二人の刑事(1)

 少し、思い出話をしてみたいと思います。それは二人の刑事についてです。一人は、私にとって暴力団対策の師匠、もう一人は戦友とも言える刑事です。そして、それは工藤會の歴史にも関係します。
 まず藤﨑寛人・元警視についてお話ししたいと思います。
 藤﨑さんは、中央警察署刑事管理官だった平成16年1月、癌のために亡くなりました。藤﨑さんは、私にとって、暴力団捜査の大先輩であり、師匠でもあります。
 藤﨑さんと初めて同じ所属となったのは、平成2年3月でした。

 初めての捜査第四課勤務

 このとき私は、初めて暴力団対策に従事することになりました。刑事を希望して警察官となり、希望どおりに刑事になりましたが、希望の係は盗犯係でした。地域警察、機動隊員、留置場勤務を経て、昭和57年春、希望どおりの盗犯係刑事となることができました。
 その後、本部の刑事総務課に異動し、そこで警部補に昇任、門司警察署の盗犯係長、知能犯係長を務めました。
 福岡県警では、政令都市・北九州市に、自動車警ら班、機動捜査班など実働部隊を有する北九州市警察部を置いています。以前は、北九州市小倉北区の小倉北警察署の西側四分の一ほどが市警察部の施設となっていました。
 昭和の終わり昭和63年春、機動捜査や機動鑑識を担当する北九州市警察部刑事課へ異動となりました。半年間、機動捜査係長をした後、その年の夏、課の総務を担当する庶務係長を命じられました。
 2年後の平成2年3月の異動で、なぜか暴力団対策を担当する県警本部捜査第四課へ異動を命じられました。というのは、それまで、暴力犯係を希望したことはただの一度もなかったからです。
 当時は、係長クラスで本部刑事部の各課に異動になる者は、巡査、巡査部長時代にその課に所属していた者がほとんどでした。少なくとも警察署の暴力犯係も経験していない警部補が異動するなど考えられませんでした。
 異動内示後、捜査第四課に挨拶に行くと、命じられた係は刑事部参事官付でした。
 当時の刑事部参事官は、本部の課長、中小規模警察署の署長など所属長を経験し、警視正に昇任する前、あるいは定年退職前の警視が座るポストでした。参事官付は私一人だけで、いわば参事官の秘書兼運転手でした。
 他に担当する業務としては、暴力団排除活動、略して暴排の一部、生命保険業界や損害保険業界等の暴排組織と県警との窓口業務でした。
 県内にどのような暴力団が存在するかすら、ほとんど知らない状態でした。幸い、捜査第四課の庶務係や事件係のみんなは、素人の私に対しても分け隔てなく接してくれ、いろいろと基本的なことも教えてくれました。
 事件係というのは、暴力団事件捜査事務関係の取りまとめ、警察庁への報告などを担当する係です。係長は捜査の第一線である特捜班のベテランで、警部昇任前の優秀な警部補が座るものとされていました。その事件係長が藤﨑係長でした。
 数々の暴力団事件捜査を担当してきた藤﨑寛人事件係長は、暴力団のことを何も知らない私に対し、暴力団、暴力団捜査の基本を一つ一つを教えてくれたのです。
 平成3年秋、藤﨑係長と私は、警部試験に合格しました。2人は翌年3月に警部に昇任し、それぞれ警察署の刑事課長として異動となりました。
 私は、筑後地区の吉井警察署(現・うきは署)刑事課長を2年務めた後、平成6年春、筑豊地区の直方署刑事課長に異動しました。藤﨑さんは再び捜査四課に戻り、筑豊地区担当の特捜班長となったのです。
 当時、直方署が管轄する直方市、鞍手郡鞍手町・小竹町は、隣の田川市に本拠を置く太州会の縄張りとされていました。しかし、暴力団事務所も無く、暴力団の目立った活動はありませんでした。
 このため、暴力犯係も係長1名、巡査部長1名の2名しかいませんでした。
 その年の7月17日深夜、元工藤会田中組M組長・Mが直方市内の自宅裏駐車場で射殺される事件が発生しました。
 M殺害事件の背景には、工藤會の歴史の一部が深く関わっていました。
 

 工藤会と草野一家

 現在、五代目工藤會は、全国で唯一、特定危険指定暴力団に指定されています。
 現・工藤會は、それぞれ北九州市に本拠を置いていた工藤会と草野一家が、昭和62年6月に合併して結成された工藤連合草野一家がその後に名称変更したものです。
 工藤会のトップは工藤玄治会長で、現在の工藤會にとっては初代にあたります。昭和21年頃(※注1)に小倉で工藤組を結成し、その後、工藤会と改称しました。
 そして草野一家のトップ、草野高明総裁は、元々、工藤会長の子分、工藤組の最有力幹部でした。
 昭和30年代、神戸の三代目山口組が全国への進出を強化し、北九州市にも幾つかの山口組傘下組織が進出しました。ただ、山口組として統一された進出ではなく、山口組傘下の幾つかの有力組織が、それぞれの思惑で各地に進出して行ったのです。
 当時、工藤組は小倉市(後の北九州市小倉北区・小倉南区)に本拠を置く、北九州地区の一有力団体でした。北九州地区には他にも独立団体など多数の暴力団が存在していました。
 山口組の進出に対し、工藤組や他の地元団体と山口組の間で抗争事件が多発しました。
 まず先に攻撃を加えたのは山口組でした。昭和38年11月、山口組菅谷組芦原組員らが小倉市の繁華街で工藤組最高幹部・前田国政を射殺したのです。
 報復として、工藤組による複数の襲撃事件が発生しました。
 その中で、同年12月、山口組々員2人が工藤組員らにリンチを加えられ、小倉市中心部を南北に流れる紫川に投げ込まれ殺害される事件(紫川事件)が発生しました。
 実は、この2人は前田幹部を射殺した芦原組とは別系統である地道組傘下の安藤組々員でした。もちろん、前田幹部襲撃事件とは直接関係はありませんでした。
 間もなく、実行犯と称する工藤組員らが警察に自首し、事件は一応の解決を見ました。そして、間もなく、工藤組と山口組は手打ちを行い抗争は終結しました。
 全国で多発した暴力団による抗争事件や凶悪事件を受け、昭和39年1月、警察庁は全国警察に暴力団への徹底的な取締り「頂上作戦」を指示しました。
 頂上作戦は暴力団に大きな打撃を与えました。頂上作戦の前年、昭和38年末、全国の暴力団勢力(暴力団員と暴力団準構成員等の合計数)は全国警察官の数を大幅に上回る約18万4、000人でした。頂上作戦後の昭和43年末には約13万8,000人にまでその数を減らしました。
 また、頂上作戦により、山口組を除く主要団体の中には、「解散」を表明するものも出てきました。頂上作戦はその後、昭和45年の第二次、昭和50年の第三次と続きました。
 主要府県の警察本部に捜査第四課などの暴力団対策課が発足したのは昭和30年代半ばから昭和40年頃にかけてです。福岡県警では、頂上作戦後の昭和40年1月に捜査第四課を新設しました。
 福岡県警は、その後の捜査により昭和41年、この紫川事件を指揮したとして草野組長を逮捕し、草野組長は有罪となり10年間服役しました。
 県警に逮捕され勾留となった草野組長は、草野組の解散を表明しました。
 詳細は不明ですが、親分である工藤組長に累を及ぼさないためだったという話もあります。
 しかし暴力団社会では、親分が子分を破門、絶縁等の追放処分を行うことはできますが、子分から親子の縁を切るということは許されません。工藤組長は草野組長を破門しました。以後、工藤組と工藤組を追放された元・草野組員らは対立関係となります。
 

 工藤連合草野一家の結成

 昭和52年、出所した草野組長を山口組幹部や元草野組幹部らが迎えました。草野組長は三代目山口組・田岡一雄組長から山口組に入るよう誘われましたが、「親分は生涯工藤玄治一人」とその申し出を断ったと言われています。
 出所後、草野組長は、工藤会と名称変更した同会の工藤会長の了解を得て小倉北区に草野一家を結成し、同一家総長に就任ました。
 ○○一家を名乗る暴力団のトップは「総長」を名乗り、そして、実権を配下に譲った後は、総裁を名乗ることが多いようです。
 しかし、縄張りが競合する工藤会と草野一家は間もなく抗争事件を引き起こし、血で血を洗う闘いを繰り広げました。
 抗争事件の中で、両団体のナンバー2も相手側に殺害されました。一方で、工藤会、草野一家両団体の内部でも、激しい権力争いが繰り広げられました。その中で這い上がってきたのが、工藤会では三代目田中組・野村悟組長(四代目工藤會会長、現・総裁)、草野一家側では極政会・溝下秀男会長(三代目工藤會会長、四代目工藤會総裁)の2人でした。
 昭和62年、工藤連合草野一家の結成にともない、トップの総裁は工藤会々長・工藤玄治、ナンバー2の総長には草野一家総長・草野高明が就任しました。
 それに次ぐ若頭に草野一家若頭・溝下秀男、そして次に位置する本部長に工藤会理事長・野村悟(現・工藤會総裁)が就任しました。若頭、理事長とも暴力団組織のナンバー2です。
 野村本部長が三代目組長となった田中組の初代組長・田中新太郎は、昭和54年に、当時、草野一家だった極政会組員に殺害されました。
 しばらく田中組長の座は空白でしたが、昭和56年、田中組長の舎弟だったK幹部が継承し、野村組長は組長に次ぐ若頭となりました。
 しかし、二代目田中組を継承したK組長と野村若頭とに内部対立が生じ、更にK組長と工藤会々長らとの確執が生じ、昭和60年、K組長は引退に追い込まれました。
 

 元工藤會M組長射殺

 田中組二代目組長引退後、三代目田中組長の座を野村若頭と争ったのが当時、田中組直方支部長だったMだったのです。
 M元組長は、結局この争いに敗れ、工藤会を脱会し、その後東京方面に身を隠していたようですが、平成6年当時、直方市に舞い戻っていたのでした。
 M組長が舞い戻ってきていたことはもちろん、その名前すら私は知りませんでした。
 暴力団関係の抗争事件や殺人事件など大きな事件が発生すると、刑事部長をトップとする捜査本部が開設され、県警本部捜査第四課の特捜班が主体となって捜査します。
 直ちに、直方署を含む筑豊地区を担当する藤﨑寛人班長以下の藤﨑班が直方署に入りました。
 本部の特捜班が入ると、基本的に警察署の刑事課長は、その事件指揮には余り口を挟まないのが基本です。刑事課長は捜査本部要員の確保や各種令状請求事務の管理など裏方に回るのです。
 事件が発生した日は確か日曜日でした。現場付近聞き込み、鑑識活動、ようやく捜査が本格化しつつある中、1人の暴力団員が拳銃2丁と着替え、洗面用具を持って、直方署に「自首」してきました。
 工藤連合草野一家田中組田上組員のAでした。Aは持参した拳銃2丁でM元組長を撃ったと捜査員に供述しました。  藤﨑班長は、その供述には納得しませんでした。
 なぜなら、応急的な現場付近聞き込みや鑑識活動等から、実行犯は2人、使用された拳銃は2丁と認められたからです。
 Aは身代わり、あるいは実行犯の一人だとしても、もう一人をかばっていると思われました。拳銃は所持しているだけで違法ですから、取りあえずAを拳銃不法所持で現行犯逮捕しました。
 

 正々堂々・藤﨑班長の教え

 それからの藤﨑班長の捜査指揮こそ、その後、私の暴力団捜査の基礎となったものです。
 現在も、他府県では暴力団員が重大事件を起こした後に、この時のように暴力団員が凶器等を所持して「自首」してくることがあるようです。
 福岡県ではそのような例はほとんどありません。特に工藤會関係ではこの平成6年が最後ではないかと思います。少なくとも、私が経験したかぎりでは、この事件が最後でした。
 事件が発生し、その犯人を検挙するという、「刑事」的な発想なら、Aが自首したことにより、一応の事件検挙となるのです。もちろん、突き上げ捜査と言って、Aに犯行を指示した上位幹部への追及は徹底的に行います。しかし、組織的な暴力団事件では、それが非常に難しいのです。
 藤﨑班長は、Aの「自首」には満足していませんでした。正面から、そして正々堂々とこの事件に立ち向かいました。   中規模警察署ではある直方署は、刑事は課長以下20人、暴力犯係員は係長以下2人しかいません。日常業務もありますので、刑事課員を最大動員しても10人以上は無理です。そのため、他の課からも警察官を出してもらいました。その多くは暴力犯捜査はおろか、捜査についても素人が大半でした。
 藤﨑班長は、まず、この事件の背後関係について徹底的な捜査を指示しました。被害者の関係者、逮捕されたAの関係者、さらには工藤連合草野一家田中組関係者に対し、素人も多数混じった特捜捜査員が聞き込みを行いました。
 各捜査員には、藤﨑班長が直接、相手から聞き込みする内容、聞き込み要領などを具体的に指示しました。
 「暴力団から情報が取れない」。最近でも捜査員から良く出る言葉です。
 私も、平成2年に初めて捜査第四課に異動後、捜査四課の刑事たちからその言葉を何度も聞かされました。
 特に工藤連合草野一家は、警察との接触禁止を打ち出しており、その関係者からの情報収集は難しいだろう、私もそう漠然と考えていました。
 藤﨑班長が特捜員に指示した基本は正々堂々とやるということです。そして、人一人が殺されている、警察は真相を明らかにするまで諦めないということでした。
 暴力団捜査については経験の少ない、素人同然の私でしたが、同じ捜査第四課出身という気安さもあり、時々、藤﨑班長の捜査指揮に対しても個人的な意見を口にすることがありました。
 私は、捜査員の前では「藤﨑班長」と呼びましたが、一対一の時は、「藤﨑さん」と呼んでいました。逆に藤﨑さんは、捜査員の前では「刑事課長」「藪課長」と呼び、一対一の時は一回り年下の私を「藪ちゃん」と呼んでいました。
 藤﨑さんは、「藪ちゃん、それはねえ‥‥」と、私の素朴な疑問、質問に対しても丁寧に説明してくれました。(続く)


 令和元年9月3日

【注】