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縁起(えんぎ)
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大乗仏教の代表経典ともいえる般若心経は、五蘊(ごうん)からはじまって四聖諦(ししょうたい)にいたるまで、ことごとく「無」と説いています。五蘊(ごうん)や四聖諦(ししょうたい)はブッダの教えですが、ブッダの教えを否定したのではなく、ブッダの教えから逸脱せずに、 ブッダの教えに戻れということのようです。大乗仏教とは、当時の仏教ルネッサンスだったのです。 大乗仏教の基礎を築いたとされる龍樹(ナーガールジュナ)は、自分こそがブッダの教えを正しく受け継いでいると自負していたようです。それを「空(くう)」という言葉で説きます。「空(くう)」とは「縁起」のことです。龍樹は、ブッダの説いた「縁起」は、理解されていないと考えたようです。 この世のすべては実体がないという「縁起」の道理を論理的に表現するために、龍樹はインド伝統の論理形式(四句分別)を用いた四重否定で「空(くう)」を説きます。 実体の論理的な可能性は「ある・ない・あるないの両方・あるないのどちらでもない」という四通りあり、それらの可能性の一つひとつを、すべて否定することで、この世は実体のない「空(くう)」だと論証しようとしたようです。 私たちは、この世を対立概念で認識しますが、実際には、この世はこのような二項対立にはなく、互いに影響し合う連続した相互依存の関係で成り立っています。ブッダはそれを「縁起」と表現しますが、これは対立概念の否定です。 八不(はっぷ)を説いた龍樹の「空(くう)」も、対立概念の否定です。違いは視点でしょう。 龍樹は、「サンユッタ・ニカーヤ(相応部)」から、「縁起」と「中道」を説いた「カッチャーナ・ゴッタ経」を引用して、「中論」で以下のように述べています。 有(存在)と無(非存在)とを、自性および他性において見るならば、その人は仏の教えにおける真実の義を見ない。「有る」と「無い」とを正しく知っている世尊によって、「有」と「無」の二つは、ともに否定された。 この世の存在が「有る」のか「無い」のかについて、 それ自体で独立した本質や実体があると考えることも、他のものに依存して確固たる存在が成り立っていると考えることも、 ブッダの真理(縁起)を理解していない。 すべてのものは常に変化し、互いに関係し合って成り立っている(縁起)と説いた ブッダは、「有る」という極端も、「無い」という極端も、ともに退けられた。
大乗仏教には「中論」に由来する「縁起即空即中」という教理があります。この世のすべては、相互に関係し合って成り立っている(縁起)ので、それ自体に固定した実体はなく(空)、一時的な現象として成り立ち(仮)、偏らないありのまま(中)、ということです。 「有る」でもなく、「無い」でもないこの世は、仮の姿としかいいようがありません。その真実を見ることが中道です。 中道という「ありのまま」は、真如(絶対の真理)や、煩悩即菩提(煩悩は悟りの種子)など、さまざまに表現されています。 諸行無常(aniccia)のこの世では、すべてが変化します。変化とは動きです。動きとは「存在」と「非在」の併存です。存在しているものが、同時に存在していないものであることで、動きになります。存在しているだけなら静止です。そこに存在しないという現象があるから動きになります。 あるはずのものがなく(色即是空)ないはずのものがある(空即是色)、この連続が動きであり変化です。「ある」に視点をおいて表現すれば諸行無常になり、「ない」に視点をおいて表現すれば「空(くう)」になります。 この世のすべての事象が「縁起」で成り立っているからこそ、この世は諸行無常なのです。諸行無常とは「縁起」による現象であり、視点を変えた「空(くう)」のことでしょう。 「存在」と「非在」の併存は矛盾です。だから、すべてが変化するこの世は、矛盾で成り立っています。矛盾は、固定的な実体がないことを証明していますから、対立概念が併存するこの世は、矛盾で成り立つ、実体のない夢幻の世界です。 矛盾とは真実の表現なのでしょう。真実の表現は真実ではありませんが、真実を反映しています。真実は対立概念を超えるために、矛盾でしか表現できないのでしょう。 「空(くう)」を意味する「縁起」とは、この世の因果の否定です。原因も結果も、全体の中から取り出された部分です。 原因があって、その特定の原因が特定の結果を生むと、ほとんどの人が考えていますが、それは「縁起」の正しい理解ではないようです。何が起こっても、特定の原因で起こったのではなく、すべてが原因となって起こっているのが「縁起」の正しい理解のようです。 すべてが原因で起こった結果は、結果と考えるよりも、プロセスと考えるべきではないでしょうか。原因も、同じように、プロセスでしょう。 すべてが原因で起こった結果には、すべてが反映されています。その結果は、次の結果の原因になります。ということは、時間的なずれがあるにしても、原因と結果は同じだと考えられます。なにしろ、原因と結果は、延々と続くのです。ある原因によって生じた結果が、いつしか、その結果を生んだ原因になることもあるはずです。原因と結果が同じだとすれば、初めは終わりであり、終わりは初めです。つまり、何かが起こっているのは、そのように見えるだけで、実際は、何も起こっていないということです。これは「空(くう)」です。これこそがブッダの説いた「縁起」でしょう。 「マッジマ・ニカーヤ(中部)」に「縁起を見る者は法を見る。法を見る者は縁起を見る」というブッダの言葉があります。「縁起」とは、この世の真理ですが、「縁起」が正しく理解されていないために、この世の実相は、正しく理解されていないようです。この世を夢幻と思っている人が、どれほどいるでしょうか。今日においても、その状況は、龍樹の時代と、あまり変らないように思えます。 |