マイノリティ・レポート ―行研における大学院進学とその方法―
進路:同志社大学大学院法学研究科博士前期課程政治学専攻
はじめに
行政研究会で大学院に進学するというのは異色な存在であろう。確かに数年に1人は大学院進学者も出ており、最近では昨年度卒の清水雅典先輩が中央大学大学院総合政策学研究科博士前期課程に進学されている。伝統的に行研における大学院進学者のほとんどが中央大学の法律学系(特に公法系)や行政学系の大学院に進学されている。その中にあって、私は今回一般受験によって他大学の、それも国際政治という行研とは比較的縁のない分野への進学を決めた。
ロー・スクールやビジネス・スクールといったプロフェッショナル・スクール(専門職大学院)とは異なり、アカデミック・スクール(研究科大学院)への進学にあたっては情報量が極めて少ない。事実、私自身もこの情報量が少ない中で情報収集には非常に苦労し、受験勉強も我流に頼らざるをえなかった。「学問に王道なし」という言葉があるが、この体験記を通じて今後の大学院進学希望者の一助となれば幸いである。
1.なぜ大学院か?
1989年12月、ルーマニアで革命が起こり1人の独裁者が処刑された。彼の名前はニコラエ・チャウシェスク、当時のルーマニアの大統領であった。当時小学校3年生であった私はテレビを通じて処刑された彼の遺体を目撃した。1989年は国際政治上の動乱が相次いだ年であった。6月には中国で天安門事件が起こり、人民解放軍の発砲によって多くの学生や市民が犠牲となった。11月には冷戦の象徴である「ベルリンの壁」が崩壊した。この時代の流れにあって私は幼心ながら「なぜこんなことが起きたのか?」という漠然とした疑問を持つようになった。
1990年8月、イラクが突如として隣国クウェートに侵攻し、これを併合した。夏休み明けの社会科の授業で、中東勤務の経験のある担任の先生が小学校4年生の私にもわかりやすいように中東情勢を説明してくれた。「安松(私が住んでいる地域)だけではダメなんだ!所沢だけでもダメなんだ!日本だけでもダメなんだ!これからは世界を見なければダメなんだ!」という先生の言葉に影響され、私は国際政治に興味を持つようになっていった。
これ以後、冷戦の崩壊や様々な国際政治上の動乱を目撃し、それらについて考えるようになった。1998年8月、郷里の宮城県に近い三陸沖に北朝鮮の弾道ミサイルが着弾した。それまで私は理想主義的な考えを抱いていたが、その考えはこの事件を境に180度転換する。「相手が攻撃しないような態勢を整備する」という抑止論の基本命題に行き着いた。このことが直接のきっかけとなって、大学で国際政治を学ぶことを決意した。
ゼミ試験を間近に控えた大学2年次の2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起こった。この事件をきっかけに、私は「なぜ世界最強の軍事力を有するアメリカがテロを未然に防ぐことができなかったのか?」という疑問に直面し、アメリカの国家安全保障政策について勉強することを決めた。その結果、3年次のゼミ論文ではアメリカの国土安全保障政策について扱い、4年次のゼミ論文ではいわゆる「ブッシュ・ドクトリン」の政策形成過程について扱った。しかしながら研究を進めて行くうちに、単なる現状分析にとどまらず、アメリカの歴史や伝統的な思想、文化の中で「ブッシュ・ドクトリン」がどのような意義を持つのかという点を明らかにしたいと思うようになった。
このため、アメリカ研究の分野に非常に造詣の深い村田晃嗣先生に師事すべく、またこの分野において長い伝統を有する同志社大学大学院法学研究科を受験することを決意した。
2.4年間をどのように過ごしたか?
私は大学入学とほぼ同時に行政研究会に入室した。今となっては意外かもしれないが、入室当初は国家公務員や国会議員政策担当秘書志望であった。具体的には警察庁、防衛庁、公安調査庁といった危機管理を担当する省庁に憧れていた。入室して驚いたのは、上述のテポドン事件時の防衛事務次官が行研の大先輩である江間清二先輩であったということである。入室当初防衛庁も志望のひとつであったため、防衛庁に入庁することがある種の「運命」ではないかとすら思っていた。
1年次は授業にあまり出ず、専ら行研のゼミ(憲法ゼミ、民法ゼミ、時事ゼミを受講)のために大学に来ていた。行研以外には加藤公一代議士(東京20区選出、民主党)の事務所でボランティアとして活動していた。行研において官界を、加藤事務所において政界を見るというちょっと異色な経験をした。これらの活動を通して、1年の秋頃までには公務員志望ではなくなり、政治家や研究者への道を考えていた。1年次の冬頃から本格的に国際政治を勉強しはじめ、H.キッシンジャーの『外交』やクラウゼヴィッツの『戦争論』、リデル・ハートの戦史物を読み漁った。
2年次には執行部において委員長と渉外局長を兼務した。2年次もあまり授業に出ることはせず、やはり行研のゼミ(民法ゼミ、行政法ゼミを受講)のために大学に来ていた。2年次の秋頃から大学院進学を考え始め、とにかく本をむさぼるように読むようになった。E.H.カーやニッコロ・マキャベリ、オルテガ・イ・ガセット、マックス・ウェーバー、児島襄、石原莞爾などとにかく古典を読み漁っていた。この頃から、学内外の勉強会に積極的に参加してはいろいろな人に出会い、議論した。
同じ頃、専門ゼミは滝田賢治先生の国際政治経済ゼミに入門した。このゼミで国際政治の理論、歴史、分析手法など様々なことを学んだ。結局滝田ゼミには、現時点で2年間在籍していることになるが、このゼミでの経験が私の大学生活の中でもっとも大きな財産となっている。
3年次になると、行研の周りのメンバーはほとんどが予備校に通いだした。焦り始める同期を横目に、私は大学院進学ということを決めていたから、とにかくいろいろな本を読んで、いろいろな人たちと議論しようと思い、ひたすら自分の勉強を続けた。秋にはゼミにおいて初めて2万字の論文を書いた。冬頃から、資格試験組以外も就職活動をはじめ、やや焦り気味ではあったが自分の勉強を続けた。
4年次になり、ようやく受験勉強らしい勉強をはじめることになる。大学院受験については後述するとおりであるが、試験が秋頃ということもあり、進路が決まった人たちよりもはるかに遅れをとっていた。
5月の中旬に実際に京都の同志社大学を訪れ、説明会に出席した。教授陣、教育内容、研究内容をはじめキャンパスの雰囲気に至るまで、とにかく同志社に魅せられた。この説明会を境に、同志社大学大学院法学研究科博士前期課程政治学専攻を「第一志望にして唯一の受験校」と位置づけた。
結局、大学院受験に際しては上記の同志社大学大学院法学研究科博士前期課程政治学専攻のただ1校しか受験しなかった。当初、一橋大学、慶應義塾大学、青山学院大学、中央大学の各国際政治系統の研究科を受験することを考えていた。しかし、一橋ではアメリカを専攻している先生がおらず、慶應義塾では師事を希望していた先生が転出され、青山学院では師事を希望していた先生が引退され、母校の中大(法学研究科政治学専攻)では地域研究と外交史の分野における専任教員を著しく欠いていた。こうした理由が他大学を受験しなかった第一の理由である。
第二の理由としては、「自分にプレッシャーをかける」という目的があった。1校しか受験しないということで、その緊張感は計り知れないものであった。しかし、何校も受けることによって「どこかに受かればいいや」という気持ちになりたくはなかった。「何が何でも同志社に行って、村田晃嗣先生に師事したい!」という気持ちが非常に強く、妥協的な考えを一切捨てた。結局この捨て身の甲斐があってか、同志社大学大学院法学研究科博士前期課程政治学専攻に合格し、進学することになった。
私は4年間を通して、とにかく他の人たちとは「ちがうこと」を経験するようにしてきた。「個性的な人間」と言われることが多かったが、「個性」というものを発揮しなければ自分の生きている意味に疑問を持つだけであると思っていた。だから人一倍本をたくさん読み、様々な勉強会や講演会を探してはそれに参加した。とにかく与えられたチャンスは極力生かすようにしていた。
私の好きな言葉のひとつに「能力とは意志の力、自己に対する誠実さ!」というものがある。「天才」なんてほとんどいない。いたとしてもそんなのはほんの一握りである。「できる人間」は全て自らに誠実になり、たゆみない努力をしている。「できない人間」は決して「バカ」なのではなく、単に自らに対する誠実さと努力が足りないだけである。自らに対して誠実になり、たゆみない努力をしてこそ「成功」に近づくはずである。
3.大学院入試の情報入手方法&試験日程について
大学院入試の情報は大学入試やその他の資格試験と異なり、その情報量が極めて少ない。大学院入試対策の予備校もいくつか存在するものの、高い授業料を払って大きな効果があるかというとそうとも言えない。市販の『大学院受験案内』や『研究計画書の書き方』の類の本を熟読し、インターネットの検索サイトで「大学院受験」と入力すれば大体の情報を入手することができる。当然、志望大学の大学院のウェブサイトを見ることも必要である。また、志望大学の説明会に積極的に参加することも重要である。なお、おすすめの大学院受験関連サイトは以下のとおりである。
私の場合、上述の情報収集以外にZ会キャリア開発コースの「院試対策総合英語講座」を受講していたため、この講座を通じて過去問題の入手方法、勉強方法などの情報を得ることができた。この講座は35,000円とわりと手軽に受講でき、教材の質もかなりよいため大学院受験を志す人にはおすすめの講座である。また、キャリア開発コースには経済経営系院試対策の英語が非常に充実しており、この分野を志望する人には心強い味方となるだろう。
大学受験の場合は1月に大学入試センター試験があり、2月1日頃から各大学の個別試験が始まり、2月末までにほとんどの大学は入試日程を終えるというように各大学の入試日程が一定の期間に集中している。しかし、大学院の入試日程は各大学によって大幅に異なるため注意が必要である。入試日程については各大学の募集要領やウェブサイトにおいて確認する必要がある。
目安としては、国立大学の場合9月の上旬に集中しており、私立大学の場合9月中旬から10月の下旬に集中している。しかしこれはあくまで目安であって、京都大学法学研究科の場合は11月の中旬に試験がある。なお、9月上旬に試験がある国立大学の場合、7月下旬には出願を締め切ることがあるので注意する必要がある。
また、大学によっては秋季募集と春季募集の分割方式を採っているところもある。私の受験した同志社大学法学研究科もこの分割方式を採っており、私は9月27日の秋季入試を利用した。大学によって秋季と春季でどれだけの人数を採るかは異なるが、同志社の場合は秋季および春季、さらに社会人入試、特別選抜入試の全方式で定員40名とされていた。入試担当者の話によれば秋季と春季で大体同数を採ると言っていたが、春季の方が秋季の敗者復活戦的要素(秋季入試で落ちた受験生と他大学に落ちた受験生が受験する可能性が高い)が強いためハードルは高くなると考えておいた方がよいだろう。
4.大学院受験の勉強法
ここでは実際に私の大学院受験に際しての勉強法を提示する。大学院受験は一般的に、一般入試、社会人入試、特別選抜入試(推薦入試)の3つに大別されるが、私の場合は一般入試での受験だったので、以下、一般入試対応の勉強法について各科目別(英語、専門科目、研究計画書、口述試験)に書くものとする。
(1)英語の勉強法
あらかじめ書いておくが、大学院受験をする者は「英語は嫌い!」などとは言えない。英語が嫌いならば大学院に進学する資格はないし、そんな人間は大学院進学を考えてはならない。なにしろ大学院の授業では英語文献を数多く扱うし、修士論文を書くためには国内のみならず海外の先行研究も調査しなくてはならない。インターネットのウェブサイトの約8割が英語のサイトであると言われるが、英語ができなければウェブ上の8割の情報にアクセスすることができないということを意味する。コミュニケーション能力は別としても(当然あるにこしたことはないが)、大学院進学を考えているのならば、最低限英語の論文を読解する能力がなくてはならない。これは国際政治のみならず、法律、行政学、経済学などの専攻分野にも同様に言えることである。
上述のことは大学院入学後の話ではあるが、当然大学院入試において英語の試験は最も重要な位置を占める。専門科目ではあまり差がつかない、あるいは専門科目はその成績が一定しないということからも英語で確実に得点することが大切である。私の場合、英語は7割5分〜8割を目標としていた。もちろん、本番は満点を取るつもりで臨んでいた。
国際政治系の場合、各大学によって傾向は異なるが、ほとんどの大学は和訳問題(全訳型と部分訳型に分類される)と要約問題を出題する。なお、ほとんどの大学は辞書持込可である。私の知る限りであるが、東京大学、慶應義塾大学、青山学院大学では英作文も出題される。慶應と青学は英作文の配点が全体の50%とかなり高いため、英作文対策にも時間を割く必要があるだろう。
私が受験した同志社大学法学研究科は、例年の傾向として要約問題1問と和訳問題1問を出題し、制限時間は2時間、辞書持込可であった。要約問題では、長文の処理能力と制限字数内で要旨をまとめる表現力が問われる。一方、和訳問題では正確な構造分析力と意訳力が問われる。これは、「英語を読む」ということであると同時に、「文章を読む」ということであるという点に気をつけたい。
私がとった英語の試験対策は以下の通りである。第一に、4年次の4月以降、試験勉強を始めてからは毎日英語にふれるように心がけていた。Z会の『速読・速聴英単語』シリーズの英文を毎日声に出して読んでいた。これは大学受験時にやったZ会の『速読英単語』の姉妹編であり、英字新聞や英語雑誌の記事が教材として使われているもので、非常に良質の英文が読めると同時に、様々な知識をつけることができた。
第二に、Z会の『院試総合英語』コースを受講した。これは大学院入試の英語のための基礎力を養成する通信講座で、基本的な文法事項から要約問題の考え方までが一通り学べる教材であった。添削問題も6回分ついており、これをうまく活用した。特に添削問題は、普段の勉強で甘くなりがちな採点を厳しく行ってくれ、間違った点に関しては懇切丁寧に指導してくれるため、非常にありがたい存在であった。
第三に、Z会と並行して様々な英語文献を読んだ。はじめに英語で書かれた政治学の基本書を読み、政治学の基礎と英語力を同時に養っていた。そして、日常的に英字新聞の国際面や論説にはよく目を通していた。また、『フォーリン・アフェアーズ』を定期購読し、良質な国際政治関連の論文を原文で読むように努めた。『フォーリン・アフェアーズ』は朝日新聞社の月刊誌『論座』で日本語訳が提供されているため、自分の翻訳とプロの翻訳を比べることで実力を養った。
上述のことを8月中旬ぐらいまで行い、それ以降は志望校の同志社大学をはじめ様々な大学の過去問を取り寄せ、これらをひたすら解いていった。同志社大学以外には、一橋大学、慶應義塾大学、青山学院大学、中央大学などの問題を解いた。一橋、慶應、中央は基本的に全訳問題を出題していた。一橋は文量的に少ないものの、わりと難解な問題文であった。慶應は分量も多く、難解な問題文であった。中央は文量も少なく、問題文も非常に平易なものであった。青学は要約問題を出題し、問題文の内容はやや難しいものの、要約しやすいものであった。
このように過去問を大量に解くことで、時間配分などの試験に必要な要素を身につけ、試験に臨んだ。本番は例年の傾向ががらりと変わっていた。問題文は2問あったものが1問になっていた。例年は法学研究科の3専攻(政治学専攻、公法専攻、私法専攻)共通問題1問と各専攻別の問題1問であったが、今年は3専攻共通問題の1問だけであった。
しかも、大学院入試では極めて珍しい客観型問題が10問出題され、その他に部分訳の問題が2問出題された。問題文は刑事弁護士と法廷における感情についての論文であった。客観型問題は正誤判定問題であり、全く対策をしていなかったが落ち着いて解くことができた。
問題文は非常にわかりやすいものであったが、客観問題の選択肢はなかなか難しいものであった。和訳問題の1問目は完璧に解けた。2問目はやや文法的な問題点が解決できなかったが、文脈的には正解に近いものであっただろう。英語は傾向が変わっていたものの、これまでの長文読解中心の勉強が実を結び、目標の8割は確実に超え、8割5分〜9割程度は得点できたと思う。
【使用した主な参考書】
・Z会院試対策コース『総合英語』(通信講座)
・松本茂監修『速読速聴・英単語(Advanced)』増進会出版社、2000年
・松本茂監修『速読速聴・英単語(Core)』増進会出版社、1999年
・Stephen
D. Tansey ”Politics the Basis Second Edition” Routledge, 2000
・“Foreign
Affairs”(隔月刊)の興味ある論文
・“Daily
Yomiuri”(日刊の英字新聞)の興味ある記事
・過去問(同志社、一橋、慶應義塾、青学、中央など)
(2)専門科目の勉強法
専門科目の試験はあまり差がつかないものであるといわれる。しかしながら、合格するためには他の受験者よりも一歩でもリードしておきたい。専門科目の試験はほぼ確実に論述問題が課されるといってよい。そこでは論文構成能力、専攻分野に関する基礎知識が問われる。
専門科目については英語と異なり各大学の傾向が明らかに異なるので、自分の志望大学の過去問を入手するなどしてその傾向を事前に把握し、その傾向に沿った勉強をすることが望ましい。私の受験した同志社大学大学院法学研究科は、例年「国際政治理論」、「外交史」(範囲は国際政治史と日本外交史)、「国際安全保障論」が国際政治系の科目として出題されていた。
同志社大学に在籍している専任教授陣の研究テーマから、「国際政治理論」においては「リアリズム理論」が比較的多く出題されており、「外交史」においては対アングロ・サクソン関係、第一次世界大戦〜ワシントン体制下の外交政策、冷戦史が比較的多く出題され、「国際安全保障論」では、「安全保障概念の変容」が比較的多く出題されていた。このため、これらの分野は特に力を入れて対策した。このように自分の志望する大学院の教授陣の研究テーマを調べ、それを重点的に勉強することが専門科目で高得点をとる秘訣である。
専門科目の勉強にあたっては2つの時期に分けられる。第一に、試験直前1ヶ月前までのインプットの時期である。この時期は、専攻分野の基礎知識をひたすら蓄積するということにあてられる。第二に、直前期のアウトプットの時期である。この時期は、これまで蓄積した基礎知識をベースにひたすら過去問を解き、弱点を補強することにあてる。
私はインプットに際して、基本書の購読を徹底的に行った。上述のように、「国際政治理論」、「外交史」、「国際安全保障論」を中心に勉強した。「国際政治理論」は理論の基本書を数冊読み、それをノートにまとめるという作業を行った。ノートに書くことによって記憶に定着させることはもちろん、このノートを直前期の復習などに役立てた。その際、基本書に出てくる理論や専門用語はその都度、『政治学事典』や『国際政治経済辞典』などにあたり、特に重要であると思うものに関しては原典にあたるようにしていた。
「外交史」は通史を頭に入れた上で、各々の事例の外交史的意義や因果関係について徹底的に勉強した。理論同様、わからない点に関しては辞典で調べたり、外交官や政治家が残した回顧録などを読んだりして理解を深めるように努力した。
「国際安全保障論」は「国際政治理論」とあわせて勉強したものの、安全保障について徹底的にやるという時間は残念ながらなかった。ただ、基本的な事項に関しては理論と外交史同様、辞典を調べては記憶の定着を図るようにした。
専門科目の勉強にあたっては、基本書を徹底的に読むことも重要ではあるが、大学の講義やゼミ、勉強会などの「耳学問」も重視した。理論などは抽象的でわかりにくいこともあるため、授業などを通して勉強した方がわかりやすい場合がある。また、「耳学問」によって得た知識は、ノートという「記録」に残るものであるのみならず、「記憶」に残るものでもあった。
私は大学の授業以外にも様々な勉強会に積極的に参加した。1年次から学内外の様々な勉強会に参加していたため、国際政治を勉強する多くの友人たちに恵まれた。その交友範囲は広く、東京大学、京都大学、一橋大学、慶應義塾大学、早稲田大学、青山学院大学、立命館大学といった名門大学の学生たちとの付き合いが多かった。これらの大学の学生たちとの勉強会では、人一倍の予習と発言をすることで自分の知識を深めるのみならず、自分の理論的な「弱点」を発見することに努めた。
直前期にはひたすらアウトプット、つまり問題演習を行った。英語と同様、志望校の同志社大学をはじめ、その他の大学からも過去問を取り寄せてこれを解いた。ただ、上述したとおり専門科目は各大学の教授陣の研究テーマから出題される場合が多く、必ずしも全ての問題を解くことが得策とは言えなかった。
たとえば、国際機構論の大家である大芝亮先生がおられる一橋大学の場合、国連やWTOといった国際機構の問題が出題される。また、地域研究のさかんな慶應義塾の場合、アメリカ、中国、アフリカ諸国の外交に関する問題が出題される。青山学院の場合、国際政治理論の大家である土山實男先生がおられるため、リアリズム、リベラリズムの別なく国際政治理論が多く出題される。
他大学の過去問では国際政治のマクロ的な問題を中心に論述することにした。中大の問題は、国際政治理論においても国際政治史においても、演習するのに最適な問題が多かった。こうして問題演習を繰り返し、答え合わせはインプット時に用いたテキストに照らし合わせることとした。問題によっては全く書けないものもあったため、書けなかったものはあらためて関連項目をじっくりと読むことにした。
なお、試験問題は入手できたものの解答用紙を入手できなかったため、大体どのくらいの字数で演習するかということに非常に苦心した。制限時間が90分であったことから、大体1000〜1200字程度で作成することを心がけた。
試験当日の問題は、英語と同様に例年の問題傾向を大きく裏切るものであった。これまでは国際関係の問題が数問出題され、その中から任意に選んで論述するというものであったが、国際関係の問題はわずかに1問しか出題されず、得手、不得手に関係なくこの唯一の問題に取り組むしかなかった。問題は、「具体例をふまえた上で、国際政治と国内政治の連関について論述しなさい」というものであった。10〜15分ほど頭の中で構想を練った後、論述を開始した。なおこの際、700字詰めの原稿用紙2枚が解答用紙として配布された。これは1400字以内での論述を意味していた。常識的に考えると最低限1300字は書かねばならない。
理論的には複合的相互依存論を用い、モデル・ケースとしては沖縄返還協定と日米繊維交渉を用いることにした。はじめにモデル・ケースをできる限り詳細に論述し、その後に相互依存関係における敏感性と脆弱性についてふれた。これで大体1000字ぐらいであった。残りの400字で、いわゆる「吉田ドクトリン」という戦後日本外交の支柱そのものが国際政治と国内政治の連関したものであり、提示したモデル・ケースが戦後日本外交において初めて国際政治と国内問題が衝突した例であるという位置づけを行った。そして、モデル・ケースを端緒としてアメリカによって日米貿易摩擦と安全保障問題をリンクさせるという常套手段がとられるようになったと論理を展開した。
沖縄返還はともかくとして、日米繊維交渉については私の用いていたテキストでは1ページ触れているか否かという問題であったが、センスと想像力を働かせて答案を作成した。試験終了後はこれが吉と出るか、凶と出るかが非常に不安であった。しかし、翌々日の口述試験で面接官の先生方から「なかなか詳細に書いてあり、よい答案でしたね」と言われた。どうやらわりとよく書けていたようである。
【使用した主な参考書】
《辞典類》
・川田侃、大畠英樹編『国際政治経済辞典 改訂版』東京書籍、2003年
・猪口孝、大澤真幸、岡沢憲芙、山本吉宣、スティーブン・R・リード編『政治学事典』弘文堂、2000年
《国際政治理論&国際安全保障論》
・進藤栄一『現代国際関係学』有斐閣、2001年
・ポール・ビオティ、マーク・カピ著、デヴィッド・ウェッセルズ、石坂菜穂子訳
『国際関係論 第二版』彩流社、1993年
・松本三郎、大畠英樹、中原喜一郎編『テキストブック国際政治』有斐閣、1990年
・防衛大学校安全保障学研究会編『安全保障学入門』亜紀書房、1998年
・G.A.クレイグ、A.L.ジョージ著、木村修三、五味俊樹、高杉忠明、滝田賢治、村田晃嗣編『軍事力と現代外交』有斐閣、1997年
・ジョセフ・S・ナイ著、田中明彦、村田晃嗣訳『国際紛争』有斐閣、2002年
《外交史》
・滝田賢治『国際政治史』中央大学通信教育部
・池井優『三訂 日本外交史概説』慶應通信、1992年
・五百旗頭真編『戦後日本外交史』有斐閣、1999年
(3)
研究計画書の書き方
大学院では修士論文を執筆し、これが認定されることで修士の学位を修得できるが、研究計画書はこの修士論文を書くにあたっての地図となるものである。もちろん受験段階の研究計画書であるため、入学後にこれを変更することは可能である。そのため、受験段階での研究目的、研究手法、参考文献の提示が求められる。
各大学によって字数および内容が異なるが、私の受験した同志社大学大学院法学研究科の場合、1000字の志望理由書と1200字の研究計画書の提出が求められた。志望理由書では進学の動機について述べ、研究計画書においては研究目的と研究概要、希望進路、参考文献について述べた。
研究計画書は1200字で書かねばならず、制限字数以内に収めることに非常に苦労した。一通り書いてから、大学院に進学する友人や現役の研究者の方に目を通してもらい、駄目出しを行ってもらった。友人からはそれほどきつい言葉をもらわなかったものの、研究者の方からは「日本語になっていない!」とか、「古山君の研究に対する情熱が全く伝わってこない!」などと非常に厳しい評価をいただいた。
これらの指摘をふまえて、何度も何度も書き直し、出願締切日ギリギリになってようやく満足の行く研究計画書を書くことができた。その際、「日本語として正しいか?」、「目的と手段が明確になっているか?」、「情熱が感じられるか?」という点に特に気をつけた。研究計画書の内容は後述する口述試験において質問されるので、ペーパーには必要最低限を書き、面接で詳細に説明するということで十分であろう。
研究計画書を書くにあたって、私は市販の参考書を一切参考にしなかった。というのも、研究計画書すら満足に書けずに修士論文など書けるはずはないと考えていたためである。合格するためにはこのように頑固な考えはもつべきではないのかもしれないが、「自ら考える」ということを重視することで「大学院に行きたい!」というモチベーションを上げようと思っていた。上述のとおり研究計画書の添削においてかなり厳しい評価を頂戴したこともあったが、そうすることでより制度の高い研究ができるように心がけていた。
(4)面接試験対策
一次の筆記試験を通過すると口述試験が行われる。口述試験にあたっては、特に服装は指定されないが、やはりスーツを着ていった方が無難である。面接試験対策はほとんど行わなかった。一次試験の合格通知後、志望動機や研究計画書の内容について予想される質問を考え、それに答えるというシミュレーションを行った程度である。
当日の面接官は国際関係の科目を担当している教員3名であり、志望動機、研究計画書、一次試験の出来、学部での研究内容、大学院進学後の生活、大学院修了後の希望進路について20分ほど質問された。
志望動機については事前に提出した志望理由書と研究計画書に基づいて答えた。特に、東京から京都に居を移すこともあり、「なぜわざわざ京都に来るのか?」と質問された。ここからは、指導を希望する教員を目の前にしての「告白タイム」という感じであった。一次試験の出来については自分の思うとおりに答えた。この中で、専門科目の出来が芳しくないと思っていたが、わりと高く評価されていたようであった。この時点で合格を確信した。
おわりに
大学院の受験にあたっては、様々な人たちから期待をかけられていた。試験直前期にはこの期待はプレッシャーへと変わり、「落ちたらどうしよう」ということを常に考えていた。柄にもなく試験数日前から極度の緊張に襲われ、朝起きると必ず鼻血が出たり、全身が痒くなったりということがあった。しかし、遠くはクロアチアにいる外交官から、近くは炎の塔の行研同期・後輩から激励メッセージをいただいた。京都行きのバスの中ではコンスタントにメールが届いては励まされた。(そしてプレッシャーをかけられもした…)。
一次試験の発表は即日発表であり、合格者のみに20時頃電話が来るというものであった。20時半を過ぎても電話が来ない場合は不合格であると思っていた。20時半を過ぎても電話が来なかったため不合格を確信し、両親にその旨を連絡した。しかしながら、その後20時54分に同志社大学より電話があり一次試験に合格していた。パンクチュアリスト(定刻主義者)の私にとっては地獄と天国を見た20時代であった。
「第一志望にして唯一の受験校」は、受験時に極度の緊張感を与えたものの、合格してからは非常に大きな自信へとつながった。合格後、指導教員となる予定の村田晃嗣先生からメールをいただき、早速大学院入学までに読んでおくべき本を提示された。今後は、大学院入学後のことを見据えて勉強を進めてゆくつもりである。
最後になったが、私の大学院受験に際して様々なアドバイスをいただいた行政研究会OBの清水雅典先輩、数々の激励をいただいた行政研究会の先輩、同期、後輩の皆さんに感謝の意を表したい。来春より私は京都にて研究生活を送ることになる。もし京都にお越しになることがあれば、ぜひお声をかけていただければ幸いである。