『暴力団排除』もう一つの視点 ~ なぜ暴力団対策法が制定されたのか?(1)

 現在の暴力団対策に大きな影響を与えたものに暴力団対策法があります。
 暴力団対策法(正式名称『暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律』)が制定され、丁度30年になります。
 同法は、平成3年(1991年)4月に、政府提出法案として国会に提出され、同年5月15日公布、翌平成4年3月1日に施行されました。
 

 暴力団対策法制定の背景

 暴力団対策法は、衆議院、参議院とも全会一致で成立しました。なぜこの時期、わが国初の暴力団対策に特化した法律が制定されたのでしょうか。それには次の理由があると思います。
 一つは、山口組、住吉会、稲川会、この主要3団体の勢力拡大、それに伴う抗争事件が多発したことです。しかも、それが直接関係の無い市民にも危害を加えるものとなったことです。
 もう一つは、バブル経済を背景に暴力団が表経済への進出を強め、それに伴い、いわゆる「地上げ」など暴力的事件を繰り返したことがあります。
 そして、大きな理由の一つとして、それまで警察が行ってきた暴力団対策の限界が明らかになったことです。
 山口組など主要暴力団の勢力拡大により寡占化が進み、当該暴力団の威力がその勢力範囲(縄張り)内に浸透していきました。その結果、敢えて脅迫・暴行等の犯罪行為に訴えなくても、暴力団だと認識している相手側は資金提供等に応じるようになりました。その場合、恐喝、強要等の犯罪は成立しません。
 犯罪となる場合であっても、お礼参り(暴力団の報復)を恐れ、多くの場合、被害の届出はまずありませんでした。
 また抗争事件が多発しましたが、暴力団事務所などに警察官を配置し警戒するという従来のやり方では抗争事件を封圧することは困難となり、暴力団は時に市民や警察官を巻き込みながら激しい抗争をくり返しました。
 図1(※1)は、昭和39年以降、暴力団対策法が施行された平成4年まで、各年末の暴力団勢力(暴力団員と暴力団準構成員等の合計)のグラフです。

  図1 山口組、住吉会、稲川会及び他団体暴力団勢力の推移(昭和39年~平成4年) 3団体勢力グラフ

 昭和の終わりころから、山口組、住吉会、稲川会、特に山口組の勢力増加が目立っています。
 昭和39年末当時は、山口組、住吉会、稲川会合わせても全体の8.9%でしたが、昭和61年末には34.8%、そして平成3年末には61.6%と全体の半数を超えています。
 その後もこの状況はむしろ強まり、令和元年末、六代目山口組、住吉会、稲川会に、山口組から分裂した神戸山口組及び絆会(元・任侠山口組)を合わせた勢力は、全体の72.3%を占めています。
 次の図2は、昭和32年以降の暴力団抗争事件のグラフです。

  図2 暴力団抗争事件の推移(昭和32年~令和元年) 暴力団抗争事件発生状況グラフ

 線グラフの「認定数(回)」は、一つの抗争事件全体、抗争事件の発生から終結までを1回とし、抗争が始まった年に1回としてカウントされています。現在、六代目山口組と神戸山口組が抗争続けていますが、神戸山口組が指定暴力団として指定された平成28年(2016年)に1回とカウントされ、翌年以降はカウントとされていません。しかし抗争事件は続いています。
 昭和38年、昭和45年、昭和50年に大きなピークがあり、昭和50年代半ば以降、やや増加しています。
 山口組の全国進出等により、昭和30年代後半、暴力団の抗争事件が多発しました。そのため全国警察では昭和39年以降「頂上作戦」と呼ばれる暴力団取締りを強化しました。
 個人的には、強化したというよりも、強化せざるを得なかったというのが現実ではないかと思います。それはその後も暴力団対策についても同様です。
 「頂上作戦」の結果、多くの暴力団のトップなど主要幹部が検挙されました。この「頂上作戦」は少なくとも暴力団抗争の封圧には大きな成果があったと言えます。山口組などを除き住吉会、稲川会(当時は錦政会)、松葉会など主要団体の多くが、一旦は「解散」をしてします。
 ところが「頂上作戦」で検挙された主要幹部らが出所してくると、「解散」した暴力団の多くが活動を活発化し、再び抗争事件が多発するようになりました。
 このため、昭和45年以降、「第二次頂上作戦」が行なわれ、昭和50年からは「第三次頂上作戦」が行なわれました。

 取締りのみの暴力団対策の限界

 図2は、一つの抗争事件全体を1回としたグラフでしたが、実際には1回の抗争事件に際して、多くの襲撃事件が発生し、多数の死傷者が生じていました。
 図3は、警察庁の公表データに基づき、抗争事件に伴い発生した襲撃事件等を「発生件数」、そのうち銃器が使用されたものを「銃器使用回数」とし、更に「死傷者数」を加えたものです。死傷者数はグラフ右側の数となります。

  図3 暴力団抗争事件の推移2(昭和32年~令和元年) 暴力団抗争事件発生状況グラフ

 昭和42年(1967年)以降、抗争事件における銃器使用回数が公表されていますが、昭和50年(1975年)には54件と50件を超え、昭和60年には実に246回と過去最高を記録しています。
 過去最高は銃器使用事件だけではありません。死傷者も実に111人と100人を超えています。
 昭和59年6月、山口組四代目の跡目相続問題から、山口組から一和会が分裂しました。そして翌昭和60年(1985年)1月、大阪府吹田市で一和会側が四代目山口組長・竹中正久らを射殺した事件を機に、「山一抗争」と呼ばれた激しい抗争事件へと発展しました。
 平成元年(1989年)3月、一和会会長・山本廣が完全隠退を表明し、山一抗争は終結しました。
 しかし、山一抗争が終結した翌平成2年中も、抗争事件は146回発生し、うち銃器使用も118件、死傷者は45人を記録しています。しかもこの中には抗争に巻き込まれた殺害された市民や警察官も含まれています。
 そして、抗争を繰り広げたのは山口組と一和会だけではありません。
 この福岡でも、山口組の弱体化に乗じ、福岡地区等への勢力拡大を図った道仁会と、山口組傘下組織の激しい抗争が繰り広げられました。そして、それ以外の地域でも同様です。

 市民等を巻き込む抗争事件1

 暴力団抗争に伴い銃器使用事件が多発し、多くの死傷者が生じました。
 抗争事件が発生すると、双方とも警戒を強化します。しかも、暴力団の活動拠点である組事務所は警察の警戒対象となり、簡単には襲撃できなくなります。
 その結果、暴力団側は、取締りにあたる警察官や付近住民をも巻き込むことになっても襲撃を強行したり、警察の警戒対象外の暴力団員の自宅、入院先の病院、時には裁判所構内での襲撃をも躊躇しませんでした。その結果、暴力団と直接関係の無い市民、時に女性や未成年者までが犠牲となっていったのです。それらは取締りを中心とした従来の警察の暴力団対策の限界を明らかにしました。
 昭和50年代後半から平成初期にかけて発生した事件を見てみましょう。

  1 昭和58年(1983年)2月25日 裁判所構内での射殺事件(福岡県) 

 福岡県柳川市の福岡地裁柳川支部構内において、公判を終え出てきた男性が、暴力団浜田会鳥巣組組員から拳銃で撃たれ死亡。被害者は暴力団組織には属さない暴力常習者(※2)で組員と以前から対立しており、昭和57年12月には、被害者が鳥巣組事務所に日本刀を持って殴り込み、この事件で警察に逮捕、起訴されたがその後保釈となっていた。当日は自宅から公判に出廷、公判を終え出てきたところを組員が背後から近づき拳銃で射殺。

  2 昭和58年6月27日 暴力団事務所前で警戒中の警察官に対する銃撃事件(福岡県) 

 熊本県荒尾市の荒尾競馬場に関する利権を巡る馬場一家と道仁会の抗争に関連し、道仁会組員が、大牟田市の馬場一家事務所前で検問警戒中の警察官に拳銃を発射、左足に重傷を負わせた。

  3 昭和58年10月6日 暴力団事務所前で警戒中の警察官、通行人に対する銃撃事件(東京) 

 極東関口一家(現・極東会)と住吉連合会(現・住吉会)との抗争に関連し、東京都池袋の極東関口一家事務所前で警戒中の警察官に住吉連合会組員が発砲、警察官(36歳)に重傷を負わせたほか、通りがかった専門学校生(15歳)を負傷させた。

  4 昭和59年(1984年)11月15日 ゴルフ場における銃撃事件(福岡県) 

 西部連合内の内紛から、福岡市早良区のゴルフ場で、西部連合西道会組員が西部連合双葉会の前会長らに拳銃を乱射、前会長を射殺し、一緒にプレーしていた大手建設会社幹部ら2名に重傷を負わせた。

  5 昭和60年(1985年)4月23日 警察官警戒中の暴力団事務所付近での銃撃で市民巻き添え(兵庫県) 

 山口組と一和会の抗争のため警察官2名が警戒中の山口組山健組事務所から約20メートル離れた駐車場入口付近で、4、5名の男が乗った乗用車から、駐車場前の歩道にいた山健組員3名に拳銃6、7発が発射され、山健組員3名と、たまたま通りがかった会社員男性(58歳)に重傷を負わせ逃走。

  6 昭和60年9月23日 暴力団準構成員経営のスナックで拳銃を乱射、アルバイト女性殺害(兵庫県) 

 山口組と東組(大阪)の抗争に際し、東組員が兵庫県尼崎市の山口組倉本組準構成員経営のスナック・ラウンジ・キャッツアイを襲撃。スナック経営者のほか、アルバイトの女性店員2名、客1名がいた店内で拳銃を乱射し、経営者に重傷を負わせたほか、アルバイト店員・堀江まやさん(19歳)を殺害した。

 キャッツアイ事件

 6の事件は店名から「キャッツアイ事件」と呼ばれています。平成元年2月、襲撃を指示したとして東組二代目清勇会の川口和秀会長が兵庫県警に逮捕され、懲役15年の有罪となりました。川口会長は最高裁まで争いましたが、平成13年12月、最高裁は川口会長の上告を棄却し、川口会長は服役しました。
 この事件で一人娘を失った被害者の母・堀江ひとみさんは、平成4年7月に、川口会長に対し賠償請求訴訟を提起、平成7年5月、和解が成立し川口会長側が和解金を支払いました。堀江ひとみさんはこの和解金を元に暴力団追放運動を続けておられましたが、平成24年4月に亡くなりました。私も二度ほどお目にかかりました。
 一方の川口会長は、平成22年(2010年)12月に出所、東組に復帰しました。
 堀江ひとみさんが亡くなった平成24年11月、『冤罪・キャッツアイ事件 ヤクザであることが罪だったのか』(筑摩書房・山平重樹著、その後『闘いいまだ終らず 現代浪華遊俠伝・川口和秀』と改題)が出版されました。
 「遊俠」というのは俠客、つまり強きを挫き弱きを助ける者のことで、川口会長のことのようです。原題にあるように川口会長は「冤罪」を主張し、山平氏の本もその主張に沿った内容でした。
 平成27年(2015年)、愛知県の東海テレビが二代目清勇会に「密着」したドキュメンタリー『ヤクザと憲法』を制作しました。
 『ヤクザと憲法』でもキャッツアイ事件に触れていますが、それに対し川口会長は「事件に巻き込まれたんや」「ほんなん元々は無罪や」と応じています。
 キャッツアイ事件では実行犯の組員も、最初からたまたま店で働いていたまやさんを殺すつもりなどなかったでしょう。しかし、目的とする経営者だけではなく、店員や客がいる狭い店内で拳銃を乱射すればどうなるか、結果は明白です。
 他の同種事件でもそうですが、キャッツアイ事件でも標的であった経営者には重傷を与えたに留まり、何の罪もないまやさんは命を奪われてしまいました。
 その後の暴力団対策法改正により現在ならば、指定暴力団員が対立抗争(内部抗争を含む)で人の生命、身体又は財産に損害を与えた場合、その指定暴力団トップは民事上の損害賠償責任を負います。
 「闘いいまだ終わらず」というのは、川口会長が自らの「再審無罪」を目指しての「闘い」のようです。
 私はキャッツアイ事件の公判記録を確認しましたが、川口会長の民事責任だけではなく刑事責任も揺るがないものと考えています。
 

 市民等を巻き込む抗争事件2

  7 昭和60年11月22日 喫茶店で拳銃乱射、組長ら2名死亡、客の男性が負傷(広島県) 

 共政会内の内紛から、広島市東区の喫茶店に共政会幹部らが客として来店していた共政会岩本組組長ら2名を射殺。組員4名に重軽傷を負わせ、たまたま居合わせた客の男性(29歳)を負傷させた。

  8 昭和63年(1988年)5月14日 一和会会長方襲撃事件に伴い警察官3名を銃撃(兵庫県) 

 山一抗争に関連し、神戸市東灘区の一和会会長山本廣方を山口組竹中組安東会・安東美樹会長(※3)らが襲撃、パトカー内で警戒中の警察官3名に自動小銃等を乱射し重傷を負わせ、山本方に手製爆弾等を投げつけるなどした。

  9 昭和63年7月12日 広島駅新幹線ホームで拳銃乱射、乗客ら4名重軽傷(広島県) 

 共政会内の内紛から、乗客ら約200人がいたJR広島駅新幹線ホームで、共政会組員4名が到着した「ひかり」から降りたばかりの乗客めがけて拳銃を乱射、共政会新井組組員1人を負傷させた。組員と間違えて無関係の男性(37歳)に重傷を負わせたほか、巻き添えで観光客ら2名(25歳、29歳)に重軽傷を負わせた。また、乱射のショックで乗客女性(58歳)が心臓発作を起こし治療を受けた。

  10 昭和63年7月18日 名古屋市繁華街で銃撃、暴力団幹部ら2人死傷、市民巻き添え(愛知県) 

 不動産取引のもつれから、名古屋市の繁華街錦三の路上で、波谷組組員が山口組近藤組幹部ら2名を銃撃し1名を殺害、1名に重傷を負わせた。流れ弾で通りがかった男性(31歳)が頭部に負傷した。

  11 平成2年(1990年)6月29日 暴力団員と間違われ市民射殺(大阪府) 

 平成2年6月28日、福岡市西区で山口組傘下組織組員が波谷組組員から射殺されたことから抗争に発展。翌6月29日、以前は波谷組幹部が居住していた大阪市住之江区の住宅に引っ越してきたばかりの男性(66歳)を波谷組幹部と勘違いし、宅配便を装った山口組浅川会組員2名が拳銃で射殺した。

  12 平成2年11月22日 暴力団員と間違われ定時制高校生射殺(沖縄県) 

 三代目旭琉会から沖縄旭琉会が分裂し抗争に発展。三代目旭琉会傘下組織事務所に防禦フエンスを取り付けるアルバイトをしていた定時制高校生(19歳)が、三代目旭琉会組員と間違われ沖縄旭琉会組員に射殺された。

  13 平成2年11月23日 暴力団員と間違われ私服警察官2人射殺(沖縄県) 

 捜査用車に乗車し警戒中の私服警察官2名が、三代目旭琉会幹部及び組員を職質しようとしたところ、警察官を沖縄旭琉会組員と勘違いした両名から射殺される。組員らは事件を目撃した主婦にも発砲し軽傷を負わせた。

 暴力団対策法立法に向けて

 昭和61年(1986年)12月、警察庁は「暴力団総合対策要綱」(警察庁次長通達)等を制定、全国警察に通達し、山口組、稲川会及び住吉会(当時・住吉連合会)等に対する取締り強化を指示しました。
 平成元年(1989年)8月に発行された平成元年版警察白書では「暴力団対策の現状と課題」を特集し、暴力団対策に必要な法制度の整備について積極的に検討していかなければならないと述べられています。遅くともこの頃には、新たな法制度についても検討されていたようです。
 特に平成2年6月、大阪で11の事件の事件が発生したことにより、同年7月下旬、警察庁は刑事局内に暴力団対策立法調査のためのプロジェクトを発足させました。
 その最中、12、13の事件が続き、警察庁は立法に向け調査等を加速させます。
 同年11月、警察庁は新たな法制度について方針を固めました。当時、このプロジェクトを担当し、その後福岡県警本部長をされた吉田英法元本部長によると、それは次のとおりです(※4)。

1 国民一般に広く義務づけるのではなく、暴力団員のみに一定の行為の禁止を義務づける。規制の対象を明確にするため、暴力団を指定し指定暴力団員に義務づける。
2 特別刑法ではなく行政(警察)取締法規とする。
3 結社の自由、法の下の平等その他憲法の基本的人権との関わりが深いので、憲法その他法学者等有識者の意見を広く聴取し、これを踏まえたものとし、国会議員や一般国民の大方の合意ができるような規制内容とする。
4 山口組、稲川会、住吉連合を中心とする暴力団の寡占化に伴う取締り上の隘路を打開することを眼目とし、小規模の暴力団を含む全ての暴力団に取締りの網がかからなくてもやむを得ないこと。
5 全くの新法であるので、最初から完全な内容を目指さず、新しい暴力団対策を一歩でも前進させることが先決で、必要に応じ、その後逐次改正により内容を充実させること。


 暴力団対策法制定・施行

 警察庁は、同年11月下旬、憲法、行政法、民法、刑事法等の学者、弁護士、経済人、評論家等15名で構成される「暴力団対策研究会」を設置し検討を進め、翌平成3年2月27日、「『暴力団』対策に関する法律案の基本的考え方」を公表しました。
 これに対し、朝日、毎日、日本経済、東京、産経の主要新聞社などは基本的にこの法律案への期待を表明しました。
 また、日本弁護士連合会(日弁連)は、暴力団対策のあり方については法規制を含めて慎重な論議が必要、暴力団追放は社会的な大運動の中でこそ行うべき、基本的人権とも深く関わるものなので各方面から検討が必要等の意見を表明し、国会への早期法案提出には遺憾の意を表明しました。
 しかし、暴力団対策そのもの関しては「今日市民生活や企業活動等に脅威と害悪を与えつつある暴力団に対し、その対策を強化する必要性、緊急性については、異論がない」と理解を示しています。
 暴力団対策法は、平成3年(1991年)4月に、政府提出法案として国会に提出され、同年5月15日公布、翌平成4年3月1日に施行されました。
 暴力団対策法制定に際しては、もちろん反対運動もありました。
 平成4年1月には、東京で新左翼団体と新右翼団体に暴力団員も加わって反対集会、デモが行なわれました。「新法は憲法違反で基本的人権を侵害する」、「新法は将来、必ず政治団体にも適用される」などとの主張でした。
 また、東京銀座では、自称「極道の妻たち」約150人が参加して新法反対のデモ行進も行なわれました。
 暴力団対策法施行により指定暴力団と指定された暴力団のうち、山口組、会津小鉄(現・会津小鉄会)、工藤連合草野一家(現・工藤會)、沖縄旭琉会(現・旭琉会)が指定取消を求める行政事件訴訟を提起しました。
 山口組は、平成7年2月、訴訟を取り下げ、他の団体については何れも裁判の結果、訴えは棄却されました。
 暴力団対策法制定後、30年が経過しましたが、一部の人たちが主張したように、暴力団以外の政治団体等に暴力団対策法が適用されたことは一度もありませんでした。これからもないでしょう。

 山口組と一和会との山一抗争が続いている最中、福岡県久留米市に本拠を置く道仁会が、山口組の勢力が強い福岡市内や熊本県内への進出を強化、その結果、山口組傘下組織と市民を巻き込む激しい抗争を繰り広げました。道仁会と山口組伊豆組を抱える福岡県警はその総力を挙げて取締りを強化しました。しかし従来どおりの対策では十分ではありませんでした。
 福岡県警はさらに踏みこんだ対策を講じざるを得ませんでした。それが、その後の工藤會対策、全国初の総合的暴力団排除条例の制定、特定危険指定暴力団及び特定抗争指定暴力団等の暴力団対策法改正などにつながっています。次回は、この山口組と道仁会との抗争に触れてみたいと思います。

      令和3年3月10日(水)

【注】