02/04/07 仕事と金
政治思想を専門とする学者になりたいという後輩に対して、ある先輩が「思想や哲学の学者というものは金にならん」と言った。分野こそ違えども、学者を志す人間の1人として不愉快極まりない言葉である。私が学者になりたいと思うのは、「金を稼ぎたい」ということではなく、ただひたすら現在抱いている問題意識を解決したいがゆえである。おそらく件の後輩も、政治思想において何らかの問題意識や知的好奇心というものにかられて、「学者になりたい」と思っているのだろう。
全ての人間の活動は生活的基盤に支えられているゆえに成り立つ。生活基盤を重視するということは人間として基本的なことである。しかし、生活をしてゆくことそれ自体を目的にする人は少ないはずである。個人によって違うであろうが、政治家ならば(政治屋ではない!)社会をよくすることであり、エンジニアならば社会に役立つものを作り出すことが目的であろう。営業を行うサラリーマンであれば、会社の利益のため、あるいは自己実現のためであると考えるであろう。もちろん、上述の先輩のように「拝金主義者」ととられかねない人もいるであろうが…。
生きてゆく上で金が必要であるということに異論はない。しかし、報酬の多い少ないで仕事を選択するということを第一義にしたくはない。司馬遼太郎の『坂の上の雲』において正岡子規は後輩の寒川鼠骨に対して、「人間の偉さに尺度がいくつもあるが、最少の報酬でもっとも多くはたらく人ほどえらいひとぞな。一の報酬で十の働きをするひとは、百の報酬で百の働きをする人よりえらいのぞな」と言う。上述の先輩は後輩に対してある意味、この子規の言った言葉と180度反対のことを言ったに等しい。ちなみに「一の報酬で十の働きをするひと」と言うのを私は幾人か知っている。私が今まで接してきた政治に携わる人たち(政治家やその秘書、あるいは国家公務員の一部)である。
この先輩は、とある地方の有力者の子弟であり、名誉欲が非常に強く、将来は政治家になりたいとのことである。そのくせ、彼の政治理念なり国家目標というものを今までに一度たりとも聞いたことはないが…。鈴木宗男を「あーいう政治家も必要である」と言い、いかにも地方の保守派という感じの人である。もっとも心遣いに長け、人間は非常にできた人であるということは強調しておきたい。あくまで考え方が私と違うがゆえに批判しているにすぎない。
ただ、私はこの種の拝金主義者には政治家になってほしくはない。政治を金儲けの道具と考えることは言語道断であり、そのような政治はいい加減終わりにすべきと考えているからである。政治家を志す青年がはじめからこのように拝金主義的であるということは、非常に残念であるし、憂慮すべき事態であると考える。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕末に困るもの也。この仕末に困るものならでは、艱難をともにし国家の大業は成し得られぬなり」(『西郷南洲遺訓』)とは、ある政治家の座右の銘であるが、この考えをもたぬものは第二、第三の鈴木宗男になるだけなのである。そしてこの言葉のように命をかけてこそ仕事ではないだろうか?その上で生活できることこそ、私は「幸福」というものであると思う。