行きなさい」
 子供たちは、ワーイっ! と走り去っていった。絹は泥の付いた着物を拭こうともせず、たたずんでいた。こうしている間にも、その男は私を見ているのだろうか。子供まで騙して……。許せない。絹は、その男に哀れみさえ感じた。

 店に子供が来た。絹宛に手紙を預かったと言う。松は手紙を絹の部屋に持ってきた。
「絹さん、差出人が書いてありませんよ。読まない方が良いのではないですか」
「松さん、大丈夫よ。さっ、お店の方に……」
 しかし、松は動こうとしない。松も絹に元気がない事を知っていた。心配なのだ。
「判ったわ。此処で読みますから」
 絹は封を開けて読み出した。恋文だった。恋々と思いが綴られている。絹の仕草、話し様、笑い方……。その総てに対し心魅かれる

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とあった。絹には、これほど親しく接した者を思い出せない。
「松さん。これ……何かの草双紙(くさぞうし)を写したものだわ。私が書道の稽古に通っている事を知っている人が、見本にと送ってくれたようね」
 これは嘘であったが、松は、あら、そうですか、と部屋を出て行った。
 絹は続きを読み出した。誰であろうか。時刻、場所…… 是非、お会いしたいと結んである。差出人は、絹様に思いを寄せる者と書いてある。もう一度、読み返して見た。絹は、ある一行に目が止まった。
 ――しなやかな身のこなし……
 絹は、踊りは習っていないし人前で踊った事もない。普段から姿勢良くキリッとしている。しなやかに振舞ったことなど……。判ったっ! 剣道である。しかも柔らかに体を動かしたのは、手合わせの時だけ。回数は、四回ほど……。要之助、馬之助、紫雲斎、例の浪人。絹には、手紙を書いた相手が判った。要之助だ。

 絹は要之助の指示通り、亥の刻、神社に行く事にした。隆佐衛門に頼もうかとも思ったが、何故か自分一人で対処したかった。それが、どれほど危険であり無謀なことであるかは判っていた。流れとは言え、自分が関わったことで一人の男が尋常ではない世界に落ち込んだのだ。殺されるかも知れない。いや人を殺すかも知れない。どのような結果が待っていようが、絹は良いと思った。薄手の着物に袴を履いた。刀は脇差。静かに松浦を出た。

 静かな夜だった。脇差に左手を置き、神社に向かった。月明かりに自分の影が薄く見える。この時刻、すれ違う人など居ない。神社に着いた。杉の大木。石畳。絹は、何も考えずに石畳を踏んだ。広く開けた場所に着いた。ボヤーッと人が立っているのが見える。絹は近づいて行った。

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 ――しまったっ!
 絹は、自分の甘さに呆れてしまった。要之助一人が居ると思っていたが違った。要之助と離れてはいるが、両脇に二人の気配を感じた。今更悔やんでも何の意味もない。静かに前に進んだ。ぼやーっとした姿。顔が見えてきた。何やら薄笑いを浮かべているようだ。これが、あの要之助であろうか。絹は歩みを止めた。二人は、三尺ほどの距離をおいて対峙した。
「来たか妖怪女狐(ようかいめぎつね)め。一人で来るとは良い度胸だ。人の人生を台無しにしおった女狐。今夜で総てが終わる」
 絹が感じるのは要之助の殺意のみ。要之助が静かに刀を抜いた。ぶらーっと右手に刀を持ち、ゆらーっと立っている。要之助が何をしようとするのか、絹は読めなかった。
「悪いが、お前には死んでもらう。会わなければ良かったものを……。拙者の総てがお前に会った時から崩れてしまった」
 絹は、まだ要之助が何をしようとしているのか読めなかった。その時、要之助を挟み、両脇後ろから強烈な殺気を感じた。キリリッ! と音が聴こえた。絹は無意識に、さっと地べたに身を伏せた。

 ヒューッ! ヒューッ! と二つの音が。弓矢っ! 二つの矢が頭の上を越えて行った。絹は身動きが出来なかった。
「さすが妖怪女狐」
 言いながら要之助が近づいて来た。絹は地面に()したままだ。
「各々方、出て来て良いぞ。次の手じゃ。この女狐め、可愛い顔をしおって、相変わらず小癪な女だ」
 二人の侍らしき男が出てきた。要之助と違い、しっかりした足取り。三人が並んだ。
「ふふふー、冥土の土産に見ておけ。近藤の三羽烏だ。お前のお陰で、拙者は負け烏と呼ばれておるがな」
 要之助の心が読めない。何をしようとしているのか。絹は、まだ片膝を付いたままで居る。要之助が刀をダラーッっと持ったまま近

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づいてきた。それと同時に二人が刀を抜いた。要之助には斬り掛かる様子もない。絹は思った。今なら首を刺せる。しかし、思い止まった。
 ――妙だ。要之助は刺されようとしている。
 絹は、ゾーッとした。全身に寒気を感じた。絹が要之助の喉を刺す瞬間を待ち、二人が斬り掛かろうとしているのだ。自分は死んでも良い。同時に絹の命を奪えれば……。
 絹は、それほどまでに自分が憎まれている事を知った。要之助は三歩ほど手前に来ている。しかし、絹は片膝を付いたまま動かなかった。

「要之助、話が違うではないか。この女、何もせんではないか。これでは、我ら何も出来ん」
「ひゃっひゃっひゃー。何を今更。おぬしたちはな、つべこべ言わずに、この女狐を殺せばよいのだ」
「要之助、我ら頼まれて此処まできたが、これ以上は付き合えん」
「金を受け取っていながら何を言うのか。武士の風上にも置けん奴らだっ!」
「武士の風上だとっ! 姑息(こそく)な手段ばかり考えおって。(よしみ)と思い手伝ったが、もう知らん」
 二人は懐から金を取り出し、ポーンと投げた。
 チャリーン……
 何枚かの小判が石畳の上に跳び跳ね、くるくる回った。小判が地面に落ち着いた時、すでに二人の姿はなかった。神社には絹と要之助だけが残った。絹は、すでに気付いていた。要之助は刀を振り回せる体ではなかった。
 ――高々、数ヶ月で……
 あの時は、キリッとした若者の体であったのに。人間は年齢に関係なく、このような姿になってしまうのか。二人は、じーっと見つめ合っていた。月明かりに、ボヤーッと青白く見える要之助の顔。

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ただ大きく見開かれた目だけが異様に輝いている。顔には薄笑い。絹は片膝を付いたままだ。
「絹とか言ったな。何故に、お前に出会ってしまったのか。何故に拙者は、このような事になってしまったのか……」
 要之助は、自嘲気味にニヤッと笑った。二人は、まだ見つめ合っている。やにわに、要之助は刀を自分の胸に当て、そのまま倒れこんだ。グスッ! と妙な音がした。絹が気付くと目の前に要之助が倒れていた。背中には月明かりに鈍く光る切っ先が見えていた。
 絹は、どうしようもない(むな)しさに襲われた。

 ほぼ一ヵ月が経ったであろうか、絹は相変わらず部屋に閉じこもっている。隆佐衛門、登世が声を掛けても返事はない。園が来ても同じであった。

 絹は、ただ何も考えずに文机の前に座っていた。外で鳥の(さえず)りが聞こえた。
 ――鳥、鳥の声。綺麗な声……
 ふらふらっと障子を開け、表を見た。鳥はすでに飛び去った後だった。ふと庭を見た。
 風に揺れる綺麗な花が見に飛び込んできた。
 ――綺麗な花。小さな蕾と小さな花。
 絹は、庭に降り、その花を見つめた。

 ――お前は、何を考えているの。苦しみなどは感じないの。ただ綺麗に自分の姿を見せているだけ……。お前は、それで良いの……
絹が問いかけても、花簪は何も言わず、ただ風に揺れているだけであった。

                           (了)

              
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