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フェルナンド・ペソアの詩
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以下はポルトガルの国民的詩人、フェルナンド・ペソアの詩です。
わたしは何ものでもない これを読むと、人間には悟りの性質(本覚)が、本来、備わっているという本覚思想を思い出します。 禅宗では、この本覚を「泥をかぶった仏」としているようです。迷いの状態に見えても、本来の仏性が失われたわけではないということのようです。修行によって煩悩の「泥」を落とすのではなく、泥を落とさずとも仏であることに気づくことが重要だということです。この考え方が、禅の修行や実践と深く結びついているようです。 「悟るために坐るのではなく、悟っているから坐る」 これが曹洞宗における「只管打坐(しかんたざ)」の核心だということです。 悟っているのにそれを知らないのは、悟りを望むからでしょう。悟りを望むとは、故郷から出たことがないのに、帰郷を望むようなものではないでしょうか。望むかぎり、そこは故郷ではなくなります。悟りを望むかぎり、自分が悟った存在だということには気づけないのです。 |