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今も親王さんを慕う隠れ里
 九月二三日 
    
    多賀町大君ヶ畑の秋祭り、三季の講 

 

  滋賀県と三重県の県境、鈴鹿山系で最高峰を誇る御池岳(標高一二四二メートル)と三国岳(同八一五メートル)のほぼ中間に鞍掛峠(標高七九一メートル)がある。馬の鞍に似ているところからこの名がつけられた。「伊勢へ七度 熊野へ三度 お多賀さんには月参り」と里謡にうたわれるお伊勢参りとお多賀参りの近道として、また伊勢と近江の物資を商いする近江商人が鞍掛峠越えを利用した。「昔、大君ヶ畑の娘さんが藤原村(現三重県員弁郡藤原町)へ嫁ぐのに、この峠をタンスや長持を背負っていかはってなあ」と村の長老は話す。鞍掛峠越えは生活道路の一部であった。多賀町大君ヶ畑は滋賀県側では峠の手前にあたる最初の集落で、宿場としての役目を果たし、百人を収容できる旅篭群が立ち並び、かなり栄えたという。『信長公記』にはこの峠越えが重要な通路となっていたことが記されている。しかし、これ以降に、大洪水によって大君ヶ畑の下手で発生した山崩れがこの街道を塞ぎ、それ以来、大君ヶ畑には以前の賑わいは全くなくなり、山に依存する生業となった。鞍掛峠の山道で出会う炭焼場の「窯場」の跡の大きな石がそれを物語っている。現在は、この鞍掛峠の下を鞍掛トンネルが通り、車であっという間に伊勢に抜ける。三重県津・四日市・桑名方面に通じる国道306号線になる。
 大君ヶ畑集落の中ほどの犬上川畔に白山神社が鎮座する。白山橋を渡り、石段を登ると大木の影の下に本殿と拝殿が建つ。祭神は伊弉諾尊とされているが、左手に「お池堂」と呼ぶ社殿があり、惟喬親王を祭っている。「水の神」と称しホウの木で作られた高さ40cmの像である。惟喬親王像とはいわずに「水の神」と呼ぶのは惟喬親王がこの村へ逃亡、隠棲したためで、亡くなった後も墓を作るな、と命じた。このため、大君ヶ畑では惟喬親王にならい墓は作らない。大君ヶ畑は惟喬親王が隠棲する前には北畑と称したが、惟喬親王が住んだことから大君ヶ畑(王子が畑)」と改めた。惟喬親王は木地椀などを作る轆轤挽き職の祖で、山村に生業をもたらしたとされる。大君ヶ畑では木地挽き業が盛んだったが、今は藤河寛一さん一人が木地師を継いでいる。

白山神社
 白山神社では惟喬親王にちなんだ祭典が年に三回行われ、「三季の講」という。一月の正月の講、九月の祭の講、十一月の霜月の講である。九月の祭の講は三季の講の中で最も多彩で惟喬親王を偲ぶ作り物や所作を見る。
神社へ向かうときと当屋へ出向く折、宮守が「ヤァヤァヤァ」と囃すのは親王が弓を好まれ、矢場を作って射た矢を拾った名残といい、また九月の講で、団子や人形を作って神社に運ぶのは隠棲された親王にそれとなく食事を運んだ名残という。団子は男女の性器をかたどっている。人形はヘタの部分を下にしたナスビを、両端を剣先に仕上げた長さ六十五センチ程度の竹のクシに差し、それに赤いケトウの葉で目鼻口を作り、さらにササゲ豆の鞘を差して耳にしたもので、これを親王さんと呼ぶ。また宮守が団子を運ぶときに履く藁草履を作るが、この藁草履は左右不揃いの大きさで、年によっては一メートル以上と三十センチ程度に作られることもある。団子の入った桶をミョウガの葉やカボチャの蔓で覆い隠すようにして背中に背負い、負縄で縛ったのち、その上に人形を差して、不揃いの草履を履いて神社に向かう。何分不揃いの草履であるため歩きづらいことはこのうえもなく、その姿は実にユーモアである。これは隠棲された親王さんにそれとなく食事を運んだ名残りで、葉や蔓で隠しているのは途中で山賊に奪われるのを防ぐためという。また、神社に張られる幕や大門は十六花弁の菊紋と五七の桐であり、また宮守が着用する装束にも背に菊花、袖に桐紋が染め抜かれている。宮守一行が神社に着くと団子を供え、人形は本殿の前の木にくくりつけられて祭典を終える。
ヘタの部分を下にした大きな茄子にサヤ豆の鞘で耳、赤いケトウの葉で眼・鼻を付け、親王さんを作る。
右の石段を上がると「お池堂」がある。昭和61年6月に建立された「惟喬親王行在伝承之地」碑。
団子の入った桶をミョウガの葉・カボチャのつるなどで覆い隠すようにし背中に背負い、その上に人形をさす。
御供を神前に供える。息のかからないよう口に笹の葉をくわえる。
「ヤァヤァヤァ」と掛け声を掛け宮守は神社に向け出発。左右不揃いの藁草履のため歩きずらく、道中ユーモアな所作で見物客の笑いを誘う。
神社に到着すると、桶を神前に供えた後、草履と人形を本殿前の杉の木にくくり付ける。