護るべき自然・・・とは? [2015年6月14日]

 テレビを流し見していたら、夕日に輝く棚田の光景が現れた。 ナレーションも音楽もなくゆっくりとカメラが回された。 思わず、ながら見の手を休めて見入ってしまった。 千枚田で知られたところらしい。 山国でなければ見られないだろう棚田の光景は、 本来その涙ぐましい経済活動に想いを馳せるはずのところ、 まずは郷愁を感じさせるその美しさに魅せられてしまった。 これこそ護るべき自然だよなぁと。
 里山なんかもそうだ。 きれいに手入れされた里山は、木々の緑の傘の下、見通しもよくすがすがしくて、 いろいろ生き物がいるから散歩においでと招いているようである。 棚田はめったに行かないからもっぱらテレビや写真で見るばかりだが、 里山の方は実物を見る機会もある。 里山より見る機会が多いのは、田んぼや畑だ。 身近になくても、車からも、バスからも、電車からも、新幹線からも見える。 そういうのを見ると、これも後世に残さないといけない光景だよね・・・と思う。 棚田の番組でも、 人間が棚田を手入れするから蛙やヤゴやゲンゴロウや蛍などの生態系が護られるという。
 棚田は、実は日本の専売特許ではない。 別の機会、別のチャンネルであったが、これもテレビのながら見の最中、 どこかの国(どこだか覚えていない)の棚田の光景が映し出された。 日本のと似ている。 水を保つ土壌で稲が育つ棚田ということになると、 必然的に情景が似てしまうのかもしれない。 さきほどの日本の棚田の番組とは放送局も違う番組だが、 やっぱりどこの番組だろうと自然を護らなきゃという点では共通しているのだろうな、 と思って見ていた・・・

 ところがである。 久しぶりの棚田の光景に見入っていた私を襲ったのは、 次のナレーションだった。
「この棚田の造成により、絶滅危惧種がこのあたり一帯から一掃されてしまいました」

えっ?

 そう、その番組の趣旨は、もともとあった自然を壊すものとして、 人間が造成した棚田という人工物を扱ったのだ。 人間の勝手な都合で生態系に狂いを生じたというのだ。 冒頭に述べた番組とは主旨が真逆なのであった。
 なるほどそういう見かたもあるのか。
 少しく興味を覚えてネットで調べると、 棚田はほぼ100%「生態系の保全のため護るべき自然」として扱われている。 人間の手が入ったものには違いないのだから人工のものという考え方だってあるはずだが、 そういう扱いのサイトはほぼゼロである。 里山もそうかな、と見ると、やはり生態系の保全のため護るべき自然という扱いだ。
 このように人間が手を入れて自然を護るというものもあれば、 一方で人間が全く手を入れずに保護すべき原生林や原野もある。 白神山地や屋久島や摩周湖などである。 こういうところは手を加えて保護するというよりは、 なるべく触らないようにするという方向だ。 つまり自然を護るといっても というものもあれば、 というものもあるわけだ。 さらに逆の極端な考え方をすると、 という考えもあるかもしれない。

してみると、自然と人工の境目というのは何なんだろう。
どれも人間が自分の都合のいいように解釈しているだけなのではないか?
人間が生存するためには、発電所も工場も必要だし、廃棄物処理場も必要だ。 これらを忌み嫌うのはもってのほかで、崇高なものでさえある。
ただしあまり増えすぎて田んぼや里山や手つかずの原生林が減ってしまうと、 人間としても息苦しくなるから、今度は田んぼや里山や手つかずの原生林を護ろうとする。 つまりはどういう比率で維持することが人間にとって最も心地よいか、 というバランスの問題である。 食うに困る国では絶滅危惧種保護どころではないだろうし、 余裕のある国では絶滅危惧種のいるところは開発しないにしても、 絶滅危惧種がいないところは逆に田んぼを確保して最近見なくなった蛍が戻ってくれればと願う。 同じ棚田でも状況によって自然を維持するものになったり破壊するものになったりもする。

つまり、ときどきは「この考え方でいいのかな?真逆の考え方もあるかもしれないな」と思うことが肝心だろう。 ひとつ言えることは、 「我々は自然保護・環境保護活動をしなければならない。そうすることは絶対善だし、反対することは許さない」 といった原理主義に陥ることは危険である、ということだ。 自然保護・環境保護といっても、その具体的内容は状況や国や時代によって異なるから。

[2015年6月14日 記]


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