#034 昔から電卓は好きだった

1998/11/17

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 ともかく私は昔から電卓と言うものが好きであった。

 例えば小学校の頃は、誰しも桁数の多い掛け算なり割り算なりを筆算で計算する方法を習ったものであろう。それらは確かに方法論としては学習するに値するものではあろうが、さて実際に例えば4桁×5桁の計算を筆算でやるとなると、九九を合計20回は計算し、加法の部分で繰り上がりやなんやらとあるわけだから、時間がかかる割にはちゃんと正解を出すことの方が難しいものと思われる。それを電卓、すなわち電子卓上計算機を使うと、数字さえ間違いなく入力すれば誰でも一瞬にして答えを出すことができるのである。人間を煩瑣な単純作業から解放させてくれるものとして、これほど端的な道具はあるまい。

 しかもそんな道具が、最近ではどんどん小型集積化され、今や名刺サイズで、しかも太陽電池を採用し電池すら不要な電卓が、下手をすると1000円にも満たない価格で売っているのである。これはちょっとすごいことである。というわけで、と言われてもどういうわけだか私にもよくわからないが、私は電卓を見るとつい衝動買いをしてしまうという困った癖があった。

 最初に買ったのは、先ほども出てきた、大きさも薄さも名刺サイズという小さい電卓である。あんな小さな物が自分に出来ないような困難な計算を一瞬にしてやってしまうということに少なからず驚嘆したものである。やがて学校で三角関数だの指数関数だのを勉強すると、今度はそれらの計算ができる関数電卓を買った。関数電卓よりももう少し発展した、数式を記録し簡単なBASICのプログラムも組むことが出来る、いわゆるポケコン(ポケットコンピュータ)を買ったのもこの頃である(#018参照)。ちなみにそのポケコンは弟と共同出資で買ったものだったが、弟の方はそういうものに興味があまりなかったらしく、そのうち残りの半金も弟に払って私のものにしてしまった。

 一頃流行ったゲーム電卓なるものも2つほど買ったし、英和辞書のついた電卓なんてのもある。もうすでにいっぱい持っているにもかかわらず、粗品や景品などで電卓をもらうと妙に嬉しかったりする。そんな次第で、今でも探せばその辺に5つや6つの電卓が転がっているはずである。ちなみに一番最近に買った電卓は、今年3月、熊本土産で(別に熊本でなくてもいいのだろうが)「KUMAMOTO」と書かれた携帯電話を模したキーホルダーで、実は中身は電卓であるという他愛のないものだったりする。お土産にまで電卓を選んでしまう自分がなんだかおかしい。

 だがこうしてたくさん電卓を持っている割には、咄嗟の時に電卓を取り出せなかったりする。考えてみれば、屋外で活動している時に、咄嗟に電卓が必要になる場面と言うのは案外少ない。買物をしたって大抵店の方がレジで合計金額を出してくれるわけであるから、こっちで計算しなくてはならない場面と言うのはあまりない。外で電卓を使うケースというのは、せいぜい飲み屋で割り勘にする時に一人頭の金額を出す時とか、UNOの得点計算だとか、そのくらいではないだろうか。いずれにせよ大した用事ではないが。

 大学や社会人になって、パソコンやらを使うようになったのだが、電子計算機という名を持つはずのパソコンは電卓の代わりになるかというと、なんだかそうでもない気がする。数字を叩いて答えを出すという、電卓のシンプルさに比べると、パソコンの場合は同じことをさせるにもいちいち準備が大変なのだ。例えばWindowsには「アクセサリ」の中に「電卓」があることはあるが、あの電卓を立上げて計算を始めるよりは、手元にある使い慣れた電卓を叩いた方が遥かに早かったりする。だから、表計算ソフトで縦横集計をするような時に、細目については脇で電卓を叩いて合計金額を出してから結果をパソコンに入力するといった、よく考えると滑稽なことをやってしまったりするのである。

 このことは現在のパソコンの使われ方を端的に表している気がする。つまりパソコンの場合は、仕事を始めるための準備(パソコンのセットアップや起動など)に時間がかかりすぎるため、結果を出すまでにかかるトータルな時間(ターンアラウンドタイム)が長くなりがちなのである。そのため、繰り返し行う作業はともかく、やっつけ仕事をやらせるのには向いておらず、結局「手でやった方が早い」ということになりがちなのである。結局「パソコン」は、もはや電子計算機ではないのかも知れない。


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