暴力団と「不良外国人」(1)

 しばらく前まで、工藤會は配下組員に次のような指示を行っていました。

「工藤會縄張り一円の治安維持、並びに不良外国人の犯罪の撲滅」


 治安の維持、市民の安全・安心を守ることは警察の責務です。工藤會が、その「縄張り」と称した福岡県北九州地区の「治安維持」を行っていたと考える人は、当時もあまりいなかったと思います。
 ただ、「不良外国人の犯罪の撲滅」や「不良外国人の排除」についてはどうでしょうか。
 私も、工藤會最高幹部から直接、「工藤會がいるから北九州には不良外国人や菱が入ってこない」と言われたことがあります。
 「菱」というのは山口組のことです。山口組のシンボルマークである代紋が、「山」をシンボル化した「山菱」と呼ばれる菱形をしていることから、そう呼ばれているようです。もっとも、山口組が北九州地区に入って来なかったのは、工藤會との黙約があったからです。
 北九州だけではなく、他の地域の暴力団も「ヤクザがいるから不良外国人は入ってこない」などと主張しています。
 特に山口組については、終戦直後の混乱期、不良外国人集団に対し「自警団」を結成し対抗しました。三代目山口組・田岡一雄組長の自伝では、終戦直後の不良外国人について次のように書かれています。


「腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプをひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。警官が駆けつけても手も足も出ない。
『おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか』
 警官は小突きまわされ、サーベルはへし曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。
 さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の乱行も目にあまった。
 戦時中、神戸市内には脇浜小学校をはじめ6カ所の捕虜収容所があったが、解放されたその捕虜たちの一部は民家に侵入して拳銃をつきつけ、泣き叫ぶ婦女子を襲った。白昼強盗も横行した。
 9月25日、米軍第6軍33師団、1万7千人が神戸へ進駐してくると治安はさらに悪化し、制止にはいる警官は袋叩きにあう。
 終戦直後の神戸は、まさに酸鼻をきわめる地獄絵図だった。」(※1、2『田岡一雄自伝第一部・電撃編』、以下『田岡一雄自伝』)


 自伝の中で田岡組長は、不良外国人2名から、幼い娘の前で強姦されていた女性を、単身救出した話も書いています。
 さらに、不良外国人が神戸市内の警察署襲撃を計画したことから、兵庫警察署長が田岡組長に応援を求めてきたといいます。田岡一雄自伝によると、結局、この襲撃事件は実行されなかったようです。
 「警察は何をしていたのか」、そう思う方もいることでしょう。
 山口組については、兵庫県警が昭和43年に作成した『広域暴力団山口壊滅史』(※3。以下『壊滅史』)という警察資料があります。実際には山口組は、当時もそれ以降も壊滅していません。しかし、この資料を見ると、当時の兵庫県警が今一歩の所まで山口組を追いつめていたことが窺われます。
 この『壊滅史』は、本来は「取扱注意」の部内資料ですが、当時、兵庫県内の報道各社などにも配付されています。このため、三代目山口組に関連した多くの著作の基礎資料となっています。
 兵庫県警の『壊滅史』には、山口組に警察署襲撃の応援を求めたというような記述はありませんが、次のように記しています。


「戦後数年間の混乱期において、警察力が充実せず、社会の治安が第三国人にじゅうりんされていた間は、これら第三国人の集団に対する日本人暴力団の闘争が、『大和魂の発露』『男の中の男』として一部市民から英雄視され、心からの拍手をあびた。そしてその裏面で、市民に対して反復されたかずかずの不法行為は、ほとんど問題とされなかったのである。それほど第三国人の横暴が激しかったことも事実ではあるが、この一部暴力団に対する一部市民の歓呼が、戦後20数年を経た今日にあっても、『戦後のわしらの命がけの働きを忘れたのか、市民のためにつくしたわしらの苦労を忘れるな』と彼らに叫ばせる原因となっている」(『壊滅史』)


 兵庫県警も、戦後混乱期において、不良外国人に対する暴力団の活動が、少なくとも一部市民から英雄視された事実を認めざるを得なかったようです。
 なお「第三国人」というのは、当時、朝鮮人、台湾省民(台湾人)を指した言葉です。朝鮮、台湾は終戦まで日本領土とされていました。敗戦国民でも戦勝国民でもないとして、日本国内に居住していた朝鮮人、台湾人をこう呼んでいたようです。
 多数の朝鮮や台湾の人々がなぜ日本にいたのか、そしてどのような目にあってきたのかという点も大事ですが、ここでは、暴力団と終戦直後の不良外国人との関係について、警察側の視点で見てみたいと思います。
 結論を先に申し上げると、

◯ 山口組など暴力団の一部が「不良外国人」に対抗したのは事実

◯ 警察は一部の不良外国人や不良米兵から市民を守りたくても守れなかった

◯ 暴力団が「不良外国人」と対抗したことに対し、彼らの「正義感」は否定しない。しかし、彼らの利権・縄張り維持の側面もあった

ということです。
 暴力団の暴力は、一部の不良外国人のみに向けられた訳ではありません。
 警察は法に縛られます。さらに当時は超法規的な連合軍総司令部が存在しました。
 一方、暴力団(ヤクザ)は、昔も今も持続的暴力的組織を背景とした犯罪者集団(アウトロー)です。彼らにとって、捕まることさえなければ、法など関係ありません。

 終戦直後の警察

 昭和20年8月15日、ポツダム宣言を正式に受諾した我が国は終戦を迎えました。
 前日、全国警察にはその旨が通知され、警察は終戦に伴う混乱に備えました。
 福岡県警では、前日午後10時、緊急署長会議を開催し終戦に備え、8月15日朝、今の警察学校にあたる福岡県警察練習所では、卒業を一月早め、警察官の卵を一線に配置しました。しかし、戦後の大混乱に対し、警察力は十分とは言えませんでした。
 戦後、間もなく、連合国軍が各地に進駐し、連合国最高司令官命令で日本国軍隊は武装を解除されます。一方、警察機関については武装解除は適用されず、その部署に留まり、法及び秩序の維持にあたるよう命じられました。
 8月24日、日本政府は治安の悪化に備えるため、「警察力整備拡充要綱」を閣議決定しました。その中には、第一線の警察官の倍増、装備の整備拡充などがありました。
 当時の全国警察官は、現在の2分の1にも足りませんでした。
 軍隊無きあとの国内の治安維持は警察力によるほかありません。
 内務省は任務を遂行するため警察の増強を考え、一部軍人を警察官に転用するなど、外勤巡査1万名、警備隊員2万名、水上警察1万名の増員計画を連合軍総司令部(GHQ)へ提出しました。警備隊は現在の機動隊のような部隊で、主要府県に設置されていました。
 しかし、GHQは警察官の増員は一切認めず、全国警察官は終戦時の約9万3,900名のまま、急激に悪化する治安に対処するしかありませんでした。
 しかも翌昭和21年1月、GHQは警備隊の廃止を命じました。

 終戦後の犯罪情勢

 昭和20年8月の終戦後、犯罪、特に窃盗や凶悪犯罪が激増しました。
 内務省警保局(※現在の警察庁に相当)が昭和21年に作成した資料には次のように記載されています。

 (1)凶悪犯罪の増加傾向

 昭和20年8月16日終戦を契機として特異なる傾向として、殺人強盗悪質なる犯罪が激増したこと、朝鮮台湾人等の集団的犯罪が著しく増加したことである。
 又犯罪手段に於ても拳銃又は日本刀を用い数名共謀、時には貨物自動車等を用い数十名の集団的犯罪を敢行するに至って居る(中略)
 強盗の如きは終戦前に於ては1ヶ月平均12件余発生に過ぎなかったのであるが終戦後4ヶ月の状況は1ヶ月平均127件と言う10倍にも達して居り ◯殺人は約2倍 ◯強盗殺人は約7倍 ◯強盗傷人は約6倍 ◯集団犯罪は約6倍に達する状況である。

 (2)朝鮮、台湾人等の集団的犯罪傾向

 終戦後に於て鮮人(※朝鮮人)、台湾人等は遂に日本警察権に服するの要なしとしたること、一面警察に於ては裁判権所属の問題より国際的問題の惹起を慮り慎重なる取扱をなしたるとに起因し警備上にも間隙を生じ相次で各地に集団的不穏行動に出て或は日本刀、拳銃等を用い警察署を襲撃して犯人奪還を企て或は取締従事の警察官に暴行傷害を加えて逮捕を峻拒する等此種犯罪、増加の傾向は現在尚各地に生じつつある状況である(※4『警察統計資料』)。

 以下は昭和19年から昭和30年まで全国の窃盗、強盗、殺人の発生状況です。

  図1 窃盗事件発生状況(昭和19年~昭和30年) 窃盗グラフ
  図2 強盗事件発生状況(昭和19年~昭和30年) 強盗グラフ
  図3 殺人事件発生状況(昭和19年~昭和30年) 殺人グラフ

    ※5 犯罪白書等に基づき作成
 いずれも昭和21年以降、急激に悪化しています。窃盗、殺人は昭和19年中に比べ約2倍、特に強盗は7倍以上に増加しています。

 凶悪事件の多くに拳銃等の武器を使用

 戦後間もなくまで、我が国では軍人や警察官等の一部を除き、拳銃、刀剣類等の携行は禁止されていましたが、所持は制限されていませんでした。実際には一部に拳銃やドスなどを持ち歩く者もいました。
 終戦にともなう軍の武装解除に併せ、昭和20年10月以降、民間所有の武器も回収することになりました。
 『警察統計資料』によると、翌昭和21年3月末までに、警察が回収したものだけでも、拳銃が1万1,918丁、小銃は実に39万5,891丁、猟銃も38万4,212丁という厖大な数でした。
 機関銃類は拳銃を上回る2万2,994丁、機関砲560門、大砲類も243門となっています。
 日本刀だけで89万7,786振り、軍刀、銃剣類、槍薙刀(やり・なぎなた)を含めると実に186万2,559振りとなっています。
 ところで、令和元年中、全国警察が押収した拳銃は401丁、うち暴力団関係は77丁です。
 そして、暴力団やその他日本人犯罪者や一部不良外国人らが、この武器の提出に応じることはなかったでしょう。
 内務省資料にあるように、強盗犯人らは拳銃や刀など凶器を使用し、しかも集団による事件が多発しました。
 山口組のお膝元である兵庫県では、特に昭和20年12月以降に治安が急激に悪化しました。翌昭和21年中に兵庫県内で発生した強盗事件では、警察が把握しただけでも拳銃651丁、日本刀196振りなど1,646点の武器が使用されています(※6『兵庫県警察史・昭和編』、以下『兵庫県警察史』)。

 連合軍兵士、連合国民に対する警察権

 田岡組長は「一部の悪質な米兵の乱行も目にあまった」と書いています。
 実は、敗戦国である我が国警察官は、連合国兵士はもちろん連合国国民に対しても、逮捕権、捜査権を認められませんでした。
 昭和20年9月13日、内務省警保局長名で、「連合軍将兵ノ不法行為ニ対シ警察官吏ノ採ルベキ態度ニ関スル件」が示達されました。
 それによれば、警察官が連合国将兵による不法行為を現認した場合、「直接の実力行使は絶対に避け、毅然たる態度で諄々説得する、そして、相手の人相、階級、所属部隊等の特徴と確実な証拠を連合軍側に通報して前後措置を要求する」(※7『福岡県警察史・昭和前編』。以下『福岡県警察史』)というものです。
 太文字にした部分にあるように、実力行使は許されず、相手への説得、連合軍側への通報しかできませんでした。「説得する」といっても、当時、米兵に通用する英語を使いこなす警察官がどれだけいたでしょう。
 殺人や強姦等の重大犯罪でも、正当防衛等として「身を挺して」事態を収拾することはやむを得ないとされましたが、その場合も武器の使用は禁じられました。
 目の前で、連合国兵士が犯罪を行っても、警察官はせいぜい説得することしか許されなかったのです。

 連合軍兵士による不法行為

 兵庫県では、昭和20年9月25日、連合軍兵士の進駐が始まりました。『兵庫県警察史』によると、同年10月2日付『神戸新聞』は「進駐軍による暴行や掠奪、県下を通じて1件もなし」と報じているそうです。
 一方、『福岡県警察史』は、


「終戦後の連合国軍人による犯罪は数多く行われたといわれる。しかし、当時は連合国による厳しい言論統制が施かれ、占領軍人の犯罪は一行も新聞に登載されることはなかった。事件の捜査も処理もすべて米軍MPによって処理され、警察には一片の資料も残されていない。果してどのくらいの犯罪が行われ、どの程度検挙されたか、今日になっては知ることはできない。」

 と記しています。連合軍兵士による数々の犯罪の詳細は不明です。
 兵庫県警察史も、神戸新聞の記事について「前掲神戸新聞の記事は、人心の動揺を防ぐための政策的報道と考えざるを得ない」としています。
 連合軍の名誉のために付け加えれば、GHQも連合軍兵士による犯罪行為を野放しにしていたわけではありません。我が国政府や各府県警察に対し、連合軍兵士の犯罪行為を認知した場合は、速やかに報告するよう何度も指示していますが、報告は徹底されなかったようです。
 内務省警保局外事課が作成した「進駐軍の不法行為」(※8)という資料があります。
 昭和20年8月30日から10月4日まで、少なくとも22回以上、東京、神奈川、静岡などの一部都県における進駐軍兵士による不法行為事例を集計した資料です。
 その相当部分が判読不能ですが、同年8月30日から9月10日までの間の集計表があります。それを見ると、わずか12日間に、強姦が9件、強姦未遂又は強制猥褻が6件、警察官被害事件が77件、警察官以外の公務員を含む一般人被害が424件が報告されています。あくまでもこれらは、当時の警察が把握できた数です。実際にはこれをはるかに上回る数だったと思われます。
 『兵庫県警察史』によると、兵庫県内では進駐軍兵士による不法行為が、昭和21年7月から12月までの半年間で182件が把握され、昭和22年1月中は57件に上っています。その詳細な内訳は不明ですが、昭和21年1月の57件中では、強盗だけでも未遂を含めて32件となっています。
 このように戦後のこの時期、連合国将兵や連合国民に対して、治外法権の状態を呈し、警察は無力でした。

 「第三国人」と警察

 問題は、当時の暴力団が対抗したという「不良外国人」です。
 この戦後の混乱について、兵庫県警の『壊滅史』は次のように記しています。


「戦後の混乱と生活苦、三国人の横暴ぶりは改めて述べる必要はなかろう」(中略)
「田岡は『大長殺し』の名に加え、戦後は、山口組内で『田岡組』という小さな組を作り、自らその組長として事務所を神戸市兵庫区下沢通一丁目に設けた。彼は新開地を中心に、暴虐をきわめる三国人と連日のように乱闘を繰り返して『山口組の田岡』の名を高め、遂に山口組舎弟会の推薦を受け、昭和21年、三代目を襲名したのである」(『壊滅史』)。

 また、『兵庫県警察史』は次のよう書いています。

「終戦当時本県には、神戸を中心として約3200人の華僑、約2万(神戸4500)の台湾人と、13万に近い朝鮮人が居住していたが、これらの人々の処遇をめぐって種々の紛争が起こった。終戦によって日本の統治から解放された台湾・朝鮮であったが、在日朝鮮人・台湾人の具体的な権利義務問題は、すべて占領軍当局の政策決定を待たなければならなかった。」

 華僑(中国人)は、アメリカ、イギリス、ソ連と同様、連合国国民です。
 GHQは、昭和21年2月19日、ようやく朝鮮人・台湾人の一般犯罪に対する日本の裁判権を明確に認めました。
 兵庫県警察史によると、兵庫県では、これに先立つ1月30日に、第31軍政中隊保安官の名で、「各国人は現行の日本法令に従うこと」、「日本警察の法的命令は、国籍の如何にかかわらず各人により遵守さるべきこと」、「現行の保健・衛生・保安に関する諸法令ならびに、民法・刑法その他如何なる現行法令を問わずこれに従い、その法令に対する警察措置を妨害する者は逮捕処罰せらるべし」という布告が公示されました。
 これによって、第三国人の不法行為は許されないとうことが明確化されましたが、それまでの間、またその後しばらくは、敗戦国である日本の警察に従う必要は無いとする一部の第三国人による不法行為が各地で相次いだのです。
 この間も、決して警察は手をこまねいていた訳ではありません。
 その結果、多数の警察官が殉職あるいは負傷しました。

 警察官の武装

 昭和20年9月2日、連合国最高司令官は日本国軍隊の敵対行為、武装解除を指令しましたが、治安維持にあたる警察は武装解除を免れました。
 武装した犯罪者による事件の多発を予測した各府県警察は、旧軍隊や民間の協力を得て、使用可能な銃器の収集に努めました。内務省警保局は同年10月5日付で警察力充実、軍からの軽火器・通信機材等の引継案を提出しましたが、GHQはこれを認めませんでした。
 警察官の拳銃携帯についても、GHQは明確に認めず、さらに米軍兵士が制服警察官が携帯している拳銃、佩刀(※はいとう。サーベルとも呼ばれた)を強奪する事案も多発しました。警察は戦前から警察官のシンボルでもあった佩刀の携帯は続けましたが、拳銃の携帯を控えるようになりました。
 また、佩刀についても、その使用は戦前から非常に厳しい制約がありました。
 『田岡一雄自伝』に「警官は小突きまわされ、サーベルはへし曲げられ」とあるように、拳銃などで武装した不良外国人に対しては佩刀はほとんど役に立たなかったようです。
 兵庫県警では、終戦後、県内の陸軍等から武器の引き渡しを受け、昭和20年末には軽機関銃65、小銃481、拳銃670を保管していましたが、文字通りの「保管」で警察官による携帯、使用は認められませんでした。
 武装集団による凶悪事件が多発したため、兵庫県警察刑事部門のトップである秦野章刑事課長(※後に警視総監)が連合軍憲兵隊(※MP。ミリタリー・ポリス)幹部に直接交渉し、同年12月30日、全国に先駆けて警察官の拳銃携帯の許可を得ることができました。
 ただし、その数はわずかに95丁、当時の兵庫県警察官4,117人、43人に1丁に過ぎませんでした。このため、兵庫県警察部(※現在の警察本部)、そして神戸市内7署のみに各10丁ずつの拳銃が配分されました。
 昭和21年1月当時、首都東京の治安を担当する警視庁は、警察官1万7,601人に対し拳銃572丁、昭和20年末当時、大阪府警は警察官6,117人に対し拳銃597丁にすぎませんでした(『警視庁史』、『大阪府警史』、『兵庫県警察史』)。

 警察の態勢と装備

 昭和20年10月当時の日本の人口は、約7,215万人、令和元年10月現在は約1億2,617万人です(※9)。
 これに対し、昭和20年当時の全国警察官は定員約9万3,900人でしたが、昭和21年7月現在で実員は約8万6,700人 、一方、平成31年4月現在の警察官定員は25万9,224人(※10)です。
 当時の人口は現在の約6割ほどですが、治安が急激に悪化し、強盗や殺人など凶悪事件が多発した昭和21年当時、警察官は現在の3分の1に過ぎませんでした。
 また、連合軍総司令部の勧告に基づき、110番制度が始まったのは、ようやく昭和23年10月です。
 通信設備についても、空襲や台風などによりずたずたとなっていました。兵庫県警では昭和21年4月現在で、警察電話施設の復旧率は40%でした。
 無線自動車(パトロールカー)についても、連合軍のMPは携帯無線機や自動小銃等を装備したジープを多数使用していましたが、主要府県の警察に無線付パトカーが導入されたのは、実に昭和25年12月です。
 このとき福岡県では国家地方警察福岡県本部に21台が配備されました。
 大阪市内では、昭和21年1月末、連合軍兵士らの不法行為取締りのほか、一般警備活動として、多数のMPジープ部隊がパトロールに従事しました。正午から深夜0時までは28台、それ以外の時間も6台から12台の無線装備のジープが投入されました(※11)。
 なお、GHQの肝入りで、昭和23年3月、わが国の警察は国家地方警察と自治体警察の二つに分離されました。自治体警察は市又は人口5千人以上の町村に置かれました。国家地方警察は自治体警察の管轄区域以外を担当しました。
 福岡県では、福岡地区の篠栗町(当時の人口6,053人)の自治体警察は定員わずかに7人、現在の交番並みの人員しかいませんでした。必要な場合は国家地方警察本部や他の警察署が応援しましたが、すぐにとはいきません。
 昭和29年7月、警察法が改正され、現在の都道府県を単位とする警察に戻りましたが、この国家地方警察と自治体警察の分離も、暴力団対策や治安対策上大きなマイナス要因だったと思います。
 昭和27年4月、福岡県田川郡で花見をしていた日本人と朝鮮人のグループが喧嘩となり、朝鮮人の腹を刺した日本人を朝鮮人側が殴り殺す事件に発展しました。
 国家地方警察田川地区警察署では双方の関係者を逮捕しましたが、朝鮮人被疑者の釈放を求め、朝鮮人グループ側70人が押しかけ署内に乱入しようとするなどして、警察官24名が重軽傷を負いました。この事件については、他の国家地方警察署や、近隣の自治体警察田川市警察署員らの応援を受け、暴力団の力を借りる事無く鎮圧しました。

 ヤミ市の登場

 終戦直後の混乱期、食料や物資が欠乏する中、軍用物資・配給用物資を巡り、武装した一部不良外国人と、暴力団等との対立が激化します。その中心となったのが各地に出現したヤミ市(闇市)です。
 昭和史に詳しい作家の半藤一利氏によれば、東京では終戦直後の昭和20年8月から9月までの一時期は、軍部の物資や隠匿物資が放出されたため、戦前に比べ食料や各種物資がかなり出回ったそうです。
 終戦の3日後の8月18日、東京都内の主要新聞に、「関東尾津組」が、軍需品を製造していた町工場や家庭で眠っている軍隊用物資等を〝適正価格〟で引き受けるという広告が出ました。


「そして広告の出た二日後にはすでに、焼け跡だった新宿の今の東口広場辺りに、もちろんもう面影すらありませんが、裸電球がだーっと並び、その下に露天商がひしめいたのです。これが闇市のスタートでした」(平成18年、半藤一利『昭和史戦後編』平凡社)。


 この広告の主は、「新宿の〝首相〟」とも呼ばれた的屋関東尾津組組長・尾津喜之助でした。
 「的屋」は「てきや」と読みますが、露天商、街商と呼ばれ、祭礼や街頭で物品や飲食料を販売している人達です。的屋=暴力団ではありません。終戦直後の的屋の中には暴力的団体もあり、暴力団対策法以前は、警察は暴力団を「博徒」、「的屋」、「青少年不良団(愚連隊)」等と分類していました。
 なお、尾津組長は昭和21年4月、戦後第一回の衆議院総選挙に立候補しますが落選し、その後、警視庁に逮捕され、尾津組を解散しました。
 このヤミ市(※闇市、ブラックマーケット。青空市場、自由市場とも呼ばれた。)は全国的にも広がり、多くの場合、そこには外国人や的屋系暴力団が深く関与していました。
 福岡県では、博多港近くに最初のヤミ市が登場しました。その後、天神地区、博多駅前など店の数は千店以上に及びました。
 ヤミ市には何でもありました。当時、福岡県では、賃金がよかった占領軍関係の仕事でも日当8円程度でしたが、ヤミ市では握り飯が1、2円、煙草1本が1円、酒、ビール、衣料品等手に入らないものはないと言われるほどでした。
 金がある者は、「闇」でも何でも構いませんが、普通の市民はそうはいきません。
 当時、国民1人当たり2合3勺(約345グラム)の配給米も十分確保できませんでした。配給食料しか頼れない福岡県警察練習所の警察官の平均体重は、わずか50キログラムだったそうです。
 終戦直後の露店は、正規の商店への移行過程として黙認されてたようです。しかし、各種法令違反が繰り返され、盗品の販売、ヤミ市の利権を巡る抗争などにより、間もなく警察は、ヤミ市取締りに本格的に取り組まざるを得なくなりました。
 その過程で警察官への暴行、警察署襲撃、既存の的屋など暴力団組織と第三国人グループとの抗争が多発しました。
 昭和21年2月、福岡県警察はMPと合同で、福岡市内ヤミ市の一斉摘発を行いました。この時、約600人を検挙しましたが、当時の新聞によると「うち日本人3割、朝鮮人7割」だったとのことです(※12)。これは、当時、本国に帰国する在日朝鮮人の多くが博多港から出発したため、博多港を中心に多くの朝鮮人が在留していたことも一因と思われます。
 兵庫のヤミ市の状況について、兵庫県警察史は次のように記しています。


「戦争が終わり8月も末を迎えたころ、空襲で家を焼かれ住むところを失った人達のねぐら化していた三宮の国鉄高架下に、一つの異変が起こりはじめていた。うつろなまなざしで焼跡を眺める高架下の住民のまわりで、風呂敷包や手提籠を持った人が、通りがかりの人に寄り添うようにして揚げ饅頭の立ち売りをはじめたのである。それは一個5円という高値であった。しかし値段は問題でなく、揚げ饅頭はやがて高架下の名物になった。すえた臭をただよわせ、湿っぽく淀んでいたガード下は、にわかに活気を呈してきたのである。生田警察署では、この事実を知り、価格統制違反として取締ったが、終戦直後という客観情勢を考慮し、いずれも説諭処分に付していた。立売りはだんだんにその人影を増し、蒸し芋・握り飯などの主食加工品も出回りはじめ、次第に販売品目が多様化していった。これが神戸三宮におけるヤミ市初期の姿である。」(兵庫県警察史)

 昭和20年末、兵庫県下のヤミ市は、三宮や山口組が「縄張り」と称した湊川新開地など大小45か所にのぼりました。
 大阪府下は次のとおりです


「ヤミ市は終戦直後の混乱とともに再現し、通称ヤミ市場(青空市場・自由市場ともいわれた)の語を生むに至った。ヤミ市は、復員軍人あるいは軍需工場徴用の失職工員等が、てっとり早く簡単に利益が得られることから多数ヤミ商人となり、それらによって形成された。そのうえ、朝鮮人、台湾人等のいわゆる第三国人によるヤミ行為も少なくなかった。20年9月ごろのヤミ市は、梅田・難波・天六・野田阪神・上六・鶴橋・阿倍野等の10余か所にわたり、約数千人のヤミ商人によりあらゆる物資が販売された。」(『大阪府警史』)

 警察署襲撃事件等の多発

 このヤミ市取締り、一部不良外国人の取締りをめぐり、警察署襲撃事件や既存の暴力団など日本人グループとの抗争等も多発しました。
  ◯ 昭和20年11月21日 船橋警察署襲撃事件(千葉県) 

「船橋署に於て台湾人の窃盗犯人を検挙するや約30名は同署に押掛け戦勝国人を留置するは不都合なりと即時釈放方を強要した。」(『警察統計資料』)

  ◯ 昭和20年11月26日 「侠客団体」と朝鮮人団体との殺傷事件(兵庫県)  

「一部の第三国人の無法ぶりは市民にとり恐怖の的であったが、一方こうした非道は許せないと息巻く侠客団体をはじめとする既存団体との間に、しばしば争闘事件が繰り返された。昭和20年11月26日に長田署管内で日・鮮青年間に殺傷事件が発生した。」(『兵庫県警察史』)

  ◯ 昭和20年12月4日 ヤミ市取締りに対する生田署員襲撃事件(兵庫県) 

「自由市場取締方針に従い、生田警察署ではしばしば都市衛生と雑踏整理のため国鉄三宮から元町間の露店整理を実施したが、12月4日の午後、これを不満とする多数の者が取締り警察官を包囲し、交通整理の名目に藉口して客を追い散らすのは、われわれの商売を妨害するものだと激しく抗議しその退去を迫った。現場で陣頭指揮にあっていた生田署長は、情勢極めて不穏とみて署員に引揚げ命じたが、時既に遅く一部で生じたトラブルをきっかけとして血気にはやる2、30人の者が、鉄棒・煉瓦などを手に、喚声をあげて警察官を襲った。不意をつかれた6名の生田署員は袋叩きにあい、いずれも3、4週間の治療を要する重傷を負ったのである。しかも、このような暴挙は単にこの例のみでなく、同自由市場における警察官への職務執行妨害・脅迫・暴行・傷害事件は十指に余るありさまであった。」(『兵庫県警察史』)

  ◯ 昭和20年12月24日 生田警察署襲撃事件(兵庫県) 

「そうした中で警察にとり極めて不名誉な事件が突発した。昭和20年12月24日の夜半、僅かな時間とはいえ生田警察署が暴徒に占拠されたのである。この事件は生田署が岡山県警察部の捜査に協力したことが発端となっている。同署では岡山市内で発生した7人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張してきた岡山県の捜査員に協力した。ところが午後9時頃『岡山の刑事を出せ』と叫びながら、突然乱入してきた50人をこえる朝鮮人の一団が銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内の捜索を始めた。岡山の捜査員は幸い脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部との連絡手段を絶ってしまった。急を聞いて進駐軍M・Pがジープで駆けつけ事態はようやくにして収集し得たが、この事件は無法者集団を増長させる結果をもたらした。」(『兵庫県警察史』)

  ◯ 昭和21年1月1日 暴力団中谷組と朝鮮人連盟の乱闘事件(兵庫県)

 中谷組と朝鮮人連盟西神戸支部員ら約100人が乱闘(『兵庫県警察史』)

  ◯ 昭和21年1月3日 富坂署襲撃事件(警視庁)

 昭和20年12月26日、27日、警視庁富坂署が連続拳銃強盗事件被疑者として朝鮮人3名を逮捕。1月3日、留置中の朝鮮人を奪還しようとして、朝鮮人50余名がトラックに乗車し、同署に押し掛けた。朝鮮人らは電話室を占拠した上、署長以下12名に全治3週間以下の重軽傷を負わし留置場の施錠を破壊し犯人1名を奪還。通りがかったトラック運転手に拳銃を突き付けトラックを奪い逃走した(『警察統計資料』、『警視庁史』)

  ◯ 昭和21年1月9日 生田署襲撃事件(兵庫県)

 生田署が三宮ガード下でハッタリ賭博団を検挙した際、3、40人の朝鮮人が署内に乱入し犯人を奪還しようとした。同署では断固これを制圧し、MPと協力して首謀者とみられる3名を検挙(『兵庫県警察史』)

  ◯ 昭和21年1月11日 神農会と朝鮮人連盟の乱闘事件(兵庫県)

 尼崎で神農会と朝鮮人連盟間の乱闘事件が発生(『兵庫県警察史』)

  ◯ 昭和21年3月13日 曾根崎署襲撃事件(大阪府)

 大阪府警は主食販売業者に対し、MPの協力のもと徹底取締りを行ない、17件154人を検挙した。このうち第三国人が少なくなかったが、曾根崎署が朝鮮人、台湾人、中国人7人を検挙したところ、約160人の朝鮮、台湾、中国人が奪還をを企て、拳銃、棍棒などを持ち同署を襲撃。署員18人に全治3週間以下の重軽傷を負わせた(『警察統計資料』、『大阪府警察史』)。

  ◯ 昭和21年4月4日 朝鮮人連盟と台湾省民会青年隊の対立抗争(兵庫県)

 4月4日夜、両団体の急進分子が阪急ガード下の立退き問題から対峙し、相互にその事務所を襲って拳銃を乱射した。この事件は、在神進駐軍当局の出動により鎮圧された(『兵庫県警察史』)。

  ◯ 昭和21年6月~7月 台湾省民と松田組等の抗争(警視庁)

 東京都の新橋駅前の露店を巡り、松田組と台湾省民会が対立。6月11日、台湾人側は松田組が新橋駅前広場に建築したマーケットに出店を申し込んだが、要求した店舗数が多かったため、松田組はこれを拒絶した。これに端を発して両者の対立が激化、台湾省民側が松田組事務所を襲い松田組幹部を殴り殺した。これに対し7月16日、拳銃、日本刀等で武装した松田組側が渋谷区の台湾人拠点を襲撃、居合わせた台湾人約50人と乱闘。台湾人2人と出動した警察官2人を負傷させた。
 東京露天商組合理事長だった関東尾津組組長・尾津喜之助が仲介に乗り出したが、交渉は決裂。
 警視庁が情報収集に努めたところ「阪神から約1千人の台湾人が応援のため上京し、都内の一部台湾人と合流して松田組を襲う」、「7月18、19の両日にわたって台湾人約1千人が新橋松田組事務所、警視庁、渋谷警察署等を襲撃する」との情報を入手した。
 渋谷警察署では、7月17、18日の両日、一斉取締りを断行し、悪質な台湾人等28人を検挙した。これに対し、50余人の台湾人が喚声を揚げ、投石するなどして反抗し、これを制止しようとした警察官に暴行を加え、8人を負傷させた。
 渋谷警察署では、前日の禁制品等の一斉取締実施後、不測の事態発生に備え、隣接各署から合わせて百数十名の応援を得て厳重な警戒態勢を整え、翌19日には緊急警戒を発令し、午後6時から総数372名の警察官を動員し、恵比寿、渋谷駅間に通ずる道路等に自動車検問隊を配備するなど、署内外の警戒警備を厳しくした。
 東京露天商組合側では台湾人の襲撃に備え、19日午後3時ごろには都内の露店商ら約1千人を新橋市場付近に集結させ、更に、午後5時ごろには約1500人が芝琴平町の松田組事務所など数か所に分散たむろして、待ち受けた。
 これに対し、台湾人は、午後7時ごろ、約300人が八重洲口の昭和国民学校内の華僑連盟本部を、乗用車10台、トラック5台に分乗して出発、午後7時15分ごろ新橋駅付近に到着し、更に他の一隊約100人はトラック3台に分乗して琴平町の松田組の事務所に襲い掛かる形勢を示した。これに対し、松田組は、屋上にすえた機関銃で威嚇発射した。驚いた台湾人はなんら応戦することなく、いち早く現場から引き揚げてしまい、全面衝突には至らずにすんだ。台湾人の集団が新橋付近から立ち去ったという情報は、時を移さず渋谷署にもたらされたが、彼らの行く先は不明であった(『警視庁史』)。

  ◯ 昭和21年7月19日 渋谷警察署襲撃事件(警視庁)

 同日午後9時ごろ、恵比寿方面から渋谷方向に向かって、ジープ、乗用車、トラックなど7台に分乗した台湾人約150人が、渋谷区中通り三丁目の渋谷警察署前道路に進行して来た。これを認めた警察官が検問のため停止を命じたところ、彼らは「台湾人をなぜ検問するのか」と反抗し、検問員との間に紛争が生じた。警戒中の渋谷署長は、台湾人の説得に努めるとともに、行き先を尋ねたところ、彼らは「本日、京橋方面に集結した者の一部で、麻布の中華民国弁事処に紛争解決のあっせんと、警察取締りの緩和を陳情しての帰途である」と申し立てたが、その挙動に不穏の気配が感ぜられたので、軽挙妄動を慎むよう注意のうえ進行を許した。
 ところが、第3両目のトラックが署長の直前にさしかかった瞬間、車上から署長目掛けて拳銃3発が発射された。その弾が署長の傍らにいた芳賀巡査部長ほか1人に命中し、芳賀巡査部長はその場に倒れた。続いて進行して来た車上からも拳銃が発射されたので、署長は、警戒員に拳銃の使用を命じ警察は拳銃で応戦、最後尾のトラックが道路沿いの菜園に突っ込み停車した。警戒員は、これを包囲して、乗車していた台湾人ら28人を逮捕したが、他の車はいずれも逃走。その後の捜査により関係者10余人を検挙、7月26日、事件を米軍東京憲兵司令部に引き渡す。警察官は芳賀巡査部長死亡、他に重傷1人、軽傷2人、台湾人側は死亡5人、軽傷15人(『警視庁史』)。


 一連のヤミ市を巡る事件を受け、昭和21年7月20日、内務省が「露店営業の一斉取締」を通達、23日、政府は「ヤミ市場の絶滅」を閣議決定しました。
 8月1日以降、「8.1粛正」と呼ばれた全国一斉のヤミ市検挙等の強硬措置が開始されました。大阪府警では警察官5000人を動員、兵庫県警も1000人を動員するなどし、ヤミ市の取締り、不法占拠建物の撤去等が進められました。
 ただ、ヤミ市の完全撤去まではその後も時間を要したようです。

 警察官の殉職

 渋谷警察署襲撃事件では、警察、台湾人双方に死傷者が出ていますが、この時機、警察官の殉職事件も多発しました。

  ◯ 昭和21年2月28日 台湾人による生田署員殺害事件(兵庫県)

 兵庫県警生田警察署・岡政雄巡査部長は、昭和21年2月28日午後2時ごろ、神戸地裁検事が台湾人に連れ去られたとの情報(のち誤報と判明)に基づき、生田区北長狭通の台湾省民会事務所に向かい、その事実を確認しようとした。ところが居合わせた台湾人数名が岡巡査部長を殴打するなど暴行を加え、岡巡査部長は重傷を負い、同夜、収容先の病院で死亡(『兵庫県警察史』)

  ◯ 昭和21年3月2日 拳銃強盗団による大淀署員殺害事件(大阪府)

 同日、大阪府大淀区田辺製薬工場で強盗事件発生した旨、自衛団員から通報を受け、大淀警察署の八田信吉巡査は同僚の伊藤巡査と現場に急行した。同工場ではトラックで乗り付けた12人の集団強盗が宿直員5人、守衛2人を縛り物色中。犯人らは両巡査の姿を認めるや机の下に隠れ、拳銃を発射。八田巡査は死亡、伊藤巡査も重傷を負った。強盗団はサッカリン錠、ズルチン等を強奪、トラックで逃走。西成・福島両署に捜査本部を設置し捜査の結果、4月17日、首謀者を逮捕、続いて共犯者も逮捕(『大阪府警察史』)。

  ◯ 昭和21年3月2日 拳銃強盗による須磨署員殺害事件(兵庫県)

 兵庫県警須磨署佐藤進巡査部長は、4月23日の夜半、管内天神町3丁目で屋内拳銃強盗事件発生の急訴を受け、上司・部下とともに現場に駆けつけた。率先して屋内に踏みこんだ佐藤巡査部長に強盗犯人が拳銃を発砲。佐藤巡査部長は同日午後9時35分死亡(『兵庫県警察史』)。

  ◯ 昭和21年11月27日 脱走強盗犯人らによる姫路署員殺害事件(兵庫県)

 11月27日夕刻、姫路少年刑務所から脱走した8人の強盗犯人逮捕のため非常警戒勤務中の兵庫県警姫路署矢吹巡査は、午後9時半ごろ脱獄犯の一団を発見、格闘となったが衆寡敵せず、全身打撲を受け殉職(『兵庫県警察史』)。

  ◯ 昭和21年12月18日 拳銃強盗による生野署員殺害事件(大阪府)

 昭和21年12月、大阪市生野区で飲食店ばかり襲い、家人及び客に拳銃を突きつけ、現金等を強奪する2人組もしくは3人組の強盗事件が続発。同一犯とみられ、生野署に捜査本部をおき今里新地周辺にを中心に連日張込み、聞込み捜査を実施。同月18日午後6時45分ごろ、張込み中の池田巡査部長は挙動不審の2人を発見、誰何したところ、やにわに1人が拳銃を発射。同巡査部長の左脇腹を貫通。同巡査部長は逃走する犯人を追跡したが力尽き殉職。翌昭和22年1月8日、犯人らを逮捕(『大阪府警史』)。


 昭和21年半ば位から、ようやく警察官の拳銃もある程度配備されるようになってきたようです。
 福岡県警では、同年5月、連合軍から1000丁、警視庁は6月に新たに4189丁、兵庫県警では同年末までに1030丁が配分されました。

 「自警団」の活動

 終戦直後の山口組の活躍について、三代目山口組・田岡一雄組長は次のように記しています。

「ゲリラ作戦では埒があかぬ。
 まず拠点をつくって、ブルドーザーで一挙に駆逐することを考えたのだ。少々荒療治だが、これも万やむをえない手段だ。わたしがやらなければ、いったいだれがやるというのだ。
 わたしの目は迷うことなく新開地に向いていた。
 新開地は先代以来の縄張りである。
 その新開地も彼らの土足に蹂躙され、白昼から堂々とデン助賭博がひらかれ、その数は百軒から百五十軒にも及んでいた。
 彼らは通行人を強引に誘い込んで、イカサマと脅迫で容赦なく金品をむしりとる。さからえば丸裸にされて袋叩きにあう。警官がきても彼らは歯牙にもかけず賭博を開帳しつづける。不遜であり不敵である。なまじ警官が咎めだてすれば、たちまち暴徒は集団をつくって警官を小突きまわし、殴る蹴るの暴行をくわえる。
 わたしはまず、新開地から彼らを締めだすことを決意した。新開地を皮切りに、彼らの最大の拠点である三宮でまっこうから対決しようとしたのである。」
「彼らとの本格的な抗争の火蓋は、この新開地で切られたといってよい。
 その悪辣な復讐に備え、わたしは『花月劇場』を借りて自警団を結成、発足させた。中核をなす者はいうまでもなく、わたしの下に集まってきた同志たちだ。彼らの拳銃や鉄パイプの凶器に対抗し、わたしは同志に樫の六角棒を持たせて街を自衛させ、敵は一人たちといえども新開地に入れるな、と厳命したのである。自警団の発足後、デン助賭博はたちまち新開地から姿を消していった。
 わたしの名は市民や警察の間できわめて好意的に迎えられたが、当然の帰結として、彼らからは目の敵とされ、命をつけ狙われた。わたしの首に懸賞金がつけられたのもそのころだ。」(『田岡一雄自伝』)


 当時、神戸の「自警団」は山口組だけではありませんでした。
 『兵庫県警察史』が引用する神戸新聞記事によると、

   昭和20年12月22日  生田署管内に中国・台湾・朝鮮の各青年が神戸駅以西の警戒に当たる。
   昭和21年 1月21日  番町自警団は集団強盗20数件を検挙した。
   昭和21年 1月29日  明石で金波虎組と呼ぶ自警組織が誕生した。
   昭和21年 2月 1日  長田区二葉町に西神戸自警団が発足した。
   昭和21年 2月15日  洲本で、もと力士・侠客などが憂洲組を結成した。
   昭和21年 2月23日  湊川新開地に、山口組幹部を団長とする自警団が発足した。
   昭和21年 2月23日  灘自警団が誕生、強窃盗4件を検挙。
   昭和21年 4月 3日  西宮に義研団が結成された。

 これによると、最初に「自警団」を結成したのは、後に山口組自警団と対立する台湾や朝鮮人の青年団のようです。
 「兵庫県警察史」はこの自警団について次のように続けています。

「これらはいずれも警察力の不足をカバーするため積極的な活躍ぶりを示したが、やがて一部に自警団の行き過ぎが問題となり、自警団の看板を掲げた街の狼的組織が生まれ、自警団員による窃盗その他の犯罪が発生し、あるいはまた既に述べたように、これらの組織相互間の争闘事件が発生したのである。そしてその争いの原因は、第三国人対日本人という形から次第に利権をめぐるものに変化していった。すなわち反社会集団としての暴力団化である……」(『兵庫県警察史』)


 山口組自警団について、注意を要する点はその活動拠点が「湊川新開地」だったということです。田岡組長が書いているように、そこは「先代以来の縄張り」なのです。
 山口組の縄張り内で勝手に博奕をやるような者は誰であろうと、ヤクザ(暴力団)は許すことはできません。江戸時代末期の博徒から現在の暴力団に続く彼らの伝統なのです。もちろんそこには、縄張り維持だけではなく、一部の不良外国人から神戸市民を守るという気持ちもあったでしょう。
 しかし、東京の松田組や尾津組など的屋系暴力団と不良外国人の対立抗争や、神戸のヤミ市などを巡る暴力団と不良外国人の対立抗争の背景に、暴力団側の「縄張り」維持があったことは間違いないと思います。

 警察と「ヤクザ」の違い

 田岡組長は当時の警察官についても「なまじ警官が咎めだてすれば、たちまち暴徒は集団をつくって警官を小突きまわし、殴る蹴るの暴行をくわえる」と書いています。
 また「警官が駆けつけても手も足も出ない。『おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか』 警官は小突きまわされ、サーベルはへし曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。」と書いています。
 当時、第三国人に対する警察の権限も十分認められておらず、武器や装備も不十分な中、小突きまわされ、殴る蹴るの暴行を加えられても、不良外国人や不良米軍兵士に立ち向かった警察官がいたのです。
 『田岡一雄自伝』には兵庫県警生田署員、須磨署員の殉職事件についても触れていますが、不良外国人との山口組との闘いの中で、山口組側の犠牲はどうだったのでしょうか。
 双方、武装し法の規制は無視していますから、少なくとも負傷者は出ただろうと思います。ただ、具体的な記述はないようです。
 また、先に触れたように、当時、警察は連合軍兵士に対しては、全くといって良いほど手が及びませんでした。
 一方で「強きを挫き、弱きを助ける」のが任俠です。「任俠団体」であるヤクザ集団は、法の下にある警察とは異なります。超法規的かつ武装した連合軍兵士に暴力団はどう対抗したのでしょう。
 「不良外国人」と闘ったヤクザの話は色々聞きますが、不良連合軍兵士と闘ったヤクザの話は聞いたことがありません。
 「山口組自警団」の発足後、「デン助賭博はたちまち新開地から姿を消していった」そうですが、山口組自警団の活動を支えていたものは何なのでしょう。
 多くの市民が飢えに苦しみ、餓死者も出たこの時期、山口組組員らも食べていかなければなりません。彼らはどのようにしてその資金を得ていたのでしょうか。
 今も昔も、暴力団側は、自らの収入源、シノギについてはほとんど話をしません。
 『田岡一雄自伝』によれば、昭和20年8月15日、田岡組長は昼間から賭場にいました。「みんなゲートル姿で鉄カブトを背負い、張った張った、と金のやりとりがつづいている。厳重な灯火管制と夜間爆撃とで各賭場は昼間開張されることが多かった」そうです。
 山口組は元々、港湾労働者派遣業から始まったヤクザ組織つまり博徒です。「厳重な灯火管制と夜間爆撃」の中、昼間から賭場を開帳していたほどですから、戦争の終わった終戦直後も山口組は引き続き賭場を開張していたことでしょう。

 戦後の凶悪犯罪と日本人、「国際ギャング団」

 暴力団側に立つ人は、不良外国人に対抗したヤクザを強調しますが、戦後の凶悪犯罪を含めた犯罪の多くは、外でもない日本人によるものです。
 断片的資料しかありませんが、内務省警保局の『警察統計資料』によると、昭和21年1月から4月に集団強盗事件(強盗殺人・強盗傷人・強盗強姦を含む)は203件発生し、検挙はわずか99件です。
 この間、中国人及び台湾人の集団強盗は各8件となっています。朝鮮人は分類が異なり、集団強盗及び集団窃盗の合計が26件となっています。仮に26件全てが集団強盗だとしても、朝鮮人、中国人、台湾人合計で検挙件数は42件、全体の約42%、残り半分以上は日本人による集団強盗と考えてよいでしょう。
 強盗集団の中には、日本人、朝鮮人、台湾人などが集まった「国際ギャング団」と呼ばれるものもありました。
 当時の神戸で、不良外国人と手を結び「国際ギャング団」を組織し、その首領となっていた「ボンノ」こと菅谷政雄が有名です。菅谷は、山口組二代目組長の若衆(子分)の兄弟分とのことです。山口組の正式組員ではありませんが、現在なら準構成員と言ってよいでしょう。
 「ボンノ」の綽名は、少年時代暴れん坊だった彼を、寺の和尚が「これ煩悩」と一喝したことから、「ぼんのう」が「ボンノ」となったと言われています。
 『田岡一雄自伝』では、朝鮮人連盟から呼び出された田岡組長を救ったのが、当時、朝鮮人連盟の「顧問」だった菅谷だったと書かれています。
 兵庫県警の資料によると菅谷は、当時、朝鮮人連盟と対立していた台湾省民会神戸青年隊の顧問です。そして、昭和21年4月、台湾省民会と対立していた朝鮮人連盟東神戸支部幹部ら2名が射殺された事件の首謀者として後に逮捕、有罪となり服役します。
 『田岡一雄自伝』で田岡組長を呼び出したのは台湾省民会側ではないでしょうか。
 兵庫県警の必死の捜査により、国際ギャング団は壊滅します。当時検挙されたその構成員は日本人82名、朝鮮人47名、台湾人27名、その他3名です。
 検挙後、神戸新聞に菅谷は手記を寄せました。その中で朝鮮人2人の殺人について「日本人としての血がそうさせた、いわばやむにやまれぬ行動であった」と述べているようです(『兵庫県警察史』)。
 菅谷は結局、懲役15年が確定、服役しました。そして、昭和34年、仮出獄した菅谷を、三代目山口組・田岡一雄組長は子分に迎え、菅谷は菅谷組を結成、後に最高幹部である若頭補佐に就任します。
 昭和38年11月、北九州市に進出した山口組菅谷組傘下の芦原組員らが、繁華街の路上で工藤會最高幹部・前田国政を射殺、山口組と工藤會(当時は工藤組)の抗争に発展しました。
 この事件では、前田襲撃とは無関係だった同じく山口組地道組組員2人が工藤會側からリンチを加えられた上、小倉を南北に流れる紫川に投げ込まれ殺害されました。1人は27歳、もう1人は20歳でした。
 この誤認殺人事件は「紫川事件」と呼ばれていますが、それを指揮した工藤組最高幹部・草野高明はその後の捜査で逮捕、服役、後に草野一家を結成し、工藤組(当時は工藤会)と烈しい抗争を繰り広げることになります。
 国際ギャング団首領・菅谷政雄は、いわば山口組の全国進出に重要な役割を果たしたわけですが、そこには任侠も仁義もありません。強盗団の首領として不良外国人と手を結び、殺人、強盗などの凶悪事件を繰り返した人物であっても、役に立つなら幹部で迎える。それがヤクザ、暴力団の真の姿です。
 昭和21年9月以降、ようやく体制を立て直した警察は、暴力団の取締りを強化していきます。しかし、組織暴力を背景とし、「任侠団体」を標榜する暴力団は、勢力をより拡大、市民に対する不法行為を活発化していきます。

 ヤクザが減ったら犯罪が増える?

 冒頭に「ヤクザがいるから不良外国人が入ってこない」という暴力団側の主張を紹介しましたが、最近では「ヤクザがいなくなると半グレがのさばる」などと準暴力団(半グレ)による犯罪が増えるなどいう人もいるようです。
 要はヤクザ(暴力団)がこれらを押さえている、暴力団組織はその配下暴力団員が悪いことをしないよう押さえている、と言いたいのでしょう。
 「半グレ」などと言いますが、では本物の「グレ」とは何なんでしょう。
 警察では、暴力団対策法以前、暴力団を「博徒」、「的屋」、「その他」に分類し、その他には「青少年不良団(愚連隊)」などがありました。
 愚連隊(※ぐれんたい)は、実は明治末期ごろから存在し、戦前は主に「グレ」と呼ばれる青少年不良団のことでした。
 戦後の混乱期、従来の博徒系、的屋系の暴力団に加え、それらの枠に入らない愚連隊の活動が活発化し、時に博徒系、的屋系暴力団を圧倒することもありました。
 しかし、昭和20年代末ごろから、愚連隊は、ヤクザを自称していた従来の博徒系あるいは的屋系暴力団に吸収され、現在に至っています。
 それは、博徒や的屋集団が持続的な組織を有し、「ヤクザ」、「任侠」などと市民の一部から容認されてきたからだと思います。
 準暴力団は「半グレ」ではなく、本物の「グレ」、愚連隊です。世の中から犯罪がなくならないように、この種の犯罪集団は常に存在しつづけています。最近、暴力団の活動が、警察の取締りや市民の暴排運動、暴力団排除条例の影響により、目立たなくなったため、彼ら愚連隊の活動が目立つようになったのだと思います。
 冒頭に昭和19年から昭和30年までの窃盗、強盗、殺人の発生状況のグラフを示しましたが、以下のグラフは昭和元年以降、昨年までの発生状況です(※13)。

  図4 窃盗事件発生状況(昭和元年年~令和元年) 窃盗グラフ
 黒の線グラフが窃盗の発生件数で左側の数、赤の線グラフが暴力団勢力でグラフ右側の数です。暴力団勢力は暴力団員と暴力団準構成員等の合計です。それぞれ年末の数値です。
 暴力団勢力は、昭和32年以降、昭和38年にかけ大幅に増加し、昭和38年末が過去最高の約18万4,100人です。
 昭和32年以降、急激に増加しています。実際に増加傾向にあったのでしょうが、もう一つの理由は、全国統一で暴力団の実態把握が始まったのが昭和31年9月以降だという点があると思います。
 このため、警察庁の公式データは翌昭和32年末以降が公開されています。
 暴力団の実態把握がより進み、その結果、それまで未把握だった暴力団員の把握が進んだことが数の増加に繋がったように感じます。
 窃盗事件については、実はごく最近、平成14年中が過去最高でした。
 私は、平成14年3月から平成15年3月まで、福岡県で最も犯罪が多発した博多警察署の刑事管理官を勤めましたが、まさにひったくりなどの悪質な窃盗事件、強盗事件などが多発していました。
 以後、警察の取締り、防犯対策の強化もありましたが、何よりも市民の皆さんの防犯意識の高まり、具体的には防犯ボランティアや防犯カメラが大幅に増加したことなどが、犯罪抑止に繋がったと思います。

  図5 強盗事件発生状況(昭和元年年~令和元年) 強盗グラフ
 図5は、特に終戦後爆発的に増加した強盗事件です。
 黒の線グラフが強盗の発生件数でグラフ左側の数です。
 終戦後の昭和23年中が過去最高の年間10,854件です。それに次いだのが平成15年中の7,664件です。
 では、暴力団の増減とこれら犯罪の増減は関係あるのでしょうか。

 暴力団勢力の推移と比べてみると、暴力団が減ったから犯罪が増えるという因果関係は全く認められません。
 ただ窃盗事件では、昭和38年から平成14年までだけ見ると、あたかも暴力団勢力が減って窃盗が増加したようにも見えないこともありません。
 昭和38年以降、暴力団勢力が大幅に減少に転じたのは、全国警察が強力に行った暴力団取締り「頂上作戦」の成果だと思います。そして、暴力団勢力は大幅に減少していますが、昭和50年頃までは窃盗事件は横ばいです。増えていません。
 さらに平成23年10月までに全国で暴力団排除条例が施行された以降、再び暴力団勢力は大幅に減少していますが、窃盗も強盗も減少を続けています。

 次に凶悪事件の最たるもの、殺人を見てみましょう。
 図6黒の線グラフが殺人事件の発生件数で左側の数です。

  図6 殺人事件発生状況(昭和元年~令和元年) 強盗グラフ
 「昔はよかった」などと言われることもありますが、殺人事件については戦前も非常に多かったようです。
 昭和38年以前は、あまり関係無いように見えますが、昭和38年以降は暴力団勢力が減り殺人も減っています。

  図7 殺人事件発生状況(昭和21~令和元年) 強盗グラフ
 次の図7は、昭和21年以降の殺人事件の発生・検挙状況です。
 棒グラフは検挙された人員です。昭和31年以降は暴力団員の検挙人員が公表されています。昭和61年以前は「暴力団員」に暴力団準構成員等も含まれていました。昭和62年以降は、それぞれの数値が公表されています。暴力団員が黒棒、準構成員等は斜線、白がそれ以外となっています。
 戦後、「不良外国人」に「対抗」した暴力団は、博徒、的屋、愚連隊いずれも「ヤクザ」を自称し、利権、縄張りを巡って対立抗争を繰り広げました。
 統計データが公表されている昭和31年中、全国の殺人事件の発生件数は2,617件ですが、合計2,862人が検挙されています。
 その中で暴力団員は1,078人、実に全体の約38%を占めています。
 昭和62年以降は、それまで暴力団員に含まれていた暴力団準構成員等も区別されるようになりました。同年中、殺人で1,651人が検挙され、その中で暴力団員415人、準構成員等78人で、全体の約26%が暴力団勢力だったのです。
 殺人については減少を続けており、最近は年間1,000件以下ですが、殺人については暴力団が減ったから殺人も減ったといって良いようです。
 昭和32年以降、暴力団の全国的な実態解明が進み、取締りが強化されるようになった背景には、暴力団による凶悪事件、抗争事件の多発もあったのです。
 その中心となったのが、三代目山口組です。
 山口組は、自警団による「不良外国人」との闘争のほか、台風の被害にあった地域へ支援物資を満載したトラックを送ったり、平成7年の阪神淡路大震災の際には、炊き出しや支援物資の配布活動なども行っています。
 恐らくそれは善意によるものでしょう。
 しかし、阪神淡路大震災時に被災者の支援やその後の復旧に当たったのは山口組だけでも、山口組が主力となったものでもありません。終戦後の混乱期における一部不良外国人に対しても同様です。
 暴力団の存在が許されないのは、彼らが幾らきれい事をいっても、彼らが暴力組織を背景とし、違法不当な行為により資金を得て、時には市民に卑劣な暴力を振るってきたからです。
 普段彼らは何をしているのでしょう。どうやって資金を得ているのでしょうか。
 一時の行為をもって、「任侠団体」と言われても納得できません。
 次回は、最近における暴力団と「不良外国人」について見てみたいと思います。

     令和2年7月27(月)

【注】