フィルムのかなりの部分が欠落した無声映画であるのに加え、観てから随分時間が経ってしまったので、正直、このストーリー描写には自信がないことをあらかじめお断りしておきたい。
途中で、黄門たちに山賊が合流しているので、彼らの出会いのエピソードがあるはずなのだが、その辺は欠落している。
現存しているフィルムで確認できるエピソードは、讃岐藩の城主とさせた我が子が、今では無慈悲冷酷な領主になっていることを高松にやって来て知った黄門が、自ら領主を批判、わざと我が身を家臣たちに捕縛させ、知らずに自分を斬ろうとした我が子の前で嘆いてみせるという話と、荒れ果て、今や参りに来る人さえほとんどなくなった忠君楠木正成の石碑を新たに作り直す話が描かれている。
後半の楠公の石碑を建立するエピソードは、中川信夫監督の新東宝作品「天下の副将軍 水戸漫遊記」(1958)などでも描かれているが、その後はあまり観ることがない話のような気がする。(テレビシリーズでは描かれたことがあるのかもしれないが、残念ながら、テレビ版の「水戸黄門」はほとんど観たことがないので確信がない)
どうも、水戸光圀が忠君楠木正成の墓を詣で、荒れ果てていた墓に石碑を建立すると言う話は、戦前では良く描かれていたことらしい。
登場人物はほとんど観覚えのない俳優ばかりなので、名前と役がぴったり来ないし、大河内伝次郎なども出ているらしいが、どれがそれなのか判別できないし、その部分が欠落しているのかどうかすら分からない。(ひょっとすると、黄門に諭され、駕篭の片棒を担いでやる役人がそうかもしれない)
とは言え、話の設定や展開は大体お馴染みのパターン通りなので、特に観ていて理解できないような部分はない。
ちなみに、水戸綱條役で出演している岡田時彦という役者は、岡田茉莉子さんのお父様らしい。
▼▼▼▼▼ストーリーをラストまで詳細に書いていますので、ご注意ください!▼▼▼▼▼ |
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1928年、日活太秦、池田富保原作+脚本+監督作品。 水鳥は水の中でも労苦している… 高松藩 城下 茶屋で一服していた水戸黄門(山本嘉一)、佐々木助三郎(河部五郎)、渥美格之丞(尾上多見太郎)は、店の中で馬子らしき男が昼間から酒を飲んで怒っているのを目撃する。 それを茶屋の婆が諌めているのだ。 聞けば、何でも、その馬子の女房が長患いなので金を稼がなくてはいけないのに、松平讃岐守が御巡検とやらで当地にやって来るので、外出は控えるよう役人に命じられたのだという。 殿様が偉いんだったら、下々を可愛がるのが当たり前じゃないかと馬子は憤っていた。 そこに、駕篭かきコンビ(尾上華丈、嵐璃左衛門)がやって来て、やはり讃岐守の御巡検のために追い払われたと愚痴る。 それを聞いていた黄門が、そんな無慈悲な役人を使っている殿さまとは何者じゃと口を挟むと、親爺は副将軍だというそうじゃないかと茶屋の婆が加わる。 それを聞いた黄門は、バカな子を産んだ光圀もバカだと呟く。 そこにやって来た役人が口を慎めと諌めるが、駕篭かきたちは、この梅干し爺いも悪口を言ったと告げ口をする。 しかし黄門は黙ろうともせず、高松の殿さまは慈悲も涙もない。国民は国の宝…考え違いをするなと役人に言い聞かせながら、気の毒な馬子に小判を渡す。 役人は無礼なことを言う黄門につかみ掛かろうとするが、助さん格さんが護衛しているので手が出せない。 さらに黄門は、駕篭かきの1人を駕篭に乗せると、残りの1人だけでは運べないので、役人の1人に片棒を担ぐよう頼む。 役人は黄門の言葉に打たれたのか、その駕篭を担いで、去って行くのだった。 その後、松平讃岐守の巡検行列の前に、父娘2人連れの巡礼の父親の方が持病で動けなくなっていた。 そこに通りかかった家臣たちは、巡検の邪魔だと父親の方を道の脇に蹴落としてしまう。 それを端から観ていた黄門は自らも持病を装い苦しみ出し、役人たちの前に座り込んでしまう。 役人は殿にこの不届きもののことを注進に出向き、讃岐守は召し捕るように命じる。 役人に取り囲まれた黄門を守ろうと、助さん格さんは抵抗しようとするが、黄門に制せられ、3人ともおとなしく捕縛されることにする。 讃岐守は、連れて来られた不届きものを試し切りにしてみようと待ち構えていたが、縛られている老人の顔を良く見ると、何と自分の父親である水戸光圀ではないか! 驚き慌てた讃岐守は黄門の前にひれ伏し、直ちに捕縛を解くように家臣に命じるが、黄門は解くなと言い放つ。 黄門は、実の子が無慈悲な領主になっていることを嘆くと、縛られた姿のまま、ひれ伏したまま反省する讃岐守の前に立ち上がる。 すると、家老寺田作之進 (実川延一郎)が恐縮しながらその綱を解いたので、万事後は頼みますぞと、黄門は寺田に声をかける。 寺田は、神明に賭けてもお家を…と黄門に誓うのだった。 高松を後にした水戸黄門一行は、一ノ谷山中で出会った山賊と一緒に湊川古戦場にやって来る。 そこには、荒れ果てた楠木正成公の墓の前で、子供らが何も知らず遊んでいた。 それを見かねた黄門は、自らの印籠をやるからここでいたずらをするなと子供らに言い聞かせる。 それでも子供らがなかなか言うことを聞こうとしないので、山賊たちが脅かして子供らを遠ざけると、黄門は、荒れ果てた楠公の墓に手を合わせながら、湊川決戦の頃に思いを馳せるのだった。 建武3年5月25日、足利直義軍に敗れた楠木正成(三桝豊)は、弟楠木正季(久米譲)に介錯を頼み、7度人と生まれてこの賊を滅ぼさんと言うと、自ら切腹して果てる。 その後、その墓に花を供えにきた感心な娘がいたので名を尋ねると、花売娘おみつ(桜木梅子)と言うので、そのおみつに石工を呼んで来させ、ここに楠公の石碑を作るよう頼む。 かくして、真新しい大楠公の石碑が建つと、黄門はおみつに初焼香いたせと勧めるのだった。 そうしたことの次第を、黄門は後日旅日記にしたためていた。 |
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