滋賀県と三重県の県境、鈴鹿山系で最高峰を誇る御池岳(標高一二四二メートル)と三国岳(同八一五メートル)のほぼ中間に鞍掛峠(標高七九一メートル)がある。馬の鞍に似ているところからこの名がつけられた。「伊勢へ七度 熊野へ三度 お多賀さんには月参り」と里謡にうたわれるお伊勢参りとお多賀参りの近道として、また伊勢と近江の物資を商いする近江商人が鞍掛峠越えを利用した。「昔、大君ヶ畑の娘さんが藤原村(現三重県員弁郡藤原町)へ嫁ぐのに、この峠をタンスや長持を背負っていかはってなあ」と村の長老は話す。鞍掛峠越えは生活道路の一部であった。多賀町大君ヶ畑は滋賀県側では峠の手前にあたる最初の集落で、宿場としての役目を果たし、百人を収容できる旅篭群が立ち並び、かなり栄えたという。『信長公記』にはこの峠越えが重要な通路となっていたことが記されている。しかし、これ以降に、大洪水によって大君ヶ畑の下手で発生した山崩れがこの街道を塞ぎ、それ以来、大君ヶ畑には以前の賑わいは全くなくなり、山に依存する生業となった。鞍掛峠の山道で出会う炭焼場の「窯場」の跡の大きな石がそれを物語っている。現在は、この鞍掛峠の下を鞍掛トンネルが通り、車であっという間に伊勢に抜ける。三重県津・四日市・桑名方面に通じる国道306号線になる。 大君ヶ畑集落の中ほどの犬上川畔に白山神社が鎮座する。白山橋を渡り、石段を登ると大木の影の下に本殿と拝殿が建つ。祭神は伊弉諾尊とされているが、左手に「お池堂」と呼ぶ社殿があり、惟喬親王を祭っている。「水の神」と称しホウの木で作られた高さ40cmの像である。惟喬親王像とはいわずに「水の神」と呼ぶのは惟喬親王がこの村へ逃亡、隠棲したためで、亡くなった後も墓を作るな、と命じた。このため、大君ヶ畑では惟喬親王にならい墓は作らない。大君ヶ畑は惟喬親王が隠棲する前には北畑と称したが、惟喬親王が住んだことから大君ヶ畑(王子が畑)」と改めた。惟喬親王は木地椀などを作る轆轤挽き職の祖で、山村に生業をもたらしたとされる。大君ヶ畑では木地挽き業が盛んだったが、今は藤河寛一さん一人が木地師を継いでいる。