なぜ暴力団員を「組員」と呼ぶのか(3・完)

 なぜ暴力団員を「組員」と呼ぶのかを見てまいりました。あくまで暫定的ですが、ここで一つの意見を申し上げたいと思います。私は、「暴力団」を「組員」と呼ぶようになったのは、戦後の混乱期に的屋系暴力団の活動が活発になったことや、主要暴力団、特に山口組が活動を活発化させ勢力を拡大していったためではないかと考えています。

 戦後の混乱と暴力団

 昭和20年8月15日、我が国は戦争に敗れ、終戦を迎えました。間もなく旧軍隊は解体されますが、警察は基本的に引き続き治安維持にあたりました。福岡県警でも、福岡県警察練習所(現在の警察学校)の卒業を1ヶ月早め、一線に配置するなどしましたが、全国的に治安は急激に悪化しました。
 尾津喜之助が「組長」を務める的屋・関東尾津組は、終戦わずか3日後の8月18日、東京都内の主要新聞に物資を適正価格で引き受けると広告を掲げたそうです(注1)。食料品や日常生活物資が不足する中、全国的なネットワークを有し、元々、街頭での食品、衣料、医薬品などの販売を行っていた的屋系団体が急激に勢力を拡大し、各地にブラックマーケットと呼ばれた露店市場が登場しました。東京新宿では終戦直後は尾津組が支配し、西口は野原組、南口は和田組が勢力をのばしたようです(注2)。
 そしてこれらの利権を巡り、在日朝鮮・台湾人の一部が武装集団を結成し、的屋系団体等と対立し、時に激しい抗争を繰り広げました。
 現在、我が国最大の暴力団である山口組を、一代で全国規模に作り上げたのが、昭和21年夏に三代目を継承した田岡一雄組長です。
 田岡組長は、自らの自伝で、当時の神戸の状況を次のように語っています。

「腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプをひっさげた彼らの略奪、暴行には目にあまるものがあった。警官が駆けつけても手も足もでない。『おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか』警官は小突きまわされ、サーベルはへし曲げられ、街は暴漢の跳梁に無警察状態だ。さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の乱行も目にあまった」(注3)

 一方、治安維持にあたる警察は、戦勝国である連合軍将兵には権限が及ばず、当時「三国人」と呼ばれた在日朝鮮・台湾籍の人々に対する権限も不明確で、警察はその対応に苦慮したようです。
 兵庫県警の資料『広域暴力団山口組壊滅史』(注4)には次のように書かれています。

「戦後の混乱と生活苦、三国人の横暴ぶりは改めて述べる必要はなかろう。」
「彼(田岡一雄)は新開地を中心に、暴虐をきわめる三国人と連日のように乱闘を繰り返して『山口組の田岡』の名を高め、遂に山口組舎弟会の推薦を受け、昭和21年、三代目を襲名したものである」

 ようやく昭和21年11月、連合国占領軍から「日本に在留することを選んだ朝鮮人は、昭和21年12月15日以降、日本に継続して居住すれば、(我が国の)法律・法令の適用を受けなければならない」旨指針が示され、警察も対応可能となりました。
 不良外国人組織の一部は拳銃等で武装化し、同様に武装化した的屋系団体等との間で抗争事件を繰り返したほか、時には警察署に対する襲撃事件まで敢行していました。それに対し警察は、戦前、制服警察官が携帯していたサーベル(刀)が禁止され、警棒、警杖を携帯することとされましたが、それでは拳銃などで武装した集団に対抗することは困難でした。
 昭和21年5月、連合国側から全国警察に多量の拳銃が支給されましたが、的屋系団体と不良外国人集団との抗争や警察署襲撃などでは、連合軍MP(憲兵隊)の力を借りる場面が度々あったようです。

 的屋組織が「組」を名乗る

 的屋系団体と台湾人系不良集団との大規模抗争の一つが、昭和21年6月の「新橋事件」です。
 まず、東京の新橋駅付近に縄張りを有していた的屋系暴力団・松田組と、台湾人系組織とが抗争となりました。台湾人系組織が松田組のみならず、東京の露天商組合本部を襲撃するとの情報を得た、露天商組合理事長で尾津組々長・尾津喜之助が、傘下組合員を召集、新橋から有楽町にかけ約1500名を集合させました。
 周辺住民が避難する騒ぎの中、松田組は事務所に軽機関銃を据え付け、トラック5台、乗用車10台に分乗した台湾人系組織を銃撃しました。これを機に出動した米軍により事件は鎮圧されますが、全国的にもこれに似た大小の事件が発生しています。
 これらの事件に登場する的屋系暴力団は、尾津組、松田組、和田組など「組」を名乗っています。
 元々、的屋は「〇〇一家」や「〇〇屋」が正式稼業名です。そして、二代目、三代目になると「〇〇一家〇代目」、分家すると「〇〇一家〇〇分家」などを名乗りました。尾津組長は、正しくは飯島一家小倉二代目です。
 しかし、戦後の混乱期、多くの的屋組織がそのトップの名を冠した「〇〇組」を名乗るようになりました。尾津組、松田組、和田組などがまさにそれです。
 戦後、数年が経過し治安も安定してくると、ようやく「暴力団」に対する取締りも強化されてきました。その中で、政界や警察との癒着が問題化した尾津組々長・尾津喜之助も昭和22年、強要罪・暴力行為等で逮捕、起訴され、翌昭和23年7月に尾津組を解散しました。

 「組員」の登場

 この事件については、尾津組長と政治家、司法関係者、警察との関係に問題があったのではないかと、昭和23年5月の参議院司法委員会で取り上げられています。
 この時、尾津組の構成員について「組員」という言葉が登場しているのです。
 国会で暴力団の構成員を「組員」と呼んだのは、これが初めてではないかと思われます。戦前でも、「暴力行為処罰等ニ関スル法律」が審議された時など、「暴力団」が登場しますが、「組員」は登場しません。この昭和23年以前の議事録を調べたかぎりでは、「組員」という言葉は、船の「乗組員」や消防組(現在の消防団)の「消防組員」、隣組の「隣組員」という使われ方しかないようです。
 昭和26年5月の衆議院法務委員会で、東京の的屋系暴力団・野原組の構成員についても「組員」と呼んでいます。
 昭和30年代、山口組や稲川会、住吉会などの主要団体が、全国に勢力拡大を図り、抗争事件や凶悪事件が多発しました。第1回東京オリンピックが開催された昭和39年(1964年)以降、全国警察では「第一次頂上作戦」と呼ばれる強力な暴力団集中取締りを推進しました。
 この頃には、暴力団員を「組員」と呼ぶのが定着していたようです。衆議院法務委員会等でも、暴力団組織構成員を「組員」と呼ぶ例が増加しています。
 昭和39年6月の衆議院地方行政委員会での、同月、愛媛県松山市で発生した暴力団矢嶋組と郷田会の抗争事件に関する質疑でも、矢嶋組のみならず郷田会の構成員についても「組員」と呼んでいます。
 なお、現在、我が国最大の暴力団・山口組が国会質問で登場するのは、昭和39年2月の参議院地方行政委員会が初めてのようです。
 あくまで、断片的な調査の結果ですが、戦後、活動が活発化した的屋系暴力団の多くが「〇〇組」を名乗っていたことから、いつしか的屋以外の博徒、愚連隊の流れを汲む暴力団についても、その構成員を「組員」と呼ぶようになったのではないでしょうか。
 この件を含め、更に勉強してまいりたいと思います。

 令和2年1月17日 完

【注】