二人の刑事(2)

 情報が取れない?

 「警察は暴力団から情報を取れなくなった」。よく聞く話です。でも違います。
 藤﨑さんは、特捜員からの報告に対しても、彼らの報告が完全に終わるまでは口も挟まず、まず彼らの報告を聞くことを徹底していました。
 多くは素人の特捜員たちでしたが、藤﨑班長の適切な指揮もあり、少しずつ工藤連合草野一家関係者からも断片的な情報を入手するようになってきました。
 それは私にとって驚きであり、またその後の暴力団対策の基本となりました。
 「情報が取れない」ではなく、努力すれば、工藤連合草野一家関係者のような者からも情報は取れるのです。そして、それに必要なことの第一は誠実、つまり、嘘をつかない、取引しないということでした。そして、できない約束をすることは嘘をつくのと同じです。
 過去、暴力団関係者に口先の約束をしたり、本当のことをしゃべれば逮捕はしないなど取引まがいのことをする捜査員もいたようです。そのような捜査員を彼らは決して信用しません。
 しかし、彼らも人間です。特捜員らが正義感と信念を持って、誠実に話をすれば、一度や二度では本当のことは言わなくても、少しずつ本当の話をしてくれるようになるのです。
 断片的な情報であっても、それをつなぎ合わせれば線になり、線をつなげていけば面になります。
 捜査の結果、この事件は工藤連合草野一家田中組傘下の田上組による組織的な犯行であることがわかってきました。田上組々長とはその後の四代目田中組長、そして現在の五代目工藤會の田上不美夫会長です。
 田上組幹部でAの兄貴分であるIが深く関与しているとの容疑が深まってきました。
 3週間後、銃刀法違反で逮捕されたAは、同罪で起訴され、起訴後、A殺害容疑での取調べが始まりました。

 Aの自供

 Aの取調べは、藤﨑班のK係長が担当していました。その日の取調べ終了後、特捜本部を設けていた直方署会議室で、刑事課長である私も同席し、藤﨑班長に取調べ状況を報告します。
 逮捕された被疑者は、48時間以内に検察官に送致され、その後24時間以内に釈放するか裁判官に勾留請求しなければなりません。勾留は10日間ですが、事件によって、特に暴力団事件の場合、さらにもう10日間の勾留が行われます。
 Aが実行犯の1人であるのは間違いありませんでした。しかし、もう1人実行犯がいます。さらにはAらに犯行を指示した上部幹部がいます。
 Aが拳銃2丁を所持して「自首」してきたというのは、工藤連合草野一家としてはAだけで片付けるつもりだったのです。
 勾留されたAに対し、工藤連合草野一家の幹部たちが毎日、差し入れに訪れました。裁判官の接見禁止処分がついていますので、もちろん彼らはAとの接見(面会)は許されません。それが許されているのはAの弁護人だけです。
 Aには工藤連合草野一家がある弁護士を弁護人としてつけていました。
 差し入れに来た工藤連合草野一家幹部らは、その役職に応じて一定金額を留置場のAに差し入れました。間もなくその合計金額は三百万円ほどになりました。工藤連合草野一家の組織的な犯行であることは間違いありません。
 M殺害事件のように、暴力団による組織的な事件の場合、組織が弁護士をつけてくれます。逮捕された暴力団員が自分だけで止めれば、そして、勾留中、さらには有罪確定後の受刑中、差し入れや家族の生活の面倒も見てくれるのです。
 そして、出所すると、大幹部に昇格し、多額の報奨金を受け取ることができるのです。
 誠実なK係長に対し、Aは心を許し本音の話もするようになりました。現場の状況からAのほかにもう一人実行犯がいます。また、Aに犯行を指示した上位の者がいます。
 素人ばかりの特捜員でしたが、藤﨑班長の適格な指揮により、積極的に田上組、そしてその傘下のI組関係者に接触していきました。もちろん、大部分の場合、警察が接触してきたことは田上組側にも抜けるはずです。それを恐れていては何も進みません。
 その積極性も私は藤﨑さんに学びました。
 しかし、暴力団関係者とは言え相手も人間です。元暴力団組長であっても人一人が殺されたのです。警察は工藤連合草野一家の卑劣な犯行を許さない、特捜員らの素朴な正義感とそして誠意が少しずつ、相手側にも伝わっていきました。
 その結果、少しずつ状況証拠を積み重ねていくことができました。
 「暴力団情報が取れない」「暴力団関係者が本当のことを言うはずがない」そう聞かされてきた私にとって、それは驚きでした。
 K係長の取調べに対しAも、Iの名前こそ決して口にしませんでしたが、現場の状況から、ある人物から指示され、そしてその人物と二人でM組長を殺害したことは認めるようになってきました。
 M組長殺害事件発生、そしてAの「自首」から2ヶ月近くになろうとしていました。
 A、そしてIの逮捕状を得ることができました。しかし、その頃にはIは姿をくらましていました。
 I組関係者からの聞き込みで、Iに情婦がいることが判明しました。9月7日、情婦方付近に張り込んでいた捜査員がIを発見、殺人等で逮捕しました。それに併せて翌日、Aを逮捕しました。
 Iは予想どおり否認でした。しかし、特捜員たちはAの断片的自供を裏付ける関係者の供述や証拠を積み重ねていきました。
 被疑者の供述のみに頼る捜査は危険です。被疑者が本当のことを供述していれば、それを裏付ける関係者の供述や証拠も出てくるのです。
 ただ、暗にIの関与を認めていたAも、それを供述調書にすること、さらにはIの名前を供述調書にすることは絶対に認めませんでした。
 2回目の勾留満期が近づいてくると、報告するK係長の顔色は、日に日に暗くなって行きました。
 自らの犯行を認めているAが殺人で起訴されることは間違いありません。しかし、Iの起訴については微妙な状況でした。やはりAの口からIの関与を引き出す必要がありました。
 藤﨑班長は、完全自供を得られないK係長に対し、励ましやアドバイスは行っても、決して責めることはありませんでした。
 2回目の勾留満期2日前の夜、いつもより少し早い時間に藤﨑班長から刑事課長席にいた私に呼び出しの電話がかかってきました。会議室に行くと、藤﨑さんは、ほっとした顔のK係長から報告を受けているところでした。Aが完全自供したのです。
 藤﨑班長の適切な捜査指揮を受け、K係長は正攻法でAの自供を得ることができました。そこには嘘もいつわりも取引もありません。Aは不幸な生い立ちでした。K係長はそれに対し心から同情し、一方で殺されたMの家族の悲しみ、苦しみ、人一人を殺めた責任、何よりも警察は真相を究明するまでは決して諦めない、その心がAの自供を得ることにつながったのです。
 2日後、I、A両名はM殺害で起訴されました。起訴後、Aに対する工藤連合草野一家幹部らの差し入れがピタリと止まりました。Aの自供が工藤連合草野一家側に気づかれたのです。
 Iは起訴後、自らの犯行の一部は認めましたが、さらに上部の関与については一切口をつぐみました。残念ながら、当時としては、それが限界でした。
 その後、Aは懲役15年、Iは懲役18年が確定し、それぞれ服役しました。
 その間、Iの妻には田中組から毎月生活費が支給され続けました。それを知ったのは、平成15年に工藤會取締りを担当するようになってからです。そして出所後、Iは工藤會の直轄組長に昇格しました。恐らく多額の報奨金も受け取っているはずです。
 自らの犯行を認めていたAは、3年早く出所することができました。しかしその報奨金は少なく、しかも全額支給ではなく、数十万円ずつ支給されました。Aは昇格はしましたが直轄組長となることはありませんでした。
 

 藤﨑さんに学んだもの

 この事件の捜査で、私は暴力団対策の基本を学び、そして後に工藤會と改称した工藤連合草野一家の真の脅威を知りました。
 私は北九州市で生まれ、育ち、既に二つの北九州市内警察署で勤務してきましたが、暴力団の脅威に対しあまり実感がありませんでした。
 直方署特捜員らの地道な聞き込みで、工藤連合草野一家が北九州地区に深く根を下ろし、そしてその暴力を背景に、工藤連合草野一家と関わらざるを得ない市民に、表のルールとは異なる工藤連合草野一家のルールを強いていたのです。
 Iを逮捕した9月7日夜、小倉北区のホテルに拳銃が撃ち込まれました。10月2日までの約1月間に、パチンコ店、銀行、ファミリーレストラン等に対し合計16件の発砲事件が発生しました。県警によるその後の捜査で、うち6件を検挙しましたが、何れも工藤連合草野一家の暴力団員らによる犯行でした。
 被害に遭った多くの関係先は暴力団排除を表明していました。
 私個人としては、平成4年に施行された暴力団対策法後、福岡県内、北九州地区で暴力団排除機運が盛り上がりつつあったことに対する、工藤連合草野一家の脅しだったと理解しています。
 直方署特捜員が聞き込みをした、ある中古車販売業者は、長年、工藤連合草野一家に毎月みかじめ料を支払っていました。しかし、営業不振などもあり、みかじめ料の支払いが滞ると、会社に駐めていた何十台もの車の窓を割られました。警察に届け出ましたが、犯人は捕まりませんでした。再び、苦しい中からみかじめ料を支払うようになりました。
 最初はよそよそしい態度だったのが、特捜員が何度も訪れ、誠実な聞き込みを続けた結果、そこまで話してくれました。似たような話が次々と入ってきました。
 また、暴力団による組織的な事件で、なかなかトップまで刑事責任を追求できない、その理由も理解できました。
 福岡県では、組織のために襲撃事件や抗争事件を敢行することを「ジギリ」と呼んでいます。恐らく漢字があるのでしょうが、暴力団側もどう書くのか知りません。
 福岡県では現在、殺人事件などの重大事件で、暴力団側が自首してくることは、ほとんどありません。道仁会や九州誠道会(現・浪川会)ではそのような例もあったようですが、工藤會では恐らく平成6年以降皆無です。
 しかし、地道な情報収集と捜査を積み重ねて、多くの事件については実行犯や犯行グループを解明しています。そして、最近の一連の工藤會取締りに見られるように、捜査が長期間に及んでも実行犯を検挙し、さらには上部の幹部の検挙に結びつけています。
 ジギリ事件では、もし実行犯が警察に検挙されても、自分で止めるのが原則です。それはヤクザの源流である博徒以来の伝統です。
 I組長のように、自分で止めれば、長期間服役しても家族の面倒は組織が見てくれ、さらには出所後、多額の報奨金、主要幹部への昇格が待っています。
 これを打破するには、数年前に改正された刑事訴訟法で認められた協議・合意制度、いわゆる「司法取引」などの有効な武器が必要だと思います。
 藤﨑班長の適格な指揮の下、直方署特捜本部は少なくとも実行犯Aを指揮し、自らも殺害に関与したI組長までは検挙、有罪を獲得することができました。
 暴力団相手でも努力すれば情報は得ることができる、素人同然の捜査員でも適切に指導すれば、実力ある捜査員に育つのです。  
 平成14年3月、藤﨑さんと私は、ともに警視に昇任しました。藤﨑さんは、福岡市の中心、中央警察署、私は、中央署に隣接し犯罪が最も多発する博多警察署、それぞれの刑事管理官を命じられました。
 翌平成15年3月、私は、強く希望していた捜査第四課北九州地区管理官に異動となりました。その時、藤﨑さんは病の床にありました。
 藤﨑さんがお元気だったら、福岡県警察の暴力団対策に大きく貢献してくれただろう、そう今でも思っています。


 令和元年9月4日