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◆◆◆◆  前の山古墳 ◆◆◆◆
《 白鳥陵(はくちょうりょう・しらとりのみささぎ) 》
  《 まえのやまこふん 》 別名:軽里(かるさと)大塚古墳  軽里前之山古墳  白鳥陵古墳(世界遺産登録名)
             第12代景行(けいこう)天皇皇子日本武尊の墓として「白鳥陵」に治定されている。
             「日本武尊白鳥陵
(やまとたけるのみことしらとりのみささぎ)」とも表記される。
  大阪府羽曳野(はびきの)市軽里(かるさと)3丁目地内
  ユネスコ世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」〔2019(令和元)年7月登録決定〕構成資産No.45
  近畿日本鉄道南大阪線・古市(ふるいち)駅より西へ約1km(拝所まで) 徒歩約15分
             周濠北岸縁まで約500m 徒歩約8分

  国道旧
170号・竹内(たけのうち)街道入口から西へ拝所近くまで車で行けるが幅員狭し 駐車場無し
          国道沿い及び古墳北方の市道白鳥通り沿いに数ヵ所のコインP有り
          白鳥通り北側のスーパー・イズミヤ古市店に広い有料P有り

推定築造時期 5世紀後半 出 土 品  円筒埴輪 後円部で円筒埴輪列を確認
      古墳時代中期の新しい時期の特徴あり
 形象埴輪(家形・盾形など)
古  墳   形 前方後円墳
墳

丘

規

模

(m)
墳 丘 長    200
前方部 高さ     23.3 墳   丘  三段築成でくびれ部北側の前方部寄りに円弧形の造出しあり
幅    165 周   濠  幅30~50mの広く雄大な周濠
後円部 径    106 堤  堤の幅は約20mと推定されている
 堤の外側に幅
4.5mの浅い「外堤を区画する溝」を確認
高さ     20.5
頂高     53.2 埋 葬 施 設  不明
そ の 他  墳形については百舌鳥(もず)古墳群の土師(はぜ)ニサンザイ古墳と相似形であることが指摘されている
① 前の山古墳の墳丘と周濠(周濠周縁の北西角より)   ② 前方部正面の遠景(西より)
① 前の山古墳の墳丘と周濠(周濠周縁の北西角より)    2026(令和8)年5月
   左側が後円部で右が前方部。墳丘の規模に対して周濠の広いのが特徴である。 合成パノラマ
  ② 前方部正面の遠景(西より)   2026(令和8)年5月
       遠目には低い小山のように見えている。
Googleストリートビュー「前の山古墳の周濠北縁より墳丘を見る」
以前は別の名称が一般的
 「前の山古墳」の名称は、江戸時代から伝わる墳丘部分の小字
(こあざ)名「前之山」に由来します。周濠は「前之池」と呼ばれて農業水利に
利用されていました。「前之山の池」ということでしょう。では、「前之山」の「前」は何を意味しているのでしょうか。これについては
最下段の方で紹介する『日本武尊陵墓と「白鳥伝説」』の中で説明することにします。
 前の山古墳は、以前は「軽里大塚古墳」という別の名称で書物に書かれたりするのが一般的でした。近年になって現在の「前の山古墳」
という名称が一般的呼称に変わってきました。はっきりした理由は確認できていませんが、二つのことが考えられます。
 一つは、「大塚古墳
」という名前の古墳が近くにもう1ヵ所存在することです。前の山古墳から北西約4kmの所に羽曳野市と西隣の松原
市の市境にまたがって「河内大塚古墳」があります。近年は「河内大塚山古墳」と表示されるのが一般的になっており
、墳丘長約335mと
いう全国第5位の規模を持つ巨大古墳です。大正末期に「大塚陵墓参考地」に治定されていますが、それまでは墳丘内に集落が存在してい
ました。古墳のほぼ中央に南北の市境界が通っています。同じ市内に「大塚」という同じ名称を持つ古墳があったのです。また、別に堺市
にも「大塚山古墳」が存在します。混同されたり間違われたりすることを避けるためには「大塚」の付かない方がよいのでしょう。
 もう一つは、「軽里大塚古墳」という伝承名と思われる名称であるけれど、「軽里」という地名は伝承地名ではない、ということが挙げ
られます。後述しますが、現在の「軽里」という地区名は元は「軽墓
(かるはか)」という伝承地名で、江戸時代から「軽墓村」が存在していま
した。合併によって古市村の大字名
(地区名)に変わりましたが、昭和初期に「軽里」に改称されました。6世紀の築造と考えられている古
墳を、伝承ではない新しい地名を付けて呼ぶのはおかしい、ということなのかも知れません。
幅広い周濠に囲まれた前方後円墳
 前の山古墳は、羽曳野丘陵東側の縁辺に前方部を西に向けて造られた前方後円墳で、
古市古墳群の中では南部の新しい時代に属するグループに入り、それらの中では最大級
の古墳です。古市古墳群に存在する大型前方後円墳の中では、墳丘長が7番目となる規
模の古墳です。現存部分の縦軸総延長でも7番目の大きさです。
 前方部の幅は
165mで、後円部直径の1.5倍強あります。真上から見ると、前方部は
下辺の方が大きく拡がった台形になっています。墳丘を囲む周濠は墳丘の規模の割に周
濠の面積が大きく、幅
30~50mと広く雄大な景観を見せており、この古墳の特徴とも
なっています。
 写真③はレーザー測量で撮影された前の山古墳の赤色写真です。レーザー測量は、樹
木で覆われた古墳の地形や山城の城郭の調査などで最近よく使われる技術です。航空機
からレーザー光線を照射し、反射光線の時間差情報をコンピューターで計算処理して地
形図の画像に構成するものです。レーザー光線は樹木のわずかなすき間から地面に到達
できるため、古墳地形の測量などにはうってつけの技術です。
③ 赤色写真で見る前の山古墳の地形
 ③ 赤色写真で見る前の山古墳の地形
 この技術は、人が立ち入っての調査ができない陵墓古墳の地形調査にとっては、まさに救いの神です。それ以外の古墳でも、実地測量よ
りもずっと少ない時間で測量ができ、しかも細かな地形変化も記録することができます。これによって、雑木山のように見えていた古墳の
細かな地形を視覚化できるようになりました。また、この測量データを基にして正確で細かな等高線図も製作されています。
 写真③を見ると、前方部の下方が大きく拡がる特徴がよくわかります。また、北側のくびれ部近くにある造り出しの位置や形もよくわか
ります。もう一つの特徴である、前方部頂の高く盛り上がっている様子もはっきりと現れています。上の表にあるように、前方部頂の方が
後円部頂より3m近くも高いのです。一般的に前方後円墳の場合、後円部の方が高いことが多く、または同じぐらいです。前の山古墳の場
合はやや特別と言えるでしょう。さらに、広い周濠の詳しい形もよくわかります。全体に墳丘の形がよく保たれていると言えます。
 以前から旧地図上で見られる農地の区割り形状から周庭帯の存在が指
摘されていましたが、1979(昭和54)年に羽曳野市教育委員会が行った外
堤部の発掘調査によって、「外堤を画する
(範囲区分する)溝」が確認さ
れ、堤は約
20m の幅を持つことがわかりました。また、溝は浅くて、
幅は約
4.5mありました。
 1981(昭和56)年に宮内庁が実施した墳丘崩壊箇所の調査によって、後
円部には約
10cm間隔で円筒埴輪が列状に立て並べられていることが確
認されました。これらの埴輪と古墳周辺から出土した円筒埴輪は、古墳
中期でも新しい時期の特徴を示しています。また、外堤の発掘調査では
家形埴輪や盾形埴輪などが見つかっています。出土した埴輪は、すべて
窖窯
(あながま)で焼かれたものでした。
 墳丘の形について、堺市・百舌鳥古墳群の土師ニサンザイ古墳と相似
形であることが指摘されています。また、古市古墳群の中にあってその
位置・墳丘の形・出土埴輪の特徴などから、前の山古墳は古墳時代中期
(4世紀末~5世紀後半)から後期(5世紀末~7世紀初)への過渡期の古
墳であると考えられています。
常に水をたたえた幅広い周濠
 この古墳は、形については前方部の拡がりが大きいという特徴があり
ますが、現地で見ると、上記で既述の通り墳丘の規模の割に周濠の幅の
広いという特徴がまず印象づけられます。写真①がその様子を示してい
ますが、墳丘がまるで湖に浮かぶ島のようにさえ見えてきます。
 古市古墳群には、この古墳のように周濠全体に絶えず水を湛えている
前方後円墳が4基あります。前の山古墳のほかには、岡ミサンザイ古墳
(仲哀(ちゅうあい)天皇陵)・野中ボケ山古墳(仁賢(にんけん)天皇陵)・白髪山(しら
がやま)
古墳(清寧(せいねい)天皇陵)が、墳丘が絶えず水に囲まれている姿を見
せています。その中で、岡ミサンザイ古墳に次いで幅広い周濠を持つの
が前の山古墳です。実際の大きさでは、岡ミサンザイ古墳の方が墳丘が
大きいので、見る角度によっては前の山古墳の周濠の方が広く感じるこ
ともあります。
 周濠の周りの現在の状況では、周濠の眺めが最も広く感じられるのは
周濠の北西角の位置から見る眺めだと思います。写真④で竹内街道の→
が指している当たりの位置です。南の反対側の南西角の位置は民家に囲
まれているので、周濠が見える位置まで立ち入ることができません。
④ 真上から見た誉田御廟山古墳
 ④ 真上から見た前の山古墳と周辺の様子
  〔GoogleEarth 2025(令和5)年4月9日〕より 文字入れ等一部加工
         現在は周囲をすっかり住宅などに囲まれている。
⑤ 前の山古墳の疑似鳥瞰写真(南東より)
 ⑤ 前の山古墳の疑似鳥瞰写真(南東より) 文字入れ等一部加工
          〔GoogleEarth3D画 2025(令和5)年4月9日〕より
       上の写真④を
3D化機能で疑似鳥瞰写真にしたもの。
 周濠の北辺から後円部東側には竹内街道や歩行者通路があるので、どこでも周濠を見ることができます。南辺側も中央部分では周濠の縁
まで行くことができます。この古墳は何と言っても、広い周濠の向こうに墳丘を眺める景色が秀逸です。

特殊な存在の陵墓-「白鳥陵」
 この地域の地元に住む人々の多くは、日常会話の中でこの古墳のことを「前の山古墳」とは呼びません。「前の山古墳」という古墳名そ
のものを知らない人も少なくないかも知れません。この古墳名とは別に、圧倒的に多く使われている呼称があります。
 多くの人が用いる呼称は「白鳥陵
(はくちょうりょう)」という陵墓名です。前の山古墳は宮内庁が管理する陵墓で、第12代景行(けいこう)天皇皇子・日
本武尊
(やまとたけるのみこと)の陵として「白鳥陵」に治定されています。「白鳥陵」は誰の墓なのかを表していないので、
「日本武尊白鳥陵」とか
「日本武尊陵」と、皇子名を付けて表記されることもあります。
 一般に、「陵」に治定されている古墳の場合、例えば天皇陵は「仁徳陵」「応神陵」などのように天皇名の略称がよく使われています。
治定されている正式陵名が長すぎるからです。戦前の地図や書物では「応神帝陵」などの表記も見られます。一般的には「応神天皇陵」の
表記が用いられるのですが、正式な陵名そのものは天皇名の付かない「恵我藻伏崗陵
(えがのもふしのおかのみささぎ)」です。地名に基づいているので
すが、これでは被葬者が誰なのかわかりません。そこで、天皇名を付けた「応神天皇恵我藻伏崗陵」が慣例的に用いられています。
 「白鳥陵」は正式な陵名ですが、地名に基づかない名称であり天皇陵でもないので、皇族名が付かない「白鳥陵」がそのまま略称のよう
に用いられています。この点で、特殊な陵墓と言えるでしょう。
 この地域で「白鳥陵」と言えば「日本武尊陵」と同義語を意味します。「日本武尊陵」でもまだ長すぎて語呂も悪いので、簡潔な音読み
の「白鳥陵」が広く支持されたのでしょう。かくして、天皇名でも皇子名でもない変則的な陵墓名が一般化しました。
 ところで、「白鳥陵」の読みについて、「はくちょうりょう」と「しらとりのみささぎ」の2種類があることにお気づきでしょう。下の
写真⑦の制札でもわかるように、通常は読み仮名などは付いていません。どちらが正式な読みなのか、応神天皇陵(誉田御廟山古墳)の前に
ある宮内庁書陵部古市陵墓監区事務所に問い合わせてみました。現場では日常的には「はくちょうりょう」と言っているとのことでした。
その後、念のために東京の本庁書陵部陵墓課に問い合わせてくださったのですが、何と、「どちらとも決まってはいない」という回答でし
た。つまり、どちらの読み方を使ってもよい、ということなのです。この点でも、「白鳥陵」は特殊な陵墓です。
 日本武尊の陵になぜ「白鳥」が付くのかについては下段の方で後述しますが、「白鳥陵」という呼称は地域の中ではすっかり定着してい
ます。誰のお墓かはよく知らないけど「白鳥陵」の名前は知っている、という人もけっこう存在しているぐらいです。
 一方、別の観点からも「白鳥陵」は特殊な陵墓
と言うことができます。皇室典範で定められてい
る「陵
(みささぎ)」は、「天皇・皇后・太皇太后及び
皇太后を葬る所」です。その他の皇族を葬る所は
「墓
(はか)」とされます。日本武尊は皇子なので、
「陵」の対象者には入りません。なのに、「白鳥
陵
」という「陵」としての名称で治定されました。
言うなれば、例外的な治定が行われたわけです。
これは、日本武尊が天皇に準ずる立場の人であっ
たとみなされたものでしよう。景行天皇の皇子と
して様々な勲功を挙げたこと、次々代天皇である
  ⑥ 白鳥陵の拝所(西より) ⑦ 白鳥陵拝所に立つ制札
  ⑥ 白鳥陵の拝所(西より)   2026(令和8)年5月
   すぐ両側には民家が建ち並ぶ。普段は人影は無い。
  ⑦ 白鳥陵拝所に立つ制札
         2013(平成25)5月
仲哀天皇の父であったこと、などの背景が考慮されたものと考えられます。本来なら天皇に即位していた皇子、といった位置付けで特別な
扱いがなされたのでしょう。他には例を見ない特異な陵墓の命名です。しかも、日本武尊の陵は3ヵ所も治定されているのです
(後述)。
 「白鳥陵」の特殊性を整理しておきます。
①地名に基づかない陵名である。 ②皇族名を付けた略称が用いられず、陵名が略称的に用い
られている。 ③「白鳥陵」の読み方が決まっていない。 ④被葬者が皇子であるのに「陵」とされた。 ⑤同じ被葬者の「陵墓」が3ヵ
所もある。
 という極めて特殊な「陵」であることがわかります。
元は民有地であった「前之山」
 加えて、もう一件紹介しておきます。実は、白鳥陵が「日本武尊白鳥陵」と治定されたのは意外と遅く、明治
14(1881)年1月でした。そ
れまでにもこの古墳を「日本武尊陵」とみる説もあったようですが、種々の調査に手間取ったものと思われます。『羽曳野市史 第六巻 近
代
・現代編』(1985年)の「教育・文化」分野の中に『御陵沿革取調書』という史料が載っています。『諸陵寮京都出張所御中 三十九年五月
四日御達ノ御陵沿革取調書 四十年十月二日呈出
』という収納袋の表書きが見られます。明治40(1907)年に宮内省の京都出先機関に地元役
人から提出された報告書のようです。その中の「
日本武尊陵」の項で「一 御陵古今ノ変遷」として次のように書かれています。
 『
当御陵ハ元民有ニ属セシニ、明治十六年七月買収、仝十八年十一月更ニ四畝廿三歩ノ民地ヲ買収シテ新ニ木柵・御拝所ヲ設置セラレ、
其後三十一年五月現状ノ外堤ヲ御陵兆域内ヘ編入セラレタリ
』 これでわかるのは、前の山古墳は民有地であったものが、「日本武尊陵」
に治定された後に国に買収されたということです。
 陵墓に治定された古墳が元は民有地であった例は各地にあったと思われます。千年以上の時が流れた中では、様々な経過を経て民有地化
した古墳も多かったことでしょ
う。個人所有の場合もあれば、村の入会地(いりあいち 共同利用地)だった所もあります。藤井寺市内でも小古墳
の多くは民有地でした。津堂城山古墳や古室山古墳のように大型古墳が民有地だった例もあります。
 前の山古墳の買収に関しては、『羽曳野市史』同書に前之山の所有者の一人である軽墓村の浅野源作氏の『
白鳥御陵手続御願書』という
文書が収載されています。明治7年
・14年に3回提出された御願書ですが、前之山が日本武尊三陵の一つであることを村民たちは伝え聞い
ていたこと、私有地のままであるのは恐れ多いので上地
(この場合献納)してほしいこと、御陵に定められた場合でも他の山陵の池(周濠)と
同様に用水として許可してほしいこと、などが述べられています。前之山を「日本武尊陵」として治定する作業はこの御願書とは別途に行
われたようですが、上地の方は上記の通り浅野氏から所有地が宮内省へ献納されています。浅野氏に対し銀杯が下賜された旨の宮内卿より
のお達しがあったことを通知する『
明治十七年五月十九日 銀杯御下賜ノ御与書』という大阪府知事からの褒状も掲載されています。他の
所有者の土地については、上記の通り2度に渡って買収が行われています。

地域に馴染んでいる「白鳥○○」の名称
 地域で定着した「白鳥陵」ですが、この陵墓名が基となって「白鳥○○」という名称が次々と誕生していきます。まずは、地元に古くか
らあった神社が「
白鳥神社」に名称を変えた例です。現在は古市駅の東側に位置する「白鳥(しらとり)神社」ですが、元は軽里地区(旧輕墓村)に
あった「伊岐宮
(いきのみや)」でした。南北朝や戦国の争乱によって衰退し、鎮座地を変えた後も慶長の大地震で倒壊しましたが、18世紀の終
わり頃に古市村の氏神として現在地に移されて「白鳥神社」となりました。
 明治
31(1898)年、この地域に鉄道が通り、白鳥神社の南に「古市駅」が誕生しました。昭和初期になると、白鳥神社の西方の水田地帯に
「白鳥園」という分譲住宅地が誕生します。「白鳥」が地名に付いた最初です。1924(大正13)年、地元有力者に大阪鉄道も加わって「白鳥
園住宅株式会社」が設立され、総面積5万坪
(約16.5ha)の宅地造成が行われました。 1927(昭和2)年に宅地分譲が開始されています。1929
(昭和4)年には住宅地経営業務が大阪鉄道の直営となり、翌昭和5年12月に白鳥園住宅株式会社は解散します。
 1933(昭和8)年には商店街の人たちが中心となって親睦団体「
白鳥園睦会」が結成されます。白鳥園睦会は1939(昭和14)年に白鳥園内に自
力で「
白鳥幼稚園」を開設するなど、有力な活動を展開していますが、高級分譲住宅地なので富裕層の多かったことが背景にあったと思わ
れます。白鳥園内には「
白鳥公園」や「白鳥会館」などもできました。1940(昭和15)年末には白鳥園睦会は解散して新たに全町組織の町内
会「
白鳥会」が結成されました。戦後の1948(昭和23)年、児童福祉法によって白鳥幼稚園は「白鳥保育園」となり、昭和33年には白鳥保育
園は自治体
(当時・南大阪町)に譲渡されました。1973(昭和48)年には新たに「羽曳野市立白鳥幼稚園」が開園しました(令和4年度末閉園)。
 「白鳥園」は住宅会社が付けた通称でしたが、昭和
40年代の住居表示施行によって「白鳥1~3丁目」の正式な地区名が誕生しました。
それまでは、正式な地番は軽里地区と隣接する誉田
(こんだ 旧誉田村)地区にまたがっていたのです。「白鳥園」の大部分は「白鳥1丁目」と
なっています。
 戦後になって周辺の住宅地・商業地が拡大していく中で、この地域では「白鳥」の付く名称が次々と登場していきました。「
白鳥交番」
「
白鳥郵便局」が設置され、「市立白鳥小学校」も開校しました。「白鳥児童館」もあります。白鳥地区内には「○○白鳥」という集合住
宅がいくつもあります。ずばり「
白鳥」を名乗る会社や飲食店もあります。
 かつての白鳥園のメインストリート
(元府道旧31号)は、1996(平成8)年に6mの拡幅工事が完了し、2005(平成17)年5月には「白鳥通り」
と命名されました
。この通りを中心とした約100店舗で構成されているのが「白鳥商店会」です。最近では、地区外ですが開院50年を迎え
た病院が「しらとり病院」に改称した例があります。
 古代の陵墓名に由来する名称が、地区名をはじめ公共施設・教育施設・住宅・企業・店舗など、これだけ多く付けられ使用されているこ
とも大変珍しいと思います。この点も、この「白鳥陵」が特殊な存在である一面でしょう。
 

変わってきた前の山古墳の周辺地域
 現在の前の山古墳周辺はすっかり市街化していますが、旧村
集落の周りに新たな住宅や商店ができていく基となるのが、鉄
道・駅や幹線道路などの交通網です。
 ⑧図は昭和4(1929)年陸地測量部発行の
2万5千分の1地形図
「古市」から切り出した日本武尊陵(白鳥陵)周辺の部分です。
昭和4年の時点では「白鳥園」の住宅街がすでにでき上がって
いましたが
、この地形図は大正11(1922)年の測量に基づいてお
り、白鳥園の街路の誕生はまだ反映されていません。
 この地図が発行された3ヵ月後の昭和4年6月には、大阪鉄
道の古市-久米寺
(現橿原神宮前)間が延伸開業しています。地
図中にピンク色で表示した路線です。古市駅は分岐駅となり、
古市車庫
(昭和4年)も設置されました。以来、今日に至るまで
古市駅は拠点駅としての役割を担っています。
 道路交通では、まず最初に新設整備されたのが府道古市堺線
(竹内街道)のバイパス線でした。この道路は白鳥園のメインス
トリートにもなる道路で、白鳥園の街路造成と同時期に整備が
⑧ 白鳥陵(前の山古墳)周辺の交通網の変化
  ⑧ 白鳥陵(前の山古墳)周辺の交通網の変化 着色、文字入れ等一部を加工。
   地図は1/2万5千地形図「古市」(昭和4年 大日本帝国陸地測量部発行)より
 
行われています。⑨図は昭和9年発行
の地形図ですが、ここには「白鳥園」
の新しい街路や府道バイパス線が表示
されています。地図の縮尺が⑧図より
も小さいので表示が少し粗いのですが
変化の様子は見て取れます。大阪鉄道
の延伸線
(現南大阪線)や古市車庫への
引込線も描き込まれています。大鉄本
線の複線と長野線の単線の違いも表示
されています。
 昭和初期の土地分譲・住宅建設、府
道新設によって、数年間のうちに白鳥
陵周辺の一帯は様相が大きく変化しま
した。⑩図は明治31(1898)年発行の地
形図ですが、近代社会のインフラ造営
⑨ 白鳥陵周辺の様子《昭和9年発行地形図》 ⑩ 白鳥陵周辺の様子《明治31年発行地形図》
⑨ 白鳥陵周辺の様子《昭和9年発行地形図》
   1/5万地形図「大阪府東南部」(昭和9年 陸地
  測量部発行)より
 着色、文字入れ等一部を加工。
⑩ 白鳥陵周辺の様子《明治31年発行地形図》
   1/2万地形図「国分村」(明治31年 陸地測量部
  発行)より    着色、文字入れ等一部を加工。
が登場する前の様子を知ることができます。この地図が発行された明治31年3月30
日の6日前には、この地域で初めての鉄道として、河陽鉄道
(大阪鉄道の前々身)
の古市-柏原間が開通しています。⑩図から⑨図へ、わずか三十数年の間にこの
地域で起きた変化をはっきりと確認することができます。地域の近代化は確実に
進んでいました。      「道明寺線・長野線・南大阪線・の歴史」

 ついでに紹介しておきます。右の⑪図は『大鉄全史』(近畿日本鉄道 1952年)に
掲載されている古市駅
・白鳥園周辺の略地図です。昭和5~10年頃の様子が表さ
れていると思われます。白鳥園の街路の配置がよくわかります。白鳥園の北側に
2基の「陪塚・陪陵」が描かれています。西側の「陪陵」は「墓山古墳」のこと
ですが、「応神天皇陵ほ号陪冢
(ばいちょう)」に治定されています。「陵」が陪冢にな
ることはないので、地図の表記は誤記です。東側の「陪塚
」は「向墓山(むこうはかやま)
古墳」で、これも「応神天皇陵に号陪冢」に治定されています。その南側の小古
墳は「西馬塚
(にしうまづか)古墳」で、これまた「応神天皇陵は号陪冢」に治定されて
います。なお、白鳥陵と墓山古墳の大きさのつり合いも実際とは異なったものに
なっています。墳丘長は墓山古墳の方が少し大きいのですが、周濠を含む全体で
は白鳥陵の規模の方が少し上回ります。
 大阪鉄道本線の行き先が「至吉野」と記されていますが、当時の大阪鉄道本線
の終点は「久米寺
(現橿原神宮前)」でした。大阪鉄道は大阪電気軌道の吉野線(旧
吉野鉄道)
に直通運転で乗り入れていたので、大鉄電車で吉野まで行けることを強
調したかったのでしょう。また、長野線の「至長野」には時代が現れています。
当時の駅名は「長野駅
」で、現在の「河内長野駅」になるのは戦後の昭和29(1954)
年です。
 道路では、次いで誕生したのが昭和11(1936)~13年にかけて建設された、府
道産業道路
(柏原富田林線 現国道旧170号)と府道大阪古市線(現府道186号大阪羽
⑪ 古市駅・白鳥園周辺の略図
⑪ 古市駅・白鳥園周辺の略図    昭和5,6年頃か
      『大鉄全史』(近畿日本鉄道 1952年)より
     標準地形図に基づいた作図ではなく模式図なので、
    距離や位置関係は正確ではない。

      線かすれをすべて補正し、赤文字を追加している。
曳野線)です。産業道路は白鳥園の東部地区を南北に貫くことになり、一部の街区が再編されました。2本の南北幹線道路の開通によって、
古市駅周辺地域は、大阪市域や中河内地域との行き来がずいぶんと向上することになりました。
 戦後にな
り、高度経済成長期から急増した自動車の通行量に対応して、国道旧170号(旧産業道路)のバイパスとなる大阪外環状線(現国道
170号)が前の山古墳の西方に開通しました。古墳を避け、ため池の一部を通すという苦心のコース取りでした。このようにして、市街化の
基盤となる幹線道路網ができあがってきました。それ以後、写真④のような市街化の姿になるまでは
、それまで以上のスピードで変化を遂げ
ていきました。      「国道旧170号」   「府道186号大阪羽曳野線」   「国道170号(大阪外環状線)」
 ⑧図でわかるように
、この時代は旧村時代からの集落や古墳、ため池の周りはほとんどが水田や果樹園だったのですが、鉄道と駅の開業を
契機として始まった近代化
・市街化の流れを上記のような変化から知ることができます。⑧図の頃から現在までに130年ほどの時を経ていま
すが、すっかり市街化した地域の中で、白鳥陵などの陵墓古墳は地域のシンボルとして変わらぬ姿で存在し続けています。
改名された地区名
 行政区についても変遷がありました。白鳥陵の所在地は明治中頃までは「輕墓村」でしたが、明治22(1889)年の市町村制施行の時に周辺
の村々と合併して「古市村輕墓」という大字
(おおあざ)に変わりました。⑩図は明治31年発行なので、「輕墓村」から「輕墓」に変わっている
はずですが、まだ地図の表記には反映されていません。⑧図は昭和4年版なので「輕墓」になっています。これより前の大正5(1916)年には
古市村は町制施行して「古市町」となっています。古市駅の東方に古市町役場と古市警察署(大正15年設置)の記号が見えます。町役場は⑨図
の時点では街道の北側、白鳥神社の隣りに移転しています。また、⑨図に見える大きな変化は、「輕墓」が「輕里」に変わっていることです。
 この地区名の改称は昭和5(1930)年に行われたのですが、これに関して『羽曳野市史
』に興味深い史料が収載されていました。少し横道に
それますが、一つの歴史的な事実として紹介したいと思います。
 『羽曳野市史 第六巻 近代・現代編
』「政治・行政」分野の中に「大字軽墓改称につき議案」という題で議案書が掲載されています。昭和
5年9月19日の日付で町議会に提出されたものです。提案者として3名の古市町議会の議員が連名で書かれています。
 『
議案 本町大字軽墓ヲ軽里ト改称スルモノトス
  理由 古来ヨリ本大字ヲ軽墓ト呼称シ来リタルガ、惟フニ地名ヲ墓ニ因縁セル如ク名付ケタル所ナク、故ニ遠地ト縁組スル場合往々
  誤解ヲ招キ、延テ縁組等ニ支障ヲ来ス事アルノミナラズ、歴史的何等ノ因縁ナキニヨリ、部落民全体ノ熱烈ナル希望アルニ鑑ミ、
  本案ノ通リ改称セントス
』〔古くからこの大字は軽墓と呼ばれてきたが、よく考えてみると、地名を墓に由来して名付けるような理由は
  どこにもない。そのため、遠くの地域の人と縁組(結婚)する場合、しばしば誤解を招き、ひいては結婚に支障をきたすことさえあった。
  それだけでなく、歴史的に何ら理由があるわけでもない。そうしたことから、住民全体の熱烈な希望があることに基づき、本提案の通り
  に地区名を改称するものである。
(筆者口語訳)〕 この史料に続き、町議会の決議を受けて大阪府が公布した告示も載っています。
   『大阪府告示第九百二十二号  大阪府南河内郡古市町大字軽墓ヲ軽里ト改称シ、昭和五年十月十日ヨリ施行ス
     昭和五年十月十三日  大阪府知事 柴田善三郎
』
 かくして、昭和5(1930)年10月10日、「軽墓」は「軽里」に変わりました。現在の軽里地区には、かつての軽墓村集落だった地域の一角に
「軽羽迦神社」があります。この神社名「かるはか」が、かつて存在した「軽墓村」の名残をかろうじて留めています。

空中写真で見る地域の変化-進んできた市街化
 上記では⑧~⑩図をもとに前の山古墳周辺の変化の様子を述べてきましたが、さらに、国土地理院が公開している空中写真でも市街化の
進んでいく様子を見ていきたいと思います。詳しくご覧になりたい場合は国土地理院サイトで閲覧してください。
⑫ 前の山古墳周辺の様子《 1946年 》 ⑬ 前の山古墳周辺の様子《 1971年 》
⑫ 前の山古墳周辺の様子  《 1946年 》
    〔米軍撮影 1946(昭和21)年6月6日 国土地理院〕より
                  文字入れ等一部加工
⑬ 前の山古墳周辺の様子  《 1971年 》
        〔国土地理院 1971(昭和46)年5月9日〕より

                  文字入れ等一部加工
 写真⑫は、昭和20年8月の敗戦から10ヵ月ほど経った1946(昭和21)年6月6日に当時の占領米軍が撮影したものです。前の山古墳の東側
に新しい府道ができていることを除けば、全体的な様子は⑨図の頃とほとんど変わっていません。戦争が続いていたこともあり、この頃ま
での地域の変化は大変ゆっくりしたものでした。この後の10年間ぐらいも目立つような変化は見られません。
 それから
25年後の様子が写真⑬です。農地もまだ多く、変化はまだゆっくりでしたが、部分を見ていくとあちこちで住宅の増えているこ
とがわかります
。日本社会が高度経済成長期の真っ只中にあった頃でした。前年には大阪で日本初の日本万国博覧会(Expo'70)が開催されて
います。写真の左端にある長池には何本かの桟橋が見えますが、この頃には釣り堀に利用されていたことがわかります。
 大きな変化としては、国道旧
170号のバイパスである大阪外環状線(現国道170号)の建設が挙げられます。万国博に間に合わせるべく、
大急ぎで工事が行われました
。1970(昭和45)年3月までには応神陵前交差点以北の藤井寺市域部分が開通していました。写真では長池以南の
路盤造成の様子が見えますが、この部分が開通するのは
10年ほど後のことになります。「芦ヶ池(長池の西側)」の所有権を巡って羽曳野
市と藤井寺市の間で裁判となる係争が起こり、和解で決着するまでに
10年余りの時が費やされたのです。その間、外環状線の工事は芦ヶ
池とその北方でストップしていました。結局、この部分が開通するのは1980(昭和55)年4月となりました。その間、南側の羽曳野市域や富
田林市域の部分が先に開通していたのでした。    「国道170号(大阪外環状線)」   「藤井寺市の川と池-芦ヶ池」
⑭ 前の山古墳周辺の様子《 1985年 》 ⑮ 前の山古墳周辺の様子《 2007年 》
⑭ 前の山古墳周辺の様子  《 1985年 》
        〔国土地理院 1985(昭和60)年10月15日〕より
                  文字入れ等一部加工
⑮ 前の山古墳周辺の様子  《 2007年 》
        〔国土地理院 2007(平成19)年7月27日〕より
                  文字入れ等一部加工
 写真⑬から14年後の様子が写真⑭です。前の山古墳の北側や東側はほとんどが住宅で埋まっており、大阪外環状線も開通しています。
⑪→⑫の
25年間よりも早いペースで変化していることが見て取れます。長池の釣り堀は廃止されています。マイカーの普及で遠方の海や川
へ釣りに行くことが容易になったこと、余暇の過ごし方が多様化したことなどが影響したものでしょう。
 さらに
22年経った様子が写真⑮です。前の山古墳の西側で大きな変化が見られます。農地は残っている方が少なくなりました。現状が見
える上段の写真④で
は、農地はさらに減少してごく一部が残るだけです。前の山古墳はすっかり住宅などの建物に囲まれています。写真⑫の
時代には想像することが難しかった景観に変わってしまいました。元々古市駅周辺エリアであり、すぐ近くに新たな幹線道路が開通したこ
とで、市街化の進み方も早くなったと思われます。この流れの中で商業施設もかなり増えていきました。

フォト・ライブラリー 《 前の山古墳 》
 写真①は、1930(昭和5)年に撮影されたものですが、現在とはか
なり異なった景観が見られます。墳丘はほとんどが針葉樹で覆わ
れています。それもかなりの密度の樹林です。これは明らかに人
の手による植樹であることがわかります。
 この写真から
100年近く経った現在、私たちが目にする前の山
古墳の樹林は、上段の写真
①②に見える姿です。右の写真①との
樹冠の違いは歴然としています。写真①では、針葉樹のとがった
上端が並んでいますが、写真①②で見える樹冠はこんもりとした
常緑広葉樹の姿
です。昭和30年頃の写真でもまだかなりの数の針
葉樹が写っているので、今日のような常緑広葉樹の森になったの
は割と最近のことだと思われます。このことは、周辺にある他の
大型陵墓古墳にも共通して見られることです。
 この写真
より20年余り前の1907(明治40)年に報告された前掲の
『
御陵沿革取調書』に、6基の陵墓の現況が詳細に記録されてい
  ① 昭和初期の前の山古墳前方部(南西より)
   ① 昭和初期の前の山古墳前方部(南西より)  1930(昭和5)年9月13日
     この当時の墳丘は大量の針葉樹でおおわれていたことがよくわかる。
    中央左側の松に囲まれている場所が拝所である。
     『 陵墓古写真集Ⅱ-古市古墳群・磯長谷古墳群・宇土墓・三嶋藍野陵- 』(堺市
      博物館 2011年)より
ます。その中の一つが「日本武尊陵」で、墳丘や周濠の動植物、周辺の地理的状況、近隣の社寺や集落、名所旧蹟、排水や湧水、病院や製
造所の状況
など、25項目に分けて実に細かく記録されています。日本武尊陵に治定されてから後のこの古墳の姿や周辺の様子がよくわかる
史料となっています。ここではその一部を紹介しておきたいと思います。実は
、上記の25項目は「備考」として書かれており、その前には
全体の自然状況をまとめた表が冒頭に掲げられています。まずはその表を紹介します。
(グレー文字は筆者が追加)
陵 木 草 竹 鳥 獣 魚 虫 瓦 礫 土 質 隍 水(こうすい) 慣 例
日
本
武
尊
陵
塚上・塚下
松・樫・杉・
桜・楊
(やなぎ)・
檞
(かしわ)・楡(にれ)・
ゴサイバ
(御菜葉)
・椋
(むく)
五位鷺多 鵜(う)多
鴉
(からす)少 鳩少
雉子
(きじ)少
鼹
(ねずみ)少
鷿鷉
(へきてい)少
鯉少 鮒(ふな)多
鯰
(なまず)少
亀少 雑魚
(ざこ)多
蛇少
蝮蛇
(まむし)少
埴輪少
瓦礫少
床土 砂利
上層 壌土
例年六月末ヨリ田圃
(たんぼ)ヘ灌漑シ、九月
末ニ至リ凡
(およそ)七分
減水ス、漸〃天水ニ
依リ四・五月ノ頃ニ
満水ス、
濁
時々参拝者
アリ
( 隍水:堀の水   御菜葉:アカメガシワのこと   鷿鷉:カイツブリ   漸〃(ぜんぜん):しだいに )
 この表では、動物については多少の別
が記されていますが、木草竹については
樹種のみで数量がわかりません。それに
ついては「備考」欄の「一 塚上
・塚下」
「一 堤防」の項に、右のように詳しく
記されています。
 この数量を見ると、圧倒的に松が多数
を占めており、写真
①の景観とも符号し
ます。やはり、墳丘は針葉樹の森だった
  一  塚上・塚下
松 数千本 凡二十年以上、内三本凡五十年以上
樫 凡三百本凡二十年以上
桜 弐拾本 凡十年以上三十年ニ至
杉 五本  凡十年以上、内壱本三十年以上
一  堤 防
楊 九十本 内十分ノ二 凡五十年以上
       十分ノ四 凡二十年以上
樫 弐拾本       凡二十年以上
椋 弐本         仝上
檞 七本         仝上
楡 五本         仝上
ゴサイバ        凡十年以上
 
のです。写真①は取調書から20年余り後の撮影なので、さらに樹木は成長していたことでしょう。次の項目「一 陵上」には、日本武尊陵
に治定されてからの経過も記録されています。短期間の内に古墳の樹種転換の成されたことがわかります。
  『
 一 陵 上  従前苦竹(にがたけ)及檞(かしわ)多シ、明治十八年買収之際、松三本及杉・桜・樫ノ四種ヲ存置シ、他ハ悉ク(ことごとく)伐採
           セリ、目下生育セル所ノ松樹ハ皆其後独生ノモノナリ
 』       ※ 苦竹‥‥真竹(まだけ)の別名
② 昭和30年代の前の山古墳(南より) ③ 昭和30年代の前の山古墳(北西より)
② 昭和30年代の前の山古墳(南より)
      白鳥園の街路の様子がよくわかる。西側には府営住宅地ができている。
③ 昭和30年代の前の山古墳(北西より)
      周辺には、まだまだ多くの農地が広がっていた。
        ①②とも、『古墳の航空大観』(学生社 末永雅雄・著 1975年)より 1959(昭和34)年4月18日   文字入れ等一部加工
 写真②③は、写真①から30年ほど後の前の山古墳の様子です。墳丘の樹林にはかなり多くの常緑広葉樹の存在が認められます。周辺を
見ると、まだ多くの農地が広がっています。白鳥園の西側には府営翠鳥園住宅ができています。翠鳥園住宅は1950(昭和25)年、羽曳野市域
で最初に誕生した府営住宅で、市営住宅や公団住宅を含めた公営住宅としても最も早い建設でした
(羽曳野市史・第二巻)。
 この住宅地となった場所
は、戦前昭和期の一時期に映画会社の撮影所がありました。1935(昭和10)年2月に設立された「極東映画株式会社」
が、翌1936年に「甲陽撮影所
(西宮市甲陽園)」から当時の古市町白鳥園へ移転して撮影所を開設しました。極東映画株式会社は翌1937(昭和
12)年に「極東キネマ株式会社」と改称
し、当時の施設名は「極東キネマ白鳥撮影所」でした。極東キネマは1940(昭和15)年に東宝の傘下に
入り、翌昭和16年で白鳥撮影所での事業も終わりました(羽曳野市史・第二巻)。
 写真
③では、前の山古墳の南側に近畿日本鉄道古市車庫の全景が見えています。写真の左側にある古市駅から引き込み線でつながってい
ます。現在は「古市検車区」が事業所名で、古市車庫は併設施設です。以前には全般検査・重要部検査を行う古市工場も併設されていまし
たが、五位堂検修車庫
(奈良県香芝市)に統合されて廃止になりました。古市工場の跡地には近鉄不動産の分譲マンションが建っています。
④ 昭和50年の前の山古墳(南東より) ⑤ 昭和50年代の前の山古墳(西より)
④ 昭和50年の前の山古墳(南東より)   1975(昭和50)年4月
        墳丘の樹木は、ほとんどが常緑広葉樹の森になった様相である。
                     文字入れ等一部加工
⑤ 昭和50年代の前の山古墳(西より)  1980(昭和55)年11月
   工事がストップしていた大阪外環状線が、写真の半年前にやっと開通した。
                      文字入れ等一部加工
④⑤とも、大阪府立近つ飛鳥博物館図録18『百舌鳥・古市 門前 古墳航空写真コレクション』(大阪府立近つ飛鳥博物館 1999年)より
 写真②③から16年後の様子が写真④です。墳丘樹林の様子を見ると、全体的には常緑広葉樹の森のように見えます。写真①の頃からは
すっかり様相の変わっていることがわかります。前の山古墳の東側や南側に戸建て住宅や集合住宅が増えています。また、府道堺羽曳野線
(当時)沿いにも建物が増えています。古市駅周辺や白鳥・軽里地区などの人口増加が進み、市立古市小学校から分離して新たに白鳥小学校
が1970(昭和45)年に開校しました
。その年は大阪で初の日本万国博覧会(Expo'70)が開催され、日本社会は高度経済成長期のピークを迎えよ
うとしていました。その頃から羽曳野市や藤井寺市などでは人口の急増期となり、急速に市街化が進んでいきました。
 それから5年後の様子が写真
⑤です。この間、写真の半年ほど前には、工事がストップしていた大阪外環状線(現国道170号)のこの区間が
やっと開通しています。前の山古墳の墳丘を見ると、完全に常緑広葉樹の森となっていることがわかります。周濠の南側には建物が増えて
おり、古市駅の周辺ではビルの増えている様子も見られます。
⑥ 平成10年の前の山古墳(南東より) ⑦ 平成10年の前の山古墳(西より)
⑥ 平成10年の前の山古墳(南東より) ⑦ 平成10年の前の山古墳(西より)
          ⑥⑦とも、『空からみた古墳』(学生社 森浩一・監修 2000年)より  1998(平成10)年4月  文字入れ等一部加工
 写真⑤から18年後の様子が写真⑥⑦です。撮影の向きが違いますが、同じ時に撮影されたものです。墳丘の樹林は、見事なまでの常緑
広葉樹林の姿を見せています。この様子からは、写真
①の頃の針葉樹林の姿を想像するのは難しいことでしょう。満々と水をたたえた幅広
い周濠の姿は、昔と変わらぬこの古墳の特徴をアピールしているようです。周濠の南側には、さらに建物が増えています。府道旧堺羽曳野
線沿いにも新しい大型建物が増えています
。この通りは写真の2年前に拡幅工事が完了し、幅員16mの広い道路に変わっていました。後に
「白鳥通り」と命名されますが、新たな姿の商店街になりつつありました。その先がけ拠点となったのが、写真
⑥に見える総合スーパーの
イズミヤ古市店です。古市駅周辺エリアでは初めてのショッピングセンターで、写真
⑤の数年前には開業していました。
 この写真ではまだ一定面積の農地が見えていますが、それらの農地もやがて多くが住宅地などに転換されていきます。そうして、前の山
古墳を囲むようにして周りは市街化していきました。その姿が、上段の写真
④⑤です。地域は大きく変貌してきました。

◆◆◆◆  日本武尊陵墓と「白鳥伝説」 ◆◆◆◆
「ヤマトタケル」とは
 上段の「白鳥陵」のところで、この陵がいくつもの点で特殊であることを紹介しましたが、それは被葬者が日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
であることに深く関係しています
。「ヤマトタケル」とは、いったいどのような人だったのでしょうか。ヤマトタケルは「日本書紀」と「古
事記」の両方にその事績が書かれています。両書の記述には様々な部分で微妙な違いがあり、その内容は複雑です。詳しくは他の解説書に
お任せし、ここでは日本武尊の陵墓についてだけ一般的に伝えられる内容で簡単に述べていきたいと思います。
 「ヤマトタケルノミコト」は、日本書紀では「日本武尊
」、古事記では「倭建命」と記されていますが、現在では一般的には「日本武尊」
で表記されることが多いようです。記紀で示される系図によれば、日本武尊は第
12代景行(けいこう)天皇の皇子で、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇の
父に当たる人です。熊襲
(くまそ)征討や東国征討などで活躍した、いわゆる英雄譚の人ですが、その伝説的英雄の姿が書かれているが故に、そ
の実在性を疑う研究者も多いのが実情です。余りにも人間離れした行動性、神話的できごとと混然一体となった記述、それらが本当に存在
した人とは思えない印象を与えたのもうなずけます。その神話性は、死後のことにまで及んでいるのです。
 戦後、自由な歴史研究が進む中で、『古事記』や『日本書紀』について様々な視点から問題点の指摘や解釈が展開されてきました。そう
いう中で、日本武尊についてもその実在性を疑問視する学説が数多く提起されてきました。全くの架空の存在だとする説、実在の皇子をモ
デルとしつつフィクション化されたという説、複数の皇子の行動を一人の皇子の活躍として象徴的に存在させたとみる説など、諸説入り乱
れています。架空の人物だとすると、他の天皇や皇子の実在性にも影響してきます。未だに定説にまで至っていないのは、その古代史への
影響の大きさの故でしょう。一方で、記紀の記述には具体的な実在の地名がいくつも出てきます。それらのことから、何らかの実際にあっ
た出来事を反映させた物語として記紀の記述が成立している、そう考えることもでき、それらの関係には興味深いものがあります。
「白鳥伝説」とは
 「白鳥伝説」とは、記紀神話の一つとしてよく知られた部分で、現在存在している日本武尊の陵墓と深い関わりのある“伝説”です。
 古事記と日本書紀とではいろいろと異なる部分がありますが、まずは以下に「白鳥伝説」の一般的な要旨を紹介します。
  日本武尊は、天皇の命により九州の熊襲や東国の蝦夷(えみし)と戦いますが、東国遠征からの帰る途中伊吹山(滋賀県)の神
 との戦いに敗れます。傷を負いながらも大和の国へ帰ろうとしますが、伊勢の国の能褒野
(のぼの 三重県亀山市)にたどり着
 いた時には一歩も前に進めず、ついに力尽きて亡くなりました。それを聞いた天皇の命によりこの地に葬られました。
  やがて日本武尊の魂は白鳥に姿を変えて飛び立ち、大和の国へと向かいます。大和の琴弾原
(ことひきのはら 奈良県御所市)を
 経て河内の国の旧市邑
(ふるいちのむら 大阪府羽曳野市)に舞い降り、そこにも陵(みささぎ)が築かれますが、その後再び白鳥と化して
 埴生野
(はにゅうの 羽曳野市内)に向かって羽を曳くように天高く飛び去って行ったといいます。
 この伝説要旨は日本書紀に基づいています。能褒野・琴弾原・旧市邑のそれぞれに陵が造られ、それら三陵が「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」と称
されることになります。初めに葬られた所と白鳥となって舞い降りた2ヵ所に、日本武尊の魂が眠ってい
る、ということになったわけです。
 「旧市邑」は後の「古市村」に通じるものとされます。
「埴生野」の地名は、前の山古墳の2kmほど南西に現存します。日本書紀で書か
れた「埴生野」が同じ場所を指すのかどうかはよくわかりません。
 古事記では少し異なった記述になっています。倭建命は伊勢の能煩野
(のぼの)で亡くなり、倭建命の妃・子らが能煩野に向い陵を造ったとさ
れます。倭建命は白い千鳥となって伊勢国から飛び立ち、河内国の志幾
(しき)に留まったので、その地にも陵を造り「白鳥御陵(しらとりのみささぎ)」
と称したとされます。「河内国の志幾」は「河内国志紀郡」に通じますが、現在治定されている羽曳野市の白鳥陵の場所は旧志紀郡の範囲
外であり、そのことからも、前の山古墳を白鳥陵に比定することに否定的な意見もあります。逆に、古代では旧市邑は志幾郡に属していた
ことがわかる、とする意見もあります。
 日本書紀・古事記で記述された日本武尊の墓はすべて「陵
(みささぎ)」とされますが、平安時代にまとめられた延喜式では能褒野だけが「能
裒野墓」とされ、「墓」となっています。現在の治定名も「能褒野墓」です。記紀や延喜式の陵墓についての記述を表で比べてみます。
場 所 日 本 書 紀 古 事 記 延 喜 式 宮内庁の治定 
伊勢国(三重県) 能褒野陵 能煩野に陵 能裒野墓 能褒野墓
大和(倭)国(奈良県) 琴弾原に陵 ― ― 白鳥陵
河内国(大阪府) 旧市邑に陵 志幾に陵(白鳥御陵) ― 白鳥陵
付 記 三陵を「白鳥陵」とした  
 これらの記紀の記述で共通しているのは、伊勢国「のぼの」と河内国「旧市邑・志幾」に陵が造られたことです。そして、河内国の陵は
どちらの記述でも「白鳥陵・白鳥御陵」という「白鳥」の付く陵名になっています。古事記では「白い千鳥」ですが、陵名では「白鳥」で
す。これらの「白鳥」が今日私たちが知るスワンの白鳥のことなのか、興味のあるところです。白サギのことだとする説もあるようですが、
近くにある藤井寺市の津堂城山古墳では白鳥を模したと考えられる3体の水鳥形埴輪が出土しており、古代にも白鳥が見られたことを思わ
せます。いずれにしても、これらの記紀の記述に基づいて、河内国の日本武尊陵は古くから「白鳥陵」と称されてきたことがわかります。
白鳥伝説に由来する市の名称-「羽曳野市」
 上記の日本書紀にある白鳥伝説で、『再び白鳥と化して埴生野に向かって羽を曳くように天高く飛び去って行った』という一節がありま
した。そこから「
羽曳野(はびきの)」という呼称が生まれています。昭和10年代に大阪鉄道が発行した沿線案内には、「羽曳野」「はびき
山」という地名が表示されています。かなり古くからこれらの名称が使われてきたと思われます。
 「羽曳山」は現在は通称で、「羽曳野丘陵」と呼ばれる丘陵地形の中央部一帯を指して使われます。地元ではよく使われる通称ですが、
地図に載るような正式な地名ではありません
。その丘陵地帯の一部に「埴生野」が存在します。古い出版物の中には「埴生野」を「はびきの」
と読ませる表記も見られます。「埴生野」のある羽曳山は前の山古墳の西方で南北に長く位置しています。まさに、日本武尊陵から白鳥が
天高く目指して丘の上に飛び去って行く、その光景にピッタリの地形と位置関係なのです。
 「埴生」という地名は奈良期から登場する地名で、日本書紀にも何度か出てきます。近世には「埴生野新田」が開かれ、近代では「埴生
村」となりました。周辺町村と合併した後も「埴生野」という大字名は地区名として生き続けています。
 古市村は大正5(1916)年に「古市町」となり
、さらに昭和31(1956)年には町村合併をして「南大阪町」となりました。そして、3年後の
昭和
34(1959)年、市制を施行して「羽曳野市」が誕生します。「羽曳野」が初めて正式な自治体名に登場した瞬間でした。もともと「羽曳
野」や「羽曳山」は丘陵地だけを指す通称でしたが、ついに市域全体を表す名称となりました。「羽曳野市」は、古代の伝説ロマンに由来
して制定された名称であり、珍しい市町村名の一つと言えるでしょう。「羽曳山」と呼ばれた一帯には、現在
、「羽曳が丘」「羽曳が丘西」
「はびきの」という地区名が存在しています。

「白鳥三陵」について
 現在、宮内庁が治定し管理する日本武尊の陵墓は3ヵ所ありますが、現在の名称や場所で治定されたのは明治10(1877)年前後のことでし
た。明治初期から天皇陵治定を確定させる考定作業が行われ、明治
22(1889)年には天皇陵の治定が完了します。その途上、明治14(1881)年
に前の山古墳が「白鳥陵」として治定されています。他の二ヵ所も近い時期に治定されています。白鳥三陵の名称と所在地を紹介します。
  【 三つの日本武尊陵墓 】
    
◆ 大阪府羽曳野市軽里(旧・古市村) 日本武尊白鳥陵 (前の山古墳・軽里大塚古墳)
    
◆ 奈良県御所市富田        日本武尊白鳥陵 (琴弾原(ことひきのはら)白鳥陵)
    
◆ 三重県亀山市田村町       日本武尊能褒野墓(のぼののはか) (能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん) )
 一つの陵墓に複数の天皇や皇族が祀られている例はいくつもありますが、一人に3ヵ所の陵墓が治定されている例はほかにはありません。
陵墓の治定作業が進められた明治初期から中頃の時期に、記紀に記述された「日本武尊」が重視された結果、日本書紀の記述に合わせて三
ヵ所の陵墓が治定されたものと思われます。皇子なのに「陵」と命名されたことと合わせ、日本武尊の陵墓がいかに特殊な存在であるかを
示しています。なお、宮内庁の治定としては、日本武尊が最初に葬られた能褒野墓がメインで、2陵は能褒野墓に付属とするものという位
置付けのようです。本来は格上のはずの「陵」が付属扱いとなっている点でも、やはり特殊な陵墓「白鳥三陵」です。
 3陵墓の内
、前の山古墳と能褒野王塚古墳が前方後円墳で、能褒野王塚古墳は墳丘長90mです。琴弾原白鳥陵は、宮内庁では長辺約45m
の長方丘としています
(円墳説もあり)。墳丘長200mの前の山古墳の白鳥陵が群を抜いて大きいことがわかります。
 能褒野墓と御所市・白鳥陵の写真を紹介しておきます。
 
① 日本武尊能褒野墓(能褒野王塚古墳)(南より) ② 日本武尊能褒野墓拝所(南東より)
① 日本武尊能褒野墓(能褒野王塚古墳)(南より)
          〔Googleマップ・ストリートビュー 2022年11月〕より
② 日本武尊能褒野墓拝所(南東より)
   サイト『じゃらん』(RECRUIT)より
③ 日本武尊白鳥陵(琴弾原白鳥陵)(南より) ④ 琴弾原白鳥陵の拝所(南より)
③ 日本武尊白鳥陵(琴弾原白鳥陵)(南より)
      〔Googleマップ・ストリートビュー 2018年12月〕より
④ 琴弾原白鳥陵の拝所(南より)
  サイト『ぺんの古墳探訪記』より  2023年1月
 写真①に見える能褒野墓はかなりの規模に見えますが、樹林全体が墓の前方後円墳ではありません。 能褒野墓には、現在14基の陪冢が
墓の域内・域外で治定されています。その多くは
、墓よりも後の時代につくられたもので、陪冢ではないと見られています。明治期の治定
の時点では、はっきりしなかったので可能性のあるものを取りあえずすべて治定した、ということだったのでしょう。他の陵墓の場合にも
見られる事例です。写真
③の琴弾原白鳥陵は、一見するとどこでも見られるような“裏山”の感じですが、れっきとした宮内庁管理の「陵」
です。治定されることがなかったのなら、ただの“裏の雑木山”で今日まで続いていたことでしょう。

「前の山古墳」の「前」とは?
 「前の山古墳」の名称について、私は「前」が「何の前」を意味しているのか、ずっと気になっていて、周辺の他の陵墓との位置関係を
示しているのだろうか、などと考えていました。このことについて記述した史資料になかなか出会えず、わからないままだったのですが、
最近になってやっと手掛かりとなる史料を見つけました
。『羽曳野市史 第六巻』掲載の上段で紹介した旧軽墓村の浅野源作氏による『白鳥
御陵手続御願書
』の明治7年提出『建言』の中に、次のような一節があったのです。
 
『前略‥‥、前ノ山ト奉称候儀者、日本武尊伊勢国能褒野ヨリ白鳥与被為成、大倭国琴弾原ニ被為止、亦河内国恵我市西伊岐谷ニ止給ヒ、
白鳳元年和泉国大鳥神社江移リ給フ、依之
前ノ廟ト申意ヲ以村民等前ノ山ト奉称候、‥‥後略』
 現代語文にすると次のようになろうかと思います。
 『
「前ノ山」と申し上げているのは、日本武尊が伊勢国の能褒野から白鳥となられ、大倭(大和)国の琴弾原に留まられ、さらに河内国の
恵我の市
(えがのいち)の西の伊岐谷に留まられ、白鳳元年に和泉国の大鳥神社へと移り給うたことに由来します。これにちなんで、「前(さき)の廟」
という意味を込めて、村人たちが「前ノ山」と申し上げ称しているのです。
』(筆者口語訳)
  恵我の市:古代の「河内の市」、ここでは「旧市邑」の意で用いている。    伊岐谷:古市村の西方にあり、白鳥陵は元はここにあったとも伝わる。
 
 「大鳥神社」は現在の堺市西区にある大鳥大社に比定されています。実は、この神社には白鳥伝説の続きとなる伝承があります。上記の
通り、旧市邑の白鳥陵から埴生野の空に飛び立った日本武尊の白鳥は、和泉国大鳥郡の地に至ったと言うのです。それにより「大鳥神社」
の名が付いたと言うのですが、伝承は多分に後付けっぽい話のようです。和泉国北部の大鳥郡は和泉国三郡の中で最大の領域があり、この
地域で最有力の豪族が大鳥連
(おおとりのむらじ)氏でした。その大鳥氏が大鳥神社の祭祀をつかさどっていました。社名も「大鳥氏」に由来すると
考えられています。大鳥神社は和泉国の延喜式内社
62座のうち最高の位置にあり、平安後期には和泉一之宮として崇敬を集めました。それ
らの社名の由来はともかくとして、この伝承が河内国の「白鳥陵」の山の呼び名に影響していたことになります。
 つまり、「河内国の白鳥陵は日本武尊の霊が大鳥神社に移る
前の霊廟である」という意味で「前ノ山」と村人は呼んでいた、というわけ
です。この場合の「前」は、時系列での「前
(さき)」と、位置関係で言う「前(まえ)」の両方の意味が込められているように思います。大和の
琴弾原から河内の旧市邑、さらに和泉へと白鳥が西へ向かって移り行く時、河内の白鳥陵は和泉の大鳥神社よりも手前側に位置しているの
です。まさに、「先(
前)にあった廟(山)」「手前にある山」として「前ノ山」「前之山」の名称が成立した、というわけです。
 以上が、今のところ唯一私が知り得た「前の山」の由来に関する史資料です。もっとも、私は「見つけた」と言っていますが、古くから
軽里地区に在住の方にしてみれば、そんなことは「先刻ご承知のこと」なのかも知れません。今後もさらに探索をしてみたいと思います。

【 参 考 図 書 】 『 藤井寺市の遺跡ガイドブック No.6 新版・古市古墳群 』(藤井寺市教育委員会 1993年)
『 羽曳野市史 第二巻 本文編2 』(羽曳野市 1998年)
  『 羽曳野市史 第六巻 史料編4 』(羽曳野市 1985年) 
『 古市古墳群を歩く 第3版』(古市古墳群世界文化遺産登録推進連絡会議 2015年)
  『 堺市史 続編 第一巻 』(堺市役所 1971年) 
『 大阪府史蹟名勝天然記念物調査報告 第五輯 』(大阪府 1934年)(1974年復刻版 大阪文化財センター)
『 古墳の航空大観 』(末永雅雄・著 学生社 1975年)
  『 空からみた古墳 』(森 浩一・監修 学生社 2000年)
『 天皇陵の近代史 』(外池 昇 吉川弘文館 2000年)
  『 白鳥会創立80周年記念誌 』(白鳥会 2010年) 
『 歴史のなかの天皇陵 』(高木博志・山田邦和 思文閣出版 2010年)
『 日本史リブレット97 陵墓と文化財の近代 』(高木博志 山川出版社 2010年)
『 陵墓古写真集Ⅱ-古市古墳群・磯長谷古墳群・宇土墓・三嶋藍野陵- 』(堺市博物館 2011年)
  『 古市古墳群をあるく 』(久世仁士 創元社 2015年) 
『 古代史研究の最前線 天皇陵 』(洋泉社編集部 洋泉社 2016年) 〈 その他 〉

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