『暴力団排除』もう一つの視点

 間もなく、藤井道人監督の映画『ヤクザと家族 The Family』が公開予定です。
 私はこの作品を見てませんので、作品自体についてどうこう言うつもりはありません。また、ヤクザを扱った映画など作るな、などと言うつもりもありません。
 ただ『ヤクザと家族』という題名が気になったので調べていると、YAHOO!ニュースで、映画ジャーナリストの斉藤博昭氏がこの作品について藤井監督にインタビューした記事を見つけました。
 その中で藤井監督は次のように語っていました(令和3年1月26日『新聞記者の次は、ヤクザで社会を鋭く見つめたのか? 藤井道人監督「消えゆくもの、そして不寛容への思い」』より)。

藤井『子供の頃から興味があったんです。僕自身、育ったのが新宿や中野で、当たり前にヤクザの人たちが存在している環境でした。語弊を恐れず言えば、彼らがカッコよく見える時期もあったと思います。そういう人たちの影が年々消えていき、暴対法(1992年施行の暴力団対策法)によってさらに弱体化する。そんな“状況”にシンパシーをおぼえたのは事実ですね。今まで隆盛を誇っていたものが消えていくのは、ヤクザに限らず、僕ら映画人にも当てはまると感じたのです。映画界は利便性を求めてフィルムからデジタルに移行しましたが、今でもデジタルにはフィルムを越えられないものがある。システム重視で縮小化される世界に、どこか共感してしまうんです。』

 インタビューで藤井監督は、新型コロナによる『不寛容』に触れています。そして斉藤氏の「ヤクザの場合は実際に犯罪に絡んでいるケースもあるので、一概にコロナ禍の社会の差別と結びつけてはいけない。しかし社会の不寛容を考えさせるという意味で、藤井監督は」という言葉に続き、

藤井『社会からハミ出た人が、ヤクザという家族の秩序に入る。社会のルールでその秩序をなくすことで、行く当てのなくなった人はどう救ってもらえるのか、その疑問は残っています』

と語っています。
 藤井監督の発言の一部のみを取り出して批判するのは失礼ですので、ヤクザ弱体化の状況への『シンパシー』とは異なるもう一つの視点から、『暴力団排除』についてお話ししたいと思います。
 暴力団はヤクザ、獄道を自称しています。
 ヤクザに多少なりともシンパシーを感じていると思われる方たちの意見を見ていて疑問に思うことがあります。
 それは、この方たちは、暴力団から脅され、傷つけられ、時には命すら奪われてきた被害者そしてその家族、不本意ながら暴力団の要求に従わざるを得なかった人びとに対するシンパシーは感じないのだろうか、ということです。

 私は暴力団は壊滅すべきと思っています。しかし壊滅すべきは暴力団という集団であって、個々の暴力団員ではありません。
 なぜなら、暴力団は「ヤクザ」「獄道」を自称する持続的な暴力的犯罪集団ですが、その構成員である個々の暴力団員一人一人はあくまでも人間だからです。そして、彼らにも家族が有り、時に彼ら自身が暴力団組織の犠牲者ともなるからです。
 暴力団が簡単に無くならない理由の一つに、暴力団、ヤクザに対する国民の意識の問題があると考えています。
 特に江戸時代末期から、明治、大正、昭和と、ヤクザを主人公とする物語が多くの庶民に受け入れられてきました。その意識は未だ根強く残っているようです。ヤクザ物語の一部は史実ですが、その多くはフィクション、虚構です。
 現在、暴力団、その源流であるヤクザすなわち博徒、愚連隊などの歴史を復習しているところです。その結果、ヤクザは今も昔も暴力団、持続的、暴力的犯罪集団だったという確信を強めています。
 警察の暴力団対策には、大きく次の三つの柱があります。一つは取締り、そしてもう一つは暴排つまり暴力団排除、そうして暴力団対策法の効果的運用の三つです。取締り以外の二つを通常、暴力団対策と呼んでいました。
 福岡県警も以前は、暴力団取締りを担当する捜査第四課と、暴力団排除活動や暴力団対策法の運用を担当する暴力団対策課の二つの課がありました。
 私は、この暴力団排除から暴力団対策に関わるようになり、次第に取締りに関わるようになりました。
 実は平成15年8月までは、暴力団壊滅など無理だと考えていました。
 しかし、同年8月18日、北九州市小倉北区のクラブに対する工藤會組員による襲撃事件でこの考えを改めました。この事件では、工藤會中島組組員が『暴力団排除』を掲げていたクラブに手榴弾を投げ込み、たまたまこのクラブで働いていたホステスの女性たち12名が重軽傷を負いました。
 この時使用されたのは、通称パイナップルと呼ばれる破片で敵を殺傷する破片型手榴弾ではなく、強力な爆薬の爆風で直近の敵を殺傷する攻撃型手榴弾でした。そして、恐らく保管状態が悪かったのでしょう、手榴弾は不完全爆発でした。このため、爆風が弱まり死者は出ませんでした。不完全爆発でなければ確実に何人もの死者が出たはずです。
 実行犯は、現場でクラブ従業員や通行人らに逮捕されましたが、その際の胸部等への圧迫により死亡しました。これは激しく抵抗する犯人を取り押さえるため何人もの人間が折り重なるように押さえつけたためで、逮捕者も組員から酷く殴られ負傷しています。この逮捕行為は正当行為と認められました。
 当時の報道等では、被害者は11名となっています。それは警察が立件する際、今後の治療の必要は無いとされた比較的軽傷だった女性1名を除いたためです。当時は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という認識は不十分でした。私は、この女性も含めて直接の被害者は12名、そして廃業に追い込まれたクラブ経営者やその他の従業員の人たちも被害者だと思っています。
 事件の翌年、工藤會は作家の宮﨑学氏や著名な評論家を呼び、「人権を考える」という集会を行いました。この「人権」は逮捕時に死亡した工藤會組員の人権のことで、たまたまこのクラブで働いていた女性たち12名の人権は含まれていません。
 ただ私は、死亡した組員も暴力団の被害者だと思っています。なぜなら、彼個人にはクラブを襲撃する動機、理由など何一つないからです。彼が犯行に及んだのは、彼に襲撃を命じた者がいたからです。彼の死により、暴力団組織上部の関与を解明することはできませんでした。
 工藤會を壊滅しなければ、これからも工藤會による卑劣な事件は繰り返される、そのためにはたとえ困難であっても、工藤會壊滅を目指すしかない、このクラブ襲撃事件を受け、そう考えるようになりました。残念ながら、その後も工藤會による市民に対する卑劣な暴力は繰り返されました。

 警察が『暴力団排除』ということを言い出したのは比較的最近のことです。おそらく昭和50年代初めごろからでしょう。それまでは取締り一本と言ってよい状態でした。
 また、暴力団を規制する初めの法律である暴力団対策法(『暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律』)が制定されたのは、30年前の平成3年(1991年)、私が暴力団対策を担当するようになった翌年でした。
 そして、わが国初の総合的暴力団排除条例である『福岡県暴力団排除条例』が制定されたのは、12年前の平成21年(2009年)、私が工藤會対策に関わっていたころでした。
 『暴力団排除』が強く言われるようになった背景、そして暴力団対策法や暴力団排除条例が制定された背景には、暴力団による目に余る違法・不当行為、何よりもその被害を受けた多くの市民の姿があります。
 暴力団、ヤクザにシンパシーを感じる人たちはともかく、暴力団に詳しいと言われるジャーナリストの中にも、暴力団被害者に対する視点が欠けている人がいます。
 暴力団は社会からはみ出し、行く当てのない人の唯一のセーフティネットではありません。福岡県では県警も暴追センターも、真に暴力団を離脱し、真面目に働きたいと考えている暴力団員に対して様々な支援活動を行っています。
 「12 元暴力団員の口座開設」でも触れたように、暴力団離脱後5年経過していなくても、真に真面目に働こうとしている元暴力団員については、口座開設の支援も行っています。
 暴力団は、断崖絶壁に突き出た岩棚のようなものです。岩棚があるからそこに引っ掛かる者がいるのです。そしてそこに根を張り葉を伸ばし花を咲かせるものもあります。
 しかし、その下にはもっと豊かな土地が広がっているかも知れません。また、崖の上に戻る道があるかも知れません。
 ヤクザになるために暴力団員になるために生まれてきた者などどこにもいません。ヤクザ、暴力団というものがあるから暴力団員になる者がいるのです。
 次回は、暴力団壊滅を目指してきた者として、あまり語られることのなかった被害者側からの視点も加えて『暴力団排除』の歴史、実情、課題について触れてみたいと思います。
 

     令和3年1月28(木)