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「わたし」
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悟りは、それを知る者がいなければ、認識されません。悟りというものがあったとしても、誰にも認識されなければ、ないと同じです。 禅宗などの大乗仏教は、人はもともと悟っていると説いていますが、実感できているでしょうか。 悟りを知るには、それが何かを知る必要がありますが、何よりも、知る者としての「わたし」が必要ではないでしょうか。 人がもともと悟っているのなら、悟るための修行は無用であり、不要です。「わたし」がなければ、悟りは認識されないのですから、悟るためではなく、悟りを認識する「わたし」を見出すために修行をするというのなら、修行は不可欠になります。 現状では、「わたし」という検索システムが反応しないので、「悟り」が検索されないということでしょう。 ちなにみ、ここでいう「わたし」や「私」は、人称代名詞として使っていません。「わたし」は固有名詞として、「私」は普通名詞として、それぞれ使っています。 誰もが身体や心を「私」とみなして日常生活を送っていますが、「私の身体」や「私の心」と表現される身体や心は、「私」ではありません。身体や心は「私」の所有物に過ぎず、「私」と身体や心は別々です。「私の車」といえば、車は私の所有物であって、「私」は「車」ではありません。 日常生活では、私たちは「私」の所有物でしかない身体や心を「私」とみなして生きています。このような認識の誤りは、習慣によるものなのでしょうが、それが「苦」をもたらしていると説くのが サティパッターナ・スッタ (念処経)です。この経典では、身体や心は「私」の所有物でさえないのです。 身体や心が「私」ではないのなら、何が「私」なのでしょうか。「私」とは何なのでしょうか。「私」を求めて「私」を探すとき、「私」とは探される対象になります。 探すのは「私」ですから、「私」は対象ではなく、主体でなければいけません。 その主体としての「私」を探そうとすると、探そうとしたとたんに、主体としての「私」は、探される対象になります。 「私」を探すと、「私」を探す「私」がいて、その「私」を探すと、その「私」を探す「私」がいます。このように「私」を探し続けると、主体として探す「私」は、無限に続くことになります。哲学や論理学では、このことを無限後退と呼んでいるようです。「私」とは、いくら探しても、探せないものなのです。 なぜ「私」は探せないのでしょうか。なぜなら、「私」は、この世にはないからでしょう。この世で「私」を探すかぎり、この世の「私」は、探す主体ではなく、探される対象になってしまいます。 探される対象ではなく、探す主体としての「私」は、この世の外になければ、主体にはなれないのです。この世の外にいて、この世を見ている、それが主体としての「私」です。 この世にはなくても、「私」は、この世で生きています。この世の外にいるはずの「私」が、どうしてこの世に生きているのでしょうか。ドラマを観るとき、主人公に同一化するように、 この世の外の「私」が、この世で生きる「私」と同一化しているからでしょう。 「私」は、この世にあっても、この世には所属していないのです。 この世の外の「私」は、この世の感覚器官では認識できません。だから、この世の感覚器官で認識される「私」は、すべて、「私」ではありません。 感覚器官では認識できず、知ることができないので、私たちは、感覚器官で認識できて、知ることのできる身体や心を、とりあえず「私」として、この世に生きているのではないでしょうか。 「わたし」とは、身体や心のような認識の対象ではなく、あくまでも主体です。 生きることは「苦」というのがブッダの「苦の真理」ですが、苦しむのは身体や心という認識の対象です。主体としての「わたし」には苦しみはありません。 悟りとは「わたし」の認識を、このように正すことなのではなかろうかと思うのです。 |