幻の旅 隅田川  
平成20年4月  1’UP
機関紙「九皐」に掲載した文章に加筆訂正しています。
デレクターズカット版



今回は6月22日の「遠藤喜久の会」で能「隅田川」を初演させていただくので、浅草隅田川の謡曲史跡を
取材した。

隅田川関連で有名なのは、木母寺(もくぼじ)である。
先年、他界された大先輩が最後に訪れた謡跡と伺っていたので隅田川を上演する時は、行かねばなら
ないと思っていた。

昨年、先輩のO師も初演の折に訪ねたというので、寺に電話をすると副住職のお坊様が「今日は如何で
すか?」と早速に面会に応じてくれた。

二月某日。東武線鐘ヶ淵の駅から隅田川を目指して歩く。
この鐘ヶ淵の地には、隅田川に沈んだ鐘の伝説があり、それが駅名に残っている。近くにある隅田川神
社に奉られた水神様が、鐘をお気に召されたようで、鐘は今も川底にあるとも伝えられる。

さて駅を背にして隅田川の方角を見ると、商店街の先に巨大な城壁の如き団
地が見える。

この先に、目指す木母寺梅若塚がある。駅から五分くらいで万里の長城のように左右に続く団地に突き
当たる。その間を抜けて梅若橋と名のついた橋に出る。橋といっても団地の向こう側が広い運動公園に
なっていて高台の陸橋だ。このあたりにかつて梅若堂があったらしいのだが、再開発により元の場所か
ら僅かばかり移転したのは遥か30年も前のことだという。
今やそこからは高速道路が見えるばかりだ。荒涼とした野原と川を東京で望むべくもないが、目に映る
建物を頭から消し去って昔を偲ぶのには苦労があった。

梅若橋のすぐ目の前に隅田川木母寺(もくぼじ)はあった。この字をよく見れば梅という字が見えてくるの
がお分かりだろうか。能「隅田川」で母が捜し求める子、梅若丸の伝承地である。

寺門の内側には、巨大なガラスケースに守られた梅若堂と塚があり、印の柳が植えてあり、梅若権現と
して祀られてあった。このお堂は、世界大戦の傷跡として銃痕があり痛ましい。
(現在は改装されていますので写真とは違います)
電話で応対して頂いた副住職を訪ねると、梅若塚に関する資料として、前住職の本と梅若縁起の冊子を
下さった。
そして、機関紙「九皐」に載せたいと告げると、絵巻を特別に見せてくださるという。実物の絵巻は傷まな
いように保管してあるそうだが、全く同じに複写した絵巻があり今回は特別に撮影許可を頂き拝見した。
(一般公開はしていません)。
驚くなかれ、この絵巻は全部で3巻。ひとつが12メートルにも及ぶ壮大な絵巻であった。お寺の会議室の
長テーブルに広げても収まりきらない長さであった。


《この絵巻は世阿弥の息子、観世十郎元雅作の「隅田川」から二百数十年を経て描かれたもので、登場
人物も増え、比延の山で修業する梅若丸、そこを降りて、人買いの藤太に連れ去られる場面。また、母
親が旅する場面などの挿絵が物語と共に描かれています。能と同じ終わり方と思いきや、話に尾ひれが
ついて母親がやがて池に身を投げてしまい、最後には梅若丸は権現様と祀られ、母親も妙亀大明神と
なって大団円を迎えるのですが、歌舞伎、文楽、果てはオペラになったこの悲劇的物語は、梅若丸が権
現様となる壮大な宗教説話の御縁起となって完結しています。
涙を誘う能の終わり方とは違い、そこに救いがあるように思えました。》


さて、副住職様が直々に、梅若丸の母の塚と伝えられる妙亀塚に案内して下さるというので有難くお願
いした。能では、ついに母と子は悲しい再会を果たすのだが、その後日談は語られていない。母は梅若
丸の菩提を弔うが、世をはかなんで鏡が池に身を投げたという。なんとも救いがないのだが、そもそもこ
の隅田川の物語は、十郎元雅の創作ではなったのか? そんな疑問を抱きつつ白鬚橋を渡った。なんと
この母の塚は、隅田川を隔てた遥か対岸にあるのだ。


能「隅田川」をご覧になられた方ならば、誰もがきっと(一緒にしてあげればいいのに)と思うことだろう。
現在は、住宅地の中にひっそりと小さな公園として残るばかりである。
(この塚も、伝承としてそういわれているが、本当のことは謎につつまれている)




その日は結局、副住職様に浅草まで車で送って頂き誠に恐縮だった。合掌。
帰ってから頂いた六十世住職真泉光隆様のご本を読むと、梅若塚は史跡ではなく(伝承地)であると書か
れている。木母寺過去帳には、梅若丸は976年3月15日、梅若丸がこの地で没したとあるが、春日部の
地にも梅若伝説があることなども書かれていた。

遥か600年以上も昔に、東の地にある伝説を観世十郎元雅が脚色したのだろうか。それとも・・・。空想
は膨らむばかりである。

(本によれば、この隅田川伝説を探る試みは江戸時代くらいからされてきたようだが、結局のところ能台
本に書かれた以前の古い文献が残されていないようで、はっきりした事はわからない。
ただ、当時この辺りは、都から東国に向ける道であったようで、川の渡し場の様子や、旅する人の姿な
ど、その当時の様子を能の台本はよく伝えている。

伊勢物語九段の東下りのお話の中で、隅田川の渡し舟に乗った男の話が描かれていて、「名にし負わ
ば、いざ事問わん都鳥 我が思う人は ありやなしや」 という在原業平の古今集に寄せられた歌が出て
くる。この場面を下地にした場面が能「隅田川」にも出てくるのだが、はたして伊勢物語だけから着想を
得たのだろうか。

他の作品でも能の台本は原典があることが多く、当時の何かしらの伝承や本を脚色したか、或いは、元
雅自身が関東に旅したのか。私が取材した限りでは、それを知ることは出来なかった。識者の意見を伺
いたいとこだ。)

そんなわけで、梅若丸は絵巻に描かれる通り、我々に何かを伝える為に使わされた神の化身かもしれ
ないし、人の心が描いた幻かもしれない。

確かなことは、永きに渡り様々な芸能に取り上げられて描かれ伝えられてきたこの物語が、親子の愛情
と理不尽な現実に対しての憤りと悲しみを描き、観る者に慈悲の心を起こさせてきた。それを感じる人々
の心がこの伝説を今に伝えてきたということである。
この物語に、涙しない世の中が来ないことを祈るばかりである。

そして私は、その梅若丸の幻をこれからもずっと見続けてゆきたい。

そんな作品なので、私も心して舞台にのぞみたいと思います。

《後記》今回、すでに成長期に入った私の娘が子方初舞台なので、一番でも共演できればと思い、父に
後見を頼み、喜之先生に地頭をお願いしての自身初演の一番です。
私としては作品に身を任せて素直に演じるのみです。
なお、それに先立って隅田川謡蹟巡りをNHK文化センターの主催で5月13日に致します。宜しければご
一緒に二つの塚を巡りましょう。
(NHK文化センターрO3−3976−1611)

公演のチケットはまだございます。是非観に来てください。(この公演は終了しています)

隅田川の曲目解説はこちら



戻る
戻る


このページは能楽師遠藤喜久の活動情報を発信しています。掲載される文章・写真には著作権・肖像権があります。無断
転用を禁じます。